鬼蜘蛛の網の片隅から › 随筆
2017年02月06日
サハリン紀行(2)
サハリン紀行(1)
2日目は西部に出かけた。アニワの海岸では一人、皆と反対方向をうろうろしてイソコモリグモを探したが見つからない。露頭見学中にクモを採集するが、ハラビロアシナガグモ、スジシャコグモ、ウスリーハエトリ、ナカムラオニグモ、ウヅキコモリグモなど北海道でおなじみのものばかりだ。見学地に着くといつも皆と違うところをうろうろしている私を、セルゲイ氏はいつも気にかけてくれているのが分かる。なるべく皆から見えるところにいなければならない。
8月という季節から考え、キバナオニ(黄色)、ニワオニ(橙色)、アカオニ(赤色)の3色のクモが溢れていると思ったのだが、予想は外れた。キバナが圧倒的に多く、ニワとアカはなかなか見つからないのだ。そういえば北海道でもキバナが圧倒的に多いから、そんなものなのかも知れない。もっともクモを探す時間が少ないので、時間をかけて探せばもっといるのだろう。北海道でもおなじみのナカムラオニグモは草地の普通種だ。
サハリンでは、平地にベニヒカゲ(蝶)が舞っている。ネベリスクのバザール(自由市場)では、オオモンシロチョウを捕まえた。近年、北海道全域に定着してしまったチョウだ。クモのみならずチョウも捕まえたが、捕虫網というのが珍しいらしく好奇心の目で見られてしまった。軒先のオニグモを捕虫網で採っていたときなど、大人も子どももにたにたしながらこちらを注目している。捕まえているのが大きなクモだと知って、かなり面喰っていたようだ。さぞかし変な日本人の集団(変なのは一人だけなのだが)だと思ったに違いない。
ネベリスクから海岸沿いを北に、ホルムスクに向かった。ここには旧王子製紙の工場が廃墟のように佇んでいる。サハリン南部の森林はかなり伐採が入り原生林とおぼしき森はほとんど見当たらないが、かつてかなりの伐採が行われ王子製紙も栄えたのだろう。無残に伐られた山肌は、北海道の森林の光景とも似ている。ホルムスクからユジノまではいくら車が揺れても瞼が閉じてくる。昨日は初めて見る景色とあって、いねむりもせずに目を凝らしていたが、今日は半分以上いねむりの帰途だ。運転手さん、御苦労さん!
3日目はススナイ山地に寄った後、北へと向かった。ソコル川で初めて森林の中に入ったのだが、前を歩いていた人が「クモ、クモ」と呼んでいる。森林の中は、タイリクサラグモがあちこちに造網していたのだ。北海道ならどこにでもいるタイリクサラグモをあまり見かけず不思議に思っていたのだが、針葉樹の森林内はタイリクだらけだ。しかし、タイリクばかりでハンモックサラグモなどは全く見られない。森林のクモ相は北海道よりさらに単純なようだ。
昼食予定地のスタロブスコエは海岸の集落だ。海沿いのでこぼこ道を行くと、岩礁の上にゴマフアザラシが置物のように寝そべっているのが見渡せる。ここにはモンゴリナラ(ミズナラと変種関係)があるが、だいぶ伐採されてしまったらしく、今ではぽつりぽつりとしか見られない。このあたりから北の光景はほんとうに素晴らしい。人工的なものはほとんどない海岸線が続き、湿地が広がる。渚にはシギが群れ、カモメが舞う。北海道の海岸線もかつてはこんな光景だったに違いない。北海道ではほとんどの湿原にビジターセンターのような施設があり、海岸には展望台などがある。人工物が目に入らないようなところは無いに等しい。しかしサハリンには北海道が失ってしまった北の自然の原風景が息づいている。施設ばかり造りたがる日本人は、こういう自然の原風景を忘れてしまったようだ。
この日はさらに北上し、海岸で琥珀を探した。角がとれた褐色のガラスのかけらのような琥珀が、海岸の砂浜にうちあげられているのだ。小粒だが、こんなところで琥珀が拾えるというのは驚きだ。皆海岸に散らばって、ひとしきり琥珀拾いを楽しんだ。採集するというのはクモに限らす楽しい。しかし採集には得手不得手というのがあるらしい。集合して成果品を比べると、その差は歴然とする。どうも私は得意なほうではないらしい。やはり採集は一人でのんびりやるのが一番いい。
サハリンの一番細くくびれているあたり、ブズモーリエがこのツアーの最北の地点だ。ここには海を見下ろす山腹に、日本時代の鳥居がそのまま残っている。何やら日本の景色のように見える。鳥居まで登って写真を撮った後、駅前のバザールに寄った。地面に散らばっている褐色のかけらを見つけ、誰かが「琥珀だ」と言う。半信半疑で手に取って眺めるが、ビール瓶のかけらまで琥珀に見えてくる始末だ。
4日目はアンモナイトの産地見学だ。最初の見学地は乾燥した裸地で、ときおりコモリグモが走り回っている。ここではクモよりアンモナイトを探すほうが面白い。地質屋さんはハンマー片手にさすがに大きいのを掘りだしていたが、小さいのならハンマーなしでもいくつか見つけられる。
2回目の見学は、山の中の崖地だ。ここは森林に囲まれた河原で、クモの採集の方が面白い。河原の石をひっくり返すと、カワベコモリグモやナミハガケジグモがいる。一人で河原でクモ採りをしていると、高校生のAさん(母親と参加)が崖地の方から「クモを採った」と呼んでいる。彼女の手には綺麗なニワオニグモが握られていた。この数日で彼女はすっかりクモに慣れてしまったらしく、私を真似て素手でクモを採るようになっていた。感謝、感謝! さて、その崖地の上部には巨大なアンモナイトがはまっている。地質に無頓着な私も、このときは「凄い」と見とれてしまった。
最終日の5日目は、午前中にユジノを一望できるスキー場のてっぺんまで登った。例の車はでこぼこの急坂をものともせず、標高535メートルの山頂に突き進んだ。中腹までグイマツの植林に覆われる山だが、途中にハイマツも見られる。標高が上がるにしたがって、林床の植物が変わっていくのが面白い。
山頂からは素晴らしい展望が広がっていた。眼下にユジノの街が見渡せる。これでこのツアーの見学は終わりだ。皆が景色を楽しんでいる間、私は山頂の草地で一人チョウ採りにはまっていた。この草地にはチョウがしきりと飛び交っているのだが、これがすばらしく速い。悪戦苦闘だが、これを追いかけるのがまた楽しい。いい歳のおばさんがチョウ採りに興じているのだから、他の人はさぞかし呆れていただろう。
のどかな山頂のひと時を後に車に乗り込むと、運転手が捕虫網を貸して欲しいという。すぐ横の花にチョウが数頭止まっている。彼は見事に数頭のチョウを仕留め私にプレゼントしてくれた。もしかしたら、彼はずっと捕虫網でチョウを採ってみたかったのかもしれない。海辺で休憩していたときは網でエビを獲っていたし、アンモナイトを見つけるのも得意だ。「気はやさしくて力持ち」の典型のような彼は、どうやら採集好きのようだ。
このあと、私とM氏は皆と別れてジャロフ氏の自家用車で北に向かった。皆は最後の半日を買い物にあてたのだが、貪欲な私たちは車の中から眺めただけの湿地に未練があった。吉倉真先生の「樺太産黄金蜘蛛科生態と分類」を見ると、サハリンでは平地にコウモリオニグモやコガネオニグモがいることになっている。湿地を眺めただけで帰るのはやはり後ろ髪を引かれる思いがする。そこでジャロフ氏に頼み、湿地探検におもむいたのだ。彼は腿まである長靴まで用意してくれた。
サハリンと言えど、この日は猛暑だ。その中を長靴をはいて捕虫網片手に湿地のなかをうろつくと汗が吹き出してくる。葦の葉を巻いているのはほとんどがクリイロフクログモで、子グモがふ化する季節だ。水辺には卵のうをつけたカイゾクコモリグモがいる。草間の円網はほとんどがナカムラオニグモだが、なぜかこの湿地のナカムラは幼体ばかりだ。ここのクモは北海道の湿地のクモをより単純にした感じだ。ちょっとがっかりだったが、採集品を良く見るとナカムラオニグモの幼体の中にコウモリオニグモの幼体が紛れ込んでいる。北海道では高山帯でしか見られないコウモリがやはり平地にいるのだ。ただし、もう成体の季節ではないらしい。コガネオニは残念ながら幼体らしきものも採れない。スゲと思われる草地ではツノタテグモの類いと思われる幼体が少し採れたが、やはりクモの季節には遅すぎるようだ。北に行けばいくほど、クモの繁殖期は短期間に凝縮されるのだろう。たぶん6月から7月が良いのだと思う。ともかく短い時間ではあったが湿地も歩くことができた。あとはユジノにもどり、ガガーリン公園で皆と落ち合ったあと最後の晩餐となった。
クモに関しては季節が遅すぎ、幼体ばかりが目についてとりたてて新しい発見はなかったものの、サハリンの自然の一端を垣間見ることができたのはやはり貴重な体験であり、楽しい一週間だった。そして、お付き合いいただいたエネルギー省の皆さんは、朝から晩までくたくたに疲れたことだろう。我々をコルサコフまで送り届けたときにはさぞかしほっとしたに違いない。
こうして5日間の見学会はハードスケジュールだったが、無事終了した。不思議なことに一数館の間、雨らしい雨にも降られず、トラブルもなく、すばらしく順調にことが運んだのだ。あとは税関を無事に通過できるかどうかだ。
翌朝予定より遅れてコルサコフ港に到着した私たちは、出国手続きに追われ、あたふたと税関を通過した。誰も荷物を開けられることもなく皆無事に通過し、安堵のうちに再び「アインス宗谷」の乗客となった。
2日目は西部に出かけた。アニワの海岸では一人、皆と反対方向をうろうろしてイソコモリグモを探したが見つからない。露頭見学中にクモを採集するが、ハラビロアシナガグモ、スジシャコグモ、ウスリーハエトリ、ナカムラオニグモ、ウヅキコモリグモなど北海道でおなじみのものばかりだ。見学地に着くといつも皆と違うところをうろうろしている私を、セルゲイ氏はいつも気にかけてくれているのが分かる。なるべく皆から見えるところにいなければならない。
8月という季節から考え、キバナオニ(黄色)、ニワオニ(橙色)、アカオニ(赤色)の3色のクモが溢れていると思ったのだが、予想は外れた。キバナが圧倒的に多く、ニワとアカはなかなか見つからないのだ。そういえば北海道でもキバナが圧倒的に多いから、そんなものなのかも知れない。もっともクモを探す時間が少ないので、時間をかけて探せばもっといるのだろう。北海道でもおなじみのナカムラオニグモは草地の普通種だ。
サハリンでは、平地にベニヒカゲ(蝶)が舞っている。ネベリスクのバザール(自由市場)では、オオモンシロチョウを捕まえた。近年、北海道全域に定着してしまったチョウだ。クモのみならずチョウも捕まえたが、捕虫網というのが珍しいらしく好奇心の目で見られてしまった。軒先のオニグモを捕虫網で採っていたときなど、大人も子どももにたにたしながらこちらを注目している。捕まえているのが大きなクモだと知って、かなり面喰っていたようだ。さぞかし変な日本人の集団(変なのは一人だけなのだが)だと思ったに違いない。
ネベリスクから海岸沿いを北に、ホルムスクに向かった。ここには旧王子製紙の工場が廃墟のように佇んでいる。サハリン南部の森林はかなり伐採が入り原生林とおぼしき森はほとんど見当たらないが、かつてかなりの伐採が行われ王子製紙も栄えたのだろう。無残に伐られた山肌は、北海道の森林の光景とも似ている。ホルムスクからユジノまではいくら車が揺れても瞼が閉じてくる。昨日は初めて見る景色とあって、いねむりもせずに目を凝らしていたが、今日は半分以上いねむりの帰途だ。運転手さん、御苦労さん!
