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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱

2018年11月17日

えりもの森裁判(1審の差し戻し審)を終えて

 11月はじめに右手首を負傷してしまいブログの更新をさぼっているが、10月17日発行の「ナキウサギつうしん84号」(ナキウサギふぁんくらぶの機関紙)に寄稿したものをアップしておきたい。原稿を書いた時点ではまだ判決が出ていなかったのだが、判決では原告らの請求は棄却されてしまい控訴した。したがって、この裁判はまだ続くことになった。

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えりもの森裁判(1審の差し戻し審)を終えて

 6月5日、「えりもの森裁判」の1審差し戻し審が結審し、10月2日に判決が言い渡されることになった。記録をたどれば、提訴は2005年の年末。あれから13年目にようやく終結を迎えた。提訴した当時は数年で終わると思っていたので、まさかこんなに長期間にわたるとは思いもよらなかった。後半には提訴したのがいつだったのか、そしてどんな経緯をたどったのかも忘れてしまうくらい長い裁判だったが、今となると感慨深い。

 提訴のきっかけは2005年の秋。ナキウサギふぁんくらぶの市川利美さんから、えりもの道有林の一部が皆伐されているとの情報が寄せられた。この地域一帯は希少な動植物が生息しており、私たち自然保護団体のメンバーが大規模林道の調査で何度も足を運んでいたところだ。現地に出かけてみるとこれまで針葉樹と広葉樹で覆われていた場所がぽっかりと切り取られたように伐採されて景色が一変していた。そればかりか、ナキウサギふぁんくらぶが確認していたナキウサギ生息地までも集材路で壊されている。

 北海道は平成14年から木材生産のための伐採はやめ、森林の公益的機能を重視した森づくりにすると宣言したはずだったのに、どうして皆伐されているのか? 情報開示請求により伐採に関する資料を取り寄せて分かってきたのは、この皆伐が「受光伐」とされていることだった。「受光伐」とは、下層木の成長を促進させるために抜き伐りをする伐採方法だ。ところが実態は紛れもなく「抜き伐り」ではなく「皆伐」。そして伐採跡地にはトドマツの苗木が植林された。生物多様性の豊かな天然林をトドマツの人工林にしてしまったのだ。

 この皆伐やナキウサギ生息地の破壊は森林のもつ公益的機能を損なっており北海道の条例や生物多様性条約に違反するのではないか? そんな疑問から市川守弘弁護士、ふぁんくらぶ代表の市川利美さん、そして私の3人が北海道の監査委員に対して住民監査請求を経て始まったのが「えりもの森裁判」だ。原告らは、違法な伐採により森林のもつ公益的機能を損ねたことによる損害と、過剰な伐採による道有財産への損害を主張した。

 裁判の長期化の最大の要因は1審の不当判決と被告である北海道の抵抗だと私は思っている。現場に通って調査を重ねた私たちから見たら、過剰な伐採が行われたことで北海道の財産である森林が損害を受けたことは明らかだった。原告らの主張をまったく認めず違法性の判断すらしなかった1審はどうみても不当判決であり、1審への差し戻しを命じた高裁の判決はまっとうなものだったと思う。それにも関わらず、被告の北海道は最高裁に上告した。最高裁も高裁の判断を支持して地裁に差し戻しをしたわけで、北海道の対応は時間稼ぎではないかと思わざるを得ない。

 裁判の出発点は皆伐が森林の公益的機能を損ねたということだったが、終盤では過剰な伐採による財産としての損害に焦点が絞られた。公益的機能の損害は認められなかったものの、森林を財産とみなしてその管理のあり方を問う裁判はこれまでに例がなく、自然保護の観点からも注目される裁判だと思う。

 思い返すと、「えりもの森裁判」はこの後に展開された北海道の森林伐採問題への取り組みの第一歩だった。これを皮切りに、私たち自然保護団体は上ノ国町のブナ林の違法伐採、十勝東部の伐採による自然破壊、大雪山国立公園幌加地区の風倒木処理を名目とした皆伐、石狩川源流部の違法伐採など、違法伐採や大きな自然破壊を伴う伐採問題に取り組むことになり、それなりに成果を上げることができた。

 これまでも違法伐採の話しはいろいろ耳にしたが、一般の人が立ち入ることのない山の中では森林管理者と業者が癒着して違法伐採を行っていても誰も確認できず見過ごされてきた。「えりもの森裁判」の大きな意義は、こうした違法伐採に歯止めをかけることだし、それは一定程度の成果を上げたと思う。

