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2017年08月12日

菅野完氏の民事訴訟について思うこと

 8月8日に菅野完氏が被告となって争っていた裁判の判決があり、菅野氏の弁護士がこの裁判に関しての記事を公開した。以下がその記事である。

菅野完氏の民事訴訟について(弁護士三浦義隆のブログ)

 裁判になっていることは菅野氏もツイッターで認めていたが、詳細については沈黙を貫いていたので分からないままだった。このブログ記事によってだいぶ状況が分かってきたので感想を記しておきたい。

 最初に断っておくが、私は性暴力は重大な人権侵害であり、加害者を擁護する気は毛頭ないという立場だ。菅野氏の件に関しても、紛争の原因をつくったのは彼にあるし、そのことで菅野氏を擁護する気はまったくない。彼は自分の行為に対して責任をとらねばならないし、社会的制裁を受けることも甘受せねばならないだろう。

 ところで何らかの被害が生じて紛争になった場合、問題解決(責任の取り方)としては賠償金や謝罪を求める方法と、刑事罰や行政処分など法に基づいた処罰を求める方法がある。被害者は片方だけ行う場合もあるし、両方行う場合もある。

 前者は話し合い、あるいは調停や裁判によって進められ賠償金で償うことになる。被害の回復といっても起きてしまったことをそれ以前の状態に戻すことは不可能なので、謝罪と賠償金で解決するしかない。

 後者に関しては、加害者の行為が違法行為に該当する場合、被害者が告訴して刑事罰を求めたり行政処分を求めることもできる。

 また、法律に基づかなくても懲戒処分の対象になる場合は処分を求めるということもあるだろう。社会的制裁である。公益目的にマスコミなどが事実を公開することも加害者にとっては社会的制裁になる。これらも加害者としては甘んじて受けなければならない。

 さて、三浦弁護士の説明によると、X氏は代理人弁護士を通じて内容証明郵便で菅野氏に200万円の慰謝料を請求したという。いきなり調停や裁判に出たわけではなく、話し合いによる解決を求めたと理解できる。今回の件に関しては菅野氏本人も事実であると認めていて争いがないし、菅野氏も被害者に謝罪し賠償金を支払うことで和解による解決を望んでいた。そして、X氏の要求してきた200万円の慰謝料も受け入れた。

 謝罪をし、被害者が求めた慰謝料の全額を払うというのだから、ここで和解が成立するのが通常の経過だ。ところが、X氏は菅野氏のツイッターアカウントの削除や女性の権利問題に関する言論活動の制限に拘って和解を蹴り、裁判に打って出た。

 常識的に考えて、事件と全く関係のない要求が裁判で通るとは思えない。しかも裁判になればさらなる弁護士費用がかかることになるし、賠償金額も要求額より減る可能性が高い(実際、判決では要求額の半額の110万円だった)。自分に不利になるとしか思えない裁判を選択するというのは、極めて異様で不可解な対応だ。三浦弁護士も「菅野氏に社会的制裁を加えること自体がX氏の目的なのではないか」と書いているが、第三者の目からもそうとしか思えない。

 賠償金での解決を図る民事訴訟で制裁をすることにはならない。したがってX氏が民事での解決だけでは気が済まないのなら、菅野氏を告訴して刑事事件にするか、事実の公表をするなど民事訴訟以外の方法をとる必要がある。ただし、刑事事件にはなっていないようだ。刑事事件にするほどの違法行為があったわけではないのだろう。そんな中でX氏がとったのは週刊金曜日での公表という社会的制裁だ。

 週刊金曜日は記事を書くにあたり、取材によってX氏の可解な訴訟での対応を把握できたはずだし、X氏が菅野氏の私的制裁に強い拘りを持っていることを察知できただろう。であれば、性被害の事実だけではなくX氏側の不可解な対応も報道しなければ公平性を欠く。

 被害者が報道機関を利用して事実を公表するなら、それはあくまでも公益目的で行うのが筋だと思うし、報道機関側もX氏の言い分だけを垂れ流して個人的恨みによる報復に加担するようなことがないよう十分に配慮する必要があると思う。菅野氏の裁判をめぐって私が疑問に思うのは、まさにこの点だ。

 ところが、記事では裁判の不可解な経緯についてまったく触れられておらず一方的に菅野氏を糾弾する内容になっているし、事実をねじ曲げた部分もあるようだ。しかも記事が掲載されたのは菅野氏や裁判所が和解による解決を模索している裁判の最中だ。

 菅野氏は反省文の公表をX氏から拒否された。さらに性トラブルの加害者であるがゆえに、二次加害を避けなければならない立場だ。また係争中の事案であることもあり週刊金曜日の記事に対して反論も釈明も行わなかった。言いかえるなら、X氏は菅野氏の弱みにつけこんで彼の謝罪や釈明を事実上封じた上で、週刊金曜日に自分の主張だけを流したと言えよう。係争中だから記事にしてはならないという決まりはないが、こうした経過を知ってしまうとX氏のやり方に卑劣さを感じざるを得ない。こうしたやり方は、社会的制裁を通り越した個人的な報復感情による仕返し、嫌がらせとしか感じられない。

 週刊金曜日としてはこうした経緯を把握したうえで、もっと慎重に対応すべきだったと思う。事実に争いはないのだから、裁判が終わってからの公表でもよかったのではないか。被害者が報復のために週刊金曜日を利用したとも捉えられるし、週刊金曜日が被害者の報復に加担したとも捉えられるが、両方だったのではないかと感じる。

 X氏が週刊金曜日の記事の拡散を自ら画策したことについては、某ブロガーの告発記事からも明らかだ。私はX氏に利用された某ブロガー(菅野氏とは関わりのない性被害者)が、非公開前提のツイッターのグループメッセージでのやりとりを公開し、X氏のツイッター名まで公開したのは行き過ぎた行為だと思っているので、ここでは某ブロガーの記事をリンクさせることはしない。しかし某ブロガーが公開したやりとりを読んで、X氏は私的制裁のために他者を利用する人物であると感じた。X氏の発言や第三者を利用した拡散工作にもX氏の強い報復意識を感じる。

 しかも、週刊金曜日の記事のゲラのPDFファイルに週刊金曜日側が「うんこ」という名称をつけたことや、X氏が菅野氏を「うんこ」と称していたことも明らかになっている。いくら非公開でのやりとりであっても、第三者である報道人が被害者に同調して加害者を侮蔑する感覚に驚きを禁じ得ない。

 この件では、週刊金曜日のステマ疑惑を主張している人もいるが、私はその意見には与しない。ステマというより被害者の報復行為への加担であり、嫌がらせに近いと思う。

 私はどのようなトラブルにおいても報復行為には賛同できない。第三者である報道機関が個人の感情に基づいた報復、すなわち仕返し行為に加担することもあってはならないと考えている。報道機関が批判記事を書くのであれば公益性こそ重視すべきだ。報復行為は憎しみの連鎖を生むだけで決して建設的な問題解決にはつながらないし、場合によっては墓穴を掘ることにもなる。

 とは言うものの、被害者自身が違法行為や不法行為を伴わないやり方で報復するならそれは自由だろう。もしX氏が菅野氏に仕返しをしたいならば、ブログなどを利用して被害者自身が発信者となって責任を負うのが筋ではなかろうか。公表時期に関しても、菅野氏側に釈明や反論の場を与えるために裁判が終わってからにするのが公平なやり方だと思う。

