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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱 › 政治・社会

2016年08月13日

受刑者の人権

 今日の北海道新聞の「各自核論」に、芹沢一也さんによる興味深い論考が掲載されていた。ノルウェーの受刑者の人権に関する裁判所の判決のことだ。以下に内容を要約して紹介したい。

2011年にノルウェーで、オスロの政府庁舎を爆破して8人を死亡させた後、ウトヤ島で銃を乱射して69人を殺害するという連続テロ事件があった。犯人のアンネシュ・ブレイビク受刑者は最高刑の禁固21年の判決が言い渡され、厳重な警備下にある刑務所で他の受刑者とは隔離されて収監されていた。
 ブレイビクは生活用、学習用、トレーニング用の三つの部屋、テレビやテレビゲーム機(インターネットに繋がっていない)、料理や洗濯のできる設備を用意され、オスロ大学への通信制による入学も許可されていた。
 しかし、ブレイビクは隔離収監は人権侵害であるとして処遇の改善を求めて裁判を起こし、裁判所は「欧州人権条約第3条(拷問または非人道的な待遇・刑罰の禁止)に違反する「非人間的で屈辱的な処遇、処罰」であるとして、ブレイビクの訴えを一部認める判決を出した。
 ノルウェーでは、犯罪は特別の個人の問題ではなく社会の問題であり、刑務所は社会復帰のためのリハビリの場であるとの思想がある。たとえテロリストや殺人犯であっても、それは変わらない。
 「テロは許さない」というノルウェーの人たちは、暴力に対して怒りや憎しみをぶつけるのではなく、愛と思いやりで対峙する戦い方を選んだのである。したがってノルウェーの裁判所が示した見解は、ヨーロッパ・リベラルの甘さなどではなく、「テロには決して屈しない」という強靭な意思こそを示したものである。

 ノルウェーは犯罪者に非常に優しいということは以前に「ニルス・クリスティの言葉」ででも取り上げたが、ノルウェーと日本では刑罰の重さだけではなく、受刑者の待遇も天と地ほどの差がある。それは犯罪者であっても人間として尊重し、社会復帰を目指すという考え方が基本になっているからに他ならない。人は社会との関わりなしには生きていけないし、犯罪もまた犯罪者個人だけの問題では決してない。犯罪者とて私たちと同じ人間であり、非人間的に扱ったなら社会復帰の妨げにしかならないということなのだろう。犯罪者の社会復帰に必要なのは、彼らを罰によって苦しめることではなく、愛と優しさで人間らしさを取り戻すことなのだ。この考えに、私は深く共感する。

 芹沢さんの論考の中にウトヤ島の生存者の「暴力は暴力を、憎悪が憎悪を生みます。これは良い解決策につながりません。わたしたちは、わたしたちの価値観のための戦いを続けます」という言葉が出てくる。

 「暴力が暴力を生み、憎悪が憎悪を生む」ということは、私たちの日常生活の中にいくらでもある。自分が誰かから暴力を振るわれたことに対し、相手への報復に執念を燃やしたら、たちまち闘争が始まり収拾がつかなくなる。暴力に対して憎しみで対峙したなら必ず暴力の連鎖、憎しみの連鎖がはじまる。紛争はあくまでも話し合いや裁判などで解決して憎しみの連鎖を絶たねばならない。犯罪者に対しても人間らしい生活を提供し、愛と思いやりによって人間としての尊厳を取り戻すことこそ更生と社会復帰につながるし、憎しみの連鎖を絶つことにもつながるだろう。

 ところが、日本では凶悪な殺人事件が起きるたびに、犯人を極刑にしろとの大合唱が始まる。日本人の多くは、犯罪は犯罪者個人の責任でしかないと考え、暴力に対して徹底的に憎しみをぶつけ、犯罪者を厳しく処罰しなければならないと信じているようだ。そこには「自分は決して犯罪者にはならない」「犯罪者はすべて悪人」という驕りがあるのだろうし、どんな人でも「人は人として対等であるべき」という人権意識が欠落しているとしか思えない。

 暴力に対して憎しみだけをぶつける社会は、必然的に暴力的な社会になる。社会全体が殺伐とし、誰もが対等の人間であることが忘れ去られる。そこに平和や幸福はない。平和憲法を守りたいという人は多いのに、なぜこれほどにまで憎しみが蔓延してしまうのだろう。

 暴力のない平和な社会を望むのであれば、ノルウェーの人たちの理念こそ見習うべきではなかろうか。
  

Posted by 松田まゆみ at 23:34Comments(2)政治・社会

2016年03月24日

莫大な赤字想定のもとに開業する北海道新幹線

 北海道新幹線の新青森~新函館北斗間が26日に開業の運びとなり、浮足立った報道がなされている。しかし、北海道新幹線開業で年間48億円の赤字が発生すると言われているのだから正直いって喜ぶというより「この先、どうするつもりなのか?」という懸念が浮かんでくる。

赤字込みの北海道新幹線 要因に特殊状況(乗りものニュース)

 JR北海道によると、北海道新幹線の場合は以下の三つの理由で他の新幹線よりコストが割高になるという。

①青函トンネルの維持費がかかる。
②青函トンネルで在来線貨物列車と新幹線の共用走行をするため、複雑な線路の維持管理コストが割高になる。
③新青森~新函館北斗間の約150キロメートルという短区間開業のため、コストが割高になる。

 この48億円という年間の赤字予想額は、東京~函館間の移動について鉄道のシェアが現在の約1割から約3割に増加するという前提での計算だ。もし、この通りに増加しなければ赤字額はもっと増えるだろう。

 では、予約率の方はどうなのだろう。JR北海道が3月10日に発表した予約率は「開業日から9日間の平均で約25%」とのこと。

北海道新幹線 予約率25% 初日以外余裕 春休みに期待(毎日新聞)

 記者会見でJR北海道の島田社長は「通常は運行日の1週間前から予約が増える」として「春休みもあり、たくさんの方の予約がその直前になされると思う」と発言している。

 しかし、開業の2日前の予約率はどうかというと、24%しかない。直前になれば予約が増えるなどというのはまったくの外れだった。

北海道新幹線 開業から9日間の予約率24%(陸奥新報)

 こんな調子だから、「鉄道のシェアが1割から3割に増加」などという見通しも甘いのではなかろうか。札幌から東京へは飛行機の便も多いし、格安航空会社ではなくても割引運賃などを利用すれば新幹線より安く行ける。新千歳空港に行く時間を見込んだとしても、新幹線よりずっと速い。開業後間もなくは物珍しさで新幹線を利用する人がある程度はいるとしても、果たしてどれだけ利用者が増えるのだろう?

 この先、札幌まで開通すれば利用者が増加することも考えられるが、札幌までつながるのは14年も先の2030年の予定。この間には赤字が相当深刻な状態になっているだろうから、料金が安くなるというのは考えにくい。札幌までつながったとしても東京~札幌間は5時間以上かかるだろうから、やはり時間は飛行機にはかなわない。しかも札幌から遠い地方に住む人は、新幹線が開通しても東京へは飛行機を利用するだろう。鉄道のほうが飛行機よりも天候に左右されないというメリットはあるが、やはり利用者増には料金がネックになりそうだ。

 JR北海道といえば数年前から頻繁に事故を起こしてニュースになってきたが、赤字体質のために古い車両を使いつづけてきたことも一因とされている。日高線では2015年1月8日に高波で線路の土砂が削り取られてしまい1年以上不通が続いているが、JR北海道は復旧費用を捻出できず、国への支援を求めている。

 JR北海道の鉄道部門の赤字に関しては以下の記事が詳しい。

北海道新幹線開業でJR北海道がギリギリの経営状態になる?  (株価プレス)

 タダでさえ年間300~400億円という大変な赤字を出しているのに、さらに新幹線で赤字を抱え込むことになる。そのツケはどうなるのか? 運賃に上乗せさせれば利用者が負担することになるし、それではますます新幹線から足が遠のいてしまうのではなかろうか。

