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鬼蜘蛛の網の片隅から › 2017年02月09日

2017年02月09日

誤解される「嫌われる勇気」

 先日書いた「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」でもちょっと触れたが、テレビドラマ「嫌われる勇気」の主人公、庵堂蘭子の振る舞いはアドレリアン(アドラー心理学を実践している人)とは言い難いという意見があるらしい。私はテレビを見ていないし、ドラマ制作者の意図も分からないので、この点について言及するつもりはない。しかし書籍「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著)のタイトルが、時に誤解されているのではないかと感じることがある。

 書籍の「嫌われる勇気」は、自己主張して他人に嫌われることを奨励しているわけではない。他人に嫌われることを怖れ、他人に合わせてしまうのは不自由な生き方であるから、自分の人生を生きるためには「嫌われることもいとわない勇気」も必要だと言っているのだ。これは本を読めば容易く理解できることだ。他人に合わせたり、他人の期待に応えるのではなく、自分の人生を生きるべきだというのが書籍「嫌われる勇気」のメインテーマでもあるのだろう。

 他人の人生ではなく自分の人生を生きるというのは、いわゆる「課題の分離」のことを指している。ここに軸足を置いているから、本の内容も「課題の分離」の比重が多くなっているのだろうと私は理解している。

 アドラーは「人生上のほとんどの悩みは対人関係である」と言っているそうだ。私自身の経験を振り返ってみても、人間関係のトラブルの大半は他者の課題に土足で踏み込んでしまうことからくると実感している。嫁と姑のトラブルも、家族間のいさかいも、基本的に他人の課題に土足で踏み込むから起きる。課題の分離ができていれば人間関係におけるトラブルやストレスは激減するだろう。

 「横の関係」つまり「人はみな対等」という意識を持ち、常に他人を尊重していたなら、他人に命令口調で接したり、意見が違うからといって見下したり誹謗中傷したりもしない。

 課題の分離とは、他人の課題に土足で踏み込まない(他者を尊重する)ということと、自分の課題に他人を踏みこませずにトラブルを回避するという二つの側面がある(協力をしない、あるいは協力を拒否するということではない)。そして、「課題の分離」ができるということは、「人はみな対等」という「横の関係」で人間関係を捉えていることを意味する。「課題の分離」と「横の関係」は切り離せない。

 これに対し、人間関係を「縦の関係」で捉えている人は、他者に対して支配的であったり、あるいは依存的であったり、また恨みや妬みが強く嫉妬深かったりする。

 他人から何を言われようと(嫌われても)も自分の課題には絶対に踏み込ませないという人は、一見「嫌われる勇気」があるように見える。しかし、自分の課題には絶対に踏みこませないが、他人の課題には土足で踏み込む(命令したり、見下したり、憎んだりする)ということであればその人は「縦の関係」で生きている。また、事実誤認や誤解について丁寧に説明しても一切聞く耳を持たず自分が絶対に正しいと信じて我が道を邁進する人は、自分の誤りを認めない、あるいは他人を信用しないという点で独善的であり、やはり「縦の関係」で生きているのだと思う。

 私は、書籍タイトルの「嫌われる勇気」の意味するところは、「横の関係」の生き方をするためには、時として「嫌われる(こともいとわない)勇気が必要」ということだと理解している。だから、「縦の関係」の生き方の人が独善的な言動をして嫌われたとしても、「嫌われる勇気」があるということにはならない。

 たとえばトランプ大統領はどうだろう。トランプ氏の差別発言や虚偽発言に対しては多くの人たちが批判している。大統領の就任式での反対デモを見ても分かるが、彼は明らかに多くの米国民に嫌われている。しかし、当人は開き直って平然としている。彼は自分の主張を貫いて嫌われているわけで、「嫌われる勇気」があるように見える。

 しかし、自分と異なる意見を言う人をこき下ろす態度は、完全に他者を見下している。しかも自分を批判した人に対してはすぐに反撃する。理論的に反論するなら分かるが、嘘を言ってでも攻撃する。非常に感情的で、すぐに怒りをぶちまける。実に支配的だ。彼は異なる主張に対して話し合いで解決する姿勢がほとんど見られず、どうみても「縦の関係」で生きている人だ。彼の勇ましさは、書籍「嫌われる勇気」で言うところの「嫌われる勇気」とはほど遠く、傲慢にしか見えない。

