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2018年09月24日

失われた東京湾の干潟

 前回の記事「下村兼史展と著書『北の鳥 南の鳥』」を書いたあとに、私は本棚から塚本洋三著「東京湾にガンがいた頃」(文一総合出版)を引っ張り出した。塚本洋三さんは今回の下村兼史写真展実行委員会の事務局長であり、野鳥や自然のモノクロ写真のライブラリーである(有)バード・フォト・アーカイブスを運営されている。今の時代にモノクロ写真を収集するという感性はなんとも塚本さんらしい。

 10年ほど前だったろうか、帯広の書店で自然関係の棚を見ていたら、「東京湾にガンがいた頃」というタイトルの本が目に飛び込んできた。塚本洋三さんの本ではないか。本のカバー写真は東京湾を飛ぶガンの群れのモノクロ写真。パラパラとページをめくれば在りし日の新浜の写真とともにそこで野鳥の観察に明け暮れた「新浜グループ」の様子が綴られている。私は迷わずに本を持ってレジに向かった。

 かつて東京湾にガンが群れていたなどといってもピンとこない人が多いと思う。今の東京湾といえば四角い埋立地が並び、湾岸道路が周囲を巡り、中央に横断道路すらある。かつての面影などほとんどどこにもない。しかし、60~70前には信じられないほどの豊かな自然が息づいており、遠浅の広大な干潟にはおびただしい野鳥が渡来した。といっても私はそんな東京湾を知らない。

 私が初めて新浜探鳥会に参加したときは1960年代の後半で埋め立て工事のさ中であり、広大な干潟に群れる野鳥の姿を見た記憶はない。新浜は1964年頃から埋め立てが始まっていたのだ。その時のことはこちらのエッセイで触れている。探鳥会のリーダーは高野伸二さん。その後、高野さんとは野鳥だけでなくクモの愛好者として交流させていただいた。

 塚本さんがはじめて新浜を訪れたのは1953年だという。私はまだ生まれていない。高野さんをリーダーとする新浜グループの中で最年少だったのが塚本さん。大学卒業後アメリカに渡った塚本さんが日本に戻られて日本野鳥の会に勤務されていたとき、かつての新浜の写真を見せていただいたことがあったのだが、私にとっては夢のようなそれらの写真がこの本には散りばめられている。

 かつての東京湾を知る人がどんどん減り、野鳥が群れ集った新浜の光景も忘れ去られようとしている中で、この本の出版はほんとうに嬉しかった。

 古き良き時代にすがっていたいわけではない。いくら過去に想いを馳せたところで、失われた自然は戻らない。しかし、過去の新浜、東京湾の記録を残し後世に伝えることは決して無意味ではない。東京湾の自然を破壊しつくした人類の愚かさをかみしめるためには、過去の記録を辿るしかないのだから。

 表紙カバーの内側には「東京湾の変遷」と題して「1950年頃」、「1970年前後」、「1980年ごろ~現在」の三枚の小さな地図が並んでいる。江戸川放水路から江戸川に挟まれた「新浜」の変遷を物語る地図だ。

 新浜グループが探鳥を楽しんでいた頃は、おそらく1950年頃の地図の状態だったのだろう。地図には地先に干潟が示されているが、この頃の海岸線はすでに自然のままの海岸線ではない。本でも説明されているが、海と内陸は堤防で区切られており、遠浅の東京湾はだいぶ前から人が干拓をして水田や塩田として利用していたことがわかる。新浜グループの探鳥の道はその堤防の上だったそうだ。堤防の海側には潮が引くと広大な干潟がどこまでも続き、陸側には水田が広がり葦原などの後背湿地もあった。春と秋の渡りの季節にはシギやチドリが干潟に降り立ち、冬になるとマガンやサカツラガンが群れをなして渡ってきていたのだ。

 私が新浜に頻繁に通うようになった学生時代には地下鉄東西線ができていて、かつて広がっていたであろう水田は埋め立てられ殺伐とした風景が広がっていた。野鳥を見る場所は、御猟場横の堤防で囲まれた干潟や荒涼とした埋立地、そして江戸川放水路周辺のわずかな干潟や水田、ハス田だった。かつて新浜グループのメンバーの通り道だった堤防は御猟場周辺に残るのみで、海岸の埋め立て地は工場や倉庫などが並んでいて立ち入りができず、海すら間近に見ることができなくなっていた。