 日本全国を新幹線でつなぐという構想は1970年につくられた「全国新幹線鉄道整備法」に基づいているから、JR北海道は赤字を理由に建設を拒否することにはならない。しかし、この先の赤字を国が支援すれば国民の税金が使われることになる。

 新幹線が開通すれば在来線は当然不便になり地域住民に影響がでる。計画を変更して在来線をそのまま維持させるという選択肢もあったと思うのだが、構想や悲願ばかりが先走ったということはなかろうか? 多額の赤字を前提に開業する北海道新幹線に、国の無責任さを感じざるを得ない。
  


Posted by 松田まゆみ at 16:07Comments(6)政治・社会

2016年02月23日

自動化する社会

 先日、半年ぶりに飛行機に乗った。近年は航空券の予約と購入はネットで済ませているが、今回は手続きをしていたら「eチケット」なるものが利用できるとのことだったのでそれをプリントした。「eチケット」の場合は、搭乗手続きをせず保安検査場に直行できるという。帯広空港でカウンター前のX栓検査場に直行して手荷物をひとつ預けてから搭乗口に向かった。飛行機の手続きもどんどん変わっていく。

 羽田からの帰りの便も同じeチケットを利用できるので、手荷物を預けるために搭乗手続きのカウンター向かった。ところが例の手荷物検査場(X線検査の機械)が見当たらない。どこかに案内が出ているだろうと見渡すと、手荷物を預ける人は○番カウンターに行くようにとの案内が出ている。

 で、そこに行ってみてもX線検査の機械が見当たらない。首をかしげながらも、とりあえず列に並んで前の人がやっていることをよくよく見れば、なんと手荷物検査が自動化されていて搭乗者が各自でパネルを操作しているではないか。あたりに説明をしてくれそうな空港の職員の姿は見当たらない。内心「えっ! どうやってやるんだろう?」とちょっと焦ったが、とりあえず前の人を観察することにした。

 荷物をカウンターの所定の場所に置きパネルを操作すると、扉が閉まって検査が行われるらしい。そのあと機械から荷物に付ける番号が書かれたタグが出てくるので、自分でタグを荷物に取り付けてまたパネル操作をすると扉がしまり、ベルトコンベアで荷物が奥に運ばれて行く。番号が書かれた控えの紙をとれば手続き完了らしい。ただし、私の前の男性はスムースにいかずにちょっと手こずっていた。これなら、今までのように手なれた職員がやったほうが速そうな気もする。

 ちなみに、この機械は「ANA Baggage Dropサービス」というそうだ。以下のサイトを参照していただきたい。

http://travel.watch.impress.co.jp/docs/news/20150630_709511.html

 実際にやってみたら難しいことはなかったが、しかし、何でもこうやって機械化してしまうというのは高齢者や弱者への配慮が足りないと思うし、何とも味気ない。高齢者は通常、新しい機械というだけで拒絶反応を示すものだから、ここまで機械化されてしまうと多くの人が戸惑うに違いない。

 考えてみたら、ここ数十年のあいだに機械でできることはどんどん自動化されていっている。省力化といえばそれまでだが、なんでも機械に任せてしまうことが本当に進歩なのかと考えさせられる。

 今の若者には分からないだろうが、私が子どもの頃はバスには車掌さんがいて切符を売っていた。しかしワンマンカーが徐々に普及し、いつの間にか車掌さんはいなくなってしまった。忙しくていらいらしていそうな運転手さんには、停留所を尋ねることも気が引ける。あの頃は電車の切符ももちろん窓口で販売していたし、自動改札機などもなかった。今や、動物園や植物園などの入場券なども人が売っていることの方が少ないのではなかろうか。地方ではまだ人がチケットを販売していることも多いが、機械化されるのも時間の問題なのかもしれない。

 街角に自動販売機なるものが並び始めたのはいつからだったろうか・・・。2008年に北欧旅行に行ったとき、自動販売機がほとんどなくて飲料は店で購入するしかなかったが、それが当たり前だと思えば不便は感じない。それに比べ、日本は自動販売機大国だ。証明写真を撮影する機械などは大学生の頃にはあったが、あれはいつから出てきたのだろう・・・。たぶんこうした自動化はほぼ同時期に進んでいったのではなかろうか。

 銀行でのお金の出し入れや送金もATMでほとんどできる。今や、大きな病院では会計も機械化されている。それはそれで便利かもしれないけれど、日常生活から人との対話がどんどん消えていき、人が機械に慣らされてしまうことになにか引っかかりを感じてしまう。

 スーパーマーケットなどなく街の商店街で買い物をしていた頃は、「○○を何グラムください」などと言葉を交わさなければ買い物もできなかった。スーパーマーケットでの買い物が当たり前になった今、店の人と客が顔を合わせ、言葉を交わして買い物をするという行為すらなくなりつつある。なんと非人間的な日常だろうとふと思う。

 つまり、誰とも会話しなくても日常生活が送れてしまう。とりわけ一人暮らしの高齢者などは人と人との距離が遠ざかり、信頼関係も薄くなり、社会から孤立してしまうのではないか。そういえば、父が亡くなり母の一人暮らしがはじまってから「一日中誰とも話さない日がよくある」と言っていた。そんなこともあってか、母は高齢になっても週一回の動物園でのボランティアガイドを楽しみにしていた。自分で意識して求めない限り、他者と対話をする場がないのだ。

 利便性の裏には必ず負の側面がある。機械化、自動化も紛れもなくそうだ。自動化の陰に会話のない孤独な日常が繋がっている。

  

Posted by 松田まゆみ at 14:21Comments(2)政治・社会

2016年02月01日

戦争は人間の本性か?

 人間の最も愚かな側面は、戦争と環境破壊だと思う。同じヒトという種でありながら、憎み合って殺し合い、しかも大量殺戮を続けている生物種は地球上にはヒト1種しかいないだろう。環境破壊は、生物の生存基盤そのものを壊したり汚染することで自ら首を絞める行為だ。戦争は同種の殺戮と同時に環境破壊ももたらす。ともに理性のある者がとる行動ではなかろう。

 放射能汚染も同じで、お金に目がくらんだ人たちが危険きわまりない原子力の利用を促進してきたことが、人類はもとより地球上の生物の生存を脅かしている。21世紀における人類の選択は、地球上の生物の存続を左右することになるだろう。

 しかし、これだけ科学技術が発達した社会でありながら、ヒトはどうして戦争が止められないのだろうか。「戦争はヒトの本性」とか「戦争があるから人口増加が抑えられる」などといったことを口にする人がいるが、本当にそうなのだろうか? やや古い記事だが、以下からもやはり戦いは人間の本性ではないと考えざるを得ない。

「戦いは人間の本質ではなかった」:研究結果

 アイヌの人たちはチャランケという弁論よってもめごとの解決を図ったという。アイヌ民族がまったく闘いをしなかったということではないにしても、話し合いで争いごとを解決するというのが彼らの基本的なやり方だったのだろう。

 狩猟採取生活をしている少数民族は、自然の中でひっそりと暮らしていて集団で殺し合いをするという話しはまずきかない。以前、NHKのテレビ番組で、狩猟採取生活をしているある民族にはストレスがないと報じていた。彼らは協力して獲物を捉え、食糧を集団の中で平等に分け与える生活をしているが、こうした集団内の協力や平等意識が武力闘争のない平和な生活を維持しているのだろう。狩りに非協力的な自己中な人は、集団内で生きていけないことになる。

 だいたい、同種同士で殺し合いをする動物はほとんどいない。チンパンジーなどには子殺しもあるが、これとて憎しみによる集団での殺し合いではない。ところが、人類はあるときから殺し合いをするようになってしまった。人間がいつまでたっても戦争という殺戮を止められないのは、欲を制御できないからとしか思えない。富を溜めこむようになった社会には富の分配の偏りという不平等が生じ、より多くの富を得ようとする競争があり、こうした社会では不平等と闘争心によって自ずとストレスが蓄積する。

