さぽろぐ

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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱

2017年11月16日

賠償金の踏み倒しは防げるのか

 「弁護士ドットコム」というサイトにこんな記事が掲載されている。

ひろゆき氏の方法はもう終わり? 賠償金「踏み倒し」撲滅へ、法制度見直し議論

 民事訴訟で賠償金の支払い命令が出た場合、判決に従って賠償金を支払うというのは自分の行いに責任をとるという意味で当然のことだ。裁判所の命令に従わないということは法に従わないということであり、無法者といっていいだろう。ところが、ときどき支払わずに踏み倒してしまう人がいる。代表的なのが元2ちゃんねる管理人の西村博之氏だろう。彼の場合、資産があるにも関わらず踏み倒していると言われているから悪質だ。

 なぜこんなことができるのかは記事で説明されているが、現在の法律では債権者にとって債務者の財産の強制執行がとても困難だという現状がある。しかも支払わなくても刑事罰がない。踏み倒して10年たてば時効になってしまう。西村氏の場合は海外の金融機関に口座を持っていると言われており強制執行も簡単にはできない。そしてすでに時効がきているので債務はゼロだと豪語している。

 彼が2ちゃんねるの管理人を辞めたのは、ずっと支払い拒否を続けていたら賠償金が膨れ上がってくる一方だしそのうち法改正があるかもしれないしなので、管理人を辞めることで区切りをつけ、溜まった賠償金を時効に持ち込んでチャラにするという思惑があったのではなかろうか。刑事罰がないとはいえ、債務者は裁判で決まった賠償金を支払う責務があるのだから、無法者であることは確かだ。

 不法行為で民事訴訟を起こす者の多くは弁護士を雇い、裁判に費用と時間を費やす。それにも関わらず西村氏のような無法者がのさばっていたら何のために法律があり裁判があるのかということになってしまう。

 そして懸念されるのは西村氏の話しが有名であるがゆえに、この手法を真似する人がいるのではないかということだ。単に「払いたくない」「判決が納得できないから払わない」などという自分勝手な理由で支払わない人もいるだろう。このような無法者が溢れるようになれば、損害賠償訴訟が無意味になりかねない。そんなこともあって、法の抜け穴を塞ぐための検討がようやく始められたということなのだと思う。

 ただし、中には支払い能力がない人がいるのも事実だし、損害賠償によって人生が暗転してしまう人がいるのも事実だ。例えばかつて文芸社商法の批判をした冊子を配布した渡辺勝利氏は文芸社から名誉毀損と業務妨害で訴えられた裁判に敗訴してしまった。この裁判に関してはスラップだと私は考えているが、たとえ理不尽な裁判であっても確定した判決に従うというのが裁判に負けた者の責務だ。納得がいかなければ控訴せねばならないが、彼は控訴を断念した。

 ところが彼は別の裁判でも敗訴して高額の賠償金を抱えてしまった。困った彼は文芸社に頭を下げて賠償金の免除を求めたらしい。その後、彼は文芸社を擁護する側に回り、文芸社を批判していた私まで攻撃するようになった。あの気骨ある渡辺氏が賠償金が払えないゆえに文芸社に屈服せねばならないとはなんと哀れで惨いことかと思ったものだ。債務者と言えど、最低限度の生活は保証されており強制執行で身ぐるみはがされるということにはならないのだが、責任感の強い彼は支払い不能を理由に切り抜けることを良しとしなかったのかもしれない。

 ただし、債務者の支払い不能を理由に債権者が賠償金の受け取りを諦めねばならないというのもおかしな話だ。記事では払わない人の対策として賠償金を国が立て替え、国が直接加害者への取り立てを行うというノルウェーの事例も紹介されているが、債権者が泣き寝入りしないで済む仕組みも検討していくべきだろう。もっともそのためにマイナンバーを利用するという話しなら、賛同はしかねるが。

 現代はネット上に誹謗中傷、名誉毀損が溢れている。被害者がお金と時間をかけて加害者を特定し、さらにお金と時間をかけて裁判を起こしても踏み倒されたらたまらない。ネット上では無責任人間がのさばり、すでに加害者天国のような感がある。西村氏はおよそ30億もの賠償金を踏み倒したあげく時効がきたと開き直っているが、今回の見直しは遅すぎた感がある。

 いわゆるザル法は損害賠償問題に限らずいろいろなところにある。法治国家である以上、ザルの穴を塞ぐことは当然だろう。
  


Posted by 松田まゆみ at 10:30Comments(0)政治・社会

2017年11月14日

頭髪や服装に関する校則は必要か

 少し前に大阪の府立高校の女子生徒が頭髪の黒染め強要で大阪府に対して損害賠償を求める裁判を起こしたことが話題になった。詳しくはこちらを参照。

 この学校では染髪や脱色を禁止しているという。染髪を禁止していながら、生まれながらの茶色い髪を黒染めにしろと強要するとは倒錯としか言いようがない。学校という教育現場で未だにこんな人権無視の強要が行われていることに驚愕する。そしてさらに驚くのは、大阪府の全面的に争うという姿勢だ。まともな人権感覚があるのなら、教師の非を全面的に認めて謝罪し慰謝料を支払うことで和解すると思うのだが。

 私は中学や高校の頃から身なりについて細々定めた校則は馬鹿げていると常々思っていた。女子は髪の毛が肩にかかったらゴムで縛りなさいとか、スカートの丈は膝下とか、パーマやカールは禁止とか、なぜそんな細かいことを規制するのだろうと不思議でならなかった。髪が長くなればたしかに煩わしくなるが、不便なのは本人なのだから自分で適宜対処すればいい話しだ。髪の毛の色が茶色であろうと、カールしていようがいまいが(生まれつきくせ毛の人だっている)、スカートが多少長かったり短かかったとしてもが学校生活には何の関係もない。

 もちろん人が社会生活を営むためには法律やルールは不可欠だし基本的には守るべきだ。しかし、立場が上の者が下の者を縛ることを目的にしたルールは独裁者が好むものでありとても危うい。また民主主義国家では、ルールは基本的人権を尊重したものでなければならない。中学や高校の校則の中で、頭髪や服装などの生活面に関するルールは生徒の権利を侵害してはいないだろうか。そして本当に必要なものなのだろうか?

 私は頭髪や服装に関しては本来自由であるべきだと思う。染髪は頭皮にも髪の毛にも悪影響があるし個人的には賛同できないが、だからといって禁止すべきものでもないと思う。禁止したところで、規則を守らない子どもはいるものだし、日頃は守っていても夏休みなどに染髪する子どももいる。染髪にしても化粧にしても必ずリスクがあるわけで、まずは学校でそうしたリスクをしっかりと教育するのが先決だろう。その上で、自由にさせればいいのではなかろうか。

 制服も必要だとは思わない。制服に関しては賛成意見が多いのは承知しいている。私服にしたら華美になる、お金がかかる、服を選ぶのが大変・・・などという意見も根強い。しかし、デメリットもいろいろある。たとえば、気温や天候の変化に対応しづらい、堅苦しく活動的ではない、簡単に洗えない、値段が高い、成長期の子どもに適さない、個性がないなど。

 「華美になる」というのは勝手にそう思い込んでいるということもあるし、他者からの評価を気にしすぎる日本人らしい感覚だと思う。小学校や大学などで果たしてそんなに華美になったり競争になったりしているだろうか? もちろん中にはブランド物を好んだり、服装に拘って毎日着替える人もいるだろうが、それはむしろ一部にすぎないと思う。現に、私服の高校で華美になっているという話しは聞かない。

 「お金がかかる」「服を選ぶのが大変」というのも、他者の目を気にして競争をしよう(あるいは皆と同じような服装にしなければならない)と考えるからだろう。「フランス人は10着しか服を持たない」という本がある。この著者は、「なぜフランス人は服を10着しか持たないのか? 本当の自分らしさをもたらす、小さなクローゼットのつくりかた」でこんなことを書いている。

