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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱 › 政治・社会

2015年11月26日

日本国憲法の制定と改憲

 11月24日付けの北海道新聞に、「憲法に平和と民主化の願い」とのタイトルで古関彰一さん(独協大名誉教授)の日本国憲法の誕生についてのインタビュー記事が掲載された。非常に重要なことだと思うので、ここに要点を紹介したい。

・憲法に平和条項を盛り込んだのは日本の議員たちだった。9条がどうしてできたかが分かったのは、1995年に帝国議会の速記録が公開されて判明した。
・知識人らによる民間グループ「憲法研究会」が1945年に統治権は国民にあり、天皇は国家的儀礼をつかさどるとし、自由権を定めた「憲法草案要綱」を発表し、内閣やGHQに提出。
・憲法研究会の案がGHQ草案に盛り込まれ、国民主権や人権条項につながった。
・日本政府は、万世一系の天皇が統治権を有するなど明治憲法とほとんど変わらない「憲法改正要綱」をGHQに提出したが、GHQは一蹴して自分たちの草案を日本に渡した。
・日本政府の「憲法改正要綱」に賛成したのは起草した憲法問題調査委員会委員長の松本蒸治ら一部だけで、昭和天皇すら要綱に疑問を持つ人が出るのではないかと述べた。
・GHQ草案を確定案にするまでGHQは松本らを30時間缶詰めにしたが、同席した外相の吉田茂や法制局の佐藤達夫は押しつけられたとは言っていない。松本の私憤が「押しつけ論」になったのだろう。
・連合国最高司令官のマッカーサーは、日本統治に昭和天皇の存在が不可欠と考えていたため、GHQは天皇に厳しい姿勢で臨むと見られた極東委員会が動きだす前に天皇を象徴的な存在にする民主的憲法案をつくろうと急いだ。つまり、天皇を守るために象徴天皇制と戦争放棄が必要だった。
・戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくるというマッカーサーの政治的、戦略的な発想があった。


 ざっと要約するとこんなところだろうか。

 よく言われる米国による押しつけ論に対し、民間グループが提案した案をGHQが採用したということは私も知っていた。あらためて古関氏の解説を読んでも、いわゆる「押しつけ論」は改憲の理由にはならないと思う。

 ところで、これを読んで私が注目するのは「天皇を守るために象徴天皇制と戦争放棄が必要だった」と「戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくるというマッカーサーの政治的、戦略的な発想があった」という2点である。

 GHQは象徴天皇制と戦争放棄によって天皇の戦争責任を免責したことになる。ここで頭に浮かぶのは、辺見庸著「1★9★3★7」に取り上げられている天皇の戦争責任問題である。この中で、辺見氏は天皇の戦争責任について何度も言及するのだが、とりわけ印象に残るのは1975年10月31日の皇居で行われた天皇の記者会見における問答である。1975年といえば、私は大学生だったが、情けないことにこの天皇の発言についてはほとんど記憶にない。この問答について「1★9★3★7」から引用したい。(306ページ)

(問い)また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかかいいたします。
(天皇)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。

 天皇は当然のことながら自分に戦争責任があるという自覚はあっただろう。いわゆる「皇軍」が「大元帥陛下(天皇)万歳」と唱えて南京で大量殺戮をしたのだ。責任がないわけがない。しかし、この正面からの問いに対し「言葉のアヤ」などといって自らの戦争責任を堂々と誤魔化したのだ。これほど無責任で恥ずべきことはない。こういうことを平然と言えたのは、憲法で戦争責任の免責をしてしまったことが関わっているのだろう。

 私は戦争責任について天皇に土下座させて謝罪させればよかったとは思わない。自己の責任を認めることができない者に無理矢理謝罪をさせたところでどれほど意味があるのかと思う。ただし国民は、とりわけ知識人たる者は、この天皇の発言に対し毅然と異を唱え批判する必要があっただろう。中国での大虐殺という加害ならびに太平洋戦争での被害を突き付け、天皇の戦争責任を国民の前にきっちりと明らかにするべきであった。しかし、それがなされぬまま日本の無責任体質は今に及んでいる。ふたたび戦争をする国へと突き進んでいる今、今後の戦争で生じるであろう加害や被害の責任は誰にあるのか? 平和憲法を持ちながら安倍政権を選んだ私たち国民ではないのか・・・。

 もう一つ、認識を新たにしたのは、「戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくる」という米国の思惑である。戦争放棄の裏にこんな事情があったのかと思うと慄然とする。沖縄を犠牲にしての日本の平和などあり得ない。今の辺野古の闘いは、本土の人間にとって決して無関心でいられるものではない。

 11月22日の琉球新報の社説から一部を引用しよう。

 注意したいのはオバマ氏の言動だ。首相の発言に対し、オバマ氏は「感謝したい。米軍も嘉手納より南の基地返還に取り組む」と述べただけである。「唯一」という発言に同意してはいないのだ。
 事実、日本の安全保障政策に多大な影響力を行使してきたアーミテージ元米国務副長官もナイ元米国防次官補も辺野古新基地に疑問を呈している。モンデール元駐日米国大使も「(普天間代替基地の場所について)われわれは沖縄だとは言っていない」と明言した。「辺野古が唯一」だなどと言っているのは日本政府だけなのである。

 憲法によって沖縄に基地を押し付けた米国ですら、もはや「辺野古が唯一」などとは言っていないのだ。それにも関わらず、今も辺野古で抗議行動をしている人たちに暴力をふるい、県民の反対を押し切って沖縄を米国に差しだそうとしているのは安倍政権にほかならない。こんな安倍自民党政権を選んだのは、私たち国民だ。

 私たち無責任な日本人が選んだ安倍首相は改憲に向けてまっしぐらだ。そして、再び戦争という人殺しをしようとしている。平和憲法の制定に米国の思惑があったとしても、それによって天皇の戦争責任が免責されたとしても、自民党主導の改憲は何としても阻止しなければならない。米国にただただ媚を売り、基本的人権すらなくそうとしている安倍政権にNOを突き付けねばならない。

 もし改憲がなされたなら、日本は一気に戦争へと突入し、基本的人権も表現の自由もなくなるだろう。戦前と同じ状況があっという間にやってきて、国民が互いを監視し合い、ずるずると戦争へと巻き込まれていくだろう。今、戦争反対を唱えている人ですら何も言えなくなり、軍国主義へと染まっていくかもしれない。そうなったとしても責任は私たち国民にある。

 無責任体質が染み込んだ日本人に、改憲阻止ができるかどうかが問われている。

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辺見庸氏の渾身の著作「1★9★3★7」
辺見庸氏の「1★9★3★7」インタビュードタキャンと日本共産党批判
  


Posted by 松田まゆみ at 15:50Comments(0)政治・社会

2015年11月24日

辺見庸氏の「1★9★3★7」インタビュードタキャンと日本共産党批判

 以下は11月22日の私のツイート。

①ここ数日、辺見庸氏のブログの日録「私事片々 201511/10~」http://yo-hemmi.net/article/429387467.htmlを毎日読んでいる。辺見氏は以前、日録で国会前のデモを批判していたが、それを一度消した。しかし、最近になってまたそのことを取り上げている。

②11月12日の日録には、安保法制に反対する国会前のデモについて、「安保法制反対をとなえる服従(屈従)的デモのあとにデモ参加者が路上清掃をしたという〝美談〟」をとりあげ、批判している。では、安保法制反対をとなえる服従(屈従)デモとは何をさしているのか?

③11月18日の日録で、共産党機関紙の赤旗が辺見氏の著書「1★9★3★7」についてのインタビューを断った理由についてこう推測する。「ほんとうのわけは、ひところの国会前のデモを、あまりにも「権力迎合的」だとわたしが口汚く非難したからではないですか。」

④辺見氏はさらにこう続ける。「そのことをみとめれば、問わず語りに、あそこには「まっさらの若者たち」だけでなく、共産党や民青の〝別働隊〟が多数入っていた事実を承認することになるので、あなたがたは卑小な沈黙をきめこんでいるのではないですか。」

⑤「まっさらな若者」とはもちろん #SEALDs の若者たちのことだろう。私は現場にいたわけではないし、本当の事情はよくは分からない。しかし、SEALDsの主宰したデモに、共産党や民青のメンバーなどの「別働隊」が入り込んでいたというのはたぶん事実だろう。それだけならまだいい。

⑥辺見氏が批判したのは「別働隊」のとった行動である。21日の日録にこうある。「権力受容体質のニッポンのあんちゃん、ねえちゃんたちは、国会前でやったように、SWATに拍手喝采し、屍体に「帰れ!」コールを浴びせかけ、しかる後に、みんなで血塗られた道路の清掃作業でもやるんだろうか」

⑦ツイッターでも流れてきたが、一部のデモ参加者が警察に逮捕されたとき、デモ参加者の一部がその逮捕を喜び、「帰れ」コースを浴びせたらしい。別働隊が警察にチクったのかどうか私は知らない。しかし、警察による違法逮捕への加担を「権力に迎合」と言わずに何というのだろう。

