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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱

2018年07月11日

集中豪雨による人的被害は防げる

 今回の西日本豪雨災害がいかに広範囲でしかも大きな被害をもたらしたか、その全容が明らかになりつつある。人的被害も大きいが、家屋の浸水被害のほか交通網や水道、電気などといったライフラインの被害もかなり大きいようだ。

 近年は異常気象による水害が毎年のように起きている。その度に避難の体制は万全だったのだろうかと思わざるをえない。大雨による災害は避難さえ徹底できれば命を落とすことはほとんどないと思うからだ。

 3.11の大津波のとき、私は家も田畑も何もかも飲み込まれていくあの映像を見て「あれだけ揺れたのだから、きっと避難しているに違いない・・・」と心の中で祈っていたけれど、信じがたいほど多くの犠牲者が出てしまった。その後も日本列島は熊本地震や集中豪雨に襲われて何人もの方が亡くなっている。災害大国であり、あれだけの被害を経験しながらなぜ避難が徹底できないのだろうか。

 日本の河川では、100年に1度とか数百年に1度くらいの大雨を想定してダムや堤防などの整備がなされている。しかし、それ以上の雨が降った場合はダムや堤防では対応できない。つまりダムや堤防で洪水を防ぐのは限界がある。限度を超えてしまえば堤防から水が溢れたり決壊するのだから、想定を超える雨が降る恐れがあれば避難するしかない。

 とりわけ川の流量を一気に増大させるのがダムからの放流だ。想定外の大雨によってダムが満水になると堤体を守るために放流せざるを得ない。ダムからの放流は鉄砲水となって流れ下り河畔林をなぎ倒して大量の流木を発生させる。大雨で普段より水かさが増している川にダムからの放流が加わったら、下流はとんでもない量の水と流木が押し寄せることになる。支流にいくつものダムがあるような河川の場合、それらが一斉に放流したなら、下流部の水かさは一気に増える。こうなると堤防から水が溢れるのは時間の問題だ。水が堤防から溢れると、そこから堤防が抉られて決壊につながることが多い。

 氾濫する場所の多くは過去にも水害を起こしている。とりわけ川の合流点は氾濫が起きやすい。本流の水位が上昇すると支流の水が飲み込めなくなり、本流から支流に水が逆流することもある。内水氾濫だ。今回大きな被害を出した倉敷市の真備町も、高梁川と小田川の合流点だ。そして、今回の浸水域とハザードマップの浸水域はほぼ重なっていたという。これは洪水被害が想定されていたということに他ならない。

 過去に内水氾濫が起きている場所でも、洪水経験のない住民たちは内水氾濫のことを知らない。ダムの放流が洪水被害を増大させることも知らない。ダム建設を推進してきた国や地方自治体などは放流の危険性についてほとんど口にしない。「ダムや堤防があるから洪水は防げる」という安全神話ばかりが吹聴され、危険性が住民に周知されていないのだ。原発とよく似ている。

 今は気象庁が雨雲の動きを公開していて大雨の予測は可能だ。大きな川には水量計が設置され、監視カメラもある。ダムにももちろん水位計があり、放流量も分かる。また、自治体は浸水や土砂崩れなどのハザードマップを作成している。今回の場合、気象庁は5日の午後2時に記者会見を開き記録的大雨になるとして警戒を呼び掛けた。こうした情報を活かして早め早めの避難を行っていたなら、これほどの人的被害は出なかったはずだ。

 自治体は日頃から住民にハザードマップを配布して注意を呼び掛け、危険が増したときにはどこに避難するのかを周知させる必要がある。河川管理者は川の水量やダムの放流量、それに伴う危険性を自治体に速やかに知らせ、自治体はあらゆる手段をつかって避難をよびかける必要がある。特に大雨が夜に及ぶ場合は早め早めの避難が欠かせない。さらに、一人暮らしの高齢者や体の不自由な方などを日頃から把握して避難の援助をする体制をつくっておかなければ弱者が取り残される。学校、病院、老人ホームなどの施設でも、避難の体制を整えておく必要がある。こうした体制づくりはそれほど大変なことだとは思えない。

 今回の災害に関しては救助や支援物資の輸送も遅いという印象を免れない。災害の発生が分かった時点ですぐにでも自衛隊が出動できるようにすることも、難しいことだとは思えない。今回は5日の日中に気象庁が警告していたのに、5日夜に安倍首相をはじめとした首脳陣は宴会をしていた。6日には各地で甚大な被害が出ていたが、非常災害対策本部を立ちあげたのは8日になってからだ。7日時点で救助などに活動に当たっていた自衛隊員は600人程度であり、21000人は待機していただけだったという(こちら参照)。国は危機管理や人命救助の意識が欠落しているというほかない。

 今回のように広範囲にわたって大きな被害が出た場合は、復旧にも時間がかかるし、ライフラインの寸断で住民の生活に大きな支障がでる。長引く避難生活で体調を崩す人も出るだろう。被災者への対策も欠かせない。これらは東日本大震災や熊本地震でも経験済みだ。地震活動も火山活動も活発になっており、日本はいつ再び大地震や大津波に襲われてもおかしくないというのに、いったいこの国はこれまでの災害から何を学んでいるのだろうか?

 このような水害が起きるとすぐに堤防のかさ上げや強化、河畔林の伐採や川底の掘削といった土木工事で対応しようとする。しかし堤防と堤防の間に水を抑え込む治水に限界があるから水害が起きるのだ。想定を超える大雨の場合は堤防から水が溢れることを前提にした対策を考えるしかない。

 今のような土木技術がなかった頃は、人は洪水を受け入れて生活をしていた。つまり河川と人の生活域を堤防で分離するのではなく、洪水が起きやすいところは遊水池や農地にするなどして共存してきたのだ。人が水をコントロールしようとすればするほど、それがうまくいかなかったときの被害は大きくなる。自然に大きく逆らうことなく暮らしていた昔の人たちの知恵こそ、私たちは学ばねばならないのではないかと思う。
  

Posted by 松田まゆみ at 23:03Comments(0)河川・ダム

2018年07月01日

蚊より厄介なブユとヌカカ

 このところ虫刺されによるかゆみに悩まされている。とりわけ夜になるとかゆみが増す。いつ刺されたのか分からないのだが、脚に20カ所近く、腕や上半身にも点々と刺された痕がある。

