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鬼蜘蛛の網の片隅から › 政治・社会

2022年09月11日

地域医療と社会的共通資本

 10年ほど前の「無駄な道路の典型 道道688号名寄遠別線」という記事(ココログ版)に「馬鹿馬鹿しい…」というハンドルネームで以下のコメントがあった。コメント欄でのやりとりを読んでの意見だ。

過疎地の医療が切り捨てられているなどという寝言のほうが強烈に見苦しい。
北海道のような過疎が進行している場所では地方に厚く医者を配置することなど不可能だろう。
だからこそ代替策として主要な都市部にいち早く抜けられるよう道路を作っているのではないか。
過疎地は切り捨てて都会に住めとでも?

さらに、そもそも論でいうなら、
名寄駐屯地から吹雪通行止めの危険性の少なく民家も少ない道道111号を経由して
日本海側の空白地帯に抜けられるということは、国防の上でも非常に重要な価値がある。
これは日常的に使うか使わないかではなく、いざという時体制がとれるかどうかだ。


 まず、「馬鹿馬鹿しい…」というハンドルネーム自体がふざけている。さらに、内容も不躾で、私の基準では承認しないレベルのコメントだ。しかし、この方のような主張をされる人が多いのも事実だと思う。そこで、地域医療について意見を書いておきたいと思う。

 まず、私は著名な経済学者である宇沢弘文氏の提唱した「社会的共通資本」という考え方に基本的に賛成である。

 社会的共通資本とは、自然環境のほか、社会的インフラストラクチャー、教育、医療、福祉などの必要不可欠な社会的資本を指す。宇沢氏は、社会的共通資本は私的資本と異なって、個々の経済主体によって私的な観点から管理、運営されるものではなく、社会全体にとって共通の資産として社会的に管理、運営されるようなものを一般的に総称する、としている。つまり、社会的共通資本は市場経済に委ねるのでも国家が管理するのでもなく、職業的専門家によって管理・維持されるという考え方だ。詳しくは「社会的共通資本」(宇沢弘文著、岩波新書)をお読みいただきたい。

 医療を社会的共通資本として考えるなら、医療機関を市場経済に委ねることにはならない。政府は地域別に、病院体系の計画を策定し、病院の建設・管理のために必要な財政措置をとらねばならない。また、医療従事者などの職業的専門家が中心となって学問的知見に基づき管理維持するということになる。

 冒頭のコメント主は、まず医療を市場原理でのみ考えているようだ。だから地方の小さな町では医療機関が縮小するのは当たり前で、大きな街に繋がる道路が必要だという論理のようだ。しかし、私は医療は社会的共通資本として整備すべきものだと考えているので、こうした考えは受け入れられない。国鉄が廃止され民有化されたために、人口の少ない北海道では採算が取れずに次々と廃線になっている。公共交通機関も医療機関同様に市場経済に委ねてはいけなかったのだ。

 もちろん人口が少ない自治体に大きな病院を建設することは現実的ではない。高度医療が受けられる病院が都市に限られてしまうのは致し方ない。しかし、過疎地だからといって医療が受けられないということはあってはならず、民間では赤字で運営できないのなら公的な医療機関として維持していく必要があるだろう。

 社会的共通資本の考えに基づき、人口規模だけではなく交通事情や気象条件なども考慮したうえで、高度医療が提供できる大病院、条件によっては救急患者の受け入れも可能な中規模の病院、それに小さな医療機関などが適切に配置されそれらが連携することで、地方に住んでいてもできるだけ速やかに必要な医療に繋げるようにすることは可能だと思う。

 救急医療に関しては、残念ながらどこに住んでいても平等かつ速やかに高度医療に繋げられるということにはならないだろう。都市から離れた地域に住んでいれば、大きな病院への搬送に時間がかかってしまうのはある程度はやむを得ない。荒天などで速やかに大きな病院に搬送できないこともあるだろうけれど、今はネットによるビデオ通信もできるようになってきており、地域の医師が専門医から指導を仰ぐことも可能だろう。できることを考えていくしかない。

 地方に住むということは豊かな自然環境に恵まれ、新鮮な空気や静かな環境を享受するということに他ならないが、買い物や医療など都市と同じような利便性は享受できない。逆に、都市に住むということは豊かな自然環境は享受できない。

 コメント主は「過疎地は切り捨てて都会に住めとでも?」と言う。もし、豊かな自然環境の享受より都市と同レベルの医療サービスを求めるのなら、都市に移住するしかないと私は思う。私自身、大病院から遠く交通機関も不便な地方に住んでいる高齢者だが、それは今のところ利便性より自然環境の恩恵を重視しているからだ。しかし、今後、運転免許を返上したり自分や家族が大きな病院への通院が必要になるなどしたら、より利便性の良い場所に移住するつもりだ。これは「過疎地を切り捨てる」ということではなく、自分の生活に合わせて住む場所を変えるという選択だ。

 先日、「ダムで壊される戸蔦別川」という記事を書いた。小さな河川に自然を破壊して巨大な砂防ダムを造り続けるのは、その背後に政官民の癒着と利権が渦巻いていることが最大の理由だろう。利用者がほとんどいない山の中の道路建設にもほぼ同じ構図があると私は見ている。荒天で日本海側の道路が通れない場合の救急搬送に利用できるというのは、あくまでも道路を造りたがっている人達による口実だと私は捉えている。道道688号名寄遠別線が開通したとしても、一時期の救急搬送だけのために冬季閉鎖をせず常に通れるように除雪をするなどということはまずないだろう。
  


Posted by 松田まゆみ at 21:56Comments(2)政治・社会

2022年04月13日

支配欲のあるところに平和はない

【昨日のツイートより】

 ウクライナとロシアとの戦争を見ていると、自国のために兵士となって戦うことのどこに正当性があるのかと不思議でならない。人と人との殺し合いを「国」を理由に容認していいとはとても思えない。太平洋戦争のときも全く同じだった。多くの人が「お国のため」と洗脳されて兵士となり、命を落とした。

 国のために国民が犠牲になるというのは、全体主義そのもの。そういう考えには一切賛同できない。しかし今、日本は「自国のために」という理由を掲げて再び戦争ができる国に突き進もうとしているように見える。太平洋戦争の教訓はいったいどこに行ってしまったのだろう?