⑧辺見氏はこの光景に怒っている。安保法制反対を叫ぶ人々が権力に迎合しているのなら、矛盾も甚だしい。共産党別働隊がそれに関わっているからこそ、辺見氏は共産党を「権力迎合的」と批判しているのだ。私も警察によるデモ参加者の逮捕を知ったときには憤りを覚えた。

⑨共産党や別働隊なるものが国会前デモを利用しているというのは、私も感じてはいた。しかし、あえて批判はしなかった。なぜならSEALDsは特定の組織を支持しているわけではないし、来る者は拒まず、去る者も追わないからだ。共産党や過激派が来ていても排除することにはならない。

⑩個人の発言と行動、すなわち個としての主体性を何よりも重視するSEALDsと、上意下達が徹底した日本共産党は、どう考えても根本的なところで歴然と異なっている。相いれないのだ。なのに、共産党がSEALDsの若者たちを評価し国会前デモを大きく報じることにどうしても違和感はあった。

⑪私は徹底して戦争に反対をしてきたという点では日本共産党を評価している。主張にしてもまっとうなことが多い。しかし、共産党という組織内における「支配-服従」の関係だけは嫌悪する。組織に服従してしまう人々が、いったい国家権力に対してどれだけの不服従や抵抗ができるのかと。

⑫そして、はからずもその矛盾が国会前の「逮捕に加担=権力に迎合」という光景で露呈した。いったいこの国の平和運動に個の主体性がどれほどあったのか? それだけにとどまらず、別働隊(だと私は思っているが)のメンバーが個人情報晒しというネットリンチ(暴力)をしでかした。

⑬辺見氏が推測するように、もしインタビューを断った理由が共産党批判なのであれば、やはり共産党に幻滅せざるを得ない。共産党は批判を真摯に受け止める度量がこの危機的状況を目の前にしてもないのかと。なぜ対話ができないのかと。それが身を滅ぼすことにならないのかと。

⑭戦争に片足を踏み入れているときに、反戦平和を唱える共産党の批判をしたくはない。しかし、言っていることとやっていることに矛盾があってはならない。その矛盾を解消し、個の主体性を尊重しないところに未来はないと思う。

 共産党の志位委員長は、9月22日にツイッターでこんな発言をしている。



 志位氏は「共産党アレルギー」が国民連合政府共闘の支障になっていると考えているようだが、そうだろうか? たしかに、共産党と聞いただけで嫌悪する人たちはそれなりにいるだろう。しかし、私は、共産党という組織の内部における「支配-従属関係」を嫌っている人がかなりいるのではないかと思っている。それゆえに共産党から離れて行った人も多いのではないか。さらに、党に対する批判を許さない姿勢も賛同できない。なぜ、もっと批判に対して寛容になれないのだろう。自分たちこそ「絶対に正しい」と思っているのであれば、民主主義を標榜する組織とは言いがたい。

 辺見氏が国会前での権力迎合と共産党のインタビュードタキャンに拘る理由はここにあるのだろう。共産党が安倍政権を批判し、民主主義を主張するのなら、共産党のこの姿勢を変えることこそ必要なのではないか? 党の体質を変えないで「アレルギー」のせいにしてしまう限り、国民からの支持は得られない。私にはそう思えてならない。
  


Posted by 松田まゆみ at 14:12Comments(0)政治・社会

2015年11月21日

辺見庸氏の渾身の著作「1★9★3★7」

 「金曜日」から出版された辺見庸著「1★9★3★7」を読み終えた。本書は、週刊金曜日に連載された「1★9★3★7『時間』はなぜ消されたのか」および「今の記憶の『墓をあばく』ことについて」を加筆修正して書籍化したものだ。

 私は辺見氏の本は全部ではないもののある程度は読んでいる。しかし、本書はこれまで読んだ本の中でももっとも強い衝撃を受けたと同時に、読み進むこと自体に多少なりとも苦痛を伴った。

 本書は、中国人の視線で日中戦争での日本軍による残虐な行為を描いた堀田善衛(ほったよしえ)の「時間」という小説をもとに、戦争における人間の獣性を問い、天皇の戦争責任を問い、今の日本の危機的状況を招いた原因を暴き、日本人の心に巣食う全体主義を批判し、これらのことを痛烈に読者に質す書である。タイトルの「1★9★3★7」は、日中戦争で日本軍が中国人に対して目を伏せたくなるような残虐行為、いわゆる南京大虐殺があった年を指している。

 私とて、南京大虐殺を知らないわけではない。日本兵による国人捕虜や民間人の虐殺、強姦などの残虐行為については辺見氏の他の著作でも触れられているし、いわゆる「百人斬り」については本田勝一氏も指摘している。しかし、「時間」を基にした辺見氏の大虐殺の情景描写によって、私のこれまでの認識がいかに甘かったのかを思い知らされることになった。本書を読んでいる間中、その残虐きわまりない衝撃的な情景が脳裏に焼きつき、まさに悪夢のように頭にまとわりついた。

 そして、辺見氏自身が何度も本の中で自分自身に問い苦悩するのである。もし自分が日本兵の立場であればどう行動していたのか、上官の命令を拒否することができたのだろうかと。また辺見氏は日中戦争に従軍し、おそらく間違いなく拷問や虐殺などの残虐行為に加わったであろう自身の父親のことを引き合いにだし、自問自答する。自分自身が父親の立場であったらどうしたであろうか、戦争だったから仕方が無いで済ませられるのか・・・否、そうではないと。

 私が「読み進むことに多少なりとも苦痛を伴った」と書いたのは、辺見氏の自問自答は否応なく読者にも突き付けられているからである。本書は、読み進むその場その場で読者に対し「自分が日本兵の立場なら、どんな行動をとったのか」、「この残虐行為を自分はできるのか」と問い質し、答えを求めるのだ。この究極の問いに、何のためらいもなく「自分が殺されても他者を殺さないことを選ぶ」と明言できる人ははたしてどれほどいるであろうか。

 そして、やはり私は唖然とする。私(たち)は、日中戦争における日本人の残虐行為を知ろうとおもえば知ることができたのに知ろうとはせず、天皇の戦争責任も心のどこかに感じながらもなんとなく目をそむけてきたことに。さらに、この国のメディアも知識人の多くもそれを封印し続けてきたことに。否、封印どころか、南京大虐殺はなかったという言説が吹聴され、過去を書き消そうとする勢力が台頭しているのである。

 実際、ネットで「南京大虐殺」「百人斬り」と検索してみて唖然とした。これらが捏造であるとか論争中であると言った言説が渦巻いているのだ。何ということだろう。

 辺見氏は、戦後70年間、この国に民主主義などはなかったと喝破する。日本人は隣国で行った過去の残虐行為を封印し、天皇の戦争責任を問わなかったと。つまり、日本人は自分たちに都合の悪いことは徹底的に隠し、責任をとるということを避けてきたと。たしかに、その通りである。戦争責任もそうだし、福島の原発事故も誰も責任をとっていない。事故原因もうやむやのまま、事故の収束の見通しすらつかないのに、原発の再稼働を始めたのだ。この国では重大な被害をもたらした人為災害の原発事故ですら誰も責任をとらない。「責任をとらない」ことがあらゆるところで常態化し、人々もその状態に麻痺しているかのようだ。

 本書では、最後に日本人のもつ全体主義を2015年にこの国で起きていることへと繋げている。辺見氏は、反戦平和を訴える民衆を否定こそしないが、そこに加害者意識が抜け落ちていることを鋭く突き、被害者意識だけの反戦運動に物申す。日本人は、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下の被害者ではあるが、その前の南京大虐殺では加害者である。その戦争加害者意識を置き去りにして被害ばかりを強調することに警告を発している。

 そして、辺見氏は今の日本の情景を以下のように表現する。(348ページ)

1★9★3★7のあらゆる問いは手つかずのままのこされ、数知れない遺体は年々、だたさらされて、しゅびよく風葬されている。敵はあきらかにきれめなく勝ちつづけている。どぶどぶの汚泥そのものの敵権力が、敵―味方の境界を消して、いつまでもさいげんもなく勝ちつづけている。敵はわたし(たち)のなかにこそいるからだ。

 戦争へと突き進む自民党政権がずっと勝ち続け、その勢いが国民にもじわじわと浸透してきていると。その通りだ。特定秘密保護法が通り、戦争法案も強引に通してしまった。そして安倍自民党政権は憲法改正を目論んで邁進している。現政権がずっと勝ち続けているのは何故なのか?

