「いのちを楽しむ-容子とがんの2年間」上映開始

松田まゆみ

2013年06月03日 13:37

 5月30日付の新婦人しんぶんの映画紹介コーナーに、2012年3月に亡くなった渡辺容子さんのドキュメンタリー映画が紹介されているのが目にとまった。さらに、5月30日の週刊金曜日にも「いのちを楽しむ-容子とがんの2年間」をテーマにした座談会が掲載されていた。

 彼女の最後の2年間が映画として劇場公開されることになったのだ。学童保育の指導員をしていた渡辺さんは40歳で乳がんを発症し、58歳で亡くなった。その最後の2年間を追ったのがこの映画(私は見ていないのだけれど・・・)。

映画『いのちを楽しむ』-容子とがんの2年間

 渡辺容子さんは私と同い年で、私が彼女にメールをしたのが知り合いになるきっかけだった。ときどきメールのやりとりをし、初めて会ったのは2010年の春。この時はほぼベッドで過ごす状態で移動には車椅子を使っていた。当時、彼女は主治医の近藤誠医師から余命一年と告げられ、なんと生前追悼集の発行を計画していた。さらに2010年の6月には車椅子で小笠原にも行った。驚いたことに、その後自転車にも乗れるほどになった。

 二度目にお会いしたのが、原発事故が起きた直後の2011年の4月。絵を書かれていたお父様の作品展を新築された家で開かれており、その際に友人たちが企画したコンサートに参加させていただいた。

 何と言っても、彼女のすごいところは正直な生き方と意志の強さ。若い頃からたくさんの文章を書き、自然や山が大好きだった。そして、お仲間たちと弁護士をつけずにいくつもの不正を追及する裁判を闘い、弁護士も顔負けの準備書面を書かれていた。乳がんを自分で見つけて主治医も自分で探し、がんやその治療について学び、抗がん剤に頼らない治療を貫いた。一時は深刻なうつ病にもなったが、それも自分で克服された。まさに、人生の分岐点で他者におもねることなく、自分の頭で考えて選択し行動してきた人だ。

 日本ではがんで亡くなる人が増えているが、大多数の人が医師から言われるままに抗がん剤治療を行いその副作用に苦しんで亡くなっていく。少なくとも私の知人などで抗がん剤治療を拒否した人は容子さんしか知らない。彼女が余命1年と告げられてからも旅行に行き、反原発運動にも参加し、ブログを書き続けることができたのも、抗がん剤治療を選択しなかったからに違いない。最期まで「自分らしく生きる」を貫かれた方だった。

