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2013年05月22日
乙武洋匡さんの入店拒否で感じたこと
「五体不満足」の著者である乙武洋匡さんが、予約していたイタリア料理店で入店を拒否されたことについてツイッターで店名を挙げてつぶやいたことが話題となっている。乙武さんのツイートに対して店主はホームページで説明をされた。
乙武様のご来店お断りについて。 (TRATTORIA GANZO)
この問題がネット上で広まったこともあり、乙武さんもホームページで経緯について具体的に説明しご自身の意見を表明された。
イタリアン入店拒否について(OTO ZONE)
私は乙武さんの説明を読んで、彼の言動にはとりたてて非はないと思った。もし私が彼と同じ立場だったら、店名を挙げるかどうかは別として、おそらく同じような感情を抱きブログまたはツイッターで同じような発言をしたのではないかと思った。
結局、店主の「事前に車椅子であることを知らせておくのが常識」という発言と、喧嘩を売られたかのように感じる物言いに対し乙武さんはカチンときたのだ。
では車椅子であることを事前に知らせるのが常識だろうか? 「常識である」か「常識ではない」かの判断はそう明快にはいかない。確かにエレベーターが利用できず、また狭い店をスタッフと二人で切り盛りしている店主にとっては、事前に知らせることが常識という感覚なのかもしれない。しかし、一般の人や車椅子利用者にとっては常識とは限らないだろう。少なくとも乙武さんはこれまで車椅子であることを事前に告げていなくても外食を利用できていたのだ。ならば、車椅子であることを理由に入店を断るのは常識とは言い難い。
仮に私が外食をしているとき、車椅子の方が事前連絡もなく店に来たとしても、何ら非常識とは思わない。もし諸事情で車椅子の方の入店が困難であれば、丁重に理由を説明して「事前に連絡をしていただければなんとか対応できたのですが」と言えば済む話ではなかろうか。「事前に知らせるのが常識だ」とご自分の価値観を押し付けてしまえば、相手が不快になるのは当然だと思う。
ただし、おそらく店主は悪意はなかったのだろうとも思う。車椅子の方の来店の経験がないためにどう対応してよいのか分からず、断る理由としてご自身の「常識」を持ち出してしまったのかもしれない。ただし、やや謙虚さに欠けていたのではないかという印象は否めない。
私は先月「大沼安史さんへの電磁波攻撃は妄想、精神病か?!」という記事を書いた。木下黄太さんが私のコメントを取り上げなかったことがこの記事を書いた直接の理由なのだが、記事として取り上げることを決意させる背景があったのも事実だ。
木下さんがご自分の判断でコメントを載せないのは自由だし、そのこと自体を批判するつもりはない。また、木下さんがご自身の考えを主張することはもちろん否定はしない。私が木下さんとの電話でもっともカチンときたのは、私の意見について「自分とは違う見解」ということすら認めようとしなかったことだ。見解の相違を認めないという態度は自分の主張の強要であり、「思想・良心の自由」の侵害ともいえる対応だ。そうした権利侵害への腹立たしさが記事を書く動機になった。
また、彼はマスコミ関係者である自分は一般の人より情報に通じていると言っていた。それは事実だろうが、だからといってそのことが自分の主張が正しいという証明にはならない。むしろ一般の人を見下した発言だと感じた。少なくとも、他人に対し「対等」という感覚がやや欠如していると感じたのも事実だ。
人はさまざまな場面で不快になったり腹を立てたりするが、私がもっとも腹立たしく思うのは権利侵害にあたるような対応をされることと、「人は皆対等である」という意識が欠如した言動をとられたときだ。
人は決して平等ではない。生まれる国や地域、環境、親、容姿・・・どれをとっても本人が選ぶことはできない。しかし、この世に生を受けた人は年齢、性別、職業、業績、肩書、容姿などに関わらず基本的に対等でなければならないと私は思っている。もちろん、上司と部下、教師と生徒(あるいは児童、学生)、親と子、などどうしても上下関係が生じることもあるだろう。しかし、それでもできる限り相手の人権を尊重し、人として対等に接する努力をするべきだ。
