さぽろぐ

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2018年09月15日

ぎっくり腰と労作性頭痛

 今日は秋晴れのすがすがしい天気だったので、昼食後に庭の草取りをすることにしたのだが、昨年種を蒔いた宿根かすみ草が大きくなりすぎて邪魔になったので草取りの前に引きぬくことにした。ところが、かすみ草の根は直根でかなり深く地中に伸びている。ちょっと引っ張ったくらいでは抜けない。

 根のまわりを少し掘ってから根元をつかんで引きぬこうとした瞬間、背中にギクっときた。「あらら、やってしまった!」と思いつつその場に尻もちをついてへたり込んだ。1、2分そのまま動けずにいたのだが、そろりそろりと立ちあがったら何とか歩けるようだ。私はぎっくり腰というのは経験がないのだが、恐らくぎっくり腰ではないかと思う。

 重い物を持ち上げたときなどにぎっくり腰になるとよく言われているが、引きぬく動作でもなるのかとちょっとびっくり。しばらくはそろりそろりの生活になりそうだ。

 ところで、今年の夏は労作性頭痛というものに見舞われた。窓を外して拭き掃除をしていた連れ合いが、元通りに嵌めるのを手伝ってほしいと言う。窓といっても高断熱ペアガラスの大きな窓なのでとても重い。少し腰をかがめ思いっきり持ち上げようとした瞬間、これまで経験したことのないズキンという強烈な頭痛に襲われた。

 突然の頭痛に脳卒中ではないかと焦ったが、会話もできるし体も動く。どうやら脳卒中ではなさそうだ。そして、ネットで調べていくうちにこちらのブログを見つけた。症状が全く同じなので、労作性頭痛であるという結論に達した。それなら病院に行くこともないだろうと思って様子を見ることにした。

 労作性頭痛は重い物を持ち上げるときや激しいスポーツをしたときに起き、「重量挙げ頭痛」とも言われている。脳の血圧が一気に上昇して血管が圧迫されることで起きるらしい。そう言えば、思っていたより重かったので、持ち上げるときに無意識に息をとめてお腹に力を入れたようだ。

 じっと座っているなど体を動かさなければ痛みはないのだが、立ちあがったり歩いたりするとズキンズキンという頭痛に襲われる。それがおよそ2週間続いた。この間はずっとそろりそろりの生活を余儀なくされた。その後、次第に回復して3週間後には症状がほぼ消えたが、重い物を持ちあげるときは要注意だと思った。

 そんなことがあってから重い物を持ち上げることには注意していたのに、今度は「引きぬく動作」で腰を痛めてしまった。今まで「引きぬく動作」で腰痛になったことはなかったので、これもちょっとびっくり。歳とともに力仕事は気をつけねばと痛感した。
  
タグ :労作性頭痛


Posted by 松田まゆみ at 17:19Comments(2)雑記帳

2018年09月09日

再び「暗闇の思想」を

 今日の北海道新聞によると電気がほぼ復旧した昨日はスーパーマーケットやコインランドリーに大勢の人がつめかけたそうだ。流通はかなり回復してきているが、生鮮食料品などは売り切れたり入荷していないものも多いらしい。

 北海道の全域が停電するというブラックアウトから2日ほどで電気がほぼ復旧したのは幸いだったが、新聞記事を見ながらいろいろ考えさせられた。

 地震直後はコンビニでもスーパーでも食品の棚が空になったようだが、1日とか2日分の食品すら備蓄していない人が多いことに驚いた。私たちはほんの7年前にあの東日本大震災を経験している。その後も熊本をはじめとして大きな地震が何度も起きているし、集中豪雨や台風の被害も経験している。東日本大震災以来、3日分ほどの水と食料の備蓄が呼びかけられていたのに家に食べ物がない人がそれなりにいるのだから、防災意識に欠けている人がまだまだ多いのだろう。

 さらに驚いたのは、たった2日程度の停電でコインランドリーに人が押し掛けるという現象。災害で停電中という非常時なのに普段と同じようにこまめに着替えをし、洗濯物の山をつくっている人もいるようだ。電気が通じたとはいえ、供給はぎりぎりで節電を呼び掛けているというのに電気消費量の多い乾燥機を使うという神経は私には理解しがたい。

 現代人の多くは「電気は使いたいときにいくらでも使えるのが当たり前」「電気がない生活は考えられない」という感覚なのだろう。

 私が子どもの頃は電化製品が次々と普及していった時代だったが、それでも日本人の電力消費量はさほど多くはなかったと思う。ほんの数十年の間に私たちは電気を湯水のごとく使う生活が当たり前になり、湯水のように使えるほど電気が供給されるのが当たり前になった。しかし、ちょっと発想を転換すれが、まだまだ節約ができるのではないかと思えてならない。電子レンジも衣類乾燥機もない時代だって、そんなに不便ではなかったのだから。