 富の配分が公平で、支配や競争がない社会であればストレスは生じにくいだろうし、ストレスや競争がなく人と人が協力しあう社会であれば、人が憎み合うことも少ないだろう。ならば、人々が平和な暮らしを続けるために必要なのは、富をできる限り均等に配分して格差をなくし、人々が協力しあう社会を構築することだ。

 そして、地球上の資源は限りがあることを自覚し、自然改変をできる限り慎む努力をしつつ再生可能エネルギーを利用していくしかないのではなかろうか。もちろん、だからといって昔のような生活に戻れというつもりはない。自分たちの生存基盤である自然環境の保全を前提にしなければ、どこかで綻びが生じ持続可能な社会は続かない。戦いが人間の本性ではないのなら、意識と努力次第で平和な社会は築けるはずだ。

 しかし、日本は正反対の方向に向かっている。格差は拡大するばかりだし、福祉は切り捨て。今や働けど働けど搾取される非正規の労働者と、年金だけで生活できない高齢者が溢れている。あれだけ大きな事故を起こし放射能をばら撒きながら、原発をやめる気配がない。これでは人々の間に不満やストレスがたまり、攻撃的になるのも当たり前だろう。安倍首相は人々を攻撃的にしておいて、戦争に駆り出そうというつもりなのだろうか。

 これに気づき、理性を働かせていかないと、ストレスをため感情的、攻撃的になった人間は簡単に騙され誘導されてしまう。はたしてヒトは理性をとりもどし、戦争のない社会を構築することができるのだろうか?
  
タグ :平和戦争


Posted by 松田まゆみ at 10:54Comments(6)政治・社会

2016年01月03日

リテラシーが求められる時代

 新しい年を迎えたが、もうここ何年も新年にあたっての感慨はないし、とても楽しい気分にはなれない。ただ、昨年一年を無事に過ごせたことを感謝するとともに、来る年に自分は何ができるのだろうかと考えてしまう。

 とりわけ福島の原発事故以来ずっと重たい気持ちを引きずっているし、心の奥底にいいようのない不安が貼りついている。何の不安かといえば、戦争への道にすでに片足を踏み出していること、被ばくによる健康被害の顕在化と被ばく隠しが始まるであろうこと、再び大地震や大津波あるいは火山噴火などの自然災害に襲われる懸念(再度の原発事故の可能性も含む)、ますます格差が拡大するであろうこと、いつまで自由な言論ができるかわからないこと・・・などなど。

 以下の獣医さんの記事が、今の危険な状況を端的に指摘している。

今年ほど右に傾いた年はない(そりゃおかしいぜ第三章)

 獣医さんも記しているが、政府は武器製造や開発、輸出を目指し、国立大学が軍事研究にまで手を出す始末だ。つまり科学者に軍事研究をさせて軍事に動員するということだ。戦争への学者の利用であり、こうしたやり方から間違いなく戦争へと誘導する御用学者が生まれるだろう。きわめて恐ろしい事態だ。

 国は科学者まで利用して軍需産業に力を入れ、強引に戦争法を通して戦争へと邁進している。平和憲法はすでに形骸化してしまったうえに、この夏の参院選で改憲を目論んでいる。再び巨大地震が迫っているという予測をしている人たちがいる中で、国民の声を無視して地震大国、火山大国で原発を再稼働させる様は、もはや狂気としかいいようがない。TPPも公約違反。マイナンバーで国民を管理。もう支離滅裂の状況だ。

 それにも関わらず、多くの人が政治に無関心だ。若者たちの多くはスマホから離れられない生活を送っているが、大半はゲームやSNSにうつつを抜かしているという。この情報化時代に、真実を知るための情報収集をするならわかるが、どうやら政治には関わりたくない若者が大半らしい。

 国が集団的自衛権を行使できるようにしたところで、自分には関係がないとでも思っているのだろうか。あれだけ自民党が公約違反をしておきながら、未だに「長年政権を握ってきた自民党がいちばん安心」などと思っている人も多いように見受けられる。これほど危険な状況なのに危機感が希薄で、保身ばかり考えている人があまりに多いと思わざるをえない。

 今年は原発事故から5年目になるが、チェルノブイリの原発事故の経験からも、子どもの甲状腺がんの多発をはじめとした被ばくによる健康被害がいよいよ明確になってくるだろう。政府が事故の過小評価に必死になり汚染地に住民を戻す政策を展開し、未だに誰も原発事故の責任をとらないという状況からも、これから被ばく隠しが行われるのは目に見えている。

 おそらく被ばく隠しに御用学者が跋扈するだろう。首都圏も汚染されてしまった以上、被ばくによる健康被害は関東圏でも明確に現れるに違いない(実際にはすでに現れているとは思うが)。そんな中で首都圏に住む人たちは正常性バイアスに捉われ、御用学者の振りまく安全説に頼ってしまう可能性がある。否、問題は御用学者だけではない。放射能安全説を振りまいたニセ科学批判の人たちや、それに準ずる発言をしている科学者の言説は汚染地に住む人たちに安心感を与える。こうして汚染地の住民がエートスに取り込まれ、原子力ロビーに牛耳られてしまうことこそ警戒せねばならない。エートスについては以下を参照していただきたい。

<エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか?/その1 
<エートス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その2 
<エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その3 
<エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その4 

 今の日本の状況は、すでに浸水がはじまっている沈みかかった船だと思う。ともあれ、悲観していたところでどうにもならないのも事実だ。ならば、自分でしっかりと情報の取捨選択をし、できる限り真実に近い信頼できる情報を広め、間違った言説を指摘することが多少なりとも多くの人の幸福に結びつくのではなかろうか。もちろん一人の人間ができるのは微々たることでしかない。しかし、ただ悲観して何もしないのは状況の悪化に加担するだけだと思う。

 ネット上にはいい加減な情報やデタラメな情報、あるいは荒唐無稽な陰謀論や誹謗中傷が溢れているが、地道に真実を追求しようとしている言論もある。一方で、政府に都合の悪い情報の信用を落とそうと操作する人もいる。そんな混沌とした状況の中で、何が虚偽であり何が事実なのか、また何が真実に近いのかを見極めるリテラシーがこれほど求められる時代もないだろう。
  

Posted by 松田まゆみ at 18:09Comments(0)政治・社会

2015年11月26日

日本国憲法の制定と改憲

 11月24日付けの北海道新聞に、「憲法に平和と民主化の願い」とのタイトルで古関彰一さん(独協大名誉教授)の日本国憲法の誕生についてのインタビュー記事が掲載された。非常に重要なことだと思うので、ここに要点を紹介したい。

・憲法に平和条項を盛り込んだのは日本の議員たちだった。9条がどうしてできたかが分かったのは、1995年に帝国議会の速記録が公開されて判明した。
・知識人らによる民間グループ「憲法研究会」が1945年に統治権は国民にあり、天皇は国家的儀礼をつかさどるとし、自由権を定めた「憲法草案要綱」を発表し、内閣やGHQに提出。
・憲法研究会の案がGHQ草案に盛り込まれ、国民主権や人権条項につながった。
・日本政府は、万世一系の天皇が統治権を有するなど明治憲法とほとんど変わらない「憲法改正要綱」をGHQに提出したが、GHQは一蹴して自分たちの草案を日本に渡した。
・日本政府の「憲法改正要綱」に賛成したのは起草した憲法問題調査委員会委員長の松本蒸治ら一部だけで、昭和天皇すら要綱に疑問を持つ人が出るのではないかと述べた。
・GHQ草案を確定案にするまでGHQは松本らを30時間缶詰めにしたが、同席した外相の吉田茂や法制局の佐藤達夫は押しつけられたとは言っていない。松本の私憤が「押しつけ論」になったのだろう。
・連合国最高司令官のマッカーサーは、日本統治に昭和天皇の存在が不可欠と考えていたため、GHQは天皇に厳しい姿勢で臨むと見られた極東委員会が動きだす前に天皇を象徴的な存在にする民主的憲法案をつくろうと急いだ。つまり、天皇を守るために象徴天皇制と戦争放棄が必要だった。
・戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくるというマッカーサーの政治的、戦略的な発想があった。