 このあと控訴や上告とさらに続く可能性もあるが、まずは13年もの長きにわたり尽力してくださった弁護団の先生方にこの場を借りてお礼申し上げたい。
  

Posted by 松田まゆみ at 16:58Comments(0)えりもの森裁判

2018年10月29日

自己責任バッシングは政権擁護のための責任転嫁

 シリアで反政府勢力に拘束されていた安田純平さんが解放され帰国したことで、ネットでは自己責任論をふりかざしたバッシングが吹き荒れている。高遠菜穂子さんら3人がイラクで拘束されたとき以来、このような事件があると自己責任論が跋扈する。

 では、自己責任とは何なのか? コトバンク(デジタル大辞泉)では以下のように説明されている。

1 自分の行動の責任は自分にあること。「投資は自己責任で行うのが原則だ」
2 自己の過失についてのみ責任を負うこと。

 自分が選択したことの結果責任は自分で負うということであり、リスクも引き受けるということだ。人は生きていくうえで常に選択をしている。日常的なことはもちろんのこと、進学や就職、結婚といったことも自分で選択しなければならない。病気になれば治療についての選択も基本的には本人にある。病気であることを知りつつ治療をせずに放置したなら、その責任は自分で負わなければならない。誰もが常に自分の選択や言動の責任を負って生きているのだ。

 もちろん過失についても責任を取らねばならない。自分の判断にミスがあり他者に迷惑をかけたり損害を生じさせたなら、謝罪をした上でできる限り現状回復の努力をする。あるいは生じた損害を賠償する。さらに、再発防止策を考え実行することが「責任の取り方」だろう。自分の選択や言動の責任を取ろうとせずに他人のせいにする人がしばしばいるが、こういう無責任な人は自立しているとはとても言えない。

 もちろんジャーナリストが取材のために戦場に赴く行為にも自己責任はつきまとっている。安田さんが拘束された経緯は分からないが、彼は拘束される危険性を十分に認識していたはずだし警戒もしていただろう。その上で自分の判断で危険地帯に入り、結果としてつかまってしまった。この際の自己責任とは、拘束されたことを他人のせいにせず、困難を乗り越え生きて帰るためにできうる努力をすることだ。これに関して、安田さんは他人のせいにはしていない。そして彼は3年以上に及ぶ地獄のような拘束生活に耐えて帰還した。彼は自分の判断によって自分の身に起きたことに対し責任を負ったと言えるのではないか。落ち着いたら説明責任を果たすとも言っているのだから、今はそれを待ちたい。

 「自己責任」を振りかざしてバッシングする人たちにしばしば見受けられるのは、自己責任だから国が救出する必要などないなどという主張だ。しかし、「個人の責任」と「国が自国民を救出する責任」はまったく別のことだ。国外で自国民が事件や事故に巻き込まれたなら政府が救出のために尽力するというのは国としての責務だ。

 問題なのは、日本政府は国としての邦人救出の責務を果たしているとはとても思えないことだ。湯川遥菜さんと後藤健二さんがイスラム国に拘束されたときも、政府は中田考さんや常岡浩介さんからの交渉の申し出を断ってしまった。それどころか、湯川さんの救援を計画していた常岡さんは私戦予備・陰謀事件の容疑で警察から家宅捜索を受け、救援の機会を奪われた。日本政府は湯川さんや後藤さんの救出のために尽力するどころか、妨害をしたといっても過言ではない。

 「自己責任だから救出などする必要がない」という意見は、個人の責任と国の責任をごっちゃにして国の責任を個人の責任に転嫁しているにすぎない。だから、「自己責任論」は政府にとって実に都合がいいのだ。

 自己責任論を口にする人は、必ずといっていいほど「個人の責任」と「社会的責任」を混同させている。非正規雇用を増やしワーキングプアをつくりだしたのも、社会保障をどんどん削ってきたのも政治や社会の問題だが、それで生じた貧困の人たちすら「自己責任」だといって切って捨てる。ワーキングプアもホームレスも病気になる人も「自己責任」にしてしまえば、政府は何ら責任がないことになる。「自己責任論」は、社会的弱者を切り捨てるためのまやかしだ。

 そして、そんな弱者切り捨ての新自由主義を推進している人たちこそ自己責任を果たそうとしない。森・加計問題で安倍首相、昭恵夫人、加計孝太郎氏などは国会で説明する責任があるにも関わらず全く果たしていない。

 安倍首相は森友学園問題で「妻や私が関係していたということになればこれはまさに私は間違いなく総理大臣も国会議員も辞めるということははっきりと申し上げておきたい」と言っておきながら、昭恵夫人の関与を示す証拠が出てきても一向に辞めようとしない。安倍首相の過去の選挙妨害疑惑(いわゆる「ケチって火炎瓶」事件)に関しても安倍首相は説明責任があるし、事実なら辞任するのが当然だろう。これほど自分の言動の責任を取らない人が首相を続けているのだから、自己責任論を展開する人たちは首相の責任こそ追及するのが筋ではないか。

