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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱 › 政治・社会

2018年06月22日

自民党政権を支持し続けたら国民は見殺しにされる

 気象庁は日本付近で発生した被害地震の一l覧を公表している。震度4や5でも被害が生じることがあるが、6以上になると大きな被害が生じることが多い。そこで2006年以降、震度6以上の被害地震がいくつあるのか数えてみた。


1997年 1回
1998年 1回
2000年 4回
2001年 1回
2003年 3回
2004年 1回
2005年 2回
2007年 2回
2008年 2回
2009年 1回
2011年 7回
2013年 1回
2014年 1回
2016年 4回

 20年間で31回なので一年あたりにすると約1.5回。東日本大震災のあった2011年の7回を除いたとしても、年に1回以上は震度6以上の大きな地震が起きている。

 日本は4つのプレートの境界に位置しているのだから海溝型の地震が必ず起きるし、プレートに押されて内陸では断層ができ、火山が噴火する。その火山もときとして破局噴火に至る。私たち日本人はそんな地震国、火山国に暮らしており、これらの自然災害から逃れることはできない。

 大地震も火山噴火も必ず起きるが、いつどこで起きるのかは現在の科学では予知がほとんどできない。常識的に考えれば、こんな国に原子力発電所をつくることは明らかに間違っている。2007年の新潟県中越沖地震による柏崎苅羽原発の事故も、過酷事故寸前だった。それでも日本は原発を運転しつづけた。そして2011年には福島の原発事故が起きたのだ。もし原発の直下で断層がずれる内陸型地震が起きたなら、原発などひとたまりもないだろう。すぐ近くであっても大事故が懸念される。

 その後も2016年に熊本地震がおきて大きな被害が出た。つい先日は大阪で震度6弱の地震があった。これほどまで地震が頻発しても自民党政権は原発を止めようとせず、再稼働へと動いている。福島第一原発が収束の目途が立たない過酷事故を起こして大きな被害を生じさせ日本が危機的状況になったというのに、まだ原発にしがみついている。過去の事故と教訓に全く学ばないとはこのことだ。

 福島の原発事故のあとドイツでは脱原発に舵を切った。地震の少ないドイツですら福島の事故から学んでいるのに、当事国がまったく学ばないというのはどういうことなのか。利権にしがみつきまっとうな判断ができなくなっている政権はもはや狂気としかいいようがない。

 このまま日本が原発を続けるのであれば、いつか再び大きな事故を起こすだろう。そして、原発を推進してきた政府は間違いなく都合が悪い情報を隠蔽し事故を過小評価するだろう。それは福島の事故で実証済みだ。原発事故で人が亡くなっても、健康被害が生じても「事故との因果関係は認められない」といって保障もしない。それどころか被ばくの影響を過小評価し避難した人たちを放射能汚染された場所に戻そうとする。これが政府のやり方だ。そして事故の処理のための巨額の費用が税金から支払われる。国民は踏んだり蹴ったりだ。

 原発問題ばかりではない。安倍政権は生活保護や障害年金といった社会保障まで削減している。海外へのばら撒きや米国からの武器の購入をやめて社会保障や貧困対策に充てればどれだけの人が救われることだろう。それだけではない。「働き方改革」という名のもとに労働者を定額で働かせ放題にしようとしている。その労働者いじめの法案を無理矢理通すために国会の延長までするという暴挙に出た。

 原発推進も社会保障の削減も、労働者を奴隷のように扱う高プロ制度も国民を見殺しにするに等しい。その国民見殺し政権の支持率は4割近くもある。安倍政権で恩恵がある人たちだけではなく、一般の国民でも支持している人たちが一定程度いるのだ。国民が自民党政権のやっていることに大きな疑問を抱かなくなっているのなら、正常な判断力を失っているとしか思えない。
  

Posted by 松田まゆみ at 06:48Comments(0)政治・社会

2018年03月27日

疑惑が深まっただけの佐川氏証人喚問

 今日は森友学園問題で決算文書改ざんを指示したとされる佐川宜寿前国税庁長官の証人喚問だった。この喚問でのやりとりについてはニュースにもなっているので具体的に言及するつもりはないが、印象を記しておきたい。

 佐川氏がこの証人喚問に対してどう出るかは多くの人が注目していたし、真実を話すことで自分だけに責任を押し付けるような政権側のやり方に反撃するのではないかという期待を抱いていた人も多かったのではないかと思う。

 佐川氏は証人喚問の冒頭から「刑事訴追の恐れがあるので答弁を差し控えさせていただく」という予想された答弁拒否の発言をした。この瞬間に、佐川氏は官邸を守る決断をした、すなわち事実を包み隠さず話すという選択はしなかったと直感した。

 そして案の定、決算文書改ざんに関わる質問に関しては答弁拒否を繰り返した。そればかりではない。刑事訴追とは何ら関係のない「昨年2月の国会答弁は改ざん前の文書を基にしたか」「昭恵夫人の名前が決算文書にあったのを見たときにどう思ったのか」といった質問にまで「刑事訴追・・・」を理由にシラを切った。

 都合が悪いと思える質問に対しては答弁拒否あるいははぐらかしの答弁をする。しかし、官房や官邸などからの指示や圧力、あるいは関与などはあったのかという質問に関しては明確に否定。昭恵夫人の影響についても否定。不自然極まりない答弁を貫いた。

 想定される質問を網羅しどのような答弁をするのかあるいは答弁拒否するのか、弁護士と綿密な打ち合わせをして頭に叩き込んだ、そんなことを連想させる答弁だった。しかし、人というのは心の動揺まで隠せるものではない。早口になって言い訳をする姿に、「正直に答えている」という印象を持った人はまずいないだろう。疑惑を追及されると関係のないことを長々としゃべり続けて論点をそらす安倍首相の答弁に通じるものがある。

 昨年行われた籠池氏の証人喚問では、部分的に「刑事訴追の恐れ」を理由にした証言拒否はあったものの全体として不自然さはなく、矛盾を感じるようなこともなかった。それに比べ、今日の佐川氏の証人喚問はあきらかに不自然であり、無理をして誤魔化しているのは明白だった。疑惑が解明されるどころか、疑惑が深まるばかりの答弁だ。結局、事実をそのまま話さないという選択をしたなら、こうならざるを得ない。彼は恐らく良心の呵責を覚えながらも官邸を守る選択をしたのであり、それは間違いなく自分の目先の利益を守る選択だったのだろう。