 ざっと要約するとこんなところだろうか。

 よく言われる米国による押しつけ論に対し、民間グループが提案した案をGHQが採用したということは私も知っていた。あらためて古関氏の解説を読んでも、いわゆる「押しつけ論」は改憲の理由にはならないと思う。

 ところで、これを読んで私が注目するのは「天皇を守るために象徴天皇制と戦争放棄が必要だった」と「戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくるというマッカーサーの政治的、戦略的な発想があった」という2点である。

 GHQは象徴天皇制と戦争放棄によって天皇の戦争責任を免責したことになる。ここで頭に浮かぶのは、辺見庸著「1★9★3★7」に取り上げられている天皇の戦争責任問題である。この中で、辺見氏は天皇の戦争責任について何度も言及するのだが、とりわけ印象に残るのは1975年10月31日の皇居で行われた天皇の記者会見における問答である。1975年といえば、私は大学生だったが、情けないことにこの天皇の発言についてはほとんど記憶にない。この問答について「1★9★3★7」から引用したい。(306ページ)

(問い)また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかかいいたします。
(天皇)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。

 天皇は当然のことながら自分に戦争責任があるという自覚はあっただろう。いわゆる「皇軍」が「大元帥陛下(天皇)万歳」と唱えて南京で大量殺戮をしたのだ。責任がないわけがない。しかし、この正面からの問いに対し「言葉のアヤ」などといって自らの戦争責任を堂々と誤魔化したのだ。これほど無責任で恥ずべきことはない。こういうことを平然と言えたのは、憲法で戦争責任の免責をしてしまったことが関わっているのだろう。

 私は戦争責任について天皇に土下座させて謝罪させればよかったとは思わない。自己の責任を認めることができない者に無理矢理謝罪をさせたところでどれほど意味があるのかと思う。ただし国民は、とりわけ知識人たる者は、この天皇の発言に対し毅然と異を唱え批判する必要があっただろう。中国での大虐殺という加害ならびに太平洋戦争での被害を突き付け、天皇の戦争責任を国民の前にきっちりと明らかにするべきであった。しかし、それがなされぬまま日本の無責任体質は今に及んでいる。ふたたび戦争をする国へと突き進んでいる今、今後の戦争で生じるであろう加害や被害の責任は誰にあるのか? 平和憲法を持ちながら安倍政権を選んだ私たち国民ではないのか・・・。

 もう一つ、認識を新たにしたのは、「戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくる」という米国の思惑である。戦争放棄の裏にこんな事情があったのかと思うと慄然とする。沖縄を犠牲にしての日本の平和などあり得ない。今の辺野古の闘いは、本土の人間にとって決して無関心でいられるものではない。

 11月22日の琉球新報の社説から一部を引用しよう。

 注意したいのはオバマ氏の言動だ。首相の発言に対し、オバマ氏は「感謝したい。米軍も嘉手納より南の基地返還に取り組む」と述べただけである。「唯一」という発言に同意してはいないのだ。
 事実、日本の安全保障政策に多大な影響力を行使してきたアーミテージ元米国務副長官もナイ元米国防次官補も辺野古新基地に疑問を呈している。モンデール元駐日米国大使も「(普天間代替基地の場所について)われわれは沖縄だとは言っていない」と明言した。「辺野古が唯一」だなどと言っているのは日本政府だけなのである。

 憲法によって沖縄に基地を押し付けた米国ですら、もはや「辺野古が唯一」などとは言っていないのだ。それにも関わらず、今も辺野古で抗議行動をしている人たちに暴力をふるい、県民の反対を押し切って沖縄を米国に差しだそうとしているのは安倍政権にほかならない。こんな安倍自民党政権を選んだのは、私たち国民だ。

 私たち無責任な日本人が選んだ安倍首相は改憲に向けてまっしぐらだ。そして、再び戦争という人殺しをしようとしている。平和憲法の制定に米国の思惑があったとしても、それによって天皇の戦争責任が免責されたとしても、自民党主導の改憲は何としても阻止しなければならない。米国にただただ媚を売り、基本的人権すらなくそうとしている安倍政権にNOを突き付けねばならない。

 もし改憲がなされたなら、日本は一気に戦争へと突入し、基本的人権も表現の自由もなくなるだろう。戦前と同じ状況があっという間にやってきて、国民が互いを監視し合い、ずるずると戦争へと巻き込まれていくだろう。今、戦争反対を唱えている人ですら何も言えなくなり、軍国主義へと染まっていくかもしれない。そうなったとしても責任は私たち国民にある。

 無責任体質が染み込んだ日本人に、改憲阻止ができるかどうかが問われている。

【関連記事】
辺見庸氏の渾身の著作「1★9★3★7」
辺見庸氏の「1★9★3★7」インタビュードタキャンと日本共産党批判
  


Posted by 松田まゆみ at 15:50Comments(0)政治・社会

2015年11月24日

辺見庸氏の「1★9★3★7」インタビュードタキャンと日本共産党批判

 以下は11月22日の私のツイート。

①ここ数日、辺見庸氏のブログの日録「私事片々 201511/10~」http://yo-hemmi.net/article/429387467.htmlを毎日読んでいる。辺見氏は以前、日録で国会前のデモを批判していたが、それを一度消した。しかし、最近になってまたそのことを取り上げている。

②11月12日の日録には、安保法制に反対する国会前のデモについて、「安保法制反対をとなえる服従(屈従)的デモのあとにデモ参加者が路上清掃をしたという〝美談〟」をとりあげ、批判している。では、安保法制反対をとなえる服従(屈従)デモとは何をさしているのか?

③11月18日の日録で、共産党機関紙の赤旗が辺見氏の著書「1★9★3★7」についてのインタビューを断った理由についてこう推測する。「ほんとうのわけは、ひところの国会前のデモを、あまりにも「権力迎合的」だとわたしが口汚く非難したからではないですか。」

④辺見氏はさらにこう続ける。「そのことをみとめれば、問わず語りに、あそこには「まっさらの若者たち」だけでなく、共産党や民青の〝別働隊〟が多数入っていた事実を承認することになるので、あなたがたは卑小な沈黙をきめこんでいるのではないですか。」

⑤「まっさらな若者」とはもちろん #SEALDs の若者たちのことだろう。私は現場にいたわけではないし、本当の事情はよくは分からない。しかし、SEALDsの主宰したデモに、共産党や民青のメンバーなどの「別働隊」が入り込んでいたというのはたぶん事実だろう。それだけならまだいい。

⑥辺見氏が批判したのは「別働隊」のとった行動である。21日の日録にこうある。「権力受容体質のニッポンのあんちゃん、ねえちゃんたちは、国会前でやったように、SWATに拍手喝采し、屍体に「帰れ!」コールを浴びせかけ、しかる後に、みんなで血塗られた道路の清掃作業でもやるんだろうか」

⑦ツイッターでも流れてきたが、一部のデモ参加者が警察に逮捕されたとき、デモ参加者の一部がその逮捕を喜び、「帰れ」コースを浴びせたらしい。別働隊が警察にチクったのかどうか私は知らない。しかし、警察による違法逮捕への加担を「権力に迎合」と言わずに何というのだろう。

