中西悟堂氏の思い出

松田まゆみ

2015年02月25日 15:03

 魚住昭氏による中西悟堂氏の回想記を目にし、とても懐かしく読んだ。

わき道をゆく 第67回 もう忘れたのかと鳥は啼く(魚の目)

 中西悟堂氏は、日本野鳥の会の創設者だ。「野鳥」という言葉を生みだしたのも中西悟堂氏だ。私は高校生のときに日本野鳥の会に入会したのだが、その頃も野鳥の会の会長は中西氏で、毎月会誌をほそぼそと発行しているだけのような会だった。その頃の日本野鳥の会の会誌「野鳥」は読み物が主体の文学性の高い雑誌で、ページ数が減りカラー写真ばかりになった今の野鳥誌とはまったく趣が異なっていた。

 私が野鳥に興味を持ったのは小学校の高学年の頃だ。庭にえさ台をつくってみたり、「探鳥会」なる催しに参加したのが野鳥に興味をもつきっかけだった。それまでは昆虫は大好きだったが、とくに野鳥への関心はなかった。しかし、ひとたび野鳥に興味を持つと、今まで気がつかなかった身の回りの野鳥がなんとも新鮮に目に飛び込んできた。興味を持つというのは、こんなにも日常の世界が広がるものなのかとときめいた。

 そして、高校生のときに学校の図書室に並んでいた中西悟堂の「定本野鳥記」をすべて読んだのだが、今となっては内容はほとんど覚えていない。しかしはっきりと覚えているのは、中西氏の雷恐怖症。

 実は私は子どもの頃から雷が大嫌いだった。特に一人で家にいるときに雷雨になると、稲妻が見えないようにカーテンを閉め、ふとんに潜り込んだりしていた。なにがきっかけだったのか分からないが、とにかく雷が怖かった。それで、中西氏の雷恐怖症に、同じような人がいるのだと親近感がわいた。

 そんな中西氏が雷恐怖症を克服したのは、たしかフクロウの撮影のために木に登っていて雷雨に遭遇した経験だったと記憶している。あまりの恐怖で木から下りることもできずに木にしがみついていたが、そんな恐ろしい経験をしてから雷が平気になったそうだ。私は今でも雷がゴロゴロと鳴りだすと、中西氏のこのエピソードをしばしば思い出す。ただし、私は今も雷が嫌いだ。子どものときほどの恐怖感はなくなったが、やはりあの稲妻と耳をつんざく轟音は心臓に悪い。

 中西氏は僧侶でもあるのだが、山の中での修行中に小鳥たちが寄ってきて彼の体に止まるという経験をしたという話しもよく覚えている。野生の小鳥が平気で人に止まるというのは、小鳥がこの人は安全であることを悟っているからだろう。中西氏には霊感があるのだろうか・・・。何と不思議な人だろうと思った。

 私は若い頃、一年だけだが日本野鳥の会の事務所で働いていたことがある。中西悟堂氏も会議のために事務所に来ることがあった。ある日、私がトイレから事務所にもどった時、、会議を終えて帰る中西氏と事務所の入口付近で鉢合わせになった。

 私は慌てて会釈をし、脇に寄って通り道を開けたのだが、何を思ったのか中西氏は立ち止り、私を頭のてっぺんからつま先までじいっと穴のあくほど見つめたのだった。そして何も言わずに見送りの人たちとドアを出ていった。当事者の私はもちろんのこと、それを見ていた事務所の人たちも、かなり不可解に思ったようだ。いったいあの時何を感じたのだろう。

 そして、まったく別の人から同じように頭のてっぺんからつま先まで、まるで品定めでもされるかのように見つめられたことがある。その人物とは男女平等や差別の撤廃を求めて活動した故市川房枝氏だ。仕事で議員会館に行って市川房枝氏に会ったのだが、職場の上司が私を市川氏に紹介したときのことだ。上司も市川氏のその様子に、かなり驚いたようだった。こんな経験は生まれてこのかた2回だけだ。

 魚住氏のエッセイを読んでいて、すっかり忘れていた若い日のことを思い出した。人の直感というのはけっこう鋭いと私は思っている。だから、たぶんお二人は直感で何か感じるものがあったのだろう。そうでなければ、初めて会った者をあれほどまじまじと見つめるといういわば失礼な態度をとるのは不可解だ。いったいお二人は言葉も交わさない私に何を感じたのだろうか?

 私は若い頃から、年齢とか肩書、経歴などに関わらず、誰でも人はみな対等だという意識が強かった。だから、著名人に会ったからといって媚びへつらうという気持ちは全くないし、そういう意識はたぶん態度にも表れていたに違いない。

 私が日本野鳥の会の事務局で働いていたときは、野鳥の会は会員も増え、野鳥の調査に関わる委託事業なども受けていて10人以上の職員を抱える組織になっていた。そして、中西悟堂氏がたまに会議に出席するときには、職員などからたいそう気を遣われ、「先生」「先生」と持ちあげられていた。もしかしたらそんな職員とは違った雰囲気を私に感じ取ったのかもしれない。

 中西氏は機械文明、消費文明の行き過ぎに警鐘を鳴らし、質素で無欲の生活を貫いていたと聞く。そんな謙虚と思える人物が、自分の創設した会の会合で「先生」「先生」と持ちあげられることをどう感じているのだろうかと、私はなんとなく気になっていた。

 国会議員だった市川房枝氏は、日頃から「先生」「先生」と持ちあげられ、周りの人たちはすごく気を遣っていた。傍からみるとその光景はちょっと異様で気持ち悪いくらいだった。市川房枝氏は、政治家として名を成してからは、常に周りの人から気を遣われ持ちあげられているのが当たり前だったに違いない。

 だから市川房枝氏にまじまじと見つめられたとき、私は、私の態度から醸し出された誰にも媚びない雰囲気を市川氏が感じ取ったのではないかと思った。人というのは、著名になり持ちあげられるのが当たり前になると、そうではない人のことがすぐにピンときて違和感を覚えるのではなかろうか。自分の周りにいる人たちとは違う私の意識が(とは言っても私はごく普通にしていただけなのだが)、あの品定めするかのような視線につながったのかもしれない。

 もうひとつ思い当たるのは化粧だ。私は若い頃から化粧をしないことを貫いてきた。そして、市川房枝氏も化粧をしないことで知られていた。だから、化粧をしていない私を見て、なにか感じたのかもしれない。もちろん、これは私の勝手な想像でしかないから、本当はまったく違う理由があったのかもしれない。

 世の中には二つのタイプの人がいる。「先生」と持ちあげられることで天狗になってしまいだんだん謙虚さを失っていく人と、決してそのようなお世辞やおだてに乗らず常に謙虚で人を差別しない人だ。悲しいかな、前者のような人は多い。はたしてお二人はどちらだったのだろうか。

 私もだんだん残された時間が少なくなってきた。残された人生、せめて謙虚さだけは失わないでいたいと思う。

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