 官邸を守る答弁をしたなら見返りがあるのに対し、官邸を裏切るような答弁をしたならこのあとさまざまな制裁が待ち構えている。佐川氏はそのことを一番よく分かっているに違いない。官邸に有利な発言を貫けば、偽証罪に問われることはないと踏んでいるのだろう。

 人は窮地に陥ったときに自分の身を守ろうとする。ただし、良心に従って真実を話すことが自分の身を守ることだと考える人と、目前の損得を秤にかけて得をとることが身を守ることだと考える人がいる。佐川氏は後者を選んだということだろう。

 佐川氏が国会において虚偽の答弁をし、決算文書の改ざんという指示をしたことはほぼ間違いない。このときも損得を秤にかけて身を守るという選択をした。そうした思考をする人が、証人喚問に場において考えを180度改め、良心に従って事実を話すという大転換をすることは並大抵のことではない。圧力をはねのけ証人喚問で包み隠さず事実を話せるような勇気のある人は、そもそも虚偽答弁や改ざん指示などといった国会や国民を裏切る行為はできない気がする。

 しかし、本当にその選択で良かったのだろうか。恐らく、今日の佐川氏の答弁に基づいて安倍政権は「官邸も昭恵夫人も関与していないことが明らかになった」としてこれ以上の証人喚問を拒否するに違いない。しかし、それでこの問題が収まるとはとても思えない。なぜなら、今日の答弁からは「なぜ決算文書の改ざんをしたのか」という核心部分は一切分からなかったからだ。これで野党の追及が収まるわけがない。佐川氏の答弁に納得できない者からの内部告発もあるかもしれない。加計学園に関しても公文書の偽造疑惑が指摘されているから、遅かれ早かれ加計問題にも飛び火するだろう。

 仮に、なぜ改ざんがなされたのか真相が分からないまま幕引きがなされたとして、佐川氏が人並みの良心を持ち合わせているのなら、一生、知っていることをありのまま話さなかったことに苛まれるのではなかろうか。しかも今日の答弁は多くの国民の期待や信頼を裏切った。つまり精神的苦悩を抱え込むことになるだろう。佐川氏は判断を誤った、私にはそう思えてならない。
  


Posted by 松田まゆみ at 22:06Comments(0)政治・社会

2018年03月12日

原発事故から7年、日本は危機的状況から脱することができるのか


 東日本大震災と福島第一原発の事故が起きてから丸7年が過ぎたが、「現代ビジネス」に興味深い記事が掲載されていた。

福島原発事故から7年、復興政策に「異様な変化」が起きている

この国はもう復興を諦めた? 政府文書から見えてくる「福島の未来」

 原発事故からの復興を利用した、安倍政権の「騙し」の手法、そして官僚の権力へのへつらいがひしひしと感じられるのだが、この無責任な政治や行政の根源はどこにあるのか? 筆者の山下氏は国の無責任化は「二大政党制」と「政治主導」ではじまったと言う。

 二大政党制を目的に導入された小選挙区制が民意を蔑にし、内閣人事局の創設で官僚の人事権を握って政治主導を手にした安倍政権が、今の末期的ともいえる騙し体質、無責任体質を生んでいるのは確かだと思う。

 森友学園をめぐって公文書の改ざんがあったことが明確になってきたが、こうした国民を欺く政権を解体させ、無責任体質を根本から変えねば、この国はまっとうな民主主義国家になれそうにない。原発事故からの復興政策も森友文書改ざん事件も、みんなつながっている。

 原発事故から7年経って私が何よりも懸念するのは、日本が再び大地震や大津波などの自然災害に襲われるのではないかということだ。御岳山が噴火し、草津白根山が噴火し、つい先日は九州の新燃岳が噴火した。火山活動が活発化しているということは、プレートに圧力がかかっているということだ。東日本大震災の直前にも新燃岳が噴火している。いつ再び大地震がおきてもおかしくないのに、国は原発事故を過小評価し、再稼働に血道を上げている。

 日本は政治においても自然災害に端を発する原発事故においても、ほんとうに危機的な状況に置かれている。
  

Posted by 松田まゆみ at 15:33Comments(0)政治・社会

2018年03月08日

歴史に残る森友学園をめぐる腐敗政治

 森友学園問題が発覚してから一年余。安倍首相は2017年2月17日に「私や妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」と発言した。その後、安倍夫妻の関与を疑わせる証言、文書、録音記録などが次々に公表されたが、籠池夫妻を長期拘留して口封じをした上、丁寧な説明はいっさいせずに誤魔化してきた。

 そして問題発覚から一年たって出てきたのが3月2日に朝日新聞が報じた公文書改ざん疑惑。改ざんされたとされる文書は、2015年から16年に森友学園と土地取引をした際に近畿財務局の管財部門が局内の決済を受けるために作成した文書。「本件の特殊性に鑑み」「学園に価格提示を行う」などの表現が削除された改ざん文書が国会議員に開示されていたというのだから、事実なら国会も国民も愚弄したことになる。

 そして、今日は毎日新聞が朝日の後を追って改ざん疑惑を報じた。毎日新聞の場合は昨年9月に情報公開で開示請求した文書(財務局が学園に売却額の予定価格を通知した際の決裁文書)と昨年5月に国会に提出した同文書が異なっていることから、改ざんされた疑いがあるというもの。

森友文書 別文書に「特殊性」の表現 国会開示にはなし

 森友学園問題は発端こそ国有地の不可解な値引き問題だったが、疑惑追及の中で分かってきたのが安倍夫妻の関与。この一年間に公表されたさまざまな状況証拠からも、国有地の取引において安倍夫妻が関与していたと考えざるを得ない。要は加計学園問題と共に、首相夫妻が政治を私物化していたという疑惑。それを隠すことに必死になった挙句、公文書の改ざんという犯罪行為にまで手を染めてしまったなら愚劣極まる。

 多数の資料や録音という証拠があるにも関わらず、安倍首相が一年もの間のらりくらりと追及をかわしてこられたのは、2014年に設置した「内閣人事局」のおかげだろう。内閣人事局によって安倍首相に従う官僚ばかりが登用されるようになった。官僚はアメとムチによってコントロールされ、逆らうことがほぼ許されない体制を作り上げた。事実上の独裁だ。

 安倍首相は自分でつくりあげた恐怖体制によって、何でもまかり通ると思い上がってしまったようだ。しかも、今回の公文書改ざんは事実なら犯罪に該当する。改ざんを認めたらタダでは済まないことは十分理解している。しかし、これまで同様、シラを切り続けてもとりまきが自分を守ってくれると信じているのだろう。恐ろしいのはこの独裁政権が検察まで牛耳っていることだ。

 改ざん問題が今後どのようなことになるのか予測がつかないが、どうしても逃れられなくなったら、改ざんに関わった人物を処分して幕引きを図るつもりではなかろうか。恐怖体制を利用して徹底的にシラを切って逃げ切るというのが安倍政権のやり方だ。しかし、果たして朝日新聞と毎日新聞の2社が改ざん疑惑を報じた今度ばかりは、逃れきれるだろうか?