 停電になると私は松下竜一氏の「暗闇の思想」を思い出す。東日本大震災の翌年に私はこんな記事を書いている。

今こそ意味をもつ松下竜一氏の「暗闇の思想」

 2日や3日の停電で右往左往する現代人は今一度、ここに引用した松下氏の「暗闇の思想」を読んでみたほうがいいように思う。1974年に書かれたものだ。ということで、再びここに転載しておきたい。

*****

 あえて大げさにいえば、「暗闇の思想」ということを、この頃考え始めている。比喩ではない。文字通りの暗闇である。きっかけは電力である。原子力をも含めて、発電所の公害は今や全国的に建設反対運動を激化させ、電源開発を立ち往生させている。二年を経ずに、これは深刻な社会問題となるであろう。もともと、発電所建設反対運動は公害問題に発しているのだが、しかしそのような技術論争を突き抜けて、これが現代の文化を問いつめる思想性をも帯び始めていることに、運動に深くかかわる者ならすでに気づいている。かつて佐藤前首相は国会の場で「電気の恩恵を受けながら発電所建設に反対するのはけしからぬ」と発言した。この発言を正しいとする良識派市民が実に多い。必然として、「反対運動などする家の電気を止めてしまえ」という感情論がはびこる。「よろしい、止めてもらいましょう」と、きっぱり答えるためには、もはや確とした思想がなければ出来ぬのだ。電力文化を拒否出来る思想が。

 今、私には深々と思い起こしてなつかしい暗闇がある。10年前に死んだ友と共有した暗闇である。友は極貧のため電気料を滞納した果てに送電を止められていた。私は夜ごとこの病友を訪ねて、暗闇の枕元で語り合った。電気を失って、本当に星空の美しさがわかるようになった、と友は語った。暗闇の底で、私たちの語らいはいかに虚飾なく青春の想いを深めたことか。暗闇にひそむということは、何かしら思惟を根源的な方向へと鎮めていく気がする。それは、私たちが青春のさなかにいたからというだけのことではあるまい。皮肉にも、友は電気のともった親戚の離れに移されて、明るさの下で死んだ。友の死とともに、私は暗闇の思惟を遠ざかってしまったが、本当は私たちの生活の中で、暗闇にひそんでの思惟が今ほど必要な時はないのではないかと、この頃考え始めている。

 電力が絶対不足になるのだという。九州管内だけでも、このままいけば毎年出力50万キロワットの工場をひとつずつ造っていかねばならないという。だがここで、このままいけばというのは、田中内閣の列島改造論政策遂行を意味している。年10パーセントの高度経済成長を支えるエネルギーとしてなら、貪欲な電気需要は必然不可欠であろう。しかも悲劇的なことに、発電所の公害は現在の技術対策と経済効率の枠内で解消し難い。そこで電力会社や良識派と称する人びとは、「だが電力は絶対必要なのだから」という大前提で公害を免罪しようとする。国民すべての文化生活を支える電力需要であるから、一部地域住民の多少の被害は忍んでもらわねばならないという恐るべき論理が出てくる。本当はこういわねばならぬのに-誰かの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。

(中略)

 いわば発展とか開発とかが、明るい未来をひらく都会志向のキャッチフレーズで喧伝されるなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、「暗闇の思想」があらねばなるまい。まず、電力がとめどなく必要なのだという現代神話から打ち破らねばならぬ。ひとつは経済成長に抑制を課すことで、ひとつは自身の文化生活なるものへの厳しい反省でそれは可能となろう。冗談でなくいいたいのだが「停電の日」をもうけてもいい。勤労にもレジャーにも過熟しているわが国で、むしろそれは必要ではないか。月に一夜でもテレビ離れした「暗闇の思想」に沈みこみ、今の明るさの文化が虚妄ではないのかどうか、冷えびえとするまで思惟してみようではないか。私には、暗闇に耐える思想とは、虚飾なく厳しく、きわめて人間自律的なものでなければならぬという予感がしている。(松下竜一著「暗闇の思想を」朝日新聞社刊、158-161ページ)


*****

 日本は災害列島だ。プレート境界に位置する日本は海溝型の大地震にいつ襲われてもおかしくない。熊本地震や大阪の地震、今回の胆振東部地震のような直下型地震や台風被害なども間違いなく起きる。これからも私たちは何度も停電を経験することになるだろう。そんなときに電力会社に怒りをぶつけたり、国などの支援に頼っているだけではあまりにもお粗末ではないか。災害列島に生きている以上、「電気がなくても数日は生きられる」ようにしておかねばならないと思うし、停電のときこそ不平不満を言うのではなく、電気に頼り過ぎの生活を見直す日にできたらいいと思う。

  


Posted by 松田まゆみ at 14:54Comments(4)雑記帳

2018年09月07日

災害列島日本

 6日未明、携帯電話のけたたましい警報で目が覚めた。携帯電話は寝るときに電源を切るのだが、この日は忘れてそのままにしていたのだった。寝ているときにこれが鳴り響くと一瞬何が起きたのかと頭が混乱するのだが、大音響の警報が終わらないうちから家がカタカタと揺れはじめたので地震だと分かった。