同じ服を何度も何度も着るという考えですが、私たちはそれを少し恥ずかしい事だと思っています。たくさんの人や過去の私もそうでしたが、同じ服を1週間に2回も着たくはありません。特に同僚の前だったり、学校では他のお母さんたちの前では。

 これは私もすごく感じる。たとえば子どもがいる母親の場合、入学式や卒業式などが立て続けにあったりするが、その度に違う服を着て行く人がいる。これなど明らかに他者の目を気にしており「同じ服を何度も着ることが恥ずかしい」と思っているのだろう。しかし、一昔前、たとえば私の親が若かった頃などは持っている服も少なく、同じ服を繰り返して着ていたのではなかろうか。ところが戦後の高度成長で物が豊かになるに従ってすっかり感覚が変わってしまったのだと思う。

 本来、子どもは他人の目など気にしない。わが家では子どもが小さい頃、知人からいただいたお下がりの服が沢山あった。私が服を選んで着せようと思っても、子どもは自分の好きな服ばかりを着ていた。ところが小学生くらいになると、他人の目を気にしはじめる。そして皆と同じような格好をしたがるようになる。他者の評価を気にし始めるのだ。そして、「皆と同じ」でなければ悪口を言われたり冷やかされたりするのだと学んでしまう。もちろん子どもがそのように変わってしまうのは大人の価値観が大きく影響している。私たち大人が、日頃から自分の好きな服を身につけ、同じ服を着回すことが当たり前の生活をしていれば、子どももそれが当たり前だと思うに違いない。

 同じ服を繰り返して着ることに抵抗を持たなければ、沢山の服を持たなくてもいいしお金もさほどかからない。服選びに時間がかかることもない。制服であれば毎日同じ服でも平気なのに、私服だと同じ服を繰り返して着るのは恥ずかしいという感覚こそおかしいことに気づくべきではなかろうか。つまり「同じ服を繰り返し着るのが恥ずかしい」という意識さえ変えることができれば、制服のメリットはほとんどないと思う。そして、これは個人の意思でできることだ。

 21世紀になっても頭髪や服装を自由にさせたがらない日本の学校は、生徒を管理して従わせることしか考えていないのだろう。これでは生徒が主体性を持つことも難しい。というより、生徒が主体性を持たないように教育しているとしか思えない。
  
タグ :校則制服


Posted by 松田まゆみ at 09:32Comments(0)雑記帳

2017年11月05日

日本人には全体主義が染み込んでいる

 ツイッターで日本人はそもそも全体主義だと言っていた人を見かけたのだが、ドイツ人に関する以下の記事を読んでたしかにそうなのだろうと思った。

デキる人は「他人は別の惑星の人だ」と考える(東洋経済)

 上司と部下の関係に関する冒頭の話しはとても興味深いので一部を引用する。

 日本の銀行でドイツ支社に勤務していたときの話です。部下だったドイツ人女性から、彼女のミスでトラブルが起きているという報告を受けました。トラブルの内容は、彼女がある顧客との間で、ルールで定められている書面を交わさないままに仕事を進めてしまったということでした。
 その報告を受けて、私は開口一番「なんでそんなことをしたの?」と言ってしまいました。すると彼女は、
 「ミスター・スミタ、あなたの仕事は『なぜ?』と聞き返すことではない。事後処理にベストを尽くすのが、あなたの仕事だ」

 と言い返してきたのです。

 日本では部下が失敗したら原因探しをし、責任を部下に押しつけて叱責する上司が大半だ。しかし、ドイツでは上司が部下の失敗の責任も引き受け事後処理にベストを尽くすのが当たり前になっているようだ。部下を叱りつけたところで失敗の事実が消えてなくなるわけではないし、まずやらねばならないのは事後処理でありその後に再発防止だろう。

 失敗から学ぶことは大事だし失敗の原因究明がどうでもいいとは思わない。しかし、失敗したからといって叱責したり批判する必要はない。怒りという感情を使えば人間関係が悪化する。叱られれば仕事へのモチベーションは下がる。部下は上司の顔色を窺って臆病になり、主体性を失ってしまう。

 考えてみれば当たり前のことなのだが、日本ではドイツ人のように考える上司はとても少ない。なぜそうなるのかを考えてみると、上司と部下という関係において、上司が絶対であり部下は上司の指示に従うものという全体主義が染みついているからなのではないかと思う。部下は上司あるいは組織の命令を聞くのが当たり前とされる社会だから、記事に出てくる女性のように部下が上司に自分の意見をはっきりと言うということすらほとんどない。「上から下」という縦社会が徹底しているのが日本だ。そればかりではなく、部下が上司に忖度をしてしまうということすら起きる。欧米では考えられないことだろう。

 ドイツでは組織より労働者を大事にするという考え方も同様だ。労働者を大事にしてこその会社だから労働者の権利を尊重する。労働者が自分に合った働き方をするし、それができる社会だ。日本のようにブラック企業がはびこるということもないのだろう。労働者が会社のために酷使される日本とは正反対だ。

 「人は人、自分は自分」という意識がはっきりしているという指摘もあるが、これは「課題の分離」ができているということだ。つまり他人からどう思われるかを気にせず自分の人生を生きるということなのだが、日本人の大半はこれができない。常に他者の評価を気にして周りに合わせてしまう。自分というものを持たず、全体の流れに従う。するとどうなるか。自分で決めたことならその結果責任は自分で引き受けなければならない。ところが「世間に従う」「全体に従う」ことで自分の責任をあいまいにできる。

 先の民進党の希望の党への合流劇の際、「みんなで決めたことに従っただけ」と言う元民進党議員がいたそうだ。希望の党への合流という提案を両院議員総会で了承したのは事実であっても、踏み絵を踏んで希望の党に入党するかしないかかの選択は個人にある。いくらみんなで決めたことだからといっても安保法制や改憲に賛成できないのなら希望の党へは行かないという選択肢もあった。立憲民主党も発足したのだから「他に公認を得るための選択肢がなかった」と言うことにはならない。「みんなに従った」という言い訳で、自分の選択責任を逃れているとしか思えない。

 ツイッターを見ていてうんざりとするのは右派とか左派に関係なく罵詈雑言で溢れていることだ。他者におもねることなく主体性をもって自分の意見を言うことは大事だし、権力者を監視し批判したり政治に関して意見を述べることも主権者として必要だと思う。事実誤認があれば指摘したり、公益目的に公人や企業などを批判することも意義がある。ところが、そういう指摘や批判ではなく、自分と違う意見を言う人に対する攻撃や罵詈雑言で溢れているというのはどういうことなのだろう。自分と正反対の意見に対し好感を持てないのは分かるが、他人の意見は尊重するというのが民主主義の基本ではないか。

 自分の意見を述べたり他者の意見に反論をする際に、意見の異なる個人を叩いて貶めたり誹謗中傷する必要など何もない。たとえ事実であっても公益性のないことで他人の社会的評価を低下させたら名誉毀損という犯罪になる。批判的意見と誹謗中傷や人格否定は全く別のものだ。インターネットでは匿名の無責任さがモラルの低下につながっている。

 異なる意見の人を敵であるかのごとく攻撃するという行為は「人は人、自分は自分」という区別ができておらず個が確立されていないということに他ならない。

 こういう人は時として意見を同じくする集団に依拠している場合があり、仲間がいるからこそ強気になっている人もいるようだ。あるいはインターネットを他人を叩いて優越感に浸る道具にしているのかもしれないが、学校でのいじめと何ら変わらない。学校でのいじめが個を尊重しない全体主義に根差しているように、ネットでの誹謗中傷の根源も匿名による無責任さと全体主義にあるように思う。

 こうやってみると、やはり日本人の多くは全体主義が染み込んでいて責任をとりたがらない人たちなのだと思わざるを得ない。このまま進めばどうなるのか? 独裁的な人たちにいとも簡単に騙されることになる。自分が騙されて独裁政権を選択しても、独裁者のせいにして自分の選択責任をとろうとしない。安倍強権政治の存続を許し、憲法が改悪され、個人の基本的人権が制限されるようになるだろう。そして完全な独裁政権となり自由に意見も言えない社会になるだろう。共産党が弾圧されたあの時代の再来になりかねない。

