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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱

2018年08月13日

「お盆休み」をなくして融通性のある「夏休み」に

 今年もお盆の季節がめぐってきた。ニュースではいつもと同じ、お盆の帰省ラッシュが報じられている。高速道路は渋滞、飛行機も列車も満席・・・。お盆の期間は航空券もぐっと高くなるし、予約も大変。ホテルなども早くから満室。

 毎年このニュースを耳にする度に、「お盆休み」という考えを変えた方がいいのではないかと思ってしまう。たしかに「お盆」というのは古くから受け継がれてきた風習だし、それを大事にすることは否定しない。

 でも、時代とともに私たちの生活様式も確実に変わってきている。「お盆休み」といっても宗教的な行事から里帰りや旅行を楽しむ「夏休み」へと変わりつつあるのではなかろうか。夏休みに家族で里帰りしたり旅行をするのならば、お盆の時期に拘る必要もないのではと思う。私は無宗教であり信仰はないので(昨今はそういう人も増えているのではないかと思うが)、お墓参りもお盆やお彼岸にこだわらなくていいと思っている。

 ヨーロッパの人々は夏になると時期をずらして長期間のバカンスをとるというが、交通機関や宿泊先の混雑を緩和させるために当然のことだろう。ホテルだって満遍なくお客さんに入ってもらえたほうがいい。日本でも夏休みを分散させれば里帰りや旅行がお盆の一時期に集中することは避けられる。企業も公務員も「夏休み」にもっと融通性を持たせるべきだと思うのだが、どうしてそれができないのか不思議でならない。

 「正月休み」も同じだ。昔とちがって昨今はお正月もさほど風習にこだわらなくなってきている。例えば、私の子どもの頃は正月といえばお店はどこも閉まり、三が日はおせち料理とお餅を食べて過ごしたが、今は元旦からお店が開いているし、お正月の習慣も薄れてきている。おせち料理も買って済ませる人が増えてきているし、お正月も普段の生活とあまり変わらなくなりつつあるように思う。

 だったら、なにも年末年始に拘らず、「冬休み」をつくればいいのではないかと思ってしまう。北海道では年末年始に大雪や吹雪に見舞われると、交通機関が乱れて大変なことになる。豪雪や吹雪の中の渋滞は事故にもつながる。もちろんお正月に帰省したい人はすればいいのだけれど、「冬休み」制にしたなら、混雑する時期に移動したくない人は大助かりだろう。

 人々の生活が変わっていくのだから風習も変えればいいと思うのだが、伝統的なものは変えたくないという人が多いのだろうか。

  

Posted by 松田まゆみ at 16:47Comments(0)自然・文化

2018年08月09日

メサイアコンプレックスという歪んだ心理

 先日、ある方がメサイアコンプレックスと思われるご婦人のことをブログで話題にしていた。メサイアコンプレックス(メサコン)とは、簡潔に言うなら、自分を肯定したり満たすために他者を助けようとする人のことだ。人は他者から感謝されれば気持ちがいいものだが、メサコンの人は、その気持ちよさに浸ることで自分の精神の安定を図ろうとする。

 困っている人を助けることはもちろん悪いことではない。しかし、その目的が自分の価値を見いだすためであれば、歪んだ心理というほかない。メサコンにとっては「他者を助ける」という行為はあくまでも自分の承認欲求を満たすための手段でしかない。これでは真の援助とは到底言えないし、それどころか相手は望んでもいないことを押しつけられたあげく利用されるのだから、人間関係は間違いなく悪化する。

 メサイアコンプレックスですぐに頭に浮かぶのは、「暴力をふるう男性と結婚した挙句に破綻して離婚」を繰り返してしまうような女性だ。このような女性は「この人には私が必要」と勝手に思い込んでかいがいしく世話をやくのだが、真の目的は世話をやくことで自分の価値を見いだそうとすることにある。ところが、いくら世話をやいたとしても他人を変えることなどできないし、それが相手にとって迷惑なら敬遠されるだけだ。男性が暴力的な人であればいくら尽くしても感謝されないし暴力は止まらない。そして結果的に破綻してしまう。

 相手の男性が暴力的ではなく女性の世話を受け入れた場合は、男性を自分に依存させることになる。相手の欠点を指摘して「私がいないとダメ」といっては、自分に依存させる。そして、自分が満足感を得るために相手を利用しつづけることになる。いわゆる共依存だ。しかし、この状態が続くと、男性は次第に煩わしくなって嫌気がさしてしまうだろう。結局、うまくいかない。もちろん男性がメサコンという場合もある。

 一度失敗をしたならその経験から学びそうなものだが、メサコンの人は再び同じような人と結婚をしてしまうことが多い。なぜなら、自分に問題があるとは全く考えないからだ。他者を助ける行為は善意であり思いやりだと思い込んでいる。相手にとっては迷惑でしかないことも、メサコンの人には理解できない。

 もうひとつメサコン・共依存で思い浮かべるのは、子どものことにすぐに口出しをして子どもを支配しようとする親だ。子どもが自分ですべきことでも親が代わりにやってしまうことで自分の存在意義を感じようとする過干渉な親。子どもの欠点をあげつらって「お前はダメだ」と思い込ませ支配しようとする親。そうやって自分の精神の安定のために子どもを利用してしまう親は意外と多いのかもしれない。

