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鬼蜘蛛の網の片隅から › 政治・社会 › 文化勲章受章という堕落

2012年11月03日

文化勲章受章という堕落

 今日、11月3日は皇居で文化勲章の授与が行われる日だ。そして今日は秋の叙勲の受章者が発表された。叙勲の季節になると、何ともやるせない気持ちになる。反権力を標榜している文化人までもが、必ずといっていいくらい受章の知らせに対して「光栄です」というコメントをし、あっけらかんと授与を喜んでいるのである。国家から勲章をもらうことがそんなに名誉で光栄なことなのか。名誉がそんなに大事なのか・・・。

 価値観は人によってさまざまだから、まあ、人によっては名誉で喜ばしいことなのだろう。権力に迎合している人や改憲派の人なら権力者から褒められるのが嬉しいというのも分かる。しかも、彼ら彼女らは勲章だけをもらうわけではない。文化勲章受章者は文化功労者の中からから選ばれるから、文化功労者に選ばれた時点で国から年額350万円の終身年金が支給されている。

 しかし権力を批判している立場の者がその権力者から勲章やお金をもらうということに何ら違和感を持たないのだろうか? 私には理解しがたい。彼らの大半は、そもそも年金などもらわなくても生活していける人たちだろう。そのような人たちに国が終身年金を支払うのである。いったい何のために?と思わずにいられない。

 大江健三郎氏が文化勲章を辞退したのは1994年。Wikipediaによると「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」というのが辞退の理由とされている。私の記憶では、表向きにはかなりやんわりと辞退の意思表示をしていたと思うのだが、権力者からの勲章、天皇からの授与にノーを突きつけたということだろう。彼の信念、姿勢は反権力志向の多くの人に影響を与えたのではなかったのか。

 しかし、大江氏の後に文化勲章を辞退した人は杉村春子氏だけである。今年は映画監督の山田洋次氏が選ばれた。彼は教育基本法改悪に反対だったのではないか。そういう人が文科省から文化功労者に選ばれて国から年金をもらい、文化勲章までもらって喜んでいる。梅原猛氏も「九条の会」の呼びかけ人であるが、文化功労者であり文化勲章を受章している。故井上ひさし氏も同じく「九条の会」の呼びかけ人であり天皇制にも批判的だったが、文化功労者だった。今年は宮崎駿氏も文化功労者に選ばれている。いったいこの国の文化人はどうなってしまったのだろう。叙勲の季節がくるたびに一人暗澹たる気持ちになる。

 こうしたことに何ら違和感を持たず、ただただ文化勲章やその他の叙勲をめでたいといって喜んでいる人は、私には能天気にしか映らない。

 ちなみに、文化勲章が授与される「文化の日」は、明治天皇の誕生日である。日本の叙勲制度は政治的な色合いが濃いというほかない。以下参照。

叙勲・褒章制度の歴史的な意味と事情(社会科学者の時評)

 辺見庸氏の「永遠の不服従のために」(毎日新聞社)という本がある。私がいちばん初めに手にした辺見氏の本が真っ赤な表紙のこれだった。タイトルに引き込まれて購入した。この本の3章に「堕落」という一節がある。そこに叙勲者についての感想が書かれている。辺見氏にとって、受章者はまさに「堕落」なのである。その部分を以下に引用しておこう。

 試しに、秋の叙勲の受章者リストを見るといい。改憲派の政府・法曹関係者ばかりではない、かつての護憲派の名誉教授様、芥川賞作家まで名前をつらね、あたら晩節を汚し、じゃなかった、輝かしきものとしているのである。これにかつての褒章受章者を加えれば、反権力を標榜していた映画監督や著名俳優、反戦歌を詠んだことのある歌人もいたりして、意外や意外どころのさわぎではない。革新政治家、かつては“社会の木鐸”を気どっていたはずのマスコミ経営者、万人平等を教えていたはずの学者ら、その他諸々の、ひとかどの人物たちが、ま、いっとき色に耽るのもよろしかろう、お金をもうけるのも結構でしょう、名前を売るのもどうぞどうぞではあるのだけれども、強欲人生の最後の仕上げと夢なるものが、勲章・褒章と、おそれ多くもかしこくも、宮中にての親授式だと知ってしまえば、「なーんだ、そうだったの」というほかはない。
 受章と反権力は矛盾しないだろうか。受章と護憲は矛盾しないだろうか。私は、ごく単純に矛盾すると思う。しかも、権威への欲が矛盾をなぎ倒し、国家主義を直接に手助けして、今日的反動の土壌をこしらえている。そのことに恥じ入りもしない受章者、彼らを嗤わず軽蔑もしない文化、受章の大祝宴を正気で開くアカデミズム、言祝ぐジャーナリズム―民主主義の安楽死も憲法破壊も必然というべきであろう。