 揺れは大きくないものの、けっこう長い。これは大きそうだと直感した。揺れの感じにすぐさま東日本大震災のことが頭をよぎった。枕元の電気スタンドをつけてベッド脇の非常持ち出し袋に手を突っ込み携帯ラジオを取り出した。震源地や地震の規模などの情報を聴いてから再び布団にもぐり込んだが、寝付かれない。その直後に停電になったようだった。

 震源地は胆振地方だから私のところからはけっこう離れている。停電もしばらくしたら復旧するだろうとたかをくくっていたが、朝になっても復旧していない。携帯電話も「圏外」と表示されて使えない。とりあえず携帯ラジオが唯一の情報源だ。そのラジオで、震源地近くの厚真町で大規模な土砂崩れが起きていることや、北海道全域が停電していることを知った。

 胆振地方の直下型大地震で、なぜ北海道全域が停電になってしまうのかと不思議だったのだが、ニュースの説明を何度か聞いて理解した。こちらの「みこし」に例えた説明が分かりやすいので、以下に引用しておきたい。

 北電や経済産業省などによると、地震発生当時の電力需要は約310万キロワットだった。道内の主な火力発電所6カ所のうち、苫東厚真の3基(発電能力165万キロワット)を含む4カ所の計6基が稼働していたが、地震の影響で苫東厚真の3基が緊急停止。
 供給量が一気に減り、「みこしを担いでいた人たちの半分が一斉に抜けたような状態」(北電東京支社の佐藤貞寿渉外・報道担当課長)になった。
 通常、発電量は需要と常に一致するよう自動調整されている。バランスが狂うと発電機の回転数が乱れ、発電機や工場の産業用機器などが故障するためだ。

地震などの災害で一部の発電所が緊急停止しても、普段は他の発電所の供給量を増やして対応できるが、今回は他の発電所でカバーできる量を超えていた。
 このため、地震の影響を直接受けなかった発電所も需給バランスの乱れによる故障を避けるため、自動的に次々と緊急停止した。みこしの下に残った人が押しつぶされそうになり、危険を感じて次々とみこしを放り出して抜け出したような状況だったと言える。


 全道停電の最大の原因は、苫東厚真発電所が北海道の電力供給の約半分を担っていたということにありそうだ。

 今回の震源地は石狩低地東縁断層帯の近くだ。この近くでは2017年にもマグニチュード5.1の地震が起きている。石狩低地東縁断層帯で大きな地震が起きることは想定されていた。ならば、苫東厚真発電所が地震で運転を停止することは十分に予測できたはずだし、全道停電のリスクを回避する対策も可能だったはずだ。東日本大震災での教訓が活かされていたとはとても思えない。

 泊原発は停止していたとはいえ、燃料プールの冷却のための電気が欠かせない状況だ。全道的な停電は、原発の外部電源喪失そのものであり、最も避けねばならないことだ。それがあっけなく崩れ去った。ディーゼル発電機が作動したとはいえ、もし原発が稼働していたらかなり恐ろしい状況だ。

 原発は5重の安全対策をしているから大丈夫という原発安全神話が東日本大震災で一瞬にして崩れ去ったが、現在の電力供給システムもたった一か所の発電所の停止で致命的になることがはっきりした。発電設備を一か所に集中させてしまう方式がこのような事態を招いたのだ。電気はできるかぎり地産地消にしていくのが望ましいのだろう。

 私のところは6日の夜には電気が復旧したが、まだ停電が続いている地域もあるようだ。もし電気需要が増える冬だったらと思うと、ぞっとする。北海道の場合、灯油ストーブによる暖房が一般的だが、送風のためのファンに電気を使うので、停電になってしまうと暖房が使えなくなるのだ。厳冬期ならば水道の凍結被害も出るだろう。現代人にとって長期の停電は命取りになりかねない。

 石狩低地東縁断層帯ではマグニチュード7規模の地震が起きてもおかしくないと言われているし、今回の地震に誘発されて大きな地震が起きる可能性もある。さらに、北海道では十勝沖や釧路沖などの海溝型の大地震も懸念されている。日本中、どこに住んでいても地震災害から逃れることはできないし、私たちは被害を最小限に食い止める努力をすることしかできない。

 さて、今回の停電で痛感したのは、やはり日頃の防災だ。まずは寝室の布団やベッドから手の届く範囲に懐中電灯や携帯ラジオを置いておくというのが大事であることを実感した。夜に停電になった場合、明かりがないと何もできない。情報収集のために携帯ラジオも欠かせない。要は非常持ち出し袋を準備しておくということ。地震の揺れで物が散乱したときのために、スリッパも必需品だ。

 それと水と食料の備蓄。私のところは無洗米と水を常備しカセットコンロもあるので数日の停電で食べるものがなくなるということはなく、食料に関してはまったく心配はなかった。何日も停電すると冷蔵庫や冷凍庫の食品が傷んでしまうが、これは諦めるしかない。