 私的制裁のために民事訴訟を利用したり、自分自身で矢面に立とうとせずに報道機関を利用したり、その記事の拡散に菅野氏とは何の関わりもない性被害者の女性を利用するというX氏のやり方は、嫌悪感しか抱かせない。一方で、X氏との闘争を避け沈黙を貫いた菅野氏の態度は評価できる。

 何度も書いていることだが、私は自分の利益(あるいは復讐)のために他人を利用する人が大嫌いだし、たとえ被害者であってもそのようなことをやっていいとは思わない。


  
タグ :菅野完


Posted by 松田まゆみ at 10:27Comments(0)雑記帳政治・社会

2017年08月04日

エピジェネティクスから見えてきた貢献感と健康

 先日、近藤誠氏の「医者に殺されない47の心得」という本を読んだのだが、近藤氏によると血圧もコレステロールも高い人ほど長生きするというデータがあるそうだ。日本では生活習慣病の予防として血圧やコレステロール値を下げることが大事だと盛んに喧伝されている。近藤氏の言うとおり、血圧やコレステロールが高い人の方が長生きする人が多いなら、高血圧や高コレステロールが生活習慣病の原因とは言い切れない。

 私はもともと検診に関心がないのだが、癌の発症に関してもエピジェネティクスが関わっていることを知って以来、精神的に健康な人ほど病気になりにくいのではないかと考えるようになった。環境が遺伝子のスイッチの切り替えに関わっているのなら、「精神の健康」「幸福感」という心理的環境も病気などのスイッチに関わっていても不思議ではない。それが事実なら、単に血圧やコレステロール値などに気をつけていれば病気のリスクを減らせるということにはならないし、近藤氏の主張も納得できる。

 実は、こうしたことを裏付ける研究がある。

環境と遺伝子の間:あなたのエピジェネティクスは常に変化している

 この記事で私が特に興味深いと思ったのは、「深層心理が免疫細胞のエピジェネティクスに変化をもたらす」という指摘だ。重要な部分を以下に引用しよう。

この結果によると、強い孤独感は、心臓病、アルツハイマー病、関節炎など、炎症を伴う病気のリスクを上昇させ、さらにウイルス性の風邪などにかかりやすくなることを示唆している。面白いのは、「どれだけ社会から疎外されているか」という客観的な事実ではなく、「本人がどれだけ孤独を感じているか」という主観的な感情のほうが免疫細胞との関連性が強かったことだ。

 ここで言う孤独感とは、友人や知人との交流が少ないとか、一人暮らしをしているといった単純なことではなさそうだ。友人が少なくても、あるいは一人暮らしをしていても、本人が孤独を感じていないということもある。たとえば公益性のあることにこつこつと取り組んでいるとか、公益目的に情報を発信しているというような人は、孤独感はあまりないかもしれない。たとえ多くの人に囲まれて暮らしていても、周りの人から受け入れてもらえずに寂しさを感じていれば、たぶん孤独感が強いということなのだろう。自己中、あるいは独裁的な人ほど人と他者と深い信頼関係が築けず、孤独感が強いと言えるのかもしれない。

幸福の種類によって免疫細胞の遺伝子スイッチが変化するのはにわかに信じがたいが、コール博士らが研究で得た結果とはそういうものだ。物欲を満たすことや、おいしいものを食べるという行為で得られる短期で浅いHedonicな幸福では、免疫細胞が活性化するどころか孤独感を感じているのと同じようなエピゲノムのパターンが見られた。逆に社会に貢献することで人生に意味を見出すような、深い満足感を伴うEudaenomicな幸福感では、炎症反応に関連する遺伝子が抑えられ、抗ウイルス反応に関連する遺伝子はより活性化されていた。

 この結果は非常に興味深い。目先の欲求を満たすことで得られる快楽主義的、自己満足的な幸福感は、孤独感を感じている人と同じような変化を免疫細胞にもたらすというのだ。つまり、病気のリスクを高めるように働くという。

 これに対し、社会や他者に貢献したり、よりよい人間に成長するために挑戦することで得られる幸福感は、病気になるリスクを低下させるという。

 この結果に「真の幸福感」とは何かが示されていると思う。つまり、つまり物欲によって得られる快楽や自己満足による快楽は、真の幸福とは言えないのではないかということだ。ファッションや化粧で自分を飾ることで得られる満足感なども同じではないかと思う。自分の欲求が満たされればそのときは満足感があるだろうけれど、それはずっと続くわけではない。有名になったりお金持ちになれば必ず幸せになれるとは言えないのと同じだ。

 このような浅い幸福感は、元をただせば私利私欲や損得勘定からきている。自分の利益だけを求めるところに真の幸福感はないというのは、感覚的にも理解できる。

 これに対し、社会や他者に貢献することは、私利私欲や損得勘定とは無縁のものだし、利他行為といえよう。

 人類は集団をつくり、仲間と協力して生き延びてきた。狩りをするにも外敵から身を守るにも仲間との協力が必要だし、得られた食糧も集団内で均等に分けなければ集団生活はうまくいかない。子どもや高齢者などの弱者を守るのも集団生活をしてきた人類の特徴だ。集団内で独善的にふるまっていたら仲間から信頼されないし、うまくやっていけない。こうした共同体での協力関係こそ貢献感の源であり、人はそこに自ずと幸福を感じるのだと思う。だからこそ、利他行為は病気への耐性を高めるように進化してきたのではなかろうか。

 ここで言う「貢献感による幸福感」こそ、アドラーの唱える「共同体感覚」なのだろうと思う。また「孤独感」とは、「共同体に所属できていない」ということではなかろうか。このエピジェネティクスに関する研究は、アドラー心理学が正しいことを裏付けているように思える。

 近年は競争社会や格差の拡大によって、人々がいがみ合うようになったと実感している。他人と競争し相手を蹴落として優越感に浸ろうとしたり、復讐しようとする心理は、共同体感覚とは対極にある。他人を貶めし叩くことで満足感を得ようとする行為も同様で、真の幸福感とは正反対のものだろう。このような心理状態の人は精神的に健康とは言えないし、決して幸福になれないばかりか病気のリスクを自ら高めているのかもしれない。

 怒り、イライラ、憎しみなどといった感情は、自分の意志にかかっている。怒ったりイライラしたり他者を憎んでも、目の前の問題を解決するためには何の役にも立たないどころか人間関係を悪化させるだけだ。そのことを理解すれば、怒りもイライラも憎しみも消えるし、感情的にならなければ冷静に問題解決方法を探ることができる。「真の幸福感」も「健康」も、自分自身が決めている部分が大きいのかもしれない。

  


Posted by 松田まゆみ at 16:11Comments(0)雑記帳

2017年07月31日

今年の家庭菜園

 ブログをほったらかしていたら、もう7月も終わり。ということで、とり急ぎ今年の家庭菜園の様子をアップしておきたい。

 わが家の庭は以前は花卉園芸だけだったが、近年は蔬菜園芸に移行してきている。花の苗を育てるのが億劫になったとか、玄関周りに飾った花をシカが食べてしまうようになったということもあるが、野菜を作る楽しみを知ってしまうと止められない。

 今年は、リーフレタス、ルッコラ、ズッキーニ、ミニかぼちゃ、大根、スナップエンドウ、パセリ、人参の種を蒔いた。

 リーフレタスは毎日食べているが、生長の方が速くて食べきれない。



 大根(ミニ大根)も少しずつ時期をずらして種まきをしたのだけれど、こちらも食べるのが大変。しょっちゅう大根サラダを食べている。



 スナップエンドウも毎日収穫して思う存分食べている。



 ミニかぼちゃもどんどん伸びてきて、小さな実をつけはじめた。



 ズッキーニは今年はじめて作ってみた。かぼちゃの仲間で、朝に花が咲き昼にはしぼんでしまう。雄花と雌花が同時に咲かないと実がつかないのだけれど、雄花だけしか咲かない日とか、雌花だけしか咲かない日もけっこうある。当たり前だが、受粉できないと、実は大きくならない。