3日目はススナイ山地に寄った後、北へと向かった。ソコル川で初めて森林の中に入ったのだが、前を歩いていた人が「クモ、クモ」と呼んでいる。森林の中は、タイリクサラグモがあちこちに造網していたのだ。北海道ならどこにでもいるタイリクサラグモをあまり見かけず不思議に思っていたのだが、針葉樹の森林内はタイリクだらけだ。しかし、タイリクばかりでハンモックサラグモなどは全く見られない。森林のクモ相は北海道よりさらに単純なようだ。
昼食予定地のスタロブスコエは海岸の集落だ。海沿いのでこぼこ道を行くと、岩礁の上にゴマフアザラシが置物のように寝そべっているのが見渡せる。ここにはモンゴリナラ(ミズナラと変種関係)があるが、だいぶ伐採されてしまったらしく、今ではぽつりぽつりとしか見られない。このあたりから北の光景はほんとうに素晴らしい。人工的なものはほとんどない海岸線が続き、湿地が広がる。渚にはシギが群れ、カモメが舞う。北海道の海岸線もかつてはこんな光景だったに違いない。北海道ではほとんどの湿原にビジターセンターのような施設があり、海岸には展望台などがある。人工物が目に入らないようなところは無いに等しい。しかしサハリンには北海道が失ってしまった北の自然の原風景が息づいている。施設ばかり造りたがる日本人は、こういう自然の原風景を忘れてしまったようだ。
この日はさらに北上し、海岸で琥珀を探した。角がとれた褐色のガラスのかけらのような琥珀が、海岸の砂浜にうちあげられているのだ。小粒だが、こんなところで琥珀が拾えるというのは驚きだ。皆海岸に散らばって、ひとしきり琥珀拾いを楽しんだ。採集するというのはクモに限らす楽しい。しかし採集には得手不得手というのがあるらしい。集合して成果品を比べると、その差は歴然とする。どうも私は得意なほうではないらしい。やはり採集は一人でのんびりやるのが一番いい。
サハリンの一番細くくびれているあたり、ブズモーリエがこのツアーの最北の地点だ。ここには海を見下ろす山腹に、日本時代の鳥居がそのまま残っている。何やら日本の景色のように見える。鳥居まで登って写真を撮った後、駅前のバザールに寄った。地面に散らばっている褐色のかけらを見つけ、誰かが「琥珀だ」と言う。半信半疑で手に取って眺めるが、ビール瓶のかけらまで琥珀に見えてくる始末だ。
4日目はアンモナイトの産地見学だ。最初の見学地は乾燥した裸地で、ときおりコモリグモが走り回っている。ここではクモよりアンモナイトを探すほうが面白い。地質屋さんはハンマー片手にさすがに大きいのを掘りだしていたが、小さいのならハンマーなしでもいくつか見つけられる。
2回目の見学は、山の中の崖地だ。ここは森林に囲まれた河原で、クモの採集の方が面白い。河原の石をひっくり返すと、カワベコモリグモやナミハガケジグモがいる。一人で河原でクモ採りをしていると、高校生のAさん(母親と参加)が崖地の方から「クモを採った」と呼んでいる。彼女の手には綺麗なニワオニグモが握られていた。この数日で彼女はすっかりクモに慣れてしまったらしく、私を真似て素手でクモを採るようになっていた。感謝、感謝! さて、その崖地の上部には巨大なアンモナイトがはまっている。地質に無頓着な私も、このときは「凄い」と見とれてしまった。
最終日の5日目は、午前中にユジノを一望できるスキー場のてっぺんまで登った。例の車はでこぼこの急坂をものともせず、標高535メートルの山頂に突き進んだ。中腹までグイマツの植林に覆われる山だが、途中にハイマツも見られる。標高が上がるにしたがって、林床の植物が変わっていくのが面白い。
山頂からは素晴らしい展望が広がっていた。眼下にユジノの街が見渡せる。これでこのツアーの見学は終わりだ。皆が景色を楽しんでいる間、私は山頂の草地で一人チョウ採りにはまっていた。この草地にはチョウがしきりと飛び交っているのだが、これがすばらしく速い。悪戦苦闘だが、これを追いかけるのがまた楽しい。いい歳のおばさんがチョウ採りに興じているのだから、他の人はさぞかし呆れていただろう。
のどかな山頂のひと時を後に車に乗り込むと、運転手が捕虫網を貸して欲しいという。すぐ横の花にチョウが数頭止まっている。彼は見事に数頭のチョウを仕留め私にプレゼントしてくれた。もしかしたら、彼はずっと捕虫網でチョウを採ってみたかったのかもしれない。海辺で休憩していたときは網でエビを獲っていたし、アンモナイトを見つけるのも得意だ。「気はやさしくて力持ち」の典型のような彼は、どうやら採集好きのようだ。
このあと、私とM氏は皆と別れてジャロフ氏の自家用車で北に向かった。皆は最後の半日を買い物にあてたのだが、貪欲な私たちは車の中から眺めただけの湿地に未練があった。吉倉真先生の「樺太産黄金蜘蛛科生態と分類」を見ると、サハリンでは平地にコウモリオニグモやコガネオニグモがいることになっている。湿地を眺めただけで帰るのはやはり後ろ髪を引かれる思いがする。そこでジャロフ氏に頼み、湿地探検におもむいたのだ。彼は腿まである長靴まで用意してくれた。
サハリンと言えど、この日は猛暑だ。その中を長靴をはいて捕虫網片手に湿地のなかをうろつくと汗が吹き出してくる。葦の葉を巻いているのはほとんどがクリイロフクログモで、子グモがふ化する季節だ。水辺には卵のうをつけたカイゾクコモリグモがいる。草間の円網はほとんどがナカムラオニグモだが、なぜかこの湿地のナカムラは幼体ばかりだ。ここのクモは北海道の湿地のクモをより単純にした感じだ。ちょっとがっかりだったが、採集品を良く見るとナカムラオニグモの幼体の中にコウモリオニグモの幼体が紛れ込んでいる。北海道では高山帯でしか見られないコウモリがやはり平地にいるのだ。ただし、もう成体の季節ではないらしい。コガネオニは残念ながら幼体らしきものも採れない。スゲと思われる草地ではツノタテグモの類いと思われる幼体が少し採れたが、やはりクモの季節には遅すぎるようだ。北に行けばいくほど、クモの繁殖期は短期間に凝縮されるのだろう。たぶん6月から7月が良いのだと思う。ともかく短い時間ではあったが湿地も歩くことができた。あとはユジノにもどり、ガガーリン公園で皆と落ち合ったあと最後の晩餐となった。
クモに関しては季節が遅すぎ、幼体ばかりが目についてとりたてて新しい発見はなかったものの、サハリンの自然の一端を垣間見ることができたのはやはり貴重な体験であり、楽しい一週間だった。そして、お付き合いいただいたエネルギー省の皆さんは、朝から晩までくたくたに疲れたことだろう。我々をコルサコフまで送り届けたときにはさぞかしほっとしたに違いない。
こうして5日間の見学会はハードスケジュールだったが、無事終了した。不思議なことに一数館の間、雨らしい雨にも降られず、トラブルもなく、すばらしく順調にことが運んだのだ。あとは税関を無事に通過できるかどうかだ。
翌朝予定より遅れてコルサコフ港に到着した私たちは、出国手続きに追われ、あたふたと税関を通過した。誰も荷物を開けられることもなく皆無事に通過し、安堵のうちに再び「アインス宗谷」の乗客となった。
2017年02月05日
サハリン紀行(1)
*この随筆は、サハリンツアー(2001年8月8日から14日)に参加したときの記録で、関西クモ研究会の会誌に投稿したものに修正を加えています。
*なお、参加者のお一人が「サハリンの地質と化石見学」としてツアーの報告をされていますので、興味のある方はご参照ください。
北海道でクモを見ていると、サハリンは一度は行ってみたいと思うところだ。氷期に大陸と北海道を結んだというこの島は、北海道に多数の北方系の生物を運ぶ陸橋となった。大雪山の高山帯に細々と息づいている「氷河時代の生き残り」のクモたちも、この島を縦断してきたのだと思うと感慨も深い。
宗谷岬から目と鼻の先にある島でありながら、サハリンの自然を訪れるツアーは意外とない。聞くところによると、トラブルなしにツアーを行うのは難しいお国柄のようだ。そんな中で「地質見学ツアー」なるものを見つけた。地質見学? 8月じゃクモには遅い! と躊躇したのだが、思いきって締め切り間際に申し込んだ。予定表を見ると、宿泊するホテルはガイドブックには出ておらず、名前はなんとGeologist(地質学者)。しかも、シャワーは水しか出ないらしい。そんなわけで、覚悟を決めて出発することになった。
企画した旅行会社のT氏とコーディネーターのG氏以外の一般参加者は6名というこぢんまりとしたツアーであるが、自然を見てまわるにはちょうどいい人数だ。男性5人、女性3人の総勢8名は、8月8日の10時に稚内港からコルサコフ行きの「アインス宗谷」に乗り込んだ。
目と鼻の先のサハリンも、稚内港からコルサコフ港となると5時間30分もかかる。男性たちは免税とやらで1本100円の自販機のビールをさっそく買い込んでいる。船に弱い私はそれを横目で見ながら、ひたすら船の揺れから解放されるのを待つのみだ。サハリン旅行はまず船酔いから幕を開けた。
コルサコフ港に近づくと、褶曲した地層があらわな露頭が目に飛び込んでくる。港は何もかもが古びて錆色をし、数十年前の港に迷い込んだような錯覚に陥る。船から降り、オンボロバス(日本の中古の観光バス)に揺られて入国手続きの人の列に並んだ。特大のスーツケースを同行のM氏に持たせた私は、代わりにカメラを一手に引き受けて手に持っていた。しかし、これは失敗だった。カメラはX線検査機に通された上(当時はまだデジカメは普及しておらず、フイルムのカメラを持っていた)、税関申込書に記入しろと言う(ロシア語なので、そう言っているらしいとしか分からない)。種出入品(一時的な)に当たるらしい。コンパクトカメラまで記入させられたが、なぜか首にぶら下げていたツァイスの双眼鏡には見向きもしない。こちらのほうが数倍も高いのに! 世話人らしき日本人のおじさんがぶつぶつ言いながら、記入の仕方を教えてくれたが、無愛想な態度に辟易とした。
なんとか申込書を書き終えて税関を通過したが、隣りでは巨大なおみやげ(自動車のタイヤ!)を持っていたG氏が入国審査で引っかかり、係員と揉めている。気の毒だが、私にはなす術がない。税関を抜け出すと、今回のツアーの世話をしてくれるロシアエネルギー省の地質研究者のジャロフ氏とお手伝いで日本語を勉強中の青年セルゲイ氏、それに運転手が出迎えてくれた。しばらくしてから、何とか税関を通過したG氏がやってきて無事に全員がそろった。
これから私たちの足となってくれる車はエネルギー省の調査用のものなのだが、トラックの荷台を人が乗れるように改造したような車で、タイヤはダンプカーのそれより巨大だ。これをジャロフ氏はバスと呼んでいたが、舗装道路を砂利道だと勘違いする乗り心地だった。現に、コルサコフからホテルのあるユジノサハリンスクに向かっているときは、砂利道だとばかり思っていたのだが、あとで舗装道路だと知って驚いた。これから5日間この車に乗って走り回ると思うと、ちょっと先が思いやられた。
サハリンは主要道路は舗装されているものの、わき道はほとんど砂利道だ。それも相当にデコボコしている。日本人であればすぐに道を良くしようという発想になるが、ロシア人はそうではないらしい。彼らは車の方をデコボコ道に合わせ、どこでも走れるような頑丈な車に乗るのだという。エネルギー省の車はサハリンの悪路という悪路もものともしない車だ。おかげでかなりすごい山道も進むことができるし、ちょっとした川も渡ることができる。
ホテルに到着したのは日本時間の17時半、現地時間の19時だった。ホテルは古い建物ではあるが、予想していたより印象は良く(かなりすごいところだろうと予想していた)、昨晩泊まった稚内の旅館よりきれいだった(というか、こちらは今どきなかなか遭遇しないような古くて雑然とした旅館だった)。そして、嬉しいことにシャワーからはちゃんとお湯が出た。これで、一週間風呂なしという惨事にはならなくて済む。このホテルを基点としてサハリン南部の各地に出向くのだ。
このホテルは、どうやらロシア人専用らしい。フロントの女性は英語が全く通じない。部屋の鍵をもらうのも、紙に数字を書いたものを見せないと分からない。レストランもなく皆素泊まりらしいが、私たちは棟続きの韓国人の経営しているレストランで食事を摂ることになっている。レストランの入口あたりからキムチの匂いが漂ってくる。