「敵はわたし(たち)のなかにこそいる」という言葉が頭からこびりついて離れない。わたし(たち)のなかにある敵とは何か? 日本人は、なぜ安倍政権の暴走を止められないのか。ここでもう一度、辺見氏の言葉を引こう。(373ページ)

 ニッポンジンは、はたして敗戦で「始めて自由なる主体となった」か、ニッポン軍国主義にはほんとうに終止符がうたれたのか、超国家主義の全体系の基盤たる「國體」は、かんぜんにあとかたもなく消滅したのか。だとしたら、安倍晋三なるナラズモノは、いったいなにから生まれ、なににささえられ、戦争法案はなぜいともかんたんに可決されたのか。「この驚くべき事態」は、じつは、なんとなくそうなってしまったのではない。ひとびとは歴史(「つぎつぎになりゆくいきほひ」)にずるずると押され、引きずりまわされ、悪政にむりやり組みこまれてしまったかにみえて、じっさいには、その局面局面で、権力や権威に目がくらみ、多数者はつよいものにおりあいをつけ、おべんちゃらをいい、弱いものをおしのけ、あるいは高踏を気どったり、周りを忖度したりして、今、ここで、ぜひにもなすべき行動と発言を控え、知らずにはすませられないはずのものを知らずにすませ、結局、ナラズモノ政治がはびこるこんにちがきてしまったのだが、それはこんにちのようになってしまったのではなく、わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべきではないのか。

 はたしてどれほどの日本人が権力や権威に目をくらませず、強いものに折り合いをつけず、おべんちゃらを言わず、弱いものを押しのけず、高踏を気どらず、周りを忖度しないように努めているのだろうか。はたして、どれだけの人が圧力を恐れずに言うべきことを言い、やるべきことをやっているのか・・・。

 もちろんこれらを実行している人がいないわけではない。しかし、発言しようと思えばできるにも関わらず、理屈をこねまわしては発言を避けている人が大多数ではなかろうか? あるいは「叩かれる」ことを恐れて自ら発言を抑えている人も多いように見受けられる。

 私自身は民主主義がなかったというより、自己保身のために長いものに巻かれ、責任をうやむやにすることで、国民が自ら民主主義を放棄してしまったと思えてならない。その無責任体質と全体主義の結果が、安倍政権の暴走を許してきたのだ。だからここが変わらないかぎり、この国は戦争へと足を踏み入れるだろうし、そしてそうなってしまったら私たちはほとんど無抵抗にそれを受け入れざるを得ない状態になるだろう。もう戦争は目の前に迫っている。

 権力批判、強いものへの批判は怖れる反面、弱い者への暴言や個人情報晒しによる「吊るしあげ」、「ネット死刑」が横行し、加害者と被害者が応報を繰り返す光景も日常茶飯事だ。加害者が、翌日には被害者になって吊るしあげられていることすらある。それを物見遊山に傍観しては嘲笑する人々・・・。おぞましい光景に寒気がする。そこには言葉による残虐性や暴力があるし、その残虐性こそ、過去の戦争での日本兵の残虐行為に通じるのではないか。しかも、そうした事態は平和を訴え戦争反対を唱える人たちの間でも起きているのだ。これこそが、日本人の中に潜む全体主義であり残虐性ではなのではないか。上っ面の反戦平和ではないのか・・・。私は最近、ずっとそんなことを考えている。

 戦争の危機が迫るこの年に出版した本書は、辺見氏の気迫がみなぎった渾身の書である。

 ただし、なにやらあまりに絶望的な書だ。とは言え、辺見氏のそうした見方に大きく反論できないのも事実だ。かといってこの危機的状況に怒りの声をあげ、反戦平和運動を繰り広げる人たちを批判的に眺め絶望にひたることも私はよしとしない。

 安倍政権は戦争へと着々と準備を進めている。戦争へと片足を突っ込んだ今、民衆が騒いだところですでに「時遅し」であるかもしれないし、人々がそう簡単に己の中の全体主義から抜け出せるとも思えない。しかし、ここで黙っているわけにはいかない。諦めるわけにもいかない。絶対にいかないと思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 16:47Comments(0)政治・社会

2015年11月04日

陰謀論考-特にSEALDs陰謀論をめぐって

 私は基本的に陰謀論には慎重だしむしろ警戒することにしている。もちろん、世の中には策略や謀略といったものが溢れていることは十分承知している。たとえば、安全神話と地元自治体への交付金で誘致し推進してきた原発などその最たるものだろう。実際に最悪の事故が起こっても、被ばくのことをひた隠しにし、健康被害を過小評価して汚染地に住民を戻そうとする政府と電力会社は今も国民を騙している。除染だって福一の事故処理だって利権が絡んでいる。

 検診・検査づけあるいは薬づけにして儲けようとする医療業界、大義もないのに推進する公共事業なども同じ。これらはほぼ全てが利権構造と結びついている。マスコミが正面からこうした策略や利権構造を報じないとしても、自ら情報を収集し、感性を磨いていれば、そうしたはかりごとは見抜くことができる。私は若い頃から自然保護に関わってきたが、国の大型公共事業には必ずといっていいほど政官財の癒着があり「事業を行うこと自体が目的」となっていることを身にしみて感じる。政治における策略は利権とほぼ一体となっている。

 しかし、だからといって疑わしいと思うことは何でも「仕組まれている」という陰謀思考はしない。なぜなら利権による策略といわゆる陰謀論は同一視できないし、陰謀論の多くはその思考過程が科学的でも論理的でもないからだ。陰謀論の原点は不安からくる疑心暗鬼と思い込みであり、論理ではなく感情に基づいている。誤った陰謀論は嘘を流布することでしかないし、嘘をもとに特定の個人や団体を批判したなら明らかに権利侵害だ。したがって、陰謀論には慎重にならざるを得ない。

 以前、「陰謀論の思考と紙一重のニセ科学批判」という記事で陰謀論について言及した。この記事では辻隆太朗氏の「世界の陰謀論を読み解く」という本について紹介したが、ここで引用した辻氏の発言をもう一度紹介しておきたい。つまり、陰謀論者がなぜ陰謀論思考をするのかと言うことについての辻氏の意見だ。

 この社会がどのように動いているのか、誰がどのような目的で動かしているのか。そもそも誰かが動かしているのか、勝手に動いているのかもわからない。そのなかに存在する自分の生活や選択は、本当に自分の意志によるものなのか。本当は他の誰かの意志に踊らされているだけなのではないか、知らないあいだに社会的に構築されコントロールされているのではないか。
 そのような不安に対し、陰謀論は世界の秩序構造を明確に説明し、世界やわれわれを操作する主体を一点に集約し可視化するとともに、陰謀論者たち自身の自律性の感覚や自己の独自な存在意義を回復し保証する機能をもつ、と考えることができる。陰謀論は世界がどうなっているのか、何が正しく何がまちがっているのか、誰がどのように世界を動かしているのかを明快に説明してくれる。簡単に言えば、陰謀論はわかりにくい現実をわかりやすい虚構に置き換え、世界を理解した気になれるのだ。(253ページ)

 つまり個人に生じた不安が疑心暗鬼を生み、それが発展して誰かに操られているのではないかという思考になる。そして、自分たちを操作する主体を明確にすることで、自分の自律性の感覚や自己の存在意義が保障される。「仕組まれている」と考えることで、わかりにくい現実をわかりやすい虚構に置き換え、世界を理解した気になっているのが陰謀論者といってもいいだろう。

 陰謀論者の口からときどき発せられる「騙されている者は愚か」「気づかない者はバカ」といった類の発言は、陰謀論者の内にある「自己の自律性や存在意義」を自ら吐露したものと言えるだろう。

 福島の原発事故以来、反原発派の一部の人において陰謀論思考が広まったように思えてならない。たとえば原発の嘘に目が覚めた一部の人が、原発や被ばくに関して不安を抱え疑心暗鬼になった結果、人為活動による地球温暖化論を詐欺だと主張するようになった。また政府による被ばく隠し、被ばくの過小評価を目の当たりにして、「健康被害や避難のことを言わない」人たちを疑い、そのような人や組織を「ニセモノ」「エートス」「御用組織」と認定することで、政府の方針を後押しする陰の組織が存在すると主張する人もいる。

 地球温暖化に関しては、原発推進派が温暖化を口実に原発を促進してきたのは事実だし、原発の温排水が海を温めてきたのも事実だ。温暖化の原因は人為由来の二酸化炭素の増加だけではないというのも確かにそうだろう。しかし、地球温暖化は基本的に科学として考えねばならないし、さまざまな研究結果からもそう簡単に否定できるものではない。ところが陰謀論者は原発推進派による嘘だと信じ込んでいるために、「否定的な言説」だけを探し集めて詐欺だと断言する。あまりに科学をないがしろにした短絡的思考だと思う。

 このまま温暖化が進めば地球の気候や生物に極めて大きな影響を与えるであろうことを考えるなら、ことは極めて重大でありとても楽観視できることではない。嘘の流布は責任問題であり、人の命に関わってくる。だから、私は温暖化詐欺論の流布には与しない。

 SEALDs陰謀論ももちろん同じだ。客観的かつ冷静に彼らを見ていれば、学生たちが自主的につくった組織であり、陰謀などどこにもないのは直感でわかる。否、直感だけではない。彼らのスピーチやホームページ、出版物などに目を通しても、陰謀などどこにも感じられないし、メンバー個人の主張も筋が通っている。人工芝運動、共産党の下部組織、改憲誘導などといった陰謀論に明確な裏付けはない。むしろ共産党が政府側などという主張はあまりに現実離れしている。妄想同然の根拠薄弱な状況証拠を並べて騒いでいるとしか思えない。