 辺見氏の文章は強烈ではあるが、実にもっともなことである。反権力を標榜する者が矛盾を感じずに受章を喜んでいるのなら、あるいは矛盾を感じながら辞退をしないのなら、どちらも堕落ではないか。


    


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Posted by 松田まゆみ at 09:53│Comments(6)政治・社会
この記事へのコメント
おはようございます、
自分が選んだ道を貫けない というのは 自分が発した思想信念の外に
自分で行っていると宣伝しているように見えます。

こういう方たちを信じてきた人々に与える影響を考えて頂きたいと感じました。

分野は違いますが原発の現場で被爆されながら作業された方々やそれを支えた家族に
勲章を授ける という事が人の道である 世界は見ている と思いますが。
Posted by こると at 2012年11月04日 12:53
こると様

私には、文化勲章とか叙勲について疑問に思わない人が多すぎると思えてなりません。「勲章が何なの?」としか思えない。受章者をみんな手放しで称賛していますが、そんなにめでたいことなのでしょうか。まして、権力者からもらうなど・・・。

ノーベル賞などもそうですが、選ばれなくても素晴らし業績を残した人はたくさんいます。勲章、表彰・・・そういった類のものはどうも好きになれません。
Posted by 松田まゆみ at 2012年11月04日 22:19
まったくもって、ほんとにほんとですね!

毎日刊! 押し寄せる波浪の写真が置かれた赤い表紙の本を引っ張り出してみました。いささか陽に焼けた付箋が何箇所か貼ってあります。

そのひとつ。

『~次善の策として、日常的な服従のプロセスから離脱することだ。つまり、ああでもないこうでもないと異議や愚痴を並べて、いつまでものらりくらりと服従を拒むことである。弱虫は弱虫なりに、小心者は小心者なりに、根源の問いをぶつぶつと発し、権力の指示にだらだらとどこまでも従わないこと。激越な反逆だけでなく、いわば「だらしのない抵抗」の方法だってあるはずではないか~』(あとがきより)

国家だけでなく、大小さまざまな権力と相対することを避けられないのが人生。優柔不断かつ小心きわまりない私も、大きくうなずける一文でした。
Posted by かっこよくない抵抗者 at 2012年11月07日 10:46
かっこよくない抵抗者様

私も引用された一節、鮮明に記憶しています。

権力者に真っ向から対峙して抗議するのは誰もができることではないにしても、「いつまでののらりくらりと服従を拒むこと」「権力者の支持にだらだらとどこまでも従わないこと」なら、誰にでもできそうです。

脱原発にしてもそうで、デモや集会でプラカードを掲げて意思表示するのも、電気を徹底的に節約するのも大事なことだと思います。

そして、なによりも選挙で原発推進の人には投票しないという抵抗。これが集まれば即時脱原発も不可能じゃないと思うのですが。
Posted by 松田まゆみ at 2012年11月07日 11:28
松田さんの記事に触発されて、私も記事にしてみました。
http://blogs.yahoo.co.jp/satsuki_327/40220477.html
Posted by さつき at 2012年11月10日 03:49
さつき様

ブログで紹介してくださりありがとうございました。
この記事を書いてみて、やはり何人もの人が同じような想いを抱いていることを知りました。日本人全体の中ではかなりの少数派でしょうけれど。
Posted by 松田まゆみ at 2012年11月10日 21:12
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