毎日のスケジュールは、朝食後にホテル前に集合して例の車に乗り込み、日中10時間から12時間がフィールドワークとなる。帰るとすぐ夕食となり、ワインやウオッカを飲みながらの団欒だ。部屋にもどりシャワーを浴びると疲れて何もする気になれない。クモの標本ビンにラベルを放りこんでバタンキューだ。予定していた朝の散歩は、結局2回しか実行できなかった。
サハリンの街は何もかもが古び、建物はあちこちひびが入ったり壊れたりしているし、路傍にはゴミも目につく。しかし、街を歩く若い女性は美人揃いの上に、皆抜群のスタイルで、しかも体にフィットしたセンスの良い服をまとっている。Tシャツにジーンズが定番といういでたちの日本人とは全く雰囲気が違う。この光景を見て、「掃き溜めに鶴」と言った人もいるとか・・・。あとで聞いたのだが、自分で服を縫う女性が多いらしい。
そして、日本では渡りの時期を除くと高山の岩場でしか見られないアマツバメが、この古いビル街の上空で群舞している。その見事な飛翔にしばし見とれてしまう。どうやら、建物の屋根などの隙間に営巣しているらしい。
さて、地質見学など学生のとき実習で行ったくらいで全くピンとこなかったのだが、初日の行動でだいたい様子がつかめた。要するに、見学地点となる場所までただひたすらに車で移動し、現地に着いたら説明を聞き、見学やら採取をするのだ。そして、その見学地点の多くは道端の露頭なのだ。つまり、大半の時間は車の中で、クモ採集はもっぱら道端ということになる。「あそこの林を歩いてみたい」「あの湿地でスイーピングをしたら面白いのが採れるのではないか」と思っても、車はどんどん通りすぎていく。クモ採集は半ばあきらめ、車窓から植物や景観を観察することにした。
サハリンの景観は基本的には北海道とほとんど変わらない。違うのは落葉針葉樹のグイマツがあるくらいだ。トドマツとグイマツの森林が多く、落葉広葉樹はヤナギ類かカンバ類が目につく。ちょうど北海道の標高800メートルから1000メートルくらいにある針葉樹林帯によく似ている。海岸ちかくにある湿地も、北海道の湿地の景観とそっくりだ。ただし、平地の湿原にハイマツがあるのはさすがにサハリンだ。そして、濃いピンクのヤナギランの群落と藤色のキク科植物の群落が単調な湿地にひときわ華やかな色を添えている。8月中旬ともなると、草原はもはや初秋の漂いがある。そして多くのクモもすでに繁殖期を終え、初秋のクモの季節だった。ここではクモのシーズンは瞬く間に過ぎてしまうのだろう。
最初に捕えたクモは、朝の散歩で見つけたシロタマヒメグモだった。ちょうど産卵期で、葉をまるめて産室をつくっているのがいくつもあった。北海道で見るシロタマヒメグモは、見るからに「シロタマ」という名がふさわしいクリーム色の腹部をしているが、サハリンのものは黄色かったり、褐色の斑紋が入っていたりするものが多くて、まるで別種のように見える。海峡をひとつ渡っただけでこれほど色彩が違うのは、なんとも不思議な気がする。
朝食を済ませると、いよいよ例の車に乗り込み見学に出発だ。コルサコフの最初の見学地でまず採ったのは、黒色型のオニグモだ。北海道では見たことがない黒色型だったので、サハリンで見られるとは思ってもいなかった。オニグモは軒先にときどき網を張っているが、あまり多くはない。分布の北限に近いのだろうか。
コルサコフの東、アニワ湾の一角にある岩壁では、岩のくぼみにオオツリガネヒメグモが多数造網していた。北海道でもそうだが、一般に岩に生息するオオツリガネは体色が黒っぽい。岩の色に合わせた隠蔽色なのだろうか。ユウレイグモ科の雄も1頭採集した。
サハリンの南東部は湖が多く、湿地も点々としているが、そういうところは地質見学の対象地ではなくどんどん走り抜ける。しかし、このあたりはほとんど自然のままに保たれていて、マスが川に遡上する光景も見ることができた。トゥナイチャ湖岸でようやくナカムラオニグモやアシナガグモなどを少し採集したが、初日はひたすら車に揺られ、ユジノサハリンスクにたどりついたときにはもう薄暗くなっていた。なかなかすごいツアーだ。
(続く)
*なお、参加者のお一人が「サハリンの地質と化石見学」としてツアーの報告をされていますので、興味のある方はご参照ください。
北海道でクモを見ていると、サハリンは一度は行ってみたいと思うところだ。氷期に大陸と北海道を結んだというこの島は、北海道に多数の北方系の生物を運ぶ陸橋となった。大雪山の高山帯に細々と息づいている「氷河時代の生き残り」のクモたちも、この島を縦断してきたのだと思うと感慨も深い。
宗谷岬から目と鼻の先にある島でありながら、サハリンの自然を訪れるツアーは意外とない。聞くところによると、トラブルなしにツアーを行うのは難しいお国柄のようだ。そんな中で「地質見学ツアー」なるものを見つけた。地質見学? 8月じゃクモには遅い! と躊躇したのだが、思いきって締め切り間際に申し込んだ。予定表を見ると、宿泊するホテルはガイドブックには出ておらず、名前はなんとGeologist(地質学者)。しかも、シャワーは水しか出ないらしい。そんなわけで、覚悟を決めて出発することになった。
企画した旅行会社のT氏とコーディネーターのG氏以外の一般参加者は6名というこぢんまりとしたツアーであるが、自然を見てまわるにはちょうどいい人数だ。男性5人、女性3人の総勢8名は、8月8日の10時に稚内港からコルサコフ行きの「アインス宗谷」に乗り込んだ。
目と鼻の先のサハリンも、稚内港からコルサコフ港となると5時間30分もかかる。男性たちは免税とやらで1本100円の自販機のビールをさっそく買い込んでいる。船に弱い私はそれを横目で見ながら、ひたすら船の揺れから解放されるのを待つのみだ。サハリン旅行はまず船酔いから幕を開けた。
コルサコフ港に近づくと、褶曲した地層があらわな露頭が目に飛び込んでくる。港は何もかもが古びて錆色をし、数十年前の港に迷い込んだような錯覚に陥る。船から降り、オンボロバス(日本の中古の観光バス)に揺られて入国手続きの人の列に並んだ。特大のスーツケースを同行のM氏に持たせた私は、代わりにカメラを一手に引き受けて手に持っていた。しかし、これは失敗だった。カメラはX線検査機に通された上(当時はまだデジカメは普及しておらず、フイルムのカメラを持っていた)、税関申込書に記入しろと言う(ロシア語なので、そう言っているらしいとしか分からない)。種出入品(一時的な)に当たるらしい。コンパクトカメラまで記入させられたが、なぜか首にぶら下げていたツァイスの双眼鏡には見向きもしない。こちらのほうが数倍も高いのに! 世話人らしき日本人のおじさんがぶつぶつ言いながら、記入の仕方を教えてくれたが、無愛想な態度に辟易とした。
なんとか申込書を書き終えて税関を通過したが、隣りでは巨大なおみやげ(自動車のタイヤ!)を持っていたG氏が入国審査で引っかかり、係員と揉めている。気の毒だが、私にはなす術がない。税関を抜け出すと、今回のツアーの世話をしてくれるロシアエネルギー省の地質研究者のジャロフ氏とお手伝いで日本語を勉強中の青年セルゲイ氏、それに運転手が出迎えてくれた。しばらくしてから、何とか税関を通過したG氏がやってきて無事に全員がそろった。
これから私たちの足となってくれる車はエネルギー省の調査用のものなのだが、トラックの荷台を人が乗れるように改造したような車で、タイヤはダンプカーのそれより巨大だ。これをジャロフ氏はバスと呼んでいたが、舗装道路を砂利道だと勘違いする乗り心地だった。現に、コルサコフからホテルのあるユジノサハリンスクに向かっているときは、砂利道だとばかり思っていたのだが、あとで舗装道路だと知って驚いた。これから5日間この車に乗って走り回ると思うと、ちょっと先が思いやられた。
サハリンは主要道路は舗装されているものの、わき道はほとんど砂利道だ。それも相当にデコボコしている。日本人であればすぐに道を良くしようという発想になるが、ロシア人はそうではないらしい。彼らは車の方をデコボコ道に合わせ、どこでも走れるような頑丈な車に乗るのだという。エネルギー省の車はサハリンの悪路という悪路もものともしない車だ。おかげでかなりすごい山道も進むことができるし、ちょっとした川も渡ることができる。
ホテルに到着したのは日本時間の17時半、現地時間の19時だった。ホテルは古い建物ではあるが、予想していたより印象は良く(かなりすごいところだろうと予想していた)、昨晩泊まった稚内の旅館よりきれいだった(というか、こちらは今どきなかなか遭遇しないような古くて雑然とした旅館だった)。そして、嬉しいことにシャワーからはちゃんとお湯が出た。これで、一週間風呂なしという惨事にはならなくて済む。このホテルを基点としてサハリン南部の各地に出向くのだ。
このホテルは、どうやらロシア人専用らしい。フロントの女性は英語が全く通じない。部屋の鍵をもらうのも、紙に数字を書いたものを見せないと分からない。レストランもなく皆素泊まりらしいが、私たちは棟続きの韓国人の経営しているレストランで食事を摂ることになっている。レストランの入口あたりからキムチの匂いが漂ってくる。
毎日のスケジュールは、朝食後にホテル前に集合して例の車に乗り込み、日中10時間から12時間がフィールドワークとなる。帰るとすぐ夕食となり、ワインやウオッカを飲みながらの団欒だ。部屋にもどりシャワーを浴びると疲れて何もする気になれない。クモの標本ビンにラベルを放りこんでバタンキューだ。予定していた朝の散歩は、結局2回しか実行できなかった。
サハリンの街は何もかもが古び、建物はあちこちひびが入ったり壊れたりしているし、路傍にはゴミも目につく。しかし、街を歩く若い女性は美人揃いの上に、皆抜群のスタイルで、しかも体にフィットしたセンスの良い服をまとっている。Tシャツにジーンズが定番といういでたちの日本人とは全く雰囲気が違う。この光景を見て、「掃き溜めに鶴」と言った人もいるとか・・・。あとで聞いたのだが、自分で服を縫う女性が多いらしい。
そして、日本では渡りの時期を除くと高山の岩場でしか見られないアマツバメが、この古いビル街の上空で群舞している。その見事な飛翔にしばし見とれてしまう。どうやら、建物の屋根などの隙間に営巣しているらしい。
さて、地質見学など学生のとき実習で行ったくらいで全くピンとこなかったのだが、初日の行動でだいたい様子がつかめた。要するに、見学地点となる場所までただひたすらに車で移動し、現地に着いたら説明を聞き、見学やら採取をするのだ。そして、その見学地点の多くは道端の露頭なのだ。つまり、大半の時間は車の中で、クモ採集はもっぱら道端ということになる。「あそこの林を歩いてみたい」「あの湿地でスイーピングをしたら面白いのが採れるのではないか」と思っても、車はどんどん通りすぎていく。クモ採集は半ばあきらめ、車窓から植物や景観を観察することにした。
サハリンの景観は基本的には北海道とほとんど変わらない。違うのは落葉針葉樹のグイマツがあるくらいだ。トドマツとグイマツの森林が多く、落葉広葉樹はヤナギ類かカンバ類が目につく。ちょうど北海道の標高800メートルから1000メートルくらいにある針葉樹林帯によく似ている。海岸ちかくにある湿地も、北海道の湿地の景観とそっくりだ。ただし、平地の湿原にハイマツがあるのはさすがにサハリンだ。そして、濃いピンクのヤナギランの群落と藤色のキク科植物の群落が単調な湿地にひときわ華やかな色を添えている。8月中旬ともなると、草原はもはや初秋の漂いがある。そして多くのクモもすでに繁殖期を終え、初秋のクモの季節だった。ここではクモのシーズンは瞬く間に過ぎてしまうのだろう。
最初に捕えたクモは、朝の散歩で見つけたシロタマヒメグモだった。ちょうど産卵期で、葉をまるめて産室をつくっているのがいくつもあった。北海道で見るシロタマヒメグモは、見るからに「シロタマ」という名がふさわしいクリーム色の腹部をしているが、サハリンのものは黄色かったり、褐色の斑紋が入っていたりするものが多くて、まるで別種のように見える。海峡をひとつ渡っただけでこれほど色彩が違うのは、なんとも不思議な気がする。