 「いのちを楽しむ-容子とがんの2年間」は大きな反響を読んでいるそうだが、そんな彼女の生き方に魅かれる人が多いに違いない。

 以下は私が彼女の生前追悼集「容子語り」に寄稿したもので、お会いする前に書いたもの。

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生きることの意味を教えてくれた大切な人へ

 私が容子さんを知ったのはインターネット新聞JANJANの記事でした。彼女の記事に共感し、その記事から彼女のホームページやブログを知りました。そして、すぐにメールをして著書「負けるな子どもたち」を送っていただいたのです。直接お会いしたことはないのに、なぜか容子さんは旧知の親友のように感じられて仕方ありません。それは恐らく、容子さんの生き方や物事に対する考え方が私と大きく共通しているからでしょう。容子さんのJANJANの記事、ホームページ、ブログ、著書などを通じ、強い意志と他者に対する深い思いやりをもった同世代のひとりの女性に深く共鳴し、それ以来、会ったことはないのに、彼女は私にとってとても大きな存在になり、かけがえのない大切な人になりました。
 容子さんのブログやJANJANの記事を読めば読むほど、彼女の意見に共感すると同時に、私との共通性を感じずにはいられません。まず、社会のおかしなことに対して、声をあげて行動していく姿勢です。私自身も若い頃から自然保護運動などに参加し、今も北海道による違法伐採を問う「えりもの森裁判」に関わっているのですが、容子さんたちが杉並の不当な教科書採択問題で本人訴訟を起こして闘っていることを知り、平和を求めて困難なことにも毅然と立ち向かう姿勢や行動力に深く感銘を受けました。私利私欲のためではなく、平和な社会を守るために行動することは誰にでもできるものではありません。自分の良心に基づいて強い意志をもって行動を起こすことにおいては、私などとは比較になりません。人というのはいくらでも「あれはおかしい」「こうするべきだ」と思い、口にするものですが、社会の理不尽なことに対して実際に行動できる人はごく僅かです。がんという病になってもなお、常に前向きに闘い続ける彼女に、どれほど励まされたことでしょう。
 容子さんが、山や自然が大好きだということを知ったときも、「ああ、私と同じなんだ!」と、とても嬉しくなりました。容子さんが自然破壊を憂いている高尾山は、私が高校生のころから頻繁に通った山です。高尾山は私が野鳥の名前を覚えた山でした。沖縄の泡瀬干潟の埋め立て問題や辺野古の闘いに対する視線や願いも同じ。平和と自然というキーワードが、容子さんとの心の共通点にあるのです。
 私は高校時代から「アルプ」という山の文学雑誌を読んでいました。母が購読していたものを借りて読んでいたのです。実家を出てからは自分で購読していました。容子さんも若い頃から登山をし、「アルプ」を読んでいたことを知ったときには、とても驚いたものです。私の世代で「アルプ」を読んでいた人はそう多くはないでしょうし、同世代の購読者を知りませんでした。山や本が好きだという趣味までも一致していたことに、親しみを感じずにはいられません。
 自然を深く愛し、人間を愛する彼女の姿勢から、人が生きることの意味や大切さがひしひしと伝わってきます。人が生きていくためには、人との関わりを持たざるを得ません。人を信じることなしに社会生活を送ることはできないし、人を信じることなしに愛は生まれません。愛とは、いかに他者を信じて思いやれるかではないでしょうか。そして、そのような心の絆は直接会ったことがない人との間にも築くことができるのです。私と容子さんとの関係も、そんな信頼感で結ばれているように思います。住んでいるところは遠く離れていても、心はいつも通じ合っているし、感謝の気持ちでいっぱいです。ほんとうにありがとう。
 こんな素敵な女性だからこそ、ほんとうは追悼集の原稿など書きたくはありません。いつまでも友人として喜びや悲しみを語り、共に生き、歩み続けてほしいのです。そして、北海道の雄大な自然の中を、共に歩きたいのです。たとえそれが奇跡と言われようが、そんな奇跡が訪れることを願って止みません。

 最後に、私が容子さんのことについて自分のブログに書いた記事を転載させていただきます。

*   *   *

「人としての輝き」(2009年9月16日掲載)

 北海道新聞夕刊に「魚眼図」というコラムがあります。毎回読んでいるわけではありませんが、昨日の藤宮峯子さん(札幌医科大教授)の「生きる意味」という一文が目に留まりました。医師として末期がんの患者さんを受け持ち、以下のことに気づいたといいます。

 「運命を理不尽だとうらむところに救いはなく、運命を受け入れて初めて心が和らぐようだ。運命の流れを変えることは出来ないけれど、それに意味を持たせることが唯一人間に出来ることで、たとえ死が迫ろうとしても人としての輝きを保つことができる」

 これを読んですぐに頭に浮かんだのが渡辺容子さんです。私が渡辺さんを知ったのはJANJANの記事で、記者プロフィールから彼女のホームページとブログ(http://lumokurago.exblog.jp/)を知りました。お会いしたことはありませんが、JANJANの記事やブログを読ませていただき、その生き方や感性にとても共感を覚えたのです。はじめのうちは彼女ががん患者であることすら知りませんでした。杉並の教科書裁判を闘われ、JANJANに精力的に記事を書かれている姿からは、がん患者を想像することもできなかったのです。

 最近ではJANJANに「がんと闘わない生き方」とのタイトルで連載記事を書かれていましたが、ご自身の体験や知識をもとに書かれた一連の記事は、私にとって日本のがん検診やがん医療の実態を知ることができる有益なものでした。反論や、記事の趣旨を理解できない方などからの意見に丁寧に対応される姿勢にも共感しました。先日の「がん患者は医師言いなりでなく、知識を求め合理的選択を」という記事で連載は打ち切りとのことですが、この最後の記事で言っていることもよく理解できない方が多いことに、私は驚くばかりでした。

 がんを宣告され転移を告知されても自分自身の境遇に不平不満を言うのではなく、あくまでもそれを受け入れ、平和な社会を望みそのために努力を惜しまず、今を大切に生きる。そのような姿勢から、自然と「人としての輝き」が生まれてくるのでしょう。自分が同じ立場だったら渡辺さんのように振舞えるのだろうか、と考えてしまいました。

 不慮の事故に遭う人もいれば、不治の病を宣告される人もいます。経済的に豊かな家庭に生まれ育った人もいれば、食べていくことすら大変な家庭も少なくありません。不平等としか言いようのない社会で、輝きを失わない生き方ができるかどうかは、運命を受け入れてなお、他者のことを考えて生きられるかどうかということなのではないでしょうか。

 藤宮さんも指摘していますが、世の中には欲深いがために不平不満を言ったり仲たがいをし、今生きていることの幸せに気づかない人の何と多いことでしょう。小さなコラムが、大切なことを気付かせてくれました。


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