⑧辺見氏はこの光景に怒っている。安保法制反対を叫ぶ人々が権力に迎合しているのなら、矛盾も甚だしい。共産党別働隊がそれに関わっているからこそ、辺見氏は共産党を「権力迎合的」と批判しているのだ。私も警察によるデモ参加者の逮捕を知ったときには憤りを覚えた。

⑨共産党や別働隊なるものが国会前デモを利用しているというのは、私も感じてはいた。しかし、あえて批判はしなかった。なぜならSEALDsは特定の組織を支持しているわけではないし、来る者は拒まず、去る者も追わないからだ。共産党や過激派が来ていても排除することにはならない。

⑩個人の発言と行動、すなわち個としての主体性を何よりも重視するSEALDsと、上意下達が徹底した日本共産党は、どう考えても根本的なところで歴然と異なっている。相いれないのだ。なのに、共産党がSEALDsの若者たちを評価し国会前デモを大きく報じることにどうしても違和感はあった。

⑪私は徹底して戦争に反対をしてきたという点では日本共産党を評価している。主張にしてもまっとうなことが多い。しかし、共産党という組織内における「支配-服従」の関係だけは嫌悪する。組織に服従してしまう人々が、いったい国家権力に対してどれだけの不服従や抵抗ができるのかと。

⑫そして、はからずもその矛盾が国会前の「逮捕に加担=権力に迎合」という光景で露呈した。いったいこの国の平和運動に個の主体性がどれほどあったのか? それだけにとどまらず、別働隊(だと私は思っているが)のメンバーが個人情報晒しというネットリンチ(暴力)をしでかした。

⑬辺見氏が推測するように、もしインタビューを断った理由が共産党批判なのであれば、やはり共産党に幻滅せざるを得ない。共産党は批判を真摯に受け止める度量がこの危機的状況を目の前にしてもないのかと。なぜ対話ができないのかと。それが身を滅ぼすことにならないのかと。

⑭戦争に片足を踏み入れているときに、反戦平和を唱える共産党の批判をしたくはない。しかし、言っていることとやっていることに矛盾があってはならない。その矛盾を解消し、個の主体性を尊重しないところに未来はないと思う。

 共産党の志位委員長は、9月22日にツイッターでこんな発言をしている。



 志位氏は「共産党アレルギー」が国民連合政府共闘の支障になっていると考えているようだが、そうだろうか? たしかに、共産党と聞いただけで嫌悪する人たちはそれなりにいるだろう。しかし、私は、共産党という組織の内部における「支配-従属関係」を嫌っている人がかなりいるのではないかと思っている。それゆえに共産党から離れて行った人も多いのではないか。さらに、党に対する批判を許さない姿勢も賛同できない。なぜ、もっと批判に対して寛容になれないのだろう。自分たちこそ「絶対に正しい」と思っているのであれば、民主主義を標榜する組織とは言いがたい。

 辺見氏が国会前での権力迎合と共産党のインタビュードタキャンに拘る理由はここにあるのだろう。共産党が安倍政権を批判し、民主主義を主張するのなら、共産党のこの姿勢を変えることこそ必要なのではないか? 党の体質を変えないで「アレルギー」のせいにしてしまう限り、国民からの支持は得られない。私にはそう思えてならない。
  


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2015年11月21日

辺見庸氏の渾身の著作「1★9★3★7」

 「金曜日」から出版された辺見庸著「1★9★3★7」を読み終えた。本書は、週刊金曜日に連載された「1★9★3★7『時間』はなぜ消されたのか」および「今の記憶の『墓をあばく』ことについて」を加筆修正して書籍化したものだ。

 私は辺見氏の本は全部ではないもののある程度は読んでいる。しかし、本書はこれまで読んだ本の中でももっとも強い衝撃を受けたと同時に、読み進むこと自体に多少なりとも苦痛を伴った。

 本書は、中国人の視線で日中戦争での日本軍による残虐な行為を描いた堀田善衛(ほったよしえ)の「時間」という小説をもとに、戦争における人間の獣性を問い、天皇の戦争責任を問い、今の日本の危機的状況を招いた原因を暴き、日本人の心に巣食う全体主義を批判し、これらのことを痛烈に読者に質す書である。タイトルの「1★9★3★7」は、日中戦争で日本軍が中国人に対して目を伏せたくなるような残虐行為、いわゆる南京大虐殺があった年を指している。

 私とて、南京大虐殺を知らないわけではない。日本兵による国人捕虜や民間人の虐殺、強姦などの残虐行為については辺見氏の他の著作でも触れられているし、いわゆる「百人斬り」については本田勝一氏も指摘している。しかし、「時間」を基にした辺見氏の大虐殺の情景描写によって、私のこれまでの認識がいかに甘かったのかを思い知らされることになった。本書を読んでいる間中、その残虐きわまりない衝撃的な情景が脳裏に焼きつき、まさに悪夢のように頭にまとわりついた。

 そして、辺見氏自身が何度も本の中で自分自身に問い苦悩するのである。もし自分が日本兵の立場であればどう行動していたのか、上官の命令を拒否することができたのだろうかと。また辺見氏は日中戦争に従軍し、おそらく間違いなく拷問や虐殺などの残虐行為に加わったであろう自身の父親のことを引き合いにだし、自問自答する。自分自身が父親の立場であったらどうしたであろうか、戦争だったから仕方が無いで済ませられるのか・・・否、そうではないと。

 私が「読み進むことに多少なりとも苦痛を伴った」と書いたのは、辺見氏の自問自答は否応なく読者にも突き付けられているからである。本書は、読み進むその場その場で読者に対し「自分が日本兵の立場なら、どんな行動をとったのか」、「この残虐行為を自分はできるのか」と問い質し、答えを求めるのだ。この究極の問いに、何のためらいもなく「自分が殺されても他者を殺さないことを選ぶ」と明言できる人ははたしてどれほどいるであろうか。

 そして、やはり私は唖然とする。私(たち)は、日中戦争における日本人の残虐行為を知ろうとおもえば知ることができたのに知ろうとはせず、天皇の戦争責任も心のどこかに感じながらもなんとなく目をそむけてきたことに。さらに、この国のメディアも知識人の多くもそれを封印し続けてきたことに。否、封印どころか、南京大虐殺はなかったという言説が吹聴され、過去を書き消そうとする勢力が台頭しているのである。

 実際、ネットで「南京大虐殺」「百人斬り」と検索してみて唖然とした。これらが捏造であるとか論争中であると言った言説が渦巻いているのだ。何ということだろう。

 辺見氏は、戦後70年間、この国に民主主義などはなかったと喝破する。日本人は隣国で行った過去の残虐行為を封印し、天皇の戦争責任を問わなかったと。つまり、日本人は自分たちに都合の悪いことは徹底的に隠し、責任をとるということを避けてきたと。たしかに、その通りである。戦争責任もそうだし、福島の原発事故も誰も責任をとっていない。事故原因もうやむやのまま、事故の収束の見通しすらつかないのに、原発の再稼働を始めたのだ。この国では重大な被害をもたらした人為災害の原発事故ですら誰も責任をとらない。「責任をとらない」ことがあらゆるところで常態化し、人々もその状態に麻痺しているかのようだ。

 本書では、最後に日本人のもつ全体主義を2015年にこの国で起きていることへと繋げている。辺見氏は、反戦平和を訴える民衆を否定こそしないが、そこに加害者意識が抜け落ちていることを鋭く突き、被害者意識だけの反戦運動に物申す。日本人は、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下の被害者ではあるが、その前の南京大虐殺では加害者である。その戦争加害者意識を置き去りにして被害ばかりを強調することに警告を発している。

 そして、辺見氏は今の日本の情景を以下のように表現する。(348ページ)

1★9★3★7のあらゆる問いは手つかずのままのこされ、数知れない遺体は年々、だたさらされて、しゅびよく風葬されている。敵はあきらかにきれめなく勝ちつづけている。どぶどぶの汚泥そのものの敵権力が、敵―味方の境界を消して、いつまでもさいげんもなく勝ちつづけている。敵はわたし(たち)のなかにこそいるからだ。

 戦争へと突き進む自民党政権がずっと勝ち続け、その勢いが国民にもじわじわと浸透してきていると。その通りだ。特定秘密保護法が通り、戦争法案も強引に通してしまった。そして安倍自民党政権は憲法改正を目論んで邁進している。現政権がずっと勝ち続けているのは何故なのか?