 これまで生きてきて、ここまで国会と国民を愚弄する政権は記憶にないし、保身のためにこういう首相に媚びへつらって恥じない取り巻きに怒りしか湧いてこない。彼らは、恥というもののかけらも持ち合わせていないのだろうか。

 このまま安倍政権が生き残るようなら、この国は間違いなく腐敗した独裁国家だ。後に、森友事件は戦後最大の政治の腐敗として歴史に残るだろう。
  
タグ :森友学園


Posted by 松田まゆみ at 17:16Comments(2)政治・社会

2018年02月24日

不十分な生活困窮者支援

 少し前のことになるが、1月31日、札幌の民間の自立支援施設「そしあるハイム」から出火し、入居者11人が亡くなるという悲惨な事故があった。スプリンクラーもない木造の古い建物だったことから、あっという間に全焼した。「そしあるハイム」は50年ほど前に建てられた旅館を利用した共同住宅で、生活困窮者の就労支援を目的として民間の合同会社「なんもさサポート」が運営していた。要は行き場のない生活困窮者の受け皿で、この施設があったからこそホームレスから抜け出すことができたという人も多い。入居者の多くが生活保護を受けていた。

 この火事をめぐっては、この施設が無届の老人ホームに当たるかどうかとか、スプリンクラーの設置がどうとかいった点が問題視されているのだが、そこばかりに視点を当てると、困窮者の自立支援を民間の組織が担っているという本質的な問題から目をそらすことになる。実際、警察や役所が生活困窮者に「なんもさサポート」を紹介していたという。つまり、こうした人たちを受け入れる公的施設がないのが実態なのだ。この火事は生活困窮者に対する行政の支援問題を浮き彫りにした。

 ホームレスなどの生活困窮者が生活保護を申請してアパートなどに入居することは不可能ではない。家賃の安いところを探せば、生活保護の受給額でもなんとかやっていける。ただし生活保護を申請する際には審査があり、一人で自立した生活ができるかどうかが問われる。高齢であったり、障害や病気で一人で自立した生活ができない場合は、自治体などが運営する更生施設や社会福祉法人などが運営する自立支援施設に頼るしかない。

 「そしあるハイム」は希望者には食事も提供しており、一人で自立した生活をすることができない高齢者の終の棲家になっていたという側面がある。古い建物でも、身よりのない人たちが協力しあって生活するかけがえのない場であったのだろう。

 私たちはいつ困難な状況に陥るか分からない。会社の倒産や解雇で職を失ったり、病気や怪我で働けなくなったり、親の介護で仕事を辞めざるを得なくなったり、自然災害などで家族や住宅を失ったり・・・。そんなときにも社会保障制度によって衣食住を保障されなければ法の元の平等、基本的人権が守られていることにはならない。

 ところが、ホームレスになってしまった人を「負け組」だとか「自己責任」だと嘲笑する人たちが一定程度いる。いったい誰が好んでホームレスになるというのだろう。個人の問題というより公的支援の問題が大きいにも関わらず、いとも簡単に「働いて自立せよ」などと言う人もいる。こういう人たちは、定職も身よりもない人がアパートを借りることすら極めて困難だという現実を分かっていないのだろう。今は賃貸住宅も空き部屋が沢山ある。しかし安定した収入がなかったり保証人のいない人にアパートを貸す家主は多くない。生活保護制度があるといっても、申請を受け付けてもらえない事例があとを絶たない。

 海外にお金をばら撒いたり軍事費に多額の予算をつけたり、無駄としか思えない公共事業もある。その一方で、ホームレスや生活困窮者のための施設運営すらできないというのは国の怠慢というほかない。

 ホームレスをなくし、生活困窮者をなくすには、行政が自立支援の施設を用意することも必要だが、それと同時に一人ひとりに寄りそってアパートを借りるための手続きや就労の支援、その後の見守りなどきめ細かいバックアップをすることも重要ではなかろうか。日本の社会保障制度にはそのようなソフト面が決定的に欠けていると思う。

 日本はこれから否応なしに少子高齢化が進む。こうした中で、住宅を借りる際に保証人になってくれる身内のいない人も増えるだろう。非正規雇用が増える中で、国民年金すら納められない人も多い。2人以上の世帯で貯蓄ゼロの世帯は3割もあるという。無年金の人や年金だけでは暮らせない人はこれからどんどん増えていく。今は健康でも、病気などで働くことができなくなれば公的支援に頼るほかない。ところが、今の政治を見ていると社会的弱者が安心して生きられる社会とは正反対の方向に向かっている。さらに驚くのは、そんな政権を支持する若者たちが多いということだ。彼らは社会的弱者を切り捨てる政治をよしとしているのだろうか? 自分の将来に不安がないのだろうか?