 新浜では埋め立てから野鳥の生息地を守ろうと新浜を守る会などによって保護運動が展開されたが、御猟場に接する一部を保護区として残すことで終止符が打たれた。「1970年前後」の地図の少し後が私が通った新浜だ。浦安には大きな埋立地が造られていてオリエンタルランドと呼んでいた。後年そこにディズニーランドができるとは思いもしなかった。

 ネットで公開されている国土地理院の地形図から過去の空中写真を見ることができるが、その変貌には息をのむ。現在は、行徳一帯は住宅地と化しその中に新浜の野鳥保護区と谷津干潟が切り取られたように残されている。私の学位生時代には残っていた江戸川放水路沿いの水田やハス田はもうどこにもない。今となってはかつて歩いた場所がどこなのかも分からないだろう。

 今では江戸川放水路河口沖合の三番瀬と呼ばれる浅瀬が東京湾最大の干潟だというが、往時の干潟から見たら干潮時の干出域はわずかのようだ。私は行ったことはないが、「ふなばし三番瀬海浜公園」の前に広がる干潟は人工的に造られたものだという。三番瀬では干潟の再生が試みられているようだが一度失われた自然を復元することは容易ではないし、人と自然が共生していたかつての新浜の姿は決して戻ってはこない。

 日本は海に囲まれているが、干潟はどこにでもできるというものではない。川の河口や湾などに堆積した砂泥が、潮汐によって現れたり海に没したりする場所が干潟だが、遠浅で波の影響が少ないところにしか発達しない。日本で屈指の干潟といえば有明海だが、かつての東京湾もそれに並ぶ広大な干潟だったのだ。

 有明海の諫早湾にも学生時代に2度ほど行っている。新浜と同じく干潟と陸地は長大な堤防で区切られていて、低湿地が古くから干拓されてきたことを物語っていた。それでも、あの頃はまだ干拓地の先には汀線も霞んで見えないような干潟が広がっていたのだ。その諫早湾の干潟も今は例のギロチンと呼ばれる潮受け堤防によって消えてしまった。

 人間の果てしない欲は、自分たち以外の生物やそれをとりまく環境にまで想いを寄せることができなかった。経済成長の掛け声の中で、生物多様性に富むこの貴重な干潟をつぎつぎと潰した人間の愚を私たちは決して忘れてはならないと思う。


  


Posted by 松田まゆみ at 23:34Comments(0)自然保護

2018年09月18日

下村兼史写真展と著書「北の鳥 南の鳥」

 今月の21日から26日まで、山階鳥類研究所主催の下村兼史氏の写真展があることを思い出した。残念ながら遠い上に諸事情で行くことができない。もし興味をお持ちの方がいたらと思い、紹介しておきたい。

【タイトル】ー下村兼史生誕115周年ー 100年前にカワセミを撮った男・写真展
【会期】2018年9月21日(金)〜26日(水)11-19時(最終日16時まで)
【会場】有楽町朝日ギャラリー(東京 JR有楽町駅前マリオン11F)
【入場料】無料
【主催】公益財団法人山階鳥類研究所

 詳しくはこちらを参照していただきたい。

 下村兼史氏ですぐに思い出すのは「北の鳥 南の鳥 改訂版」(三省堂)という北千島、三宅島、奄美大島、小笠原での野鳥の観察記録を収めた本だ。若い頃に古書店で入手したが、今も大切にしている。奥付を見ると昭和17年9月30日に改訂版初版が発行されている。太平洋戦争のさなかの出版だ。

 この時代の本を持っている人は少ないと思うが、もちろん紙は茶色く変色し、字体は旧字体ですこぶる読みにくい。当時の本としては珍しいと思うのだが8ページの口絵写真があり、下村氏が撮影した野鳥の写真に目を見張った。今のように写真機も発達していなかったであろうこの時代に、野鳥の生態写真を撮っていたことに驚嘆する。

 私がとりわけ惹かれたのはもっともページ数が割かれている「北千島の鳥」だった。下村兼史氏の観察眼も知識も写真もすばらしいが、文章も上手い。細やかな情景描写は見知らぬ北の島の自然を活き活きと描きだしている。この本は野鳥観察記録であると同時に珠玉のエッセイでもある。

