鬼蜘蛛の網の片隅から › 自然保護 › 谷津干潟と森田三郎さんの思い出
2009年12月09日
谷津干潟と森田三郎さんの思い出
昨日のNHKの「たったひとりの反乱」は、千葉県の谷津干潟でひとりでゴミを拾いつづけた森田三郎さんでした。私にとって谷津干潟はなつかしい思い出の地であり、森田三郎さんは谷津干潟とともに心に残る人です。
学生時代、休みといえば野鳥を見に出歩いていた私ですが、シギやチドリなどの水鳥を見るためによく通ったのは東京湾です。当事は東京湾の大方の干潟は埋め立てられていたので、わずかに残っていた新浜とともによく通ったのがこの谷津干潟です。埋立地に囲まれた長方形の「埋め残された干潟」で、当事は大蔵省水面と呼ばれていました。2本の水路で東京湾に繋がっているので潮の干満があり、渡りのシーズンには何千羽ものシギやチドリが集まってきました。なぜこんな形で干潟が残っているのかが不思議なくらいだったのです。そこが埋め立てられて湾岸道路が通るという計画があり、この貴重な干潟の保全のために、千葉の干潟を守る会などの地元の自然保護団体が活動していました。当事は、干潟の海側に広大な埋立地が広がり、バードウオッチャーたちが休日になると野鳥の観察に訪れるだけのようなところだったのです。
そんな中で知り合ったのが森田三郎さんでした。私たちは野鳥の保護の観点から埋め立てに反対し、観察会や集会、署名集め、あるいは役所との交渉などをしていたのですが、森田さんの活動はそんな私たちがとても考えつかないような驚くべきものだったのです。考えつかないというより、たとえ思いついても実行に移せるようなことではありませんでした。
そのひとつが、干潟に捨てられたゴミ拾いです。ゴミ拾いといっても、道端のゴミを拾うのとは訳が違います。どろどろの干潟に投げ捨てられた大小さまざまなゴミです。彼は、誰もが考えつきもしないようなこのゴミ拾いを一人でもくもくと続けたのです。彼のもうひとつの驚くべき行動は、埋立地で繁殖するコアジサシやシロチドリの調査でした。ある日、森田さんが私たちの前に調査結果を書き込んだ大きな紙を広げたときには、私たちバードウオッチャーは本当にたまげてしまいました。その紙には彼が見つけた何千という卵の数が書き込まれていたのです。いくら野鳥好きの私たちでも、こんなすごい調査は考えもしないことです。彼のすごさは、その発想とそれを実現するバイタリティーにありました。
そのバイタリティーはどこからきていたのでしょうか。彼は、折に触れて、子どもの頃の干潟での遊びを語ってくれました。目を細めてとても懐かしそうに。森田さんの活動の原点は、毎日泥だらけになって遊びころげた干潟の原風景にあったのです。自分の信じた行動を一人で何十年もつづけるという彼の強靭な精神力は、子どものころの体験と原風景に裏打ちされていたのです。その子どもの頃の遊びを表した彼の絵には、今は幻となったかつての干潟の光景が、まざまざと描かれています。
私たち、野鳥観察や自然保護活動をしている人たちの大半は、干潟の近くに住んでいたわけではなくよそ者です。すでに埋め立てられてしまった東京湾と、わずかに残された干潟に集まる野鳥しか知りません。森田さんと同じ原風景を共有できなかったのです。いえ、たとえ共有できたとしても、森田さんのような行動はとれなかったでしょう。彼の彼の心の原風景が、類い稀な精神力と重なって、とてつもない作業をやり通したのでしょう。
湾岸道路の建設によって谷津干潟の一角が埋め立てられましたが、谷津干潟が残されたのはここをなんとか守ろうと奮闘した森田さんや自然保護団体のメンバーの活動の賜物です。私は1980年に北海道にきたので、谷津干潟との関わりも5年間ほどだったでしょうか。昨日は、テレビの画面でほんとうに懐かしく森田さんのお顔を拝見しました。少しとつとつとした話し方は、あの頃とほとんど変わっていません。
8年ほど前になるでしょうか。東京に行った折に、かつての鳥仲間と谷津干潟を訪れました。湾岸道路の脇に作られた歩道はこんもりと生長した木々に囲まれ、かつては何もなかった埋立地に住宅が建ち並び、野鳥観察のための立派な建物ができていました。その変貌に目を見張りつつ、遮るものの何もない埋立地を野鳥の姿を求めてひたすら歩き回ったあの頃を思いだして複雑な思いにかられました。森田さんにとって、猫の額ほどになった谷津干潟がかけがえのない大切な場所であるように、私たち古きバードウオッチャーにとっても、思いでの詰まった忘れがたい場所なのです。
なお、森田さんの活動については、松下竜一さんが子ども向けに書かれた「どろんこサブウ」(講談社)に詳述されています。