 本で言わんとしている「嫌われる勇気」の意味を理解せず、タイトルの「嫌われる勇気」という言葉だけを切り取って、単に傲慢なだけの人を「嫌われる勇気がある」と評してしまえば、誤解を生じかねない。

 書籍「嫌われる勇気」には承認欲求のことも出てくる。これも誤解している人がいるようだ。書籍「嫌われる勇気」では「承認欲求を否定する」と表現しているのだが、これは「承認欲求」という事実や「承認」を否定しているわけではない。「他者に認めてもらうことを目的に行動してはならない」という意味だ。これは、嫌われないために行動(努力)するというのとほぼ同義だろう。だから「承認欲求の否定」も「課題の分離」と密接に関わっている。

 アドラー自体は承認欲求という言葉は使っていないようだが、だからといって「承認欲求を否定する」という表現が、アドラー心理学ではないということにはならない。

 アドラー心理学の最終目的は共同体感覚にあるという。この共同体感覚を身につけるには「横の関係」を築かなければならない。横の関係を築くためには「課題の分離」をする必要がある。また共同体の中で人々が協力関係を築くことが共同体感覚につながるのだが、その前提としても「課題の分離」は不可欠だ。つまり、課題の分離があってこそ支配でも依存でもない協力関係が持てるし、共同体感覚を身につけることができる、と私は理解している。

 書籍「嫌われる勇気」は、共同体感覚を身につけるための基本である「課題の分離」に力点を置いた書籍だと私は思っている。そして、続編の「幸せになる勇気」が補完して核心へと誘導する形になっている。この2冊の本は青年と哲人の対話による物語に仕立てられているゆえに、アドラー心理学を全面的にカバーしているとは言えないかもしれない。しかし、だからといって「嫌われる勇気」が「正統なアドラー心理学ではない」という考え方には賛同できないし、学会で論争するようなことでもないと思う。

 つい最近、向後千春さんの「人生の迷いが消える アドラー心理学のススメ」(技術評論社)を読んだ。この本は他の心理学の考え方も紹介しながらアドラー心理学を分かりやすく解説していて、「嫌われる勇気」には抵抗感があるという方にも読みやすいと思うし、日常生活でのトラブルの解決にも役立つ本だと思う。

 アドラー心理学を身につけ実践するというのは確かに難しい。なぜなら、日本では家庭も学校も職場も「縦の関係」ばかりであり、このような環境の中で「縦の関係」のライフスタイルを選びとってきた人が大半だと思うからだ(私自身は若いときから人はみな対等という意識を持っていたので、アドラー心理学への抵抗感はない。もちろんだからといってきちんと実践できているわけではないが)。「縦の関係」が染みついている人たちが、ライフスタイルを変えるのは容易なことではない。ただ、向後さんの本はそのような人たちに対しても抵抗が少なく理解しやすい書き方になっているように感じる。

 岸見さんも向後さんも、野田俊作さんからアドラー心理学を学んだ方だが、同じアドラー心理学の解説をしていても人によって伝え方や語り口は違う。哲学者である岸見さんのアドラー心理学は哲学的視点も含んだ岸見流だろうし、向後さんは向後流といってもいいのだろう。おそらくアドラー心理学を学び実践している人々はそれぞれ独自の理解でアドラー心理学を捉えていると思うし、誤解がない限りどれが正しいとか正統だということはさほど意味がない気がする。学問というのは次世代に引き継がれるなかで修正されつつ発展していくものだ。

 ただし、「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問」にも書いたように、アドラー心理学を自ら実践しようとはせず「他人を操作するために使う」ということであれば、それはアドラーが望んだこととは正反対のことだろうし、似非アドラー心理学と言われても仕方ないと思う。

【2月13日追記】
 野田俊作さんのこちらの記事によると、「課題の分離」「縦の関係・横の関係」などといった表現はアドラー自自身は使っておらず、アドラーの後継者による概念とのことだ。そうした言葉がアドラーの思想を分かりやすく端的に言い変えたもので、すでに一般化されている概念である以上、アドラー自身による表現であるかどうかに拘ることに意味はないと思う。


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Posted by 松田まゆみ at 17:05Comments(0)雑記帳