 ドイツは過去にナチスによるユダヤ人の大虐殺があった。その反省と戦争責任から新しい憲法が生まれたという歴史がある。これに関しては「戦争責任に向き合うドイツと目をそむける日本」をお読みいただきたい。しかし、日本では過去の侵略戦争に対していまだに責任をとろうとしない。とりわけ天皇に関する戦争責任はうやむやにされたままだ。ここがドイツと日本の大きな違いだ。日本では全体主義からくる無責任が戦後ずっと続いて今日に至っているように思えてならない。ここまで書いて、なんだか辺見庸氏と同じことを言っていると改めて思う。

 では、どうやったらこの全体主義から抜け出せるのだろうか? まずは、自分の選択したことの責任をきちんととるということ。もし誤った選択をしたならそれを認め軌道修正する勇気を持つこと。そして、自分が騙されないようにできるかぎり物事を客観視する努力をすること。人は誰でもバイアスがかかっており間違いを犯すのだから、自分が絶対に正しいという視点から異なる意見の人を叩かないこと。しかし、間違いを犯すまいと沈黙をしてもいけない。私はそんな風に思う。

 全体主義から抜け出すには個人個人が主体性と責任感を持つしかないと思うのだが、独裁国家の出現はもう眼前に迫っている。どうやったら最悪の事態になる前に個人が主体性を持てるのか・・・。諦めてはならないと思うのだが、どうしても無力感がつきまとう。

  

Posted by 松田まゆみ at 11:53Comments(0)雑記帳

2017年10月18日

日本人は主体性を持つことができるのだろうか?(追記あり)

 民進党・自由党の希望の党への合流劇については前回の記事「希望の党の結成で暗黒時代がやってくる」に書いたが、私はまだこのことに拘っている。この合流劇が民主主義をないがしろにした策謀であったにも関わらずその点を指摘する意見がとても少ないことに唖然としている。そんな中で共感できるのは以下のさつきさんの記事だ。

民主主義を破壊するマヌーバー(さつきのブログ「科学と認識」)

 さつきさんのブログから重要な部分を引用しておきたい。

 選挙民の空気や政局の風を読み、その場凌ぎの受けの良い政策を前面に立てて信を問い、権力を手に入れ、その上で本性を露わにするというのは、かつては「マヌーバー」という一言で、少なくとも左派の中では一蹴されてきたやり方だ。この言葉が最近力を持てなくなっているのは、一つには「マヌーバー」そのものが、本来、「うまく立ち回る」といったような良い意味・積極的な意味にも用いられることの多い言葉であることにも依るのだろう。「面従腹背」がウケるのもそうした背景があるかもしれない。

 しかし、マヌーバーはポピュリストの常套手段であり、少なくともこれを選挙に際して用いることは、民主主義を破壊する行為に他ならない。選択された結果が内実と乖離してしまうからだ。選挙によって何が選択されたのか、誰が正しく判断できるだろう。そうした策略は、一時的に成功したとしても絶対に長続きすることはなく、その後の反動は目を覆うばかりのものとなるだろう。この間の日本の政治の劣化・反動化がそれを証明している。トロイの木馬だとかなんだとか裏でコソコソしないで、自分が正しいと思うことを真正面から主張し、行動しないと、きっと何処か知らないところへ連れて行かれるような気がするのである。

 私は個人の人間関係においても、政治においても最も大事なのは誠実さと信頼関係だと思っている。しかし策謀(マヌーバー)というのは誠実さや信頼の対極にあるものであり、こうしたやり方は一時はうまくいったとしても結局は信頼を失い対立や混乱を生みだす。

 しかも、今回の合流という策謀は明らかに失敗し、結果的に自民党を利する方向に向かってしまったようだ。それにも関わらず、民進党支持者や自由党支持者の中に策謀を評価したり容認している人が少なからずいることは驚きだ。

 前回の記事を書いてから、今回の策謀に似た事件があったことを思い出した。士幌高原道路建設をめぐり、自然保護団体が労組に乗っ取られそうになった事件だ。「SEALDs批判に思うこと」という記事に書いているが、主要部分を以下に再掲する。

 実は、私が関わっている十勝自然保護協会は、権力と結びついた人たちによって乗っ取られかけた過去がある。士幌高原道路(道々士幌然別湖線)の建設をめぐり、会の役員が容認派(柔軟派)と反対派に真っ二つに分かれて紛糾し、闘争ともいえる状況になったのである。

 士幌町から然別湖に抜ける士幌高原道路は、自然環境に大きな影響が懸念されるということで計画が凍結されていた。それが工事再開へと舵をきったのは1983年に横路孝弘氏が北海道知事になってからである。そして、横路知事は、士幌高原道路について「地元自然保護団体のコンセンサスを得ながら取り組む」と発言し、地元自然保護団体、すなわち十勝自然保護協会の意向が大きく注目されることになった。

 知事がこのような発言をしたのは裏があった。十勝自然保護協会の役員には横路知事を支持する地区労関係者が複数存在していた。そして彼らは労組関係者を密かに入会させていた。また当時の会長が、地元の士幌町民に対し「道路をつける」と言っていたという情報がもたらされたのだ。つまりは横路知事の支援者である労組が、水面下で地元自然保護団体を乗っ取ることで道路建設を認める方向で密かに動いていたのだ。

 しかし、当時の役員の約半数はこのような政治的関わりのない純粋な市民であり、道路建設による自然破壊を危惧していた。当然、労組関係者と会長の不穏な動きが役員会で追及されることになり、答えに窮した会長と労組関係の役員たちが役員会を退席して職務を放棄してしまった。こうして、水面下で道路容認に動いた役員たちは会から出ていったのである。彼らはその後もしばらくは十勝自然保護協会を名乗っていたが、やがて消滅した。

 知事を支持する労組が知事の意向を汲んで道路建設の容認に動いたのだが、そのやり方は地元の自然保護団体に組合員を入会させて乗っ取るという策謀だった。はじめは少しずつ入会させていたのだが、1992年の定期総会の直前の役員会には183人もの入会申し込み書が持ち込まれた。この大量入会については保留扱いになったが、総会当日には動員された入会希望者が詰めかけ、それまでは20人程度だった市民団体の総会に239人もが押し寄せ廊下まで溢れ出るという前代未聞の異常事態になり、動議も出されて紛糾した。

 結局、大量入会工作は失敗し、策謀を働いた会長や労組関係者は疑惑を追及されると職務放棄をして会から出て行った。十勝自然保護協会は純粋な草の根の自然保護団体として道路反対を貫き、全道の自然保護団体とも協力して道路建設を中止に追い込むことができた。

 仮に、乗っ取り工作が成功していたとしても、反対を貫く人たちは卑劣な策謀に屈せず新たな組織を立ち上げていたに違いない。希望の党への合流を拒否した民進党議員が立憲民主党を立ちあげたように。

 民進党の合流劇とは状況こそ違うが、保守(右派)による二大政党制という目的達成のために右派系の議員を少しずつ増やしていったり、政権交代のために希望の党を乗っ取ろうとするやり方はよく似ている。

 十勝自然保護協会の乗っ取り事件で私が最も驚いたのは、労組の言いなりになって入会を申し込む組合員たちの姿だった。主体性のかけらもない、民主主義とは程遠い全体主義に染まった人たちの集団に寒気がした。

 民進党の合流劇もこの点ではほとんど同じだ。前原氏の策謀に従って踏み絵を踏んだ議員たちを見て寒気がした。そうしないと公認が得られないという事情はあるかもしれないが、策謀に反対して民進党からの公認を主張したり前原代表を解任するという選択肢だってあったはずだ。それがダメでも枝野氏が立ちあげた立憲民主党に移るという選択もできた。「前原氏に騙された」「公認が必要」という言い訳は通用しない。