 ところが、彼らは決して首相の責任問題には言及しない。彼らの自己責任バッシングの目的は安倍政権を批判する人を貶め、不正まみれの安倍政権を擁護することに他ならない。
  


Posted by 松田まゆみ at 21:03Comments(0)政治・社会

2018年10月16日

日本産クモ類生態図鑑の紹介

 今年8月に小野展嗣・緒方清人著「日本産クモ類生態図鑑」(東海大学出版部)が出版された。

 2009年に出版された小野展嗣編著「日本産クモ類」(東海大学出版会)は当時の日本産の既知種64科423属1496種を扱い、科・属・種の解説と生殖器の図を網羅した分類、同定のための画期的図鑑だった。一方、本書は概説にはじまり、緒方清人氏撮影による857種(未記載種および新種を含む)の生態写真からなるカラー図版と、解説(体長、分布、生息環境、生態・習性、生活史)によって構成されている。

 本書の最大の特徴は、カラー生態写真の豊富さだろう。雌雄の成体の写真のほか、色彩変異の個体、幼虫、卵のうや網、捕食の様子など、1種につき複数の写真が掲載され、写真を見ているだけでも楽しい。携帯サイズの写真図鑑ではこれだけの枚数の写真を盛り込むことは困難であり、大型図鑑の強みだと思う。

 また、じっくりと写真を見ることで、生きた状態での近縁種の違いも見えてくる。例えば液浸標本では外見、外雌器、雄触肢がとてもよく似ているハモンヒメグモとリュウキュウヒメグモも、こうして生態写真を見比べると体色や卵のうの色など違いが分かりやすい。

 解説は1種につき数行から20行程度で比較的簡素にまとめられている。紙幅の関係のほか、説明文の長さのバランスも考えてのことかと思うが、生態や生活史についてこれまで知られている知見を網羅しているというわけではない。クモの生理生態についてより詳細に知りたい場合は、池田博明氏による「クモ生理生態事典」を参照されるといいだろう。

 「日本産クモ類生態図鑑」は、「日本産クモ類」の姉妹編という位置づけであり、前者が分類・同定を目的とした専門的な書であるのに対し、後者はふんだんなカラー写真による自然状態でのクモの姿に重きが置かれている。「日本産クモ類」を使いこなすためにはある程度の知識や経験が必要だが、カラー写真をメインとした「日本産クモ類生態図鑑」と併せることで、クモの知識があまりない方も利用しやすくなったと言えよう。

 それにしても、本書の写真のすべてを緒方清人氏が撮影しているというのは驚くべきことだ。クモの写真を撮ったことがある人なら分かると思うが、植物の上や網でじっとしているクモはともかく、徘徊性のクモはすばやく走り回って植物や石の陰に入り込むことが多く、静止している状態を撮影するのはとても難しい。サラグモ類やヒメグモ類などの小型の種の野外撮影も容易ではない。北海道から沖縄まで、日本全国を歩き回って857種ものクモを撮影するというのは並大抵のことではない。

 クモの写真図鑑でこれまで最も掲載種が多かったのは新海栄一著「日本のクモ 増補改訂版」(文一総合出版)の598種だが、新海氏がすべての写真を撮影しているわけではない。現在、日本で記録されているクモは1659種(日本産クモ目録2018)だが、857種といえばその半数を超える。一人でこれだけの写真を撮るというのは驚異的だ。長年の撮影の成果がこのような形で公表されることになった意義は大きい。

 思い返せば、私がクモに興味を持って調べ始めた頃(約40年前)は、クモの図鑑といえば八木沼健夫著「原色日本蜘蛛類大図鑑」(保育社)くらいしかなかった。ところが北海道のクモはこれに載っていないものがかなり多く、図鑑で分からない種は専門の方に標本を送って同定してもらうしかなかった。1986年には保育社の図鑑が「原色日本クモ類図鑑」に改訂され掲載種も増えたが、それでもこの図鑑で同定できない種が多くあった。

 そんな中で画期的ともいえる図鑑が、1989年に出版された千国安之輔著「写真日本クモ類大図鑑」(偕成社)だった。北海道から沖縄まで540種のクモの雌雄と生殖器の写真が載ったこの図鑑は、保育社の図鑑だけでは同定が困難だった多くのクモの同定に役立った。特徴的なクモを除き、クモの同定には実体顕微鏡による生殖器の確認が欠かせないが、生殖器の写真はほんとうに有難かった。

