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鬼蜘蛛の網の片隅から › 原子力発電 › 国民投票、福島県民集会…批判の矛先が違うのでは?

2012年01月22日

国民投票、福島県民集会…批判の矛先が違うのでは?

 ツイッターでは原発の国民投票や3月11日に福島で開催予定の県民集会について、脱原発支持者の人たちから批判の声が聞かれる。

 批判されている国民投票は以下のサイトのものだ。

みんなで決めよう「原発」国民投票

 この団体が示している「国民投票の実施手続市民案」に「現在ある原子力発電所について、これをどうすべきだと考えますか?」という設問があり、選択肢が「運転、稼働を認める」と「段階的に閉鎖していき、2022年までにすべて閉鎖する」の二つになっている。これについて「即刻廃止するという選択肢がない」、とか「2022年では遅すぎる」「原発を生き延びさせる提案ではないか」「今は再稼働阻止をすべき」などといった批判的意見が出ている。

 「即刻閉鎖」という選択肢がないことについては、「よくあるQ&A」のページで説明している。これについて批判するのなら、この説明についての反論をすべきだろう。

 私ももちろん原発は一刻でも早く閉鎖してほしいと思っているし、原発がなくても電気は足りると考えているので2022年という設定が適切とは到底思わない。しかし、国民投票で問うべきことは「原発を廃止すべきか存続すべきか」ということでしかないだろう。国民一人一人がどちらを支持するのか、ということだ。とにかく原子力ムラの力は強大であり、現状では「即刻廃止」で脱原発を勝ち取るのは難しい。閉鎖の時期にある程度の幅を持たせるとのはやむを得ないと思う。この春にすべての原発が止まり、それでも問題なくやっていけることが分かれば、2022年にこだわる必要もなくなるのではなかろうか。

 それに、そもそもこれは「市民案」でしかなく、仮に国民投票が実施されることになっても、この案通りになるという訳ではない。また、再稼働阻止は国民投票とは別のこととしてやっていかなければならないだろう。

 事務局長である今井一さんが、以下のサイトで原発国民投票について説明しているが、彼のスタンスは、「大事な問題は基本的に一般の選挙ではなく国民投票で決めるべきだ」ということだ。私もこの考え方に基本的に賛成だ。「国策」を覆して国民の声を反映させるためには国民投票の意味は大きいと思う。

~今井一さんに聞いた~「原発国民投票」は、日本で行えるか?

 原発に反対の人が、なぜ「大事なことは国民が決めよう」という国民投票を批判するのだろう。批判の矛先が違うのではないかと思えてならない。

 もう一つ、同じように感じたのが以下のイベントだ。

3.11福島県民集会(仮称)(原水禁)

 このイベントを紹介した以下のサイトのコメント欄には、反対の意見が多く書き込まれているし、ツイッターでも批判的意見が聞かれる。

3.11福島県民集会の概要(さよなら原発1000万人アクション)

 批判的意見の主たるものは、3月11日は大震災による犠牲者を悼む日であり、そのような日に福島でパレードやコンサートをするのは無神経で不適切だというものだ。

 このような気持ちは分からなくはない。確かに3月11日は大地震と大津波で大勢の犠牲者が出た。だから静かに追悼したいという人がいるのは当然のことだ。しかし、その大地震と大津波によって原発が壊れ原発震災が現実化した日でもあり、世界を震撼とさせる大事故、大惨事が起きた日でもある。昨年はとりわけ各月の11日にさまざまな反原発の集会やデモが繰り広げられてきた。1年目のこの日に限ってどうして犠牲者を悼むだけの日にしなければならないのだろう。この日に犠牲者を悲しみ悼むのは当然のことだが、世界最悪の原発事故に対する怒りや脱原発を福島で訴えるのもまた自然だと思う。

 コンサートが相応しくないと意見もあるが、追悼のためのコンサートがあってもいいし、怒りのコンサートがあってもいい。そもそも「福島県民」の集会を謳っており、こうした集会を支持している県民がいるのだ。そのことも尊重すべきではなかろうか。

 東京からのバスツアーに対する批判もあるが、こうした批判には原発を受け入れた福島県民と、電気の消費者である首都圏の人々という対立のような構図まで感じられる。しかし、福島の人たちも、首都圏に住む人たちも東電や政府に騙された被害者ではないか。住んでいるところや立場が違っても、決して被害者と加害者のような関係ではないし、どちらかが悪いというわけでもない。

 無神経なイベントと受け止める人がいる一方で、違う考えの人もいる。自分の感覚と合わないイベントは止めろというのは表現の自由、言論の自由の侵害ではなかろうか。賛同できない人は関わらなければいいだけのことだと思う。静かに犠牲者を悼みたいという人は、そうすればいいのだ。

 原発に反対の人たちが、このようなことで脱原発の活動を批判することにどれだけの意味があるのだろう。批判すべきは東京電力であり、政府であり、原子力ムラの人々だ。脱原発ということでは同じ意見の人たちがいがみ合うのは建設的ではないし、原発推進派の思う壺だ。もっと大局的な見方をしてほしい。


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Posted by 松田まゆみ at 22:46│Comments(0)原子力発電
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