 さらに土砂崩れが起きそうな場所や津波に襲われる可能性がある場所に住んでいる人は、日頃からハザードマップや避難所を確認し、災害時には速やかに避難するしかない。

 今回の地震では厚真町で大規模な土砂崩れがあった。6日の夕刊と7日の朝刊でその画像を見て、愕然とした。震源地近くの山が一斉に地滑りを起こしたのだろう。山の表面を覆っていた軽石層が崩れたらしいが、これほど一斉に崩れた光景ははじめて見た。

 東日本大震災のあとに熊本地震、そして今回の北海道胆振東部地震と、日本では震度7を記録する大地震が続いている。間違いなく地震も火山噴火も活発化している。さらに、今年は西日本の集中豪雨や台風21号でも大きな被害があった。大規模な災害では支援物資などいつ届くかわからないし、首都圏などの人口密集地で大きな災害が起きれば支援物資や救助などほとんどあてにできない。

 この先、いつになるかは分からないにしても、海溝型地震や首都圏での大地震は間違いなく起きる。恐らく想像を絶する被害になるだろう。そんなことを考えても仕方ないなどと思っている人もいるかもしれないが、災害を生き延びるには、まずは自分で自分の身を守る努力をするしかないと痛感する。
  


Posted by 松田まゆみ at 17:11Comments(1)雑記帳

2018年08月28日

内田樹著「困難な結婚」を考える(2)

【前回の記事】
内田樹著「困難な結婚」を考える(1)

家事の公平な分担はできない

 家事はエンドレスな苦役であって、それらをどうやって夫婦間で公平に配分するのか、という発想をしている限り、もめ続けます。「苦役の配分」に、当事者全員が納得するような落としどころなんて見つかるはずがない。(210ページ)


 女性が家事を全面的に担っていた時代はともかくとして、今は女性だけが家事を負担するという考えに賛同する人は少数派だろう。ただし、内田氏の言うように家事の分担はそんな単純なことではないし、これが離婚の原因になっている場合も多いのではなかろうか。

 妻が家にいて基本的に家事や育児を担当するという場合は、はじめから分担がはっきりしているのでトラブルになりにくいとは思う。しかし、だからといって夫が家事や育児に無関心でほとんど協力しないということであれば、妻にとっては何のために結婚したのかということになる。

 私は男性であろうが女性であろうが、一人暮らしであろうが家族がいようが、基本的な家事をこなせる人が自立した人だと思っている。家事というのは人が生きていく上で必須のものだからだ。掃除も洗濯もさほど頭を使うことではないし、料理だって手際さえ覚えれば難しいことではない。家事の大半は子どもでもできることだ。それなのに「料理はできない」「掃除は嫌い」などと言ってやらない人は、要は「やりたくない」だけだし、自分が生きていく上で必要なことすらできないということになる。

 妻が基本的に家事を引き受けている家庭であっても、妻が病気になったり疲れていたり、用事や旅行ででかけることもあるだろう。しかも、家事には日曜日はない。そんなときに夫が嫌な顔をせずに家事を代わってくれるか否かは良好な関係を築く上でとても大きい。もちろん妻が働きに出て夫が家事や育児を担っている場合も同じだ。しんどいときや都合がつかないときに互いに協力し合うことこそ、家族で暮らすことのメリットだと思うからだ。だからこそ、男性であれ女性であれ「家事をこなせる」ということはとても大事なことだと思う。生きていく上で欠かせないことを「できない」とか「嫌だ」といって何もしないなら自分のことしか考えていないし、配偶者を家政婦としか思っていないことになる。そんな意識だったらうまくいくはずがない。

 もちろん夫婦ともに働いている場合は、家事や育児を二人で協力しなければならないのは言うまでもない。日本はいまだに男尊女卑の社会だし、家事や育児の負担は圧倒的に女性にのしかかっている。まず、男性が意識を変える必要があるのではないか。ただし、これも機械的に役割分担を決めるのではなく、臨機応変に「都合のつく人が文句を言わずに引き受ける」というようにしなければ、やはりうまくいかないと思う。

 それともう一つ。家事には人それぞれのやり方がある。だから家事を分担するならできる限り相手のやり方に文句をつけないという寛容さも必要だ。これは料理でも掃除でも洗濯でもつきまとう。結婚するまで全く違った家庭環境で育ち自分のやり方や感覚を身につけてきたのだから、これはなかなか一致するものではない。相手のやり方に文句をつければ喧嘩になる。どうしても相手のやり方に我慢ができないならどんなに疲れていても自分で引き受けるしかない。でも、それはそれでストレスになるというものだ。

 要は、家事が嫌だとか面倒だと思っている限り相手が家事をやらないことに不満が生じるし、自分のやり方に拘りすぎても不満が生じて分担はうまくいかない。嫌でも生きていくためにはやらねばならないのだから、文句を言っていてもどうにもならない。頭を切り替えて「嫌なこと」を「楽しいこと」にしていくというのはとても大事なことだと思う。