 「勝ち組」とか「負け組」という言葉を耳にするようになったのはいつからだろうか。格差を勝ち負けで表すとは何て嫌な表現だろうと思う。勝った者は負けたものを見下して「自己責任」だと切り捨てる。勝者になれなかった者は、バッシングできる相手を探して匿名で罵ったり嘲笑したりする。全員が「勝ち組」になれるはずもなく「負け組」の人たちがいなければ社会が回らないのだから、こうした格差は個人の努力の問題ではなく社会のシステムの問題だ。それなのにそのシステムを改善する方向に向かわず弱者を嘲笑するような人たちに寒気がしてならない。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:44Comments(0)政治・社会

2018年02月11日

資本主義がもたらしたバッシング社会

 オリンピックにはほとんど関心がないが、オリンピックが始まるとメダルの数や選手に対する期待の強さに辟易とする。と思っていたら、リテラにこんな記事が出ていた。

平昌ではジャンプの高梨沙羅が標的に・・・五輪選手への道徳押しつけバッシングの異常! 今井メロや國母和宏が心境告白

 スノーボードハーフパイプで予選落ちした今井メロ選手に対する嫌がらせ、高梨沙羅選手、國母和宏選手、里谷多英選手、安藤美姫選手らへの異常なバッシング。これらは批判(物事に検討を加えて、判定・評価すること)といえるものでは決してなく、単なる暴言、悪口だ。ここまで酷いのかと思うと、気分が悪くなってくる。

 これらのバッシングは、選手に対する過大な期待だけの話しではない。何でもいいから批判できることを探しては叩く、つまり人を叩くこと自体が目的になっている人たちが一定程度いるということだ。

 思い返せば、2004年にイラクで日本人の3人の若者が拘束された時のバッシングも凄まじかった。あの頃はインターネットも広く定着してきた時期だったが、人質になった今井紀明さんのところには罵声や嫌がらせの電話のほか、大量の非難の手紙が送られてきて、彼はしばらく部屋に引きこもったという。

 近年では、2015年から2016年にかけて活動した安保法制案に反対する学生グループSEALDsのメンバーに対する異常な攻撃もあった。ネット空間で名指しで攻撃されてもまったく平気で動じないという人はほとんどいないだろう。自分は決して傷つかない匿名で、他人を傷つけることこそがバッシングする人たちの目的なのだろうと思うとおぞましい限りだ。

 匿名で言いたい放題にできるインターネットが、バッシングや炎上を広げていることは間違いないだろう。しかしリテラの記事にあるように、言いがかりとしか言いようがないことでバッシングするというのはもはや常軌を逸している。鬱屈した人間が異常なほどに増えてきているとも思う。

 ツイッターを見ていても、他人の意見にいちいち言いがかりをつけたり揚げ足取りをする人の何と多いことか。この精神の歪みは、やはり社会を反映しているものなのだろう。他人をバッシングして憂さ晴らしをするという精神の根底には、競争社会と格差の拡大が間違いなくある。

 競争というのは、自分がのし上がるために他人を蹴落とすことでもある。競争をさせられると周りの人たちはすべて敵になってしまう。そして「敵か味方か」「勝ちか負けか」という物の見方をするようになる。競争に勝った人は負けた人たちを見下すことになりかねない。また、競争に負けた人たちは、他人の粗探しをしてバッシングすることで優越感を得ようとする。妬みや恨み、復讐心に満ちた世界に平和などない。

 「他人の不幸は蜜の味」という言葉があるが、他人の不幸を喜ぶという心理は、人間のネガティブな感情に起因するらしい。こちらの記事によると、以下のようなことが分かってきているそうだ。

“相手に対して「妬み」の感情を抱いている時、脳はその人の不幸を、より強く「喜び」として感じます”
“一方で私たちは、相手に特に妬みの感情を抱いていない場合、不幸にみまわれた人を心配したり、かわいそうな境遇にいる人に同情したりします”


 日本では子どもの頃から競争にさらされ、勝者と敗者に分けられていく。さらに富裕層と貧困層の二極化が進めば進むほど、ネガティブな感情が渦巻いていく。こうしてバッシングの土壌がつくられていくのだろう。その根源は人々を競争に追い立て、挙句の果て格差を拡大させた新自由主義的な資本主義に行きつく。このまま資本主義を続けようとする限り格差はさらに拡大し、バッシング行為は激しくはなっても収まることはないだろう。


  

Posted by 松田まゆみ at 10:48Comments(2)政治・社会

2018年02月01日

定常経済を説く、内田樹「ローカリズム宣言」

 前回はナオミ・クラインの「これがすべてを変える」について書いたが、その後に内田樹著「ローカリズム宣言」を読んだ。ナオミ・クラインは地球温暖化の危機は市場原理主義、グローバル化がもたらしたのであり、温暖化の危機を回避するためには経済成長から脱しなければならないと主張する。一方で内田氏は、グローバル資本主義は終焉を迎えようとしており、今後は経済成長から脱して定常経済モデルを手作りしていく必要があるという。

 二人の発想の基点は異なるものの、ともに目指す方向は「脱成長」すなわち「定常経済」であり、キーワードは「ローカル」「共同体」だ。温暖化問題をつきつめればその解決は定常経済に行き着く。また、経済成長がゼロに近づき格差の拡大が止まらない上に少子高齢化から逃れられない日本の現状からも、もはや経済成長を続けるのは無理があると考えるのは当然だろう。

 内田樹氏の説明は極めて明快で、経済学の知識がなくても非常に分かりやすい。人の生理的欲求には限界があるので、衣食住の基本的な制度が整備されると経済活動は鈍化する。人間は限界を超えた消費活動をすることができない。この経済成長の基本原理を忘れたことで、経済をめぐる無数の倒錯が起きていると内田氏は指摘する。

 この当たり前のことこそ、私自身が経験してきた。私が子どもの頃はまだ物がそれほど溢れてはおらず、衣類にしても文房具にしても与えられたものを大事に使っていた。ところが今はどうだろう。街の商店にも、家の中にも、生きていく上でどうしても必要だとは思えない雑多なものが溢れている。私も歳と共に少しずつ物の整理をしているが、ほとんど使わずしまいこまれている物がいかに多いことかと驚いてしまう。最近では、消耗品や生活必需品以外の物はほとんど買わない(ただし本だけは買ってしまうが)。なぜなら興味本位の安易な買い物は、結果的にゴミを増やすだけだと身をもって経験してきたからだ。

 私が学生の頃は、一億総中流などと言われた。どの家でも洗濯機や冷蔵庫、テレビなどの家電が一通り揃い、雇用も終身雇用で安定していた。ところがバブルが崩壊し、米国型の経済システムを真似るようになってから非正規雇用という不安定で低賃金の労働者が増え、格差が拡大し、福祉も医療も削られている。これこそ新自由主義型の資本主義のなれの果てであり、経済成長が永遠に続くなどということはあり得ないことを示している。

