さぽろぐ

日記・一般  |その他北海道

ログインヘルプ


鬼蜘蛛の網の片隅から › 政治・社会 › 裁判員の苦悩はどこからくるのか

2010年11月18日

裁判員の苦悩はどこからくるのか

 先日、横浜地裁の裁判員裁判で初の死刑判決が出ました。この初の死刑判決に関するマスコミの論調は、評議の過程を明らかにすべきだとか、市民の裁判員には負担が重すぎる、審理の期間が短すぎるといったようなことばかり。でも、そんなことは裁判員制度ができる前に分かっていたはずです。それなのに、マスコミは死刑制度そのものの議論をしないまま裁判員制度を推し進める論調の記事ばかり書いてきました。

 今回のような犯行様態が残忍な事件であれば、量刑の判断には当然「永山基準」が持ちだされることになります。ならば、裁判員はそれに照らし合わせて量刑を決めることが求められるでしょう。犯罪の性質、動機、殺害方法の残虐性、結果の重大性と死亡者の数、遺族の被害感情、社会的影響、被告の年齢、前科、事件後の情状によって判断するように裁判長から説明されるのです。

 日本に死刑制度があり、この基準を持ち出す限り、かならず死刑が下されることになります。そんなことははじめから分かっていました。

 6人の裁判員のうち、記者会見に応じたのがたった1人であったとか、6人の裁判員がうつむきがちで判決理由を聞いたというのは何を意味するのでしょうか。何しろ、死刑判決を出すということは、「人を殺せ」という命令を下すことに他なりません。そんな判断を下したなら、記者会見に臨みたくない心理になるのも当然です。たった9人で「人を殺せ」という判断をしたこと、その結論に自分が関わったことのどこかに後ろめたさや迷いを感じているのではないでしょうか。

 また、記者会見に応じた裁判員が「悩んだ。何回も涙を流した」と語ったことからも、裁判員がとても悩んだことがよく分かります。

 多くの国民は、裁判の仕組みもわかっていなければ、刑務所や死刑囚の実態、刑場のことも知らされていません。それなのに日本人の8割以上が死刑制度を支持ししているといいます。ところが、偶然くじ引きで裁判員になり、「永山基準」を落ち出されて死刑にすべきかどうかを判断しなければならなくなれば、たとえ死刑を支持していたとしても当惑し悩むのも当然です。「永山基準」を基に判断するように諭されたなら、当惑や迷いを端に追いやって、死刑という選択をせねばならないと思う人もいるでしょう。

 ここに無理があります。そもそも常識的に考えるなら、誰もが「人を殺す」ということに抵抗があるでしょう。しかも、その人は裁判で目の前にいるのです。いくら悪人だからといって、自分でその人を殺せるでしょうか? その人の首に綱をかけられますか? 絞首刑のボタンを押せますか? 死刑囚の拘置所での恐怖の日々を想像したことがあるでしょうか? 死刑の是非を真剣に問うことなしに、裁判員制度を導入してしまったことが、裁判員への重圧を招いたのです。

 では、なぜ人は「人を殺す」ということに抵抗があるのでしょうか。それはたぶん「生物は同種の生物を殺すようにはできていない」ということだと思います。どんな生物を見ても、同種同士の殺し合いというのはほとんどありません(あっても例外的です)。同種の生物を殺すというのは、生理的に無理があると私は思います。しかも、人はその感受性によって他人の痛みを想像できる生物なのです。人が人を殺すということ自体、生物として、また人として正常な行動ではありません。戦争でも権力者の利害が元凶としてあり、兵役に駆りだされる市民の多くは、人殺しという異常事態を異常と思わないようマインドコントロールされてしまうのです。

 死刑というのは国家による殺人です。どんなに残忍な殺人を犯した人であっても人間であり、死刑を下すというのは殺人を命令することなのです。裁判員はそのことに直面するからこそ、たとえ死刑を支持していた者でも悩むのです。だからこそ裁判員制度を導入する前に、死刑のことをもっと国民にさらけ出して議論しなければならなかったのです。このことを抜きにして、裁判員による死刑判決のことを語っても、虚しいだけのように思います。

 そもそも、加害者を死刑にするということにどんな意味があるのでしょうか? 殺すことが本当に償いになるのでしょうか? 報復から何かが生まれるのでしょうか? 被害者遺族の感情を死刑の判断基準に入れるのは適切なのでしょうか? 私にはいずれもノーとしか答えられません。

関連記事
ニルス・クリスティの言葉
死刑について考える(その1)
死刑について考える(その2)
死刑について考える(その3)
死刑について考える(その4) 
   