穏やかで健全な関係を続けるには

 「この人と結婚さえしていなければ・・・・・・」と仮想して、配偶者の無理解や無能を自分自身の不幸の原因にすると、もうダメです。たしかにあらゆる自分の不調は配偶者の無理解と無能で「説明できる」からです。ほんとうに説明できちゃうんです。あまりに説得力のある説明なので、人間はそれに居ついてしまう。(237ページ)


 これは自分の不幸を何でも人のせいにしてしまう人のことだ。結局、理想の配偶者なんていないのに理想を追い求めて相手の不平不満ばかり言っているということだろう。こういう人は自分で幸せになるための努力をしようとしない。そしていつも不平不満で機嫌が悪い。

 内田氏は円満な人間関係を築くためには「機嫌がいい」ことが大事だと説くが、それは本当にその通りだと思う。「機嫌が悪い」人と一緒にいて気持ちよく過ごせる人などいないだろう。「機嫌が悪い人」は、機嫌を悪くすることで相手を支配しようとしているのだろうけれど、それは逆効果でしかない。機嫌というのは自分の意志でどうにでもできる。「機嫌」も「幸福」も、結局はその人の心のあり方次第だ。

 社員を過労死にまで追い込むブラック企業とか、パワハラで鬱状態に追い込むような場合はさっさと転職をすべきだと思うが、それほどではないのに仕事を次々と変える人も同じではなかろうか。「この会社でさえなければ・・・」「あの嫌な上司さえいなければ自分の実力が発揮できるのに・・・」と思い込み、他により自分に合った理想的な会社があると夢想して転職しても、恐らくどこにも理想的な会社などない。それにも関わらず、また「この会社ではダメ」と会社や上司のせいにして転職する。

 自分と気が合う人しかいない会社なんてまずない。気に入らない他者を変えることなどできないのだから、自分の意識や考え方を変えることで気に入らない人と折り合いをつけるしかない。口うるさい上司に振り回されない術を身につけるように努力することも必要だ。そういう努力もせずにすべて他人のせいにしていたなら、どこに就職しても対人関係でストレスをため込み、いつも不平不満で機嫌が悪いということになる。

 「あの人のせいでうまくいかない」という思考に嵌って抜け出せなくなる人は、結婚生活も仕事もうまくいかない。もちろん本当に相手がとんでもない非常識な人で迷惑を振りまいているとか、支配的で命令ばかりしているという人もいるけれど、だからといって不平不満を言っているだけでは何の解決にもならないばかりか、まわりを不快にするだけだ。どうしても折り合いがつけられないなら離れるという選択も必要なわけで、その見極めが大事なのだろう。

 内田氏は結婚相手に相応しいかどうかは海外旅行に行って相手のトラブル解決能力を見るのがいいというが、それと同じように日頃から不平不満を言わずに問題解決に向けて行動できるか否かは、その人の精神的な成熟と大きく関わっているのだろう。

 「困難な結婚」といっても、結婚を「困難」にするのも「幸福」にするのも本人次第のところが大きいということなのだろう。結婚を「困難」にしないためには、まずは相手が成熟しているかどうかを見極めること。そして結婚したなら「配偶者の理想像」など追い求めずに互いに相手を尊重しつつ協力し合うことが幸福な結婚の鍵といえそうだ。

 さらに言うならば、誰にでも選択の間違いはあるのだから、もしモラハラ人間とかメサイアコンプレックスの人と結婚してしまい自分がボロボロになったとか、関係を続けるのが無理だと感じたなら、別れるという決断を下すのも幸福への道なのだろうと思う。内田氏も離婚を経験しているそうだが、問題解決の努力をしてもストレスが溜まって限界を感じたり日常生活に影響が出てしまうようなら、「別れる」という問題解決を選ぶこともやむを得ないだろう。かつて私の上司が「同棲をして相手を見極めてから結婚したほうがいい」と言っていたが、私もそれには同意する。

 結婚というのは自分とはまったく違う環境で育った人と生活を共にするということだ。要は、自己中かどうか(精神的に自立しているかどうか)が試されるといっていい。自立している人であれば自立した配偶者を選ぶだろうし、結婚によってお互いにさらに成熟できるだろう。結婚をしてそこそこ幸福だと思っている人は、おそらくそこそこ自立しているのではないかと思う。

  

Posted by 松田まゆみ at 21:57Comments(2)雑記帳

2018年08月27日

内田樹著「困難な結婚」を考える(1)

 内田樹氏の「困難な結婚」が面白いという話しは耳にしていた。人生も終盤に入った身にとって今さら結婚論もどうかと思って手にしていなかったのだが、今さらだからこそ読んでみるのもいいかもしれないとふと思い立ち買ってみた。