 メサコンの人の最も厄介なところは、「自覚がない」ということだ。本人は「自分は親切で善いことをしている」としか思っていない。単刀直入に、「あなたがやっていることは親切の押し売りであり迷惑」だとはっきり伝えても、まったく理解しようとしない。それどころか「迷惑だという相手がおかしい」などといって相手を悪者にしてしまう。こうなると何を言っても通じない。結局信頼を損ね、人が離れていくことになる。

 友人などに「苦しい」「辛い」と訴え、「自分が苦しいのは○○のせい」と嘆く人はメサコンである可能性が高い。「かわいそうな私」と「悪いあの人」をアピールすることで、励ましてもらったり応援してもらいたいのだ。そういう人を見かけるとつい同情して援助しようとする人がいるが、その結果どうなるか・・・。「苦しい」と訴える人は依存できる相手を探しているのだから、援助をしようとする人が精神的に自立していないと取り憑かれてしまう。そして、承認欲求を満たすために徹底的に利用される。

 その結果、精神的にボロボロにされて離れざるを得なくなる。ところが攻撃性が強い人だと離れようとする相手を非難したりストーカーのようにつきまとったりしてコントロールしようとする。これがメサコンの恐ろしいところだ。

 メサコンの人は、他者に依存して満足感を得れば幸福になれるのかといえば、そんなことはない。もちろん他者から認めてもらったり感謝されたら、その時は安心感や優越感が得られるだろう。しかし、その安心感や優越感を得つづけるために永遠に依存する相手を探し求めることになる。他者に依存しようとすればトラブルになってしまうことは前述した。つまり、対人関係のトラブルを繰り返してストレスを溜めることになる。メサコンは誰も幸福にしないどころか自分も不幸にする。

 メサコンの人は劣等感が強いと言われているが、精神的に安定するためには自分がメサコンであることに気づき、自分自身を変えていくしか根本的解決はない。ところが、不幸なことに大半の人は自覚ができない。つまり不幸から抜け出すことができない。お気の毒というしかない。

 もし自分が、他人から認めてもらわないと安心できない(承認欲求が強い)タイプ、あるいは日頃から不平不満を言ってはそれを他人のせいにするタイプだと思うなら、メサコンかもしれないと疑って自分自身を見つめ直すことをお勧めしたい。自分で気づいて改善しようと努力しない限り、メサコンの人が幸福になる道はないと私は思っている。



  

Posted by 松田まゆみ at 21:07Comments(0)雑記帳

2018年08月05日

猛暑と暑さ対策

 北海道に住んで40年弱になるが、私にとって夏が涼しく夏バテにならないというのはとてもありがたい。考えてみたら、東京にいた頃は毎年夏バテで辛い思いをしていた。あの頃はまだ暑いといっても最高気温は32度とか33度くらいが普通だったのだから、昨今の35度を超えるような暑さなら堪らないだろうと思ってしまう。

 といっても子どもの頃は夏バテをしたという記憶はない。30度を超えるような日も外遊びをしていたし、食欲が落ちたりはしなかったと思う。ところが、いつからか夏がとても苦手になった。夏バテで思い当たるのは、家を建てて引っ越したこと。

 普通、家を建てて引っ越したなら居住環境が改善されそうなものだ。ところが私の場合は違った。家を建てるに当たって、父は洋風の外見にこだわり屋根をトタン葺きにした。2階の子ども部屋はそのトタン屋根の直下。当時の住宅は断熱材などほとんど入っていないのが当たり前だったので、夏になるとジリジリと熱したトタン屋根によって2階は猛烈な暑さに見舞われることになった。

 室温を測っていなかったので何度くらいだったのか分からないが、おそらく外気温よりかなり高かったと思う。35度以上あったのではなかろうか。当時は一般家庭ではクーラーなどまずなかったので我慢する他ない。あまりに暑いので、夏休みなどは夜遅くまで起きていて夜明け前くらいに寝るようにしていたこともあったが、陽が昇るとどんどん室温が上がって眠っていられなくなる。そんな環境で過ごしていたことが夏バテに関係していたのではないかと私は疑っている。

 私が北海道に来た後に実家では増築をした。ダイニングキッチンを南側に張り出す形で増築したが、この部屋もトタン屋根ですぐに暑くなる。ゆえに、すぐにクーラーを取り付けたようだ。また、私が使っていた2階の部屋は父が使うようになったのだが、父は即、クーラーを取り付けた。

 母はあまりクーラーを好まない人だったが、あまりに暑いとダイニングキッチンのクーラーをつける。ところが、しばらくして涼しくなると「電気代がもったいない」とばかりに電源を切って窓を開け放つ。クーラーを切るとすぐに部屋が暑くなるから窓をあけて風を入れたほうがいいと言う。日中の暑い時間帯はクーラーの設定温度を高めにしてずっとつけていればいいのにと思うのだけれど、高齢者はすぐに節約ばかり考えてしまうのだろう。

 話しは変わるが、今住んでいる家を新築するにあたってもっとも拘ったのは高断熱・高気密住宅だった。私が北海道に来たころは、高断熱・高気密住宅はまだそれほど普及していなかった。断熱材がろくに入っていない古い住宅の場合、狭い家でも1日10リットルくらい灯油を炊くことになる。二日で千円札を1枚燃やしているような勘定で、北海道は大変なところだとつくづく思った。しかも長時間家を空けたり夜にストーブを消せばすぐに氷点下になってしまう。数日旅行をしている間に、調味料まで凍りかけたこともあった。北欧やカナダなどでは高断熱・高気密の家が当たり前なのに北海道はずいぶん遅れていると思ったものだ。