あなたにおススメの記事


同じカテゴリー(政治・社会)の記事画像
地震兵器について思うこと
医療ジャーナリスト鳥集徹さんへの疑問
新型コロナワクチン後遺症患者の会と民主的組織運営について
辺見庸氏の「1★9★3★7」インタビュードタキャンと日本共産党批判
札幌合同庁舎に設置された大仰なゲート
漁港と生態系
同じカテゴリー(政治・社会)の記事
 食料を自給できない国の行方 (2024-04-11 16:20)
 『日高山脈を含む新国立公園の名称に「十勝」を入れるべきではありません!』のオンライン署名を開始 (2024-04-08 12:03)
 個人の責任 (2024-04-06 15:34)
 日高山脈一帯の国立公園の名称を巡る不可解 (2024-03-30 20:49)
 主権を失った国の行方 (2024-01-25 11:17)
 「地震兵器について思うこと」への追記 (2024-01-10 17:23)

Posted by 松田まゆみ at 21:38│Comments(6)政治・社会
この記事へのコメント
松田 様

またまたまた、書かせていただきます。イワン雲帝です。どうしても書きたく思ったからです。

死刑と殺人は違います。まったく違います。

殺人とは私的行為で違法行為です。
死刑は公的行為で合法行為です。

刑事裁判とは被害者に代わって国家が復讐するという事です。
その代わり、被害者(もしくはその遺族)が私的に復讐する事は許さないという事です。

一言で言ってしまえば、身も蓋も無いと言われてしまいそうですが、実際にそういうことです。

このようにして復讐の連鎖を防ぎ、社会秩序を保っているのです。

現在、死刑判決が出るのは殺人事件くらいでしょう。

>殺すことが本当に償いになるのでしょうか?

被害者が殺されている以上、なにを償うというのでしょう?
逆にお伺いしたいと思います。

>いくら悪人だからといって、自分でその人を殺せるでしょうか? その人の首に綱をかけられますか? 絞首刑のボタンを押せますか?

かけられます。押せます。私は断言いたします。

被害者遺族の感情を死刑の判断基準に入れるのは当然の事です。
ただし、そのまま認められるか否かは別問題です。
裁判ですからこれも当然です。
Posted by イワン雲帝 at 2010年11月21日 20:53
イワン雲帝様

たしかに今の日本では死刑は合法です。でも、私の言いたいのは合法か違法かということではなく「人を殺す」という行為そのもののことなのです。私的行為であろうが、公的行為であろうが、人が人を殺すということが本当に人としてあるべき姿なのか、ということです。そして、死刑という制度に意義を唱えているということです。

私は復讐からは憎しみの連鎖しか生じないと考えています。また、死刑は、国家が被害者遺族に代わって復讐をする刑罰だとは思っていません。被害者遺族は確かに加害者を憎しみ大きな怒りを感じていることでしょう。しかし、人を恨み復讐することから何か有益なものが生まれるのでしょうか? 復讐の殺人は遺族にとって「気が晴れ晴れとする」ものであり、痛みや後ろめたさをまったく感じないものなのでしょうか? 加害者を憎んで恨み続け、死刑という念願が叶ったところで、そこから本当の充足感が得られるのでしょうか? あなたはそう思えるのかも知れませんあ、私にはそうは思えません。

 遺族の苦しみやつらさはおそらく経験した人でなければ分からないでしょうし、それは筆舌に尽くしがたいものがあると思います。しかし、できることならそうした想いを復讐に託すのではなく、犯罪をなくしていくことにつなげていってほしいと思います。遺族がその苦しみから脱するには、いつかは気持ちを切り替えて前を向くしかないのではありませんか?

また、厳罰化が犯罪の減少に役立っていないことは「ニルス・クリスティの言葉」にも書いています。

加害者もこの世に生を与えられた人間であることに変わりはありません。犯罪者とて、人としての扱いを受けてこそ自分の罪に向き合えるのではないでしょうか。加害者が被害者遺族と向き合い、反省し謝罪する過程で人間らしさを取り戻し、また何が「償い」になるのかを悟ることができるのではないかと私は思います。
Posted by 松田まゆみ at 2010年11月22日 15:28
松田 様

ご返事、ありがとうございます。
しばらく仕事で不在にしておりました。本日は休みなのでまた書かせていただきます。

>遺族の苦しみやつらさはおそらく経験した人でなければ分からないでしょうし、それは筆舌に尽くしがたいものがあると思います。

私の母は殺されました。

作り話ではないという証拠に、ちょっと事件のことを書きます。
事件は10年以上前の1月1日、元旦の事件ですのでTVや新聞で報道されました。
犯人はその日のうちに逮捕され、傷害致死罪となりました。

これだけでピンと来る方もおられるかと思いますので、ここまでにします。これ以上は書けません。
Posted by イワン雲帝 at 2010年11月29日 11:19
イワン雲帝様

一週間ほど不在にしており、お返事が遅くなりました。

イワン雲帝さんは被害者遺族の方だったのですか。それを知って、これまでのイワン雲帝さんのコメントの意味がよく理解できました。イワン雲帝さんにとっては、被害者遺族でもない私の意見に異議を申し立てたいのは当然のことと思います。また、もちろん私はイワン雲帝さんのお気持ちに対してどうこういう立場ではありません。