 そして小野展嗣氏の尽力により、2009年に「日本産クモ類」が出版され、ようやく既知種すべての生殖器の図が掲載された図鑑が登場した。これによって、それまではあっちの図鑑、こっちの論文とあちこちの文献に当たらねばならなかったクモの同定が格段に簡便、容易になった。この功績は計り知れない。

 他にも「クモ基本50」(解説・新海栄一、写真・高野伸二、森林書房)、「クモ基本60」(東京蜘蛛談話会)、「クモハンドブック」(馬場友希・谷川明男著、文一総合出版)、「ハエトリグモハンドブック」(須黒達巳著、文一総合出版)などのハンドブックが次々と出版された。また2年ごとにバージョンアップされる「CD日本のクモ」(新海明・谷川明男、安藤昭久、池田博明・桑田隆生)は国内での分布が一目で分かるし、バージョンアップの度に充実してきている。この40年間に夢のような進歩があった。

 昨年出版された「ハエトリグモハンドブック」はすでに三刷だという。写真を用いて一般の人にも分かりやすいように工夫されたクモ図鑑の出版によって、クモに関心を持つ人が増えているように思うが、実に喜ばしいことだ。
  


Posted by 松田まゆみ at 09:19Comments(0)クモ

2018年10月11日

新記事のお知らせ

「さぼろぐ」では「登録できない単語が含まれています」と表示されてアップできない記事をココログにアップしました。こちらからお読みいただけたらと思います。

http://onigumo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-302c.html
  

Posted by 松田まゆみ at 18:21Comments(0)メディア

2018年10月03日

えりもの森裁判差戻し審で過剰伐採を認定

 昨日10月2日にえりもの森裁判の1審差戻し審の判決があった主文は原告らの請求をいずれも棄却するというもの。

 この差戻し審では二つの違法伐採が問われていた。ひとつは売買の対象とした立木を上回る過剰な伐採がなされたということ。もうひとつは、伐区(10伐区)を超えて伐採が行われており越境伐採があったということ。原告らはこの二点について証拠を示して違法伐採を主張してきた。

 判決文では、過剰伐採について「本件地拵えに際し、一定程度、地拵えに必要な限度を超えた過剰な伐採(本件過剰伐採)があったことは否定できない」として、過剰伐採を認定する判断をしている。裁判で公有林の過剰伐採が認められたのは初めてのこと。

 しかし、越境伐採については「越境1は10伐区に含まれるから、本件越境伐採が行われたとは認められない」として越境伐採を認定しなかった。

 また、本件は違法な伐採により北海道の財産に損害を与えたとして当時の日高支庁長らに損害賠償請求を求めたものだが、支庁長の監督責任については「指揮監督の義務を怠ったとは認められない」として認定しなかった。

 原告としては、過剰伐採は認められたものの越境伐採が認められなかったのは納得できないので控訴をする方針で検討している。

 ということで、この裁判、来年も続くことになりそうだ。

  

Posted by 松田まゆみ at 14:36Comments(0)えりもの森裁判

2018年10月01日

シラカバの幹のムレサラグモとブチエビグモ

 ムレサラグモはシラカバなどのカンバやトドマツなどの幹に生息するサラグモで、斑紋は個体変異がある。成体は夏から秋にかけて見られる。かつては私の家の近くのシラカバ林でも簡単に見つけることができたのだが、近年はなかなか見つからない。どう見ても何らかの原因で減ってしまったとしか思えない。

 昨日、家からは少しはなれた場所のシラカバ林に行き、1時間ほど探してみた。何十本ものシラカバの幹を見てまわって見つけたのは雌4頭のみ。もっとも目視で確認できるのは自分の背の高さより少し上くらいまでで、幹の上部にいる個体までは見つけることができない。今の時期は雄は見ることができないが、やはり多いとは言えない。かつてトドマツの幹に群れるように多数の個体がいるのを見たことがあるが、近年はそんな光景は見たことがない。







 ムレサラグモを探していたら、やはりシラカバの幹の色にそっくりなブチエビグモを2頭見つけた。ブチエビグモは人家の壁や塀など人工的な環境で見ることが多いのだが、自然界ではシラカバの幹ととてもよく似た色彩をしていて、なるほどと思った。このクモも色彩変異があり、ブチ模様の鮮明なものとそうではないものがいる。







 写真は撮っていないが、他に見られたクモはムナグロヒメグモとイナズマハエトリ幼体。ムナグロヒメグモはシラカバの剥がれた樹皮の裏側に網を張っていた。

 クモではないが、カンバシモフリキバガもシラカバの幹に沢山いた。このガも色彩変異がある。実は、今年の春にシラカバの葉を巻いているガの幼虫を見つけて飼育したところ、羽化したのがこのガだった。これについては後日また報告したい。







  