 内田氏は、政党が株式会社化し、国会はシャンシャン株主総会になったと言う。政党は執行部の指示に反抗しないイエスマンを候補者として選挙に送りだすようになり、国会が形骸化し機能しなくなってしまったと。資本主義の競争社会の中で、国会だけではなく行政も医療も学校も、日本の社会集団のすべてが株式会社のようになってしまったと指摘する。イエスマンを従えた安倍首相は、数の論理を盾にやりたい放題。ほとんど独裁状態であり、その暴走を誰も止めることができない。

 日本中が株式会社化し、資本主義の競争原理が個人の主体性を失わせているというのはたしかにその通りだろう。もっとも私個人としては、もともと同調圧力が強く働いている共同体に資本主義の競争原理が加わって、ますます個人の主体性や個性が失われてしまったという印象を抱いている。いずれにしても同調と競争を強いられる集団ほど息苦しいものはないし、多くの日本人はまさにその息苦しさに喘いでいるのではなかろうか。

 このまま経済成長を続けようとするとどうなるのか。内田氏は経済学者の水野和夫氏の主張を持ち出し、企業の収入は増えるが労働者はどんどん貧しくなっていくと指摘している。ますます貧富の差が拡大するということだ。水野氏は資本主義の先に定常経済(ゼロ成長)がくると予測しているそうだ。

 私は、資本主義というのは地球の自然環境を破壊して資源を消費しつづけるシステムであり、自然に逆らうシステムに他ならないと思っている。自然の摂理に反するシステムがいつまでも続くはずはない。人は自然なくしては生きられないが、地球の資源(自然環境)は限られているわけで、資源を使い放題にしたうえに環境を破壊し汚染してしまったなら人類は生存し続けることはできない。資源の無駄遣いを止め、生態系のサイクルからはみ出さないような持続可能な生活を維持しなければ、人類に未来はない。つまりは定常的な社会だ。これから目指すべきはエネルギー(もちろん再生可能エネルギー)も含めた地域での自給自足の生活ではないかと思っている。

 内田氏も、自然環境を守ることは資産を守ることであり、経済成長のためにこの資産を汚したり捨て値で売ったら、今の日本の経済力では未来永劫買い戻すことはできないと言う。経済成長を唱える人たちは、このことになぜ気が回らないのだろうか? 私は不思議でならない。

 新聞などのマスコミであろうと個人であろうと「脱経済成長」とか「定常経済」を主張する人は極めて限られている。経済成長を否定しようものなら、トンデモ扱いされるというのが現実ではなかろうか。まるで経済成長がない社会は夢も希望もない世界だと言わんばかりだ。

 しかし、定常経済というのはそれほど夢も希望もないつまらない社会なのだろうか? あるいは今の便利な暮らしを捨てなければならないのだろうか? 水野氏は、定常経済で株式会社は収益を人件費と減価償却に充て、株主への配当は定期預金の金利程度にすると、賃金は50%アップすると試算しているそうだ。ならば、決して「みんなで貧乏になる」ということにはならない。急激な発展もないけれど、時間に追い立てられることも過度の競争もない社会が悪いとは思えない。少なくとも私は今の生活は十分便利だと思うし、衣食住に困らなければ進歩が緩やかであったとしても何ら問題ないと思う。

 少子高齢化が進み労働者人口が減るとはいえ、海外へのばら撒きを抑制し、軍事費を縮小し、米軍への思いやり予算を削減し、無駄な公共事業を止めれば、社会福祉や医療、教育などの充実も図れるのではなかろうか。息が詰まるような競争ではなく、互いに協力し合う生活こそ、人として健全だろうと思う。アドラーの言う「共同体感覚」が重なってくる。

 内田氏は資本主義の終焉を直感した人たちが、都会から地方へと脱出し始めているという。経済成長ゼロの時代を乗り切るために、地域の共同体を再生し人々が互いに助けあいながら「小商い」をすることを提唱する。

 北海道の地方ではここ数十年の間に鉄道が消え、学校が統廃合され、医療機関が次々と姿を消し、商店街はシャッター街となり、人口の減少と高齢化が進んでいる。一方で数は少ないながら地方に移住してくる人たちもいる。とはいうものの、地方、とりわけ農村のコミュニティーは人づてに伝わってくる話しを聴く限り極めて閉鎖的で排他的だ。つまり、従順な者は受け入れても異質な者を排除するという慣習が色濃く残っている。

 資本主義の終焉の時代を生き抜くために最も必要なのは、主体性を持った多様な人々が共存できるコミュニティーの形成だ。都会であれ田舎であれ、人々が競争やお金儲けの意識から脱し、協力的な人間関係をつくりあげることができるかどうかが大きな鍵になるように思える。

 なお、本書のまえがきは以下から読むことができる。
「ローカリズム宣言」まえがき

 内田氏の以下の論考も紹介しておきたい。
日本はこれからどこへ行くのか
  


Posted by 松田まゆみ at 20:06Comments(0)政治・社会

2018年01月18日

不可解な子宮頚がんワクチン(HPVワクチン)推進論、WHOも関与か?(追記あり)

 今、インターネットで「子宮頚がん ワクチン」と検索すると、ワクチンを推奨する意見が上位に並ぶ。これらの記事を読んで、子宮頚がんワクチンの副反応と言われているものは心因性であり、ワクチンによる副反応という主張はエビデンスがないと信じてしまう人も多いかもしれない。

 しかし、ちょっと待ってほしい。そもそも検索上位に出てくる記事が正しいなどとは言えない。私は福島の原発事故が起きる前に使用済み核燃料の保管についてネット検索したのだが、いわゆる原発推進派と見られる安全論ばかりが出てきたことをよく覚えている。検索順位などいくらでも操作できる。だから、原子力問題をはじめとした利権構造がある問題や議論が分かれるような問題に関しては十分な情報収集が欠かせない。

 そしてこの子宮頚がんワクチン問題で何よりも不可解なのは、公費負担の対象となっている少女は無料ないしは低額でワクチンの接種ができるにも関わらず、なぜこれほど推奨記事が溢れているのかという単純な疑問だ。