 中身はさらさらと読めるし、内田節が全開で面白い。部分的には「そうかなあ?」と感じるところもなくはないが、全体的には納得できることが多い。恐らく、何十年も結婚生活を続け「結婚とはこんなものだ」とそれなりに納得してまあまあ穏やかで幸せな生活を送っている人なら、かなり肯定的に受け入れられると思う。逆に、配偶者に不平不満ばかり抱いている人にとっては、目からウロコかもしれない。昨今は結婚をためらう若者が増えているようだが、そういう人たちにとっても目からウロコではないかと思う。

 内田氏の主張を引用しながら、私見を記しておきたい。

結婚とは安全保障である

 率直に申し上げて、ご自身が「健やか」で「富める」ときは別に結婚なんかしてなくてもいいんです。その方が可処分所得も多いし、自由気ままに過ごせるし、健康で豊かなら独身の方が楽なんです。
 結婚しておいてよかったとしみじみ思うのは「病めるとき」と「貧しきとき」です。結婚というのは、そういう人生の危機を生き延びるための安全保障なんです。結婚は「病気ベース・貧乏ベース」で考えるものです。(24ページ)


 「自由が拘束される」という理由で結婚を躊躇する若者は多いと思う。たしかに一定以上の収入があれば、一人暮らしほど自由で気ままなものはない。親兄弟からとやかく言われることもないし、好きなものを買って好きなものを食べ、恋愛も適度に楽しむのであれば一人暮らしをするに越したことはない、と考えるのも分からなくはない。

 私もこれと同じようなことを言っていた既婚男性を知っている。彼は幾つになっても自由に恋愛ができる独身が一番だと言っていた。しかし、よくよく考えるなら、これは不倫をしたいし家族という人間関係が煩わしいといっているに等しい。「自分が一番楽で楽しい」ということを優先させるとそうなる。これってはっきり言って、自分のことしか考えていないということではなかろうか。

 また、「自分の世界を他人に乱されたくないから結婚をしたくない」という男性の話しを聞いたことがあるが、自分の世界を守ることを最優先にする人が、他者のことを想い大事にできるとは思えない。

 ヒトは、家族を最小単位としながら集団をつくって狩猟をし、食べ物を分けあい協力しあって生活することで生き延びてきた生物だ。今のような文明が発達する前なら、自分が気ままに楽しく生きることだけを優先している自己中な人がいたら、その人は周りの人たちと協力関係を築けないし、生きていけなかったに違いない。

 親族にも学校にも職場にも、気の合わない人というのはどこにでもいる。ヒトが一人で生きていけない生物である以上、そういう人たちとも折り合いをつけながら何とかやっていくのが成熟した大人というものだろう。「あの人が嫌だ」「これはやりたくない」というのは誰だってあるし、社会生活を営む以上はどこにいっても人間関係がついてまわる。わずらわしい人間関係を避けて快楽だけを求めるなら、自己中であり未熟という他ない。「他人に縛られるのが嫌だ」「折り合いをつけるのが嫌だ」という未熟な若者が増えてきたのだろうか。

 人が他者と支えあい、協力しあって生きていく生物だからといって、別に他人とベタベタするのがいいと言っているわけではない。自己を確立した上で(他者を支配したり他者に依存したりせず、自立性を身につけるということ)、他者と適切に関われるようになっていくというのが成長とか成熟というものだろう。

 内田氏も「愛したり、疎遠になったり、信頼したり、裏切られたり、育てたり、別れたり、病んだり、癒したり、介護したりされたり、看取ったり看取られたりして大人になってゆく」(74ページ)と書いているが、家族や親族との関わりの中で人は他者と共に生きることを学んでいくのだ。独身でも幸福な人生を送っている人はたくさんいるだろうし、結婚をしないという選択を否定するつもりはないけれど、人は結婚することで様々な経験をし内的に成長するのは間違いないと思う。

 内田氏は、結婚は病めるときと貧しきときのセーフティネットだと言う。ならば、社会保障が充実していて誰もが無料で医療を受けられ、働けなくなったりお金に困れば容易に生活保護が適用され、歳をとれば無料で介護が受けられる国なら独身で暮らすのが一番気ままで楽と考える人もいるだろう。しかし、高福祉・高医療の北欧は独身者が多いかといえばそんなことはない。

 「誰にも拘束されない自由で気ままな独身生活」というのが本当に幸せなのか?と私には思えてくる。昨年、「エピジェネティクスから見えてきた貢献感と健康」という記事を書いた。強い孤独感や快楽主義的あるいは自己満足的な幸福感は病気のリスクを高め、社会や他者に貢献することで得られる幸福感は病気のリスクを低下させるという研究の紹介だ。

 これが事実なら、独身で自由気ままな生活から得られる満足感は一時のものであるし、本当の幸福感とは言えないのではなかろうか。人の幸福とは、他者への貢献と大きく関わっている。結婚は「病めるときと貧しきときのセーフティネット」であると同時に、パートナーへの貢献を通じた心のセーフティネット(簡単に言うなら安心感や安定感)の役割を担っているのではなかろうか。とくに高齢になればなるほどパートナーの存在は大きいように思う。

