人生を問う旅の記録「幻の旅路」

松田まゆみ

2010年11月24日 09:31

 最近はちょっと硬い内容の本を読むことが多かったのですが、久しぶりに心温まる旅行記を読みました。ロス・アンジェルスにお住まいの大湾節子さんがヨーロッパの旅の思い出をつづった「幻の旅路」(茉莉花社発行、本の泉社発売)です。

 著者の大湾節子さんは、20代のときにアメリカに留学し、永住権がとれたのを機に就職したものの、会社の倒産を経験し、新たな世界を求めてヨーロッパの旅に出ます。はじめのうちこそツアーの旅行でしたが、1980年代からはホテルも予約しない気ままな一人旅に毎年出かけるようになります。そんな30代の旅で出会った人々にまつわるエピソードを中心に、ヨーロッパの歴史のある街並みや美しい景色の描写を織り交ぜた旅行記がこの本です。

 まず、カラーの美しい口絵写真が旅に引きこんでくれます。スイスの湖やアルプスの山々を背景にして広がる田園風景、花が咲きこぼれる素朴な民家や鉄道の駅など、日本の風景とはかけ離れた自然や建物・・・どこかで見たような光景。そう、私の両親も何度もスイスを訪れては気にいった写真を引き伸ばし、エッセイを添えたアルバムをつくっていましたので、行ったこともないのに口絵写真を目にしただけで懐かしくなり、なんだか自分が旅行をしているような気分にさせてくれます。

 それにしても旅先で出会い、言葉を交わすなかで親交を深めていく人たちの何て素敵なことでしょう。見ず知らずの人とのほんのちょっとした出会いが、心の扉を開き、信頼関係をつくり、その後の人生に大きな影響を与えていくのです。彼女の旅はまさに国境を越えた人との出会いと再会の旅であり、また人生を問う旅なのです。美術館で出会った芸術家の青年や、ホテルの隣室に泊っていたバイオリン奏者との交流、毎年あたたかく迎えてくれる家族との絆など、一人旅でなければ経験できない旅の思い出が一冊の本にぎっしり詰まっています。

 彼女がヨーロッパに一人旅をしていた1980年代といえば、まだインターネットもなく時間もゆったりと流れていました。秋の夜長にじっくりとこの本を読んでいると、たった30年前にはそんなゆったりとした時代だったことがまざまざと脳裏によみがえってきました。

 私といえば、若い頃は海外旅行にはまったく縁がない生活を送っていましたが、学生時代には北海道から九州までバードウオッチングの旅によく出かけていました。都会でのストレスから逃れようと、夜行列車で一人で山に出かけたのも20代前半の1970年代。言葉も文化も生活習慣も食べ物も違うヨーロッパへの冒険旅行と私の貧相な国内旅行は比較になりませんが、思えば、あの頃はまだ日本でも時間がゆったりと流れ、いろいろな出会いがありました。そして、旅や登山をしながら、大湾さんと同じように時の流れを体で感じ、自然の中で寝転んでは生きていることの意味を考えたりしたものです。

 この本の裏表紙の帯には「あのころ、私は世界のどこかに幸せの場所があると信じていた」と記されていますが、たぶん若い人たちは皆、一度はおなじような思いを抱くのではないでしょうか。そして、何年も経っていろいろな経験を重ねるなかで幸せの意味を悟るのでしょう。

 50代も半ばになると、若い頃のことを思い出して今と比べてしまうことが多くなるのですが、こうしてほんの少し前の時代を思い返してみることで、今の時代に失ってしまった大切なものを見出すことにもなるのだと、改めて感じました。私たちは今、なんとせわしなく、たくさんの不満や怒りを抱え、自分のことばかり考えて生きていることか。あり余るほどの物質に囲まれて豊かであるかのように思えても、それは錯覚でしかなく、本当の豊かさは決して物の豊かさではないことに気付かせてくれます。

 せかせかと時間に追い立てられ、ストレスをため込み、人を信頼できなくなることの多いこんな時代こそ、過ぎ去った日々を「旧き良き時代」と切り捨ててしまうのではなく、過去を振り返ることで失ったものを見つけ出し、再び築いていく努力も必要なのではないでしょうか。もちろん、それは昔のような生活に逆戻りするということではなく、日常生活に人の人との絆や信頼感を取り戻すことにほかなりません。そんなことを思いながら、600ページを超える大著を読み終えました。ヨーロッパへの旅を考えている方は、観光ガイドブックだけではなく、こんな旅行記もお勧めです。
   

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