 市民団体の多くは策謀などには手を染めず地道に草の根の活動をしているが、こうした組織においてもしばしば内部紛争が起きる。紛争の大半は、一部の人が勝手な行動を起こすとかルールを守らないといったことに起因する。つまり、民主的な手続きを無視したときにもめ事がおきる。まして策謀などしようものなら対立、紛争は避けられない。民主的な組織運営には策謀などあってはならないし、それこそ民主主義の冒涜だと思う。

 空気を読んで自分が傷つかないように振る舞ったり、利益や保身を優先して忖度してしまう多くの日本人は全体主義の意識の中で生きているといっても過言ではない。市民団体の乗っ取り工作に加担した労組の組合員は多くの日本人の姿でもある。右も左も関係なく、民主主義が根づいていないのが日本という国なのだろう。全体、あるいは声の大きな者に従っていれば、自分は責任を取らずにすむと思っている。権力者にとってこのような国民を操るのは容易い。しかし、それに抗う人たちも必ずいる。個人が全体主義の意識から脱却し主体性を持たない限り、この国に民主主義は根付かないのだろう。

 ただし、個人が意識を変えるのは極めて難しい。こんな風に考えたくはないが、全体主義に染まった人たちは、どん底に落ちて生死の苦しみでも味わわない限り、主体性の大切さに気付かないのかもしれない。

 他人を変えることはできないから、せめて自分だけでも誠実さと信頼を大切にし、全体主義に陥ることのないよう主体性を持った生き方をしたいと思う。

【10月19日追記】
 士幌高原道路に関しては地元士幌町の役場と農協が「悲願」として推進運動を展開した。事業主体(北海道)による説明会などには送迎バスを仕立てて住民を動員し、質疑応答になると推進側の人物が何人も質問ではなく賛成意見を延々と述べる。そして反対意見を言う人たちにヤジと罵声を浴びせた。推進のためのイベントに送迎・弁当付きで住民を動員したという話しも聞いた。道路建設に批判的な町民に圧力がかけられることもあった。

 説明会で反対意見を述べた私はヤジと罵声を浴びせられ、個人情報も探られた。道路入口ゲートでの抗議行動の際には、公安警察にも見張られた。尾行されていると感じたこともあった。

 農業が基幹産業で農協の力が絶大な地方の町では農協の方針に逆らうことは困難なのか、訳も分からず動員された町民も少なからずいたように思う。推進派の人たちの言動は、国会で議論も尽くさず強行採決をする安倍政権とひたすら彼を擁護する自民党議員の姿に酷似する。動員されても無視するという選択肢だってあるのに、黙って動員に従う町民の姿は、大量入会の企てに乗った労組組合員の姿に重なる。
  


Posted by 松田まゆみ at 10:10Comments(0)政治・社会

2017年10月05日

希望の党の結成で暗黒時代がやってくる(追記あり)

 民進党の解党と希望の党への合流の報道には驚くと同時に、自分の認識の甘さを痛感した。

 今回の合流劇を裏で仕切っていたのは小沢一郎氏であることはほぼ間違いない。小沢氏は、近年は山本太郎氏と組んでかなり左派と協力的なイメージを作っていた。そして野党が結集して小選挙区で候補者を一本化し、比例代表では統一名簿をつくるという「オリーブの木」構想を提案していた。この共闘を民進党・自由党・社民党・共産党の野党共闘と捉えていた人も多かったのではなかろうか。しかし、小沢氏の考えていた野党共闘とは共産党を除いた保守政党による共闘だったのだ。今回の合流劇でそのことを思い知った。

 小沢氏といえば以前から新自由主義を支持してきた人だ。小選挙区制の導入にも関わっていたし、湾岸戦争のときには自衛隊の派遣を主張した。タカ派の人物だから私も警戒は解いていなかったが、山本太郎氏の活躍などで警戒がやや緩んでいたのも事実だろう。さらに陸山会事件での不可解な強制起訴と無罪判決で冤罪被害者というイメージも広がり、自由党支持者はそれなりにいたように思う。

 安倍首相の強権政治を倒すために、ここ数年は野党4党の共闘による政権交代が頭に刷り込まれていたけれど、以下の二つの記事にあるように、小沢氏がずっと狙っていたのは保守VS保守による政権交代であり二大政党制だ。

自民党VS希望の党、烏合(うごう)の衆による権力争い、「反自民」よりも「反共産」で結束・結党(MEDIA KOKUSYO)

小沢が前原や小池新党と組み、保守新党作りを画策。前原、涙ぐましいほどの小沢G擦り寄り(日本がアブナイ!)

 後者の記事に詳しく書かれているが、小沢氏はこの保守VS保守の二大政党制をつくるためにかなり前から考え方の近い前原氏に目をつけていたらしい。前原氏も記者会見で「(平成24年12月に)下野してから、ある方を通じて小沢先生とお会いするようになり、何回も何回も食事をしたり、色んな話をさせていただく中で、自民党の権力者であったことも踏まえて素晴らしいアドバイスを多々いただいたし、この間も(希望の党との合流について)中身は別にして色んなアドバイスをいただいてきたのは事実だ」と語っている(こちらの記事参照)。

 自民党が民主党から政権を奪回して以降、小沢氏と前原氏は政権交代に向けて話し合いを重ねてきたのだろう。二人の共通認識は、保守政党の共闘による政権交代だったわけだ。前原氏は民進党の代表選挙でも共産党との共闘を否定していたが、それはもちろん小池新党との合流を念頭に置いてのことだ。

 昨年、小池百合子氏が自民党を大差で破って都知事に当選。小沢氏は念願達成のために小池氏に新党結成を持ちかけ、民進党と自由党の合流を提案したというのが真相ではなかろうか。一連の流れから、この策謀を主導したのは小沢一郎氏としか考えられない。

 希望の党との合流に関して私がもっとも驚いたのは、前原氏が9月28日の両院議員総会で、民進党からは公認を擁立しないとか、希望の党との交渉は前原氏に一任するなどの条件を一方的に提案し、事後承諾を得るというやり方をとったことだ。合流そのものも党の人たちとの話し合いの中で決まった方針ではない。しかも、前原氏は事前に小沢、小池両氏と三人で話し合いを持っていたという。政権交代を旗印に、組織の代表がここまで裏で勝手に進めて仲間に事後承諾を取りつけるというやり方に驚きを禁じ得ない。これに関しては批判されるのも当然だと思う。

 結局、前原氏の説明した「候補予定者全員の公認」は反故にされ、大きな反感を買うことになった。民進党議員から「トロイの木馬」などという言葉まで飛び出してきている中で小池氏が警戒するのは当然で、小池氏によるリベラル排除は当然の成り行きだろう。10月2日、枝野幸男氏は民進党に離党届を出して立憲民主党の立ちあげを公表したが、このようなやり方をされた以上、これも当然の成り行きだと思う。

 民進党は民主党時代から内紛が絶えなかったが、左派から右派まで幅広い党員を抱えた党の末路は分裂しかないのだろう。枝野氏と小沢氏は犬猿の仲と言われていたが、枝野氏は小沢氏の目的や企てを察知して警戒していたに違いない。陸山会事件にしても、検察側の起訴に無理があったのは承知しているが、無罪判決が出たからといって小沢氏が何ら関わっていなかったと断定はできないし、グレーのままだと私は思っている。

 枝野氏の立憲民主党立ちあげで、ようやく保守政党を除いた野党共闘へと向かっている。今回の合流騒動で小沢氏と前原氏が策士であることがはっきりしたし、立憲民主党の結党で気分的にはすっきりした。しかし、総選挙に目を向ければ、行く手には暗雲が垂れこめている。

 すでに希望の党の方針が自民党とほとんど変わらないことが明確になってきたし、自民党も希望の党も互いに連携する可能性を否定していない。前原氏が合流の旗印とした政権交代など茶番でしかないことが早くも露呈してしまった。それでもマスコミは自民党と希望の党との闘いであるかのように騒いでいる。これにつられて希望の党に投票する人たちも一定程度いるだろう。

