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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱 › 2018年09月09日

2018年09月09日

再び「暗闇の思想」を

 今日の北海道新聞によると電気がほぼ復旧した昨日はスーパーマーケットやコインランドリーに大勢の人がつめかけたそうだ。流通はかなり回復してきているが、生鮮食料品などは売り切れたり入荷していないものも多いらしい。

 北海道の全域が停電するというブラックアウトから2日ほどで電気がほぼ復旧したのは幸いだったが、新聞記事を見ながらいろいろ考えさせられた。

 地震直後はコンビニでもスーパーでも食品の棚が空になったようだが、1日とか2日分の食品すら備蓄していない人が多いことに驚いた。私たちはほんの7年前にあの東日本大震災を経験している。その後も熊本をはじめとして大きな地震が何度も起きているし、集中豪雨や台風の被害も経験している。東日本大震災以来、3日分ほどの水と食料の備蓄が呼びかけられていたのに家に食べ物がない人がそれなりにいるのだから、防災意識に欠けている人がまだまだ多いのだろう。

 さらに驚いたのは、たった2日程度の停電でコインランドリーに人が押し掛けるという現象。災害で停電中という非常時なのに普段と同じようにこまめに着替えをし、洗濯物の山をつくっている人もいるようだ。電気が通じたとはいえ、供給はぎりぎりで節電を呼び掛けているというのに電気消費量の多い乾燥機を使うという神経は私には理解しがたい。

 現代人の多くは「電気は使いたいときにいくらでも使えるのが当たり前」「電気がない生活は考えられない」という感覚なのだろう。

 私が子どもの頃は電化製品が次々と普及していった時代だったが、それでも日本人の電力消費量はさほど多くはなかったと思う。ほんの数十年の間に私たちは電気を湯水のごとく使う生活が当たり前になり、湯水のように使えるほど電気が供給されるのが当たり前になった。しかし、ちょっと発想を転換すれが、まだまだ節約ができるのではないかと思えてならない。電子レンジも衣類乾燥機もない時代だって、そんなに不便ではなかったのだから。

 停電になると私は松下竜一氏の「暗闇の思想」を思い出す。東日本大震災の翌年に私はこんな記事を書いている。

今こそ意味をもつ松下竜一氏の「暗闇の思想」

 2日や3日の停電で右往左往する現代人は今一度、ここに引用した松下氏の「暗闇の思想」を読んでみたほうがいいように思う。1974年に書かれたものだ。ということで、再びここに転載しておきたい。

*****

 あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力をも含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。二年を経ずに、これは深刻な社会問題となるであろう。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱり答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。

 今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当に星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の想いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何かしら思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。

 電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならないという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造論政策遂行を意味している。年10パーセントの高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電気需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならないという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに-誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。

(中略)

 いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。冗談でなくいいたいのだが「停電の日」をもうけてもいい。勤労にもレジャーにも過熟しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自律的なものでなければならぬという予感がしている。(松下竜一著「暗闇の思想を」朝日新聞社刊、158-161ページ)


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 日本は災害列島だ。プレート境界に位置する日本は海溝型の大地震にいつ襲われてもおかしくない。熊本地震や大阪の地震、今回の胆振東部地震のような直下型地震や台風被害なども間違いなく起きる。これからも私たちは何度も停電を経験することになるだろう。そんなときに電力会社に怒りをぶつけたり、国などの支援に頼っているだけではあまりにもお粗末ではないか。災害列島に生きている以上、「電気がなくても数日は生きられる」ようにしておかねばならないと思うし、停電のときこそ不平不満を言うのではなく、電気に頼り過ぎの生活を見直す日にできたらいいと思う。

  


Posted by 松田まゆみ at 14:54Comments(4)雑記帳