Posted by 松田まゆみ at 21:33Comments(0)クモ

2018年09月24日

失われた東京湾の干潟

 前回の記事「下村兼史展と著書『北の鳥 南の鳥』」を書いたあとに、私は本棚から塚本洋三著「東京湾にガンがいた頃」(文一総合出版)を引っ張り出した。塚本洋三さんは今回の下村兼史写真展実行委員会の事務局長であり、野鳥や自然のモノクロ写真のライブラリーである(有)バード・フォト・アーカイブスを運営されている。今の時代にモノクロ写真を収集するという感性はなんとも塚本さんらしい。

 10年ほど前だったろうか、帯広の書店で自然関係の棚を見ていたら、「東京湾にガンがいた頃」というタイトルの本が目に飛び込んできた。塚本洋三さんの本ではないか。本のカバー写真は東京湾を飛ぶガンの群れのモノクロ写真。パラパラとページをめくれば在りし日の新浜の写真とともにそこで野鳥の観察に明け暮れた「新浜グループ」の様子が綴られている。私は迷わずに本を持ってレジに向かった。

 かつて東京湾にガンが群れていたなどといってもピンとこない人が多いと思う。今の東京湾といえば四角い埋立地が並び、湾岸道路が周囲を巡り、中央に横断道路すらある。かつての面影などほとんどどこにもない。しかし、60~70前には信じられないほどの豊かな自然が息づいており、遠浅の広大な干潟にはおびただしい野鳥が渡来した。といっても私はそんな東京湾を知らない。

 私が初めて新浜探鳥会に参加したときは1960年代の後半で埋め立て工事のさ中であり、広大な干潟に群れる野鳥の姿を見た記憶はない。新浜は1964年頃から埋め立てが始まっていたのだ。その時のことはこちらのエッセイで触れている。探鳥会のリーダーは高野伸二さん。その後、高野さんとは野鳥だけでなくクモの愛好者として交流させていただいた。

 塚本さんがはじめて新浜を訪れたのは1953年だという。私はまだ生まれていない。高野さんをリーダーとする新浜グループの中で最年少だったのが塚本さん。大学卒業後アメリカに渡った塚本さんが日本に戻られて日本野鳥の会に勤務されていたとき、かつての新浜の写真を見せていただいたことがあったのだが、私にとっては夢のようなそれらの写真がこの本には散りばめられている。

 かつての東京湾を知る人がどんどん減り、野鳥が群れ集った新浜の光景も忘れ去られようとしている中で、この本の出版はほんとうに嬉しかった。

 古き良き時代にすがっていたいわけではない。いくら過去に想いを馳せたところで、失われた自然は戻らない。しかし、過去の新浜、東京湾の記録を残し後世に伝えることは決して無意味ではない。東京湾の自然を破壊しつくした人類の愚かさをかみしめるためには、過去の記録を辿るしかないのだから。

 表紙カバーの内側には「東京湾の変遷」と題して「1950年頃」、「1970年前後」、「1980年ごろ~現在」の三枚の小さな地図が並んでいる。江戸川放水路から江戸川に挟まれた「新浜」の変遷を物語る地図だ。

 新浜グループが探鳥を楽しんでいた頃は、おそらく1950年頃の地図の状態だったのだろう。地図には地先に干潟が示されているが、この頃の海岸線はすでに自然のままの海岸線ではない。本でも説明されているが、海と内陸は堤防で区切られており、遠浅の東京湾はだいぶ前から人が干拓をして水田や塩田として利用していたことがわかる。新浜グループの探鳥の道はその堤防の上だったそうだ。堤防の海側には潮が引くと広大な干潟がどこまでも続き、陸側には水田が広がり葦原などの後背湿地もあった。春と秋の渡りの季節にはシギやチドリが干潟に降り立ち、冬になるとマガンやサカツラガンが群れをなして渡ってきていたのだ。

 私が新浜に頻繁に通うようになった学生時代には地下鉄東西線ができていて、かつて広がっていたであろう水田は埋め立てられ殺伐とした風景が広がっていた。野鳥を見る場所は、御猟場横の堤防で囲まれた干潟や荒涼とした埋立地、そして江戸川放水路周辺のわずかな干潟や水田、ハス田だった。かつて新浜グループのメンバーの通り道だった堤防は御猟場周辺に残るのみで、海岸の埋め立て地は工場や倉庫などが並んでいて立ち入りができず、海すら間近に見ることができなくなっていた。

 新浜では埋め立てから野鳥の生息地を守ろうと新浜を守る会などによって保護運動が展開されたが、御猟場に接する一部を保護区として残すことで終止符が打たれた。「1970年前後」の地図の少し後が私が通った新浜だ。浦安には大きな埋立地が造られていてオリエンタルランドと呼んでいた。後年そこにディズニーランドができるとは思いもしなかった。