「敵はわたし(たち)のなかにこそいる」という言葉が頭からこびりついて離れない。わたし(たち)のなかにある敵とは何か? 日本人は、なぜ安倍政権の暴走を止められないのか。ここでもう一度、辺見氏の言葉を引こう。(373ページ)

 ニッポンジンは、はたして敗戦で「始めて自由なる主体となった」か、ニッポン軍国主義にはほんとうに終止符がうたれたのか、超国家主義の全体系の基盤たる「國體」は、かんぜんにあとかたもなく消滅したのか。だとしたら、安倍晋三なるナラズモノは、いったいなにから生まれ、なににささえられ、戦争法案はなぜいともかんたんに可決されたのか。「この驚くべき事態」は、じつは、なんとなくそうなってしまったのではない。ひとびとは歴史(「つぎつぎになりゆくいきほひ」)にずるずると押され、引きずりまわされ、悪政にむりやり組みこまれてしまったかにみえて、じっさいには、その局面局面で、権力や権威に目がくらみ、多数者はつよいものにおりあいをつけ、おべんちゃらをいい、弱いものをおしのけ、あるいは高踏を気どったり、周りを忖度したりして、今、ここで、ぜひにもなすべき行動と発言を控え、知らずにはすませられないはずのものを知らずにすませ、結局、ナラズモノ政治がはびこるこんにちがきてしまったのだが、それはこんにちのようになってしまったのではなく、わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべきではないのか。

 はたしてどれほどの日本人が権力や権威に目をくらませず、強いものに折り合いをつけず、おべんちゃらを言わず、弱いものを押しのけず、高踏を気どらず、周りを忖度しないように努めているのだろうか。はたして、どれだけの人が圧力を恐れずに言うべきことを言い、やるべきことをやっているのか・・・。

 もちろんこれらを実行している人がいないわけではない。しかし、発言しようと思えばできるにも関わらず、理屈をこねまわしては発言を避けている人が大多数ではなかろうか? あるいは「叩かれる」ことを恐れて自ら発言を抑えている人も多いように見受けられる。

 私自身は民主主義がなかったというより、自己保身のために長いものに巻かれ、責任をうやむやにすることで、国民が自ら民主主義を放棄してしまったと思えてならない。その無責任体質と全体主義の結果が、安倍政権の暴走を許してきたのだ。だからここが変わらないかぎり、この国は戦争へと足を踏み入れるだろうし、そしてそうなってしまったら私たちはほとんど無抵抗にそれを受け入れざるを得ない状態になるだろう。もう戦争は目の前に迫っている。

 権力批判、強いものへの批判は怖れる反面、弱い者への暴言や個人情報晒しによる「吊るしあげ」、「ネット死刑」が横行し、加害者と被害者が応報を繰り返す光景も日常茶飯事だ。加害者が、翌日には被害者になって吊るしあげられていることすらある。それを物見遊山に傍観しては嘲笑する人々・・・。おぞましい光景に寒気がする。そこには言葉による残虐性や暴力があるし、その残虐性こそ、過去の戦争での日本兵の残虐行為に通じるのではないか。しかも、そうした事態は平和を訴え戦争反対を唱える人たちの間でも起きているのだ。これこそが、日本人の中に潜む全体主義であり残虐性ではなのではないか。上っ面の反戦平和ではないのか・・・。私は最近、ずっとそんなことを考えている。

 戦争の危機が迫るこの年に出版した本書は、辺見氏の気迫がみなぎった渾身の書である。

 ただし、なにやらあまりに絶望的な書だ。とは言え、辺見氏のそうした見方に大きく反論できないのも事実だ。かといってこの危機的状況に怒りの声をあげ、反戦平和運動を繰り広げる人たちを批判的に眺め絶望にひたることも私はよしとしない。

 安倍政権は戦争へと着々と準備を進めている。戦争へと片足を突っ込んだ今、民衆が騒いだところですでに「時遅し」であるかもしれないし、人々がそう簡単に己の中の全体主義から抜け出せるとも思えない。しかし、ここで黙っているわけにはいかない。諦めるわけにもいかない。絶対にいかないと思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 16:47Comments(0)政治・社会

2015年11月04日

陰謀論考-特にSEALDs陰謀論をめぐって

 私は基本的に陰謀論には慎重だしむしろ警戒することにしている。もちろん、世の中には策略や謀略といったものが溢れていることは十分承知している。たとえば、安全神話と地元自治体への交付金で誘致し推進してきた原発などその最たるものだろう。実際に最悪の事故が起こっても、被ばくのことをひた隠しにし、健康被害を過小評価して汚染地に住民を戻そうとする政府と電力会社は今も国民を騙している。除染だって福一の事故処理だって利権が絡んでいる。

 検診・検査づけあるいは薬づけにして儲けようとする医療業界、大義もないのに推進する公共事業なども同じ。これらはほぼ全てが利権構造と結びついている。マスコミが正面からこうした策略や利権構造を報じないとしても、自ら情報を収集し、感性を磨いていれば、そうしたはかりごとは見抜くことができる。私は若い頃から自然保護に関わってきたが、国の大型公共事業には必ずといっていいほど政官財の癒着があり「事業を行うこと自体が目的」となっていることを身にしみて感じる。政治における策略は利権とほぼ一体となっている。

 しかし、だからといって疑わしいと思うことは何でも「仕組まれている」という陰謀思考はしない。なぜなら利権による策略といわゆる陰謀論は同一視できないし、陰謀論の多くはその思考過程が科学的でも論理的でもないからだ。陰謀論の原点は不安からくる疑心暗鬼と思い込みであり、論理ではなく感情に基づいている。誤った陰謀論は嘘を流布することでしかないし、嘘をもとに特定の個人や団体を批判したなら明らかに権利侵害だ。したがって、陰謀論には慎重にならざるを得ない。

 以前、「陰謀論の思考と紙一重のニセ科学批判」という記事で陰謀論について言及した。この記事では辻隆太朗氏の「世界の陰謀論を読み解く」という本について紹介したが、ここで引用した辻氏の発言をもう一度紹介しておきたい。つまり、陰謀論者がなぜ陰謀論思考をするのかと言うことについての辻氏の意見だ。

 この社会がどのように動いているのか、誰がどのような目的で動かしているのか。そもそも誰かが動かしているのか、勝手に動いているのかもわからない。そのなかに存在する自分の生活や選択は、本当に自分の意志によるものなのか。本当は他の誰かの意志に踊らされているだけなのではないか、知らないあいだに社会的に構築されコントロールされているのではないか。
 そのような不安に対し、陰謀論は世界の秩序構造を明確に説明し、世界やわれわれを操作する主体を一点に集約し可視化するとともに、陰謀論者たち自身の自律性の感覚や自己の独自な存在意義を回復し保証する機能をもつ、と考えることができる。陰謀論は世界がどうなっているのか、何が正しく何がまちがっているのか、誰がどのように世界を動かしているのかを明快に説明してくれる。簡単に言えば、陰謀論はわかりにくい現実をわかりやすい虚構に置き換え、世界を理解した気になれるのだ。(253ページ)

 つまり個人に生じた不安が疑心暗鬼を生み、それが発展して誰かに操られているのではないかという思考になる。そして、自分たちを操作する主体を明確にすることで、自分の自律性の感覚や自己の存在意義が保障される。「仕組まれている」と考えることで、わかりにくい現実をわかりやすい虚構に置き換え、世界を理解した気になっているのが陰謀論者といってもいいだろう。