 メンバーの出身高校の偏差値だとか、出版した本のゴーストライター説などまで出回る始末だが、出身高校の偏差値などはメンバーの主張や人格になんら関係がないし、このような発言は差別や侮辱でしかない。ゴーストライター説に至っては状況証拠すらなく単なる妄想の類だ。SEALDsの本は対談や個人の意見から成り立っているのであり、ゴーストライターの紡ぐ文章とは対極にある。

 陰謀論者のツイートを見ていると、明らかに陰謀だという盲信が先にあり、そのためにメンバーの発言の一部を切り取ることで理由を後付けしているとしか思えない。勝手に疑心暗鬼になって疑問を呈するだけならそれも自由の範疇だろう。しかし気になるのは、SEALDsが御用組織であると断定し、メンバー個人に対する暴言や揶揄、嘲笑にまで及んでいる人がいるということだ。事実ではないことを断定的に主張して拡散させ、実名の個人を中傷したり侮辱したなら、明らかに権利侵害だし、場合によっては犯罪だ。

 もし、彼らが政府のまわし者であり恣意的に改憲に誘導しているのであれば(私にはそう考える理由などまったく思い当たらないが)、黙っていてもいずれそのことが誰の目にも分かるようになるはずだ。従って、とりあえず静観し、明確になった時点で批判すればいいことなのに、陰謀論者はそういう冷静さを持たない。陰謀が正しいと信じ切っているし、それを主張することが正義だと思っているからだろう。

 嘘を振りまかれた上に、名指しで侮辱されて冷静な気持ちでいられる人などいない。奥田愛基さんや牛田悦正さんが陰謀論者をブロックしたことに対して「対話をしようとしない」「異なる意見を聞こうとしない」と批判している人もいるようだが、とんだ勘違いだ。

 彼らがブロックするのは、対話できない陰謀論者など相手にしても無意味だと判断しているからだろう。なぜなら陰謀論者は陰謀を信じているから、どんなに説明を尽くしても理解しようとはぜず、相手にしてもさらに難癖をつけてくるからだ。そういう意味ではネトウヨと何ら変わらない。そういえば日向製錬所とサンアイが黒木睦子さんを訴えた裁判でも、原告らを擁護し黒木さんとその応援者を罵倒する人たちがいた。彼らの思考も陰謀論者と同じで「はじめに批判ありき」だ。だから、どんなに論理的に反論したところで、はぐらかしや人格否定をする。そして、ブロックすれば「対話しない」「逃げた」と騒ぐ。SEALDs陰謀論者も、それと大差ない。

 SEALDs陰謀論者は圧倒的に「脱被ばく派」に多いようなのだが、なぜこんな思考になってしまうのか? それは恐らく、「反原連(首都圏反原発連合)」や「しばき隊」とSEALDsメンバーとの関係からきていると思われる。SEALDsのメンバーが活動の参考にするために反原連の官邸前デモに参加していたのは本人たちも本で説明しているし事実だ。

 陰謀論者たちは反原連のメンバーが避難について主張しないので「反原連=エートス=政府側」と考えているようだ。また「しばき隊」の言動への反感もあるようだ。それでSEALDsを支持している反原連とSEALDsは「同じ穴の狢と」判断しているのだろう。私も「しばき隊」メンバーなどの言動を支持しているわけではなく疑問もある。しかし、反原連と交流があるという事実がSEALDsを御用組織と決めつける根拠にならないのは明白だ。

 ところで、「避難を主張しない=エートス=政府側」だと言えるのだろうか? 私自身、福島の原発事故のあと、原発問題や被ばく問題についてブログで頻繁に記事にしてきたし、汚染地からは避難するのが最善だと思っている。しかし、だからといって声高に避難を叫び続ければ問題解決になるわけではない。

 汚染地に住む人たちで被ばくについて意識が高く避難が可能な人の大半はすでに自主避難してしまっただろう。今も汚染地に住んでいる人たちは、意識が高くてもさまざまな理由で簡単に避難したくてもできない人と、それほど深刻に考えていない人のどちらかだと考えられる。前者の人たちは恐らく汚染食品を避けるなどの努力をしているだろうし、後者の人たちも何も知らないわけではなく、安心情報を頼りにしたり正常性バイアスによって自分を維持している人も多いに違いない。

 こういう状況のなかで第三者が汚染地に住む人たちの立場を考えてできることと言えば、被ばくや健康被害に関する知識や客観的事実を広めて避難の判断に供することと、政府に「避難の権利」を求めていくことしかないのではないか。避難、避難と騒いても汚染地に住む人たちの心には響かないし、お節介でしかない。脱被ばく派の中には「避難しないのは愚か」「東京は人の住むところではない」などと平気で口にする人もいるが、こういう発言は避難できない(しない)人たちを見下し、反発を買うことにしかならない。結局、政府が「避難の権利」を認めない以上、現実を踏まえて避難するかどうかは個人個人の意識と事情と判断力にかかっている。他人が押しつけることではないのだ。

 また、どの地域なら避難すべきかという判断にしても、個人個人で違う。福島から東京に避難した人もいるし、東京から西日本などに避難した人もいる。仮に東京も避難すべき汚染地だと認定したなら、首都の移転問題にも発展するし、そもそも狭い日本で首都圏の人たちをどこに移住させるのか、仕事や住居はどうするのかという極めて難解な問題に直面する。汚染の程度も場所によって異なり均一ではない。チェルノブイリの原発事故でも、汚染地に住み続けざるを得ない人たちは、子どもを保養に出したりペクチン製剤(ビタペクト)で体内のセシウムを排出させるなど、できることをしてきた。避難が最善とはいえ、避難できない彼らを批判することは誰にもできない。

 汚染を知りつつ東京に住まざるを得ない人たちが、安易に避難を口にできないのは当然だろう。また、汚染地に住む人たちの判断を尊重するなら、第三者が避難のことをあえて主張しないというのは決しておかしなことではない。こう考えると、「避難を主張しない=エートス=政府側」などということには決してならない。現実を踏まえるなら、物事はそれほど単純ではない。

 小出裕章さんが年齢に応じて汚染した食品を食べるべき、という主張をしていることを理由に彼はエートスだという人もいる。私は小出さんのこの考えには賛同しないが、かといって小出さんの反原発がニセモノだとか、エートスだとは決して思わない。小出さんの言動を見れば、彼が真に原発に危機感を抱き警鐘を鳴らしていたことは明らかだし、被ばくによる健康被害は極めて深刻だからこそ原子力は危険だと言ってきたのだ。

 最後に、辻隆太朗氏の言葉をもう一度紹介しておこう。

私たちには世の中すべての情報を検証する能力も余裕もないが、自分の判断が正しいかどうかをつねに問うことはできる。可能であれば、自分の信じることや意見に対する反証を求めること、自分に対する反論を自分自身で考えることが一番だろう。陰謀論はたしかに物事に対する疑いを出発点としているが、その論理は健全な疑いとは正反対のところにある。陰謀論には自らに対する疑いがない。一言でいえば、信じたいものを信じるだけでは駄目なのだ。(285ページ)

 SEALDs陰謀論は「反原連」や「しばき隊」メンバーに対する個人的感情から始まっているとしか思えないし、その主張は第三者の私にとっても反論できることばかりで論理性にも欠ける。彼らは自分の信じたいことを信じているだけであり、その疑いは「健全な疑いとは正反対のところにある」と私は見ている。

   
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Posted by 松田まゆみ at 11:39Comments(0)政治・社会

2015年10月26日

SEALDsの想いが詰まった本「民主主義ってこれだ!」

 雲ひとつない青空をバックに、白い文字で綴られている奥田愛基さんのまえがきを何度も読んだ。彼の飾り気のない言葉が心に沁み入ってくる。なんだか目頭が熱くなってくる。私はあの福島の原発事故の後、今後のことを思うと頭が混乱し、気が抜けたような数日を過ごした。それは今も引きずっている。しかし、20代前半の若者の言葉に、落ち込みからなかなか抜け出せない自分が恥ずかしくなってくる。ちょっと引用しよう。

 社会はそんなに簡単に動かないし、変わらない。しかし、それらはすべて言うまでもないことで、言ったところでなんの意味もない。「社会に絶望した」だとか「日本は終わった」みたいな話しは当たり前すぎて、もうこれ以上聞きたくない。そういう人はいつだって変わらないふりをしているし、絶望したふりをしているから。この国は、俯瞰的に見るだけで実は何も言っていない評論家が多すぎて、やる人があまりに少なかったのだと思う。
 絶望の国で何ができるのかが問われている。全部が変わるなんてことは僕も信じない。けど、はたして変わらないものなんてあるのだろうか。