 ネットで公開されている国土地理院の地形図から過去の空中写真を見ることができるが、その変貌には息をのむ。現在は、行徳一帯は住宅地と化しその中に新浜の野鳥保護区と谷津干潟が切り取られたように残されている。私の学位生時代には残っていた江戸川放水路沿いの水田やハス田はもうどこにもない。今となってはかつて歩いた場所がどこなのかも分からないだろう。

 今では江戸川放水路河口沖合の三番瀬と呼ばれる浅瀬が東京湾最大の干潟だというが、往時の干潟から見たら干潮時の干出域はわずかのようだ。私は行ったことはないが、「ふなばし三番瀬海浜公園」の前に広がる干潟は人工的に造られたものだという。三番瀬では干潟の再生が試みられているようだが一度失われた自然を復元することは容易ではないし、人と自然が共生していたかつての新浜の姿は決して戻ってはこない。

 日本は海に囲まれているが、干潟はどこにでもできるというものではない。川の河口や湾などに堆積した砂泥が、潮汐によって現れたり海に没したりする場所が干潟だが、遠浅で波の影響が少ないところにしか発達しない。日本で屈指の干潟といえば有明海だが、かつての東京湾もそれに並ぶ広大な干潟だったのだ。

 有明海の諫早湾にも学生時代に2度ほど行っている。新浜と同じく干潟と陸地は長大な堤防で区切られていて、低湿地が古くから干拓されてきたことを物語っていた。それでも、あの頃はまだ干拓地の先には汀線も霞んで見えないような干潟が広がっていたのだ。その諫早湾の干潟も今は例のギロチンと呼ばれる潮受け堤防によって消えてしまった。

 人間の果てしない欲は、自分たち以外の生物やそれをとりまく環境にまで想いを寄せることができなかった。経済成長の掛け声の中で、生物多様性に富むこの貴重な干潟をつぎつぎと潰した人間の愚を私たちは決して忘れてはならないと思う。


  


Posted by 松田まゆみ at 23:34Comments(0)自然保護

2018年09月18日

下村兼史写真展と著書「北の鳥 南の鳥」

 今月の21日から26日まで、山階鳥類研究所主催の下村兼史氏の写真展があることを思い出した。残念ながら遠い上に諸事情で行くことができない。もし興味をお持ちの方がいたらと思い、紹介しておきたい。

【タイトル】ー下村兼史生誕115周年ー 100年前にカワセミを撮った男・写真展
【会期】2018年9月21日(金)〜26日(水)11-19時(最終日16時まで)
【会場】有楽町朝日ギャラリー(東京 JR有楽町駅前マリオン11F)
【入場料】無料
【主催】公益財団法人山階鳥類研究所

 詳しくはこちらを参照していただきたい。

 下村兼史氏ですぐに思い出すのは「北の鳥 南の鳥 改訂版」(三省堂)という北千島、三宅島、奄美大島、小笠原での野鳥の観察記録を収めた本だ。若い頃に古書店で入手したが、今も大切にしている。奥付を見ると昭和17年9月30日に改訂版初版が発行されている。太平洋戦争のさなかの出版だ。

 この時代の本を持っている人は少ないと思うが、もちろん紙は茶色く変色し、字体は旧字体ですこぶる読みにくい。当時の本としては珍しいと思うのだが8ページの口絵写真があり、下村氏が撮影した野鳥の写真に目を見張った。今のように写真機も発達していなかったであろうこの時代に、野鳥の生態写真を撮っていたことに驚嘆する。

 私がとりわけ惹かれたのはもっともページ数が割かれている「北千島の鳥」だった。下村兼史氏の観察眼も知識も写真もすばらしいが、文章も上手い。細やかな情景描写は見知らぬ北の島の自然を活き活きと描きだしている。この本は野鳥観察記録であると同時に珠玉のエッセイでもある。

 私が野鳥に興味を持ち始めたのは小学校高学年の頃で、中学校、高校はもっぱら市街地の緑地や高尾山などで野鳥を見ていたのだが、大学に入ってからは干潟に渡ってくるシギやチドリなどの水鳥を見ることに夢中になっていった。シギやチドリの多くは日本より北のツンドラなどで繁殖し、冬は雪のない暖かい地域に移動する渡り鳥だ。日本の干潟で越冬する種もいるが、多くは日本を通りこしていく。つまり、日本の干潟や湿地は彼らの渡りの中継地にすぎない。

 しかし、シギやチドリが渡ってくる干潟や湿地は開発等で埋め立てられ、どんどん消失していた。私は日本各地の干潟を訪れては、彼らに迫りくる危機を憂い、彼らの故郷である北国の湿地に想いを馳せた。そのシギやチドリの繁殖地の光景がこの本にはありありと描かれており、「北千島の鳥」は何度も読んだ。