 希望の党がそれなりの議席を確保して野党第一党になれば、小沢氏や前原氏の念願であった保守による二大政党制になり、どちらが政権をとっても安定した保守政治が続く。どちらの党も改憲派だから、北朝鮮の脅威などを煽りたて、すぐにでも改憲に向かって動き出すだろう。希望の党がさほどの議席を獲得できなければ、自公と連立政権を組む可能性が高い。どちらに転んでも改憲、戦争参加へとまっしぐらであり地獄が待ちうけている。こういう流れをつくりだしたのが小沢一郎氏であることは忘れてはならないだろう。

 もっとも私は小沢氏を強く批判するつもりもない。小沢氏は自分の信念に従って行動しているだけなのだろうし、保守の二大政党制が彼の念願であったことは公言しているのだから、今回の合流劇は陰謀でも何でもない。むしろ、小沢氏の日頃の言動から今回の画策を見抜けなかったことの方が問題だ。

 前掲した「日本がアブナイ!」というサイトの「小沢が前原や小池新党と組み、保守新党作りを画策。前原、涙ぐましいほどの小沢G擦り寄り」という記事は民進党の代表選の前日である8月31日に書かれたものだ。著者の方はこの時点ですでに民進党と自由党が小池新党と一緒になって保守新党をつくることを見抜いていた。小沢氏や前原氏の言動からこれを見抜けず混乱した私の方がマヌケだったと言うほかない。

 こうなったら立憲民主党と共産党、社民党の共闘を支援していくしかない。そして急ごしらえの独裁的な希望の党が弱体化し消滅していくことを願うしかない。何しろ、今回の合流劇は前原氏が自分の目的達成のために小池氏の知名度や人気を利用しようと企てたわけだし、小池氏も民進党の右派議員と資金を利用しようとしたわけで、自分の利益のために相手を利用しようとして集まった人たちが互いに信頼し協力しあって上手くやっていけるかどうかは甚だ疑問だ。

 枝野氏は「希望の党の理念、政策は、私たちの政策とは違うものです。また、いまの政治状況としては保守とリベラルは対立概念ではないと考えています。今この国に必要な政治的な対立軸があるとするなら、トップダウンvsボトムアップ、一部の人たちの政治か草の根かという軸。私たちは後者の側に立つ」と語っている。これは民主主義の基本だが、この基本さえ守られていない組織は多い。共産党も基本的にはトップダウンの組織だ。どんな組織でもこの基本ができていないと独裁的になるが内部紛争になる。枝野氏がこれを強調したことは強く支持したい。

 今回の合流劇で感じたのは、人は何と騙されやすい生き物かということだ。国会には自分の利益のために国民を騙すことに長けた議員がひしめいている。国民が平気で人を利用したり騙すような人たちを見抜く目を持たない限り、簡単に独裁政権に支配されてしまう。日本が平和を保てるかどうかも、私たちが誠実で信頼できる政治家を見極めることができるかどうかで決まってくると思う。

【10月19日追記】
 小沢一郎氏が合流劇を主導したことについては以下の記事でも指摘されている。

小池劇場 振り付けは小沢自由党代表(Hunter)
それでも小沢一郎は「小池の出馬と首相就任」を諦めてはいない(現代ビジネス)

【11月5日追記】
 田中龍作氏の以下の記事も紹介しておきたい。
前原代表の「想定外」だった 野党大合併、頓挫の理由を明かす(田中龍作ジャーナル)
  


Posted by 松田まゆみ at 11:13Comments(4)政治・社会

2017年10月02日

「敏感で傷つきやすい人たち」を読んで実感した自分の過敏気質

 HSPという概念を知っている人はそれほど多くはないと思う。HSPとはHighly Sensitive Personの略語で、ユング派の心理学者であるエレイン・N・アーロン博士が提唱した概念だ。アーロン博士によると人口のおよそ2割が感受性の高いHSPであり、この過敏な性質は生得的なものだという。私もこHSPについて知ったのは3年ほど前のことだ。HSPかどうかを調べるには診断テストがある。私はアーロン博士版ではHSPかどうかぎりぎりの点数になるのだが、イルセ・サン版だと明らかにHSPとなる。

 先日、岡田尊司著「敏感で傷つきやすい人たち」(幻冬舎新書)を読んだのだが、この本を読んで、改めて自分がHSPであることを実感した。岡田氏はご自身がHSPでもある精神科医だ。

 本書では過敏性についての分析やメカニズムなどの解説にかなりのページが割かれている。本書には独自の過敏性チェックリストがあり、これによって過敏性のタイプを知ることができる。このチェックテスト(過敏性プロファイル)では感覚過敏、馴化抵抗、愛着不安、心の傷、身体化、妄想傾向、回避傾向、低登録の8つのチェック項目を挙げている。これらについてチェックしていくことで過敏性の傾向や程度が分かるのだが、具体的なことは本書に譲りたい。

 岡田氏によると、過敏には神経学的過敏症と心理社会的過敏症があるという。前者は遺伝的要因や生得的要因が強いと考えられ、後者は養育要因や社会的体験などが強く影響していると考えられている。私の場合は、神経学的過敏症が強いようだ。つまり、アーロン博士のいう遺伝的な要因によるHSPと言っていいだろう。

 過敏な人にとってもっとも重要なのは、過敏な自分とどのように向き合っていくかということになるが、その対処法が終わりの第7章「過敏な人の適応戦略」と第8章「過敏性を克服する」で紹介されている。

 岡田氏は「その人を縛っているものは、思考や行動のパターン、価値観や認知の偏りとなってその人に組みこまれた無意識的で自動的なものなので、その歪みは自覚されにくい」という。これを自覚し、自分の弱い点や悪い点に目を向け、無意識の縛りから自由になれれば自分で幸福を手に入れることができる。

 具体的には、肯定的認知を高めるためのエクササイズをする、他人に親切にする、感謝をする、二分法的認知(全か無かの両極端な認知)を克服するなど。ただし、激しい怒りや憎しみに捉われているなどして肯定的な認知自体を受け付けないような人は、第三者的な目で自分を見られるようになる必要があるという。マインドフルネスなどにも言及している。さらに、安全基地の機能を高めることの重要性を説いている。そして、最後に、「依存も自立も必要」だと主張する。

 こうした対処法は、過敏性への対処に限らず多くの精神科医や心理士などが提唱していることと共通する。

 たとえばアドラー心理学に置き換えるなら、子どもの頃に自ら選びとったライフスタイルを自分で選び直すということに他ならない。そのために必要なのは、欠点も含めた自分自身を認めるという自己受容だ。「親切にする」というのは他者貢献であり他者信頼でもある。「安全基地」は所属感、共同体感覚に通じる。「依存も自立も必要」という主張は、言いかえれば自分一人ではできないことは助け合うということだ。細かい点では違っていても、ありのままの自分を認め、自分を変えることで問題を克服でき幸福になれるという考え方は同じだ。

 結局、不平不満ばかり言ってその原因をすべて他人や環境のせいにし、頑として自分を変えようとしない人は穏やかで幸福な人生を生きることはできない。それはHSPであれ、非HSPであれ同じだが、とりわけ敏感な体質の人はその感受性の高さゆえ、不安神経症になりやすかったり体調を崩しやすく「生きづらさ」を感じやすいということになるのだろう。

 私自身、子どもの頃のことを思い出してみると内向的で引っ込み思案であり、一人で本を読んだり趣味の世界に没頭したりするのが好きで、典型的なHSPだった。小学校から高校まで個を尊重しないで競争ばかりさせる学校は一貫して嫌いだった。よくお腹を壊したり便秘をしたりとお腹の調子も安定せず、大人になってからは過敏性腸症候群になった。また、こちらにも書いたが化学物質過敏症だ。