 まず、ツイッターで得た情報から、子宮頚がんワクチンの接種後に体調不良が生じた少女たちを診察した医師たちの見解や論文などをいくつか紹介したい。

ハンス病を主張する横田俊平医師による説明
HPVワクチン報告
HPVワクチン副反応報告 後半

自己免疫性脳症を提唱する高畑克徳・高嶋博氏による論文
自己免疫性のj賞を見極めるための新しい神経診察の提案-身体表現性障害との鑑別-

ワクチン接種により惹起された免疫反応的脳炎モデルではないかとする長尾和宏医師の見解
子宮頚がんワクチン被害者を診てほしい

 子宮頚がんワクチンの問題は副反応だけではない。ワクチンそのものの効果の問題がある。以下は副反応のほかに有効性も含めて問題点がまとめられている。

日本におけるHPVワクチン有害反応の教訓:医療倫理学的観点

 ここから予防効果に関する重点部分を以下に引用しておきたい。

 HPVワクチン接種を推進する人々はこれらのワクチンが子宮頚がん予防に98-100%有効だと言うが、実際にはHPVワクチンで期待しうる絶対リスク減少(ARR)を既存のデータをもとに計算すると、たかだか0.1~0.7%に過ぎない。しかも、それは前がん病変をきたすリスクを低下させただけで、子宮頚がんのリスクについては不明なままである。


 一方で、副反応とされる症状は心因性であると主張し昨今もっともメディアを賑わせているのは医師・ジャーナリストの肩書を持つ村中璃子氏だろう。村中氏の主な記事はこちらにまとめられている。

特集:子宮頚がんワクチン問題

 私は村中璃子氏の一連の記事を読んで、非常に巧みだと思った。村中氏は患者を診察し子宮頚がんワクチンの副反応であると主張する臨床医たちの見解について、いずれもエビデンスがない単なる仮説だと主張し心因説を強調する。しかし、彼女の主張する心因説とて仮説でありエビデンスはない。仮説を並べておきながら、心因説のほうが正しいとばかりに誘導しているのだ。明らかに偏った書き方だろう。また記事中のインタビューで心因性を主張する医師はほとんどが匿名だ。なぜ堂々と実名で話せないのだろうか?

 彼女は肩書を医師としながら、勤務している医療機関などは書かれていない。そして、被害を訴える少女たちを自分で診察したという記述は見あたらない。それどころか取材にあたってジャーナリストおよび医師の職業倫理にも抵触する不適切な行為があったとして弁護士から内容証明郵便を送付されている。

村中璃子氏の不適切取材の全容(内容証明)

 もう一つ、巧みだと思ったのはこちらの記事の以下の記述。

 この記事を出すには大変な勇気が必要だった。筆者が製薬会社の回し者である、国のプロパガンダを広げる御用医師だといった根も葉もない中傷も寄せられている。そういった反応があるのは想定の範囲内だったが、考えてみてほしい。この記事を書くことは筆者にとってリスクになることはあれ、どんな得になるというのだろうか。


 自分は製薬会社とは全く関係がなくこうした意見を書くのはリスクしかないと主張しているが、私にはこのような書き方をすることで予防線を張っているのではないかと思えてならない。

 ウィキペディアで彼女の経歴を調べると、「外資系製薬会社の疫学担当ディレクターを経て」とある。製薬会社と全くの無関係とは言えないだろう。

 また、これらの記事のプロフィールに「WHO(世界保健機関)の新興・再興感染症対策チーム等を経て」とある。ウィキペディアでは「WHO(世界保健機構)の医療社会学者」と書かれており、WHOとの関わりが深い。というとWHOなら信用できると思う人は多いかもしれない。しかし、私はWHO自体に大きな疑問を抱いている。以下の記事を是非お読みいただきたい。

WHO(世界保健機関)がおかしい TPPの国際安全基準のいかがわしさ

 新型インフルエンザワクチンと子宮頚がんワクチンの販売にWHOが関与したのではないかという疑惑を指摘しているのだが、この記事から重要な部分を引用しておきたい。

さらに、新型インフルエンザワクチンや子宮頚ガンワクチンのメーカーであるグラクソ・スミス・クライン社は、マラリアの新治療療法の開発などの具体的な事業でWHOと協力して支援している。
グラクソ・スミス・クライン社は、ニューヨークタイムズ社によってCSRの実績第一位として評価されたこともある会社であるから探せばもっと多くの協力をWHOとの間で行っている可能性が高い。
理念はあっても、カネがなければ、WHOも意欲的な事業は行えないのである。
そしていったん、支援を受けて事業を始めれば、スポンサーの意向は無視できなくなる。


 早い話し、子宮頚がんワクチンを製造しているグラクソ・スミス・クライン社はWHOのスポンサーという関係のようだ。

 WHOが原子力分野でも独立性を失っていることは私も以下の記事で触れた。WHOという名称だけで信用してしまうのは危険というほかない。

国際原子力ムラという諸悪の根源
チェルノブイリの事実と日本のとるべき対応

 江戸川大学教授の隈本邦彦氏はワクチンムラという特殊な利権構造について指摘している。
インタビュー「被害を生みだすワクチンビジネス」

 製薬会社と医師の癒着は今に始まったことではない。ワクチンに関しても当然利権構造があるだろう。ちなみに3回のワクチン接種の費用はおよそ5万円と言われる。少女たちを対象に定期接種にできれば製薬会社の利益は莫大なものになる。

 村中璃子氏の記事には何度もWHOの見解が出てくる。ワクチンを製造している製薬会社がスポンサーとなっているWHOの見解を盾にワクチンの副反応を否定して接種を推し進める村中璃子氏と、被害を訴える患者を診察して治療に尽力している医師のどちらが信用できるだろうか? 私は間違いなく後者に軍配を上げる。

【1月19日追記】
 以下のtogetterは、HPVワクチンの副反応に関する資料や論文などがまとめられており、この問題を考える上で大変参考になる。
HPVワクチンと自己免疫反応
  


Posted by 松田まゆみ at 16:17Comments(0)政治・社会

2017年11月16日

賠償金の踏み倒しは防げるのか

 「弁護士ドットコム」というサイトにこんな記事が掲載されている。

ひろゆき氏の方法はもう終わり? 賠償金「踏み倒し」撲滅へ、法制度見直し議論

 民事訴訟で賠償金の支払い命令が出た場合、判決に従って賠償金を支払うというのは自分の行いに責任をとるという意味で当然のことだ。裁判所の命令に従わないということは法に従わないということであり、無法者といっていいだろう。ところが、ときどき支払わずに踏み倒してしまう人がいる。代表的なのが元2ちゃんねる管理人の西村博之氏だろう。彼の場合、資産があるにも関わらず踏み倒していると言われているから悪質だ。