 だからといって、国境を取り払えば戦争がなくなるというわけでもないだろう。内紛はいくらでもある。要は、紛争を話し合いで解決しようとしないことが問題なのだ。協力とか分かち合いとか他者の尊重とか譲歩などという精神があれば、武器を持たなくても問題解決は可能だと思う。

 武器で戦えば、必ず憎しみの連鎖になる。そして、個人同士ではなんの諍いもない人達が殺し合いをしてしまう。なんとおぞましいことかと思う。憎しみの連鎖を断ち切るには、「戦う」という反応を止めるしかなかろう。話し合いで解決できないから戦争が絶えないのだという人がいるかもしれない。

 しかし、戦争には必ずといいていいほど相手を支配したいとか、屈服させたいという欲求がある。他者を対等な関係とみなすことができないから、紛争になり、時に戦争にまで発展してしまうのだろう。これは今起きている情報戦や認知戦でも同じだ。その裏には、相手を屈服させたいという強い欲求がある。

 では、世界経済フォーラムが目指しているように、国の枠組みを取り払って世界統一政府をつくり、ごく一部の富裕層が他の人達を監視、コントロールするような全体主義的な世界をつくれば戦争のない平和な社会になるのだろうか? もちろん、そのような支配従属の社会は平和であるわけがない。

 相手を屈服させるために殺し合ったり、認知戦で騙し合って支配従属関係をつくろうとすること自体が愚かなことであり、それは国家の有無とは関係ないだろう。私たちが目ざすべきは、支配従属関係のない協力的な社会だ。人々が協力しあうことで成り立つ社会はそもそも格差のない対等な社会なのだから。

 支配従属関係のない協力的な社会は、競争と格差、そして環境破壊をもたらした資本主義と決別し、限りない経済成長という欲望を止めることでしか実現しないと思う。人が支配欲と競争に執着している限り、決して対等で平和な社会はつくれないと思う。

  

Posted by 松田まゆみ at 14:14Comments(2)戦争・平和政治・社会

2022年03月09日

グレート・リセットに隠された恐るべき人々のコントロール

 先日、「グレート・リセットに騙されてはいけない」という記事を書いた。ここでは、グレート・リセットとは「環境や格差に配慮した持続可能な資本主義への展開」がコンセプトでありながら、その実体は全体主義的な監視社会であると指摘した。一見素晴らしい改革であると勘違いさせ、一部の人(世界の超富裕層)が他者を完全に監視・支配する社会を作り上げるということだと私は理解している。

 それだけでも恐るべき話だが、彼ら支配層は具体的にどのような方法で人々を監視し支配しようとしているのだろうか。それについて、浜田和幸著「イーロン・マスクの次の標的 -IoBビジネスとは何か」(祥伝社新書)を引用して簡単に紹介したい。本書は世界的富豪であるイーロン・マスクのビジネスや野望について書かれたものだが、その話の中心はIoBに関わることだ。そして、世界経済フォーラムやグレート・リセットについても語られている。

 IoBというのは「Internet of Bodies」の略で、「身体のインターネット」のことを指す。もう少し具体的に言うと、人体に装着したデバイスとAIをネット接続することで人間の能力を拡張し、生活の質を向上させようという取り込みとのことだ。近年、「身体にマイクロチップを埋め込む」などという話を耳にするようになったが、これはまさにIoBである。そして、そのような研究が様々な分野で実際に進められている。

 ペンシルベニア州立大学のアンドレア・マトウィーシン教授はIoBには「第一段階:データの定量化」「第二段階:体内内蔵化」「第三段階:ウェットウェア化」の3段階があるという。このうち第一段階はスマートウオッチなどで、第二段階は心臓のペースメーカーなどですでに実用化されている。そして第三段階のウェットウェア化はまだ実験段階で、これこそ人間の脳にデバイスを埋め込むことだと言う。イーロン・マスクの手掛けている分野だ。

 本書の冒頭で、「脳波でゲームをする猿」の動画のことが取り上げられている。脳にデバイスを埋め込まれた猿がモニターを見ながらゲームをするのだが、その猿はコントロールレバーに触れることなくモニターのカーソルを動かしてゲームをすることができるという。つまり、埋め込まれたデバイスによって、脳波だけでゲームをしているのだ。霊長類の脳へのデバイスの埋め込み実験はすでにここまできている。

 このような技術は表向きは神経の疾患を持った人などが、失った能力を補うためだと説明されている。しかし、脳にデバイスを埋め込むことで不安や鬱などまでコントロールできるとしたなら、人々の思考を読み取ることで支配に利用できるのではなかろうか? 悪意を持った人が使えば凶器にもなりえるように思う。

 世界経済フォーラムの会長であるクラウスシュワブ氏は、かねてから第四次産業革命を唱道しているという。いわゆるグレート・リセットのことを指すのだろう。そして、シュワブ氏は「すなわち2025年までに、人類は通信機能を備えたデバイスを体外もしくは体内に取り入れる。すると人類が手にする情報のスピード、量、範囲が一気に拡大されるであろう」(160ページ)と述べているという。

 つまり、グレート・リセットは人間の体外および体内にデバイスを装着することで、人間を管理しようという目論見だと受け取れる。そして、最終的には脳へのデバイスの装着をすることで人々を監視、管理、支配することを目指しているのではなかろうか? たとえば、支配層の目指す徹底した管理社会に不安や不満を抱くことのない人間をつくりだすことも可能ではないかと思えてくる。人間をサイボーグ化しなければ、グレート・リセットという支配体制を実現するのは困難だと考えているのではなかろうか?

