組織について考える―四茂野氏のホロウェイ論を読んで(2)

松田まゆみ

2010年03月10日 21:17

前回の記事
強制と自主性―四茂野氏のホロウェイ論を読んで(1)

 四茂野修氏のホロウェイ論の「その2:息のつまる社会からの脱却」「その3:ホロウェイと網野善彦」「その4:アルゼンチン社会から見えるもの」では、自律・自治をめざす共同体について述べられています。そして、「その5:自律・自治と政治の間を結ぶもの」では、権力の集中が生じずに、社会と政治を結ぶ新たなしくみについて、ホロウェイと近い考えを持ちアルゼンチンで社会運動に関わっているエセキエル・アダモフスキーの興味深い主張を紹介しています。

 いわゆる左翼はなかなか民衆の支持を得られません。このことについて、アダモフスキーは以下のように説明しています。

 「お互いに見知らぬ者同士が、密接な相互依存関係をもって暮らしている現代社会の抱える危うさへの懸念が、民衆の秩序への願望を生み、秩序を訴える右翼を支持させているのです。他方、左翼は現存する秩序の破壊を主張しますが、破壊した後に建設する新たな秩序については、ほとんど何の構想も提示していません。その意味で、民衆の右翼への支持は、誤解によるものではなく、正しい判断の結果なのです。」

 左翼が資本主義社会を否定するのであれば、それに対応する新たな制度を用意しておかなければ、秩序が乱れるだけだというわけです。秩序を重んじる民衆は、左翼は危険なだけであり、とても安心できないということになります。そこでアダモフスキーは、「資本主義とは異なる新しい世界へ向けて歩みながら、そのなかで社会全体を運営できる独自の政治への関わり方を創造し、発展させることが求められている」といいます。

 アダモフスキーは左翼について、こう語っています。

 「左翼の世界ではこれまで、あらかじめ知った『真理』に合致するものが『善い』こととみなされ、倫理的な善悪の問題は政治路線の正しさの問題に解消されてきました。そして身の回りの仲間一人ひとりを配慮する倫理に、イデオロギー的な真理への献身がとって代わったのです。そのため他の面では善良な心をもつ活動家が、『真理』の名の下に仲間を操り、時には暴力をふるってきたのでした。このような姿勢は自分を他者より優れたものと見る、無意識のエリート主義に支えられています。こうした左翼の悪しき伝統からの決別がまず問われるのです。」

 私は自分の思想信条や良心に基づいて、自分の意見をこうしてブログに書き、また市民運動にも参加しているのですが、それを「正義をふりかざしている」と言う人がいます。私は自分の意見が真理であるとか、絶対に正しいなどとは言っていませんし、自分とは180度違う意見があることは百も承知しています。他者の意見は尊重しますし、自分の考えを他者に押し付けたいとも思いません。また、正義などという言葉は基本的に嫌いです。絶対的な正義などありませんから「正義」という言葉はまず使いませんし、自分の言動が「正義」に基づいているとも思っていません。ですから自分の意見を主張することがなぜ「正義をふりかざす」ことになるのか、まったく理解できませんでした。しかし、このアダモフスキーの言葉を読んで、そのような見方をする人は、無意識のうちに「『真理』の名の下に仲間を操ってきた」一部の左翼活動家と同一視しているのではないかと気づきました。左翼と同じような発言をしていたら、それだけで独裁的な左翼の活動家をイメージしてしまうのでしょう。

 私はいわゆる左翼政党がどうしても好きになれないのですが、それはまさにアダモフスキーの主張しているように階層的な上下関係に支配されているということです。上意下達で固められた権威主義的な政党は組織そのものが「平等」ではなく、したがって政権を取ったとしても、その自己矛盾ゆえに平等な社会は築けないでしょう。これは政党だけではなく、労働組合や市民団体などにも言えることだと思います。

 作家の辺見庸氏の著作を読むと、彼は徹底して組織というものを忌避し、個人を重視していることがわかります。これはあくまでも私の推測でしかありませんが、辺見氏も組織というものについてアダモフスキーと同じように捉えているのではないでしょうか。組織に頼ってしまったら、個は埋没し、組織の中の権力に支配されることにもなりかねません。

 ただ、私自身はいくつかの組織に属していますし、組織や連帯そのものを否定するつもりはありません。組織の運営でいつも感じるのは、組織の中に階層的な上下関係が生まれてはならないということです。組織とは役員のためのものではありません。組織の代表者や役員が暴走したなら、メンバーとの信頼関係は崩れてしまうでしょう。そうなったら組織は分裂したり消滅する道をたどるのではないでしょうか。組織はメンバーの主体的な意見や活動に基づいて動くようにしなければなりません。組織内に上下関係を生じさせないためには、組織はできるだけ小さいほうがいいとも思います。大きな組織になればなるほど組織内の階層化が進み、個は埋没してしまうでしょう。

 さて、アダモフスキーは権力の集中が生じずに、社会と政治を結ぶ新たなインターフェイスが必要であるとして、「社会運動評議会」を提案しています。今のような社会運動と政党との関係を断ち切って、社会運動が主体となって政治をつくりかえることを目指すというものです。政党や組織内の上下関係、権力争いに辟易としている私には、とても新鮮な提案に見えます。

 この社会の閉塞感を打開するためにどうしたらいいのかという重い課題に、アダモフスキーの主張は重要な示唆を与えていると思います。

つづく

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