朝食を済ませると、いよいよ例の車に乗り込み見学に出発だ。コルサコフの最初の見学地でまず採ったのは、黒色型のオニグモだ。北海道では見たことがない黒色型だったので、サハリンで見られるとは思ってもいなかった。オニグモは軒先にときどき網を張っているが、あまり多くはない。分布の北限に近いのだろうか。
コルサコフの東、アニワ湾の一角にある岩壁では、岩のくぼみにオオツリガネヒメグモが多数造網していた。北海道でもそうだが、一般に岩に生息するオオツリガネは体色が黒っぽい。岩の色に合わせた隠蔽色なのだろうか。ユウレイグモ科の雄も1頭採集した。
サハリンの南東部は湖が多く、湿地も点々としているが、そういうところは地質見学の対象地ではなくどんどん走り抜ける。しかし、このあたりはほとんど自然のままに保たれていて、マスが川に遡上する光景も見ることができた。トゥナイチャ湖岸でようやくナカムラオニグモやアシナガグモなどを少し採集したが、初日はひたすら車に揺られ、ユジノサハリンスクにたどりついたときにはもう薄暗くなっていた。なかなかすごいツアーだ。
(続く)
2017年01月20日
峠
峠(1985年)
どうしてその峠に行こうと思ったのか、今となってはよく思い出せないのだが、たぶんあの頃、私の一番好きだった季節、秋のあふれる中を、日頃の雑念を払い落して一人で歩きたかったからではないだろうか。秋といっても、あの山肌一面を鮮やかな紅や黄に染めるような紅葉の美を求めていたのではなかった。私は、あの紅葉特有のはなやいだ色合いは、それほど好きではない。あの色合いは、静かで寂しくありながら厳しい一面を持った秋という季節を象徴するには、何かそぐわない気がしてならない。秋の山は、落ち着いた色合いであるべきだった。だから私の選んだその峠は、はなやかさはなかったし、季節も晩秋の頃だった。遥かかなたの空の下で、北アルプスの山なみが銀白色にきらめいていたから、十月の終わり、あるいは十一月に入っていたかもしれなかった。
その峠は、信州の一角、北八ヶ岳にあった。そしてそこに行くために、小高い山を越え、原生林の中を歩き、また高原を横切り、池のほとりで腰を下ろさなければならなかったが、その変わりゆく秋の姿を心ゆくまで楽しむことができたのだった。
夜行日帰りという、ほんのつかの間の山旅であるのに、私は落葉松の季節になると必ず思い出す。というより、あの黄金色の落葉松が私の思い出をゆりおこしてくれるように思う。
すでに東京の真冬なみ、あるいはもっと寒くなっていたかもしれないその高原のロープウェイ駅には、夜行列車から乗りついで一番のバスに乗ってきた二十人ほどの人たちが思い思いに散らばっていた。私もその駅の冷え切ったコンクリートの一隅に身をこごめて座りこむと、お茶をわかしささやかな朝食をとった。寒さがじわじわと体にしみてくる。眼下には南アルプスの山々が紫を帯びて朝もやの中に横たわっている。高原は一面、いつ冬が訪れてもいいような殺伐とした枯色となり、カラカラと葉ずれの音すら聞こえてきそうだ。人々はそれぞれの思いを、この朝もやの高原に寄せているようだ。私もまた、飽きることなくその一時を山に、高原に、目を据えていた。
遥かなる山を見つめていると
忘れられたものが 心の中に
ぼっ と甦ってくる
山はいつだって
おとぎ話を包みこんでいる
私のこの時ほど朝もやにかすむ山なみをなつかしく、いとおしく感じたことはない。それは、心の中でひそかに想いをいだいている恋人のしぐさを遠くから見つめているおももちにも似ていた。
ロープウェイを降りたつと、ゆっくり歩きだした。峠は、目の前の山をいくつか越えた向こうだった。しめっぽい針葉樹の林は、真夏のそれより重ったるく感じられたが、あの鼻孔を刺激する樹の香りは、夏山のそれと同じ、なつかしいシラビソ原生林のものだった。あれだけ乗っていたロープウェイなのに、歩きだしてみるとどこに散ったのかと思う位、人々はそれぞれの道に消え、前後の人影は少なかった。私のような気ままな山旅をする人は少ないのかもしれない。いつものゆっくりとしたペースを楽しみながら、横岳の上に出た。
そこは、北八ッ特有の景色を一望できた。小高くうねる原生林の山々、手鏡のようなちっぽけな池、枯色の丘。これからたどろうとしている道は、視界の途中でとぎれている。遥かかなたまで続くようにも思える。すきとおった空のずっとかなたに、北アルプスの峰々が白く浮き上がっている。その山なみのひとつを、その夏、自分も歩いてきたとは信じがたいほど、きびしく美しい山の姿だった。
山道は地図で見るよりも起伏に富んでいた。時には、うっそうとした暗い森の中を、時には岩のむき出しになった道を、足元に気をつけながら進まねばならなかった。雪こそなかったが、あたりの草といい石といい、まっ白い霜がはりついていたからだ。それが朝の陽にきらめいている光景は、一瞬足を止めさせた。何でもない路傍の草や石ころであるはずなのに。やがて白一色の世界になってしまう地では、おおいかぶさるような霜が、秋の終わりを告げているかのようだ。その白いベールを足で踏みにじっていくことに、一瞬の戸惑いを感じながら、山道をたどった。
北八ッの象徴のような原生林では、すでに鳥の地鳴きもまれにしか耳にしない。苔むした、柔らかい大地の感触を踏みしめながら、それは森をさまよっているおももちだった。
荒涼とした岩原。これもまた北八ッの象徴に違いない。何故こんなところに突如、岩原が広がっているのか。この何とも言えない景色は、そこを通る人々にどんな気持ちを抱かせてきたのだろうか。それはあまりに荒涼としていて、たった一人の私にはとまどいすら感じさせる岩原だった。心地よい秋の風の中で、私はきままな放浪者そのものだった。
双子池。そのほとりで腰を下ろし、おにぎりをほおばった。古びた山小屋、盛りの中にたたずむ池、静寂そのものの山は、この上なく心を落ちつけてくれた。足元の木の根の間から、ヒメネズミが飛び出してきた時には驚いた。地面にこぼれた何かをくわえると、あっという間にまた巣穴へと引っ込んでしまったものの、穴の入口でそっと私の様子をうかがっていたネズミのことを思うと、ひとりでに楽しくなった。何と他愛のない動物だろう。
そして、私は最後の高みを目指すべく、枯色の丘に登っていった。そこは本当に枯草の丘というのがぴったりの、小山だった。丘にねころんで北アルプスを見た。こんな景色を見るのも、今年はこれが最後だろう。あまりにも遥かな山々だった。
その丘をかけ下りたところに峠があった。しかし、そこは今までたどってきた静寂きわまる山ではすでになくなっていた。冷たく幅広い舗装道路が山肌をうねり、きらびやかなドライブインまでが建ち並んでいる。わかってはいるはずの光景だったが、この高原に最もふさわしくないものだ。目をそらせたくなるような、その人間くさい峠を眼下に、私は丘をかけ下りた。私は、その踏み荒らされた峠を早く下るべく、ドライブインの裏手にまわった。
その古びた道標は、忘れられたように、建物のかげにポツリとたっていた。それを見つけた時、心の中にほのかな安心感があふれてきた。建物のかげに、見放されたように立つ道標に、不思議なことに親しみがわいてくるのだった。
大河原峠の白茶けた道標は、山を愛する人達のために、立ちつづけているのだろうこの人間に踏みにじられてしまった峠の一角で。華やかなドライブインと、小さな道標を背に、私は秋の谷に足を踏み入れていった。
帰り道はゆるやかな下り坂だった。落葉松と枯野原の谷は、まさに秋に彩られ、そこを通る小径は、黄金色の草の中へと続いていた。その心地よい小径を飛ぶように下っていると、あの峠のことは頭から消えていた。
峠から
白茶けた道標が
忘れられたようにぽつりとあった
そこからは ゆるやかな下り坂だった
僕は草の中の小径をたどった
まぶしいほどの落葉松の中を
ぽこぽことくぐりぬけた
その向こうに
誰かが待っているような気がして
僕は小走りにかけた
どこまでも続く
そののびやかな谷を
ぽこぽことかけた
さらさらと草がなり
僕のひざをくすぐっていた
僕を包みこんでいったのは
とろけそうな午後の陽ざしを受けた
幼い頃の記憶の世界
枯野の中から
一匹のキツネがぎょっこりと現れ
とことこと銀色の小径を横切っていく
はっと立ち止まると
枯野だけが
小麦色にちかちか光っていた
日曜日だというのに、誰も通らない小径。青い空に手を伸ばすように輝いている落葉松の黄色い小枝。その中をくぐるようにして、この上もない秋の一日を惜しむようにして歩いた。やがて小径は川に沿った狭い谷へと入り、また山道になっていた。秋の一日の思い出を胸に、落葉を踏みしめながらバス停へと急いだ。
どこにでもありそうなちっぽけな峠や小高い山々。しかし、それは私にとってはかけがいもない、愛すべき世界だった。その冷たい空気をいっぱいに吸い込みながら思った。あの峠にいつかまた行こう。いつかまたこの径をたどってみよう。しかし、その時もあの道標はあのままの姿で迎えてくれるだろうか。
*信州は私の生まれ故郷でもあり、八ヶ岳や北アルプスの山並みは私にとっては子どもの頃から親しんできた光景だ。巨大都市東京に住んでいた頃、私はときどき思い立ったように一人でふらりと山に向かった。コンクリートに囲まれた都会で暮らしていると、無性に、都会の雑踏を抜け出して一人で山の自然に浸りたいという思いが湧いてくる。北八ヶ岳の大河原峠への山旅も、そんな思いつきの一つにすぎないのだが、あの大河原峠からの黄金色の落葉松の色は、今も脳裏に焼き付いている。あのときは知らなかったのだが、北八ヶ岳に点在する岩塊地や池は、かつての火山活動の賜物だ。日本の山岳のたとえようのない美しい景観は、火山活動によるところが大きい。
この小文を打ち込みながら、さて、あのとき歩いた道は今はどうなっているのだろうかとグーグルアースを開いてみた。家に居ながらにして、山の中の道ですら辿れてしまうという恐るべき時代になってしまったことにちょっぴり愕然としながら・・・。
そこに現れた画像は呆気にとられるものだった。ピラタスロープウェイの山麓駅周辺は網の目のように道路が広がり、リゾート地に変わり果てていた。そういえば、母と霧ヶ峰の殿城山に登ったときも、その山頂から眼下に広がる別荘地の光景に息を飲んだ。殿城山は、もはや別荘地とスキー場に三方を囲まれて孤立した岬のようだった。白樺湖や霧ヶ峰周辺も八ヶ岳山麓も、リゾート開発、別荘地開発の波が押し寄せて、目を覆いたくなるような光景が展開されている。ただし、私の目には大規模リゾート開発のターゲットとされ自然破壊の象徴としか映らない別荘地であっても、そこに住まう人たちにとっては心安らぐ自然に違いない。もちろん、彼らを非難するのはお門違いだ。しかし、こうした状況を単に「時代の流れ」として受け流してしまうことにはどうしても抵抗がある。
若い頃から山にばかり行っていた父は、歳をとってから霧ヶ峰をはじめとした信州の山々から足が遠のいていた。あまりの変わりように、とても足を向ける気にならなかったのだろう。グーグルアースの画像を見ていると、その気持ちが痛いほど分かる。
当たり前のことだけれど、山麓を、高原を切り刻んで造られたリゾート地がなかった頃を今の人たちは知らない。そうやって、日本の美しい森や景観がじわじわと蝕まれ、蝕まれた光景が当たり前になっている。嘆いていてもどうにもならないのだけれど、自然の傷跡に、人の欲の浅ましさを感じずにはいられない。
どうしてその峠に行こうと思ったのか、今となってはよく思い出せないのだが、たぶんあの頃、私の一番好きだった季節、秋のあふれる中を、日頃の雑念を払い落して一人で歩きたかったからではないだろうか。秋といっても、あの山肌一面を鮮やかな紅や黄に染めるような紅葉の美を求めていたのではなかった。私は、あの紅葉特有のはなやいだ色合いは、それほど好きではない。あの色合いは、静かで寂しくありながら厳しい一面を持った秋という季節を象徴するには、何かそぐわない気がしてならない。秋の山は、落ち着いた色合いであるべきだった。だから私の選んだその峠は、はなやかさはなかったし、季節も晩秋の頃だった。遥かかなたの空の下で、北アルプスの山なみが銀白色にきらめいていたから、十月の終わり、あるいは十一月に入っていたかもしれなかった。