 しかし、もし本当に健康な人間にデバイスを埋め込むなどということがまかり通るのであれば、完全に狂っているとしか言いようがない。それはもはや生物としての人間を逸脱している。脳にデバイスを埋め込まれて管理されるのなら、それは人間ではなく家畜だ。否、家畜にだってそんなことをすべきではないと私は思う。

 浜田氏は新型コロナウイルスによるパンデミックがグレート・リセットを加速させたとみている。これでピンとくるのがワクチンパスポートとかスマホの接触アプリだ。パンデミックを利用してワクチン接種の有無という個人情報が管理される方向になってきているし、接触アプリによって位置情報や行動範囲まで把握されてしまう。感染対策の大義名分のもとに個人情報の収集や管理が進むというわけだ。

 アメリカの国土安全保障省は、個人のDNA情報や身体情報を収集してアメリカ国民をコントロールするシステムの構築を進めているという。個人が健康管理のために自分の身体の情報を把握するというのならまだしも、なぜ国が国民の極めてプライベートなデータの収集をするのか? 国が国民を管理とコントロールの下に置くことを目指しているということなのだろう。コロナのPCR検査で個人の遺伝子情報を収集することができると言われているが、そういう話も眉唾物と言い切れない。

 日本のマイナンバーカードも、健康保険証を兼ねたり銀行口座と紐づけたりするという動きがあるが、これも国民の個人情報を一元化することで管理、支配に役立てるためではないかと思われる。とんでもない時代になったものだと思う。

 新型コロナワクチンにはグラフェン(酸化グラフェンとか水酸化グラフェンなどと言われている)が入っているという情報があり、接種部位に磁石が付く人がいると言われている。さらに、ワクチンを接種した人はスマホのブルートゥースに反応するという話がある。これは実際に実験をしている方による以下の記事を参照していただきたい。

学校で「ブルートゥース実験」300件検出! 

 コロナワクチンは、外部から「接種の有無」を確認できるように設計されていたのではないか?という疑惑が浮かび上がってくる。体内に注入するワクチンに何等かのデバイスを仕込めばIoBになるということではないか?

 こうしたことからも、コロナ騒動がグレート・リセットに向けた計画的なもの、すなわちプランデミックであった可能性が極めて高いと私は考えている。

 私は原子力や遺伝子操作は人が手を付けてはならない分野だと考えている。原子力は核廃棄物のことだけを考えても人が安全に扱えるものではない。遺伝子操作はそもそも自然の摂理に逆らう技術であり、安全性も確立されていない。これも安易に手を付けてはならない分野だと思っている。遺伝子ワクチンも安全性が確認されていないし、動物実験で成功したことがない。

 そして、IoT(モノのインターネット)やIoBなどのインターネットを利用したテクノロジーも様々な負の側面があり、とりわけ脳にデバイスを埋め込むなどということは決してやってはいけないと思う。もちろん脳ではなくても、健康な人の体にデバイスを取り付け管理するなどということはあってはならない。

 私には、世界経済フォーラムに集う世界の政治・経済のリーダーたちが、こんなことまでして世界中の人を管理することに賛同していることがにわかに信じられない。環境問題も持続可能な社会ももちろん重要なことだ。しかし、方向性が完全に間違っていると思う。環境問題も、格差や不平等も、持続困難な社会も、競争と限りない経済成長を目指す資本主義が生み出したものだ。だからこそ、資本主義をやめて協力的な定常経済の社会を構築するしかないだろう。世界経済フォーラムの人達は正気とはとても思えない。

 こんな馬鹿げたことを続けていたなら、人類の絶滅の日もそう遠くないように思えてならない。
  


Posted by 松田まゆみ at 16:55Comments(0)政治・社会

2022年03月06日

グレート・リセットに騙されてはいけない

*昨日のツイートより

しばしば耳にするようになったグレート・リセットとは、資本主義と民主主義、そして金融システムをリセットし、全体主義的な行動管理社会へ移行させるということ。世界のごく一部の人達が集まって(ダボス会議)、勝手に世界を支配する計画を立て進めている。
ダボス会議「グレートリセット」で仕組まれる金融崩壊とコロナ後の資本主義

コンセプトは「環境や格差に配慮した持続可能な資本主義への転換」だが、その中身は全体主義的な監視社会。大きな問題は人々を騙して全体主義の世界統一国家を作ろうとしていること。本当に素晴らしい社会体制を築くというのなら、人々を騙す必要などない。皆の理解の元に進めていけばいい話しだ。

しかし、それでは当然理解が得られない。これが実現すれば人々は資産を奪われ、常に監視され自由も奪われる、そういう計画なのだから。だから、危機をでっち上げて騙した上で、人々を支配しようというわけだ。陰謀論などとせせら笑う人も多いが、本当の陰謀だ。もちろんコロナ騒動はそのきっかけだ。