 こちらはひよこ豆(ガルバンゾ―)。暑さと雨に弱く日本では栽培が難しいと言われている。うまく栽培できるかどうかわからないので、試しに50粒ほど蒔いてみた。今年の猛暑も何とか耐え、7月下旬から白い小さな花をつけはじめた。はたしてどれ位収穫できるものか。



 わが家の周りはエゾシカがうろついていて、家庭菜園を虎視眈々と狙っている。柵や網で囲わないと家庭菜園など到底楽しめないのだが、その網を口でくわえて引っ張ったり、くぐって中に入ろうとする。先日は出入口の網を支柱ごと倒されてしまった。シカは驚いて逃げたようで幸い食害はなかったが、入られたらけっこう悲惨なことになる。エゾシカの姿を見かけること自体が珍しかった頃には考えられなかったことだ。
  

Posted by 松田まゆみ at 19:53Comments(0)雑記帳

2017年02月09日

誤解される「嫌われる勇気」

 先日書いた「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」でもちょっと触れたが、テレビドラマ「嫌われる勇気」の主人公、庵堂蘭子の振る舞いはアドレリアン(アドラー心理学を実践している人)とは言い難いという意見があるらしい。私はテレビを見ていないし、ドラマ制作者の意図も分からないので、この点について言及するつもりはない。しかし書籍「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著)のタイトルが、時に誤解されているのではないかと感じることがある。

 書籍の「嫌われる勇気」は、自己主張して他人に嫌われることを奨励しているわけではない。他人に嫌われることを怖れ、他人に合わせてしまうのは不自由な生き方であるから、自分の人生を生きるためには「嫌われることもいとわない勇気」も必要だと言っているのだ。これは本を読めば容易く理解できることだ。他人に合わせたり、他人の期待に応えるのではなく、自分の人生を生きるべきだというのが書籍「嫌われる勇気」のメインテーマでもあるのだろう。

 他人の人生ではなく自分の人生を生きるというのは、いわゆる「課題の分離」のことを指している。ここに軸足を置いているから、本の内容も「課題の分離」の比重が多くなっているのだろうと私は理解している。

 アドラーは「人生上のほとんどの悩みは対人関係である」と言っているそうだ。私自身の経験を振り返ってみても、人間関係のトラブルの大半は他者の課題に土足で踏み込んでしまうことからくると実感している。嫁と姑のトラブルも、家族間のいさかいも、基本的に他人の課題に土足で踏み込むから起きる。課題の分離ができていれば人間関係におけるトラブルやストレスは激減するだろう。

 「横の関係」つまり「人はみな対等」という意識を持ち、常に他人を尊重していたなら、他人に命令口調で接したり、意見が違うからといって見下したり誹謗中傷したりもしない。

 課題の分離とは、他人の課題に土足で踏み込まない(他者を尊重する)ということと、自分の課題に他人を踏みこませずにトラブルを回避するという二つの側面がある(協力をしない、あるいは協力を拒否するということではない)。そして、「課題の分離」ができるということは、「人はみな対等」という「横の関係」で人間関係を捉えていることを意味する。「課題の分離」と「横の関係」は切り離せない。

 これに対し、人間関係を「縦の関係」で捉えている人は、他者に対して支配的であったり、あるいは依存的であったり、また恨みや妬みが強く嫉妬深かったりする。

 他人から何を言われようと(嫌われても)も自分の課題には絶対に踏み込ませないという人は、一見「嫌われる勇気」があるように見える。しかし、自分の課題には絶対に踏みこませないが、他人の課題には土足で踏み込む(命令したり、見下したり、憎んだりする)ということであればその人は「縦の関係」で生きている。また、事実誤認や誤解について丁寧に説明しても一切聞く耳を持たず自分が絶対に正しいと信じて我が道を邁進する人は、自分の誤りを認めない、あるいは他人を信用しないという点で独善的であり、やはり「縦の関係」で生きているのだと思う。

 私は、書籍タイトルの「嫌われる勇気」の意味するところは、「横の関係」の生き方をするためには、時として「嫌われる(こともいとわない)勇気が必要」ということだと理解している。だから、「縦の関係」の生き方の人が独善的な言動をして嫌われたとしても、「嫌われる勇気」があるということにはならない。

 たとえばトランプ大統領はどうだろう。トランプ氏の差別発言や虚偽発言に対しては多くの人たちが批判している。大統領の就任式での反対デモを見ても分かるが、彼は明らかに多くの米国民に嫌われている。しかし、当人は開き直って平然としている。彼は自分の主張を貫いて嫌われているわけで、「嫌われる勇気」があるように見える。

 しかし、自分と異なる意見を言う人をこき下ろす態度は、完全に他者を見下している。しかも自分を批判した人に対してはすぐに反撃する。理論的に反論するなら分かるが、嘘を言ってでも攻撃する。非常に感情的で、すぐに怒りをぶちまける。実に支配的だ。彼は異なる主張に対して話し合いで解決する姿勢がほとんど見られず、どうみても「縦の関係」で生きている人だ。彼の勇ましさは、書籍「嫌われる勇気」で言うところの「嫌われる勇気」とはほど遠く、傲慢にしか見えない。

 本で言わんとしている「嫌われる勇気」の意味を理解せず、タイトルの「嫌われる勇気」という言葉だけを切り取って、単に傲慢なだけの人を「嫌われる勇気がある」と評してしまえば、誤解を生じかねない。

 書籍「嫌われる勇気」には承認欲求のことも出てくる。これも誤解している人がいるようだ。書籍「嫌われる勇気」では「承認欲求を否定する」と表現しているのだが、これは「承認欲求」という事実や「承認」を否定しているわけではない。「他者に認めてもらうことを目的に行動してはならない」という意味だ。これは、嫌われないために行動(努力)するというのとほぼ同義だろう。だから「承認欲求の否定」も「課題の分離」と密接に関わっている。

 アドラー自体は承認欲求という言葉は使っていないようだが、だからといって「承認欲求を否定する」という表現が、アドラー心理学ではないということにはならない。

 アドラー心理学の最終目的は共同体感覚にあるという。この共同体感覚を身につけるには「横の関係」を築かなければならない。横の関係を築くためには「課題の分離」をする必要がある。また共同体の中で人々が協力関係を築くことが共同体感覚につながるのだが、その前提としても「課題の分離」は不可欠だ。つまり、課題の分離があってこそ支配でも依存でもない協力関係が持てるし、共同体感覚を身につけることができる、と私は理解している。

 書籍「嫌われる勇気」は、共同体感覚を身につけるための基本である「課題の分離」に力点を置いた書籍だと私は思っている。そして、続編の「幸せになる勇気」が補完して核心へと誘導する形になっている。この2冊の本は青年と哲人の対話による物語に仕立てられているゆえに、アドラー心理学を全面的にカバーしているとは言えないかもしれない。しかし、だからといって「嫌われる勇気」が「正統なアドラー心理学ではない」という考え方には賛同できないし、学会で論争するようなことでもないと思う。