 その犯人が昨日判明した。いつもは庭の草取りは長袖、長ズボン、長靴のいでたちなのだけれど、昨日はとても暑かったのでつい半袖で草取りをしていたらブユが腕に寄ってきた。その後、家の中で脚を刺そうとしていたブユも捕まえた。10日ほど前からのかゆみはどうやらブユだったようだが、家の中にまで入ってこられると悲劇だ。

 ブユは刺されるときにほとんど痛みがない。しかも刺されてすぐかゆくなるわけではなく、しばらくしてから紅くなってかゆみが出てくる。刺されたことが分かっていたらインセクトポイズンリムーバーなどを使うと効果的なのだろうけれど、それがまずできない。気がついたときは刺されてからだいぶ時間が経っている。

 仕方がないのでステロイド入りのかゆみ止めを塗るのだが、薬を縫っても数日間はかゆみがとれない。ただし、塗らないでいると悲惨なことになる場合もある。以前、たかが虫刺されだからそのうち治るだろうと放っておいたらいつまで経ってもかゆみがとれず、掻きこわして数カ月も傷口が治らず酷い目にあったことがある。

 東京に住んでいた頃は、虫刺されといえば蚊だった。ところが北海道では蚊よりもブユやヌカカの方が大敵だ。

 ヌカカはブユよりも小さく、網戸の目もすり抜けてしまう。だから暗くなって明かりをつけたら窓は閉めるようにしている。夜の涼しい外気を入れて室温を下げたいときは、部屋の戸を閉め切り明りをつけずに窓を開けておくようにしている。これでヌカカの侵入はだいぶ防げる。

 ブユやヌカカが厄介なのは、刺されても気がつかないことが多く1週間くらいはかゆみがひかない点だ。しかも私の住んでいるところは蚊に刺されるよりブユに刺されることの方が多い。すぐ近くに川が流れていることも関係しているのだろう。特に夕方などに庭の草取りをしていると刺されやすい。

 北海道ではかつて山奥で造材作業を行っていたが、作業をしている人たちは大量のブユ、ヌカカ、蚊に襲われたそうだ。考えただけでもぞっとする。今は虫刺されに効果のある薬もいろいろあるが、昔はさぞかし大変だったことだろう。

 北海道は夏が短いとはいえ、雑草の伸びるスピードは凄まじい。6月から9月までは頻繁な草取りが欠かせないので、完全防備スタイルでやるしかない。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:53Comments(0)昆虫

2018年06月22日

自民党政権を支持し続けたら国民は見殺しにされる

 気象庁は日本付近で発生した被害地震の一覧を公表している。震度4や5でも被害が生じることがあるが、6以上になると大きな被害が生じることが多い。そこで2006年以降、震度6以上の被害地震がいくつあるのか数えてみた。


1997年 1回
1998年 1回
2000年 4回
2001年 1回
2003年 3回
2004年 1回
2005年 2回
2007年 2回
2008年 2回
2009年 1回
2011年 7回
2013年 1回
2014年 1回
2016年 4回

 20年間で31回なので一年あたりにすると約1.5回。東日本大震災のあった2011年の7回を除いたとしても、年に1回以上は震度6以上の大きな地震が起きている。

 日本は4つのプレートの境界に位置しているのだから海溝型の地震が必ず起きるし、プレートに押されて内陸では断層ができ、火山が噴火する。その火山もときとして破局噴火に至る。私たち日本人はそんな地震国、火山国に暮らしており、これらの自然災害から逃れることはできない。

 大地震も火山噴火も必ず起きるが、いつどこで起きるのかは現在の科学では予知がほとんどできない。常識的に考えれば、こんな国に原子力発電所をつくることは明らかに間違っている。2007年の新潟県中越沖地震による柏崎苅羽原発の事故も、過酷事故寸前だった。それでも日本は原発を運転しつづけた。そして2011年には福島の原発事故が起きたのだ。もし原発の直下で断層がずれる内陸型地震が起きたなら、原発などひとたまりもないだろう。すぐ近くであっても大事故が懸念される。

 その後も2016年に熊本地震がおきて大きな被害が出た。つい先日は大阪で震度6弱の地震があった。これほどまで地震が頻発しても自民党政権は原発を止めようとせず、再稼働へと動いている。福島第一原発が収束の目途が立たない過酷事故を起こして大きな被害を生じさせ日本が危機的状況になったというのに、まだ原発にしがみついている。過去の事故と教訓に全く学ばないとはこのことだ。

 福島の原発事故のあとドイツでは脱原発に舵を切った。地震の少ないドイツですら福島の事故から学んでいるのに、当事国がまったく学ばないというのはどういうことなのか。利権にしがみつきまっとうな判断ができなくなっている政権はもはや狂気としかいいようがない。

 このまま日本が原発を続けるのであれば、いつか再び大きな事故を起こすだろう。そして、原発を推進してきた政府は間違いなく都合が悪い情報を隠蔽し事故を過小評価するだろう。それは福島の事故で実証済みだ。原発事故で人が亡くなっても、健康被害が生じても「事故との因果関係は認められない」といって保障もしない。それどころか被ばくの影響を過小評価し避難した人たちを放射能汚染された場所に戻そうとする。これが政府のやり方だ。そして事故の処理のための巨額の費用が税金から支払われる。国民は踏んだり蹴ったりだ。

 原発問題ばかりではない。安倍政権は生活保護や障害年金といった社会保障まで削減している。海外へのばら撒きや米国からの武器の購入をやめて社会保障や貧困対策に充てればどれだけの人が救われることだろう。それだけではない。「働き方改革」という名のもとに労働者を定額で働かせ放題にしようとしている。その労働者いじめの法案を無理矢理通すために国会の延長までするという暴挙に出た。

 原発推進も社会保障の削減も、労働者を奴隷のように扱う高プロ制度も国民を見殺しにするに等しい。その国民見殺し政権の支持率は4割近くもある。安倍政権で恩恵がある人たちだけではなく、一般の国民でも支持している人たちが一定程度いるのだ。国民が自民党政権のやっていることに大きな疑問を抱かなくなっているのなら、正常な判断力を失っているとしか思えない。
  