 そこで家を建てる際には多少高くついても高断熱・高気密住宅にしようということで、壁にも天井にも20センチのグラスウールが入っている外断熱工法を選んだ。窓は高断熱ペアガラス。その結果、住宅の体積が以前の3倍以上になったのに、灯油使用量は以前より少なくて快適な生活ができるようになった。1台のストーブで家中が暖かく、トイレや浴室で寒さを感じることもない。真冬に3日くらい留守にしても、室温は10度くらいまでにしか下がらない。高断熱・高気密住宅というのは夏も涼しいし冷房の効率もいい(私のところではクーラーはないし、必要もない)。

 東京の実家に帰るたびに感じたのは、本州の住宅の気密性・断熱性の悪さだ。朝目覚めるとスズメの声がまるで外にいるかのように聞こえてくる。だから、暖房をしても冷房をしても効率が悪い。それだけ熱が外に漏れてしまっているということに他ならない。

 高断熱・高気密住宅に住んでみて、なぜ本州でもこういう工法がなかなか普及しないのだろうかと不思議でならない。建築費が高くなるとはいえ、おそらく暖房費や冷房費は相当な節約になるはずだし、何より快適な生活ができる。節電になれば温暖化防止にも寄与するだろう。節電の面からも高断熱・高気密住宅を増やしていくべきだと思う。

 とは言うものの、既存の住宅をすぐに高断熱・高気密にするわけにもいかない。ならば、よしずなどを利用してできるだけ涼しく過ごす工夫も大事だ。エアコンも室外機によしずを立てかけたりカバーをかけて日陰にするだけでも効率が良くなるという。

 エアコンの電気代を抑えるには、「外気温と設定温度の差が大きい時には自動運転でつけっぱなし」「30分くらい出かけるような場合もつけっぱなし」が良いそうだ。また、高めの温度設定でも扇風機と併用すれば涼しくなるとのこと。フィルターもこまめに掃除しないと効率が悪くなるとのことなので要注意。

 節電ではないが、熱中症対策として外出時の日傘もお勧めしたい。以前は日傘といえばご婦人専用だったが、今は男性用の日傘もある。私も日傘をつかってみて、その涼しさを実感した。老若男女問わず日傘はとても有用だと思う。

 昨今の異常気象や猛暑はもちろん地球温暖化が関係しているのだろう。とするなら、今後も猛暑が続くことになる。化石燃料の大量消費をなくして再生可能エネルギーに転換していくことは必須だが、同時に猛暑対策もしていかないと健康が脅かされかねない。
  
タグ :猛暑


Posted by 松田まゆみ at 14:53Comments(0)環境問題

2018年07月31日

スズメバチ駆除

 私の住んでいるところはスズメバチが比較的多いが、今年は二階のベランダの下に巣をつくってしまった。野生の生物はあまり駆除などしたくないのだが、ここは通路の下なので仕方なく退治することにした。





 いつもならまだ女王蜂しか出入りしていない小さい段階で巣を見つけるのだけれど、すでに時遅しで働き蜂がたくさん出入りしている。こんなに大きくなるまで全く気がつかなかったとは自分でも呆れてしまうが、人は歩くときに上なんて全く気にしていないということなのだろう。

 夜になってからレインウェアー上下、ネット付き帽子、長靴、ゴム手袋で完全装備をした上で巣の入口に殺虫剤を吹き付け、全体にも散布した上でポリ袋に入れ、念のために踏みつぶして駆除終了。蜂が出てきて攻撃されることもなく終わった。

 このスズメバチは小型で腹部に細い黄色の縞がある。スズメバチはいろいろな種類があって同定が難しいのだが、シダクロスズメバチではないかと思われる。シダクロはスズメバチの中でも比較的おとなしく攻撃性が強くないので、頭の上を飛び交っていても気づかなかったのだろう。





 蜂ではないけれど、庭でスナップエンドウを収穫していたらゴマフアブに襲われた。吸血性のアブで、刺されると痛い。ブユやらアブやら、今年は吸血性の昆虫が多い気がする。このゴマフアブ、よく見ると翅はきれいなすかし模様が入っている。昆虫の模様はとても繊細で美しいものが多い。




  

Posted by 松田まゆみ at 15:01Comments(0)昆虫

2018年07月22日

貧乏ではなく無駄のないシンプルな生活を

 2017年に中日新聞と東京新聞に掲載された「平等に貧しくなろう」というタイトルの上野千鶴子さんのインタビューはしばしば批判されてきた。以下参照。

この国のかたち 3人の論者に聞く(東京新聞)

 簡単に言うなら、少子高齢化で労働人口が減る中で移民を受け入れられない日本人は人口減少と衰退を引き受け、平等に緩やかに貧しくなっていけばいい。国民負担率を増やし、再配分機能を強化する社会民主主義的な方向をとるべきだという主張だ。

 上野さんの主張には賛同できるところとできないところがある。私は成熟した(というより行きづまった)資本主義社会ではもう成長は見込めないという考えはその通りだと思う。資本主義の抱える危機的状況や終焉に関しては水野和夫氏が「資本主義の終焉と歴史の危機(集英社新書)で説明しており、私も水野氏の指摘は正しいと思う。もはや日本は経済成長をする余地はなく、水野氏の指摘のように定常経済に移行するほかなかろう。

