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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱 › 原子力発電 › 今こそ意味をもつ松下竜一氏の「暗闇の思想」

2012年04月24日

今こそ意味をもつ松下竜一氏の「暗闇の思想」

 今日の北海道新聞のトップニュースは、泊原発が稼働しないと、この夏が猛暑だった場合は節電をしても3.1%の電力不足になり、平年並みの暑さでも電力が逼迫するという記事だった。まるで原発がないと「停電になるぞ」と言わんばかりだ。原子力ムラの連中は夏の電力不足を理由に、何が何でも原発を再稼働させたいらしい。この発想には「停電はあってはならない」という前提がある。

 しかし、そうだろうか? かつては、落雷などによる停電がしばしばあり、そんなときはロウソクや懐中電灯で過ごしたものだ。ガスが使えれば調理もさほど支障はない。数時間の停電ならたいして苦にはならなかった。

 私の住む十勝地方の僻地では、何年か前までは「作業停電」というのが時々あった。数時間は電気が使えないが、みんな仕方ないと思っていたし、とくに混乱もなかった。そういう時は、たまに電気のない時間に何をして過ごそうかと考えたものだ。

 今だって、雷や台風などで大都市が停電になることもあるし、大地震がおきても停電になる。自然災害による停電をすべてなくすことなど不可能だろう。病院など、停電になれば命に関わるようなところでは自家発電を持っている。

 それなのに、なぜ原発停止による停電をこれほどまで騒ぎ恐れるのだろうか? 数時間くらい停電になったところで、命の危険にさらされるような人はほとんどいない。電力会社はオール電化住宅を後押ししてきたが、それは原発をつくるためだったのだ。

 日本人は知らず知らずのうちに「停電はあってはならない」と思い込んでしまっているように思えて仕方ない。しかし、それは原子力ムラの連中による刷り込みではないだろうか。だいいち、猛暑で電力の需要が大きくなるようなときは「停電警報」でも発して節電を呼び掛けるだけでも電力消費量はかなり減らせるだろう。

 「停電」を持ち出して市民を脅す原子力ムラの連中を見るにつけ、学生時代に読んだ松下竜一氏の「暗闇の思想を」という本を思い起こす。九州電力豊前火力発電所の反対運動について記したのが「暗闇の思想を」だ。この本が出版された1974年は高度経済成長の真っただ中だったが、松下氏の「暗闇の思想」は今も色あせていない。というより、われわれ日本人は今こそ彼の言葉を重く受け止めねばならないのではないか。以下に一部を引用して紹介したい。

 あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力をも含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。二年を経ずに、これは深刻な社会問題となるであろう。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱり答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。

 今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当に星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の想いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何かしら思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。

 電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならないという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造論政策遂行を意味している。年10パーセントの高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電気需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならないという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに-誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。

(中略)

 いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。冗談でなくいいたいのだが「停電の日」をもうけてもいい。勤労にもレジャーにも過熟しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自律的なものでなければならぬという予感がしている。(松下竜一著「暗闇の思想を」朝日新聞社刊、158-161ページ)


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