 私の母も典型的なHSPだ。父はそれほどではないと思っていたのだが、文学や音楽、芸術を好み(若い頃はイラストなども描いていた)、山歩きが好きだった父もHSPだったのではないかと思い当たった。定年前に退職したのも、その気質と関係していたのかもしれない。

 自分がHSPだとはっきり自覚することで、自分が動揺してしまうことでも周りの人たちが平然としていられる理由が理解できるようになった。旅行先で寝付けなかったり、大勢での集まりのあとなど神経が高ぶって眠れないのが常だったのもHSP気質が関係していたのだ。今も大勢での宴会は好まないし、登山や旅行なども少人数や一人でしか行きたいとは思わない。

 多くのHSPは「生きづらさ」を抱えているというが、感受性の高さゆえに他人からのちょっとした一言に傷つきやすいのだ。そして他人に傷つけられることを恐れて自己主張をせずに他者に合わせたりする傾向が強まり、それがさらに生きづらさを生んでしまうことになるのだろう。

 私も振り返れば嫌なことや辛いことはいろいろあった。ただ、私はそれが原因で自分が不幸だと思ったことはないし、さほど「生きづらい」と感じた記憶はない。そもそも「生きづらい」という言葉が今一つピンとこない。賃金格差や苛酷な労働などで辛いなら、それは社会システムの問題なので個人に内在する「生きづらさ」とは分けて考えるべきだろうし、ストレスによる苦痛なら自分で何とかするしかない。

 たぶん子どもの頃から自分の過敏性を当たり前のものとして受け入れつつ、自分の世界をマイペースで楽しんできたことが大きいのだと思う。他人の顔色を窺ったり他人と比べるというのが大嫌いで、自分の意見を言うことで他者から嫌われることは厭わない。子どもの頃から「人はみな対等」と思ってきたし、自分の良心にしたがって自然体で過ごすような生き方をしてきたつもりだ。

 世の中の5人に1人がHSPであるなら少数派ではあってもかなりの人が過敏な体質ということになる。とりわけ昨今のように競争が激化し、格差が大きくなればなるほど過敏な人たちは影響を受けやすい。とは言うものの、過敏性を抱えながらも他者に振り回されず自分らしく生きている人も大勢いるし、過敏だから不幸だというようなことは決してない。

 人生も残り少なくなってきたが、不平不満を言わず、感謝の気持ちを忘れずにマイペースで自分のできることをしていきたいと思う。
     


Posted by 松田まゆみ at 22:26Comments(0)雑記帳

2017年09月20日

正しいアドラー心理学って何だろう?

 野田氏による岸見氏批判についての意見は「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」にすでに書いたが、野田氏の書いた「アドラー心理学を語る」シリーズの4冊を読んで、私は野田氏の主張する「正しいアドラー心理学」「正統なアドラー心理学」あるいは「標準的なアドラー心理学」の定義に疑問を持ちはじめた。

 「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマンギルドへの疑問」に書いたように、アドラー心理学と謳っていながら他者を操作することを教えているのであれば、それは確かに「正しいアドラー心理学」とは言えないと思う。しかし、「嫌われる勇気」に対する野田氏の批判はそういう視点ではない。

 私は岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」のほかに、岸見氏の「アドラー心理学入門」「不幸の心理 幸福の哲学」「生きづらさからの脱却」「叱らない子育て」「アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ」「アドラー 人生の意味の心理学(NHK100分de名著)」を読んだほか、小倉広著「アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉」、向後千春著「アドラー心理学のススメ」も読んだ。そして野田俊作氏の4冊シリーズも読んだ。

 それらを読んで感じたのは、著者の数に応じたアドラー心理学解釈があるということだ。

 野田氏は「性格は変えられる」の75ページでこう語っている。

―同じアドラー心理学でも、国によって違うんですか。
ずいぶん違いますよ。だいたいアドラー心理学っていうのはね、寛容というかルーズというか、「かくかくしかじかとアドラーは言った」って言いさえすれば、みんなアドラー心理学なんです(笑)。国によっても違うけれど、治療者個人ごとにもずいぶん違う。百人いれば百とおりのアドラー心理学がある。

 岸見さん、小倉さん、向後さん、そして野田さんの本を読んでみて、私も同様に思う。アドラーの言葉をどう解釈するかは人それぞれなのだから、アドラー心理学の解説書は必ず著者の解釈や意見が入ったものとなる。岸見さんは哲学の視点を取り入れた岸見流だし、精神科医として治療に取り入れている野田さんのアドラー心理学は野田流だ。

 これまで私が読んだ本は、著者の個性は感じられても、アドラー心理学の説明に関して大きな違いがあるとは感じられないし、まして間違いや重大な誤解があるとも思えない。岸見氏の「アドラー心理学入門」や「アドラー 人生の意味の心理学(NHK100分de名著)」も簡潔にまとめられているとはいえ、アドラー心理学の解説として偏っているとは全く思わない。「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」は個性的ではあるが、他のアドラー心理学の本の説明と比べても、間違いがあるとは思えない。

 「嫌われる勇気」で「課題の分離」が強調されているという面は否定しないし、本書でアドラー心理学をまんべんなく解説しているとも思わない。そもそもまんべんなく解説することを目的にしているというより、心理学などに縁がないような人にアドラー心理学の核心部分を明確に説明することを目的にしている本だと思う。率直に疑問を投げかける青年に哲人が明確に応えるという手法は、説得力を持たせることに成功している。

 「課題の分離」は共同体感覚を持つためには不可欠であるし、「空気を読む」習慣が身に染みついている日本人にとって「課題の分離」や「承認欲求」は意識すべき重要なポイントだ。ゆえに「課題の分離」や「承認欲求」に重きを置いていることに違和感はない。悩める青年(=多くの読者)に哲人が表意を突く回答をする展開になっているからこそ「嫌われる勇気」は読者を引き込むしベストセラーにまでなったのだと思う。

 だからといって「協力」や「共同体感覚」をないがしろにしているとも思わない。とりわけ続編の「幸せになる勇気」では貢献や信頼に力点が置かれている。また「課題の分離」が強調されているとしても、そのこと自体がアドラー心理学を誤解していることにはならないし、共同体感覚を理解していないということにもならない。

 野田氏はご自身のサイトで岸見氏批判を何度かしているが、野田氏の言う「正しいアドラー心理学」とか「標準的なアドラー心理学」というのは一体何なのだろう? 間違いとか標準から外れているというのも野田氏の意見でしかない。

 「嫌われる勇気」に関する批判は野田氏以外にもいろいろある。しかし、それらの批判の多くはむしろ読みが浅いゆえに誤解しているのではないかと感じることが多い。トラウマに関しては「トラウマを否定」「トラウマは存在しない」という言葉だけに反応している人もいるようだ。しかし本文をよく読めばトラウマやPTSDという症状の存在を否定しているわけではないことは十分理解できる。

 ちなみに、岸見さんはこちらの記事で「実はアドラー自身、第一次世界大戦中、軍医として、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療にあたっていました。トラウマの存在を知っていたのにあえて否定したのは、過去にとらわれず、これからをどう生きるかが重要と考えたからです」と語っている。トラウマが未来を決定するわけではないという目的論に則り「トラウマを否定」「トラウマは存在しない」という表現を用いたのだろう。

 私は目的論が間違っていると思わないが、人の言動や症状がすべて目的論で説明できるとも思わない。また、アドラーの目的論と現在の精神医療の現場で行われているさまざまな技法を用いたトラウマ治療は対立するものだとは思わない。重視する視点が違うだけであり、どちらかが間違っているというわけではないだろう。

 それから、「嫌われる勇気」の哲人の説明があまりにもストレートすぎるという批判もある。これにはメリットとデメリットがあると思う。ストレートな説明はアドラー心理学のポイントや概要を知りたい人にとっては理解しやすいし、自己受容が一定程度できる人ならストレートで厳しい指摘であっても受け入れられるし自分のライフスタイルを変えることに繋がる。しかし自己受容ができない、すなわち自分が不完全であることを受け入れられない人にとっては自分が批判されていると受け止めて嫌悪感を抱き、人によってはアドラー心理学を否定することになるだろう。したがって逆効果になる人もいるのも否めない。