学生時代、休みといえば野鳥を見に出歩いていた私ですが、シギやチドリなどの水鳥を見るためによく通ったのは東京湾です。当事は東京湾の大方の干潟は埋め立てられていたので、わずかに残っていた新浜とともによく通ったのがこの谷津干潟です。埋立地に囲まれた長方形の「埋め残された干潟」で、当事は大蔵省水面と呼ばれていました。2本の水路で東京湾に繋がっているので潮の干満があり、渡りのシーズンには何千羽ものシギやチドリが集まってきました。なぜこんな形で干潟が残っているのかが不思議なくらいだったのです。そこが埋め立てられて湾岸道路が通るという計画があり、この貴重な干潟の保全のために、千葉の干潟を守る会などの地元の自然保護団体が活動していました。当事は、干潟の海側に広大な埋立地が広がり、バードウオッチャーたちが休日になると野鳥の観察に訪れるだけのようなところだったのです。
そんな中で知り合ったのが森田三郎さんでした。私たちは野鳥の保護の観点から埋め立てに反対し、観察会や集会、署名集め、あるいは役所との交渉などをしていたのですが、森田さんの活動はそんな私たちがとても考えつかないような驚くべきものだったのです。考えつかないというより、たとえ思いついても実行に移せるようなことではありませんでした。
そのひとつが、干潟に捨てられたゴミ拾いです。ゴミ拾いといっても、道端のゴミを拾うのとは訳が違います。どろどろの干潟に投げ捨てられた大小さまざまなゴミです。彼は、誰もが考えつきもしないようなこのゴミ拾いを一人でもくもくと続けたのです。彼のもうひとつの驚くべき行動は、埋立地で繁殖するコアジサシやシロチドリの調査でした。ある日、森田さんが私たちの前に調査結果を書き込んだ大きな紙を広げたときには、私たちバードウオッチャーは本当にたまげてしまいました。その紙には彼が見つけた何千という卵の数が書き込まれていたのです。いくら野鳥好きの私たちでも、こんなすごい調査は考えもしないことです。彼のすごさは、その発想とそれを実現するバイタリティーにありました。
そのバイタリティーはどこからきていたのでしょうか。彼は、折に触れて、子どもの頃の干潟での遊びを語ってくれました。目を細めてとても懐かしそうに。森田さんの活動の原点は、毎日泥だらけになって遊びころげた干潟の原風景にあったのです。自分の信じた行動を一人で何十年もつづけるという彼の強靭な精神力は、子どものころの体験と原風景に裏打ちされていたのです。その子どもの頃の遊びを表した彼の絵には、今は幻となったかつての干潟の光景が、まざまざと描かれています。
私たち、野鳥観察や自然保護活動をしている人たちの大半は、干潟の近くに住んでいたわけではなくよそ者です。すでに埋め立てられてしまった東京湾と、わずかに残された干潟に集まる野鳥しか知りません。森田さんと同じ原風景を共有できなかったのです。いえ、たとえ共有できたとしても、森田さんのような行動はとれなかったでしょう。彼の彼の心の原風景が、類い稀な精神力と重なって、とてつもない作業をやり通したのでしょう。
湾岸道路の建設によって谷津干潟の一角が埋め立てられましたが、谷津干潟が残されたのはここをなんとか守ろうと奮闘した森田さんや自然保護団体のメンバーの活動の賜物です。私は1980年に北海道にきたので、谷津干潟との関わりも5年間ほどだったでしょうか。昨日は、テレビの画面でほんとうに懐かしく森田さんのお顔を拝見しました。少しとつとつとした話し方は、あの頃とほとんど変わっていません。
8年ほど前になるでしょうか。東京に行った折に、かつての鳥仲間と谷津干潟を訪れました。湾岸道路の脇に作られた歩道はこんもりと生長した木々に囲まれ、かつては何もなかった埋立地に住宅が建ち並び、野鳥観察のための立派な建物ができていました。その変貌に目を見張りつつ、遮るものの何もない埋立地を野鳥の姿を求めてひたすら歩き回ったあの頃を思いだして複雑な思いにかられました。森田さんにとって、猫の額ほどになった谷津干潟がかけがえのない大切な場所であるように、私たち古きバードウオッチャーにとっても、思いでの詰まった忘れがたい場所なのです。
なお、森田さんの活動については、松下竜一さんが子ども向けに書かれた「どろんこサブウ」(講談社)に詳述されています。
『日高山脈を含む新国立公園の名称に「十勝」を入れるべきではありません!』のオンライン署名を開始
日高山脈一帯の国立公園の名称を巡る不可解
日高山脈一帯の国立公園の名称に「十勝」を入れる愚
十勝川水系河川整備計画[変更](原案)への意見書
ダムで壊される戸蔦別川
雌阿寒岳の麓に新たな道路は必要か?