簡単に言ってしまえば、「自分が同じようなことを言われたらどう思うか」ということを常に考えて発言できるかどうかだと思う。自分が同じことを言われたら怒るのに、他人にはおかまいなしに無礼な物言いをする人がいる。ところが、そのような人に限って権力者や自分より立場が上の者に対しては無礼な言い方をしない。そこには「人は皆対等」という意識が欠落している。
他人に依頼ごとをするにしても、言い方ひとつで印象がまったく変わってくる。相手の都合もきかずに押し付ければ断るつもりがなくても嫌な気分になるが、丁寧に依頼されれば忙しくてもなんとか都合をつけようという気持ちにさせる。今回の乙武さんの事例も、そんな一例だったのではないかと感じた。
お二人はすでに和解されているとのことだ。乙武さんがツイッターに書いたことは論争を呼んだが、結果としてはそれぞれが自分の意見を表明できたし和解に役立った。彼の発言は無意味なことではなかったと思う。
乙武様のご来店お断りについて。 (TRATTORIA GANZO)
この問題がネット上で広まったこともあり、乙武さんもホームページで経緯について具体的に説明しご自身の意見を表明された。
イタリアン入店拒否について(OTO ZONE)
私は乙武さんの説明を読んで、彼の言動にはとりたてて非はないと思った。もし私が彼と同じ立場だったら、店名を挙げるかどうかは別として、おそらく同じような感情を抱きブログまたはツイッターで同じような発言をしたのではないかと思った。
結局、店主の「事前に車椅子であることを知らせておくのが常識」という発言と、喧嘩を売られたかのように感じる物言いに対し乙武さんはカチンときたのだ。
では車椅子であることを事前に知らせるのが常識だろうか? 「常識である」か「常識ではない」かの判断はそう明快にはいかない。確かにエレベーターが利用できず、また狭い店をスタッフと二人で切り盛りしている店主にとっては、事前に知らせることが常識という感覚なのかもしれない。しかし、一般の人や車椅子利用者にとっては常識とは限らないだろう。少なくとも乙武さんはこれまで車椅子であることを事前に告げていなくても外食を利用できていたのだ。ならば、車椅子であることを理由に入店を断るのは常識とは言い難い。
仮に私が外食をしているとき、車椅子の方が事前連絡もなく店に来たとしても、何ら非常識とは思わない。もし諸事情で車椅子の方の入店が困難であれば、丁重に理由を説明して「事前に連絡をしていただければなんとか対応できたのですが」と言えば済む話ではなかろうか。「事前に知らせるのが常識だ」とご自分の価値観を押し付けてしまえば、相手が不快になるのは当然だと思う。
ただし、おそらく店主は悪意はなかったのだろうとも思う。車椅子の方の来店の経験がないためにどう対応してよいのか分からず、断る理由としてご自身の「常識」を持ち出してしまったのかもしれない。ただし、やや謙虚さに欠けていたのではないかという印象は否めない。
私は先月「大沼安史さんへの電磁波攻撃は妄想、精神病か?!」という記事を書いた。木下黄太さんが私のコメントを取り上げなかったことがこの記事を書いた直接の理由なのだが、記事として取り上げることを決意させる背景があったのも事実だ。
木下さんがご自分の判断でコメントを載せないのは自由だし、そのこと自体を批判するつもりはない。また、木下さんがご自身の考えを主張することはもちろん否定はしない。私が木下さんとの電話でもっともカチンときたのは、私の意見について「自分とは違う見解」ということすら認めようとしなかったことだ。見解の相違を認めないという態度は自分の主張の強要であり、「思想・良心の自由」の侵害ともいえる対応だ。そうした権利侵害への腹立たしさが記事を書く動機になった。
また、彼はマスコミ関係者である自分は一般の人より情報に通じていると言っていた。それは事実だろうが、だからといってそのことが自分の主張が正しいという証明にはならない。むしろ一般の人を見下した発言だと感じた。少なくとも、他人に対し「対等」という感覚がやや欠如していると感じたのも事実だ。
人はさまざまな場面で不快になったり腹を立てたりするが、私がもっとも腹立たしく思うのは権利侵害にあたるような対応をされることと、「人は皆対等である」という意識が欠如した言動をとられたときだ。
人は決して平等ではない。生まれる国や地域、環境、親、容姿・・・どれをとっても本人が選ぶことはできない。しかし、この世に生を受けた人は年齢、性別、職業、業績、肩書、容姿などに関わらず基本的に対等でなければならないと私は思っている。もちろん、上司と部下、教師と生徒(あるいは児童、学生)、親と子、などどうしても上下関係が生じることもあるだろう。しかし、それでもできる限り相手の人権を尊重し、人として対等に接する努力をするべきだ。