 上野氏の主張のうち移民問題は措いておくとしても、人口減少を引き受けるというのは少子高齢化が歴然とした事実である以上、他に選択肢はない。これだけ格差が広がっているのだから、再配分機能を強化するというのもごく真っ当な主張であり、これはすぐにでも実行に移すべきだろう。

 ただし「衰退」という言葉は適切とは思えないし、「平等に貧しくなっていく」という考え方も賛同できない。

 上野さんを批判している人の多くは「衰退」とか「貧しくなる」という主張に納得ができないのだと思う。上野さんがどんな意味合いで、あるいはどんな理由で「衰退」とか「貧しくなる」という言葉をつかったのかは分からないが、多くの人は「衰退」という言葉に数十年前の生活をイメージし、「貧しい」という表現を「貧乏」と捉えたのではなかろうか。

 経済成長が止まるだけでなくどんどんマイナス成長になっていくのなら、「衰退」とか「貧しくなる」というのも分かる。しかし、成長もしなければマイナス成長にもならない「定常」なら「現状維持」であり「今より貧しくなる」ということにはならない。そして私はこの「定常」ないしは「ごくゆっくりとした成長(進化)」が生物としての基本だと思っている。

 限られた資源を浪費しつづけ、人口が増え続けたら地球は持たない。地球上で供給できる食糧自体に限りがあるのだから、人口もいつか減少に転じざるを得ない。化石燃料の大量消費と搾取によってもたらされた高度経済成長は、長い人類の歴史から見たらきわめて異常な状態だ。

 もし一種の生物が地球の資源をどんどん使っていけば地球環境のバランスは間違いなく崩れてしまう。地球温暖化、鉱物等の採掘による環境汚染、石油製品によるゴミ問題、環境破壊による種の絶滅などすべて現実のものとなっている。近年はマイクロプラスチックなどによる環境汚染も明らかになってきており、プラスチックを減らす取り組みが世界的に進められているのが現状だ。

 限りある地球の資源を守り地球上の生物が共存していくためには、資本主義の経済成長神話から抜け出すしかない。地球上で資源を使い放題にし、環境を破壊・汚染している生物はヒト一種しかいない。化石燃料の大量消費から始まった高度経済成長は、人の欲や驕りの象徴だったのではないか。その結果もたらされた環境汚染や異常気象が人類の首を絞めはじめている。ならば、定常経済での人類の幸福を考えていくしかない。そのためには化石燃料や原発から再生可能エネルギーへ転換し、無駄をなくしできる限りシンプルな生活を営むことが求められる。

 私の幼児期はまださほど物質的に豊かとは言えなかった。生活用品や衣類なども必要最低限しか持っていない家庭が大半だったのではないかと思う。洗濯機や冷蔵庫、テレビといった家電が急速に普及したのも私の幼児期以降だ。その後、あっという間に大量生産大量消費の時代に突入した。

 物が溢れるに従って、次々と新しい物を買い、使えるのに古い物は捨ててしまうという生活が当たり前になった。たとえば衣類ひとつとっても「必要」という理由ではなく単に「欲しい」「同じ服ばかり着ているのは恥ずかしい」「流行っている」などという理由から新しい服を買い、まだまだ着られる衣類を捨ててしまう人は多い。電化製品も自動車も携帯電話ですら短期で買い買える時代になった。何という無駄なのかと思うが、これが市場原理主義の現実だ。

 店先にはそう遠くない将来にゴミになるような商品が溢れている。使い捨て商品はもちろんのこと、すぐに飽きられてしまうような玩具や雑貨、過剰包装・・・。家電は新機能や利便性を謳って新商品が次々と売り出されるが、10年も使えば部品がなくて壊れても修理できない。

 ひとつの物を使えなくなるまで大事に使うということを徹底させるだけで相当の無駄が省けるし、資源の節約になるはずだ。「定常」で生きるというのはこういう浪費をやめるということに他ならない。しかし、これは決して「貧しい」ということではない。欲のなすままに物を買えるのが豊かな生活だと勘違いしている人もいるが、精神的な豊かさとは物の多さではない。

 「断捨離」がブームになったが、人々はようやくこのことに気づいたのだろう。高度経済成長で人々は欲しい物をすぐに買う生活を手に入れたが、家の中を見回せば使っていない物がいかに多いかに気づく。結局、生きていくために必要な物はそれほど多くないのだ。

 経済成長神話に嵌っている人の中には「成長がなければ若者は夢も希望も持てないのではないか」と言う人がいる。しかし、成長によってもたらされたものは環境破壊や環境汚染、電磁波などによる健康被害、異常気象、格差の拡大や利己主義、鬱や自殺の増加だ。生存基盤を脅かすことを続けてどうして夢や希望を持てるのか私には理解できない。精神的な豊かさや幸福というのは物の豊富さや利便性ではない。むしろ資本主義の発展とともに失われてきた人と人との信頼関係の中にこそ幸福があるのではないか。

 いつまでも経済成長を求めつづける人たちは、永遠に経済成長が続けられると本気で思っているのだろうか? 環境汚染や環境破壊が問題ないとでも思っているのだろうか? 私には不思議でならない。