日高山脈一帯の国立公園の名称を巡る不可解
日高山脈一帯の国立公園の名称に「十勝」を入れる愚
十勝川水系河川整備計画[変更](原案)への意見書
ダムで壊される戸蔦別川
雌阿寒岳の麓に新たな道路は必要か?
Posted by 松田まゆみ at 16:32│Comments(3)
│自然保護
この記事へのコメント
こうした人物を評価するものがこの国にはほとんどありません。
結局は組織と経済との結びつきからしか話されることがなく、こうした地道な活動こそこの国を救うのですが・・・
それでも少しは変わってきたのでしょうか。
ポスフールなんかが、エコ商品を販売していて、何か言いたくなりますが、前よりは良くなったのだと自分を納得させるようにしています。
チリの観察所や木道もほんとはない方が良いのですが、最近は何も言わずに見つめるようにしています。
結局は組織と経済との結びつきからしか話されることがなく、こうした地道な活動こそこの国を救うのですが・・・
それでも少しは変わってきたのでしょうか。
ポスフールなんかが、エコ商品を販売していて、何か言いたくなりますが、前よりは良くなったのだと自分を納得させるようにしています。
チリの観察所や木道もほんとはない方が良いのですが、最近は何も言わずに見つめるようにしています。
Posted by そりゃないよ獣医さん at 2009年12月09日 22:02
森田三郎さんに脱帽。感動です。すごい方ですね....。
森田さんの後ろ姿が語る力は誰にも真似のできない
すごみさえ感じてしまいます。以前河川敷のゴミを
独りで黙々と拾い集めていた方がテレビで紹介され
た事がありました。しばらくすると一人二人と参加
する近隣の人々が増えみるみるゴミが無くなったと
のことです。言葉も大切ですが黙して語らずの姿が
訴えかける力に再度脱帽です・・・。
森田さんの後ろ姿が語る力は誰にも真似のできない
すごみさえ感じてしまいます。以前河川敷のゴミを
独りで黙々と拾い集めていた方がテレビで紹介され
た事がありました。しばらくすると一人二人と参加
する近隣の人々が増えみるみるゴミが無くなったと
のことです。言葉も大切ですが黙して語らずの姿が
訴えかける力に再度脱帽です・・・。
Posted by 北の旅烏 at 2009年12月10日 10:12
獣医様
確かに、保護が決まってから評価されても、本人が一番しんどい時にはほとんど評価されないどころか避難すらされたのです。もし埋め立てられてしまったのなら、森田さんの行動は評価されることもなく忘れ去られてしまったかもしれません。
観察施設なども、私は基本的にいらないと思いますし好きにはなれません。何よりも自然の観察は建物からではなく、自然の状態が一番です。
北の旅烏様
ほんとうにすごい方なのです。真夏の埋立地は日差しを遮るものもなく、とてつもなく暑いのです。ただ鳥を見ているだけの私たちバードウオッチャーも、歩きまわるだけでバテバテになります。そんな中を、たったひとりでゴミ拾いをしたり、野鳥の調査をしていたのですから。
彼の強い精神と干潟への想いが、ゴミを捨てていた人たちの心にも届いて理解してもらえる時がくるのですが、どんなに嬉しかったでしょうね。
確かに、保護が決まってから評価されても、本人が一番しんどい時にはほとんど評価されないどころか避難すらされたのです。もし埋め立てられてしまったのなら、森田さんの行動は評価されることもなく忘れ去られてしまったかもしれません。
観察施設なども、私は基本的にいらないと思いますし好きにはなれません。何よりも自然の観察は建物からではなく、自然の状態が一番です。
北の旅烏様
ほんとうにすごい方なのです。真夏の埋立地は日差しを遮るものもなく、とてつもなく暑いのです。ただ鳥を見ているだけの私たちバードウオッチャーも、歩きまわるだけでバテバテになります。そんな中を、たったひとりでゴミ拾いをしたり、野鳥の調査をしていたのですから。
彼の強い精神と干潟への想いが、ゴミを捨てていた人たちの心にも届いて理解してもらえる時がくるのですが、どんなに嬉しかったでしょうね。
Posted by 松田まゆみ at 2009年12月10日 16:29
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。