 つい最近、向後千春さんの「人生の迷いが消える アドラー心理学のススメ」(技術評論社)を読んだ。この本は他の心理学の考え方も紹介しながらアドラー心理学を分かりやすく解説していて、「嫌われる勇気」には抵抗感があるという方にも読みやすいと思うし、日常生活でのトラブルの解決にも役立つ本だと思う。

 アドラー心理学を身につけ実践するというのは確かに難しい。なぜなら、日本では家庭も学校も職場も「縦の関係」ばかりであり、このような環境の中で「縦の関係」のライフスタイルを選びとってきた人が大半だと思うからだ(私自身は若いときから人はみな対等という意識を持っていたので、アドラー心理学への抵抗感はない。もちろんだからといってきちんと実践できているわけではないが)。「縦の関係」が染みついている人たちが、ライフスタイルを変えるのは容易なことではない。ただ、向後さんの本はそのような人たちに対しても抵抗が少なく理解しやすい書き方になっているように感じる。

 岸見さんも向後さんも、野田俊作さんからアドラー心理学を学んだ方だが、同じアドラー心理学の解説をしていても人によって伝え方や語り口は違う。哲学者である岸見さんのアドラー心理学は哲学的視点も含んだ岸見流だろうし、向後さんは向後流といってもいいのだろう。おそらくアドラー心理学を学び実践している人々はそれぞれ独自の理解でアドラー心理学を捉えていると思うし、誤解がない限りどれが正しいとか正統だということはさほど意味がない気がする。学問というのは次世代に引き継がれるなかで修正されつつ発展していくものだ。

 ただし、「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問」にも書いたように、アドラー心理学を自ら実践しようとはせず「他人を操作するために使う」ということであれば、それはアドラーが望んだこととは正反対のことだろうし、似非アドラー心理学と言われても仕方ないと思う。

【2月13日追記】
 野田俊作さんのこちらの記事によると、「課題の分離」「縦の関係・横の関係」などといった表現はアドラー自自身は使っておらず、アドラーの後継者による概念とのことだ。そうした言葉がアドラーの思想を分かりやすく端的に言い変えたもので、すでに一般化されている概念である以上、アドラー自身による表現であるかどうかに拘ることに意味はないと思う。


【関連記事】
アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問
アドラーのトラウマ否定論について思うこと
野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う


     
  


Posted by 松田まゆみ at 17:05Comments(0)雑記帳

2017年01月31日

野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う

 日本アドラー心理学会の初代の会長である野田俊作さんのウェブサイト「野田俊作の補正項」をときどき読んでいるのだが、最近、岸見一郎さんに対する苦言がしばしば出てくる。正確に言うならば、「嫌われる勇気」に対する批判といったほうがいいだろう。野田さんが批判的意見を言うのはもちろん自由なのだけれど、正直なところ私はそれをやや苦々しく思っている。その理由を書きとめておきたいと思う。

 野田さんによる「嫌われる勇気」批判は、このあたりから始まっているのではないかと思う。ここでは書名を書いてはいないが、「嫌われる勇気」を指していることは誰にでも分かる。

 この記事で、野田さんはこんなことを書いている。「彼の意見はさまざまの事項について「標準的な」アドラー心理学から偏っています。たとえば彼はある状況下では協力を拒否することが重要であると述べ、「他者からの承認を求めない」とか「他者の期待を満たす必要はない」とか「他者の問題に介入してはいけないし、自分の問題に他者を介入させてはいけない」というようなことを書いています。」

 またこちらの記事では「アドラー・ブームの火付け役である岸見一郎氏の『嫌われる勇気』は、「課題の分離」ばかり強調して「協力」に関連する考え方をあまり含んでいないので「名目アドラー心理学」だと思っていたが(これはいちおう許容範囲内)、同じ題名を冠したテレビドラマはアドラー心理学に反する考えややり方でいっぱいなので、間違いなく「似而非アドラー心理学」だ(これは完全に許容範囲外)。岸見氏ご自身はこれについてどうお考えなのだろうか。」と書いている。

 もう一つ、トラウマに関する記述についても批判的で、こちらの記事で「なんでも、最近流行の「ブーム型アドラー心理学」では、「トラウマは無い」ということになっているのだそうだ。」と指摘している。私なりに解釈するなら、「嫌われる勇気」の「トラウマを否定する」という書き方が誤解を招くといいたいのだろう。

 そして野田さんは、嫌われる勇気」は許容範囲内だが、重要な要素を欠いているので「名目アドラー心理学」だと評している。

 一方、私は日本アドラー心理学会の顧問や認定カウンセラーでもある岸見さんがアドラー心理学を正しく理解していないとは思っていない。岸見さんの「アドラー心理学入門」や「不幸の心理 幸福の哲学」も読んでいるが、課題の分離ばかりにこだわっているとも思わないし、援助についても書かれている。トラウマやPTSDについても、それらの症状の存在を否定してはいない。「嫌われる勇気」においてもPTSD症状は存在しないとは書いていない。ただし、「トラウマを否定」という書き方は、読者の誤解を招きやすいのは確かだろう。

 ここで着目すべきは「嫌われる勇気」は岸見さんが一人で書いている本ではないということだ。私は今、野田さんの「アドラー心理学を語る」というシリーズ本の第一巻「性格は変えられる」を読んでいるが(これについては改めて感想などを書きたいと思っている)、野田さんによるアドラー心理学の解説は仔細に渡っていてとても勉強になるし、具体的事例もとりあげていて分かりやすい。しかし、失礼なことを承知で書くなら、いくら優れた解説書であっても、岸見さんや野田さんのアドラー心理学の本が「嫌われる勇気」のように爆発的に売れることはないだろうと思う。

 この違いは、「嫌われる勇気」が単にアドラー心理学の解説書を目指したのではなく、万人に理解できる本にすることで多くの人の手にとってもらうことを目指したことに関わっている。そしておそらくそうした著者らの意図が、野田さんの批判に関係しているのではないかと私は考えている。

 岸見さんにアドラー心理学についての本を出したいと持ちかけたのはライターの古賀史健さんだ。そして「嫌われる勇気」の文章を書いているのも古賀さんだ。この本を書きあげるにあたっては、古賀さんと岸見さん、編集者が議論を重ねているのは間違いないが、企画した古賀さんの方針が強く反映されているのは確かだろう。

 私は古賀さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本を読んだ。古賀さんは多数のベストセラーを手掛けてきたライターで、この本にはご自身の経験を元にした文章術がまとめられている。彼は読者を惹きつけるテクニックを良く知っており、「嫌われる勇気」を書くにあたってももちろん「20歳の…」に書いている文章のテクニックを駆使している(と私は思っている)。

 たとえば、古賀さんは「ライターは翻訳者である」と語っている。これが彼の文章を書くにあたっての基本的姿勢でありポリシーだ。つまり、古賀さんがご自身のフィルターを通して岸見流アドラー心理学を翻訳することで、とっつきにくい心理学を誰にでも分かるように解説したのが「嫌われる勇気」や続編の「幸せになる勇気」なのだと私は理解している。

 他にも、たとえば文章にリズムや説得力を持たせるために断定した書き方を入れるとか、文章の構成が重要だとか、あるいは読者を説得するのではなく納得させる文が良いとか、編集(推敲)では「書き足す」よりも「ハサミを入れる」など、古賀さん流の文章テクニックが紹介されている。青年の大げさな発言などはときに吹き出してしまうが、もちろんこうした誇張も読者を惹きつけるためのテクニックだ。