 私が野鳥に興味を持ち始めたのは小学校高学年の頃で、中学校、高校はもっぱら市街地の緑地や高尾山などで野鳥を見ていたのだが、大学に入ってからは干潟に渡ってくるシギやチドリなどの水鳥を見ることに夢中になっていった。シギやチドリの多くは日本より北のツンドラなどで繁殖し、冬は雪のない暖かい地域に移動する渡り鳥だ。日本の干潟で越冬する種もいるが、多くは日本を通りこしていく。つまり、日本の干潟や湿地は彼らの渡りの中継地にすぎない。

 しかし、シギやチドリが渡ってくる干潟や湿地は開発等で埋め立てられ、どんどん消失していた。私は日本各地の干潟を訪れては、彼らに迫りくる危機を憂い、彼らの故郷である北国の湿地に想いを馳せた。そのシギやチドリの繁殖地の光景がこの本にはありありと描かれており、「北千島の鳥」は何度も読んだ。

 下村兼史氏が野鳥の観察に赴いた当時は北千島は日本の領土であり、火山島のふもとにある沼沢地ではシギやアビ、シロエリオオハムなどが繁殖していたのだ。下村氏の観察記録を読めば、パラムシル島の南部の海岸近くには湿原が広がり、毎日のように深い霧に覆われて肌寒く、野鳥観察は容易ではないことが分かるのだが、一方でそんな厳しい自然の中で子育てをする野鳥たちのことを想像しては心をときめかせた。

 ところで、ウィキペディアによると下村兼史氏が北千島に行ったとき(1934年、1935年)は農林省の職員だった。そんな彼がどういう理由でカムチャッカ半島に近い北辺のパラムシル島にまで野鳥の観察に行ったのかずっと不思議に思っていたのだが、以下の山形県立博物館研究報告にある「下村兼史が北千島パラムシル島で採集したツノメドリFratercula corniculata卵標本の採集日の検証」という報文によってその謎が解けた(余談だが、この著者のうち3人は知っていて懐かしい。お一人が故人になられたのはとても残念だが)。

山形県立博物館研究報告第34号

 それによると、山階芳麿氏が鳥類の標本の収集のために下村氏をパラムシル島に派遣したそうだ。そして、そのときの標本が山階鳥類研究所と山形県立博物館に所蔵されていることも知った。今でこそ野鳥を銃で撃って標本にしたり、巣から卵を持ち出して標本にするなどということは考えられないが、当時は研究のためにそういうことも普通に行われていたのだ。それにしても、あの時代に野鳥研究のためにパラムシル島に渡り、生態写真を撮ったり標本を収集したという事実に、今さらながら驚かされる。

 下村兼史氏の作品でもう一つ思い出すのは、「或日の干潟」という映画だ。これは私が東京にいた頃に上映会があって観に行ったことがある。だいぶ昔のことなのでうろ覚えだが、下村氏の地元でもある有明海の干潟の生き物を追った名作だった。古い映画なので画像は雨降り状態だったが、広大な干潟や群れ飛ぶシギやガンの映像は圧巻だった。失われた日本の自然や風物詩を捉えた貴重な作品だ。

 下村兼史氏(1903-1967)が生まれてから115年、パラムシル島に赴いてから84年、そして亡くなってから51年の歳月が流れた。日本の干潟や湿地の光景は一変しシギやチドリなどの渡り鳥の数は激減したが、パラムシル島にはまだ84年前と変わらぬ風景が広がっているのだろう。

 没後51年なら、ちょうど著作権が切れたことになる。いつか、「北の鳥 南の鳥」を新字体でネットにアップできたらなどと思っている。
  


Posted by 松田まゆみ at 10:11Comments(0)野鳥

2018年09月15日

ぎっくり腰と労作性頭痛

 今日は秋晴れのすがすがしい天気だったので、昼食後に庭の草取りをすることにしたのだが、昨年種を蒔いた宿根かすみ草が大きくなりすぎて邪魔になったので草取りの前に引きぬくことにした。ところが、かすみ草の根は直根でかなり深く地中に伸びている。ちょっと引っ張ったくらいでは抜けない。