ロシアによるウクライナ侵攻も恐らくその一環。彼らは計画達成に向けて次々と仕掛けてくるだろう。マスコミを利用したマインドコントロールによる認知戦が始まっている。私たちの社会はコロナ前には戻らない。私たちがやるべきことは、一人一人がこんな馬鹿げた計画にノーを突き付けることだと思う。

グレート・リセットの最大の問題点は、ごく一部の人が他者を管理・支配するという体制が根本的に間違いだという点。人は助け合い、協力し合う共同体を築いて生き延びてきた生物だ。支配・被支配の関係はこれに逆行する。全体主義の管理社会は決して人々を幸せにはしない。これは自然の摂理。

今の環境問題も、資本主義の競争と経済成長によってもたらされた。行き過ぎた資本主義をリセットするのなら、「助け合い、協力し合う社会」「経済成長を求めない社会」に変えていくしかないだろう。そして世界の富裕層こそその財産を放出して協力的な社会の構築に資するべきではないか。

ところが、実際にはその富裕層たちが人々から資産を取り上げて全体主義の統一国家をつくるというのだ。そしてその達成のために人々を騙して逆効果のを打たせワクパスで管理。コロナで生じた財政難を機に金融もリセット。こんな理不尽で馬鹿げた話はない。グレート・リセットは完全に間違っている。
  


Posted by 松田まゆみ at 21:09Comments(0)政治・社会

2022年02月28日

ウクライナ問題の真実

 今回のロシアによるウクライナの侵攻、マスコミではもっぱらプーチン氏が批判されている。もちろん私も軍事行動などとるべきではないという立場だ。しかし、マスコミ報道が果たして正しいのかと、ずっとひっかかっていた。

 というのも、コロナ騒動でマスコミは全くといっていいほど信頼できないと確信したし、マスコミが国際金融資本(ディープステート)に牛耳られていることは間違いないと思う。としたら、やはりウクライナ問題に関しても彼らはマスコミを操って自分達に有利な報道をさせている可能性が高い。

 そんなふうに思っていたところ、馬淵睦夫氏の動画を知った。この動画自体は2020年のものだが、ウクライナとロシアの対立の背景を知るために非常に参考になる。馬渕氏は、プーチン氏がウクライナを侵略したという報道は事実に反すると言う。そしてウクライナとロシアの紛争は、ロシアを支配するために仕掛けられた戦争だという見方をしている。つまり、国際金融資本がユーラシア大陸ひいては世界を支配するためにウクライナが利用されたと。

 馬渕氏の主張が正しいかどうかは分からないが、もしそれが事実なら、プーチン氏だけを悪者にしてしまうのは違うだろう。やはり、ウクライナ問題に関してもマスコミ報道を鵜呑みにしてしまうのは危険と言えそうだ。

 以下に馬淵氏の動画をリンクさせておくので、是非見ていただけたらと思う。

日本人が知らないプーチン大統領の本当の狙い  馬渕睦夫(元ウクライナ日本大使館大使)


 なお、苫米地英人氏は、米欧によるロシアへの経済制裁はグレートリセットの始まりではないかと指摘している。コロナ騒動に続いていよいよグレートリセットが動き出したのかもしれない。世界はどんどん混沌としてきている。以下参照。

米欧がロシアへの経済制裁を表明「SWIFT排除」「ロシア中央銀行への制限措置」〜 苫米地氏「影響は限定的、むしろグレートリセットの始まりに見える」


  

Posted by 松田まゆみ at 19:46Comments(0)政治・社会

2022年02月16日

自然の摂理に反した先にあるもの

*今日のツイートから

 野生生物は自然の摂理によって個体数を調整している。たとえば、餌条件が悪くなったり栄養状態が悪くなれ産卵数や産仔数を減らす。それでも増え続けてしまえば、食べるものがなくなって個体数が減る。ずっと増え続けることはない。しかし、人間はそうした自然の摂理から大きくはみ出してしまった。

 農業や畜産によって食糧を安定して得るようになり、医療によって死亡率を減らし寿命を延ばすことに成功し、化石燃料を利用して産業を発展させてきた。そして地球上の人口は70億を超えてしまった。このまま増え続けたなら、食糧問題、環境問題、エネルギー問題、どれをとっても危機的状況になる。

 だったらどうすべきか? 人類が生き延びるために人口抑制は必然のように思うが、もちろんそれは野生動物が行っているように生まれてくる数を減らすしかない。今の危機的状況について皆が理解して産児制限に取り組むしかないと私は思う。しかし、世の中にはそう考えない人たちがいる。

 つまり、現在生きている人たちの寿命を一気に縮めたり、子どもが生まれないような体にしてしまおうと考える人がいるのだ。しかも人々を騙して。こんな考え方ができるのは人としての心を持っていないサイコパスだろう。そして今、彼らはその計画を実行に移している。殺人行為だ。

 地球に巨大な隕石が落ちたとか破局噴火など、自然現象によって人類が滅亡するのならそれは運命と言うしかない。事故などで亡くなっても、ある意味運命なのだろう。あるいは人為的な温暖化や環境破壊、環境汚染などが原因で多数の人が亡くなるのなら、愚かな人類の選択の結果として諦めるしかない。

 しかし、ごく一部の人間がお金や権力を利用して自分達以外の人たちを騙し、医薬品などを用いて人を減らすなどということが許されるのだろうか? これは戦争と同様、生物として決して選択してはいけない道だと私は思う。彼らがやろうとしていることは、それだけではない。