 誰かのせいにせず、やるべきことを、できる限り、淡々としてきた。これからもそうするだろう。何もまだ終わってはいない。これはお別れの挨拶でもないし、始まりの挨拶でもない。なぜなら、ある局面が終わり、次の局面がもう始まっているからだ。


 原発事故、安倍政権、特定秘密保護法、解釈改憲、戦争法、マイナンバー・・・この国はあれほどの大事故を起こしたのに何の反省もなく原発を再稼働させ、避難や被ばくで苦しんでいる人たちが大勢いるというのにオリンピックを招致するという。ほんの数年の間にものすごい勢いで右傾化し、全体主義へと突き進んでいる。格差はさらに拡大し、貧困化は著しい。それにも関わらず投票率はあまりに低い。希望がどこにも見出せない。というより絶望という言葉しか思い浮かばない。そんなときに若者から尻を叩かれた。SEALDsの「民主主義ってこれだ!」(大月書店)は、まさにそんな本だった。

 本書は、メンバーのスピーチ、SEALDsのステートメント、メンバーの意見、主要メンバー座談会、これまでの活動、高橋源一郎さんと奥田愛基さんの対談に識者のメッセージも加わっている。デザインも編集も構成もすべでメンバーの手作りなのも凄い。写真を駆使し、文章だけではなく視覚にも訴える。実に若者らしいデザインと構成から彼らの玄人はだしの質の高さが伺える(もちろん評価はいろいろだろうけれど・・・)。

 先に出版された「高橋源一郎×SEALDs 民主主義ってなんだ?」とは一味違うし、内容もほとんど重なっていない。SEALDsらしさを満載した本だ。ただ、全体的に文字が小さいのが年配者にはちょっと辛い。

 スピーチはどれも個性があふれて、何度も胸が熱くなった。若者達が、ほんとうに勇気をふりしぼって自分の言葉を紡ぎ、おかいしと思うことをまっすぐに訴えている。そして「不断の努力」を宣言する。こんな光景に出会えるとはこれまで思ったこともなかった。考えてみれば、それは至極あたりまえのことなのだけれど、少なくともこの国では少し前まで当たり前ではなかった。そんなことをしたら、陰口を言われ、ネットで叩かれ、いじめられた。でも、彼らはその過ちに気付いて勇気を振り絞って動き始めたのだ。そこにはネットの罵詈雑言をも撥ねつける強い意志がある。

 私は彼らの座談会を読んでいて、数十年前の自分の学生時代を思い返していた。彼らのエネルギー、活力、想像力、そして若者らしい快活さ・・・そういったものはたしかに私が若いころにも存在していた。学際を前にしたクラブ活動で、大人の人たちとともに行動した自然保護運動で・・・。しんどいけれどそこには熱気があった。SEALDsの活動もそれに重なる。

 彼らは部活や趣味に熱中するのと同じ感覚で、政治運動を展開したのだ。自分たちに何ができるのか考え、アイディアを出し、思考錯誤し、自分のやれることを精一杯にこなす。時には徹夜して頑張って、そして時々息抜きもする。そこには大変さだけではなく充実感もある。ああ、そうだったのか!と、すごく納得した。私の学生時代はそこまで頑張らなかったけれど、目標に向かってみなぎる若者のエネルギーはいつの時代だって変わらない。

 彼らのやり方は機動隊とぶつかり、火炎瓶を投げ、バリケードを築いたかつての学生運動とは全く別物だ。あくまでも平和的に訴える。しかもリズミカルに。映像もメディアも駆使する。そして、何よりも個人の発言、行動に重きを置く。個人の主体性に基づいている。

 奥田さんの「絶望の国で何ができるのかが問われている」、「誰のせいにもせず、やるべきことを、できる限り、淡々としてきた」という言葉をもう一度噛みしめる。多くの大人が絶望の底で留まって文句を垂れている中、彼らはもっと先を見据えて絶望から希望へと行動している。

 こんな酷い社会にしてしまったのは私たち大人の責任だが、彼らはそれを責めることなく自分たちの未来のために、子孫のために行動をはじめた。たった数人で手探りではじめた運動が、今では日本中に知れ渡り受け継がれ、民主主義の担い手が全国に広まった。そしてこれからも増えていくだろう。

 若者の社会への無関心を嘆いていただけの自分がなんと恥ずかしいことかと思う。不平不満ばかり言っていても何も変えることはできない。一人ひとりが声をあげ、自分のできることをやっていくことこそ意味がある。SEALDsの原点はそこにある。彼らの行動力の源は、未来に向けた希望と信念と勇気だ。そんな若者たちがいることが、ただただ嬉しい。
  


Posted by 松田まゆみ at 22:36Comments(0)政治・社会

2015年10月25日

マイナンバー通知カードは受け取り拒否が賢明(追記あり)

 マイナンバーの通知カードの発送が始まったようだ。この通知カードは住民票のある住所宛てに簡易書留で届けることになっている。

 ということで、国民はこの通知カードを受け取るか、それとも受け取り拒否にするかの判断を迫られることになる。マスコミなどではマイナンバーの利便性ばかりが報じられ、デメリットはほとんど報じていないようだが、本当にデメリットはないのだろうか? これが分からないと受け取ったほうがいいのかどうか判断できない。

 で、これについて判断するには法的な知識が必要なのだが、岩月浩二弁護士が詳しく説明して下さっている。

 まず、こちらの記事。

マイナンバー 通知カードを受け取ると義務が発生します(街の弁護士日記 SINCE 1992 at 名古屋)

 この記事によると通知カードを受け取ってしまうと以下のような義務が生じてしまう。

紛失したときは、直ちに役場に届け出をしなければならない。(行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律7条6項)

移転転入手続には、個人番号通知カードを提示しなければならない。(行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律7条4項)

通知カードに記載された事項に変更がある場合は、14日以内に役場に届け出なければならない。(行政手続における特定の個人を識別するための番号の利用等に関する法律
7条5項)


 行政が勝手に番号をつけて、その管理は個人の責任だというのだから、なんと虫のいい話しだろう。しかも、個人番号制であちこちに巨大な利権が生まれるという。

 将来、何らかの手続きで個人番号が必要になったときは、個人番号が記入された住民票を取ればいいだけであり、通知カードそのものは必要ではない。本人確認についても住民票で事足りる。だから、受け取らないに越したことはない。

 この記事をツイッターで紹介したら、会社員の方から「マイナンバーを会社に伝えなければならない」という意見がきた。これについても岩月弁護士はきちんと説明している。

マイナンバー 事業者も従業員の個人番号を取得すると過大な義務を負うことになる

 たしかに事業者には従業員の源泉徴収票や給与の支払い調書等に氏名、住所のほか個人を識別する番号を加えることが義務付けられてはいる。しかし、記入していなくても国税当局は受けつけることを明言しているし、罰則規定もない。そして大事なのは、「源泉徴収票や支払調書に記入する場合でも、従業員が雇用主に対して、個人番号を提供すべき義務はまったくない」ということだ。

 会社がマイナンバーの管理を適切に行わず個人情報の漏えいなどが起きれば会社には大きな責任が生じる。一方、従業員も個人情報の漏えいを防ぎたいのなら、義務づけられてもいないナンバーの提供などする必要はない。

 さらに退職しても個人番号が7年も保存される可能性がある。

マイナンバー 退職しても7年残る?マイナンバー

 非正規雇用、アルバイト、パートなどで職場を頻繁に変える人などは、個人番号がいつどこで流出するか分からない。事業者が廃業したり倒産した場合、従業員の個人番号が厳正に管理されるなどということは考えられない。となると、義務でもない事業者への個人番号の提供などしない方がいいのは言うまでもない。

 そしてもう一つの記事。

マイナンバー 自ら法律違反を勧めるマイナンバー担当大臣補佐官

 ここで重要なことが語られている。マイナンバーというのは、たとえ本人といえども、個人番号利用事務等実施者に対して提供する場合を除いて、提供してはならない、ということだ。自分の個人番号を他者に公開してはならないのだ。

 岩月弁護士は「おそらく政府とグローバル企業の醜悪な結合体が、国民本人も自由にできない個人情報を保有し、管理するということになるのだろう」と書いているが、このマイナンバーはまさに政府が国民を監視・管理するということに他ならない。

 こんな制度はおかしいと意志表示するには、まず通知カードの受け取りを拒否するという方法がある。仮に受け取ってしまっても、事業者に個人番号を知らせる義務はない。そして次の手続きであるマイナンバーカードの交付を受けないこと。もちろんそうしても番号は勝手に割り振られて制度自体は動きはじめるのだが、意志表示もせずに受け入れてしまうのは自ら政府に隷属することを選択したことになると私は思う。

 なお、ツイッターで「受取拒否の動きがあることぐらい向こうは知っています。載せられてリストに入れられる可能性の方が情報漏洩より怖いんです」と呟いていた方がいて、思わず嗤ってしまった。

 「受け取り拒否リスト」に入れられたからといって何だというのか。受け取り拒否したところで罰則規定も何もない。そんなことのいったい何が怖いのか? この程度のささやかな意思表示や抵抗ですら自主規制をしてしまう人たちは、政府とって都合のいい人たちでしかない。