 下村兼史氏が野鳥の観察に赴いた当時は北千島は日本の領土であり、火山島のふもとにある沼沢地ではシギやアビ、シロエリオオハムなどが繁殖していたのだ。下村氏の観察記録を読めば、パラムシル島の南部の海岸近くには湿原が広がり、毎日のように深い霧に覆われて肌寒く、野鳥観察は容易ではないことが分かるのだが、一方でそんな厳しい自然の中で子育てをする野鳥たちのことを想像しては心をときめかせた。

 ところで、ウィキペディアによると下村兼史氏が北千島に行ったとき(1934年、1935年)は農林省の職員だった。そんな彼がどういう理由でカムチャッカ半島に近い北辺のパラムシル島にまで野鳥の観察に行ったのかずっと不思議に思っていたのだが、以下の山形県立博物館研究報告にある「下村兼史が北千島パラムシル島で採集したツノメドリFratercula corniculata卵標本の採集日の検証」という報文によってその謎が解けた(余談だが、この著者のうち3人は知っていて懐かしい。お一人が故人になられたのはとても残念だが)。

山形県立博物館研究報告第34号

 それによると、山階芳麿氏が鳥類の標本の収集のために下村氏をパラムシル島に派遣したそうだ。そして、そのときの標本が山階鳥類研究所と山形県立博物館に所蔵されていることも知った。今でこそ野鳥を銃で撃って標本にしたり、巣から卵を持ち出して標本にするなどということは考えられないが、当時は研究のためにそういうことも普通に行われていたのだ。それにしても、あの時代に野鳥研究のためにパラムシル島に渡り、生態写真を撮ったり標本を収集したという事実に、今さらながら驚かされる。

 下村兼史氏の作品でもう一つ思い出すのは、「或日の干潟」という映画だ。これは私が東京にいた頃に上映会があって観に行ったことがある。だいぶ昔のことなのでうろ覚えだが、下村氏の地元でもある有明海の干潟の生き物を追った名作だった。古い映画なので画像は雨降り状態だったが、広大な干潟や群れ飛ぶシギやガンの映像は圧巻だった。失われた日本の自然や風物詩を捉えた貴重な作品だ。

 下村兼史氏(1903-1967)が生まれてから115年、パラムシル島に赴いてから84年、そして亡くなってから51年の歳月が流れた。日本の干潟や湿地の光景は一変しシギやチドリなどの渡り鳥の数は激減したが、パラムシル島にはまだ84年前と変わらぬ風景が広がっているのだろう。

 没後51年なら、ちょうど著作権が切れたことになる。いつか、「北の鳥 南の鳥」を新字体でネットにアップできたらなどと思っている。
  


Posted by 松田まゆみ at 10:11Comments(0)野鳥

2018年09月15日

ぎっくり腰と労作性頭痛

 今日は秋晴れのすがすがしい天気だったので、昼食後に庭の草取りをすることにしたのだが、昨年種を蒔いた宿根かすみ草が大きくなりすぎて邪魔になったので草取りの前に引きぬくことにした。ところが、かすみ草の根は直根でかなり深く地中に伸びている。ちょっと引っ張ったくらいでは抜けない。

 根のまわりを少し掘ってから根元をつかんで引きぬこうとした瞬間、背中にギクっときた。「あらら、やってしまった!」と思いつつその場に尻もちをついてへたり込んだ。1、2分そのまま動けずにいたのだが、そろりそろりと立ちあがったら何とか歩けるようだ。私はぎっくり腰というのは経験がないのだが、恐らくぎっくり腰ではないかと思う。

 重い物を持ち上げたときなどにぎっくり腰になるとよく言われているが、引きぬく動作でもなるのかとちょっとびっくり。しばらくはそろりそろりの生活になりそうだ。

 ところで、今年の夏は労作性頭痛というものに見舞われた。窓を外して拭き掃除をしていた連れ合いが、元通りに嵌めるのを手伝ってほしいと言う。窓といっても高断熱ペアガラスの大きな窓なのでとても重い。少し腰をかがめ思いっきり持ち上げようとした瞬間、これまで経験したことのないズキンという強烈な頭痛に襲われた。

 突然の頭痛に脳卒中ではないかと焦ったが、会話もできるし体も動く。どうやら脳卒中ではなさそうだ。そして、ネットで調べていくうちにこちらのブログを見つけた。症状が全く同じなので、労作性頭痛であるという結論に達した。それなら病院に行くこともないだろうと思って様子を見ることにした。