簡単に言ってしまえば、「自分が同じようなことを言われたらどう思うか」ということを常に考えて発言できるかどうかだと思う。自分が同じことを言われたら怒るのに、他人にはおかまいなしに無礼な物言いをする人がいる。ところが、そのような人に限って権力者や自分より立場が上の者に対しては無礼な言い方をしない。そこには「人は皆対等」という意識が欠落している。
他人に依頼ごとをするにしても、言い方ひとつで印象がまったく変わってくる。相手の都合もきかずに押し付ければ断るつもりがなくても嫌な気分になるが、丁寧に依頼されれば忙しくてもなんとか都合をつけようという気持ちにさせる。今回の乙武さんの事例も、そんな一例だったのではないかと感じた。
お二人はすでに和解されているとのことだ。乙武さんがツイッターに書いたことは論争を呼んだが、結果としてはそれぞれが自分の意見を表明できたし和解に役立った。彼の発言は無意味なことではなかったと思う。
Posted by 松田まゆみ at 21:40│Comments(3)
│雑記帳
この記事へのコメント
乙武さんはご自分の講演会では『車椅子で来場を希望する方は、5月29日までに連絡要とのこと。』と告知されてます。
ここに彼の本質、そしてこの問題の本質が現れていると思います。
ここに彼の本質、そしてこの問題の本質が現れていると思います。
Posted by ちよ at 2013年05月25日 13:18
ちよさん。
通常、講演会の主催者と講演者は別であり講演会のお知らせは主催者が作成しますから、講演会主催者による告知イコール乙武さんによる告知ではありません。また、講演会参加者は基本的にお知らせを読んだうえで講演会に参加されるわけで、車椅子利用の方は事前連絡が必要であることを認識したうえで参加されることになります。
そもそも今回、乙武さんは飲食店利用時に車椅子利用者が事前に店に確認することが常識であるか否かを問うたわけで、店主(講演会の場合は講演会主催者)による告知の必要性を問題にしているわけではありません。よって同列に論じられる問題ではありません。
仮に乙武さん自身が主宰する講演会において連絡なく車椅子で来られた方がおり、乙武さんがその方に「主宰者への事前連絡が常識です」と言ったなら矛盾するかとは思いますが。
通常、講演会の主催者と講演者は別であり講演会のお知らせは主催者が作成しますから、講演会主催者による告知イコール乙武さんによる告知ではありません。また、講演会参加者は基本的にお知らせを読んだうえで講演会に参加されるわけで、車椅子利用の方は事前連絡が必要であることを認識したうえで参加されることになります。
そもそも今回、乙武さんは飲食店利用時に車椅子利用者が事前に店に確認することが常識であるか否かを問うたわけで、店主(講演会の場合は講演会主催者)による告知の必要性を問題にしているわけではありません。よって同列に論じられる問題ではありません。
仮に乙武さん自身が主宰する講演会において連絡なく車椅子で来られた方がおり、乙武さんがその方に「主宰者への事前連絡が常識です」と言ったなら矛盾するかとは思いますが。
Posted by 松田まゆみ at 2013年05月27日 13:42
彼が全国的にも名の知れた著名人であり、教育委員会に属している公人でもあることを考えると、それとこれは別…という論にはやはり違和感を感じるところです。
教育をほどこす立場であるわけで、自分のふるまいが与える影響力の大きさを考慮しつつ行動する賢さはやはり必要でしょう。
まぁどう受けとめるかは個々人の感覚の差もあるかと思います。
が、行動を端から見たら矛盾を感じる結果となり、立場的な説得力にはやはり欠ける感があります。
お返事ありがとうございました。
教育をほどこす立場であるわけで、自分のふるまいが与える影響力の大きさを考慮しつつ行動する賢さはやはり必要でしょう。
まぁどう受けとめるかは個々人の感覚の差もあるかと思います。
が、行動を端から見たら矛盾を感じる結果となり、立場的な説得力にはやはり欠ける感があります。
お返事ありがとうございました。
Posted by ひろ at 2013年05月27日 22:45
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