Posted by 松田まゆみ at 06:48Comments(0)政治・社会

2018年06月06日

えりもの森裁判が結審

 諸事情により長らく「えりもの森裁判」に関する記事をさぼっていたが、昨日結審となり10月2日に判決が言い渡されることになった。

 提訴をしたのが2005年の年末。入口論で1年ほどかかったが、2011年の地裁の判決は賠償命令を却下。それ以外の請求も棄却。この地裁判決は違法性の有無を判断しておらずとても納得できるものではなかったので控訴した。

 控訴審では、裁判長は立木の財産的価値の損害の有無に焦点を当て、過剰伐採による損害額を判断しなかった一審判決は失当として地裁に差し戻しを命じた。実質的に原告の勝訴だった。

 ところが被告である北海道は最高裁に上告。最高裁も二審の高裁の判断を支持して地裁に差し戻しを命じ、2015年から再び地裁で審理が行われていた。そして昨日の口頭弁論でようやく結審。一審の不当判決と被告の上告によって判決までにかれこれ13年もかかるという異例の長丁場の裁判になった。被告の上告は時間稼ぎとしか思えない。

 差し戻し審では違法性や道職員の責任など難しい法律解釈を迫られ私には理解できないことだらけだったが、弁護団の先生方が弁護団会議を重ねて尽力して下さった。

 提訴から13年もたつと思うと、それだけで感慨深いものがある。裁判の判決はどうなるのか予想がつかないが、高裁も最高裁も一審の判決を不当と判断していることから、損害を認定することを期待したい。

  

Posted by 松田まゆみ at 20:35Comments(0)えりもの森裁判

2018年06月03日

コミュニケーションを避ける人たち

 前回の「栗城史多さんの『否定の壁』について思うこと」という記事で、批判と非難の違いについて書いた。円滑な人間関係を築くためには他者を非難してはならない。そして、議論とか対話といったコミュニケーションこそが大事なことは明白だ。ところが、どうもこの国にはコミュニケーションができない人たちが溢れている。

 なぜこうもコミュニケーションができないのだろうか? なぜ異なる意見を尊重する文化が育っていないのだろうか? 先の記事では敵対心や競争心などが非難に走る要因であると書いたが、コミュニケーションを避けるという国民性も関係しているのではないかと思えてならない。このコミュニケーションを避けるという意識には日本人の同調性が大きく関係していると思っている。

 かつて、日本の村落ではいわゆる村八分が存在していた。村の掟に従わなかったり村の秩序を乱したりした人は火事と葬式を除き交際を絶つという制裁だ。現在では人権侵害の違法行為とされる。要は、集団によるいじめに等しい。

 村八分のあるコミュニティーでは、有力者に従っていれば村八分になることはない。たとえおかしいと思ったことでも、村八分を恐れて口を閉ざしてしまうことになる。リーダーに従っていればいいのだから、自分の意見は持たなくても支障はないということでもある。学校でのいじめなども村八分と同質だ。

 村八分社会においては自由な発言自体が自主規制される。村八分社会からは「言論の自由」という発想も、「他者の意見を尊重する」という意識も育ちにくい。育つのは他人の顔色をうかがって周りに合わせる同調意識だ。日本人は率直な意見を言って議論をするということが苦手だが、それはかつての村八分社会から意識的に脱していないということもあるのではないか。

 言うまでもないが、現代は村社会の掟はなくなり自由に意見を言う権利が保障されている。ところが人に染みついた同調意識はいきなり変わることはできない。親が「皆と同じにしていれば波風も立たないし損をしない」という価値観であれば、子どもにもそう教えることになる。いつまでたっても同調を優先する生活から逃れられない。

 それともう一つ、多くの日本人が議論とか対話といったコミュニケーションが苦手なのは、学校で自分の考えを述べるとか議論や対話をするという教育がなされてこなかったことも大きいと思う。日本の教育現場では「従順な人間」を育てることを目標にしてきたといっても過言ではないだろう。これでは「議論や対話をする」ことはもとより「言論の自由を享受するためには他者の意見も尊重しなければならない」ということも学べない。

 家庭でも学校でもこんな状態なら、物ごとの善し悪しを理性的・論理的に検討するという習慣が身につかないし、議論も対話も苦手ということになる。波風を立てないことが美徳とされ、自分を殺しても声の大きい者に従ってしまう。自分の意見を持たなくても何とかなってしまうのが日本の社会なのだ。

 このような人たちは、容易にネットカルト化すると私は考えている。弁護士に不当な懲戒請求をした人たちが、弁護士から不法行為で提訴を通告されたことが話題になっている。懲戒請求をした人たちは「余命三年時事日記」というブログの影響を受け、ブログ主の主張を信じて懲戒請求の呼びかけに従ったとされる。懲戒理由は「違法である朝鮮学校補助金支給要求声明に賛同し、その活動を推進する行為は、日弁連のみならず当会でも積極的に行われている二重、三重の確信的犯罪行為である」というもの。この「余命三年時事日記」のブログ主は典型的な差別主義者だが、そこに集う人たちは彼が差別主義者であることすら判断できない。懲戒請求が適切なものかどうかも調べず、扇動に乗って行動してしまう。

 「余命三年時事日記」に集まる人たちは、恐らくツイッターなどで左派の人たちに粘着したり罵倒を浴びせたりしているネトウヨと言われる人たちと重なっているのだろう。恐ろしいのはカルト宗教と違って何の拘束もないのに、ブログ主の主張を頭から信じて自主的にカルト化してしまうことだ。ネトウヨと言われる人たちは、理性的・論理的に物ごとの善し悪しを判断することができない人の典型だと思う。

 匿名で発言ができるネット空間では、自分を抑制する必要がない。対話のマナーを身につけていない人たちがネットという言論空間を手に入れて自己主張をしたら、自分と異なる意見の人たちを否定し攻撃することになる。実社会では自分の身を守るために自己主張をしない人が、ネットでは豹変して攻撃的になる。こういう人たちは、私たちの身近にいる。