 「受け取り拒否リスト」程度のことで怯える人たちは、SEALDsのメンバーのように名前も顔も出して政府を批判する発言をする勇気などとてもないのだろうし、そもそも公安に写真を撮られるのが怖くてデモにも行かないのだろう。情けない限りである。

 秘密保護法、戦争法、マイナンバー、どれをとっても日本がどんどん全体主義に傾いていることは明確だ。思想・良心の自由、表現の自由ですら怪しくなってきている。そんなときに必要なのは反対の声であり毅然とした抵抗であり勇気だ。匿名で気に入らない人を叩いているだけの人にはそんな勇気などないのだろう。

【10月29日追記】
 マイナンバー制の問題点については以下のサイトが詳しい。マイナンバー通知カードを受け取るのはともかくとして、マイナンバー(個人番号)カードを申請するのは非常に危険だと警告している。

共通番号いらないネット
http://www.bango-iranai.net/

 またIWJでもマイナンバーに関する特集を組んでいる。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/269247
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/268813
  


Posted by 松田まゆみ at 14:04Comments(0)政治・社会

2015年10月06日

「高橋源一郎×SEALDs 民主主義ってなんだ?」で見えてきたもの

 国会前で安保法制反対を訴えてきた学生組織SEALDsは、デモの盛り上がりとともにこの国に知れ渡った。私はSEALDsの前身であるSASPLの頃から彼らのような学生たちが突如出現し、あれだけの運動を繰り広げた事実に驚きをもって注目していた。

 ところが、ツイッターでは安保法制に賛成の立場の人のみならず反対する人たちの中にも、彼らを懐疑的にみたり批判する者が多数出てきた。以前の記事「SEALDs批判に思うこと」にも書いたが、例えば人工芝運動であるとか、官製デモだとか、「反原連」や「しばき隊」あるいは共産党と同一視する意見、国民投票に誘導との指摘、資金源への疑惑、ロゴやホームページのデザインに対する疑惑、キリスト教との関わり、はたまた奥田愛基さんの出身高校の偏差値まで持ち出して中傷や批判する始末だ。しかし、それらの主張には明確な裏付けはない。不確かな推測による読むに耐えない暴言の数々に私は戸惑いとともにネットの恐ろしさ感じざるを得なかった。

 そんな時に出版されたのが「高橋源一郎×SEALDs 民主主義ってなんだ?」(河出書房新社)だった。ネットで紹介されていた本書の目次を見て、私は迷わず購入した。

 本書は「1 SEALDsってなんだ?」「2 民主主義ってなんだ?」という2章で構成されている。前者はコアメンバーである牛田悦正さん、奥田愛基さん、芝田万奈さんの自己紹介からはじまって、SEALDs結成までの経緯やSEALDsの理念、運営などが語られている。後者は高橋さんがリードする形で民主主義について歴史をたどって理解を深めていくのだが、どちらも高橋源一郎氏とSEALDsのメンバーとの対談形式になっているのでとても読みやすい。

 三人の経歴の中でも、奥田さんの生い立ちと進路の選択に私は大きな衝撃を受けた。彼の父親は北九州で貧困支援をしている著名な牧師だ。そして家には父親が連れてくる知らない人がしょっちゅう泊まるという環境。彼はそんな家庭を「マザー・テレサがいる家なんてウザい」と言ってのける。

 北九州で不登校になった彼は、自分で中学校を探し、何と八重山諸島の鳩間島にある小中学生合わせて10人程度の学校へと飛び出していく。島の外からきた同い年の子と小学生の子の三人で小屋みたいな所に住んでいたというのだからそれだけで驚きなのだが、南国の自然の中で逞しく成長したのは間違いないだろう。

 高校も自分で島根県の全寮制の高校を選んだのだが、三学年で50人、一クラス5人程度という極めて特異な高校だ。そこの教育は受験教育ではなく、校則は生徒が話しあって決め、食事も当番でつくるなど、とにかく生徒の自由や主体性を重んじている。この学校の偏差値を持ち出して中傷をする人が見受けられるが、偏差値だけで判断してしまうことこそ偏見だろう。なお、国立大学に進学している人がいることも書き添えておく。

 ここまで読んで、奥田さんがSEALDsを立ちあげたことがストンと胸に落ちた。彼は、小学生の頃から人間愛に溢れた家庭に反発をしたが、その一方で世俗にも馴染めなかった。そんな環境から抜け出すために、自分の意思でまったく新しい環境での生活を選びとった。つまり自由を選んだのだが、それは必然的に選択の責任を自分でとるということでもあったはずだ。

 恐らく彼の選択した世界には、一般の学校のような競争も、同調圧力による息苦しさもほとんどなかったのではなかろうか。彼は自分の選んだ進路の中で、主体性や民主主義の理念を育み、自然の中で強い精神力や逞しさを身につけ、また自律した生活で責任感を身につけていったに違いない。それともう一つ、子どもに何の指示もせず、彼の選択を見守った父親の存在も大きかったのだろう。これについては、以下を参照していただきたい。

殺害予告を受けたSEALDs奥田愛基氏の父親が語った!「僕は黙らない」「親の影響だと語るのは愛基に失礼だ」 (LITERA)

 私は、奥田さんが高橋源一郎さんのゼミ生だと知ったとき、もしかしたら高橋さんが奥田さんたち学生に運動をけしかけたのではないかと思ったのだが、本書を読んでそんな邪推は吹っ飛んだ。SEALDsは奥田さんや牛田さんたちが自分たちの理念と意思と行動力で立ちあげたのだ。奥田さんの行動力や思想、信念は自ら培ってきたものであるからこそ強く揺るぎない。そしてSEALDsが政治に無関心と言われる若者達をひきつけたのは、デモに牛田さんの得意とするラップを取り入れたことも大いに関係している。

 SASPLやSEALDsの理念は民主主義と立憲主義だ。だから、これらを壊す秘密保護法や安保法制は何としてでも阻止しなければならない。つまり、基盤に民主主義や立憲主義があっての秘密保護法反対であり安保法制反対である。そして非常に重要なのは、何よりも個人の発言を重視するということだ。民主主義の理念の重要な部分である。これは以下に引用するSEALDsのツイッターの固定ツイートにそのまま示されている。

https://twitter.com/SEALDs_jpn/status/529000757547130880
作られた言葉ではなく、刷り込まれた意味でもなく、他人の声ではない私の意思を、私の言葉で、私の声で主張することにこそ、意味があると思っています。私は私の自由と権利を守るために、意思表示することを恥じません。そして、そのことこそが私の〈不断の努力〉であることを信じます

 こうした基本理念ゆえにSEALDsという組織そのものが極めて民主的であり、代表も司令官も置いていない。あえていうなら、メンバーそれぞれが司令官である。メンバー獲得のためのオルグもしない。安保法制反対ということだけを目的としたゆるい連帯組織であり、メンバー個人の考えは非常に多様だ。そして、メンバー個人が自由と権利を守るために発言することを重んじる。個人の発言には責任が伴うのでメンバーはその責任を背負うことになる。

 この多様さゆえに、「改憲派もいる」「国民投票への誘導」「人工芝団体だ」などという憶測も飛び交っているが、いずれもSEALDsの理念やシステムを理解しないことからくる浅薄な発想としか思えない。

 ネットではSEALDsを共産党や民青と同一視したり、下部組織などと言っている者もいるが、上意下達のはっきりした共産党とSEALDsは、組織運営に関しては正反対である。

 また、彼らの対談を読むと民主主義や立憲主義について実によく勉強していることが分かる。

 第1章を読み、私はネットで流されている中傷や陰謀説のほとんどが誤解や妄想によるデマであると確信した。安倍政権を支持する人たちのみならず、SEALDsを理解しようとしない人たちのネットによる非難や中傷は凄まじい。そんな攻撃にもひるまずに名前も顔も所属大学も明らかにして活動を続ける彼らの強さは、彼ら自身の内から湧き出る信念によるものだ。他人にコントロールされてやっているものでは決してない。

 SEALDsを否定するということは民主主義の否定である。そして、それは独裁的な安倍政権を支持することでもある。しかし、そのような人たちが少なからずいることに背筋が寒くなる思いだ。こんな状態ではこの国は破滅に向かうしかないだろう。

 さて、第2章こそこの本のタイトルにある「民主主義ってなんだ?」という問いに迫っている。

 まず高橋さんの2500年前のギリシャの民主主義についての説明から始まるのだが、これは大変興味深い。古代ギリシャの民主主義は有権者全員(とは言っても成人男性のみなのだが)が丘の上で開かれる民会という会議に参加し、自分たちの属する社会をどうするのかを決めていくという直接民主主義制だ。だから戦争をするという決定がなされたら、みんなが兵士になって闘うことになる。では、行政は誰が行うのかといえば、くじ引きである。癒着を防ぐために任期は1年。すなわちみんなが戦争に行くリスクを負い、役人になるリスクも負う。だからきわめて平等だし、一人ひとりが責任を負う社会だ。こう考えるとものすごく理想的だ。