 話しを元に戻そう。化石燃料がもたらした高度経済成長は物質的豊かさや利便性に寄与したが、一方で格差が広がり人々の憎悪感情は増した。資本主義は終焉にさしかかり、これ以上経済成長が続かないのは明らかだ。そして日本では否応なしに少子高齢化が進む。私たちが生き続けるためには富を再配分するとともに定常経済を保つしかないだろう。そして、私たちが目標とすべきは「平等に貧しく」というより「現状維持での平等」だ。

 ここでいう「現状維持」とは、衣食住に困ることなく現在の利便性の多くを享受でき、趣味や芸術、旅行などを楽しむ余裕もあり、教育や医療、福祉などの社会保障が整っている状態だ。もちろん格差をなくしすべての国民がそのような生活を享受できることが前提だ。充実した社会保障制度で高齢になっても病気になっても衣食住に困らない生活が保障されているなら、人は貯蓄に励む必要はない。

 無駄な公共義業をやめ、米軍への思いやり予算や海外へのばら撒きをやめ、仕事をシェアし、非正規雇用をなくして労働条件を改善し、大企業への優遇はやめて内部留保を放出させれば、定常状態での現状維持は不可能ではないと思う。

 私は「定常」が正常だと思うが、だからといって科学や科学技術がこれ以上発展しなくてもいいとは思っていない。化石燃料に頼らずに人類が生きていくためには再生可能エネルギーの普及は欠かせないし、そうした技術開発は続けねばならないだろう。また人々の知的好奇心もないがしろにしてはならない。ただし学問も科学技術も、一部の人たちが富を独占するための道具になってはならないと思う。

 定常経済の社会が具体的にどんなものになるのかは水野氏も分からないという。もちろん私にも分からない。しかし、産業革命以来の高度経済成長がもたらした負の側面にいつまでも目をつむっていたなら、自分たちの首を絞めるとともに未来の人たちへのツケを大きくするだけだ。
  


Posted by 松田まゆみ at 15:26Comments(0)政治・社会

2018年07月11日

集中豪雨による人的被害は防げる

 今回の西日本豪雨災害がいかに広範囲でしかも大きな被害をもたらしたか、その全容が明らかになりつつある。人的被害も大きいが、家屋の浸水被害のほか交通網や水道、電気などといったライフラインの被害もかなり大きいようだ。

 近年は異常気象による水害が毎年のように起きている。その度に避難の体制は万全だったのだろうかと思わざるをえない。大雨による災害は避難さえ徹底できれば命を落とすことはほとんどないと思うからだ。

 3.11の大津波のとき、私は家も田畑も何もかも飲み込まれていくあの映像を見て「あれだけ揺れたのだから、きっと避難しているに違いない・・・」と心の中で祈っていたけれど、信じがたいほど多くの犠牲者が出てしまった。その後も日本列島は熊本地震や集中豪雨に襲われて何人もの方が亡くなっている。災害大国であり、あれだけの被害を経験しながらなぜ避難が徹底できないのだろうか。

 日本の河川では、100年に1度とか数百年に1度くらいの大雨を想定してダムや堤防などの整備がなされている。しかし、それ以上の雨が降った場合はダムや堤防では対応できない。つまりダムや堤防で洪水を防ぐのは限界がある。限度を超えてしまえば堤防から水が溢れたり決壊するのだから、想定を超える雨が降る恐れがあれば避難するしかない。

 とりわけ川の流量を一気に増大させるのがダムからの放流だ。想定外の大雨によってダムが満水になると堤体を守るために放流せざるを得ない。ダムからの放流は鉄砲水となって流れ下り河畔林をなぎ倒して大量の流木を発生させる。大雨で普段より水かさが増している川にダムからの放流が加わったら、下流はとんでもない量の水と流木が押し寄せることになる。支流にいくつものダムがあるような河川の場合、それらが一斉に放流したなら、下流部の水かさは一気に増える。こうなると堤防から水が溢れるのは時間の問題だ。水が堤防から溢れると、そこから堤防が抉られて決壊につながることが多い。

 氾濫する場所の多くは過去にも水害を起こしている。とりわけ川の合流点は氾濫が起きやすい。本流の水位が上昇すると支流の水が飲み込めなくなり、本流から支流に水が逆流することもある。内水氾濫だ。今回大きな被害を出した倉敷市の真備町も、高梁川と小田川の合流点だ。そして、今回の浸水域とハザードマップの浸水域はほぼ重なっていたという。これは洪水被害が想定されていたということに他ならない。

 過去に内水氾濫が起きている場所でも、洪水経験のない住民たちは内水氾濫のことを知らない。ダムの放流が洪水被害を増大させることも知らない。ダム建設を推進してきた国や地方自治体などは放流の危険性についてほとんど口にしない。「ダムや堤防があるから洪水は防げる」という安全神話ばかりが吹聴され、危険性が住民に周知されていないのだ。原発とよく似ている。

 今は気象庁が雨雲の動きを公開していて大雨の予測は可能だ。大きな川には水量計が設置され、監視カメラもある。ダムにももちろん水位計があり、放流量も分かる。また、自治体は浸水や土砂崩れなどのハザードマップを作成している。今回の場合、気象庁は5日の午後2時に記者会見を開き記録的大雨になるとして警戒を呼び掛けた。こうした情報を活かして早め早めの避難を行っていたなら、これほどの人的被害は出なかったはずだ。