 私はネット空間において理性的・論理的な主張ができず非難しかできないような人に遭遇したら、無視するしかないと思っている。他者を罵る人の大半は匿名だ。このような無責任な相手と対話をすべく努力しても徒労に終わるだけだ。

 しかし、実社会においては必ずしもそうではない。学校にも職場にも地域コミュニティーにも「他者の非難ばかりする人」「好きになれない人」というのはいるものだ。そういう人と積極的に付き合う必要はないと思うが、関わりをもつ必要が生じたときは一人の人間として対等に接し、困っていたら助けるというのが大人の態度だと思う。

 弁護士への不当懲戒請求の件も、和解に応じて謝罪してきた人たちの中には洗脳から解かれ反省し改める人もいるだろう。実社会で人と接することで、差別意識に気づく人、誠実なコミュニケーションができる人を増やしていくしかないと思う。

  

Posted by 松田まゆみ at 14:44Comments(0)雑記帳

2018年05月24日

栗城史多さんの「否定の壁」について思うこと

 5月21日に登山家の栗城史多さんがエベレストで亡くなった。栗城さんのの訃報を知り、正直いって残念とかお気の毒という気持ちにはなれなかった。あえて率直な気持ちを表現するなら「虚しい」「痛ましい」だ。

 彼は6大陸の最高峰の登頂を果たし、最後に残っていたエベレストへの単独、無酸素での登頂に挑戦し続けていた。彼には多くのファンがいると同時に厳しい批判もあったようだ。私は彼のことを知ったときからずっと違和感を持ち続けていたのだが、その違和感は彼の登山の目的にある。

 栗城氏のオフィシャルサイトのトップページには「否定という壁への挑戦」というタイトルのもとに、挑戦をし続ける目的が書かれている。

 彼は大学3年のときに単独で北米最高峰のマッキンリーに向かおうとしたら、周りの人から否定されたという。それ以来、周囲の人からの「否定の壁」を乗り越えることが彼の信念となり、さらに登山の生中継を配信することで「否定の壁」につきあたっている人たちに自分の挑戦を見せ、「否定の壁」を共に乗り越えることに意義を見いだしていたのだと思う。つまり、彼にとって登山そのものは目的ではなく、「否定の壁」をなくすための手段だったのだろう。もちろん彼の行動は善からのものだし、自分の挑戦は他者への貢献にも繋がると考えていたのだと思う。

 私がもっともひっかかったのは「否定」と言う言葉と「否定の壁をなくす」という目的だ。さほど登山経験もない若者が一人でマッキンリーに登ると言い出したなら、一流の登山家はもとより一般の人も無謀だと諭すのはごく当たり前のことだ。マッキンリー登山に反対した人の中には辛辣な言い方をした人がいたかもしれないが、多くは常識に照らして意見を言ったのではなかろうか。彼の登山という行為や冒険心を否定したわけではないと思う。ところが彼はその意見を「自分の否定」として受け止めてしまった。

 また、何度もエベレストに挑戦しては敗退する彼には登山関係者からも批判の声が上がっていた。彼の体力や技術から考えると成功の見込みはほとんどないと。以下参照。

栗城史多という不思議(森山編集所)
栗城史多という不思議2 (森山編集所)

 しかし、彼は専門的知識のある人たちの意見も「自分を否定している」と捉えてしまったのではなかろうか。そして「否定の壁」を乗り越えることこそ自分の使命だと確信するようになってしまった。さらに自分を支持し応援してくれる人は仲間だが、批判する人は挑戦を阻む「壁」であり「敵」だと思ってしまったのではないか。

 彼がエベレスト登頂に固執し、無謀なルートに拘ったのは「批判」を「否定」と勘違いしたことが発端になっていると思えてならない。また、彼の執念の根底には、自分を否定した人たちを見返してやりたいという気持ちがあったのかもしれないとも思う。もし勘違いが無謀な挑戦を生み、そのために命を落としたのであれば、これほど虚しく痛ましいことはない。

 そんなこともあって、批判と非難(否定)について書いてみたい。

 アルフレッド・アドラーの言葉に以下のようなものがある。

自分と違う意見を述べる人は、あなたを批判したいのではない。違いは当然であり、だからこそ意味があるのだ。


 社会は自分と異なる様々な意見や価値観の人によって構成されている。たとえば思想などで自分と共通点の多い人であっても100%意見が同じということはほとんどない。十人十色というが、人はそれぞれ意見が違う。異なる意見や価値観の人も認めなければならないということを言っている。

 ところが、人によっては「意見が違う=批判された=非難(否定)された」と受け止め、自分が攻撃されたと勘違いをしてしまうことがある。意見の違いを否定とか攻撃と捉えてしまうと、単に意見が違うだけの人を「敵」とみなしてしまうことになる。

 ただし、このアドラーの言葉で注意しなければならないのは、「意見」や「批判」という言葉の使い方だ。厳密に言うなら、ここで使われている「意見」は「批判」を指し、「批判」は「非難」を指していると私は考えている。言いかえれば「批判をする人はあなたを非難したいのではない」ということだ。「批判」と「非難」を同じような意味合いで使っている人も多いと思うが、実は両者はまったく異なる。その理由を以下に説明したい。

 批判と非難の違いは一般的には以下のように定義されている(コトバンク)より。

【批判】
・物事に検討を加えて判定・評価すること
・人の言動、仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること
・哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること

【非難】
・人の欠点や過失などを取り上げて責めること


 この言葉の定義からすると、批判は論理的に評定をすることであり、非難は論理を欠いて他者を責め立てることだと言えるだろう。

 批判と非難の違いに関しては以下の記事がより踏み込んでいて興味深い。

中学生にもわかる「批判」と「非難」ってどうちがうのか?(高橋英樹 哲学ブログ絶対精神の純粋理性批判)

 著者の高松英樹氏による批判と非難の違いを箇条書きにすると以下のようになる。

【批判】
・考える性(さが)である理性が、理性自身の妥当性を考え判断すること。平たく言えば、「考える」こと自体を考えることによって、ある事柄がどう正しく、どう正しくないか、それをはっきりさせること。
・ただ知りたいがためだけに、ことを明白にしたいがために、言われていることの理屈の正しさを問うこと。
・批判の対象は、他人でも自分でもない。