 根のまわりを少し掘ってから根元をつかんで引きぬこうとした瞬間、背中にギクっときた。「あらら、やってしまった!」と思いつつその場に尻もちをついてへたり込んだ。1、2分そのまま動けずにいたのだが、そろりそろりと立ちあがったら何とか歩けるようだ。私はぎっくり腰というのは経験がないのだが、恐らくぎっくり腰ではないかと思う。

 重い物を持ち上げたときなどにぎっくり腰になるとよく言われているが、引きぬく動作でもなるのかとちょっとびっくり。しばらくはそろりそろりの生活になりそうだ。

 ところで、今年の夏は労作性頭痛というものに見舞われた。窓を外して拭き掃除をしていた連れ合いが、元通りに嵌めるのを手伝ってほしいと言う。窓といっても高断熱ペアガラスの大きな窓なのでとても重い。少し腰をかがめ思いっきり持ち上げようとした瞬間、これまで経験したことのないズキンという強烈な頭痛に襲われた。

 突然の頭痛に脳卒中ではないかと焦ったが、会話もできるし体も動く。どうやら脳卒中ではなさそうだ。そして、ネットで調べていくうちにこちらのブログを見つけた。症状が全く同じなので、労作性頭痛であるという結論に達した。それなら病院に行くこともないだろうと思って様子を見ることにした。

 労作性頭痛は重い物を持ち上げるときや激しいスポーツをしたときに起き、「重量挙げ頭痛」とも言われている。脳の血圧が一気に上昇して血管が圧迫されることで起きるらしい。そう言えば、思っていたより重かったので、持ち上げるときに無意識に息をとめてお腹に力を入れたようだ。

 じっと座っているなど体を動かさなければ痛みはないのだが、立ちあがったり歩いたりするとズキンズキンという頭痛に襲われる。それがおよそ2週間続いた。この間はずっとそろりそろりの生活を余儀なくされた。その後、次第に回復して3週間後には症状がほぼ消えたが、重い物を持ちあげるときは要注意だと思った。

 そんなことがあってから重い物を持ち上げることには注意していたのに、今度は「引きぬく動作」で腰を痛めてしまった。今まで「引きぬく動作」で腰痛になったことはなかったので、これもちょっとびっくり。歳とともに力仕事は気をつけねばと痛感した。
  
タグ :労作性頭痛


Posted by 松田まゆみ at 17:19Comments(2)雑記帳

2018年09月09日

再び「暗闇の思想」を

 今日の北海道新聞によると電気がほぼ復旧した昨日はスーパーマーケットやコインランドリーに大勢の人がつめかけたそうだ。流通はかなり回復してきているが、生鮮食料品などは売り切れたり入荷していないものも多いらしい。

 北海道の全域が停電するというブラックアウトから2日ほどで電気がほぼ復旧したのは幸いだったが、新聞記事を見ながらいろいろ考えさせられた。

 地震直後はコンビニでもスーパーでも食品の棚が空になったようだが、1日とか2日分の食品すら備蓄していない人が多いことに驚いた。私たちはほんの7年前にあの東日本大震災を経験している。その後も熊本をはじめとして大きな地震が何度も起きているし、集中豪雨や台風の被害も経験している。東日本大震災以来、3日分ほどの水と食料の備蓄が呼びかけられていたのに家に食べ物がない人がそれなりにいるのだから、防災意識に欠けている人がまだまだ多いのだろう。

 さらに驚いたのは、たった2日程度の停電でコインランドリーに人が押し掛けるという現象。災害で停電中という非常時なのに普段と同じようにこまめに着替えをし、洗濯物の山をつくっている人もいるようだ。電気が通じたとはいえ、供給はぎりぎりで節電を呼び掛けているというのに電気消費量の多い乾燥機を使うという神経は私には理解しがたい。

 現代人の多くは「電気は使いたいときにいくらでも使えるのが当たり前」「電気がない生活は考えられない」という感覚なのだろう。

 私が子どもの頃は電化製品が次々と普及していった時代だったが、それでも日本人の電力消費量はさほど多くはなかったと思う。ほんの数十年の間に私たちは電気を湯水のごとく使う生活が当たり前になり、湯水のように使えるほど電気が供給されるのが当たり前になった。しかし、ちょっと発想を転換すれが、まだまだ節約ができるのではないかと思えてならない。電子レンジも衣類乾燥機もない時代だって、そんなに不便ではなかったのだから。

