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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱 › 2018年02月01日

2018年02月01日

定常経済を説く、内田樹「ローカリズム宣言」

 前回はナオミ・クラインの「これがすべてを変える」について書いたが、その後に内田樹著「ローカリズム宣言」を読んだ。ナオミ・クラインは地球温暖化の危機は市場原理主義、グローバル化がもたらしたのであり、温暖化の危機を回避するためには経済成長から脱しなければならないと主張する。一方で内田氏は、グローバル資本主義は終焉を迎えようとしており、今後は経済成長から脱して定常経済モデルを手作りしていく必要があるという。

 二人の発想の基点は異なるものの、ともに目指す方向は「脱成長」すなわち「定常経済」であり、キーワードは「ローカル」「共同体」だ。温暖化問題をつきつめればその解決は定常経済に行き着く。また、経済成長がゼロに近づき格差の拡大が止まらない上に少子高齢化から逃れられない日本の現状からも、もはや経済成長を続けるのは無理があると考えるのは当然だろう。

 内田樹氏の説明は極めて明快で、経済学の知識がなくても非常に分かりやすい。人の生理的欲求には限界があるので、衣食住の基本的な制度が整備されると経済活動は鈍化する。人間は限界を超えた消費活動をすることができない。この経済成長の基本原理を忘れたことで、経済をめぐる無数の倒錯が起きていると内田氏は指摘する。

 この当たり前のことこそ、私自身が経験してきた。私が子どもの頃はまだ物がそれほど溢れてはおらず、衣類にしても文房具にしても与えられたものを大事に使っていた。ところが今はどうだろう。街の商店にも、家の中にも、生きていく上でどうしても必要だとは思えない雑多なものが溢れている。私も歳と共に少しずつ物の整理をしているが、ほとんど使わずしまいこまれている物がいかに多いことかと驚いてしまう。最近では、消耗品や生活必需品以外の物はほとんど買わない(ただし本だけは買ってしまうが)。なぜなら興味本位の安易な買い物は、結果的にゴミを増やすだけだと身をもって経験してきたからだ。

 私が学生の頃は、一億総中流などと言われた。どの家でも洗濯機や冷蔵庫、テレビなどの家電が一通り揃い、雇用も終身雇用で安定していた。ところがバブルが崩壊し、米国型の経済システムを真似るようになってから非正規雇用という不安定で低賃金の労働者が増え、格差が拡大し、福祉も医療も削られている。これこそ新自由主義型の資本主義のなれの果てであり、経済成長が永遠に続くなどということはあり得ないことを示している。

 内田氏は、政党が株式会社化し、国会はシャンシャン株主総会になったと言う。政党は執行部の指示に反抗しないイエスマンを候補者として選挙に送りだすようになり、国会が形骸化し機能しなくなってしまったと。資本主義の競争社会の中で、国会だけではなく行政も医療も学校も、日本の社会集団のすべてが株式会社のようになってしまったと指摘する。イエスマンを従えた安倍首相は、数の論理を盾にやりたい放題。ほとんど独裁状態であり、その暴走を誰も止めることができない。

 日本中が株式会社化し、資本主義の競争原理が個人の主体性を失わせているというのはたしかにその通りだろう。もっとも私個人としては、もともと同調圧力が強く働いている共同体に資本主義の競争原理が加わって、ますます個人の主体性や個性が失われてしまったという印象を抱いている。いずれにしても同調と競争を強いられる集団ほど息苦しいものはないし、多くの日本人はまさにその息苦しさに喘いでいるのではなかろうか。

 このまま経済成長を続けようとするとどうなるのか。内田氏は経済学者の水野和夫氏の主張を持ち出し、企業の収入は増えるが労働者はどんどん貧しくなっていくと指摘している。ますます貧富の差が拡大するということだ。水野氏は資本主義の先に定常経済(ゼロ成長)がくると予測しているそうだ。

 私は、資本主義というのは地球の自然環境を破壊して資源を消費しつづけるシステムであり、自然に逆らうシステムに他ならないと思っている。自然の摂理に反するシステムがいつまでも続くはずはない。人は自然なくしては生きられないが、地球の資源(自然環境)は限られているわけで、資源を使い放題にしたうえに環境を破壊し汚染してしまったなら人類は生存し続けることはできない。資源の無駄遣いを止め、生態系のサイクルからはみ出さないような持続可能な生活を維持しなければ、人類に未来はない。つまりは定常的な社会だ。これから目指すべきはエネルギー(もちろん再生可能エネルギー)も含めた地域での自給自足の生活ではないかと思っている。

 内田氏も、自然環境を守ることは資産を守ることであり、経済成長のためにこの資産を汚したり捨て値で売ったら、今の日本の経済力では未来永劫買い戻すことはできないと言う。経済成長を唱える人たちは、このことになぜ気が回らないのだろうか? 私は不思議でならない。

 新聞などのマスコミであろうと個人であろうと「脱経済成長」とか「定常経済」を主張する人は極めて限られている。経済成長を否定しようものなら、トンデモ扱いされるというのが現実ではなかろうか。まるで経済成長がない社会は夢も希望もない世界だと言わんばかりだ。

 しかし、定常経済というのはそれほど夢も希望もないつまらない社会なのだろうか? あるいは今の便利な暮らしを捨てなければならないのだろうか? 水野氏は、定常経済で株式会社は収益を人件費と減価償却に充て、株主への配当は定期預金の金利程度にすると、賃金は50%アップすると試算しているそうだ。ならば、決して「みんなで貧乏になる」ということにはならない。急激な発展もないけれど、時間に追い立てられることも過度の競争もない社会が悪いとは思えない。少なくとも私は今の生活は十分便利だと思うし、衣食住に困らなければ進歩が緩やかであったとしても何ら問題ないと思う。

 少子高齢化が進み労働者人口が減るとはいえ、海外へのばら撒きを抑制し、軍事費を縮小し、米軍への思いやり予算を削減し、無駄な公共事業を止めれば、社会福祉や医療、教育などの充実も図れるのではなかろうか。息が詰まるような競争ではなく、互いに協力し合う生活こそ、人として健全だろうと思う。アドラーの言う「共同体感覚」が重なってくる。

 内田氏は資本主義の終焉を直感した人たちが、都会から地方へと脱出し始めているという。経済成長ゼロの時代を乗り切るために、地域の共同体を再生し人々が互いに助けあいながら「小商い」をすることを提唱する。

 北海道の地方ではここ数十年の間に鉄道が消え、学校が統廃合され、医療機関が次々と姿を消し、商店街はシャッター街となり、人口の減少と高齢化が進んでいる。一方で数は少ないながら地方に移住してくる人たちもいる。とはいうものの、地方、とりわけ農村のコミュニティーは人づてに伝わってくる話しを聴く限り極めて閉鎖的で排他的だ。つまり、従順な者は受け入れても異質な者を排除するという慣習が色濃く残っている。

 資本主義の終焉の時代を生き抜くために最も必要なのは、主体性を持った多様な人々が共存できるコミュニティーの形成だ。都会であれ田舎であれ、人々が競争やお金儲けの意識から脱し、協力的な人間関係をつくりあげることができるかどうかが大きな鍵になるように思える。

 なお、本書のまえがきは以下から読むことができる。
「ローカリズム宣言」まえがき

 内田氏の以下の論考も紹介しておきたい。
日本はこれからどこへ行くのか
  


Posted by 松田まゆみ at 20:06Comments(0)政治・社会