その峠は、信州の一角、北八ヶ岳にあった。そしてそこに行くために、小高い山を越え、原生林の中を歩き、また高原を横切り、池のほとりで腰を下ろさなければならなかったが、その変わりゆく秋の姿を心ゆくまで楽しむことができたのだった。
夜行日帰りという、ほんのつかの間の山旅であるのに、私は落葉松の季節になると必ず思い出す。というより、あの黄金色の落葉松が私の思い出をゆりおこしてくれるように思う。
すでに東京の真冬なみ、あるいはもっと寒くなっていたかもしれないその高原のロープウェイ駅には、夜行列車から乗りついで一番のバスに乗ってきた二十人ほどの人たちが思い思いに散らばっていた。私もその駅の冷え切ったコンクリートの一隅に身をこごめて座りこむと、お茶をわかしささやかな朝食をとった。寒さがじわじわと体にしみてくる。眼下には南アルプスの山々が紫を帯びて朝もやの中に横たわっている。高原は一面、いつ冬が訪れてもいいような殺伐とした枯色となり、カラカラと葉ずれの音すら聞こえてきそうだ。人々はそれぞれの思いを、この朝もやの高原に寄せているようだ。私もまた、飽きることなくその一時を山に、高原に、目を据えていた。
遥かなる山を見つめていると
忘れられたものが 心の中に
ぼっ と甦ってくる
山はいつだって
おとぎ話を包みこんでいる
私のこの時ほど朝もやにかすむ山なみをなつかしく、いとおしく感じたことはない。それは、心の中でひそかに想いをいだいている恋人のしぐさを遠くから見つめているおももちにも似ていた。
ロープウェイを降りたつと、ゆっくり歩きだした。峠は、目の前の山をいくつか越えた向こうだった。しめっぽい針葉樹の林は、真夏のそれより重ったるく感じられたが、あの鼻孔を刺激する樹の香りは、夏山のそれと同じ、なつかしいシラビソ原生林のものだった。あれだけ乗っていたロープウェイなのに、歩きだしてみるとどこに散ったのかと思う位、人々はそれぞれの道に消え、前後の人影は少なかった。私のような気ままな山旅をする人は少ないのかもしれない。いつものゆっくりとしたペースを楽しみながら、横岳の上に出た。
そこは、北八ッ特有の景色を一望できた。小高くうねる原生林の山々、手鏡のようなちっぽけな池、枯色の丘。これからたどろうとしている道は、視界の途中でとぎれている。遥かかなたまで続くようにも思える。すきとおった空のずっとかなたに、北アルプスの峰々が白く浮き上がっている。その山なみのひとつを、その夏、自分も歩いてきたとは信じがたいほど、きびしく美しい山の姿だった。
山道は地図で見るよりも起伏に富んでいた。時には、うっそうとした暗い森の中を、時には岩のむき出しになった道を、足元に気をつけながら進まねばならなかった。雪こそなかったが、あたりの草といい石といい、まっ白い霜がはりついていたからだ。それが朝の陽にきらめいている光景は、一瞬足を止めさせた。何でもない路傍の草や石ころであるはずなのに。やがて白一色の世界になってしまう地では、おおいかぶさるような霜が、秋の終わりを告げているかのようだ。その白いベールを足で踏みにじっていくことに、一瞬の戸惑いを感じながら、山道をたどった。
北八ッの象徴のような原生林では、すでに鳥の地鳴きもまれにしか耳にしない。苔むした、柔らかい大地の感触を踏みしめながら、それは森をさまよっているおももちだった。
荒涼とした岩原。これもまた北八ッの象徴に違いない。何故こんなところに突如、岩原が広がっているのか。この何とも言えない景色は、そこを通る人々にどんな気持ちを抱かせてきたのだろうか。それはあまりに荒涼としていて、たった一人の私にはとまどいすら感じさせる岩原だった。心地よい秋の風の中で、私はきままな放浪者そのものだった。
双子池。そのほとりで腰を下ろし、おにぎりをほおばった。古びた山小屋、盛りの中にたたずむ池、静寂そのものの山は、この上なく心を落ちつけてくれた。足元の木の根の間から、ヒメネズミが飛び出してきた時には驚いた。地面にこぼれた何かをくわえると、あっという間にまた巣穴へと引っ込んでしまったものの、穴の入口でそっと私の様子をうかがっていたネズミのことを思うと、ひとりでに楽しくなった。何と他愛のない動物だろう。
そして、私は最後の高みを目指すべく、枯色の丘に登っていった。そこは本当に枯草の丘というのがぴったりの、小山だった。丘にねころんで北アルプスを見た。こんな景色を見るのも、今年はこれが最後だろう。あまりにも遥かな山々だった。
その丘をかけ下りたところに峠があった。しかし、そこは今までたどってきた静寂きわまる山ではすでになくなっていた。冷たく幅広い舗装道路が山肌をうねり、きらびやかなドライブインまでが建ち並んでいる。わかってはいるはずの光景だったが、この高原に最もふさわしくないものだ。目をそらせたくなるような、その人間くさい峠を眼下に、私は丘をかけ下りた。私は、その踏み荒らされた峠を早く下るべく、ドライブインの裏手にまわった。
その古びた道標は、忘れられたように、建物のかげにポツリとたっていた。それを見つけた時、心の中にほのかな安心感があふれてきた。建物のかげに、見放されたように立つ道標に、不思議なことに親しみがわいてくるのだった。
大河原峠の白茶けた道標は、山を愛する人達のために、立ちつづけているのだろうこの人間に踏みにじられてしまった峠の一角で。華やかなドライブインと、小さな道標を背に、私は秋の谷に足を踏み入れていった。
帰り道はゆるやかな下り坂だった。落葉松と枯野原の谷は、まさに秋に彩られ、そこを通る小径は、黄金色の草の中へと続いていた。その心地よい小径を飛ぶように下っていると、あの峠のことは頭から消えていた。
峠から
白茶けた道標が
忘れられたようにぽつりとあった
そこからは ゆるやかな下り坂だった
僕は草の中の小径をたどった
まぶしいほどの落葉松の中を
ぽこぽことくぐりぬけた
その向こうに
誰かが待っているような気がして
僕は小走りにかけた
どこまでも続く
そののびやかな谷を
ぽこぽことかけた
さらさらと草がなり
僕のひざをくすぐっていた
僕を包みこんでいったのは
とろけそうな午後の陽ざしを受けた
幼い頃の記憶の世界
枯野の中から
一匹のキツネがぎょっこりと現れ
とことこと銀色の小径を横切っていく
はっと立ち止まると
枯野だけが
小麦色にちかちか光っていた
日曜日だというのに、誰も通らない小径。青い空に手を伸ばすように輝いている落葉松の黄色い小枝。その中をくぐるようにして、この上もない秋の一日を惜しむようにして歩いた。やがて小径は川に沿った狭い谷へと入り、また山道になっていた。秋の一日の思い出を胸に、落葉を踏みしめながらバス停へと急いだ。
どこにでもありそうなちっぽけな峠や小高い山々。しかし、それは私にとってはかけがいもない、愛すべき世界だった。その冷たい空気をいっぱいに吸い込みながら思った。あの峠にいつかまた行こう。いつかまたこの径をたどってみよう。しかし、その時もあの道標はあのままの姿で迎えてくれるだろうか。
*信州は私の生まれ故郷でもあり、八ヶ岳や北アルプスの山並みは私にとっては子どもの頃から親しんできた光景だ。巨大都市東京に住んでいた頃、私はときどき思い立ったように一人でふらりと山に向かった。コンクリートに囲まれた都会で暮らしていると、無性に、都会の雑踏を抜け出して一人で山の自然に浸りたいという思いが湧いてくる。北八ヶ岳の大河原峠への山旅も、そんな思いつきの一つにすぎないのだが、あの大河原峠からの黄金色の落葉松の色は、今も脳裏に焼き付いている。あのときは知らなかったのだが、北八ヶ岳に点在する岩塊地や池は、かつての火山活動の賜物だ。日本の山岳のたとえようのない美しい景観は、火山活動によるところが大きい。
この小文を打ち込みながら、さて、あのとき歩いた道は今はどうなっているのだろうかとグーグルアースを開いてみた。家に居ながらにして、山の中の道ですら辿れてしまうという恐るべき時代になってしまったことにちょっぴり愕然としながら・・・。
そこに現れた画像は呆気にとられるものだった。ピラタスロープウェイの山麓駅周辺は網の目のように道路が広がり、リゾート地に変わり果てていた。そういえば、母と霧ヶ峰の殿城山に登ったときも、その山頂から眼下に広がる別荘地の光景に息を飲んだ。殿城山は、もはや別荘地とスキー場に三方を囲まれて孤立した岬のようだった。白樺湖や霧ヶ峰周辺も八ヶ岳山麓も、リゾート開発、別荘地開発の波が押し寄せて、目を覆いたくなるような光景が展開されている。ただし、私の目には大規模リゾート開発のターゲットとされ自然破壊の象徴としか映らない別荘地であっても、そこに住まう人たちにとっては心安らぐ自然に違いない。もちろん、彼らを非難するのはお門違いだ。しかし、こうした状況を単に「時代の流れ」として受け流してしまうことにはどうしても抵抗がある。
若い頃から山にばかり行っていた父は、歳をとってから霧ヶ峰をはじめとした信州の山々から足が遠のいていた。あまりの変わりように、とても足を向ける気にならなかったのだろう。グーグルアースの画像を見ていると、その気持ちが痛いほど分かる。
当たり前のことだけれど、山麓を、高原を切り刻んで造られたリゾート地がなかった頃を今の人たちは知らない。そうやって、日本の美しい森や景観がじわじわと蝕まれ、蝕まれた光景が当たり前になっている。嘆いていてもどうにもならないのだけれど、自然の傷跡に、人の欲の浅ましさを感じずにはいられない。
2017年01月17日
赤鬼の高原
赤鬼の高原(1984年)
北国の秋は、ひどくせっかちにやってきた。カッと照りつけた、しかしほんの短い夏が終わると同時だった。そのあわただしさに、私はまごついていたのかもしれなかった。あの草原に足を運んでみようと思いたったときは、すでに九月に入っていた。
草原といっても、そこはかつてエゾマツやトドマツが生い茂っていた所を、ぽっかりと扇状に切りさいたスキー場だ。直線的な濃い緑の森林にふちどられた斜面は、草におおわれ花が咲いていても不自然さがつきまとった。雪のない季節には、無用だとばかりに草が茂り放題になっている。私はその斜面を眺めわたすと、かすかな期待を胸に、踏みわけのついた蕗の中を登りはじめた。
草原は、まぎれもなく秋に支配されていた。夏の間、おもう存分に伸びた蕗の葉も、だらしなく倒れ、歩くたびにカサカサと音をたてた。ついこの間までは草いきれがたちこめていただろう草原は、もはや生気を失いかけている。遅すぎたのだろうか。
遅い足取りのその足元に、ふと紫のリンドウが目に入った。ああ、この花だ。あの時も、この花が足元にいくつもこぼれ咲いていたっけ……。
もう六年も前になるだろうか。まだ東京に住んでいた頃、私は友人と二人で、信州のある高原へ出かけた。列車にゆられ、バスを乗り継ぎ、おりたったその地は霧雨にぬれ、ぼんやりと針葉樹に包まれていた。今から思うと、北海道の山地の感じとも似ていたようだ。あの針葉樹は落葉松だったろうか。木造の宿をとり囲んで、黒々と雨水を含み、そそりたつように並んでいた木々を、私は今でも鮮やかに覚えている。雨の音の他、もの音一つ聞こえない。いや、正確に言うなら、ヒガラの地鳴きくらいしていたかもしれないが、とにかく気の遠くなりそうな静けさだった。都会の騒々しさから抜け出してきた私たちには、その高原のすがすがしさはかけがえもなく尊いもののようで、雨が降っていることすらさほど気にならなかったし、かえって、私たちに落ち着きを与えてくれたように思う。
その高原は、針葉樹は茂ってはいたが、牧場やスキー場になっている草原がそこかしこにあった。その上、流行りのテニスコートすらいくつかあったが、もはや秋となっては、人影もほとんどない。その誰もいないような草原は、思いもかけぬ秋の花々に彩られていたのだった。群生してゆれているヤナギランは、もう終わりに近かったが、鮮やかなピンクの花はそれほど色あせてもいない。マツムシソウもあちこちで頭をかしげている。私はこの花が大好きだった。まだ幼かった頃、同じ信州の霧ヶ峰で、背丈ほどもあるようなマツムシソウの中をかけまわった記憶が、今でも生き続けていた。その上品な藤色は、秋の草原を彩るのに最もふさわしいと思う。他に何が咲いていただろうか。オミナエシ、アザミ、ノコギリソウ、ワレモコウ……。