【非難】
・「知りたいための否定」ではなく「否定のための否定」
・批判に対して腹を立てて「勝つための」議論をすること。
・「非難」の対象は自分以外の他人に向けられる。
・非難のために理屈の正しさを無視したり、ねじ曲げたり、理屈がない場合は非難ですらなく揶揄、誹謗、中傷になる。


 これらの定義から、「批判」とは理性的、論理的に妥当性を判断することだといえそうだ。理屈を示していても理性や論理性を欠き他者を責めたてるだけの発言は非難である。理性的、論理的に妥当性を判断する(つまりは批判する)ことは、私たちが過ちを犯さず主体的に生きていく上で非常に重要なことだ。批判的な見方ができるということは自己が確立されているということでもあると思う。

 自分の意見に対し他者から名指しで批判された場合でも、それに納得できなければ論理的に反論をすればいい。そうやって理性と論理でやりとりするのが議論だ。議論によって自分が間違っていると気づけば自分の意見を変えればいい。議論しても平行線ということはよくあるが、それはそれで考え方が違うことを互いに認め合うしかない。議論は決して勝ったとか負けたとかの勝負ではない。ところが自分の過ちを認めたくない人や相手を打ち負かさないと気が済まない人は、理性や論理を無視して非難することで勝とうと躍起になる。こういう人とは議論とか対話が成立しない。

 ある人と電話で話しをしていて、どうしても意見が一致しない状況になったことがある。そこで「見解の相違なのでこれ以上話しても仕方ないですね」と話しを切り上げようとしたら、「見解の相違」を頑として認めず自分の意見を押しつけて食い下がってきて驚いたことがある。この方は自分が勝たないと気が済まない性分なのだろうと思った。

 競争意識や敵対心の強い人、自分の非を認めない人、他人を支配したい人などは、論理的主張であっても自分とは意見が違うというだけで「非難された」「否定された」と受け止めてしまうのだろうと思う。

 このように批判と非難はまったくの別物である。そして批判は必要だが非難はすべきではないということになる。互いに非難し合ったなら、決して理解しあったり歩み寄ったりすることはできないし、人間関係は悪化する一方だ。

 日頃から非難をしないようにわきまえている人は、他人を罵倒したり揶揄したり見下すようなことはまずしない。そのような人同士での意見交換は、たとえ最終的に理解し合えなくても有意義だし喧嘩別れに終わるようなことはない。

 逆に、競争心や敵対心が強く自分が勝たねば気が済まない性格の人は、意見が違うだけで非難に走る。高松氏は、論点をそらしてはぐらかしたり、外からの情報を根拠にしたり、自己完結したただの「意見」で終わらせようとする場合は非難だとしている。

 競争心や敵対心というのは一度身についてしまうと変えることはとても困難だ。このような意識になってしまうのは競争社会だけではなく不平等な社会が大きく影響していると思っているが、人々の心からこれらをなくすことは難しそうだ。ただし、他者の非難ばかりしている人や仕返しをしなければ気が済まない人は、「復讐という不幸」に書いたように、穏やかで幸せな人生にはならない気がする。

 もし栗城氏が自分への批判を「否定」と捉えずアドバイスと受け止めていれば、彼の人生は全く違ったものになっていたのではないかと思えてならない。
  


Posted by 松田まゆみ at 16:23Comments(0)雑記帳

2018年05月17日

不当な懲戒請求で弁護士らが提訴を表明

 いわゆるネトウヨと言われる人たちが弁護士に不当な懲戒請求をしたという件で、東京弁護士会の佐々木亮弁護士と北周士弁護士が記者会見を開いた。この記者会見についての記事が以下に掲載されている。

「懲戒請求者は90億人」の手紙も…大量請求受けた弁護士2人が提訴へ「非常に不当」(弁護士ドットコム)

 佐々木、北両弁護士は、960人の懲戒請求者を相手に慰謝料を求める訴訟を起こすとのこと。また、和解も受け入れている。

 このような応報に対しては大人げないなどという批判も出ているようだ。私は報復行為は支持しないしトラブルはできる限り話し合いで解決すべきだという考えだ。ネットでの言論でトラブルになった場合なども安易な名誉毀損裁判はできる限り避けて話し合いで解決するのがベストだと思っている。

 しかし、今回の大量懲戒請求者の提訴は報復だとは考えていない。大量の不当懲戒請求によって弁護士さんたちが被害を被ったというのは事実であり、それに対して責任をとってもらうというのは当然の行動だと思う。無法者に対する正当な対処だろう。

 ネトウヨたちの最大の問題は、責任感の欠如だ。彼らは平然と差別発言をし、安倍政権を批判する人たちにツイッターなどで粘着して罵声を浴びせかける。大多数は匿名だから責任をとる気もないのだろう。犯してしまった不法行為に対しては謝罪と賠償で責任をとるしかない。日頃自己責任論を声高に唱えながら「自分の責任をとる」などということは考えてもいない人たちには、この機会にしっかりと責任をとってもらうことも必要ではないかと思う。

 また澤藤弁護士による以下の意見もあるが、ほぼ同感だ。

安易な弁護士懲戒請求は、損害賠償請求の対象となり得る。(澤藤統一郎の憲法日記)

 弁護士への不当な懲戒請求に関してはすでに判例があり、慰謝料は30万から150万円となっている。以下参照。

弁護士に対する懲戒請求が不法行為になるか(河原崎法律事務所ホームページ)

 佐々木弁護士と北弁護士の場合、和解金は弁護士1人あたり5万円とのこと。同じく提訴を表明している嶋崎量弁護士も同様に5万円。上記の判例から考えても、この和解金は良心的な金額ではなかろうか。たとえ無職でお金がない人でもアルバイトをすれば容易に稼げる金額だ。

 また、佐々木弁護士と北弁護士は、不当な懲戒請求を煽ったブログの管理人の刑事責任を追及する方針であることも明らかにしている。このブログ主の責任が追及されるのは当然だと思うが、事実も確認しないで従ってしまう人がこれほど多いことに呆れてしまう。しかも、北弁護士によると請求者は比較的年齢が高い印象だという。ネトウヨといえば若者が多い印象があるが、そのそこの社会経験があるであろう「大の大人」がそれなりにいるというのは興味深い。