 生き残った人の徹底した管理と支配だ。さらに恐ろしいのは遺伝子を操作したり、マイクロチップなどを埋め込んで操ろうという思考。彼らの頭の中には「自然の摂理に従う」という意識はまるでなく、むしろそれに逆行したことをしようとしている。これは破滅をもたらすだけだろう。完全に狂っている。

 本当はもっと早い時期に人口問題に取り組まねばならなかったのだと思う。しかし、人は自然の摂理に反し経済成長による豊かさを求め続けた。ここにそもそもの過ちがあったのだと思う。もし人類に未来があるなら、経済成長に終止符を打ち、格差をなくして協力し合う共同体を築いていくしかなかろう。
  

Posted by 松田まゆみ at 20:21Comments(0)政治・社会新型コロナウイルス

2022年02月12日

今、世界で起きていること

 多くの人は、人口削減だとか金融支配などというのは「陰謀論」だと信じて疑わない。しかし、もはやそんなことを言っている場合ではない。壮大な計画遂行のために私たちの大半がマインドコントロールされ、「陰謀論」だと信じこまされていることを知らなければならない。

 以下の動画はこれまでも何度か紹介してきたライナー・フューミッヒ弁護士による大陪審での冒頭陳述だ。今、世界中で遂行されようとしている計画の概要がこの彼の意見陳述に凝縮されている。

 世界を支配しようとしている大富豪たちは、すでに国家も、マスコミも、国連もWHOも支配下に置いている。そして彼らの目的は世界的の人口の大幅な削減、生き残った人のDNA操作、デジタル通貨による世界の金融支配。もちろんこのパンデミックもPCR検査によって作り出されたものであり、今は「終わりの始まり」。

 私はツイッターでコロナを恐れないこと(実際に怖い感染症ではない)、PCR検査を止めること、マスクを止めること、ワクチンを打たないことを訴えてきた。これらを続けているということはマインドコントロールされ続けているということ。

 国家もマスコミも国連も支配されている以上、この流れを変えることができるのは私たち一人ひとりの覚醒と抵抗しかない。

 世界を牛耳ろうとしている人たちが一番恐れているのは、世界中の人たちがこのマインドコントロールに気づき、抵抗を始めること。そして自分達が犯罪者として裁かれること。これらを避けるためには何でもやるだろう。コロナ騒動が一段落しても、決して元の日常は戻ってこない。

 私たちから基本的人権を奪おうとする日本の改憲もこの流れの中にある。だから、改憲を決して認めてはならない。

 多くの人にこの動画を広めてもらいたい。言論の自由が奪われる前に。

COVID判決】大陪審、世論判-ReinerFuellmich博士の冒頭陳述

  

Posted by 松田まゆみ at 11:30Comments(0)政治・社会新型コロナウイルス

2020年11月03日

日本の医療の矛盾に切り込む「日本の医療の不都合な真実」

 森田洋之著「日本の医療の不都合な真実」を読み終えた。本書は前半が新型コロナ問題に割かれ、後半はデータと夕張の診療所勤務の経験を踏まえ日本の医療の問題点を掘り下げている。

 ツイッターでは新型コロナ問題で医師や研究者などもかなり発言しているが、意見は非常に多彩で、一般の人達にとっては何が正しいのか判断するのは難しい。新型コロナを非常に警戒し検査と隔離によって感染拡大を防ぐべきだという意見や、中には根絶を目指すべきだという意見まである。その一方で、日本の場合は陽性者の数が増えていても死者数はほとんど増加しておらず厳しい対策は経済死を増やすという意見もある。

 森田氏の意見は後者だ。日本を含め東アジアでは欧米に比べて人口当たりの死者数は非常に少ない。これは偶然のこととは考えられず、BCGの接種や既存コロナの交差免疫が関わっている可能性が高いのではないかという。また韓国の例などからPCR検査を増やせば死者を減らせるという意見にも否定的だ。ウイルスを根絶しようとするのは間違いであり、ウイルスを殺すのは免疫力だという。私もほぼ同じ意見だ。

 私は3月までは都市封鎖や検査と隔離による封じ込めをするべきだと主張していた。ツイッターで流れてくる武漢の状況を見る限り、このウイルスは感染力と致死率が極めて高く、強硬手段をとらないととんでもないことになると感じだからだ。しかし、BCG仮説を知ってからはその考えは大きく変わった。実際、BCG義務国である日本は、欧米とは比較にならないくらい人口当たりの死亡者数は少ない。これから冬に向けてPCR検査陽性者が増えていくとしても、この傾向はおそらく変わらないだろう。流行初期は警戒すべき感染症であっても、細胞性免疫によってやがて普通の風邪になっていくのではないかと思う。

 BCG仮説に関しては「仮説であり立証されていない」という意見がまだまだ多い。しかし、最初にBCG仮説を提唱したサトウ・ジュン氏はツイッターでBCG仮説を支持する実験や臨床試験などの結果をしばしば紹介している。私はほぼ立証されたと言っていい段階にまできていると思っている。

 さて、本書で森田氏が最も主張したかったのはコロナ問題というより今回のコロナ騒動から見えてきた日本の医療の問題点だ。森田氏は本書の後半で、以下の7つの言説について否定している。

・病床が多いと平均寿命が延びる
・全国どこでも同じような医療が受けられる
・医師が忙しすぎるのは医師不足だから
・地域の病院は減らしてはいけない
・公立病院の赤字は税金の無駄遣い
・病院がなければ高齢者は幸せに生きられない