私たちは、霧雨の降る中、外に出た。あたりは一面霧にかすんでいる。どこに行くというあてもなく、湿った落葉を踏みしめながら、スキー場へと足を向けた。探鳥のために持ってきた双眼鏡も、この霧では何の役にも立たない。そればかりか、鳥の声といったら、林のあたりから、ヒガラか何かの小声がとぎれとぎれにしている位だ。テニスコートの脇を抜けると、スキー場の下に出た。踏みあとは小さな川となって雨水が流れ出ている。その流れを飛び越しながら、上へつづく草の中の小路をたどっていった。
斜面に広がる、いくぶん草丈の低い草原は、そこに咲く花の色も、また葉の色も秋の色をしている。ミルク色に漂う霧が、それをより一層冷たく見せている。そして足元には、あの濃青紫のリンドウの花が、いくつも咲いていた。こんなにたくさんのリンドウを見るのは、ずいぶん久しぶりのことではなかろうか。濃い霧の中を、足元に気を配りながら、どれくらいのリンドウを見ただろう。そして、斜面の中腹あたりまで登った頃、私はそのリンドウの花陰に、真赤な、というより、もう熟れすぎた木の実のようにいくらか黒ずんだ赤いものを見つけた。それは、水滴をしたたらせもう破れそうになった蜘蛛の網に、じっとして動こうともしない。
成熟したアカオニグモだった。気味の悪いほどの赤く大きい腹部には、真白な斑点がちらばっている。その壊れかけた網や、腹部の成熟しきって黒ずんだ赤色は、この蜘蛛の命がつきるのも間もないことを物語っていた。
自然の中での、アカオニグモとの初めての出会いだった。本州の高原や、北海道の草原には、どこにでもいるありふれた蜘蛛ではあったが、今まで見たことがなかったのは、この季節にこういう高原に来ることがほとんどなかったからに違いない。ひどく美しい蜘蛛であった。が、その濃すぎる赤は、まわりの静けさにとけこみ、美しさより先に秋の寂しさを漂わせていた。気をつけてあたりを見回すと、ひとつ、ふたつ……と、いくつもの赤い蜘蛛が、霧に濡れた草の中でうずくまっているのだった。
私がこの蜘蛛を初めて目にしたのは、それよりもさらに四年ほど前だったと思う。それは、大学の生物部の部室だった。秋の尾瀬から帰ってきたというある先輩が、フイルムケースの中から、手のひらにころりと出して見せたのが、アカオニグモだった。それは脚をちぢめて丸まり、ほとんど身動きすらしなかったが、私は何と美しい蜘蛛だろうかと見入ったものであった。
しかし、高原の冷たい葉陰で、真赤に老熟してたたずんでいるこの蜘蛛を目の当たりにしたとき、私は、散っていく紅葉のような、はかない存在に、驚きにも似たものを感じたのだった。冷気の漂いはじめた、誰もいない高原で、この小さな命たちは熟れた木の実のように、土にかえっていくのだろう。
私は、あのリンドウの中の赤い蜘蛛のことを思いながらスキー場尾の斜面を登っていた。北海道の草原は信州のそれと違い、大きな蕗が他の草を押しのけるかのように葉を広げている。信州の高原が概して草丈の低い、おだやかさを持った草原であったのに比べ、そのぼうぼうと伸びた茎は、草原を粗雑なものに見せた。が、どちらも、もう枯れゆく運命にある秋の草原であることに変わりはなかった。注意深く足元を見やりながら、しばらく登った頃、私は蕗の葉の間に、一目でそれとわかる網を見つけた。しかし、網はいく本もの糸が切れ、もはや網とはいえないほどいたんでいる。その上、小さな虫がいくつもへばりつき、もう何日もそのままになっているようだ。葉の裏に造られた住居にも、主の姿はない。やはり遅かったのだろうか。
私はこの草原で、あの赤鬼に会いたかった。勿論、この草原でなくても探せばどこにでもいるはずだが、それでもこの草原で会いたいと思ったのは、ここが、あの信州の高原によく似ているという意識が、心のどこかに働いていたからにちがいない。あの蜘蛛は、潮風がなでて通る海辺の草原よりも、またちっぽけな道端の草地よりも、しっとりと寂しい高原の方がふさわしい気がした。
さらに登っていった。同じような網がひとつ、ふたつ、だがどれも網の主はすでにいない。やっぱり……。北海道の秋は信州より一足も二足も早かったのだ。やがて踏みわけ道はもはや道ではなくなり、私はバサバサと草を押し分けた。いくども帰ろうか、と思いながらも、なぜかしら足は枯れ草を押し分けていた。
私があの赤い、それこそ、今にもこぼれ落ちそうな赤鬼を見つけたのは、五つ目くらいの網だったろうか。もう用はなさないのではないかと思えるボロ網の糸をたどると、それはくるりと葉を巻いた中に、小さくうずくまっていた。
やっぱり生きていてくれたのだった。ひときわ大きくふくらんだ腹部は、見事な濃赤色に染まり、生きているのかと疑うほど、じっとしている。この蜘蛛にはもはや網を直す必要もないし、その力もないことを私はよく知っていた。
いつのまにか、だいぶ傾いたやわらかな陽射しが草原に落ちていた。心のうちで期待していた、ほのかな赤鬼との再会の喜びは、いつか信州で出会った赤鬼の思い出と重なり、人知れずこぼれ落ちていく小さな命の哀しさへと変わっていた。
涼風がたってきた。私は草原にくるりと背を向けると、一気に草原をかけおりた。
*父が亡くなってから墓参りを兼ねて、懐かしい霧ヶ峰に母と通うようになった。父の墓は霧ヶ峰からの湧水が流れ下る角間川のほとりの地蔵寺にある。通うといっても、年に一度、8月下旬に開かれる蜘蛛学会の大会に合わせて帰省したときだった。その頃は父の命日にも近かった。そんなわけで、8月下旬から9月の初旬にかけてが霧ヶ峰に行く時期になった。
初秋の霧ヶ峰ではマツムシソウとアカオニグモがそこここで迎えてくれた。ただ、この時期のアカオニグモはまだきれいな赤色になっておらず、くすんだ黄緑にほのかに赤色が差しているような微妙な色をしている。信州の高原にはマツムシソウとアカオニグモがよく似合うといつも思う。
その母も他界して、霧ヶ峰もちょっぴり遠い存在になったが、霧ヶ峰の光景は私の心の中にずっと生き続けている。ただし、この小文に出てくる信州の高原は霧ヶ峰ではなく、湯の丸高原である。
北国の秋は、ひどくせっかちにやってきた。カッと照りつけた、しかしほんの短い夏が終わると同時だった。そのあわただしさに、私はまごついていたのかもしれなかった。あの草原に足を運んでみようと思いたったときは、すでに九月に入っていた。
草原といっても、そこはかつてエゾマツやトドマツが生い茂っていた所を、ぽっかりと扇状に切りさいたスキー場だ。直線的な濃い緑の森林にふちどられた斜面は、草におおわれ花が咲いていても不自然さがつきまとった。雪のない季節には、無用だとばかりに草が茂り放題になっている。私はその斜面を眺めわたすと、かすかな期待を胸に、踏みわけのついた蕗の中を登りはじめた。
草原は、まぎれもなく秋に支配されていた。夏の間、おもう存分に伸びた蕗の葉も、だらしなく倒れ、歩くたびにカサカサと音をたてた。ついこの間までは草いきれがたちこめていただろう草原は、もはや生気を失いかけている。遅すぎたのだろうか。
遅い足取りのその足元に、ふと紫のリンドウが目に入った。ああ、この花だ。あの時も、この花が足元にいくつもこぼれ咲いていたっけ……。
*
もう六年も前になるだろうか。まだ東京に住んでいた頃、私は友人と二人で、信州のある高原へ出かけた。列車にゆられ、バスを乗り継ぎ、おりたったその地は霧雨にぬれ、ぼんやりと針葉樹に包まれていた。今から思うと、北海道の山地の感じとも似ていたようだ。あの針葉樹は落葉松だったろうか。木造の宿をとり囲んで、黒々と雨水を含み、そそりたつように並んでいた木々を、私は今でも鮮やかに覚えている。雨の音の他、もの音一つ聞こえない。いや、正確に言うなら、ヒガラの地鳴きくらいしていたかもしれないが、とにかく気の遠くなりそうな静けさだった。都会の騒々しさから抜け出してきた私たちには、その高原のすがすがしさはかけがえもなく尊いもののようで、雨が降っていることすらさほど気にならなかったし、かえって、私たちに落ち着きを与えてくれたように思う。
その高原は、針葉樹は茂ってはいたが、牧場やスキー場になっている草原がそこかしこにあった。その上、流行りのテニスコートすらいくつかあったが、もはや秋となっては、人影もほとんどない。その誰もいないような草原は、思いもかけぬ秋の花々に彩られていたのだった。群生してゆれているヤナギランは、もう終わりに近かったが、鮮やかなピンクの花はそれほど色あせてもいない。マツムシソウもあちこちで頭をかしげている。私はこの花が大好きだった。まだ幼かった頃、同じ信州の霧ヶ峰で、背丈ほどもあるようなマツムシソウの中をかけまわった記憶が、今でも生き続けていた。その上品な藤色は、秋の草原を彩るのに最もふさわしいと思う。他に何が咲いていただろうか。オミナエシ、アザミ、ノコギリソウ、ワレモコウ……。
私たちは、霧雨の降る中、外に出た。あたりは一面霧にかすんでいる。どこに行くというあてもなく、湿った落葉を踏みしめながら、スキー場へと足を向けた。探鳥のために持ってきた双眼鏡も、この霧では何の役にも立たない。そればかりか、鳥の声といったら、林のあたりから、ヒガラか何かの小声がとぎれとぎれにしている位だ。テニスコートの脇を抜けると、スキー場の下に出た。踏みあとは小さな川となって雨水が流れ出ている。その流れを飛び越しながら、上へつづく草の中の小路をたどっていった。
斜面に広がる、いくぶん草丈の低い草原は、そこに咲く花の色も、また葉の色も秋の色をしている。ミルク色に漂う霧が、それをより一層冷たく見せている。そして足元には、あの濃青紫のリンドウの花が、いくつも咲いていた。こんなにたくさんのリンドウを見るのは、ずいぶん久しぶりのことではなかろうか。濃い霧の中を、足元に気を配りながら、どれくらいのリンドウを見ただろう。そして、斜面の中腹あたりまで登った頃、私はそのリンドウの花陰に、真赤な、というより、もう熟れすぎた木の実のようにいくらか黒ずんだ赤いものを見つけた。それは、水滴をしたたらせもう破れそうになった蜘蛛の網に、じっとして動こうともしない。
成熟したアカオニグモだった。気味の悪いほどの赤く大きい腹部には、真白な斑点がちらばっている。その壊れかけた網や、腹部の成熟しきって黒ずんだ赤色は、この蜘蛛の命がつきるのも間もないことを物語っていた。
自然の中での、アカオニグモとの初めての出会いだった。本州の高原や、北海道の草原には、どこにでもいるありふれた蜘蛛ではあったが、今まで見たことがなかったのは、この季節にこういう高原に来ることがほとんどなかったからに違いない。ひどく美しい蜘蛛であった。が、その濃すぎる赤は、まわりの静けさにとけこみ、美しさより先に秋の寂しさを漂わせていた。気をつけてあたりを見回すと、ひとつ、ふたつ……と、いくつもの赤い蜘蛛が、霧に濡れた草の中でうずくまっているのだった。
私がこの蜘蛛を初めて目にしたのは、それよりもさらに四年ほど前だったと思う。それは、大学の生物部の部室だった。秋の尾瀬から帰ってきたというある先輩が、フイルムケースの中から、手のひらにころりと出して見せたのが、アカオニグモだった。それは脚をちぢめて丸まり、ほとんど身動きすらしなかったが、私は何と美しい蜘蛛だろうかと見入ったものであった。
しかし、高原の冷たい葉陰で、真赤に老熟してたたずんでいるこの蜘蛛を目の当たりにしたとき、私は、散っていく紅葉のような、はかない存在に、驚きにも似たものを感じたのだった。冷気の漂いはじめた、誰もいない高原で、この小さな命たちは熟れた木の実のように、土にかえっていくのだろう。
*
私は、あのリンドウの中の赤い蜘蛛のことを思いながらスキー場尾の斜面を登っていた。北海道の草原は信州のそれと違い、大きな蕗が他の草を押しのけるかのように葉を広げている。信州の高原が概して草丈の低い、おだやかさを持った草原であったのに比べ、そのぼうぼうと伸びた茎は、草原を粗雑なものに見せた。が、どちらも、もう枯れゆく運命にある秋の草原であることに変わりはなかった。注意深く足元を見やりながら、しばらく登った頃、私は蕗の葉の間に、一目でそれとわかる網を見つけた。しかし、網はいく本もの糸が切れ、もはや網とはいえないほどいたんでいる。その上、小さな虫がいくつもへばりつき、もう何日もそのままになっているようだ。葉の裏に造られた住居にも、主の姿はない。やはり遅かったのだろうか。