 同じく不当懲戒請求を受けた神原元弁護士も提訴を宣言しているが、神原弁護士は刑事事件にすることも検討しているようだ。
https://twitter.com/kambara7/status/995087802969702400
https://twitter.com/kambara7/status/996128422484033536

 訴状など無視すればいいと言っている人もいるようだが、反論しなければ請求額がそのまま確定する可能性が高い。お金がないなら賠償命令など従わなくてもいいという人もいるが、財産(給与)の差し押さえとか刑事告訴もあり得る。和解に応じるか弁護士に対処を相談するのが賢明だろう。
  


Posted by 松田まゆみ at 15:17Comments(0)雑記帳

2018年05月06日

復讐という不幸

 以下は5月4日にツイッターでつぶやいたツイート。

コメント欄で他者とのやりとりができるブログも含め、SNSをやるようになってから驚くほど復讐心が強くかつ執念深い人がいることを知った。もう2年以上も特定の人の悪口やデマを言いふらしている人がいる。相手を貶めることで自分の優位性を誇示したいのだろうけれど、哀れにしか見えない。


他人を罵り悪口を言い続けなければ気が済まない人は、第三者からは異様なクレーマーであり偏執病(パラノイア)にしか見えない。ところが本人はそれが善だと思っており、優越感に浸り粋がっているのだろう。だから自分の性格の問題であることすら認識できない。実にお気の毒なことだ。

https://twitter.com/onigumoobasan/status/992263471717744641

 このツイートについて、もう少し具体的に説明しておきたい。

 私がブログを始めたのは2007年の5月からだから、もう10年もブログを書いていることになる。ブログでは自然に関することなどのほか環境問題や社会問題にも言及してきたし、不可解に思うことに関しては批判も含め率直な意見を書いてきた。原発事故が起きた2011年からは情報収集のためにツイッターも始めた。しかし、インターネットで自分の意見を表明すれば、必ずといっていいくらい「言いがかり」をつけてくる人がいる。

 意見が異なるのなら「自分はこう考える」と反論すればいいだけなのに、論理的に説明をすることなく誹謗中傷したり個人情報を晒す人がいる。説明を求めたり反論したことを「攻撃」と称し、「自分は攻撃された被害者」だと主張して法的手段をちらつかせて恫喝する人もいる。もちろん、いくら待っても内容証明郵便や訴状が来ることはなく、黙らせるための脅しにすぎない。要は、批判的意見を書いたことに対する逆恨みだ。

 ある自費出版社に対して不可解な訴訟を起こし和解したにも関わらず、ブログで延々とその出版社の批判を書いている人もいる。その執念深さには呆れてしまうが、その人の目的はトラブルを解決することではなく出版社の落ち度を晒すことで優越感に浸ることなのだと考えれば納得がいく。公益目的の批判を通り越したモンスタークレーマーだ。

 ツイッターでも恨みから報復ツイートをしている人がいる。ツイッターで嫌がらせをされたり批判的なことを言われた人が、エアリプで(といっても誰のことを言っているのかだいたい分かってしまうのだが)悪口や揶揄、侮辱発言による仕返しを延々としているのに気づいて辟易とした。エアリプなら名誉毀損にならないと思っているのだろうけれど、他人の悪口を言って粋がっているのは本人だけで、第三者が見たら執拗なクレーマーでしかない。

 この10年間、ネットで「やられたからやり返す」という人を嫌というほど見てきた。そういう復讐心の強い人の中には驚くほど執念深い人も少なくない。世の中には憎しみから復讐をしないと気が済まない人が一定程度いることを実感した。

 誰もが言いがかりをつけられたり嘘を振りまかれたり誹謗中傷されたら不快になり腹を立てるものだし、私もそういう感情を抱くことはある。しかし、言いがかりをつけたり誹謗中傷をしたわけでもなく、批判的な意見や感想を書いただけなのに怒りを露わにして復讐する人がいるのには驚いた。私は批判されたら反論をすることはあるが、相手を憎むとか恨むということはないし、仕返しをしようとも思わない。そんなことをしたって自分と相手の間に横たわる問題は何一つ解決しないばかりか、よりいっそう険悪になるからだ。

 大人になっても仕返しをしなければ気が済まない人は、「憎しみはさらなる憎しみや苦しみしか生まず何の解決にもならない」ということを今までの人生で学んで来なかったのだろと思う。

 自分を傷つけた人、嫌いな人を痛めつければその時は恨みが晴らせたという満足感で気分がスッキリするのかもしれない。相手をけちょんけちょんにやっつけることができれば「自分こそ正しい」という優越感に浸ることができる。あるいは「自分は被害者」だと主張することで相手の加害性を強調でき、「相手は悪いやつだ」と印象づけることができる。でも、復讐による爽快な気分が長く続くことはないと思う。

 なぜなら、復讐というのは「自分がやられたくない」と思うことを相手に対して実行することだからだ。これはものすごくネガティブな感情であり行動だ。他人の個人情報を晒して嫌がらせをしていた人が、自分の個人情報を晒されて怒り狂っているという状況を何度か目撃したことがあるが、それが復讐の本質だ。

 しかも復讐には名誉毀損や侮辱、プライバシー侵害、脅迫など違法行為や不法行為がつきまとう。なぜなら真摯な議論をしたのでは相手を痛めつけることができないからだ。したがって相手の社会的評価を低下させるために違法行為や不法行為に走ることになる(事実の適示であっても相手の社会的評価を低下させれば名誉毀損になる)。ネガティブな感情を持ち続けたり違法行為や不法行為に手をそめたなら、穏やかで幸せな気持ちでいられるわけがない(もし復讐が快楽だという人がいるなら、それは良心が欠落したサイコパスだろう)。場合によっては、相手からの反撃に怯えることにもなりかねない。

 報復感情が強すぎると、被害妄想に陥ってしまうこともある。前述したように私は反論したり批判的意見を述べることはあっても恨みから復讐をすることはない。ところが復讐心に満ちた人は決して冷静な議論をしようとせず、反論や批判的意見を「攻撃」だとか「恨み」だと決めつけて「自分は被害者」だと主張する。こうなると被害妄想の域に達していて話し合いの余地がない。いわゆる偏執病(パラノイア)と言われる人たちは、そんな心理状態に陥ってしまった人ではないかと私は思っている。