 こういう直接民主主義のようなやり方をSEALDsは採用している。高橋さんは「SEALDsの諸君が組織をつくって今やっているのは、ベ平連がやっていたことのある種の発展系だと思う」と言っているのだけど、その通りだろう。

 私はベ平連のことは詳しくは知らなかったのだが、ベ平連は「ベトナム戦争に反対する」ということのみで連帯し、それ以外は一切問わない組織だった。だからスパイも入り込んでいたらしい。ベ平連は組織そのものがきわめて民主的なのだが、SEALDsの組織形態もほぼそれと同じといっていいだろう。だから、共産党の人がいようと、民青の人がいようと、国民投票を支持する人がいようと排除はしない。メンバーは「安保法制反対」という目的のみでゆるやかに繋がっており、それさえ外れなければ誰もが自由に意見を言える組織だ。

 ところで、今は民主主義といえば議会制民主主義を指すといっても過言ではない。しかし、こういうやり方を古代アテナイは明確に否定しているという。つまり、選挙で選ばれた一部の者に政治を任せることで民主主義は死んでしまうという考えだ。

 直接民主主義では共同体の成員全員が当事者であるし、構成員には責任が発生する。ところが議会制(代議制)民主主義は選ばれた議員に任されるので、それ以外の人は政治の当事者ではなくなってしまう。だから政治に対して無関心になり責任感も薄れがちだ。安倍総理はこれを実にうまく利用していて「民主的に選ばれた総理だ」という理屈で強行採決も平気でやってしまう。安倍総理のようなやり方をしたなら、議会制民主主義のもとで独裁政治が可能になってしまう。

 SEALDsのメンバーたちはこういうことに疑問を投げかけているのだ。SASPLやSEALDsの活動とは、今の議会制民主主義の矛盾への抗議であり、より民意を反映する成熟した民主主義を目指しているということに他ならない。

 SEALDsに疑問を持つ人ほど、本書を手に取ってほしいと願ってやまない。

【10月9日追記】
 奥田さんの不登校に関わる記述に間違いがあったので一部修正した。

 なお、東京新聞の記事で、お父様は愛基さんについて以下のように語っていたとのお知らせをいただいた。

「長男は、小学生のころからまじめ。中学校入学後、いじめで不登校になりました。精神的に追い詰められ、二年生の夏ごろには目を離せなくなった。隣で寝ることにしましたが、私の方が体調を崩して入院するということもありました。その年の秋の終わりごろ、長男は家を出ることを決めました。沖縄県の孤島の学校に転校したいと言い出したのです。息子の面倒を見てくれる「島のお父さん」に、私は手をついて「助けてください」とお願いしました。」
  


Posted by 松田まゆみ at 21:38Comments(3)政治・社会

2015年09月17日

SEALDs批判に思うこと

 ここ数日、ツイッターのタイムラインには国会前で行われている安保法制への抗議行動に関する情報が次々に流れてくる。ただ、その中にときどきSEALDsや国会前での抗議行動を批判する意見が見受けられる。もちろんいろいろな意見はあるだろう。しかし、どうしても違和感を持たざるを得ない批判があるのも事実だ。

 たとえば、体制側による仕組まれた集会であるとか、国民投票に持っていくための運動であり参加している人は騙されているとか、被ばくするから行くべきではないとか・・・。もちろん、個人がそう考えるのは自由だが、私は物事はそう単純ではないと思っている。

 タイムラインにはSEALDsが「人工芝運動」であるというツイートも流れてきた。ウィキペディアによると、人工芝運動とは「団体・組織が背後に隠れ、自発的な草の根運動に見せかけて行う意見主張・説得・アドボカシーの手法である」とある。つまり、SEALDsは特定の主張を広めるために、一般市民による自発的組織に見せかけているという主張だ。

 たしかに、似非市民団体というものは存在する。たとえば環境保護団体の看板を掲げてはいるが、その実態は環境に対する配慮を条件に、環境破壊ないしは環境汚染をするような事業にお墨付きを与えるようなことをしている団体もある。これなどはまさに人工芝運動といっても過言ではないだろう。

 実は、私が関わっている十勝自然保護協会は、権力と結びついた人たちによって乗っ取られかけた過去がある。士幌高原道路(道々士幌然別湖線)の建設をめぐり、会の役員が容認派(柔軟派)と反対派に真っ二つに分かれて紛糾し、闘争ともいえる状況になったのである。

 士幌町から然別湖に抜ける士幌高原道路は、自然環境に大きな影響が懸念されるということで計画が凍結されていた。それが工事再開へと舵をきったのは1983年に横路孝弘氏が北海道知事になってからである。そして、横路知事は、士幌高原道路について「地元自然保護団体のコンセンサスを得ながら取り組む」と発言し、地元自然保護団体、すなわち十勝自然保護協会の意向が大きく注目されることになった。

 知事がこのような発言をしたのは裏があった。十勝自然保護協会の役員には横路知事を支持する地区労関係者が複数存在していた。そして彼らは労組関係者を密かに入会させていた。また当時の会長が、地元の士幌町民に対し「道路をつける」と言っていたという情報がもたらされたのだ。つまりは横路知事の支援者である労組が、水面下で地元自然保護団体を乗っ取ることで道路建設を認める方向で密かに動いていたのだ。

 しかし、当時の役員の約半数はこのような政治的関わりのない純粋な市民であり、道路建設による自然破壊を危惧していた。当然、労組関係者と会長の不穏な動きが役員会で追及されることになり、答えに窮した会長と労組関係の役員たちが役員会を退席して職務を放棄してしまった。こうして、水面下で道路容認に動いた役員たちは会から出ていったのである。彼らはその後もしばらくは十勝自然保護協会を名乗っていたが、やがて消滅した。

 知事を支援する労組が市民団体に介入して企てた乗っ取りは、こうして失敗に終わった。もし、この乗っ取りが成功していたなら、十勝自然保護協会は、人工芝運動と揶揄されることになったのかもしれない。また、そうなっていたら、知事と利害関係がないメンバーたちはさっさと退会し、新たな組織を立ちあげて闘っていただろう。

 なお、町と農協が一体となってこの道路を推進していた士幌町では、「士幌町開発と自然保護の会」という不可解な団体が結成された。名称に自然保護を掲げてはいるが、それが似非であることは言うまでもない。こちらは、純粋な人工芝運動体であった。

 この士幌高原道路をめぐる十勝自然保護協会内部の動きは、外部の人にはおそらくほとんど分からなかったと思う。単純に、会の内部での意見の違いとか、仲間割れと見られていたかもしれない。

 さて、ではSEALDsはどうなのだろう? 彼らの抗議行動の目的は安保法制を成立させないという一点だ。だからメンバー個人は支持政党などもさまざまなようだ。もちろん無党派やこれまで政治に関心がなかった人たちも多数いるだろう。そして、彼らはスピーチにおいて個人の責任で自分の意見を主張している。だから、個々のスピーチは「安保法制反対」ということを除いて、ひとつの方向に集約されるわけではない。

 今の時代、たとえマスコミが報じなくても、国会前の抗議行動はツイッターなどで知れ渡ってしまう。彼らが否が応でも目に着く存在になっている以上、いろいろな意味で彼らを潰そうとしたり利用しようと虎視眈々と狙っている人たちがいるに違いない。反対運動をしていれば、必ずそれを潰そうとしたり利用しようとする人が現れる。それはマスコミであったり、特定の団体や政党かもしれない。自然保護団体も同じで、開発行為をしている事業者やその関係者が、自然保護団体のメンバー個人を手懐け引き込もうとすることもある。

 だから、もしかしたらSEALDsにおいても一部のメンバーは利用されたり影響を受けたりするかもしれない。そういうことがあったとしても、それはSEALDsという団体の責任というよりメンバー個人の問題だろうし、そのような人はいずれ組織から離れることになるのではなかろうか。いずれにしても、個人個人が不純な目的で近づいてくる人たちに対し、毅然とした態度をとれるかどうかの問題だと思う。

 組織の内部のことは、外部の人にはなかなか分からないものである。そしてSEALDsがはじめから仕組まれた運動体だという説は、あくまでも外側から彼らを見ている者によるひとつの見方でしかないし、まして真実であるかどうかなど分からない。少なくとも、私には特定の団体や個人の影響を受けているメンバーがいるとしても、SEALDsそのものが体制側によって仕組まれた団体だとは思えない。

 今大事なのは、SEALDsという組織云々のことではない。もしSEALDsが真の草の根の学生組織でなければ、いつかは駆逐されるか自然消滅するだろう。SEALDsがどうこうということより、憲法違反の戦争法案を国民の意見も聞こうとせずに強引に成立させようとしている安倍政権が大問題なのだ。真実かどうかも定かではないことでSEALDsを目の敵にして何になるというのだろう。