私はこの草原で、あの赤鬼に会いたかった。勿論、この草原でなくても探せばどこにでもいるはずだが、それでもこの草原で会いたいと思ったのは、ここが、あの信州の高原によく似ているという意識が、心のどこかに働いていたからにちがいない。あの蜘蛛は、潮風がなでて通る海辺の草原よりも、またちっぽけな道端の草地よりも、しっとりと寂しい高原の方がふさわしい気がした。
さらに登っていった。同じような網がひとつ、ふたつ、だがどれも網の主はすでにいない。やっぱり……。北海道の秋は信州より一足も二足も早かったのだ。やがて踏みわけ道はもはや道ではなくなり、私はバサバサと草を押し分けた。いくども帰ろうか、と思いながらも、なぜかしら足は枯れ草を押し分けていた。
私があの赤い、それこそ、今にもこぼれ落ちそうな赤鬼を見つけたのは、五つ目くらいの網だったろうか。もう用はなさないのではないかと思えるボロ網の糸をたどると、それはくるりと葉を巻いた中に、小さくうずくまっていた。
やっぱり生きていてくれたのだった。ひときわ大きくふくらんだ腹部は、見事な濃赤色に染まり、生きているのかと疑うほど、じっとしている。この蜘蛛にはもはや網を直す必要もないし、その力もないことを私はよく知っていた。
いつのまにか、だいぶ傾いたやわらかな陽射しが草原に落ちていた。心のうちで期待していた、ほのかな赤鬼との再会の喜びは、いつか信州で出会った赤鬼の思い出と重なり、人知れずこぼれ落ちていく小さな命の哀しさへと変わっていた。
涼風がたってきた。私は草原にくるりと背を向けると、一気に草原をかけおりた。
*父が亡くなってから墓参りを兼ねて、懐かしい霧ヶ峰に母と通うようになった。父の墓は霧ヶ峰からの湧水が流れ下る角間川のほとりの地蔵寺にある。通うといっても、年に一度、8月下旬に開かれる蜘蛛学会の大会に合わせて帰省したときだった。その頃は父の命日にも近かった。そんなわけで、8月下旬から9月の初旬にかけてが霧ヶ峰に行く時期になった。
初秋の霧ヶ峰ではマツムシソウとアカオニグモがそこここで迎えてくれた。ただ、この時期のアカオニグモはまだきれいな赤色になっておらず、くすんだ黄緑にほのかに赤色が差しているような微妙な色をしている。信州の高原にはマツムシソウとアカオニグモがよく似合うといつも思う。
その母も他界して、霧ヶ峰もちょっぴり遠い存在になったが、霧ヶ峰の光景は私の心の中にずっと生き続けている。ただし、この小文に出てくる信州の高原は霧ヶ峰ではなく、湯の丸高原である。
2017年01月15日
シギと私
*少しずつ所持品の整理をしているのだけれど、ずっと前に町民文芸誌に書いたエッセイが出てきた。読み返してみると何とも気恥かしいのだが、過去の記録のつもりでブログにも残しておこうかという気になった。
シギと私 (1982年)
鳥を見はじめてから、かれこれ十五年がたつ。何げなく歳月をふり返り、あまりの時の速さにとまどいすら感じる。今でいえば「バード・ウオッチング」だが、十五年前はそんな言葉もない上、鳥を見て楽しむなどということは多くの人の常識的感覚からはずれてさえいた。
私が「鳥」というものについて語る時、忘れられない場所がある。今では、そこは赤や白に塗りたてられたマンションや住宅が建ち並び、人の車の往きかうベッドタウンと化している。かつて、日曜、祭日ともなれば多くの野鳥ファンがゴム長ぐつにリュックを背負い、首からは双眼鏡をさげ、肩に望遠鏡をつけた三脚をかついだいでたちで、この地を歩きまわったことは、遠い昔に置き去られた幻のようだ。
千葉県の江戸川放水路から江戸川までの海岸一帯は「新浜(しんはま)」と呼ばれ、日本でも有数の渡り鳥の渡来地として知られていた。遠浅の海は、潮が引くと三キロにも四キロにもわたって干潟が現われ、汀線すら定かでない。そこには、何百、何千というシギやチドリそしてガンやカモが群がっていたという。東京湾のまん中のことである。
私が初めて新浜を訪れたのは、小学校六年か中学一年の頃だったと思う。その頃はまだ地下鉄東西線が開通しておらず、総武線の本八幡駅まで行き、そこからバスで江戸川放水路の土手に出た記憶がある。
ところで、新浜と言えば、自然保護、干潟保護運動の発祥の地とも言える所であった。野鳥関係者が中心となって湿地や干潟の埋め立てに反対する活発な運動を起こし、人々の注目を集めた所である。その頃の新聞には、しばしばこの運動の記事が載った。京葉臨海工業地帯の造成により、東京湾は次々と埋め立てられることになり、新浜でも海の汚染や地盤沈下で農漁業にあきらめをつけた人々は、この運動にひどく反発した。その運動の結果、一隅に野鳥のための保護区が設けられ、まわりは埋め立てられることになったのである。勿論、保護区を造るための運動ではなかったのだが、それが成り行きだった。私が初めて新浜を訪れた頃というのも、この保護運動が行われているさ中だった。とはいうものの、すでに埋め立てのためのトラックが行きかい、水田の脇に建つ農具小屋の壁いっぱいに、保護運動に反対する激しい言葉が白ペンキで書かれていたのを鮮明に覚えている。「野鳥を殺せ!」などという言葉のもつ意味が当時の私にはよく理解できず、何かひどく恐ろしいものに思えたものだ。
この頃、私は二回、この新浜の地を訪れた。いずれも国立科学博物館主催の「探鳥会」に参加してであった。一度は、歩きはじめてまもなくひどい雨と風に見舞われ、橋の下でびしょぬれになって雨宿りをし、ろくに鳥も見ずに帰ることになった。もう一度は、前回とはうって変わっての好天に恵まれたのだが、日陰もない砂漠のような埋立地ではジリジリと太陽が照りつけ、おまけにダンプカーが砂ぼこりをけちらし、本当にこんな所に鳥がいるのだろうか、と思わせた。事実、鳥影はまばらで群がるシギやチドリを見た記憶はない。この日は、特に鳥の少ない日だったらしい。ただ荒涼とした埋立地の水たまりに一羽の若いツバメチドリがいて、その珍しい鳥をみんなで眺めた。ツバメチドリはヒラヒラと舞っては降りる動作をくり返し、それは何とも寂しげだった。
これで、私の干潟の鳥に対する興味は、半減どころかほとんどなくなってしまった。それからというもの、私は「探鳥会」と言えば高尾山ばかり歩き、キビタキやオオルリの美しい声や姿に夢中になり、また識別に夢中になった。私にとって、「鳥」とは山野の小鳥たちのことだった。
私が再び新浜を訪れたのは、それから六年位たった大学一年の時だった。家を出るまではあまり乗り気ではなかったが、たまには変わった所に行くのもいいと思ったのだろう。私は友人と二人で、一台の望遠鏡を持って東西線「行徳駅」に降りたった。当時の行徳は駅前といっても何もなく、アシや帰化植物のおい茂った埋立地に碁盤の目のような道がついているだけだった。海岸までは、いたる所に水たまりがあって葦が茂り、その葦の根元付近を探すと必ずといっていいほど赤い嘴のバンが見え隠れしていた。どこの葦原からも、オオヨシキリの騒がしい声が風に乗ってくる。
遠浅の干潟はすっかり埋め立てられ、赤くさびた浚渫のサンドパイプが無残に放置されている。そんな中で、渡り鳥たちはちょっと開けた泥地の水たまりに群がっていた。黒い夏羽になったツルシギ、アオアシシギ、シロチドリ、メダイチドリ、それらが何十羽となく水辺で餌をとっていたり、背中に頭を突っ込んで眠っていたりするのだった。これがシギの群れとの初めての出会いだった。山野の鳥たちのような華やかさは一つもない。静かな、それでいて目を見据えてしまう光景だ。
頭上では、しきりにキリッキリッとコアジサシが鳴いている。そのたびに私は空を見上げ、白く光る鳥を追った。蓮池にはカイツブリやオオバンが浮かんでいる。江戸川放水路の岸の小さな干潟には驚くほど長い嘴のダイシャクシギや、ほんのりと紅味を帯びてきたオオソリハシシギが並んでいた。何もかもが新しい光景、新しい世界だった。様々な鳥たちは勿論のこと、潮の匂いや葦の葉擦れの音さえも私には新鮮だった。
私が新浜通いを始めたのは、それからだった。「通い」といっても、毎週のように行けるわけではない。大学のクラブの探鳥会にも参加するので、新浜へは月に一回から三回位だったろうか。私の家から行徳駅までは、たっぷり二時間かかった。渡り鳥、特にシギやチドリというのは春と秋にここを通過するだけのものが大半なのだが、鳥が多かろうが少なかろうが、夏であろうが冬であろうが足を運んだ。
今でこそ言うが、水辺の鳥、とりわけシギやチドリとは素晴らしく魅力的な鳥である。体つき、しぐさ、色、鳴き声、群れの美しさ・・・。それは、甚だ感覚的なものだ。
シギの大半はシベリアやアラスカ、北欧といった北の果ての地で繁殖する。一年のほとんどを雪と氷にとざされたようなツンドラ地帯。そこでは、氷がとけているのは七月~八月にかけての二ヶ月足らずの間で、大地はこの息をつくほどの短い間に、長い昼の助けをかり、生き返ったように花や小さな虫たちの世界となる。彼らはこのほんのわずかな時期に、繁殖という大仕事をやりとげるように適応してきたのである。二ヶ月の間に卵を産み、子を育て、若鳥たちは渡りのための飛翔力をつけなければならない。そして、秋風のたつ頃、シギたちは再び南を目指す。あるものは日本の小さな干潟で冬を越すが、多くの鳥たちはさらに南へと渡っていく。彼らの姿は、そのきびしい生活環境にむだなく適応していったような気がする。まっ白い翼をひるがえして群れ飛ぶ姿、夜空を抜けていくすきとおった声、そしてピンと張った長い翼も、渡りという宿命に裏打ちされているのだ。
学生時代、私は折あるごとに全国各地の干潟や湿地を訪れた。そこには様々な水辺があり、様々な水辺の鳥の生活があった。
北海道のシギたちは、緑の中にちらばっている。干潟というより湿地に棲み、ちらちらゆれる葉陰の向こうで、何とも寂しげなシギたちだ。でも、それは繁殖地の風景に似ているのかも知れない。ちょっぴり冷たい風と、いくぶん傾いた陽ざしの中で、故郷のなごりにひたっているようにも見える。
九州、有明海は、今日日本に残る最も大きな干潟だ。それは、深々とした泥の堆積であり、北国の湿地の面影は何もない。何キロメートルにも及ぶブヨブヨとした鉛色の干潟にごまつぶのようにシギが群れている。その向こうにノリヒビの竿がかすみ、ミサゴが遠くを舞っている。この広大な泥地は、彼らにとっては大切な休息地であり、越冬地でもある。
それにしても、私にとっていちばん思い出深く、又好きなのは東京湾であり、新浜である。そこは足を運ぶたびに風景が変わった。アシ原は次々と消え、マンションや住宅が一つ、二つと増えていった。道路が舗装され、商店街が出来、駅前広場まで出来た。それと反比例して、ゴム長ぐつをはき、双眼鏡を首からさげて歩く人の姿は消えていった。でも、そこから鳥たちの新浜が全く消えてしまったわけではない。マンションの脇の小さなアシ原には、相変わらずオオヨシキリが棲みついていた。江戸川放水路のかたわらの、ほんの少し残された蓮田には、バンやカイツブリ、オオバンが迎えてくれたし、ピンクのすばらしく長い脚をしたセイタカシギに初めて出会ったのもここだった。私は、春になるときまって、ここにツルシギの声を聞きにきたものだ。そして、鳥たちの声をかすかに聞きながら、放水路の土手に寝ころんだ。
何げなく、午後から新浜にやって来て、宮内庁御猟場の脇の水たまりで夕暮れまで鳥たちを眺めているのも好きだった。コサギやダイサギが御猟場のねぐらへと舞いもどるのを眺め、湿地にかすむシギたちを眺めるのだった。帰り道は、もうすっかり暗かった。
たそがれが世界をおおっていた
御猟場の森のふちが赤く赤く染まり
白サギが黒サギに変わって消える
もう何年も何年も昔から続いている光景
変わったものは、まわりの景色と人の心……
その御猟場のかたわらの小さな水たまり
私の愛したちっぽけな水たまりのふちに腰かける
シギたちは何も知らずに泥の中にくちばしをさしこむ
私は静かにそれを見る
本当は知っているのかもしれない
自分たちをちっぽけな水たまりへと追いつめてしまったものを
そして人々は忘れ去っていく
そこが生き生きとした世界であったことを
一日のなごりの陽ざしが水たまりをなでて通りすぎる
シギたちは何も知らなかったかのように泥の中にくちばしをさしこむ
私はだまってそれを見る
誰が知っているというのだろう