 自治体は日頃から住民にハザードマップを配布して注意を呼び掛け、危険が増したときにはどこに避難するのかを周知させる必要がある。河川管理者は川の水量やダムの放流量、それに伴う危険性を自治体に速やかに知らせ、自治体はあらゆる手段をつかって避難をよびかける必要がある。特に大雨が夜に及ぶ場合は早め早めの避難が欠かせない。さらに、一人暮らしの高齢者や体の不自由な方などを日頃から把握して避難の援助をする体制をつくっておかなければ弱者が取り残される。学校、病院、老人ホームなどの施設でも、避難の体制を整えておく必要がある。こうした体制づくりはそれほど大変なことだとは思えない。

 今回の災害に関しては救助や支援物資の輸送も遅いという印象を免れない。災害の発生が分かった時点ですぐにでも自衛隊が出動できるようにすることも、難しいことだとは思えない。今回は5日の日中に気象庁が警告していたのに、5日夜に安倍首相をはじめとした首脳陣は宴会をしていた。6日には各地で甚大な被害が出ていたが、非常災害対策本部を立ちあげたのは8日になってからだ。7日時点で救助などに活動に当たっていた自衛隊員は600人程度であり、21000人は待機していただけだったという(こちら参照)。国は危機管理や人命救助の意識が欠落しているというほかない。

 今回のように広範囲にわたって大きな被害が出た場合は、復旧にも時間がかかるし、ライフラインの寸断で住民の生活に大きな支障がでる。長引く避難生活で体調を崩す人も出るだろう。被災者への対策も欠かせない。これらは東日本大震災や熊本地震でも経験済みだ。地震活動も火山活動も活発になっており、日本はいつ再び大地震や大津波に襲われてもおかしくないというのに、いったいこの国はこれまでの災害から何を学んでいるのだろうか?

 このような水害が起きるとすぐに堤防のかさ上げや強化、河畔林の伐採や川底の掘削といった土木工事で対応しようとする。しかし堤防と堤防の間に水を抑え込む治水に限界があるから水害が起きるのだ。想定を超える大雨の場合は堤防から水が溢れることを前提にした対策を考えるしかない。

 今のような土木技術がなかった頃は、人は洪水を受け入れて生活をしていた。つまり河川と人の生活域を堤防で分離するのではなく、洪水が起きやすいところは遊水池や農地にするなどして共存してきたのだ。人が水をコントロールしようとすればするほど、それがうまくいかなかったときの被害は大きくなる。自然に大きく逆らうことなく暮らしていた昔の人たちの知恵こそ、私たちは学ばねばならないのではないかと思う。
  

Posted by 松田まゆみ at 23:03Comments(4)河川・ダム

2018年07月01日

蚊より厄介なブユとヌカカ

 このところ虫刺されによるかゆみに悩まされている。とりわけ夜になるとかゆみが増す。いつ刺されたのか分からないのだが、脚に20カ所近く、腕や上半身にも点々と刺された痕がある。

 その犯人が昨日判明した。いつもは庭の草取りは長袖、長ズボン、長靴のいでたちなのだけれど、昨日はとても暑かったのでつい半袖で草取りをしていたらブユが腕に寄ってきた。その後、家の中で脚を刺そうとしていたブユも捕まえた。10日ほど前からのかゆみはどうやらブユだったようだが、家の中にまで入ってこられると悲劇だ。

 ブユは刺されるときにほとんど痛みがない。しかも刺されてすぐかゆくなるわけではなく、しばらくしてから紅くなってかゆみが出てくる。刺されたことが分かっていたらインセクトポイズンリムーバーなどを使うと効果的なのだろうけれど、それがまずできない。気がついたときは刺されてからだいぶ時間が経っている。

 仕方がないのでステロイド入りのかゆみ止めを塗るのだが、薬を縫っても数日間はかゆみがとれない。ただし、塗らないでいると悲惨なことになる場合もある。以前、たかが虫刺されだからそのうち治るだろうと放っておいたらいつまで経ってもかゆみがとれず、掻きこわして数カ月も傷口が治らず酷い目にあったことがある。

 東京に住んでいた頃は、虫刺されといえば蚊だった。ところが北海道では蚊よりもブユやヌカカの方が大敵だ。

 ヌカカはブユよりも小さく、網戸の目もすり抜けてしまう。だから暗くなって明かりをつけたら窓は閉めるようにしている。夜の涼しい外気を入れて室温を下げたいときは、部屋の戸を閉め切り明りをつけずに窓を開けておくようにしている。これでヌカカの侵入はだいぶ防げる。

 ブユやヌカカが厄介なのは、刺されても気がつかないことが多く1週間くらいはかゆみがひかない点だ。しかも私の住んでいるところは蚊に刺されるよりブユに刺されることの方が多い。すぐ近くに川が流れていることも関係しているのだろう。特に夕方などに庭の草取りをしていると刺されやすい。

 北海道ではかつて山奥で造材作業を行っていたが、作業をしている人たちは大量のブユ、ヌカカ、蚊に襲われたそうだ。考えただけでもぞっとする。今は虫刺されに効果のある薬もいろいろあるが、昔はさぞかし大変だったことだろう。

 北海道は夏が短いとはいえ、雑草の伸びるスピードは凄まじい。6月から9月までは頻繁な草取りが欠かせないので、完全防備スタイルでやるしかない。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:53Comments(0)昆虫