 これらについての具体的な説明は本書に譲るが、印象に残ったのは日本は人口当たりの病床数がダントツ一位で平均寿命もトップだが、世界の傾向は病床数を減らしつつ平均寿命を延ばしてきたというグラフだ。また、日本国内で病床数が多い都道府県ほど一人当たりの入院費が多いことを示すグラフも驚いた。病床数が最も多い高知県民は最も少ない静岡県民の2倍近い入院費を支払っているという。病床が多い地域では空き病床を埋めようとする力が働くとしかいいようがない。

 日本は世界で最も病床数が多いにも関わらず、新型コロナが猛威を振るったこの春、コロナ患者を受け入れた一部の病院は医療崩壊寸前まで追い込まれ、受け入れを拒否した多くの病院は逆に患者が減ってしまった。しかも、どちらも経営的に大変な状況に追い込まれた。私も、これに関しては宇沢弘文氏の指摘した「医療的最適性と経済的最適性の解離」が新型コロナで明瞭になったとツイッターで呟いたが、民間病院が多い日本の医療が抱える大きな矛盾だ。感染症の流行で多数の病床が必要になったときにも、民間病院が協力し合って患者の受け入れ態勢を整えるという融通が利かない。

 また、経営を最優先する民間病院では、検査漬けや薬漬けになりやすい。私も親族の入院などで、病院が必要とは思えない検査を行うことを何度も経験した。肺がんで入院しているのに婦人科の内診をしたり、急性膵炎で入院した高齢者に原因究明との理由でいくつもの検査をしたり、意味があるとは思えないMRI検査を予約させたり。高額な検査機器の費用回収という目的なのかもしれないが、医療を市場原理に任せてはならないとずっと感じてきた。森田氏は不必要な医療が多数存在するというが、私もその通りだと思う。

 日本は国民皆保険によって低額で医療が受けられるが、寝ていれば治癒する風邪やインフルエンザで医者にかかり、薬を出してもらいたがる人がとても多い。もちろんインフルエンザでも亡くなる人はいるので重篤な症状があれば医療機関を受診すべきだが、患者自らが検査漬けや薬漬けを希望している側面も否めない。コロナ禍で医療機関にかかる人が激減したが、過剰な医療を受けている人が多いことが浮き彫りになった。

 また、森田氏はプライマリ・ケア医の重要性も指摘する。プライマリ・ケア医とは、子どもから高齢者、急病から老衰の看取りまでどんな困りごとにも対応してくれる地域のかかりつけ医のことだ。しかもプライマリ・ケア医は心や体だけではなく社会(地域)も診ることが求められるという。北海道の地方に住む私もプライマリ・ケア医を普及させることは賛成だ。これは地方だけに当てはまることではなく、都会でも同様だと思う。

 北海道の夕張市は財政破綻し、市内に一つしかなかった171床を持つ「夕張市立総合病院」が閉鎖され、19床の有床診療所と介護老人保健施設に縮小された。森田氏はその診療所の医師として勤務した経験から、訪問診療や訪問看護を充実させることで入院患者を減らせるだけではなく、救急搬送も減り、患者の生活の質も向上したことを紹介している。私も訪問診療や訪問介護はもっと普及すべきだと思うし、森田氏の意見に基本的に賛同する。高齢者をすぐに病院に入院させてしまうのではなく、在宅で診療や看護をしてもらえるのなら、生活の質を保つことにつながり、精神面でもメリットが大きいと思う。

 森田氏は夕張モデルを根拠に厚労省の公立病院の統廃合も肯定している。しかしこの点に関しては、私はもっと慎重であるべきだと思う。病院の閉鎖後に夕張のような体制が整えられるのならまだ分かるが、先行きが分からない中で「廃止ありき」で進められるのなら住民の理解が得られるとは思えない。

 私も北海道の僻地に住む以上、都会と同等の医療を受けられるとは思っていない。しかし、地方の過疎化と高齢化は歯止めがかからず医療機関の数も公共交通機関の本数も減る一方で、運転免許を手放したら僻地に住み続けるのは極めて困難になる。正直いって、住み始めた頃はここまで不便になるとは思ってもいなかった。大きな街に移住していく高齢者が後を絶たないのもよく分かるし、私自身も身内の入院をきっかけに移住を考え始めている。

 個人的には、地方の公立病院は規模を縮小しても存続してほしいと思う。今はITを利用した遠隔診療も可能になってきており、疾患によっては地方の病院での救急搬送の受け入れも広がるのではないかと思う。また患者が少ないからと診療科を減らすのではなく、定期的に専門医を派遣してもらうということも一つの選択肢ではなかろうか。

 医療を市場原理に任せてしまったことが日本の医療の矛盾の根底にあると思う。本書では触れられていないが、医療業界と製薬会社などの癒着や利権構造もその矛盾を大きくしているのだろう。医療はやはり社会的共通資本としてできる限り公平に、無料ないしは安価で提供できるのが理想だ。そのためには新自由主義から抜け出さねばならないし、私たち一人ひとりの意識改革も必須だと思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 21:21Comments(0)政治・社会

2020年10月23日

『人新世の「資本論」』が描く脱成長の豊かな社会

 斎藤幸平著『人新世の「資本論」』を読み終えた。久々に衝撃的な本に出合った。

 本書の主張を端的に言うならば、今の環境危機を招いたのは限りなく成長と利潤の追求を続ける資本主義であり、環境危機から人類を救うためには資本主義から脱却しなければならないということだ。そして、著者の斎藤氏はその解決方法がマルクスの思想の中にあることを見出し、具体的な提言をする。