 ただし、岸見さんがカウンセリングでクライアントに対してここで書いているようなストレートな指摘やアドバイスをしているとは到底思えない。確か、クライアントとともに解決方法を考えていくというようなことをどこかに書いていた記憶がある。この直截的な表現は明確な説明を意図した本であるからこそのものだろう。そこも勘違いをしてはならない点だ。

 「嫌われる勇気」に抵抗感がある人は野田さんの「アドラー心理学を語る」の方が読みやすいかもしれない。ただし、自己受容ができなければ野田さんの本を読んだところでライフスタイルを変えるという決断はできないと思う。

 「嫌われる勇気」批判に関しては、向後千春さんの以下の記事がとても的を射ている。

アドラー心理学、「部下をほめてはダメ」の功罪

 「嫌われる勇気」は批判する人がいる一方で、多くの人が高く評価し共感を呼んでいる。「嫌われる勇気」を自分の解釈に合わないという視点から批判することがアドラー心理学の発展につながるとは私には思えない。むしろ向後さんが指摘しているように、読者が誤解をしている部分があるなら、その誤解を解くような説明をするほうがよほど建設的だと思う。

【関連記事】
アドラー心理学をめぐる論争とヒューマンギルドへの疑問
アドラーのトラウマ否定論について思うこと
野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う
誤解される嫌われる勇気
野田俊作著「アドラー心理学を語る」についての感想

  


Posted by 松田まゆみ at 18:51Comments(0)雑記帳

2017年09月11日

野田俊作著「アドラー心理学を語る」についての感想

 野田俊作氏は1982年にシカゴのアルフレッド・アドラー研究所に留学してアドラー心理学を学び、日本にアドラー心理学を持ち込んで日本アドラー心理学会を立ちあげた精神科の医師である。日本のアドラー心理学の第一人者といえば、やはり野田氏だろう。その野田氏が以前一般向けに書いたアドラー心理学の解説書「アドラー心理学トーキングセミナー」および「続アドラー心理学トーキングセミナ―」が、昨年末から今年にかけて「アドラー心理学を語る」というシリーズ本となって再版された。「性格は変えられる」「グループと冥想」「劣等感と人間関係」「勇気づけの方法」の4冊だ。

 このシリーズ本は3月に読み終えていたのだが、感想を書くタイミングを失してしまった。遅ればせながら野田さんの本を読んだ感想を記しておきたい。

 「性格は変えられる」および「グループと冥想」は対話形式で、「劣等感と人間関係」「勇気づけの方法」は対話形式ではないものの、どの本も具体例を取り入れながら独特な語り口によって分かりやすい解説書になっている。

 第3巻の冒頭で「第3巻と第4巻で、非専門家のアドレリアン(アドラー派の心理学者)が知っておくべき内容は、ほぼ尽くされているのではないかと思っています」と記されているように、この2冊でアドラー心理学の概要をひととおり解説するものになっている。第1巻の「性格は変えられる」はライフスタイルを変える方法と共同体感覚についてより具体的に説明している書であり、第2巻の「グループと冥想」はグループ療法について具体的に解説しているものなので、第3・4巻から読み始めても何ら差し支えはない。

 私は岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」でアドラー心理学を知ったのだが、「嫌われる勇気」および続編の「幸せになる勇気」では、いわゆる「勇気づけの」方法が今ひとつピンとこなかった。しかし本シリーズの「勇気づけの方法」では、どんな会話が勇気づけになるのか、あるいはどんな言い方が「勇気くじき」になるのかが具体的に示されていてとても参考になる。そして、私たちは実に「勇気くじき」の言葉の洪水の中に置かれているかということにも気づかされる。

 野田さんのこの4冊のシリーズ本は、アマゾンのカスタマーレビューでも高い評価が多く、定評のあることが伺われる。アドラー心理学を学びたいと思っている方や、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読んでさらに理解を深めたいと思う方には最適だと思う。ちなみに岸見氏は野田氏からアドラー心理学を学んだ一人であり、第3巻の末尾に「野田先生と私」という寄稿を寄せている。

 内容については本書に譲るが、ひととおり読んで感じたのは、この本はまさに野田流アドラー心理学だということだ。単にアドラーの思想を解説しているというだけではなく、精神科医として実際の治療に関する話しも多く、野田氏の独自解釈や独自手法が加わっている。野田氏が示している治療例の中には、本当にこんなアドバイスが効果的なのだろうかと首を傾げたくなるような驚くべき提案もある。アドラー心理学を熟知した医師ならではの発想なのだろう。野田氏の本は実例なども示しながら仔細に語られているのが魅力であるが、それと同時に個性が強いという印象も否めない。

 これらの本の中で私がとくに興味を持ったり印象に残った点について、いくつか書き留めておきたい。

 「縦の関係」と「横の関係」について、野田氏は以下のように述べている。

 この二つは、違ったライフスタイルに基づいています。つまり、縦の関係で暮らす人は、徹底して縦の関係ばかりつくって、決して横の関係を持とうとしない。逆に横の関係で暮らす人は、徹底して横の関係ばかりつくろうとする。相手によって縦になったり横になったりするというようなことは、実際にはまずありません。

 「縦の関係」と「横の関係」がライフスタイルの違いなら、ライフスタイルを変えない限り、一生「縦の関係」のライフスタイルの人は縦の関係を維持しようとする。これは実生活の中でもしばしば体験することだ。支配的である人は常に他者の言動に口をはさんで文句を言ったり批判をする、あるいは周りの人の空気を読んでそれに従う人は従属的でありやはり縦の関係だ。そして身の回りの人たちを見ていると、多くの人がこのような縦の関係のライフスタイルを持っていることに気づく。

 しかし他人を変えることはできない。ならば、相手ではなく自分が変わることで問題の解決をはかるというのがアドラー心理学の考え方だ。たとえ縦の関係のライフスタイルの人に悩まされているとしても、自分が変わることで関係性が変わってくるという指摘にはなるほどと思うし救われる。これは横の関係を築くためのひとつのポイントだろう。

 自己受容と他者信頼、貢献感は実は同じもので、共同体感覚の三つの側面であるという説明も、本書を読み進めていけば納得がいく。そう考えるとアドラー心理学はやはりシンプルといっても過言ではない。

 冥想が良いとの話しはいろいろなところで聞いて知っていたが、なぜ冥想が良いのかということが「グループと冥想」で説明されていてなるほどと思った。陰性感情は怒り、不安、憂鬱の三つに大別されるが、このうち不安は未来についての感情であり、憂鬱は過去に起因する感情だという。これらは思考することによって生じる感情なので、冥想によって「今ここ」に集中することで消えてしまうのだという。呼吸法などの冥想のやり方を解説しているわけではないのだが、ダンスを取り入れた野田氏のグループ療法などはなかなか興味深い。

 もう一つ、アドラー心理学の「共同体」の定義についてはちょっと目からウロコだった。私は小さい共同体は家庭や職場、大きい共同体は国家などを指すのだろうと漠然と考えていたのだが、アドラーが考えていた一番狭い定義が人類全体だという。そして最大の定義は全宇宙。そこまで広範囲を考えているとはまったく思っていなかった。しかし、宇宙が共同体という考え方はまさに共同体=自然ということだ。人は紛れもなく地球の生物の一員であり生態系の一員であるのだから、共同体感覚というのは自然の摂理に逆らわず生態系の一員として謙虚に生きるということでもあるだろうし、これにはすごく納得がいく。