 復讐をするということは、穏やかで幸せな気持ちを手放すこととイコールなのだと思う。復讐をされた人は当然のことながら不快になり相手を信頼しなくなるし、互いに復讐心が強ければ報復合戦という地獄になりかねない。復讐などしたところでいいことは何一つないが、偏執病の域に達してしまうとそこから抜け出すのは容易ではないのだろう。何しろ自分を傷つける相手を懲らしめるのは善だと思ってしまうのだから。

 そういう人に限って「復讐」という行為が自分の不幸を招いていることを理解できず、自分にまとわりつく不幸や息苦しさは相手のせいだと更なる勘違いをして攻撃を止めようとしない。復讐をしないと自分がやられっぱなしになるのではないかと不安になり、復讐を手放すことができなくなる。憎しみを手放せば楽になれるのにと思うけれど、第三者がそんなことを言っても虚栄心の強い人はまず聞く耳を持たない。復讐をする人は自分で自分を不幸にしているのに復讐を止められないのだから、哀れであり気の毒と言うしかない。

 ネットで意見を言う以上、嫌がらせや報復はつきものなのかもしれない。しかし、そんなことにいちいち腹を立てて報復するのは自分を不幸にすることでしかない。納得できない意見には論理的に反論し、嘘をふりまかれたら嘘であると指摘するのは正当な行為だと思うが、そのような正当な主張を超えて相手を貶める「復讐」という手段を選択したら最後、不幸のループにはまるだけだ。

 トラブルになったなら、対話しか平和的な解決はない。報復のために相手の粗探しなどを始めたなら地獄の始まりだ。ネガティブな気持ちにならないためにも、私は復讐心が強い人のツイッターやブログは基本的に見ないようにしているし、エゴサーチもしない。

 菅野完さんの件では被害者の女性の復讐心に関して批判的な記事を書いたが、それも上記のような理由からだ。報復行為が周囲の人まで巻き込んで不幸を拡大してしまった事例だ。

 最後に参考までにこちらのサイトを紹介しておきたい。

復讐したいと思ったら読んで!傷つけられた時のブッダの思考
  
タグ :復讐報復


Posted by 松田まゆみ at 10:54Comments(0)雑記帳

2018年04月24日

ハラスメントと差別意識

 財務省の福田事務次官が女性記者に対してセクハラ発言をしたことが明らかになり、辞任に追い込まれた。本人はセクハラではないと開き直っているが、理解に苦しむ。日本では未だに男性による女性へのセクハラや性暴力が後を絶たないが、本当に恥ずかしい限りだ。

 セクハラやパワハラはハラスメント、すなわち嫌がらせだが、嫌がらせというのはそもそも他者を自分と対等の人間と見ておらず他者の人格や人権に対する配慮が欠けることに起因する。相手の人格や人権を無視して自分に従わせようとしたら、そこにハラスメントが生じる。そしてハラスメントの根底には差別意識がある。

 日本では今でも家事や育児、介護などは女性の仕事という風潮が強い。共働きであっても女性の方が圧倒的に家事や育児の負担が大きい。男女は対等であり平等であるという意識があればそういうことにはならないはずだが、平等意識を持っている人はどれくらいいるのだろう。

 専業主婦に対して「誰に食わせてもらっているんだ」などと平然と発言する夫などは、自分が妻の人格を無視しているなどとは思っていないのかもしれない。お金を稼いでいる自分の方が妻より上であるという意識があるからこそそういう言葉が自然に出てくるのだが、その傲慢な意識に気づけない感覚は恐ろしい。昨今は女性が外に働きにでて夫が専業主夫という家庭もたまにあるが、男尊女卑の感覚がしみついている人はそういう立場にでも置かれない限り真の男女平等や分業ということを理解できないのかもしれない。

 以前、ある著名な詩人が「化粧をしない女は女性ではない」という意味合いのことを書いていて驚いたことがある。化粧をして外見を良く見せるのが女性の本質だと言いたいのかもしれないが、そういう見方が性差別であることに気づいていないのだろう。以降、その詩人に関しては私は関心を失った。

 夫のことを「主人」と呼ぶ人も多いが、私は「主人」という言葉は使わない。「主人」は明らかに主従関係を表す言葉だからだ。妻のことを「嫁」と言ったり、結婚することを「嫁をもらう」などと表現するのも同じで、男性より女性が下という考えが根底にある。男尊女卑がそのまま残っている言葉であり、死後にしたほうがいいと思っている。昔はそれが当たり前だったのかもしれないが、今はそんな時代ではない。

 学歴や社会的地位、職業、容姿などを持ち出して評価したりすることも日常的にある。学歴も社会的地位も容姿も、その人の人間性や価値とは何の関わりもない。そんなことは誰にでも分かると思うのだが、実際には学歴や地位、容姿で他者を差別するような人はしばしば見かける。

 ネットでも至るところでハラスメントを見かける。意見が異なる人に自分の意見を伝えるのは悪いとは思わないし、事実誤認をしている人がいたら指摘するのもいいだろう。ところが、相手を呼び捨てにして「お前の主張は間違っている」とこき下ろしたり、アホだとかクズなどと小馬鹿にする人が何と多いことか。事実誤認を指摘するなら、事実について説明すればいいものを「そんなことも知らないのか」とばかりに相手を侮辱する人もいる。

 自分の気に入らない高齢者に対し、ジジイ、ババアなどと罵るのも言葉の暴力であり一種の差別だろう。不快なことがあるなら、不快な理由を説明して止めてほしいと伝えるのもいいだろうが、ネット上の見ず知らずの匿名者などに関わる必要はない。不快だからといって公の場で罵れば、醜い罵り合いになりかねない。

 「他者の人格を個人的にも集団的にも傷つけ、蔑み、社会的に排除し、侮蔑・抹殺する暴力性を持つ言葉」を差別用語というが、他者を蔑み傷つける発言は差別意識に基づいているといっても過言ではないと思う。