2018年06月22日

自民党政権を支持し続けたら国民は見殺しにされる

 気象庁は日本付近で発生した被害地震の一覧を公表している。震度4や5でも被害が生じることがあるが、6以上になると大きな被害が生じることが多い。そこで2006年以降、震度6以上の被害地震がいくつあるのか数えてみた。


1997年 1回
1998年 1回
2000年 4回
2001年 1回
2003年 3回
2004年 1回
2005年 2回
2007年 2回
2008年 2回
2009年 1回
2011年 7回
2013年 1回
2014年 1回
2016年 4回

 20年間で31回なので一年あたりにすると約1.5回。東日本大震災のあった2011年の7回を除いたとしても、年に1回以上は震度6以上の大きな地震が起きている。

 日本は4つのプレートの境界に位置しているのだから海溝型の地震が必ず起きるし、プレートに押されて内陸では断層ができ、火山が噴火する。その火山もときとして破局噴火に至る。私たち日本人はそんな地震国、火山国に暮らしており、これらの自然災害から逃れることはできない。

 大地震も火山噴火も必ず起きるが、いつどこで起きるのかは現在の科学では予知がほとんどできない。常識的に考えれば、こんな国に原子力発電所をつくることは明らかに間違っている。2007年の新潟県中越沖地震による柏崎苅羽原発の事故も、過酷事故寸前だった。それでも日本は原発を運転しつづけた。そして2011年には福島の原発事故が起きたのだ。もし原発の直下で断層がずれる内陸型地震が起きたなら、原発などひとたまりもないだろう。すぐ近くであっても大事故が懸念される。

 その後も2016年に熊本地震がおきて大きな被害が出た。つい先日は大阪で震度6弱の地震があった。これほどまで地震が頻発しても自民党政権は原発を止めようとせず、再稼働へと動いている。福島第一原発が収束の目途が立たない過酷事故を起こして大きな被害を生じさせ日本が危機的状況になったというのに、まだ原発にしがみついている。過去の事故と教訓に全く学ばないとはこのことだ。

 福島の原発事故のあとドイツでは脱原発に舵を切った。地震の少ないドイツですら福島の事故から学んでいるのに、当事国がまったく学ばないというのはどういうことなのか。利権にしがみつきまっとうな判断ができなくなっている政権はもはや狂気としかいいようがない。

 このまま日本が原発を続けるのであれば、いつか再び大きな事故を起こすだろう。そして、原発を推進してきた政府は間違いなく都合が悪い情報を隠蔽し事故を過小評価するだろう。それは福島の事故で実証済みだ。原発事故で人が亡くなっても、健康被害が生じても「事故との因果関係は認められない」といって保障もしない。それどころか被ばくの影響を過小評価し避難した人たちを放射能汚染された場所に戻そうとする。これが政府のやり方だ。そして事故の処理のための巨額の費用が税金から支払われる。国民は踏んだり蹴ったりだ。

 原発問題ばかりではない。安倍政権は生活保護や障害年金といった社会保障まで削減している。海外へのばら撒きや米国からの武器の購入をやめて社会保障や貧困対策に充てればどれだけの人が救われることだろう。それだけではない。「働き方改革」という名のもとに労働者を定額で働かせ放題にしようとしている。その労働者いじめの法案を無理矢理通すために国会の延長までするという暴挙に出た。

 原発推進も社会保障の削減も、労働者を奴隷のように扱う高プロ制度も国民を見殺しにするに等しい。その国民見殺し政権の支持率は4割近くもある。安倍政権で恩恵がある人たちだけではなく、一般の国民でも支持している人たちが一定程度いるのだ。国民が自民党政権のやっていることに大きな疑問を抱かなくなっているのなら、正常な判断力を失っているとしか思えない。
  

Posted by 松田まゆみ at 06:48Comments(0)政治・社会

2018年06月06日

えりもの森裁判が結審

 諸事情により長らく「えりもの森裁判」に関する記事をさぼっていたが、昨日結審となり10月2日に判決が言い渡されることになった。

 提訴をしたのが2005年の年末。入口論で1年ほどかかったが、2011年の地裁の判決は賠償命令を却下。それ以外の請求も棄却。この地裁判決は違法性の有無を判断しておらずとても納得できるものではなかったので控訴した。

 控訴審では、裁判長は立木の財産的価値の損害の有無に焦点を当て、過剰伐採による損害額を判断しなかった一審判決は失当として地裁に差し戻しを命じた。実質的に原告の勝訴だった。

 ところが被告である北海道は最高裁に上告。最高裁も二審の高裁の判断を支持して地裁に差し戻しを命じ、2015年から再び地裁で審理が行われていた。そして昨日の口頭弁論でようやく結審。一審の不当判決と被告の上告によって判決までにかれこれ13年もかかるという異例の長丁場の裁判になった。被告の上告は時間稼ぎとしか思えない。

 差し戻し審では違法性や道職員の責任など難しい法律解釈を迫られ私には理解できないことだらけだったが、弁護団の先生方が弁護団会議を重ねて尽力して下さった。

 提訴から13年もたつと思うと、それだけで感慨深いものがある。裁判の判決はどうなるのか予想がつかないが、高裁も最高裁も一審の判決を不当と判断していることから、損害を認定することを期待したい。

  