 以前、NHKの番組で狩猟採取生活をして協力的な生活をしているアフリカのある民族にはストレスがないということを紹介していた。人類は誕生から長い間、自然の中で協力し合って生きてきたに違いない。さまざまな自然の脅威はあっても、人間関係つまり同種間でのストレスがほとんどない社会を持っていた可能性が高いし、それこそ健全な生物の姿だろう。狩猟採取生活の人類は協力的な暮らしをしなければ生きていけなかったのだろうし、共同体感覚が自然に身についていたのかもしれない。しかし、文明の発達とともに支配・従属という縦の関係あるいは競争的な社会へと変わる中で、共同体感覚を失ってしまったのかもしれない。とするなら、自分自身の中にある共同体感覚を揺り起こすことも不可能ではないのではないか? 私は、人は「良心」という形で共同体感覚を内在しているように思えてならない。

 最後に一言。野田氏は本書の中で一貫してアドラー心理学はお稽古ごとであるから本では学べないという主張をしている。大半の人が性格を変えないという努力を続けている以上、本を読んだからといって容易に性格を変えられるものではないと思うし、まして共同体感覚は簡単に身につくものでもなかろう。とりわけ縦の関係のライフスタイルの人や自己受容に抵抗がある人にとっては、本を読んだところで実践しようという意欲も湧かない気がする。

 しかし、すべての人が縦の関係のライフスタイルを持っているわけではないし、縦の関係や自己受容の程度も人によって強弱があるのではなかろうか。縦の関係のライフスタイルの人であっても、アドラー心理学の本を読むことで少しでも今までと違う視点を持つことができ、今の性格を保つのをやめようと決断したり、さらに深く学んでみたいと思う人もいるだろう。横の関係のライフスタイルに共感できる人はアドラー心理学を受け入れるのはさほど困難だと思わないし、実践しようと思う人も多いのではないか。

 講習会やワークショップに参加できればそれに越したことはないだろうが、だからといって本で学ぶことに意味がないとは思わない。また、本は何度も読み返せるという利点がある。本というのは一度読んだだけではすぐに忘れてしまったり十分に理解できないことも多いが、繰り返し読むことによって理解が深まる。野田さんのこのシリーズも、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」も時々本棚から引っ張り出して読んでいるが、繰り返して読むことによって、少しずつ自分のものになっていくのだと思う。

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2017年09月01日

忘れさられる関東大震災

 今日は9月1日。そして9月1日といえば真っ先に思い出すのが関東大震災。ところが、朝刊(北海道新聞)をめくってみても社説に防災の日の話題があっただけで関東大震災のことに触れる記事はない。

 さて、あの大震災から何年経ったものかと数えてみたら、94年になる。たしか1915年(大正4年)生まれの父が子どもの頃だったはずだが・・・と、父の随筆を読み返してみると8歳の時だと書いてある。上野に住んでいた父は不忍池の弁財天で一夜を過ごしたというが、谷中方面を除いて上野は火の海に囲まれたらしい。考えただけでもぞっとする。

 上野の山(山といっても丘のようなものだが)には、ピーク時は約50万人もの避難者が押し寄せたそうだから、さぞかし大変な状態だったに違いない。残されている当時の写真を見ると想像以上の人の群れだ。

関東大震災90年目の夏・写真レポート

 10万5千人もの死者、行方不明者を出した大震災から94年、考えてみれば、あの大震災を記憶している人はほとんど亡くなってしまった。それにしても、何年か前までは9月1日といえば防災の日ということで大震災のことが取り上げられていたような気がするが、もはや新聞でも取り上げられなくなってしまったとは・・・。

 日本は地震活動、火山活動が活発化していると言われている。東日本大震災から6年以上が過ぎたが、あのときの震源域の北側と南側には大きな歪みが溜まったままだ。アウターライズ地震が起きると予測している人もいる。熊本地震のように、日本ではいつどこで大きな地震が起きるか分からない。さらに恐ろしいのは、全国各地に原発があることだ。稼働しているのは限られているとはいうものの、各原発には大量の使用済み核燃料が保存されている。

 先日の北朝鮮のミサイルではほとんど意味のないJアラートを発信し大騒ぎをしていたが、大地震などの自然災害を忘れないために制定された防災の日は何やら影が薄い。何度も大地震を経験している日本だが、果たして過去の震災の教訓は生かされているのだろうか? 適切な避難指示を出せるのだろうか? 避難所の体制は万全か? 被災地にすみやかに物資を届けられる体制を整えているのだろうか? 原発事故への対処は? ミサイルより大地震や大津波への備えの方がはるかに大事だろう。
  


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2017年08月29日

コンテスト商法と電子出版勧誘にご用心

 元文芸社社員のクンちゃんのブログにこんな記事が掲載されていた。

幻冬舎ルネupupか? 自費出版近況

 幻冬舎ルネッサンスがコンテスト商法を始めたようだ。コンテスト商法といえばかつて文芸社や新風舎が新聞広告を出して大々的にやっていて批判にさらされたのだが、一部の自費出版社では未だにやっている。批判されても生き延びているというのは、それなりに集客の効果があるのだろう。

 一見、良心的?と思える自費出版社でもコンテスト商法に手を染めるようになったところもある。おそらく他社と対抗するために取り入れたのだろうけれど、私の目から見たらコンテスト商法を始めた時点で胡散臭い会社としか思えない。あるいは、そんな商法に手を染めなければならないほど経営が大変だということなのだろう。

 まず、はっきりと言っておきたい。権威ある文学賞を受賞したなら確かにその作品は売れるし、著作者は作家として認められる。しかし、何の権威もない自費出版社が主宰するコンテストで入賞したところで、そもそも売れる見込みなどほとんどない。コンテスト商法などというのは、自費出版の顧客獲得のための手段でしかないし、コンテストにかかる経費だって著者から得たものだ。

 ここでは社名は伏せるが、とある出版社などはどう考えても実費以上の出版費用を著作者に請求するのに「自費出版ではない」などと説明しているらしい。恐らく、本の所有権と出版権が出版社側にあり、著者に印税を支払う契約をするので自費出版ではないと言いたいのだろうけれど、それを商業出版というのなら出版社はいくら負担するのだろうか? 出版社が全く費用負担せず顧客から利益をとる商法を商業出版だと説明するなら詐欺に近い。商業出版というのはあくまでも本を売ることで利益を出す商売だ。

 一昔前までは、自費出版といえば紙の本だった。ところが、昨今は紙の本だけではなく電子出版を勧める自費出版社も多い。電子出版ならずっと安くできるので、出版に大金を出したくない(出せない)人に勧めるのに好都合だ。で、自費出版社の電子出版の場合、数十万円程度は請求するようだが、それ位の価格なら何とかなると契約する人もいる。

 しかし、原稿を電子データで出すのであれば、電子出版などさほど費用はかからない。今は個人でも電子出版ができる時代だ。「電子出版 個人」で検索すればいろいろなサービスが出てくるし、費用は無料から数千円程度で済み、販売も可能だ。

 販売を考えないのなら、ブログで作品を発表するのが手軽だろうし、無料の小説投稿サイトを利用してもいいだろう。とにかく、スマホやパソコンで作品を読めるようにするだけならタダでいくらでもできる。

 私は自費出版の相談にときどき乗っているが、相談者の中にはコンテスト商法のことや電子出版についてどんなに懇切丁寧に説明しても、怪しげな出版社の商法に乗っかってしまう人が一定程度いる。出版社から出す方が有利だと思っているなら、完全な思い込みだ。出版社のサイトで自分の本が紹介されたからといって、素人の本を買う人がどれほどいるだろうか?

 「もしかしたらヒットするかも知れない」という夢を抱くなら、無料の小説投稿サイトで十分だ。そういうところでヒットしたなら、出版社から商業出版の声がかかる可能性もあるのだから。

 一度思い込んでしまった人はいくら説得しても無駄だし、その結果責任は自分でとるしかないのだけれど、出版社の思惑に簡単に乗せられてしまう人を見ていると溜め息しか出てこない。

 自費出版そのものを否定するつもりは毛頭ないが、「もしかしたら売れるかもしれない」「作家になるチャンス」などと期待している人は、コンテスト商法と電子書籍商法にはくれぐれも用心してもらいたいと思う。 
  


Posted by 松田まゆみ at 17:13Comments(0)共同出版・自費出版