 停電になると私は松下竜一氏の「暗闇の思想」を思い出す。東日本大震災の翌年に私はこんな記事を書いている。

今こそ意味をもつ松下竜一氏の「暗闇の思想」

 2日や3日の停電で右往左往する現代人は今一度、ここに引用した松下氏の「暗闇の思想」を読んでみたほうがいいように思う。1974年に書かれたものだ。ということで、再びここに転載しておきたい。

*****

 あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力をも含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。二年を経ずに、これは深刻な社会問題となるであろう。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱり答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。

 今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当に星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の想いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何かしら思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。

 電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならないという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造論政策遂行を意味している。年10パーセントの高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電気需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならないという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに-誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。

(中略)

 いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。冗談でなくいいたいのだが「停電の日」をもうけてもいい。勤労にもレジャーにも過熟しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自律的なものでなければならぬという予感がしている。(松下竜一著「暗闇の思想を」朝日新聞社刊、158-161ページ)


*****

 日本は災害列島だ。プレート境界に位置する日本は海溝型の大地震にいつ襲われてもおかしくない。熊本地震や大阪の地震、今回の胆振東部地震のような直下型地震や台風被害なども間違いなく起きる。これからも私たちは何度も停電を経験することになるだろう。そんなときに電力会社に怒りをぶつけたり、国などの支援に頼っているだけではあまりにもお粗末ではないか。災害列島に生きている以上、「電気がなくても数日は生きられる」ようにしておかねばならないと思うし、停電のときこそ不平不満を言うのではなく、電気に頼り過ぎの生活を見直す日にできたらいいと思う。

  


Posted by 松田まゆみ at 14:54Comments(4)雑記帳

2018年09月07日

災害列島日本

 6日未明、携帯電話のけたたましい警報で目が覚めた。携帯電話は寝るときに電源を切るのだが、この日は忘れてそのままにしていたのだった。寝ているときにこれが鳴り響くと一瞬何が起きたのかと頭が混乱するのだが、大音響の警報が終わらないうちから家がカタカタと揺れはじめたので地震だと分かった。

 揺れは大きくないものの、けっこう長い。これは大きそうだと直感した。揺れの感じにすぐさま東日本大震災のことが頭をよぎった。枕元の電気スタンドをつけてベッド脇の非常持ち出し袋に手を突っ込み携帯ラジオを取り出した。震源地や地震の規模などの情報を聴いてから再び布団にもぐり込んだが、寝付かれない。その直後に停電になったようだった。

 震源地は胆振地方だから私のところからはけっこう離れている。停電もしばらくしたら復旧するだろうとたかをくくっていたが、朝になっても復旧していない。携帯電話も「圏外」と表示されて使えない。とりあえず携帯ラジオが唯一の情報源だ。そのラジオで、震源地近くの厚真町で大規模な土砂崩れが起きていることや、北海道全域が停電していることを知った。

 胆振地方の直下型大地震で、なぜ北海道全域が停電になってしまうのかと不思議だったのだが、ニュースの説明を何度か聞いて理解した。こちらの「みこし」に例えた説明が分かりやすいので、以下に引用しておきたい。

 北電や経済産業省などによると、地震発生当時の電力需要は約310万キロワットだった。道内の主な火力発電所6カ所のうち、苫東厚真の3基(発電能力165万キロワット)を含む4カ所の計6基が稼働していたが、地震の影響で苫東厚真の3基が緊急停止。
 供給量が一気に減り、「みこしを担いでいた人たちの半分が一斉に抜けたような状態」(北電東京支社の佐藤貞寿渉外・報道担当課長)になった。
 通常、発電量は需要と常に一致するよう自動調整されている。バランスが狂うと発電機の回転数が乱れ、発電機や工場の産業用機器などが故障するためだ。

地震などの災害で一部の発電所が緊急停止しても、普段は他の発電所の供給量を増やして対応できるが、今回は他の発電所でカバーできる量を超えていた。
 このため、地震の影響を直接受けなかった発電所も需給バランスの乱れによる故障を避けるため、自動的に次々と緊急停止した。みこしの下に残った人が押しつぶされそうになり、危険を感じて次々とみこしを放り出して抜け出したような状況だったと言える。