 労作性頭痛は重い物を持ち上げるときや激しいスポーツをしたときに起き、「重量挙げ頭痛」とも言われている。脳の血圧が一気に上昇して血管が圧迫されることで起きるらしい。そう言えば、思っていたより重かったので、持ち上げるときに無意識に息をとめてお腹に力を入れたようだ。

 じっと座っているなど体を動かさなければ痛みはないのだが、立ちあがったり歩いたりするとズキンズキンという頭痛に襲われる。それがおよそ2週間続いた。この間はずっとそろりそろりの生活を余儀なくされた。その後、次第に回復して3週間後には症状がほぼ消えたが、重い物を持ちあげるときは要注意だと思った。

 そんなことがあってから重い物を持ち上げることには注意していたのに、今度は「引きぬく動作」で腰を痛めてしまった。今まで「引きぬく動作」で腰痛になったことはなかったので、これもちょっとびっくり。歳とともに力仕事は気をつけねばと痛感した。
  
タグ :労作性頭痛


Posted by 松田まゆみ at 17:19Comments(2)雑記帳

2018年09月09日

再び「暗闇の思想」を

 今日の北海道新聞によると電気がほぼ復旧した昨日はスーパーマーケットやコインランドリーに大勢の人がつめかけたそうだ。流通はかなり回復してきているが、生鮮食料品などは売り切れたり入荷していないものも多いらしい。

 北海道の全域が停電するというブラックアウトから2日ほどで電気がほぼ復旧したのは幸いだったが、新聞記事を見ながらいろいろ考えさせられた。

 地震直後はコンビニでもスーパーでも食品の棚が空になったようだが、1日とか2日分の食品すら備蓄していない人が多いことに驚いた。私たちはほんの7年前にあの東日本大震災を経験している。その後も熊本をはじめとして大きな地震が何度も起きているし、集中豪雨や台風の被害も経験している。東日本大震災以来、3日分ほどの水と食料の備蓄が呼びかけられていたのに家に食べ物がない人がそれなりにいるのだから、防災意識に欠けている人がまだまだ多いのだろう。

 さらに驚いたのは、たった2日程度の停電でコインランドリーに人が押し掛けるという現象。災害で停電中という非常時なのに普段と同じようにこまめに着替えをし、洗濯物の山をつくっている人もいるようだ。電気が通じたとはいえ、供給はぎりぎりで節電を呼び掛けているというのに電気消費量の多い乾燥機を使うという神経は私には理解しがたい。

 現代人の多くは「電気は使いたいときにいくらでも使えるのが当たり前」「電気がない生活は考えられない」という感覚なのだろう。

 私が子どもの頃は電化製品が次々と普及していった時代だったが、それでも日本人の電力消費量はさほど多くはなかったと思う。ほんの数十年の間に私たちは電気を湯水のごとく使う生活が当たり前になり、湯水のように使えるほど電気が供給されるのが当たり前になった。しかし、ちょっと発想を転換すれが、まだまだ節約ができるのではないかと思えてならない。電子レンジも衣類乾燥機もない時代だって、そんなに不便ではなかったのだから。

 停電になると私は松下竜一氏の「暗闇の思想」を思い出す。東日本大震災の翌年に私はこんな記事を書いている。

今こそ意味をもつ松下竜一氏の「暗闇の思想」

 2日や3日の停電で右往左往する現代人は今一度、ここに引用した松下氏の「暗闇の思想」を読んでみたほうがいいように思う。1974年に書かれたものだ。ということで、再びここに転載しておきたい。

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 あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力をも含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。二年を経ずに、これは深刻な社会問題となるであろう。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱり答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。

 今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当に星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の想いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何かしら思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。

 電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならないという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造論政策遂行を意味している。年10パーセントの高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電気需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならないという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに-誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。

(中略)

 いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。冗談でなくいいたいのだが「停電の日」をもうけてもいい。勤労にもレジャーにも過熟しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自律的なものでなければならぬという予感がしている。(松下竜一著「暗闇の思想を」朝日新聞社刊、158-161ページ)


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 日本は災害列島だ。プレート境界に位置する日本は海溝型の大地震にいつ襲われてもおかしくない。熊本地震や大阪の地震、今回の胆振東部地震のような直下型地震や台風被害なども間違いなく起きる。これからも私たちは何度も停電を経験することになるだろう。そんなときに電力会社に怒りをぶつけたり、国などの支援に頼っているだけではあまりにもお粗末ではないか。災害列島に生きている以上、「電気がなくても数日は生きられる」ようにしておかねばならないと思うし、停電のときこそ不平不満を言うのではなく、電気に頼り過ぎの生活を見直す日にできたらいいと思う。

  


Posted by 松田まゆみ at 14:54Comments(4)雑記帳