 陰謀論者の口からときどき発せられる「騙されている者は愚か」「気づかない者はバカ」といった類の発言は、陰謀論者の内にある「自己の自律性や存在意義」を自ら吐露したものと言えるだろう。

 福島の原発事故以来、反原発派の一部の人において陰謀論思考が広まったように思えてならない。たとえば原発の嘘に目が覚めた一部の人が、原発や被ばくに関して不安を抱え疑心暗鬼になった結果、人為活動による地球温暖化論を詐欺だと主張するようになった。また政府による被ばく隠し、被ばくの過小評価を目の当たりにして、「健康被害や避難のことを言わない」人たちを疑い、そのような人や組織を「ニセモノ」「エートス」「御用組織」と認定することで、政府の方針を後押しする陰の組織が存在すると主張する人もいる。

 地球温暖化に関しては、原発推進派が温暖化を口実に原発を促進してきたのは事実だし、原発の温排水が海を温めてきたのも事実だ。温暖化の原因は人為由来の二酸化炭素の増加だけではないというのも確かにそうだろう。しかし、地球温暖化は基本的に科学として考えねばならないし、さまざまな研究結果からもそう簡単に否定できるものではない。ところが陰謀論者は原発推進派による嘘だと信じ込んでいるために、「否定的な言説」だけを探し集めて詐欺だと断言する。あまりに科学をないがしろにした短絡的思考だと思う。

 このまま温暖化が進めば地球の気候や生物に極めて大きな影響を与えるであろうことを考えるなら、ことは極めて重大でありとても楽観視できることではない。嘘の流布は責任問題であり、人の命に関わってくる。だから、私は温暖化詐欺論の流布には与しない。

 SEALDs陰謀論ももちろん同じだ。客観的かつ冷静に彼らを見ていれば、学生たちが自主的につくった組織であり、陰謀などどこにもないのは直感でわかる。否、直感だけではない。彼らのスピーチやホームページ、出版物などに目を通しても、陰謀などどこにも感じられないし、メンバー個人の主張も筋が通っている。人工芝運動、共産党の下部組織、改憲誘導などといった陰謀論に明確な裏付けはない。むしろ共産党が政府側などという主張はあまりに現実離れしている。妄想同然の根拠薄弱な状況証拠を並べて騒いでいるとしか思えない。

 メンバーの出身高校の偏差値だとか、出版した本のゴーストライター説などまで出回る始末だが、出身高校の偏差値などはメンバーの主張や人格になんら関係がないし、このような発言は差別や侮辱でしかない。ゴーストライター説に至っては状況証拠すらなく単なる妄想の類だ。SEALDsの本は対談や個人の意見から成り立っているのであり、ゴーストライターの紡ぐ文章とは対極にある。

 陰謀論者のツイートを見ていると、明らかに陰謀だという盲信が先にあり、そのためにメンバーの発言の一部を切り取ることで理由を後付けしているとしか思えない。勝手に疑心暗鬼になって疑問を呈するだけならそれも自由の範疇だろう。しかし気になるのは、SEALDsが御用組織であると断定し、メンバー個人に対する暴言や揶揄、嘲笑にまで及んでいる人がいるということだ。事実ではないことを断定的に主張して拡散させ、実名の個人を中傷したり侮辱したなら、明らかに権利侵害だし、場合によっては犯罪だ。

 もし、彼らが政府のまわし者であり恣意的に改憲に誘導しているのであれば(私にはそう考える理由などまったく思い当たらないが)、黙っていてもいずれそのことが誰の目にも分かるようになるはずだ。従って、とりあえず静観し、明確になった時点で批判すればいいことなのに、陰謀論者はそういう冷静さを持たない。陰謀が正しいと信じ切っているし、それを主張することが正義だと思っているからだろう。

 嘘を振りまかれた上に、名指しで侮辱されて冷静な気持ちでいられる人などいない。奥田愛基さんや牛田悦正さんが陰謀論者をブロックしたことに対して「対話をしようとしない」「異なる意見を聞こうとしない」と批判している人もいるようだが、とんだ勘違いだ。

 彼らがブロックするのは、対話できない陰謀論者など相手にしても無意味だと判断しているからだろう。なぜなら陰謀論者は陰謀を信じているから、どんなに説明を尽くしても理解しようとはぜず、相手にしてもさらに難癖をつけてくるからだ。そういう意味ではネトウヨと何ら変わらない。そういえば日向製錬所とサンアイが黒木睦子さんを訴えた裁判でも、原告らを擁護し黒木さんとその応援者を罵倒する人たちがいた。彼らの思考も陰謀論者と同じで「はじめに批判ありき」だ。だから、どんなに論理的に反論したところで、はぐらかしや人格否定をする。そして、ブロックすれば「対話しない」「逃げた」と騒ぐ。SEALDs陰謀論者も、それと大差ない。

 SEALDs陰謀論者は圧倒的に「脱被ばく派」に多いようなのだが、なぜこんな思考になってしまうのか? それは恐らく、「反原連(首都圏反原発連合)」や「しばき隊」とSEALDsメンバーとの関係からきていると思われる。SEALDsのメンバーが活動の参考にするために反原連の官邸前デモに参加していたのは本人たちも本で説明しているし事実だ。

 陰謀論者たちは反原連のメンバーが避難について主張しないので「反原連=エートス=政府側」と考えているようだ。また「しばき隊」の言動への反感もあるようだ。それでSEALDsを支持している反原連とSEALDsは「同じ穴の狢と」判断しているのだろう。私も「しばき隊」メンバーなどの言動を支持しているわけではなく疑問もある。しかし、反原連と交流があるという事実がSEALDsを御用組織と決めつける根拠にならないのは明白だ。

 ところで、「避難を主張しない=エートス=政府側」だと言えるのだろうか? 私自身、福島の原発事故のあと、原発問題や被ばく問題についてブログで頻繁に記事にしてきたし、汚染地からは避難するのが最善だと思っている。しかし、だからといって声高に避難を叫び続ければ問題解決になるわけではない。

 汚染地に住む人たちで被ばくについて意識が高く避難が可能な人の大半はすでに自主避難してしまっただろう。今も汚染地に住んでいる人たちは、意識が高くてもさまざまな理由で簡単に避難したくてもできない人と、それほど深刻に考えていない人のどちらかだと考えられる。前者の人たちは恐らく汚染食品を避けるなどの努力をしているだろうし、後者の人たちも何も知らないわけではなく、安心情報を頼りにしたり正常性バイアスによって自分を維持している人も多いに違いない。

 こういう状況のなかで第三者が汚染地に住む人たちの立場を考えてできることと言えば、被ばくや健康被害に関する知識や客観的事実を広めて避難の判断に供することと、政府に「避難の権利」を求めていくことしかないのではないか。避難、避難と騒いても汚染地に住む人たちの心には響かないし、お節介でしかない。脱被ばく派の中には「避難しないのは愚か」「東京は人の住むところではない」などと平気で口にする人もいるが、こういう発言は避難できない(しない)人たちを見下し、反発を買うことにしかならない。結局、政府が「避難の権利」を認めない以上、現実を踏まえて避難するかどうかは個人個人の意識と事情と判断力にかかっている。他人が押しつけることではないのだ。

 また、どの地域なら避難すべきかという判断にしても、個人個人で違う。福島から東京に避難した人もいるし、東京から西日本などに避難した人もいる。仮に東京も避難すべき汚染地だと認定したなら、首都の移転問題にも発展するし、そもそも狭い日本で首都圏の人たちをどこに移住させるのか、仕事や住居はどうするのかという極めて難解な問題に直面する。汚染の程度も場所によって異なり均一ではない。チェルノブイリの原発事故でも、汚染地に住み続けざるを得ない人たちは、子どもを保養に出したりペクチン製剤(ビタペクト)で体内のセシウムを排出させるなど、できることをしてきた。避難が最善とはいえ、避難できない彼らを批判することは誰にもできない。