 ただし、古賀さんの翻訳や、断定、取捨選択の編集テクニックによって、切り取られすぎてしまった部分もあるだろうし、誤解を招きかねない部分も生じてしまったのだろうと私は勝手ながら推測している。そして、そこが野田さんの批判の的になってしまった気がしてならない。

 では、「技術を駆使した分かりやすい文章」によって売れる本を目指すことは不適切なのだろうか? こうした本はまがい物なのだろうか? 私はそうは思わない。私自身、ある方のブログで「嫌われる勇気」を知ってアドラー心理学を知り、この本を出発点に他のアドラー心理学の本も何冊か読んだ。本がベストセラーとなって話題になれば、私のようにこれまで心理学と何ら接点のなかった人がアドラー心理学の存在や概要を知る機会が増えるし、それをきっかけに、アドラー心理学をより詳細に解説している本へ誘導することにも繋がる。

 現に、絶版になっていた野田さんの本が昨年末に改訂・再版されたのも、「嫌われる勇気」に端を発しているのだろう。「嫌われる勇気」も野田さんのシリーズ本も一般の人を対象にした本だが、「嫌われる勇気」はこれまで心理学とは縁のなかったような人も対象にした導入のための本であり、アドラー心理学を詳細に解説している野田さんの本とは立ち位置や役割がやや異なる。

 もし「嫌われる勇気」が間違ったアドラー心理学の本なら由々しきことだが、野田さんも「許容範囲」だとしていて誤りだとまでは言っていない。また私自身は、続編の「幸せになる勇気」の発行で、共同体感覚についてはかなり補足されたと感じている。ただし、古賀流の文章術によって、アドラー心理学を誤解してしまう読者がいるなら、それはそれで問題であることは否定できない。

 私が冒頭で「苦々しく思っている」と書いたのは、この問題をめぐって野田さんの意見しか聞こえてこないことだ。アドラー心理学に関わる人たちの中には、この状況に当惑している人もいるのではなかろうか。野田さんと岸見さん・古賀さんの路線の違いといえばそれまでだが、第三者から見たら本当にそこまで批判すべきことなのだろうか?この状況をいくらかでも改善できないのだろうか?とどうしても感じてしまう。

 そこで、余計なお世話かもしれないが、門外漢の私からひとつの提案をしておきたい。すでに売れてしまった本についてはどうにもならないが、増刷する際には増補改訂版にして、野田さんが不十分だとか誤解を招きやすいと考えている部分に注釈をつけるなり、最後にまとめて解説を加えるという方法があるのではなかろうか。そして、その増補部分は出版社のウェブサイトに掲載するなどして、誰にでも読めるようにするというのはどうだろう。すでに誤解してしまった読者に対しては不十分な対応だろうが、このまま何もしないよりずっといいのではないかと思う。

 もう一つ、野田さんはこちらの記事でアドラー心理学は本や講演では学べないと書いている。本ではアドラー心理学がどういう思想であるかを知ることはできるが、アドラー心理学を身につける、すなわちアドレリアンとして実践するには講習会やワークショップでの体験が必要だということだろう。

 私は「嫌われる勇気」を読んだ人は、以下の三つのタイプに分かれるのではないかと考えている。

1.アドラーの思想を理解できない(しようとしない)。あるいは間違っていると思う。
2.アドラーの思想は理解できるし間違っているとは思わないが、実践しようとは思わない。
3.アドラーの思想を理解し、より深く学んだり実践しようとする。

 このうち圧倒的に多いのが1ないしは2だと思う(単なる勘だけれど)。より深く学んだり講座などを受けて体験的に身につけようと行動に移す人は限られているだろうし、野田さんの本を読んでみても、「本を読めば身につく」というほど簡単なものではなさそうなことも分かる。

 ならば、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」がベストセラーになって売れることは意味がないかというと、そうは思わない。これらの本によって、アドラー心理学がどんな思想であるかを知ることはできるし、自分の抱えていた問題に気づく人も多いだろう。上記の1や2の人でも、今後の人生で思い悩んだときに本を読み直し、ライフスタイルの再選択を決意する人もいるのではなかろうか。本が多くの人の手に渡り、アドラーの思想が頭の片隅にでも引っかかることは、それなりに意味があると私は思っている。私も、生きているうちにアドラー心理学に出会えて本当によかったと思っているし、野田さんの本も知ることができた。これも「嫌われる勇気」に出会えたからに他ならない。

 なお、「嫌われる勇気」のテレビドラマについては見ていないし興味もないが、主人公のふるまいがアドレリアンと程遠いのなら、それはドラマの脚本を書いた人の理解の問題が大きいのではないかと思う。

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2017年01月29日

石城謙吉さんの環境問題講演集「自然は誰のものか」

 昨年末、石城(いしがき)謙吉さんの講演をまとめた書籍「自然は誰のものか」(エコネットワーク発行)が出版された。石城さんは川魚をはじめとした動物の研究者であり、北大苫小牧研究林の林長として森林問題にも関わってこられた方だが、同時に自然保護にも取り組まれてこられた。植物学者の故河野昭一さんもそうだが、自分の研究に没頭するだけではなく自然保護に尽力される研究者に、心から敬意を表さずにはいられない。本書は石城さんの講演会から11話を選んで書籍にまとめたものだが、どの話しも幅広い知識と経験、深い洞察力に裏打ちされている。

 最近は講演会を聞きに行くことがめっきり減ったが、以前はときどき講演会や学習会に参加して、専門の方たちの豊富な知識のおすそ分けに預かった。ただ、悲しいかな、講演会や学習会で知り得た知識や情報のうち頭脳に鮮明に記憶されるのはごく一部であり、話しの多くはなかなか記憶として留まらない。しかし、本書のように講演者が自ら講演内容をまとめて文章として残してくださると、あとで何度も読み返すことで理解を深めることができる。しかも、石城さんの講演は実に中身が濃く、示唆に富んでいる。このような話しをまとめて書籍にした意義は大きい。

 本書のタイトルともなっている第1章の「自然は誰のものか」は1989年の講演記録だから、今から28年も前の時点での話しだ。本章では、日本の大規模開発計画が昭和35年に発足した池田内閣の「全国総合開発計画(一全総)」に端を発し、昭和44年の佐藤内閣による「第二次全国総合開発計画(二全総)」、昭和47年の田中内閣による「日本列島改造論」、昭和52年の「第三次全国総合開発計画(三全総)」、昭和62年の「第四次全国総合開発計画」やリゾート法(総合保養地域整備法)へと受け継がれてきたことが示されている。戦後の高度経済成長の中で進められていった政府の開発計画こそ、日本の自然が次々と失われていった元凶だ。

 乱開発が始まった当初から自然保護に関わってきた人々は、程度の差こそあれこうした背景を理解しているだろう。重要なのは、石城さんが明確に指摘しているように、日本の自然を滅茶苦茶にした開発計画の目的は、中央集権体制の強化と再編にあるということだ。大規模工業開発やリゾート開発の流れの根源にあったのは、国と大資本による地域収奪であり、国と大資本による経済成長のための戦略だ。だから、開発に伴って全国各地で生じた自然破壊、環境破壊に対する反対運動の大半は、まさに国や大資本との闘いだった。そして、今もその構図は続いている。リニア新幹線などはその典型だろう。

 先日、昔書いたエッセイを3編アップし、最後に青字で注釈を添えた。「シギと私」では、東京湾や有明海をはじめとした干潟が失われていったことに触れ、「」では、八ヶ岳山麓のリゾート開発について触れた。海にも山にも押し寄せた開発の嵐は、かろうじて残されていた日本の自然を切り刻み、地方を切り捨ててきた。今更ながら、そのことを痛切に感じる。