 社会が健全であれば人は家庭を持ちたいと思うのが自然だし、それが幸福感や安心感をもたらすことにも繋がっている。逆に結婚しない人が多いというのは社会のありようが健全ではないということなのだろう。今の日本の社会を見れば、まさにその通りだ。内田氏も企業の収益を最大にするというグローバル資本主義が今の若者の雇用環境の劣化を招いているし、グローバル資本主義者たちは自分の個人資産を増やすことしか頭になく一世代先のことなど何も考えていないと指摘している。

 「結婚したくない」という若者を生みだしてしまったのは、結局のところ自分の利益しか考えない人が作りだしたグローバル資本主義という社会制度の影響が大きいのだろう。いやはやとんでもない世の中になったものだと思う。

結婚は誰としてもいい

 内田氏は「結婚は誰としてもいい」という。これはいささか単純すぎると思うが(事実、こういう人とは結婚しない方がいいという例も挙げているのだから)、以下の主張はとても納得できる。

 つまり人間の中にはいろんなタイプの「配偶者特性」が潜在的に眠っているということです。だから、どんな人と結婚しても、「自分がこんな人間だとは知らなかった」ような人格特性が登場してきます。いってみれば、配偶者が変われば、結婚しているあなたは別人になるんです。どの人と結婚しても、そのつど「その配偶者でなければそういう人間ではなかったような自分」になります。それはいわば配偶者からの「贈り物」みたいなものです。(36ページ)


 これはなかなかうまいことを言うと思った。たしかに、相手によって自分が変わるというのはすごく分かる気がする(離婚とか再婚を体験していないのであくまでも「気がする」だけれど)。完璧な人間なんていないわけで、結婚とは相手の短所を受け止めることでもあると思う。だから、配偶者の短所が嫌で「今よりもっといい人がいるはず」と思って相手を変えてみても、前の配偶者とは違う短所が必ず見えてしまう。結局、理想の人などいないということになる。でも、若いうちはなかなかそれに気づけないということなのだろう。

 ちなみに内田氏は配偶者として適切な人かどうかは海外旅行をしてみれば分かるという。要は、トラブルに巻き込まれたときの問題解決能力を見るというのだ。トラブルを他者のせいにせず速やかに適切な対処ができる人が成熟しており配偶者として相応しいというのはもちろんその通りだ。

 私はさらに、暴力をふるう人とかモラルハラスメント(要は相手を支配せねば気が住まない人)をする人、自己愛の極めて強い人、あるいはメサイアコンプレックスの人も配偶者としては不適切であることを加えたいと思う。このような人は適切な対人関係が持てないし、自分で自分の欠点に気づき改善する可能性はかなり低い。それを見極められないと結婚生活はかなり厳しいものになるか離婚を決断せざるを得なくなるだろう。

つづく
  

Posted by 松田まゆみ at 06:34Comments(0)雑記帳

2018年08月09日

メサイアコンプレックスという歪んだ心理

 先日、ある方がメサイアコンプレックスと思われるご婦人のことをブログで話題にしていた。メサイアコンプレックス(メサコン)とは、簡潔に言うなら、自分を肯定したり満たすために他者を助けようとする人のことだ。人は他者から感謝されれば気持ちがいいものだが、メサコンの人は、その気持ちよさに浸ることで自分の精神の安定を図ろうとする。

 困っている人を助けることはもちろん悪いことではない。しかし、その目的が自分の価値を見いだすためであれば、歪んだ心理というほかない。メサコンにとっては「他者を助ける」という行為はあくまでも自分の承認欲求を満たすための手段でしかない。これでは真の援助とは到底言えないし、それどころか相手は望んでもいないことを押しつけられたあげく利用されるのだから、人間関係は間違いなく悪化する。

 メサイアコンプレックスですぐに頭に浮かぶのは、「暴力をふるう男性と結婚した挙句に破綻して離婚」を繰り返してしまうような女性だ。このような女性は「この人には私が必要」と勝手に思い込んでかいがいしく世話をやくのだが、真の目的は世話をやくことで自分の価値を見いだそうとすることにある。ところが、いくら世話をやいたとしても他人を変えることなどできないし、それが相手にとって迷惑なら敬遠されるだけだ。男性が暴力的な人であればいくら尽くしても感謝されないし暴力は止まらない。そして結果的に破綻してしまう。

 相手の男性が暴力的ではなく女性の世話を受け入れた場合は、男性を自分に依存させることになる。相手の欠点を指摘して「私がいないとダメ」といっては、自分に依存させる。そして、自分が満足感を得るために相手を利用しつづけることになる。いわゆる共依存だ。しかし、この状態が続くと、男性は次第に煩わしくなって嫌気がさしてしまうだろう。結局、うまくいかない。もちろん男性がメサコンという場合もある。

 一度失敗をしたならその経験から学びそうなものだが、メサコンの人は再び同じような人と結婚をしてしまうことが多い。なぜなら、自分に問題があるとは全く考えないからだ。他者を助ける行為は善意であり思いやりだと思い込んでいる。相手にとっては迷惑でしかないことも、メサコンの人には理解できない。