この闇の中に忘れ去られたものたちが
今生きていることを
そして大地をつついていることを
私は黙って闇を見る
その御猟場の前面には、今では野鳥のための保護区が出来、立派な野鳥観察舎が建っている。日曜ともなると、多くの人々がガラス張りの建物の中から、ものめずらしげに鳥たちを眺めていく。
そこは、かつての広大な干潟とは比べものにならないような小さな小さな保護区ではあるが、そのふちにたたずみ鳥たちを見る時、私の中に初めてシギを見る喜びにひたったあの日の感動が、いつとはなしに甦ってくる。潮風の中で聞いた、さわやかな声までも。
(注)この随筆を書いてから、すでに三十年以上が過ぎた。その間、有明海の諫早湾は「ギロチン」と呼ばれる巨大な水門で仕切られ、あの広大な干潟は海に没して消えてしまった。何ということだろうと、今さらながら思う。
新浜の江戸川放水路の傍らにあった蓮田も、もちろん今はない。2007年に友人と久々に新浜の保護区を訪れたのだが、行徳駅からの道のりに昔の面影はなく、商店や住宅のひしめくそこは全くの別世界だった。それでも保護区は管理人の蓮尾夫妻の手によって自然の再生が図られ守られていた。
なお、野鳥観察舎は、耐震性に問題があるという理由で一年ほど前から閉館を強いられている。再開されることを願って止まない。
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シギと私 (1982年)
鳥を見はじめてから、かれこれ十五年がたつ。何げなく歳月をふり返り、あまりの時の速さにとまどいすら感じる。今でいえば「バード・ウオッチング」だが、十五年前はそんな言葉もない上、鳥を見て楽しむなどということは多くの人の常識的感覚からはずれてさえいた。
私が「鳥」というものについて語る時、忘れられない場所がある。今では、そこは赤や白に塗りたてられたマンションや住宅が建ち並び、人の車の往きかうベッドタウンと化している。かつて、日曜、祭日ともなれば多くの野鳥ファンがゴム長ぐつにリュックを背負い、首からは双眼鏡をさげ、肩に望遠鏡をつけた三脚をかついだいでたちで、この地を歩きまわったことは、遠い昔に置き去られた幻のようだ。
千葉県の江戸川放水路から江戸川までの海岸一帯は「新浜(しんはま)」と呼ばれ、日本でも有数の渡り鳥の渡来地として知られていた。遠浅の海は、潮が引くと三キロにも四キロにもわたって干潟が現われ、汀線すら定かでない。そこには、何百、何千というシギやチドリそしてガンやカモが群がっていたという。東京湾のまん中のことである。
私が初めて新浜を訪れたのは、小学校六年か中学一年の頃だったと思う。その頃はまだ地下鉄東西線が開通しておらず、総武線の本八幡駅まで行き、そこからバスで江戸川放水路の土手に出た記憶がある。
ところで、新浜と言えば、自然保護、干潟保護運動の発祥の地とも言える所であった。野鳥関係者が中心となって湿地や干潟の埋め立てに反対する活発な運動を起こし、人々の注目を集めた所である。その頃の新聞には、しばしばこの運動の記事が載った。京葉臨海工業地帯の造成により、東京湾は次々と埋め立てられることになり、新浜でも海の汚染や地盤沈下で農漁業にあきらめをつけた人々は、この運動にひどく反発した。その運動の結果、一隅に野鳥のための保護区が設けられ、まわりは埋め立てられることになったのである。勿論、保護区を造るための運動ではなかったのだが、それが成り行きだった。私が初めて新浜を訪れた頃というのも、この保護運動が行われているさ中だった。とはいうものの、すでに埋め立てのためのトラックが行きかい、水田の脇に建つ農具小屋の壁いっぱいに、保護運動に反対する激しい言葉が白ペンキで書かれていたのを鮮明に覚えている。「野鳥を殺せ!」などという言葉のもつ意味が当時の私にはよく理解できず、何かひどく恐ろしいものに思えたものだ。
この頃、私は二回、この新浜の地を訪れた。いずれも国立科学博物館主催の「探鳥会」に参加してであった。一度は、歩きはじめてまもなくひどい雨と風に見舞われ、橋の下でびしょぬれになって雨宿りをし、ろくに鳥も見ずに帰ることになった。もう一度は、前回とはうって変わっての好天に恵まれたのだが、日陰もない砂漠のような埋立地ではジリジリと太陽が照りつけ、おまけにダンプカーが砂ぼこりをけちらし、本当にこんな所に鳥がいるのだろうか、と思わせた。事実、鳥影はまばらで群がるシギやチドリを見た記憶はない。この日は、特に鳥の少ない日だったらしい。ただ荒涼とした埋立地の水たまりに一羽の若いツバメチドリがいて、その珍しい鳥をみんなで眺めた。ツバメチドリはヒラヒラと舞っては降りる動作をくり返し、それは何とも寂しげだった。
これで、私の干潟の鳥に対する興味は、半減どころかほとんどなくなってしまった。それからというもの、私は「探鳥会」と言えば高尾山ばかり歩き、キビタキやオオルリの美しい声や姿に夢中になり、また識別に夢中になった。私にとって、「鳥」とは山野の小鳥たちのことだった。
私が再び新浜を訪れたのは、それから六年位たった大学一年の時だった。家を出るまではあまり乗り気ではなかったが、たまには変わった所に行くのもいいと思ったのだろう。私は友人と二人で、一台の望遠鏡を持って東西線「行徳駅」に降りたった。当時の行徳は駅前といっても何もなく、アシや帰化植物のおい茂った埋立地に碁盤の目のような道がついているだけだった。海岸までは、いたる所に水たまりがあって葦が茂り、その葦の根元付近を探すと必ずといっていいほど赤い嘴のバンが見え隠れしていた。どこの葦原からも、オオヨシキリの騒がしい声が風に乗ってくる。
遠浅の干潟はすっかり埋め立てられ、赤くさびた浚渫のサンドパイプが無残に放置されている。そんな中で、渡り鳥たちはちょっと開けた泥地の水たまりに群がっていた。黒い夏羽になったツルシギ、アオアシシギ、シロチドリ、メダイチドリ、それらが何十羽となく水辺で餌をとっていたり、背中に頭を突っ込んで眠っていたりするのだった。これがシギの群れとの初めての出会いだった。山野の鳥たちのような華やかさは一つもない。静かな、それでいて目を見据えてしまう光景だ。
頭上では、しきりにキリッキリッとコアジサシが鳴いている。そのたびに私は空を見上げ、白く光る鳥を追った。蓮池にはカイツブリやオオバンが浮かんでいる。江戸川放水路の岸の小さな干潟には驚くほど長い嘴のダイシャクシギや、ほんのりと紅味を帯びてきたオオソリハシシギが並んでいた。何もかもが新しい光景、新しい世界だった。様々な鳥たちは勿論のこと、潮の匂いや葦の葉擦れの音さえも私には新鮮だった。
私が新浜通いを始めたのは、それからだった。「通い」といっても、毎週のように行けるわけではない。大学のクラブの探鳥会にも参加するので、新浜へは月に一回から三回位だったろうか。私の家から行徳駅までは、たっぷり二時間かかった。渡り鳥、特にシギやチドリというのは春と秋にここを通過するだけのものが大半なのだが、鳥が多かろうが少なかろうが、夏であろうが冬であろうが足を運んだ。
今でこそ言うが、水辺の鳥、とりわけシギやチドリとは素晴らしく魅力的な鳥である。体つき、しぐさ、色、鳴き声、群れの美しさ・・・。それは、甚だ感覚的なものだ。
シギの大半はシベリアやアラスカ、北欧といった北の果ての地で繁殖する。一年のほとんどを雪と氷にとざされたようなツンドラ地帯。そこでは、氷がとけているのは七月~八月にかけての二ヶ月足らずの間で、大地はこの息をつくほどの短い間に、長い昼の助けをかり、生き返ったように花や小さな虫たちの世界となる。彼らはこのほんのわずかな時期に、繁殖という大仕事をやりとげるように適応してきたのである。二ヶ月の間に卵を産み、子を育て、若鳥たちは渡りのための飛翔力をつけなければならない。そして、秋風のたつ頃、シギたちは再び南を目指す。あるものは日本の小さな干潟で冬を越すが、多くの鳥たちはさらに南へと渡っていく。彼らの姿は、そのきびしい生活環境にむだなく適応していったような気がする。まっ白い翼をひるがえして群れ飛ぶ姿、夜空を抜けていくすきとおった声、そしてピンと張った長い翼も、渡りという宿命に裏打ちされているのだ。
学生時代、私は折あるごとに全国各地の干潟や湿地を訪れた。そこには様々な水辺があり、様々な水辺の鳥の生活があった。
北海道のシギたちは、緑の中にちらばっている。干潟というより湿地に棲み、ちらちらゆれる葉陰の向こうで、何とも寂しげなシギたちだ。でも、それは繁殖地の風景に似ているのかも知れない。ちょっぴり冷たい風と、いくぶん傾いた陽ざしの中で、故郷のなごりにひたっているようにも見える。
九州、有明海は、今日日本に残る最も大きな干潟だ。それは、深々とした泥の堆積であり、北国の湿地の面影は何もない。何キロメートルにも及ぶブヨブヨとした鉛色の干潟にごまつぶのようにシギが群れている。その向こうにノリヒビの竿がかすみ、ミサゴが遠くを舞っている。この広大な泥地は、彼らにとっては大切な休息地であり、越冬地でもある。
それにしても、私にとっていちばん思い出深く、又好きなのは東京湾であり、新浜である。そこは足を運ぶたびに風景が変わった。アシ原は次々と消え、マンションや住宅が一つ、二つと増えていった。道路が舗装され、商店街が出来、駅前広場まで出来た。それと反比例して、ゴム長ぐつをはき、双眼鏡を首からさげて歩く人の姿は消えていった。でも、そこから鳥たちの新浜が全く消えてしまったわけではない。マンションの脇の小さなアシ原には、相変わらずオオヨシキリが棲みついていた。江戸川放水路のかたわらの、ほんの少し残された蓮田には、バンやカイツブリ、オオバンが迎えてくれたし、ピンクのすばらしく長い脚をしたセイタカシギに初めて出会ったのもここだった。私は、春になるときまって、ここにツルシギの声を聞きにきたものだ。そして、鳥たちの声をかすかに聞きながら、放水路の土手に寝ころんだ。
何げなく、午後から新浜にやって来て、宮内庁御猟場の脇の水たまりで夕暮れまで鳥たちを眺めているのも好きだった。コサギやダイサギが御猟場のねぐらへと舞いもどるのを眺め、湿地にかすむシギたちを眺めるのだった。帰り道は、もうすっかり暗かった。
たそがれが世界をおおっていた
御猟場の森のふちが赤く赤く染まり
白サギが黒サギに変わって消える
もう何年も何年も昔から続いている光景
変わったものは、まわりの景色と人の心……
その御猟場のかたわらの小さな水たまり
私の愛したちっぽけな水たまりのふちに腰かける
シギたちは何も知らずに泥の中にくちばしをさしこむ
私は静かにそれを見る
本当は知っているのかもしれない
自分たちをちっぽけな水たまりへと追いつめてしまったものを
そして人々は忘れ去っていく
そこが生き生きとした世界であったことを
一日のなごりの陽ざしが水たまりをなでて通りすぎる
シギたちは何も知らなかったかのように泥の中にくちばしをさしこむ
私はだまってそれを見る
誰が知っているというのだろう
この闇の中に忘れ去られたものたちが
今生きていることを
そして大地をつついていることを
私は黙って闇を見る
その御猟場の前面には、今では野鳥のための保護区が出来、立派な野鳥観察舎が建っている。日曜ともなると、多くの人々がガラス張りの建物の中から、ものめずらしげに鳥たちを眺めていく。
そこは、かつての広大な干潟とは比べものにならないような小さな小さな保護区ではあるが、そのふちにたたずみ鳥たちを見る時、私の中に初めてシギを見る喜びにひたったあの日の感動が、いつとはなしに甦ってくる。潮風の中で聞いた、さわやかな声までも。
(注)この随筆を書いてから、すでに三十年以上が過ぎた。その間、有明海の諫早湾は「ギロチン」と呼ばれる巨大な水門で仕切られ、あの広大な干潟は海に没して消えてしまった。何ということだろうと、今さらながら思う。
新浜の江戸川放水路の傍らにあった蓮田も、もちろん今はない。2007年に友人と久々に新浜の保護区を訪れたのだが、行徳駅からの道のりに昔の面影はなく、商店や住宅のひしめくそこは全くの別世界だった。それでも保護区は管理人の蓮尾夫妻の手によって自然の再生が図られ守られていた。
なお、野鳥観察舎は、耐震性に問題があるという理由で一年ほど前から閉館を強いられている。再開されることを願って止まない。