 全道停電の最大の原因は、苫東厚真発電所が北海道の電力供給の約半分を担っていたということにありそうだ。

 今回の震源地は石狩低地東縁断層帯の近くだ。この近くでは2017年にもマグニチュード5.1の地震が起きている。石狩低地東縁断層帯で大きな地震が起きることは想定されていた。ならば、苫東厚真発電所が地震で運転を停止することは十分に予測できたはずだし、全道停電のリスクを回避する対策も可能だったはずだ。東日本大震災での教訓が活かされていたとはとても思えない。

 泊原発は停止していたとはいえ、燃料プールの冷却のための電気が欠かせない状況だ。全道的な停電は、原発の外部電源喪失そのものであり、最も避けねばならないことだ。それがあっけなく崩れ去った。ディーゼル発電機が作動したとはいえ、もし原発が稼働していたらかなり恐ろしい状況だ。

 原発は5重の安全対策をしているから大丈夫という原発安全神話が東日本大震災で一瞬にして崩れ去ったが、現在の電力供給システムもたった一か所の発電所の停止で致命的になることがはっきりした。発電設備を一か所に集中させてしまう方式がこのような事態を招いたのだ。電気はできるかぎり地産地消にしていくのが望ましいのだろう。

 私のところは6日の夜には電気が復旧したが、まだ停電が続いている地域もあるようだ。もし電気需要が増える冬だったらと思うと、ぞっとする。北海道の場合、灯油ストーブによる暖房が一般的だが、送風のためのファンに電気を使うので、停電になってしまうと暖房が使えなくなるのだ。厳冬期ならば水道の凍結被害も出るだろう。現代人にとって長期の停電は命取りになりかねない。

 石狩低地東縁断層帯ではマグニチュード7規模の地震が起きてもおかしくないと言われているし、今回の地震に誘発されて大きな地震が起きる可能性もある。さらに、北海道では十勝沖や釧路沖などの海溝型の大地震も懸念されている。日本中、どこに住んでいても地震災害から逃れることはできないし、私たちは被害を最小限に食い止める努力をすることしかできない。

 さて、今回の停電で痛感したのは、やはり日頃の防災だ。まずは寝室の布団やベッドから手の届く範囲に懐中電灯や携帯ラジオを置いておくというのが大事であることを実感した。夜に停電になった場合、明かりがないと何もできない。情報収集のために携帯ラジオも欠かせない。要は非常持ち出し袋を準備しておくということ。地震の揺れで物が散乱したときのために、スリッパも必需品だ。

 それと水と食料の備蓄。私のところは無洗米と水を常備しカセットコンロもあるので数日の停電で食べるものがなくなるということはなく、食料に関してはまったく心配はなかった。何日も停電すると冷蔵庫や冷凍庫の食品が傷んでしまうが、これは諦めるしかない。

 さらに土砂崩れが起きそうな場所や津波に襲われる可能性がある場所に住んでいる人は、日頃からハザードマップや避難所を確認し、災害時には速やかに避難するしかない。

 今回の地震では厚真町で大規模な土砂崩れがあった。6日の夕刊と7日の朝刊でその画像を見て、愕然とした。震源地近くの山が一斉に地滑りを起こしたのだろう。山の表面を覆っていた軽石層が崩れたらしいが、これほど一斉に崩れた光景ははじめて見た。

 東日本大震災のあとに熊本地震、そして今回の北海道胆振東部地震と、日本では震度7を記録する大地震が続いている。間違いなく地震も火山噴火も活発化している。さらに、今年は西日本の集中豪雨や台風21号でも大きな被害があった。大規模な災害では支援物資などいつ届くかわからないし、首都圏などの人口密集地で大きな災害が起きれば支援物資や救助などほとんどあてにできない。

 この先、いつになるかは分からないにしても、海溝型地震や首都圏での大地震は間違いなく起きる。恐らく想像を絶する被害になるだろう。そんなことを考えても仕方ないなどと思っている人もいるかもしれないが、災害を生き延びるには、まずは自分で自分の身を守る努力をするしかないと痛感する。
  


Posted by 松田まゆみ at 17:11Comments(1)雑記帳