ただ、ひとつだけ申し上げたいことがあります。

もし私が何らかの事件に巻き込まれて殺されたとしても、私は私の家族が犯人へ復讐をすることを望みませんし、死刑を求めて欲しいとも思いません。私の家族が復讐をしたり、「人を殺す」という判断をするような人間であって欲しくはありません。

私が犯人に望むことは、罪と向き合って反省し、いずれ社会に復帰して犯罪を減らすための活動に参加したり、被害者や被害者遺族の方たちの支援活動などに参加してほしいということです。そういうことが償いだと思います。

私は犯罪被害者が必ずしも加害者を死刑にしてほしいと願っていたり、死刑になれば報われると思っているわけではないと考えています。
Posted by 松田まゆみ at 2010年11月30日 23:45
松田 様

いつも、ご丁寧なご返事、ありがとうございます。
もうすこし、書かせて下さい。

母の事件の裁判は私も傍聴いたしました。
被告人は事実関係については争わず、一貫して「殺意はなかった」と主張しました。
確かに、抵抗した母が転倒して頭を打って、脳出血で死んだわけですから「殺意はなかった」はそのとおりです。年月が経って、私も客観的な見方が出来るようになりました。

求刑の後に、裁判長は被告人に「被害者とその遺族に何か言うことはありませんか」と問いました。
その返答は「何もありません」と言うことでした。

「ちょっと突き飛ばしただけなのに、勝手に転倒して、勝手に頭を打って、勝手に死んじゃって、それで傷害致死罪で求刑8年かよ。そりゃないぜ」
そんな心境だったのではないでしょうか(これは私の想像です)。

判決の時は、いっさい言葉はありませんでした(懲役5年、一審で決定)。

いずれにしても、今まで一回も謝罪はありません。謝ったのは被告人の家族だけでした。被告人の父親は世間的に信頼されている職業の、それも高い地位にいた方でした。
「あなたに謝られても、何にもならない」と答えたのを覚えております。
被告人の父親はその後、お亡くなりになったと伝え聞いております。

>私が犯人に望むことは、罪と向き合って反省し・・・・・償いだと思います。

松田様のそのお気持ちは分かりますが・・・・・・
有罪になっても必ず反省するとは限りません。なかなかそうは行かないのも現実だと思います。

私は「許す」とか「許さない」とかではなく、忘れることにしました。それしか手はありません。

ただ、「絶対に許さない。必ず復讐してやる」と思う人がいたとしても、私は理解できます。
しかし、本当に復讐してしまったら、社会の収拾が付きません。ですから司法制度があり、「死刑」もその一環だと思っております。

確かに、裁判員にとっては重圧かも知れませんが、国民としてその重圧に向かい合わなくてはいけないと思います。

私が言いたかったのは、そういうことです。
Posted by イワン雲帝 at 2010年12月01日 21:26
イワン雲帝様

詳しい事情をお知らせくださりありがとうございます。加害者がまったく反省を示さず謝罪もしないのでは、ご遺族の方が納得ができないのも当然のことと思います。

おっしゃる通り、有罪になった犯罪者が必ず反省するとは限りません。「死刑について考える(その4)」でも書いたように、宅間守などはまったく反省の姿勢を見せず、虚勢を張って自分を正当化していました。しかしだからといって宅間守がまったく人間性のない鬼畜のような人物だというわけではないと思っています。宅間守と獄中結婚した女性に対しては、人間らしい側面も見せていたのです。彼に虚勢を張らせたのにはおそらく何らかの理由があるのでしょう。

犯罪被害者遺族の方に、こんな理屈を言うのは酷であり失礼かもしれませんが、(その4)にも書いたように、犯罪者の背景にあるもの、動機や生育歴、あるいは反省せずに犯罪者に虚勢を張らせるものを私たちはもっと考えていく必要があると思います。宅間守にとっては、生きていくことのほうがつらかったのかもしれません。そうだとしたら、なにがそうさせたのか、そういう人物を死刑にすることにどんな意味があるのか? 私はそう考えざるを得ないのです。

残念ながら、日本の刑事裁判ではそういったことへの言及があまりにもなおざりにされていると思います。裁判員裁判では公判前整理手続きによってさらにその傾向が強まったのではないでしょうか。限られた情報しか与えられていない市民が、ほんの数日で、「更生の可能性はない」などと結論づけられるものでしょうか。彼らは被告人の生い立ちや犯行時の環境、精神鑑定などについてどれだけ説明され理解したのでしょうか。

市民が裁判に参加すること自体に反対をするつもりはありませんが、犯罪者を生み出す背景を軽視する司法の現状をそのままにし、また死刑についての議論を深めないまま、量刑まで市民に判断させることはやはりやりすぎとしか思えません。

以上は私の考えであり、イワン雲帝さんのご意見を否定するものではありません。
Posted by 松田まゆみ at 2010年12月02日 12:21
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
裁判員の苦悩はどこからくるのか
    コメント(6)