 なぜこんなことができるのかは記事で説明されているが、現在の法律では債権者にとって債務者の財産の強制執行がとても困難だという現状がある。しかも支払わなくても刑事罰がない。踏み倒して10年たてば時効になってしまう。西村氏の場合は海外の金融機関に口座を持っていると言われており強制執行も簡単にはできない。そしてすでに時効がきているので債務はゼロだと豪語している。

 彼が2ちゃんねるの管理人を辞めたのは、ずっと支払い拒否を続けていたら賠償金が膨れ上がってくる一方だしそのうち法改正があるかもしれないしなので、管理人を辞めることで区切りをつけ、溜まった賠償金を時効に持ち込んでチャラにするという思惑があったのではなかろうか。刑事罰がないとはいえ、債務者は裁判で決まった賠償金を支払う責務があるのだから、無法者であることは確かだ。

 不法行為で民事訴訟を起こす者の多くは弁護士を雇い、裁判に費用と時間を費やす。それにも関わらず西村氏のような無法者がのさばっていたら何のために法律があり裁判があるのかということになってしまう。

 そして懸念されるのは西村氏の話しが有名であるがゆえに、この手法を真似する人がいるのではないかということだ。単に「払いたくない」「判決が納得できないから払わない」などという自分勝手な理由で支払わない人もいるだろう。このような無法者が溢れるようになれば、損害賠償訴訟が無意味になりかねない。そんなこともあって、法の抜け穴を塞ぐための検討がようやく始められたということなのだと思う。

 ただし、中には支払い能力がない人がいるのも事実だし、損害賠償によって人生が暗転してしまう人がいるのも事実だ。例えばかつて文芸社商法の批判をした冊子を配布した渡辺勝利氏は文芸社から名誉毀損と業務妨害で訴えられた裁判に敗訴してしまった。この裁判に関してはスラップだと私は考えているが、たとえ理不尽な裁判であっても確定した判決に従うというのが裁判に負けた者の責務だ。納得がいかなければ控訴せねばならないが、彼は控訴を断念した。

 ところが彼は別の裁判でも敗訴して高額の賠償金を抱えてしまった。困った彼は文芸社に頭を下げて賠償金の免除を求めたらしい。その後、彼は文芸社を擁護する側に回り、文芸社を批判していた私まで攻撃するようになった。あの気骨ある渡辺氏が賠償金が払えないゆえに文芸社に屈服せねばならないとはなんと哀れで惨いことかと思ったものだ。債務者と言えど、最低限度の生活は保証されており強制執行で身ぐるみはがされるということにはならないのだが、責任感の強い彼は支払い不能を理由に切り抜けることを良しとしなかったのかもしれない。

 ただし、債務者の支払い不能を理由に債権者が賠償金の受け取りを諦めねばならないというのもおかしな話だ。記事では払わない人の対策として賠償金を国が立て替え、国が直接加害者への取り立てを行うというノルウェーの事例も紹介されているが、債権者が泣き寝入りしないで済む仕組みも検討していくべきだろう。もっともそのためにマイナンバーを利用するという話しなら、賛同はしかねるが。

 現代はネット上に誹謗中傷、名誉毀損が溢れている。被害者がお金と時間をかけて加害者を特定し、さらにお金と時間をかけて裁判を起こしても踏み倒されたらたまらない。ネット上では無責任人間がのさばり、すでに加害者天国のような感がある。西村氏はおよそ30億もの賠償金を踏み倒したあげく時効がきたと開き直っているが、今回の見直しは遅すぎた感がある。

 いわゆるザル法は損害賠償問題に限らずいろいろなところにある。法治国家である以上、ザルの穴を塞ぐことは当然だろう。
  


Posted by 松田まゆみ at 10:30Comments(0)政治・社会

2017年10月18日

日本人は主体性を持つことができるのだろうか?(追記あり)

 民進党・自由党の希望の党への合流劇については前回の記事「希望の党の結成で暗黒時代がやってくる」に書いたが、私はまだこのことに拘っている。この合流劇が民主主義をないがしろにした策謀であったにも関わらずその点を指摘する意見がとても少ないことに唖然としている。そんな中で共感できるのは以下のさつきさんの記事だ。

民主主義を破壊するマヌーバー(さつきのブログ「科学と認識」)

 さつきさんのブログから重要な部分を引用しておきたい。

 選挙民の空気や政局の風を読み、その場凌ぎの受けの良い政策を前面に立てて信を問い、権力を手に入れ、その上で本性を露わにするというのは、かつては「マヌーバー」という一言で、少なくとも左派の中では一蹴されてきたやり方だ。この言葉が最近力を持てなくなっているのは、一つには「マヌーバー」そのものが、本来、「うまく立ち回る」といったような良い意味・積極的な意味にも用いられることの多い言葉であることにも依るのだろう。「面従腹背」がウケるのもそうした背景があるかもしれない。

 しかし、マヌーバーはポピュリストの常套手段であり、少なくともこれを選挙に際して用いることは、民主主義を破壊する行為に他ならない。選択された結果が内実と乖離してしまうからだ。選挙によって何が選択されたのか、誰が正しく判断できるだろう。そうした策略は、一時的に成功したとしても絶対に長続きすることはなく、その後の反動は目を覆うばかりのものとなるだろう。この間の日本の政治の劣化・反動化がそれを証明している。トロイの木馬だとかなんだとか裏でコソコソしないで、自分が正しいと思うことを真正面から主張し、行動しないと、きっと何処か知らないところへ連れて行かれるような気がするのである。

 私は個人の人間関係においても、政治においても最も大事なのは誠実さと信頼関係だと思っている。しかし策謀(マヌーバー)というのは誠実さや信頼の対極にあるものであり、こうしたやり方は一時はうまくいったとしても結局は信頼を失い対立や混乱を生みだす。

 しかも、今回の合流という策謀は明らかに失敗し、結果的に自民党を利する方向に向かってしまったようだ。それにも関わらず、民進党支持者や自由党支持者の中に策謀を評価したり容認している人が少なからずいることは驚きだ。

 前回の記事を書いてから、今回の策謀に似た事件があったことを思い出した。士幌高原道路建設をめぐり、自然保護団体が労組に乗っ取られそうになった事件だ。「SEALDs批判に思うこと」という記事に書いているが、主要部分を以下に再掲する。