 本書では、水や川をめぐる講演も2つ取り上げられているが、実に奥深い。「人間と水」という章に出てくる信玄堤や分水の事例は、現在の治水の見直しにも役立つだろう。武田信玄は、御勅使川(みだいがわ)支流を分けて釜無川との合流点を増やすことで水の勢いを弱めたり、堤防に切れ込みを入れて水の勢いを分散させる信玄堤(霞堤)という治水工事を行った(この工事についてはこちらを参照いただきたい)。こうした手法は自然の摂理に沿った治水といえるだろう。

 また、利水と治水の両方の機能を兼ね備えていた諏訪市の角間川の分水についても取り上げているが、昔の人の知恵に驚かされる。諏訪は石城さんの故郷だが、私の生まれ故郷でもあり、角間川は子どもの頃からなじみがある川だ。石城さんによると、角間川は上流で分水され、諏訪市街の東側にある山の裏側を通って市街地側の斜面に流れ込み、さらに分水されて農業用水や生活用水として使われていたという。

 この話しを知ってすぐに頭に浮かんだのは、諏訪の茶臼山の叔母の家の近くを流れていた小さな川のことだった。子どもの頃、夏休みに叔母のところに遊びに行くと、冷たい水が勢いよく流れているその川に遊びにいったものだが、細い道にそって流れるその川は子どもながらに自然の川とはどこか違うと感じていた。そこで、インターネットで公開されている国土地理院の地図から角間川を辿ってみた。

 なるほど、角間川は上流の2カ所で分水されている。一つは蓼の海(たてのうみ)という人造湖(ため池)を経由して山の鞍部を越し、もう一つは角間新田の上流で分水され鞍部を越えている。それぞれの分水地点からは鞍部に向かって等高線に沿うように水路が掘られ、鞍部を越えて反対側の斜面へと流れているのだ。こんな上流で分水をしていたとは知らなかった。そして、叔母の家の近くに流れていた小川は、角間川の下流部で分水されたものだということも分かった。諏訪の街中にはあちこちに水路があったことは子どもながらに記憶していたが、あの水路の意味に納得した。

 人の手によって本来とは異なる水系に水を流す行為は自然の摂理に反するものだ。しかし、節度をわきまえてさえいれば大きな災害には結び付かないだろうし、むしろ洪水の抑制につながる。自然との共生を目指した先人の知恵だ。ところがダムや河川改修などの大規模な治水や利水事業によって、昔ながらの優れた利水・治水は今ではほとんど姿を消してしまった。諏訪の水路網も今は使われていないという。

 公共事業という名の元で進められたダム建設や河川改修は自然を破壊しただけではなく、ダムの放水による洪水や、河川の直線化による破堤、溢水など新たな災害を生むようにもなってきている。自然を制御しようという考えが根底から間違っていることを教えてくれる。

 本書で取り上げられている講演はいずれも充実した内容のものばかりだが、人間社会の福祉と戦争について取り上げた「動物学からみた人間」についての考察は、考えさせられることが多い。直立二足歩行によって両手を自由に使えるようになり脳が発達して文化を発展させてきた人間は、高齢者や障害者、病人などといった社会的弱者を見捨てないという他の生物には見られない独自の生き方を選んできた。このような生き方を否定するような弱者切り捨ての行く末には、人間の将来はないだろうと石城さんは言う。

 昨年は相模原の障害者施設で入所者や職員多数が殺傷されるという凄惨な事件が起きた。安倍政権は、弱者切り捨ての法案を次々と成立させているばかりか、平和憲法をかなぐり捨てて戦争ができる国へと突き進んでいる。ネットでは気に入らない者、社会的弱者を叩いて優越感に浸ろうとする人が溢れている。人間以外の生物ではありえない殺伐とした光景だ。こんなときだからこそ、福祉と戦争について取り上げたこの章は、意味深いものになっている。


  
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Posted by 松田まゆみ at 15:46Comments(0)自然・文化雑記帳

2016年12月31日

年の暮れに

 今日で今年も終わり。子どもの頃は一年がものすごく長く感じたのに、歳とともに短くなり、昨今では飛び去るように過ぎてしまう。なんだか追い立てられているようだ。

 「別れ」が増えてくるのも歳をとった証だろう。今年は喪中葉書がいつになく多く15枚もあった。自分より年上の方の訃報が多いとはいえ、友人や知人の訃報を耳にするたびに寂しさがこみ上げてくる。かつて共に語らい心を通わせた人たちが、一人、また一人と亡くなっていくのは、なんともやるせない。

 今年は植物学者で京大名誉教授の河野昭一先生と、昆虫学者で帯広畜産大学名誉教授の西島浩先生の訃報が届いた。

 私が河野昭一先生を知ったのは、学生時代に大学の図書館で手にした「植物の進化生物学 種の分化と適応」だった。進化や種分化に興味を持ちはじめていた頃だったからこそ、この本と著者の名前は脳裏に深く刻まれた。そして、日本におこんな優れた研究者がいるのだと知った。

 その後、河野先生は自然保護運動に積極的に関わっていることを知って、私は大いに認識を新たにした。日本では自然保護などの草の根の社会運動に積極的に関わる研究者はとても少ない。単に研究に忙しいということだけではなく、たぶんいろいろなしがらみの中で圧力のようなものがあるのだろう。しかし河野先生は、大規模林道問題全国ネットワークの代表を務め、全国各地で自然保護のための調査にも関わって大活躍されていた。国際自然保護連合の生態系管理委員会東アジア地区副委員長も務めるという希少な研究者だった。

 そんな河野先生と行動を共にすることになったのは、2005年の上ノ国町ブナ林伐採現場への視察だった。それ以来、十勝東部の国有林の伐採現場、上士幌町の幌加・タウシュベツの皆伐現場、上川町の石狩川源流部の違法伐採現場など、道内各地の伐採現場での視察や調査で行動を共にした。

 かつては雲の上の存在だった河野先生と、自然保護の現場でともに行動することになるとは夢にも思っていなかった。70歳を超えてもとてもお元気で全国を飛び歩き、誰とでも気さくに話しをされる河野先生に、私などはいつも元気づけられていた。今となっては、それも懐かしい思い出だ。

 河野先生亡きあと、先生に代わって自然保護のために行動する研究者が果たしてどれほどいるのだろうか?と思わざるをえない。それほど、自然保護、とりわけ森林保護に尽力された類い稀な研究者であられた。

 西島浩先生は深い付き合いがある訳ではなかったたが、大学時代の恩師(昆虫学)とは親友の中だったそうで、お二人で尋ねてこられたことがあった。根っからの昆虫好きで、虫好きが高じて研究者となり、一生を虫とともに暮らしたといっても過言ではないだろう。

 何年か前に千歳のご自宅に2回ほど伺ったことがある。ご高齢でありながら一人暮らしをされており、居間のテーブルには昆虫の本が積まれ、一日中、昆虫の本や資料に囲まれて過ごされているようだった。そして、私の顔を見ると「このあたりにもオニグモがたくさんいて夏になるとオニグモヤドリキモグリバエを見かけるのだが、最近はオニグモもあまり見られなくなった」と嘆いていらした。

 オニグモヤドリキモグリバエは産卵前のオニグモの腹部に卵を産みつける小さな黄色い寄生バエで、幼虫はオニグモの卵を食べて育つ。昆虫愛好家として、クモも寄生バエも興味深い対象として観察されていたのだろう。長生きされたのは、昆虫というかけがえのない趣味を生涯に渡って心から楽しんでいたからに違いない。いくつになっても好きなことに没頭できるというのは素晴らしいことだと思う。