 今の時代に資本主義を否定したり、経済成長を否定する人は極めて少ない。環境問題を主張する左派の人でさえ、経済成長を明確に否定する人はそれほど多くないのではなかろうか。私は正直言ってそのことが不思議でならなかった。

 10代の終わり頃、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだ。当時の私にはかなり難解だったが、私はこの本を読んで資本主義に絶望的になった。限りない利潤の追求はいずれ富の偏在や不平等に行きつくだろうし、そもそも有限な地球で限りない利潤の追求など続くわけがない。子どもの頃から虫や自然が好きで、経済成長とともに自然が破壊され公害が発生していく現実を目の当たりにしていたから、利潤追求の資本主義に恐怖を感じたし、私には、資本主義を賛美する人達の思考が全く分からなかった。

 私は強く支持する政党がない。なぜなら日本には資本主義を否定して脱成長や定常経済を主張し環境問題に真剣に取り組む政党が見当たらないからだ。

 私はこのブログでも脱成長や定常経済、地球温暖化について何度か唱えてきたが、経済成長の否定に関してはどちらかというと直感的なものからきていた。地球の資源は有限であるし、そこに住める人の数も限られる。しかし経済成長が地球の資源を食いつぶして成り立っている以上必ず限界がくるし、温暖化をはじめとした地球環境問題も経済成長に端を発している。

 人類が地球上で生物進化によって誕生し、地球という生態系を外れて生きていくことができない以上、経済成長は自滅の道でしかないだろう。生物は環境の変化に応じてゆるやかに進化適応しているが基本的に「定常」状態であるからこそ、生物多様性が保たれているのだ。そして気の遠くなるような年月をかけて種分化した生物たちを、人類がものすごい勢いで絶滅に追いやっている。無限の経済成長は地球の生態系のシステムを破壊し、地球温暖化問題として人類の生存を脅かすようになった。

 またグリーン・ニューディールや技術によって環境問題を解決しようとしても、経済成長を目指す限りおそらく上手くいかないだろうということも直感していた。人が自然の摂理に逆らおうとしても、自然はそれを押し返そうとする。技術で自然をコントロールしようという思考こそが人類の驕りだ。

 しかし、本書は私が直感的に感じていたこれらのことを実に論理的に解き明かしている。単に問題点の指摘に留まらず、気候危機を乗り越えるために私たちはどんな社会を構築し、どんな行動をしたらいいのかという具体的な提言は見事と言うしかない。

 私自身、今の尋常ではない格差の拡大も、自然環境の破壊も、地球温暖化問題もみんな繋がっていて資本主義に起因しているということは分かっていても、ではどうやって資本主義から定常経済への転換を遂げるのかということになると、頭を抱えてしまっていた。

 せいぜい思いつくのは、成熟した資本主義から一気に別の定常的なシステムに移行することはできないだろうから、まずは北欧型の福祉国家に転換することで平等な福祉国家に移行して貧困の解消と労働環境の是正をはかりつつ定常経済へのソフトランディングの道を探るということくらいだった。しかし、本書を読んでその考えは修正をしなければならないと思った。

 北欧型の福祉国家は資本主義社会においては確かに対等で平等な社会を実現するためのシステムとして優れていると思う。しかし、やはり資本主義が根底にある以上、北欧型社会を実現しても地球危機の問題は解決しない。人類が直面する環境危機から脱するには限りない利潤追求や経済成長、つまり資本主義を否定するしかないのだ。しかも、一刻も早く資本主義から抜け出す必要がある。気候変動への対応も、対等で平等な社会への移行も、労働環境の改善も待ったなしの状態だ。本書を読めば、そのことが確信できる。

 もう一つ、斎藤氏の主張で大事なことは、資本主義の発展によって搾取されてきたグローバル・サウスの人達の声を聴き連携するという主張だ。私たち先進国の人達の豊かな生活が、グローバル・サウスの搾取から成り立ってきたことを、多くの人は実感していないし知らない人も多いだろう。環境危機は地球規模で起きているのであり、世界の国々の人達が同時に立ち上がって行動しなければ解決しない。

 日本は利権構造が根強くはびこり、地球温暖化対策も声高に叫ばれないし、経済成長神話から抜け出せない人達が大多数だ。私は正直いって、かなり絶望的な気分になってきていた。しかし、斎藤氏の提唱する「脱成長コミュニズム」は決して実現不可能な話ではない。企業という組織から抜け出して協同組合やワーカーズコープに移行することは現実的な提案だ。

 第六章「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」から一部を引用しよう。

 もう新自由主義には、終止符を打つべきだ。必要なのは、「反緊縮」である。だが、単に貨幣をばら撒くだけでは、新自由主義には対抗できても、資本主義に終止符を打つことはできない。
 資本主義の人工的希少性に対する対抗案が、〈コモン〉の復権による「ラディカルな潤沢さ」の再建である。これこそ、脱成長コミュニズムが目指す「反緊縮」なのだ。


 この引用部分だけでは何を言っているのか分からないかもしれないので、少し説明したい。資本主義というのは商品の希少性をつくりだす。たとえば水というのは誰もが必要であり「使用価値(有用性)」がある。ところが水道事業を民営化して商品として扱うと、水の商品としての「価値」が重視されて価格が吊り上げられ、水質や維持管理費はないがしろにされることになる。その結果、水道料金を払えない人は給水を停止されてしまう。つまり水を商品化することで希少な有償財になってしまい、使用価値も棄損される。これが「資本主義の人工的希少性」だ。水を共同体の所有物として管理し、一定のルールの下に誰でも利用できるようにするのが「〈コモン〉の復権」だ。

