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鬼蜘蛛の網の片隅から › 政治・社会 › 死刑について考える(その1)

2010年01月04日

死刑について考える(その1)

 年末からの腰痛もあり、お正月はゆっくり読書と決め込んだものの、それとなく選んだ本は買ったままで手をつけていなかった森達也氏の「死刑」(朝日出版社)という重いテーマを扱った本。読了してから、すでに一度読んでいる辺見庸氏の「愛と痛み」(毎日新聞社)というやはり死刑について語った本と、篠田博之氏の「ドキュメント死刑囚」(ちくま新書)まで読んでしまいました。

 はじめに申し上げておきますが、私は死刑には反対です。一刻も早く、死刑制度を廃止すべきだと考えています。なぜなら、たとえどんなに残虐な殺人を犯した人であっても、その人は私と同じ血の通った人間であり、悪魔でもなければ鬼畜でもないからです。私自身、絶対に人を殺したくはないからです。おそらくその感覚は私の良心からくるもの、というより人間の生物としての本能のようなもの、人という生物に備わったタブーではないかと思うのです。「殺人はしてはいけない」と教えこまれなくても、人というのは、本来は殺人など安易にしない動物ではないでしょうか。

 「死刑では償いにならない」「冤罪であれば取り返しのつかないことになる」といった論理もその通りだとは思うのですが、それ以前に、人は同種である人を殺すようにできてはいない(犬や猫であればいいというわけではありませんが)と思えてなりません。もちろん、実際には人を殺してしまう人がいるのが現実なのですが、それには何らかの事情があり、どこかで道を間違えたり、あるいは迷ったり、追い込まれたということではないのでしょうか。生まれもっての殺人者などいるとは思えません。誤ったり迷ったり、追い込まれた人たちに与えるべきは、命を絶つことではないはずです。

 ところが、この国ではおよそ8割もの人が死刑を支持しているといいます。ネット上には殺人犯の加害者に対し「殺せ」、「死刑が当然」との書き込みが氾濫しています。「殺人は凶悪犯罪」と言って否定しながら、なぜ、死刑という国家による殺人であれば多くの人が肯定するのか・・・。報復なら殺人も許されるのか・・・。私には「正義の戦争」を謳って人殺しを正当化するのと同じ論理であり、矛盾に満ちたこととしか思えないのです。

 もちろん、被害者遺族の「極刑を望む」「死んで償ってほしい」という心情を否定するつもりは毛頭ありません。しかし、私たちの大半は被害者遺族でもなければ加害者でもありません。そういう人たちが、なぜ死刑という国家による殺人を許容するのか、なぜ被害者遺族に同化して死刑を求めるのか。加害者のことはどうでもいいのか。そんな思いをずっと持ち続けるなかで森達也氏の本を書店で手にしたのですが、そのテーマの重さと本の厚さにたじろいで、そのままになっていたのです。

 森達也氏は、死刑に関わる人、関心を持つ人などに取材を重ねながら、「死刑は必要なのか」「死刑にはどんな意味があるのか」「償いとは何か」と自問自答することで、自らの答えを引き出していきます。取材したのは死刑廃止の活動に関わり死刑囚の弁護人も務める安田好弘弁護士、オウム真理教の死刑囚、死刑をテーマにした漫画を描いている漫画家、「死刑廃止を推進する議員連盟」の保坂展人氏や亀井静香氏、死刑を執行された宅間守の弁護士、冤罪の元死刑囚である免田栄氏、死刑執行に立ち会った経験のある元高検検事、元刑務官、教誨師、死刑存置派のライターである藤井誠二氏や、犯罪被害者の会のメンバー、光市事件の被害者遺族である本村洋氏など。

 森氏は、彼らから死刑に反対あるいは賛成する論理を聞き出し、自問自答していきます。そして森氏が最終的に行き着いた結論は以下のようなものでした。

 冤罪死刑囚はもちろん、絶対的な故殺人であろうが、殺すことは嫌だ。
 多くを殺した人であっても、やっぱり殺すことは嫌だ。
 反省した人でも反省していない人でも、殺すことは嫌だ。
 再犯を重ねる可能性がある人がいたとしても、それでも殺すことは嫌だ。


 また、光市事件の被告少年に面会して以下のように思ったとも書いています。

 僕は彼を死なせたくない。
 なぜなら彼を知ったから。会ったから。会って話したから。自分が出会った人が、言葉を交わした人が、やがて殺されるかもしれないという状況を前にして、それを仕方がないと肯定することは僕にはできない。これは論理ではない。情緒とも少し違う。
 敢えて言葉にすれば本能に近い。
 人は人を殺す。でも人は人を救いたいとも思う。そう生まれついている。


 さらにこう語ります。

 僕は人に絶望したくない。生きる価値のない人など認めない。

 この重いテーマの本を最後まで読んで、私は緊張がほぐれるような安堵感を覚えました。あれだけ死刑について調べ、論理を追求し、悩んでたどり着いた結論は、私の感覚とほとんど同じだったのです。このような感覚的な結論に不満を覚える人がいるかも知れませんが、被害者遺族が加害者に極刑を求める心情もほとんど感覚的なものであり、他者がそれに同化して死刑を求めることもやはり感覚的なものです。論理というより意識こそ、死刑制度をめぐる賛否の本質ではないかと思えてなりません。