 汚染を知りつつ東京に住まざるを得ない人たちが、安易に避難を口にできないのは当然だろう。また、汚染地に住む人たちの判断を尊重するなら、第三者が避難のことをあえて主張しないというのは決しておかしなことではない。こう考えると、「避難を主張しない=エートス=政府側」などということには決してならない。現実を踏まえるなら、物事はそれほど単純ではない。

 小出裕章さんが年齢に応じて汚染した食品を食べるべき、という主張をしていることを理由に彼はエートスだという人もいる。私は小出さんのこの考えには賛同しないが、かといって小出さんの反原発がニセモノだとか、エートスだとは決して思わない。小出さんの言動を見れば、彼が真に原発に危機感を抱き警鐘を鳴らしていたことは明らかだし、被ばくによる健康被害は極めて深刻だからこそ原子力は危険だと言ってきたのだ。

 最後に、辻隆太朗氏の言葉をもう一度紹介しておこう。

私たちには世の中すべての情報を検証する能力も余裕もないが、自分の判断が正しいかどうかをつねに問うことはできる。可能であれば、自分の信じることや意見に対する反証を求めること、自分に対する反論を自分自身で考えることが一番だろう。陰謀論はたしかに物事に対する疑いを出発点としているが、その論理は健全な疑いとは正反対のところにある。陰謀論には自らに対する疑いがない。一言でいえば、信じたいものを信じるだけでは駄目なのだ。(285ページ)

 SEALDs陰謀論は「反原連」や「しばき隊」メンバーに対する個人的感情から始まっているとしか思えないし、その主張は第三者の私にとっても反論できることばかりで論理性にも欠ける。彼らは自分の信じたいことを信じているだけであり、その疑いは「健全な疑いとは正反対のところにある」と私は見ている。

   
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Posted by 松田まゆみ at 11:39Comments(0)政治・社会

2015年10月26日

SEALDsの想いが詰まった本「民主主義ってこれだ!」

 雲ひとつない青空をバックに、白い文字で綴られている奥田愛基さんのまえがきを何度も読んだ。彼の飾り気のない言葉が心に沁み入ってくる。なんだか目頭が熱くなってくる。私はあの福島の原発事故の後、今後のことを思うと頭が混乱し、気が抜けたような数日を過ごした。それは今も引きずっている。しかし、20代前半の若者の言葉に、落ち込みからなかなか抜け出せない自分が恥ずかしくなってくる。ちょっと引用しよう。

 社会はそんなに簡単に動かないし、変わらない。しかし、それらはすべて言うまでもないことで、言ったところでなんの意味もない。「社会に絶望した」だとか「日本は終わった」みたいな話しは当たり前すぎて、もうこれ以上聞きたくない。そういう人はいつだって変わらないふりをしているし、絶望したふりをしているから。この国は、俯瞰的に見るだけで実は何も言っていない評論家が多すぎて、やる人があまりに少なかったのだと思う。
 絶望の国で何ができるのかが問われている。全部が変わるなんてことは僕も信じない。けど、はたして変わらないものなんてあるのだろうか。

 誰かのせいにせず、やるべきことを、できる限り、淡々としてきた。これからもそうするだろう。何もまだ終わってはいない。これはお別れの挨拶でもないし、始まりの挨拶でもない。なぜなら、ある局面が終わり、次の局面がもう始まっているからだ。


 原発事故、安倍政権、特定秘密保護法、解釈改憲、戦争法、マイナンバー・・・この国はあれほどの大事故を起こしたのに何の反省もなく原発を再稼働させ、避難や被ばくで苦しんでいる人たちが大勢いるというのにオリンピックを招致するという。ほんの数年の間にものすごい勢いで右傾化し、全体主義へと突き進んでいる。格差はさらに拡大し、貧困化は著しい。それにも関わらず投票率はあまりに低い。希望がどこにも見出せない。というより絶望という言葉しか思い浮かばない。そんなときに若者から尻を叩かれた。SEALDsの「民主主義ってこれだ!」(大月書店)は、まさにそんな本だった。

 本書は、メンバーのスピーチ、SEALDsのステートメント、メンバーの意見、主要メンバー座談会、これまでの活動、高橋源一郎さんと奥田愛基さんの対談に識者のメッセージも加わっている。デザインも編集も構成もすべでメンバーの手作りなのも凄い。写真を駆使し、文章だけではなく視覚にも訴える。実に若者らしいデザインと構成から彼らの玄人はだしの質の高さが伺える(もちろん評価はいろいろだろうけれど・・・)。

 先に出版された「高橋源一郎×SEALDs 民主主義ってなんだ?」とは一味違うし、内容もほとんど重なっていない。SEALDsらしさを満載した本だ。ただ、全体的に文字が小さいのが年配者にはちょっと辛い。

 スピーチはどれも個性があふれて、何度も胸が熱くなった。若者達が、ほんとうに勇気をふりしぼって自分の言葉を紡ぎ、おかいしと思うことをまっすぐに訴えている。そして「不断の努力」を宣言する。こんな光景に出会えるとはこれまで思ったこともなかった。考えてみれば、それは至極あたりまえのことなのだけれど、少なくともこの国では少し前まで当たり前ではなかった。そんなことをしたら、陰口を言われ、ネットで叩かれ、いじめられた。でも、彼らはその過ちに気付いて勇気を振り絞って動き始めたのだ。そこにはネットの罵詈雑言をも撥ねつける強い意志がある。

 私は彼らの座談会を読んでいて、数十年前の自分の学生時代を思い返していた。彼らのエネルギー、活力、想像力、そして若者らしい快活さ・・・そういったものはたしかに私が若いころにも存在していた。学際を前にしたクラブ活動で、大人の人たちとともに行動した自然保護運動で・・・。しんどいけれどそこには熱気があった。SEALDsの活動もそれに重なる。

 彼らは部活や趣味に熱中するのと同じ感覚で、政治運動を展開したのだ。自分たちに何ができるのか考え、アイディアを出し、思考錯誤し、自分のやれることを精一杯にこなす。時には徹夜して頑張って、そして時々息抜きもする。そこには大変さだけではなく充実感もある。ああ、そうだったのか!と、すごく納得した。私の学生時代はそこまで頑張らなかったけれど、目標に向かってみなぎる若者のエネルギーはいつの時代だって変わらない。

 彼らのやり方は機動隊とぶつかり、火炎瓶を投げ、バリケードを築いたかつての学生運動とは全く別物だ。あくまでも平和的に訴える。しかもリズミカルに。映像もメディアも駆使する。そして、何よりも個人の発言、行動に重きを置く。個人の主体性に基づいている。

 奥田さんの「絶望の国で何ができるのかが問われている」、「誰のせいにもせず、やるべきことを、できる限り、淡々としてきた」という言葉をもう一度噛みしめる。多くの大人が絶望の底で留まって文句を垂れている中、彼らはもっと先を見据えて絶望から希望へと行動している。

 こんな酷い社会にしてしまったのは私たち大人の責任だが、彼らはそれを責めることなく自分たちの未来のために、子孫のために行動をはじめた。たった数人で手探りではじめた運動が、今では日本中に知れ渡り受け継がれ、民主主義の担い手が全国に広まった。そしてこれからも増えていくだろう。

 若者の社会への無関心を嘆いていただけの自分がなんと恥ずかしいことかと思う。不平不満ばかり言っていても何も変えることはできない。一人ひとりが声をあげ、自分のできることをやっていくことこそ意味がある。SEALDsの原点はそこにある。彼らの行動力の源は、未来に向けた希望と信念と勇気だ。そんな若者たちがいることが、ただただ嬉しい。
  


Posted by 松田まゆみ at 22:36Comments(0)政治・社会