Posted by 松田まゆみ at 20:35Comments(0)えりもの森裁判

2018年06月03日

コミュニケーションを避ける人たち

 前回の「栗城史多さんの『否定の壁』について思うこと」という記事で、批判と非難の違いについて書いた。円滑な人間関係を築くためには他者を非難してはならない。そして、議論とか対話といったコミュニケーションこそが大事なことは明白だ。ところが、どうもこの国にはコミュニケーションができない人たちが溢れている。

 なぜこうもコミュニケーションができないのだろうか? なぜ異なる意見を尊重する文化が育っていないのだろうか? 先の記事では敵対心や競争心などが非難に走る要因であると書いたが、コミュニケーションを避けるという国民性も関係しているのではないかと思えてならない。このコミュニケーションを避けるという意識には日本人の同調性が大きく関係していると思っている。

 かつて、日本の村落ではいわゆる村八分が存在していた。村の掟に従わなかったり村の秩序を乱したりした人は火事と葬式を除き交際を絶つという制裁だ。現在では人権侵害の違法行為とされる。要は、集団によるいじめに等しい。

 村八分のあるコミュニティーでは、有力者に従っていれば村八分になることはない。たとえおかしいと思ったことでも、村八分を恐れて口を閉ざしてしまうことになる。リーダーに従っていればいいのだから、自分の意見は持たなくても支障はないということでもある。学校でのいじめなども村八分と同質だ。

 村八分社会においては自由な発言自体が自主規制される。村八分社会からは「言論の自由」という発想も、「他者の意見を尊重する」という意識も育ちにくい。育つのは他人の顔色をうかがって周りに合わせる同調意識だ。日本人は率直な意見を言って議論をするということが苦手だが、それはかつての村八分社会から意識的に脱していないということもあるのではないか。

 言うまでもないが、現代は村社会の掟はなくなり自由に意見を言う権利が保障されている。ところが人に染みついた同調意識はいきなり変わることはできない。親が「皆と同じにしていれば波風も立たないし損をしない」という価値観であれば、子どもにもそう教えることになる。いつまでたっても同調を優先する生活から逃れられない。

 それともう一つ、多くの日本人が議論とか対話といったコミュニケーションが苦手なのは、学校で自分の考えを述べるとか議論や対話をするという教育がなされてこなかったことも大きいと思う。日本の教育現場では「従順な人間」を育てることを目標にしてきたといっても過言ではないだろう。これでは「議論や対話をする」ことはもとより「言論の自由を享受するためには他者の意見も尊重しなければならない」ということも学べない。

 家庭でも学校でもこんな状態なら、物ごとの善し悪しを理性的・論理的に検討するという習慣が身につかないし、議論も対話も苦手ということになる。波風を立てないことが美徳とされ、自分を殺しても声の大きい者に従ってしまう。自分の意見を持たなくても何とかなってしまうのが日本の社会なのだ。

 このような人たちは、容易にネットカルト化すると私は考えている。弁護士に不当な懲戒請求をした人たちが、弁護士から不法行為で提訴を通告されたことが話題になっている。懲戒請求をした人たちは「余命三年時事日記」というブログの影響を受け、ブログ主の主張を信じて懲戒請求の呼びかけに従ったとされる。懲戒理由は「違法である朝鮮学校補助金支給要求声明に賛同し、その活動を推進する行為は、日弁連のみならず当会でも積極的に行われている二重、三重の確信的犯罪行為である」というもの。この「余命三年時事日記」のブログ主は典型的な差別主義者だが、そこに集う人たちは彼が差別主義者であることすら判断できない。懲戒請求が適切なものかどうかも調べず、扇動に乗って行動してしまう。

 「余命三年時事日記」に集まる人たちは、恐らくツイッターなどで左派の人たちに粘着したり罵倒を浴びせたりしているネトウヨと言われる人たちと重なっているのだろう。恐ろしいのはカルト宗教と違って何の拘束もないのに、ブログ主の主張を頭から信じて自主的にカルト化してしまうことだ。ネトウヨと言われる人たちは、理性的・論理的に物ごとの善し悪しを判断することができない人の典型だと思う。

 匿名で発言ができるネット空間では、自分を抑制する必要がない。対話のマナーを身につけていない人たちがネットという言論空間を手に入れて自己主張をしたら、自分と異なる意見の人たちを否定し攻撃することになる。実社会では自分の身を守るために自己主張をしない人が、ネットでは豹変して攻撃的になる。こういう人たちは、私たちの身近にいる。

 私はネット空間において理性的・論理的な主張ができず非難しかできないような人に遭遇したら、無視するしかないと思っている。他者を罵る人の大半は匿名だ。このような無責任な相手と対話をすべく努力しても徒労に終わるだけだ。

 しかし、実社会においては必ずしもそうではない。学校にも職場にも地域コミュニティーにも「他者の非難ばかりする人」「好きになれない人」というのはいるものだ。そういう人と積極的に付き合う必要はないと思うが、関わりをもつ必要が生じたときは一人の人間として対等に接し、困っていたら助けるというのが大人の態度だと思う。

 弁護士への不当懲戒請求の件も、和解に応じて謝罪してきた人たちの中には洗脳から解かれ反省し改める人もいるだろう。実社会で人と接することで、差別意識に気づく人、誠実なコミュニケーションができる人を増やしていくしかないと思う。

  

Posted by 松田まゆみ at 14:44Comments(0)雑記帳