 頑張っているのはSEALDsだけではないし、彼らばかりをちやほやして持ちあげすぎるのはどうかと思う。しかし、自分の心の内を公の場で発言することをはばかられる環境で育った若者たちが、名前も顔も晒して堂々と意志表示しているのである。そして、ネットでは酷い中傷を受けている。私はSEALDsを特別視するつもりはないが、彼らの決意と行動力は支持するし、彼らこそ今の日本の局面に向き合って「嫌われる勇気」を持つことを自分で選びとったのだと思う。

 今の日本人の多くに欠けているのは「嫌われる勇気」を持って、自分の主義主張を述べることだ。自己保身に必死になり「嫌われる勇気」を持てない人たちは、権力者に簡単に操られてしまう。権力者にとっては実に都合のいい存在だ。国会前で、あるいは全国各地で自民党政権の暴挙に抗議する人々は、ようやくその危険性に気づき始めたのではなかろうか。
  


Posted by 松田まゆみ at 12:52Comments(0)政治・社会

2015年07月03日

夫婦別姓を選択できない遅れた国

 先日、以下のネット署名のお知らせがあり、私は迷わず署名をした。

名前を変えずに結婚したい!  〜LOVE MY NAME ♡ 選択的夫婦別姓制度の実現を〜

 私の名前、すなわち松田まゆみは、私が生まれたときに両親がつけてくれた名前である。そのことは私が父、松田白の遺稿集を公表していることからも分かると思う。私は戸籍上の名前を使うことが不可欠な場合以外は、すべて松田まゆみという名前を使用している。

 たとえば民間団体や学術学会もこの名前で登録しているし、講演や公聴会などでの意見陳述も松田の名前を使っている。論文や文章を書く場合も同様である。裁判(原告となっている裁判がいくつかある)においても、松田まゆみという名前を併記しているし、この名前で郵便物も届く。戸籍上の名前で検索しても、私のことはほとんど何もでてこない。松田まゆみという名前で本人を特定できるようにしているのであり、偽名でもペンネームというわけでもない。つまり実名と同等である。

 なぜこの名前を使いつづけるのかというと、日本の婚姻制度がおかしいと思っているからだ。日本の制度では結婚したら夫婦のどちらかが姓を変えなければならない。本来、結婚、離婚、再婚などというのは極めてプライベートなことであるにも関わらず、婚姻制度によって名前を変えることでプライバシーが保たれないという状況が生じている。

 日本では結婚の際に男性の姓を選ぶ場合が圧倒的に多い。本来ならどちらの姓を選ぶかは話し合い、じゃんけん、くじ引きなどで決めてもよさそうだ。ところが実際にはさまざまな理由からなかなかそうはならず、納得できなくても女性が変える場合が大半だ。これは明らかに不平等である。

 また、仕事上、名前を変えると支障や混乱をきたす場合だってあるだろう。そういう方たちは通称として旧姓を使い続ける人が多いが、二つ名前を使い分けるというのは煩わしい上にさまざまな面で不便が伴う。

 研究者の場合、結婚、離婚、再婚などによって名前が変わってしまうと、論文の著者名の同一性が保たれなくなる。したがって名前を変えないのが普通だ。最近は海外に送金をする際に必ず身分証明書で本人確認を求められるのだが、海外の学会に戸籍上の名前とは違う名前で登録していると、学会費の送金の際に面倒なことも生じる。

 選択性夫婦別姓にすればこういう不平等や不便さは解消される。ところが、日本ではいつまでたってもそれが実現されない。つくづく遅れた国だと思う。

 このような理由で私は松田の姓を使い続けている。何よりも子どもの頃から使いつづけてきた名前で愛着がある。松田まゆみで本人が特定できるし、公の場での活動はすべて松田を使用しているので、戸籍上の姓を公開する必然性も意味も全くない。誰と婚姻関係を結んでいるか、あるいは婚姻関係を解消したかなどというのは極めてプライベートなことであり、公にしたり他人にとやかく言われることではない。
  
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Posted by 松田まゆみ at 22:12Comments(1)政治・社会

2015年05月02日

日本人の曖昧さこそが安倍首相の暴走を許しているのではないか

 5月1日付の北海道新聞朝刊に「次世代の憲法 空気読み主流に同調」という記事が掲載されていた。

 就活に失敗しないために周りに合わせて黒のリクルートスーツを着用する若者たち。山田昌弘氏(中央大教授)によると、その背景には同じ会社で一生働き続けたいという若者たちの安定志向があるという。さらに経済的な不安からくる多数派への同調意識が、改憲容認の空気が広がる要因のひとつだと分析している。つまり今の若者たちは、大人たちの主流が改憲容認だと感じ取りそれに同調しているというのだ。

 これが事実なら、若者の親世代の意識が大きく問われることになるだろう。

 私の若い頃も「周りに合わせる」という傾向はたしかにはっきりとあった。みんなと同じにしていれば陰口も言われにくいし安心という風潮があったし、学校でも他の人と違う意見をはっきり言うのが憚られるような雰囲気があった。つまりは自分の意見を主張すれば批判されたりいざこざの原因になるから、周りに合わせて曖昧にしていることこそ賢いといった人たちが多かったと思う。友人と政治の話しをしないというのも今にはじまったことではない。

 そういう世代の人たちが親になり、自分の子ども達にも同じような生き方を求めたことが、今の若者の意識に大きな影響を与えているのではなかろうか?

 私が子育てをしていた頃、大半の親は率先して自分の子どもが他の子どもと違うことがないよう気を遣っていた。たとえば服装ひとつにしても周りの子どもと同じようなものを着せる。自転車などの持ち物も同じで、誰かがマウンテンバイクを買ってもらうと、親が次々とそれに同調してマウンテンバイクを買い与えるのだ。同じにしなければ可哀そうだ、仲間外れにされる、という理由で。「違うことで仲間外れにしてはならない」と教えるのではなく・・・。

 PTAの会合なども同じで、多数派に同調せず自分の意見をはっきり言うとたちまち批判の的になり、陰口が飛び交った。そして批判されないようにと声の大きな人に同調する人たちを目の当たりにした。子ども達の間のいじめと同じことが親の間でもまかり通っていた。むしろ、親世代にこそいじめの根源があるのではないかと思うこともあった。

 今の若者たちが異常なほど周りに同調することに気を遣い「空気を読む」ようになってしまったのは、親世代の意識が大きいと思わざるを得ない。親世代の人たちこそ議論を嫌って多数派に同調し、子どもにもそう仕向けてきたのであり、若者たちが保守化している要因は若者たちだけの問題では決してない。

 戦前・戦中は洗脳されて軍国少年へと突っ走った若者が大勢いたが、今はネットでさまざまな情報が手に入るようになった。若者こそネットを最大限に利用している。それにも関わらず、若者たちのネットはラインでつながることで安心を求めたり、あるいはネットで他者を叩くという歪んだ関わり方が多い。ネット時代の若者が、今の日本の危機的状況を察知できずに保守化に走ってしまうのは本当に恐ろしい。

 安倍首相は米国に自衛隊を差し出そうとしているが、若者達は戦争に行くのは自衛隊員だけだとでも思っているのだろうか? 自衛隊が軍隊となれば自衛官を希望する人も減るだろうし、徴兵も時間の問題だろう。米国を見ていれば分かるが、貧困層こそ戦争に駆り出される確率が高くなる。しかし、若者が今の流れに抵抗しようとせず、ただ自分の安定・安心だけを望むであれば、「自分さえよければ」という発想にほかならない。いじめと同じではないか。

 若者たちは日本が米国に追従するということがどれほど危険なことなのか本当に分かっていないのだろうか? たとえ正社員として安定した生活ができたとしても、自由に物も言えない監視社会になれば平穏な生活などなくなる。米国の戦争に加担すれば日本が攻撃されないとも限らないし、万一原発を攻撃されたらこの国はひとたまりもなく破滅の道を歩む。

 大江健三郎氏は1994年のノーベル賞受賞記念講演で「あいまいな日本の私」というタイトルで講演をした。今から20年前のことだ。

ノーベル賞受賞記念講演要約

 今の若者世代そしてその親世代の多くに共通しているのは、「周りに同調することで安心する」という極めて曖昧な日本人特有の思考ではなかろうか。それは未曽有の原発事故を起こした後も、ちっとも変わっていないように見える。あれほどの原発災害を起こし、原子力ムラの欺瞞が晒されてもなお危機感を持てず、「曖昧さ」から脱却できないのだとしたら、行きつくところまで行くしかないのだろう。

 平和とは黙っていて与えられるものでは決してない。常に権力者を監視し、権力者が暴走しないよう注意を払っていなければならない。平和憲法を守るのも放棄するのも国民一人ひとりの意識にかかっている。これほど危険な状況が迫っているというのに、日本人の多くが未だに曖昧であることに胡坐をかいてはいまいか?

 投票の行かない若者たちを批判するだけではどうしようもない。自民党政権を容認し続けてきた大人たちが曖昧さを捨て、本気で危機感を伝えなければ若者も目を覚ますことがないように思う。
  

Posted by 松田まゆみ at 22:02Comments(2)政治・社会