 お二人のご冥福を心よりお祈りしたい。

 さて、私もあと何年生きられるのか分からないが、今年も大きな病にもかからず、事故にも遭わず、平穏に過ごせたことに感謝したい。この国が平和でいられるのも、あるいは自由に物を言えるのも、今のうちかもしれない。一度しかない人生なのだから、言いたいことも言わず、やりたいことを我慢するつもりはない。せめて残された人生を自分に正直に生きたいと思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 07:01Comments(2)雑記帳

2016年10月25日

アドラーのトラウマ否定論について思うこと

 アドラー心理学の「トラウマを否定する」という考え方について、納得できないという人は多いと思う。なぜなら、トラウマ(心的外傷)とかPTSD(心的外傷後ストレス障害)は実際に存在するし、それが当事者にとっては生活上の大きな支障になっていると認識されているからだろう。

 しかし、私はアドラーの主張は基本的に間違っていないと思う。岸見一郎さんはアドラーのトラウマ否定論について、「幸福の心理 幸福の哲学」(唯学書房)で以下のように説明している。

 主人の側について歩くことを訓練された犬がある日、車にはねられた。この犬は幸い一命をとりとめた。その後、主人との散歩を再開したが、事故にあった「この場所」が怖い、と、その場所に行くと足がすくみ、一歩も前に進めなくなった。そしてその場所には近づかないようになった(Adler, Der Sinn des Lebens, S29)。
 「事故にあったのは、場所のせいであって、自分の不注意、経験のなさではない」と結論付けた犬は、この考えに固執し危険はこの場所で「いつも」この犬を脅かした。
 アドラーが比喩で語るこのケースは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のケースであると見ることができるだろう。神経症の人もこの犬と同じである、とアドラーはいう。面目を失いたくはないがために、ある出来事を自分が人生の課題に直面できないことの理由にするのである。
(27ページ)


 私はこの部分を読んで、自分が犬に咬まれたときのことを思い出した。あれは小学校高学年の時だったと思う。道端のフェンスに犬が繋がれていた。動物が嫌いではなかった私は犬に近づいて頭を撫でようとしたのだが、犬はいきなり私にとびかかって腕に咬みついた。私はびっくりしたと同時に「しまった!」と思ったが、後の祭りだった。腕には犬の歯形がしっかりとつき血がにじんだ。ただし、犬も本気で咬みついた訳ではなかったようで、大事に至るような怪我ではなかった。

 犬が嫌いではないがゆえに、咬みつかれるとは考えもせず不用意に近寄ったことが不幸を招いた。その後しばらくの間、私は大きな犬を見たり犬に吠えられるたびに恐怖に襲われた。アドラーの比喩にある交通事故にあった犬と同じであり、いわゆるPTSDといえるものだろう。これは、恐らく咬まれたときの恐怖が「犬=恐怖」という記憶となって脳にインプットされてしまったのだと思う。しかし、いくら犬が吠えたてたとしても、繋がれているなら近寄らなければ咬まれないし、人に咬みつく犬は多くはない。よく考えれば犬という動物はそれほど怖がる存在ではないのだ。それを自分で認識するようになるにつれ、犬への恐怖感は消えていった。

 「クモ恐怖症」も同じだ。クモ恐怖症の人はクモが大嫌いで、クモを見ただけで怖がりパニックになったりする。これもトラウマ、PTSDと言えるだろう。クモ恐怖症になってしまう人は、恐らくクモに咬まれて痛い思いをしたとか、テレビや映画などでタランチュラなどに襲われる場面を見たことが「クモ=恐怖」として脳にインプットされ、その思い込みから逃れられないのだろうと思う。

 しかし、私を含め、クモが大好きな人はたとえクモに咬まれて痛い思いをしてもクモ恐怖症になることはない。クモ愛好者の多くは素手でクモを採集するが、たまに咬まれてしまうことがある。そんなときは自分に問題があったと自覚しているから、クモが悪いとは考えない。また、クモの毒性についても知識があるから、たとえ咬まれても冷静に対処できる。大半のクモは怖い存在ではないと理解していれば、クモ恐怖症にはならない。

 ちなみにクモや昆虫を素手で触る私を見て育ったわが家の子どもたちは、クモも昆虫も怖がることはない。恐怖症になるか否かは、過去の経験や周囲の人の影響で「○○は怖い」という情報が脳に刻まれてしまい、それに強く支配されてしまうか否かというところにありそうだ。そして、恐怖に支配されるか否かは、当事者の意識が大きく関わっている。

 夫のモラハラ(モラルハラスメント)でPTSDになったという人のブログを読んだことがある。モラハラ夫は妻を自分の所有物のように支配しようとする。その女性は、モラハラ夫が単身赴任になり週末にのみ自宅に帰ってくる生活になってから、週末になると酷い体調不良で入院するようになった。そして、医師からPTSDだと告げられる。その後、彼女は離婚を決意して離婚のための行動にでるとPTSDがなくなったそうだ。この女性が夫のモラハラによってPTSDを発症したのは事実であっても、意識の転換によって発症を抑えることができたのだから、PTSD発症の鍵を握っているのはモラハラそのものというより女性の意識が大きい。ならば、モラハラがPTSD発症の直接の原因だと決めつけることにはならない。

 ところが、PTSDに苦しんでいる人はしばしば自分の不幸や辛さを、トラウマを生じさせたできごとのせい、あるいは加害者のせいだと考える。このような原因論に捉われてしまうと、意識の転換ができないのでずっとPTSDに支配されることになる。そして、自分の責任をトラウマに転嫁させてしまうことになりかねない。アドラーはこれを「見かけの因果律」と言った。

 モラハラ夫でPTSDになった女性の事例で言うなら、モラハラ男との結婚という選択をした責任は彼女にあるし、夫の支配になんら対策を講じずに結婚生活を続けた責任も彼女にある。その責任を自覚して自分の抱える「愛の課題」に向き合い離婚の決意をしたときにPTSDから解放されたといえるだろう。

 自分自身に何ら責任がない事件や事故、自然災害などによる恐怖もトラウマになる。しかし、そのトラウマは前述したように、脳が勝手に刻み込んだいわば「思い込みによる恐怖」といえるものだ。事件が起きた場所に行くとPTSDを発症するという場合があるが、そこに行ったらまた同じことが起こるというわけではない。脳に記憶された恐怖が場所と結びついているだけだ。

 事件や事故、自然災害に巻き込まれることは稀であるし、その教訓を今後に生かそうと自覚できれば、トラウマの恐怖に支配されることもなくなるだろう。PTSDになるかどうかは当事者の意識が大きく関わっているのに、過去の事件や事故のみに原因を求めて固執する人は、いつまでもPTSDから抜け出せなくなり、やがてトラウマやPTSDを、自分が人生の課題に取り組まないことの言い訳にするようになる。

 岸見さんの著書から再び引用したい。

 アドラーは、トラウマは必ずしもトラウマである必要はなく、いかなる経験もそれ自身では、成功の、あるいは、失敗の原因ではない、人は経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自分を決めている、と考えている(What Life Could Mean to You, P42)。
 トラウマによる不安を訴える人がもともと困難を回避する傾向があるということはありうる。働きたくないと常々思っていた人であれば、職場に行かないでいることを正当化する理由ができたと思うかもしれない。最初は事故にあった場所や事件に巻き込まれた場所に行った時、不安になったり心臓の鼓動が速くなったり頭痛がするという症状が出ただけだったのに、やがてその場所の近くを通りかかるだけでも症状が出るようになり、そうなると外へ一歩も出られなくなるのはすぐのことである。
(30ページ)