 斎藤氏は脱成長コミュニズムの柱として①使用価値経済への転換 ②労働時間の短縮 ③画一的な分業の廃止 ④生産過程の民主化 ⑤エッセンシャル・ワークの重視 を掲げている。それらの詳細については、是非本書をお読みいただきたい。(注)

 新自由主義に危機感を抱く人の多くが「反緊縮」で思考停止してしまっている。MMTによる反緊縮の主張はその最たるものだろう。しかし、それだけでは決して気候変動は止められないし、世界中の誰もが幸福になれる道でもない。

 もう一つ付け加えるなら、斎藤氏の目指す脱成長コミュニズムこそ、人々に精神的な安定と豊かさをもたらすに違いないと思う。資本主義は格差を拡大させたばかりではなく、人々を終わりなき競争に追い立てることで精神的にも疲弊させた。脱成長コミュニズムはまさに人々が信頼し協力しあう社会であり、心理学者のアルフレッド・アドラーの提唱する共同体感覚と一致する。脱成長コミュニズムは、資本主義で失われた精神の安定や幸福感を取り戻すことができるのではなかろうか。

 これだけ格差が拡大し富の偏在が生じた社会において、資本主義に見切りをつけ定常経済に移行するのはもちろん容易なことではないだろう。当然のことながら大企業や富裕層の大きな抵抗を覚悟しなければならない。しかも資本主義、とりわけ新自由主義で競争に駆り立てられ、国民が「信頼と相互扶助」の意識を失ってしまった国ほど困難が付きまとうのではないかと思う。しかし、今それをやらねば、私たちの住む世界は混沌とした野蛮状態に陥り環境危機で自滅するだろう。

 私たち一人ひとりの決断と行動が、未来への責任を負っている。「今だけ金だけ自分だけ」の新自由主義から、そして資本主義からきっぱりと方向転換すべきだ。

*注 10月24日に引用部分についての説明を追記しました。
  


Posted by 松田まゆみ at 14:27Comments(0)政治・社会

2020年06月16日

山本太郎氏の言動から見える彼の目的

 昨日、山本太郎氏が記者会見を開き都知事選への出馬を表明した。山本氏に関してはこれまでもこのブログで何回か批判的記事を書いてきたが、以下は今日の連続ツイート。彼の扇動的な街宣や記者会見での発言を「迫力がある」といって評価したり注目する著名人もいるが、私はとても危ういと思っている。

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山本太郎氏が「れいわ新選組」なる政党を立ち上げてから、彼の言動を関心を持って見てきたが、彼はおそらく野党共闘などまったく関心がなく自分の支持率を上げ自分の政党を大きくし、願わくは総理大臣になり、自分の理想とする政治をすることが目的なのだろうと私は考えている。

彼は野党共闘とか野党統一候補に関して、必ず条件をつける。そして、他党が条件を呑まないからと他党の責任にして共闘に参加しようとしない。立憲民主党の悪口を言い、共闘の話し合いにすら参加しようとしない。一見、共闘に関心があるように見せかけているが、本音では共闘に関心がないのは明らか。

それならはじめから「共闘には参加しません」と明言すればいいのにそうは言わず、自分が共闘に加わらないことを他党のせいにして様々な言い訳をする。共闘に参加しないことが自公政党を利することは誰にでも分かることだが、「自分こそ庶民の味方」「自分こそ正義」を掲げて庶民の心をつかもうとする。

そうした行動から見える彼の目的は、「自分こそ救世主だ」「他の人には自分と同じことはできない」と生活の苦しい人たちに訴えかけることで権力を手にすることだ。彼の「総理大臣を目指す」「権力よこせ」という発言に端的にそれが表れている。後者の発言を聞いたときに、私は心底ぞっとした。

「権力よこせ」というのは、「権力さえ手にすれば、自分の思い通りになる」という発想に基づいている。民主主義とは正反対であり独裁者の思考だ。正直いって、安倍首相の発想とどこが違うのかと思う。どんなに「庶民の味方」を強調したところで、独善的な人物をリーダーにしたならば独裁政治になる。

地方自治であれ国政であれ、こういう思考の政治家を選んではならないと私は思う。彼の発言、彼の振る舞いを観察していれば、彼の目的が自ずと見えてくる。パフォーマンスの効いた迫力のある演説の裏にある彼の真の目的と独善性を、有権者はきちんと読む必要がある。

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山本太郎氏が野党共闘に参加する気などないことはこれまでの言動から明白だ。しかし、今の与野党の勢力を見れば、野党が統一候補を立てない限り政権交代はできないし、まして弱小政党の党首が総理大臣になどなれるはずがない。ならば彼はどうやって総理に上り詰めるつもりなのだろうか?

そこで思い出すのが「消費税減税で一致すれば自民党とも組む」という彼の発言だ。彼にとっての敵は自公政権ではなく、消費税減税に賛同しない人たちなのだろう。政党の枠を超えて消費税減税とMMTを基にした独自の財源論に乗ってくる人達でまとまり政権を取ることを考えているのではないか。

そんなやり方で政権がとれるとはとても思えないが、それにしても「消費税減税・廃止」と「借金によるバラマキ政策」にあれほどにまで固執することに、「ブレていない」というより何か異様なものを感じてしまう。経済政策とはそんな単純なものではないだろうに。
  
タグ :山本太郎


Posted by 松田まゆみ at 21:21Comments(0)政治・社会