 実は、私が関わっている十勝自然保護協会は、権力と結びついた人たちによって乗っ取られかけた過去がある。士幌高原道路(道々士幌然別湖線)の建設をめぐり、会の役員が容認派(柔軟派)と反対派に真っ二つに分かれて紛糾し、闘争ともいえる状況になったのである。

 士幌町から然別湖に抜ける士幌高原道路は、自然環境に大きな影響が懸念されるということで計画が凍結されていた。それが工事再開へと舵をきったのは1983年に横路孝弘氏が北海道知事になってからである。そして、横路知事は、士幌高原道路について「地元自然保護団体のコンセンサスを得ながら取り組む」と発言し、地元自然保護団体、すなわち十勝自然保護協会の意向が大きく注目されることになった。

 知事がこのような発言をしたのは裏があった。十勝自然保護協会の役員には横路知事を支持する地区労関係者が複数存在していた。そして彼らは労組関係者を密かに入会させていた。また当時の会長が、地元の士幌町民に対し「道路をつける」と言っていたという情報がもたらされたのだ。つまりは横路知事の支援者である労組が、水面下で地元自然保護団体を乗っ取ることで道路建設を認める方向で密かに動いていたのだ。

 しかし、当時の役員の約半数はこのような政治的関わりのない純粋な市民であり、道路建設による自然破壊を危惧していた。当然、労組関係者と会長の不穏な動きが役員会で追及されることになり、答えに窮した会長と労組関係の役員たちが役員会を退席して職務を放棄してしまった。こうして、水面下で道路容認に動いた役員たちは会から出ていったのである。彼らはその後もしばらくは十勝自然保護協会を名乗っていたが、やがて消滅した。

 知事を支持する労組が知事の意向を汲んで道路建設の容認に動いたのだが、そのやり方は地元の自然保護団体に組合員を入会させて乗っ取るという策謀だった。はじめは少しずつ入会させていたのだが、1992年の定期総会の直前の役員会には183人もの入会申し込み書が持ち込まれた。この大量入会については保留扱いになったが、総会当日には動員された入会希望者が詰めかけ、それまでは20人程度だった市民団体の総会に239人もが押し寄せ廊下まで溢れ出るという前代未聞の異常事態になり、動議も出されて紛糾した。

 結局、大量入会工作は失敗し、策謀を働いた会長や労組関係者は疑惑を追及されると職務放棄をして会から出て行った。十勝自然保護協会は純粋な草の根の自然保護団体として道路反対を貫き、全道の自然保護団体とも協力して道路建設を中止に追い込むことができた。

 仮に、乗っ取り工作が成功していたとしても、反対を貫く人たちは卑劣な策謀に屈せず新たな組織を立ち上げていたに違いない。希望の党への合流を拒否した民進党議員が立憲民主党を立ちあげたように。

 民進党の合流劇とは状況こそ違うが、保守(右派)による二大政党制という目的達成のために右派系の議員を少しずつ増やしていったり、政権交代のために希望の党を乗っ取ろうとするやり方はよく似ている。

 十勝自然保護協会の乗っ取り事件で私が最も驚いたのは、労組の言いなりになって入会を申し込む組合員たちの姿だった。主体性のかけらもない、民主主義とは程遠い全体主義に染まった人たちの集団に寒気がした。

 民進党の合流劇もこの点ではほとんど同じだ。前原氏の策謀に従って踏み絵を踏んだ議員たちを見て寒気がした。そうしないと公認が得られないという事情はあるかもしれないが、策謀に反対して民進党からの公認を主張したり前原代表を解任するという選択肢だってあったはずだ。それがダメでも枝野氏が立ちあげた立憲民主党に移るという選択もできた。「前原氏に騙された」「公認が必要」という言い訳は通用しない。

 市民団体の多くは策謀などには手を染めず地道に草の根の活動をしているが、こうした組織においてもしばしば内部紛争が起きる。紛争の大半は、一部の人が勝手な行動を起こすとかルールを守らないといったことに起因する。つまり、民主的な手続きを無視したときにもめ事がおきる。まして策謀などしようものなら対立、紛争は避けられない。民主的な組織運営には策謀などあってはならないし、それこそ民主主義の冒涜だと思う。

 空気を読んで自分が傷つかないように振る舞ったり、利益や保身を優先して忖度してしまう多くの日本人は全体主義の意識の中で生きているといっても過言ではない。市民団体の乗っ取り工作に加担した労組の組合員は多くの日本人の姿でもある。右も左も関係なく、民主主義が根づいていないのが日本という国なのだろう。全体、あるいは声の大きな者に従っていれば、自分は責任を取らずにすむと思っている。権力者にとってこのような国民を操るのは容易い。しかし、それに抗う人たちも必ずいる。個人が全体主義の意識から脱却し主体性を持たない限り、この国に民主主義は根付かないのだろう。

 ただし、個人が意識を変えるのは極めて難しい。こんな風に考えたくはないが、全体主義に染まった人たちは、どん底に落ちて生死の苦しみでも味わわない限り、主体性の大切さに気付かないのかもしれない。

 他人を変えることはできないから、せめて自分だけでも誠実さと信頼を大切にし、全体主義に陥ることのないよう主体性を持った生き方をしたいと思う。

【10月19日追記】
 士幌高原道路に関しては地元士幌町の役場と農協が「悲願」として推進運動を展開した。事業主体(北海道)による説明会などには送迎バスを仕立てて住民を動員し、質疑応答になると推進側の人物が何人も質問ではなく賛成意見を延々と述べる。そして反対意見を言う人たちにヤジと罵声を浴びせた。推進のためのイベントに送迎・弁当付きで住民を動員したという話しも聞いた。道路建設に批判的な町民に圧力がかけられることもあった。

 説明会で反対意見を述べた私はヤジと罵声を浴びせられ、個人情報も探られた。道路入口ゲートでの抗議行動の際には、公安警察にも見張られた。尾行されていると感じたこともあった。

 農業が基幹産業で農協の力が絶大な地方の町では農協の方針に逆らうことは困難なのか、訳も分からず動員された町民も少なからずいたように思う。推進派の人たちの言動は、国会で議論も尽くさず強行採決をする安倍政権とひたすら彼を擁護する自民党議員の姿に酷似する。動員されても無視するという選択肢だってあるのに、黙って動員に従う町民の姿は、大量入会の企てに乗った労組組合員の姿に重なる。
  


Posted by 松田まゆみ at 10:10Comments(0)政治・社会