 アドラーはトラウマやPTSDの存在そのものを否定しているわけではない。過去の辛い経験について、当事者がトラウマだと思えばトラウマになってしまうが、そう考えなければトラウマにはならないと指摘しているのだ。トラウマになるか否か、PTSDを引き起こすか否かは過去の経験そのものより、当事者の考え方(経験にどのような意味づけをするか)によって決まる。だからこそ、同じ辛い経験(たとえば大津波で家族を失うなど)をしても、PTSDになる人とならない人がいるのだ。

 岸見一郎・古賀史健著「幸せになる勇気」で、アドラー心理学を説く哲人は以下のように語っている。

 彼らのような生き方を選ぶのは子どもだけではありません。多くの大人たちもまた、自分の弱さや不安、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論みます。心配させ、言動を拘束し、支配しようとするのです。

 非常に厳しい言い方であるし、PTSDに苦しんでいる人にとっては受け入れがたい考え方かもしれない。しかし、この指摘はやはり真実だと思う。過去の経験にどのような意味付けをするかでトラウマになるかならないかが決まるのなら、意味付け(考え方)を変えることでトラウマやPTSDから抜け出すことができる。それにも関わらず、「自分の不幸は不遇な環境やトラウマのせいであり、自分には一切責任がない」という思考にはまってしまうと「意味付けを変える」という思考ができず、いつまでもPTSDに捉われて前に進めない(人生の課題に取り組まない)ばかりか、無意識のうちに他者を支配することになりかねない。

 アドラーのトラウマ否定論については、以下も分かりやすい。

http://diamond.jp/articles/-/52954?page=4
http://yuk2.net/man/110.html

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Posted by 松田まゆみ at 10:24Comments(0)雑記帳

2016年09月23日

断捨離

 断捨離を始めた。心の奥では溜まりに溜まったモノを何とかしなければ・・・とずっと思ってはいたのだけれど、モノが溜まれば溜まるほど断捨離をするのがおっくうになる。所詮、怠惰なのだ。

 なぜモノが溜まってしまうのか。いろいろ理由(言い訳)はある。私の親は何でもとっておくタイプだった。だから私もその感覚が自然と身についてしまったということが一つ。古くなったり壊れたりして使えなくなったものはともかくとして、自分の所有物を捨てるという感覚が子どもの頃からなかった。だから子どものときに友だちからもらった手紙まで箱に入れてしまってあったし、それが当たり前だと思っていた。しかし、よくよく考えてみたら、そんな人はいったいどれほどいるのだろう? ここまでくると笑うしかない。

 「もったいない」「とっておけばいつか使うこともあるだろう」というのもモノが捨てられない言い訳の一つだ。そうやってとっておいても、結局それを使うことはほとんどない。しかも、何年も経つと何をとっておいたのか、どこにしまったのかも忘れてしまう。そして押入れや棚の空間を占領し続ける。

 今回の断捨離も極めて消極的な理由から始まった。クモの標本置き場がなくなってしまったのだ。これを解決するには、棚の中を整理して要らないものを捨てるしかない。そうやって断捨離を始めてみたら、まあ呆れるほどゴミの山ができあがった。よくぞこんなに溜めこんだものだと思う。とくに多いのが自然や自然保護関係の会誌や資料。今関わっている団体の資料だけ残し、それ以外のほとんどをファイルから外して紐で縛る。

 40年以上も前の学生時代の資料も出てくる・・・。青春の思い出をばっさりと切り捨てるような感覚になるが、過去に拘り執着したところで感傷でしかない。もういい加減モノへの執着は止めねばならない。

 母が亡くなった2年前、実家の片づけをした時のことを思い出した。最終的には業者に処分をお願いしたのだけれど、その前に家の中のモノを一通り確認しなければならない。大量のゴミ袋を買って、個人情報の書かれたものは可燃ゴミに、雑誌や紙類は資源ゴミに・・・といった具合に、汗だくになって仕分けをしてゴミ出しをした。しかし、親のことを言ってはいられない。自分自身も大量のモノを溜めこんでいるではないか。これでは残された者はたまったものではない。

 モノが増えれば増えるほど、断捨離の決行にはエネルギーが要る。しかし、歳をとればとるほどエネルギーがなくなってくる。人生の終盤にさしかかったもののまだ多少なりともエネルギーが残っている今やらねば、大変なことになるに違いない。

 数日間の断捨離でかなりすっきりしてきた。でも、まだまだ捨てるべきものはいろいろある。本棚の本も減らそう。押し入れの中もチェックしなければならない。衣類の断捨離は一度やったが、もう一回やる必要がありそうだ。時間をみて、少しずつ進めていこう。せめて、残された家族に大きな迷惑をかけないようにしておかねば、と思う。
  

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2016年08月20日

競争の弊害

 私はスポーツにはとんと興味がないし、オリンピックも関心がない。オリンピックがすでに商業主義になっていることもあるが、メダルや勝敗にばかりこだわることにどこかうんざりとした気持ちがある。テレビも見ていないからどうでもいいといえばそうなのだけれど、新聞は毎日、トップでオリンピックでの選手の活躍ばかり伝えているので、興味がなくても目にはいってくる。

 そんな中で飛び込んできたのが、レスリングで銀メダルをとった吉田沙保里選手が「金メダルが取れなくて、ごめんなさい」と泣いて謝る痛々しい姿。彼女の謝罪には、日本の代表として競技に臨む選手の重圧がそのまま現れている。彼女の謝罪に違和感を覚えた人は多いと思うが、こうした無言の圧力こそ無用なものだし、私がスポーツに関心を持てない理由のひとつだ。

 吉田選手は謝る必要などまったくない。彼女は日本のためにレスリングをやっているわけではないし、彼女を応援している人のためにやっているわけでもない。最善を尽くしたのだからそれでいいではないか。今回は金メダルをとれなかったが、次もダメだとは限らないのだし、自分の期待がかなわなかったからといって他人がとやかくいうことではない。王者といわれる実力の人でも、永遠に王者でいることはできないし、いつかは後進に道を譲らねばならない。第三者が勝手に期待をかけてしまうこと自体が間違いだと言わざるをえない。

 日本では、中学や高校の部活動においても勝敗にこだわる教育がなされている。とにかく勝つことが目的になっている感がある。これは何もスポーツに限らない。文化系の部活でも、コンクール、コンテストなどで競うことは少なくない。もちろん、試合において勝利を目指すことを否定はしないのだけれど、なぜそこまで競い、勝敗は順位に拘るのかと、私は不思議でならない。

 たとえば写真甲子園という高校生の写真選手権大会がある。新聞に掲載された入選写真を見ていつも思うのは、結局「選ばれること」を意識した写真になってしまうということだ。はじめから入選を意識するので、「撮りたい写真」ではなく審査員の目を意識した「入選するための写真」を撮ることに必死になる。写真のような芸術は、本来、評価されるために撮るものではないし競うものではないと思うのだけれど、なぜそこまで競いたいのか私には理解しがたい。

 勝敗にこだわり、子ども達を追いたてれば無言の圧力になってしまうし、ときに本来の目的や楽しさから外れ、他者の期待を満たすことが目的になりかねない。競争も圧力もマイナス効果しか生まないと思う。
  


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