 そして、日常的に差別的な発言をしている人たちは、自分が差別をしているという意識はほとんどないのではないかと感じる。それだけ無意識に他者を差別している人が多いように私には思える。人は誰しも自分の考えは間違っていないと思っているものだ。しかし、それを他者に押しつけたあげく侮蔑するのは筋違いというものだろう。自分と異なる意見の者に対しては論理的に批判すれば事足りるわけで、侮蔑する必要など何もない。

 要は、差別をする人というのは「自分こそ正しい」「自分の方が上だ」という思い上がりがあるから、異なる意見の者を侮辱し、自分の主張を押しつけようとする。

 差別意識というのはそう簡単になくなるものではないのだろうけれど、差別意識が強ければ民主主義そのものが成り立たないと私は思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 11:03Comments(0)雑記帳

2018年04月11日

「君たちはどう生きるか」は人類にとっての永遠の課題

 昨年出版された漫画版の「君たちはどう生きるか」がかなり売れているという。私は漫画はあまり好まないし、こういう本は原作を読んでみるに限るという考えなので、遅ればせながら岩波文庫版を読んでみた。著者は東京大学の哲学科を卒業し、編集者、評論家、作家、翻訳家の肩書を持つ吉野源三郎氏(1899-1981)。「君たちはどう生きるか」は80年前の1937年に「日本小国民文庫」の中の一作品として書かれたものだ。

 この作品はコぺル君というニックネームの15歳の少年が主人公だ。中学校でのいじめ問題や友人関係で悩むコぺル君の日常生活と、コぺル君の相談相手である叔父さんがコぺル君に宛てて書いたノートによって構成されている。つまり、コぺル君の人間関係の悩みというストーリーを軸に、吉野さんのメッセージを「叔父さんのノート」という形で織り込んだ作品だ。

 本書で吉野さんが叔父さんに語らせている若者へのメッセージは、かいつまんで言うならおおよそ以下のようなことだ。

・差別をしてはいけないこと。
・人間は協力し合って生きていかねばならない存在であること。
・物ごとを俯瞰的に見ることの大切さ。
・主体性(自分で考え行動する)を持つこと。
・人類の発展のために学ぶこと。
・過ちを犯したときはそれを認め謝罪すること。

 これだけを読めば、当たり前のことを言っているにすぎないと言う人もいるかもしれない。しかし、この当たり前のことを実践できている人というのは、実のところそれほど多くはない。

 この本が書かれた1937年といえば、おぞましい日中戦争が始まった年だ。そして1941年には太平洋戦争が勃発した。国中が軍国主義に染まり、社会主義の運動は弾圧され、自由に物を言うこともできない息苦しい時代だ。1938年には国家総動員法が制定され、国民は強制的に戦争に駆り出されることになった。あの当時、日本人の多くはメディアに翻弄され軍国主義に大きな疑問も持たず時代に流されていたのではなかろうか。あるいは疑問に思っても口に出せず、国に従うしか術がない生活を強いられていたのだと思う。そんな状況にありながら、というよりそんな時代だからこそ次世代を担う若者達に主体性を持つことの大切さを伝えようとしたのが「日本少国民文庫」であり本書だろう。

 吉野さんは治安維持法で逮捕投獄され、執行猶予で釈放されたときにこの本を書いたという。身の危険を感じながらも、検閲で引っ掛からないように細心の注意を払って書いたに違いない。壮絶な時代の中にありながら、若い人たちへ向けた熱い想いが伝わってくる。

 本書が発行されてから80年経った今、再び脚光を浴びているのは単に漫画版で読みやすいとかブームというだけではなかろう。80年経っても、まだそのメッセージが新鮮だということに他ならないと思う。つまり、国民の主体性が完全に奪われ全体主義に染まった息のつまるようなあの時代から80年経った今もなお、私たちの多くが本書に示されたメッセージを実践できないがゆえに、「人はどう生きるべきか」という問いが繰り返されるのだ。

 当たり前と思えることがなかなか実践できない。それどころか近年はますます状況が悪くなっているかのように思える。ひとつにはこの当たり前のことを戦後の学校教育の現場で何ら教えてこなかったということがあるだろう。教えてこないというより、むしろ逆行する教育を行ってきたのではないか。つまり、自主性よりも従順であることを求め、リーダーとなりうる一握りのエリートの育成しか考えてこなかったのではないか。その他大勢はリーダーに従っていればいいのだと。

 受験に追い立てる競争教育は学ぶことの意味を置き去りにし、周りの人たちを「敵」にする。競争に乗れない子どもは落ちこぼれのレッテルを貼られ疎外される。近年の行き過ぎた資本主義は格差を生み、格差は憎しみを生む。学校は子ども達が協力しあう場ではなくなり、差別やいじめが後を絶たない。

 他国のことはよく分からないが、日本の若者は恐ろしく政治に無関心だ。戦後生まれの大人たちは、子ども達に政治に関心を持つことの大切さを教えず、主体性はおろか「周り」に合わせていればトラブルを避けられると教えてきた。私が若い頃は、政治の話しをする友人など誰もいなかった。

 こんな具合だから、自分の身を守るために自己主張をせず波風を立てないことがよしとされ、事なかれ主義が蔓延する。事なかれ主義で自分の責任を回避する習慣が身についているから責任感が欠如し、過ちを犯しても認めようとしない。吉野さんのメッセージと逆行する教育がなされてきたとしか思えない。

 太平洋戦争を経験した世代の人々が高齢になり戦争を知らない世代ばかりになってきた昨今、戦争というものがどれほど愚かで惨いかを想像できない人達が増えている。子どもだけではなく多くの大人が政治に無関心であり、関心があるとしてもせいぜい「景気」が良くなり自分の生活が安定するかどうかくらいしか頭にないからではなかろうか。だからアベノミクスにも簡単に騙されてしまう。

 そこには人の無知があり、思い上がりがあり、限りない私欲がある。「君たちはどう生きるか」で吉野さんが発信しているメッセージはシンプルで難解なことではない。しかし、怠惰で強欲な人類にとって、永遠の課題なのかもしれない。
  


Posted by 松田まゆみ at 15:43Comments(0)雑記帳