 森氏の取材の内容をここでこと細かに取り上げるつもりはありません。関心のある人は、是非この本をお読みいただけたらと思います。(つづく


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タグ :死刑森達也

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Posted by 松田まゆみ at 11:38│Comments(4)政治・社会
この記事へのコメント
日本人の多くが死刑を望むのは、一つはマスコミの取り上げ方にあり、もう一つはコミックやゲームなどを通じて若者たち(多分40歳以下)の多くは、死に対してあまりにも軽くかなえるようになっているからだと思います。
量刑が、報復手段であるかのように、ワイドショウなどでは扇情的に扱います。まるで犯罪者は、生まれ持っての悪人であるかのように扱います。
若者たちの多くは、死ぬと生まれ変わることになると思っているようです。死生観が、漫画的でゲーム的なのです。
誰でもいいからいっぱい人を殺して、自分の世界で英雄になるのでしょう。
死刑は、人の命から考えなければ彼らを説得できません。
それにしても、自殺者の問題といい、厄介な問題だと思います。
ご紹介の本を読んでみたいと思います。
Posted by そりゃないよ獣医さん at 2010年01月04日 15:40
はじめまして。
新風舎などの協力出版問題から貴ブログに興味をもち、拝見しているものです。

私は死刑存置派の立場をとるのですが、いくつか疑問がありコメントを寄せます。揚げ足取りのようなこともあるかと思いますが、御了承ください。

>「殺人は凶悪犯罪」と言って否定しながら、なぜ、死刑という国家による殺人であれば多くの人が肯定するのか・・・。報復なら殺人も許されるのか・・・。

この論法を使って、死刑を否定するのならば、懲役・禁固刑は「国家による拉致監禁」であり、罰金刑は「国家による窃盗罪」となり、さらにこれらも駄目だという論法をもちだすと世の中は犯罪をおかしても誰も罰せられない世界となってしまいます。では、禁固・罰金はいいけど、死刑は駄目、となるとそのボーダーゾーンに関して万人を納得させる論理はないように思います。

また、「加害者についてはどうでもいいのか」という書き込みですが、正直、どうでもいいのではなく、六法全書で規定された法律に縛られる日本国で加害者はその法に触れることをしたのですから、罪刑法定主義の原則により、規定のさばきを受けるのは当然なまでです。その結果が死刑であれば、死刑を執行せよというのは法律に沿った判断だと思います。
また、そこでなぜ加害者の肩を持たないか、というと、「死刑になるぐらいだから、客観的に更生の余地がなかったんだろう、あるいはそれを鑑みても死刑となるほどの犯行を行ったのだろう」という推測が働くからではないでしょうか。

最後に死刑執行官の話ですが、本当に心の底から死刑を執行したくないと思うのならば刑務官という職を辞すればいいだけではないでしょうか。そうまでしないのは、死刑執行と保身をはかったときに、後者に傾いたからではないでしょうか。
Posted by 匿名希望 at 2010年01月04日 17:32
極刑を望んでいても、時が経つ内にその憎しみは薄れていく。
被害者の家族の思いと同化していてもいつしか日常の繁忙に
追われ他人事として忘れていく。あまりの残酷な事件事故が
日常化している現代社会、大きく取り上げられた記事もいつ
しか消え去り気づいた時には数年の歳月が流れていることが
あります。憎しみは当事者だけが声だかに話せるのであって
第三者が安全な場所から野次を飛ばすのは賛成しません・・。
とは言っても身内がもし事件に巻き込まれたら加害者を絶対
許すことは無いでしょう。ハムラビ法典が浮かんでは消えを
くり返す日々をおくるでしょう。
以前に書きましたが、過失で人を死なせた青年が刑を終えて
出所し、働き始めた給料からお詫びの手紙とお金を毎月送り
続けたドキュメント番組を見て泣きました。彼は罪の償いを
どのような形でできるか・・一生懸命考えぬいた結果の行動
だったのです。数年の時が過ぎたある日、初めて故人の奥様
から返信をもらいました。そこには許すとは書かれてはいま
せんでしたがこれ以上送金はしなくてもよいと書かれていた
そうです。でも彼はその後も送り続けているそうです。人の
命を奪った償いなんてできる筈もありません。しかし相手の
心のキズを少しづつやわらげることはできるのですね。この
番組中私は涙が止まりませんでした。彼の思いと奥様の辛さ
が痛い程わかったからです。
人は過失を犯すことを否定できません。でもその事を心底悔
やみ反省しているのであれば今遺族にできる事は何か真剣に
考え行動に移す事ができるのだと思うのです。過去は消えま
せん。でもやわらげる事はできるのかも知れません。遺族を
前にして心底「ごめんなさい」の言葉を言えなければ、その
人間の価値は無いと思うのです。
命の重さ・・・この世に生けるもの全てに無駄は無く、尊い
ものだと思います。私は釣りをして殺生してますが、釣った
魚は美味しく食べたいと考えています。夕食時ありがとうの
言葉が自然に出てきます・・・。
Posted by 北の旅烏 at 2010年01月05日 09:11
獣医様、匿名希望様、北の旅烏様、それぞれ想いのこもったご意見ありがとうございました。

死刑についての考え方は人それぞれだと思いますし、またそれぞれのご意見を尊重したいと思いますので、基本的にはお書きいただいたコメントに対する個別のお返事や感想は控えさせていただきたいと思います。

ただし、誹謗中傷や荒しなどと受け止められるコメントが書き込まれた場合は、削除したり承認制にする可能性もあることをお断りしておきます。
Posted by 松田まゆみ at 2010年01月05日 14:21
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