 もうひとつメサコン・共依存で思い浮かべるのは、子どものことにすぐに口出しをして子どもを支配しようとする親だ。子どもが自分ですべきことでも親が代わりにやってしまうことで自分の存在意義を感じようとする過干渉な親。子どもの欠点をあげつらって「お前はダメだ」と思い込ませ支配しようとする親。そうやって自分の精神の安定のために子どもを利用してしまう親は意外と多いのかもしれない。

 メサコンの人の最も厄介なところは、「自覚がない」ということだ。本人は「自分は親切で善いことをしている」としか思っていない。単刀直入に、「あなたがやっていることは親切の押し売りであり迷惑」だとはっきり伝えても、まったく理解しようとしない。それどころか「迷惑だという相手がおかしい」などといって相手を悪者にしてしまう。こうなると何を言っても通じない。結局信頼を損ね、人が離れていくことになる。

 友人などに「苦しい」「辛い」と訴え、「自分が苦しいのは○○のせい」と嘆く人はメサコンである可能性が高い。「かわいそうな私」と「悪いあの人」をアピールすることで、励ましてもらったり応援してもらいたいのだ。そういう人を見かけるとつい同情して援助しようとする人がいるが、その結果どうなるか・・・。「苦しい」と訴える人は依存できる相手を探しているのだから、援助をしようとする人が精神的に自立していないと取り憑かれてしまう。そして、承認欲求を満たすために徹底的に利用される。

 その結果、精神的にボロボロにされて離れざるを得なくなる。ところが攻撃性が強い人だと離れようとする相手を非難したりストーカーのようにつきまとったりしてコントロールしようとする。これがメサコンの恐ろしいところだ。

 メサコンの人は、他者に依存して満足感を得れば幸福になれるのかといえば、そんなことはない。もちろん他者から認めてもらったり感謝されたら、その時は安心感や優越感が得られるだろう。しかし、その安心感や優越感を得つづけるために永遠に依存する相手を探し求めることになる。他者に依存しようとすればトラブルになってしまうことは前述した。つまり、対人関係のトラブルを繰り返してストレスを溜めることになる。メサコンは誰も幸福にしないどころか自分も不幸にする。

 メサコンの人は劣等感が強いと言われているが、精神的に安定するためには自分がメサコンであることに気づき、自分自身を変えていくしか根本的解決はない。ところが、不幸なことに大半の人は自覚ができない。つまり不幸から抜け出すことができない。お気の毒というしかない。

 もし自分が、他人から認めてもらわないと安心できない(承認欲求が強い)タイプ、あるいは日頃から不平不満を言ってはそれを他人のせいにするタイプだと思うなら、メサコンかもしれないと疑って自分自身を見つめ直すことをお勧めしたい。自分で気づいて改善しようと努力しない限り、メサコンの人が幸福になる道はないと私は思っている。



  

Posted by 松田まゆみ at 21:07Comments(0)雑記帳

2018年06月03日

コミュニケーションを避ける人たち

 前回の「栗城史多さんの『否定の壁』について思うこと」という記事で、批判と非難の違いについて書いた。円滑な人間関係を築くためには他者を非難してはならない。そして、議論とか対話といったコミュニケーションこそが大事なことは明白だ。ところが、どうもこの国にはコミュニケーションができない人たちが溢れている。

 なぜこうもコミュニケーションができないのだろうか? なぜ異なる意見を尊重する文化が育っていないのだろうか? 先の記事では敵対心や競争心などが非難に走る要因であると書いたが、コミュニケーションを避けるという国民性も関係しているのではないかと思えてならない。このコミュニケーションを避けるという意識には日本人の同調性が大きく関係していると思っている。

 かつて、日本の村落ではいわゆる村八分が存在していた。村の掟に従わなかったり村の秩序を乱したりした人は火事と葬式を除き交際を絶つという制裁だ。現在では人権侵害の違法行為とされる。要は、集団によるいじめに等しい。

 村八分のあるコミュニティーでは、有力者に従っていれば村八分になることはない。たとえおかしいと思ったことでも、村八分を恐れて口を閉ざしてしまうことになる。リーダーに従っていればいいのだから、自分の意見は持たなくても支障はないということでもある。学校でのいじめなども村八分と同質だ。

 村八分社会においては自由な発言自体が自主規制される。村八分社会からは「言論の自由」という発想も、「他者の意見を尊重する」という意識も育ちにくい。育つのは他人の顔色をうかがって周りに合わせる同調意識だ。日本人は率直な意見を言って議論をするということが苦手だが、それはかつての村八分社会から意識的に脱していないということもあるのではないか。

 言うまでもないが、現代は村社会の掟はなくなり自由に意見を言う権利が保障されている。ところが人に染みついた同調意識はいきなり変わることはできない。親が「皆と同じにしていれば波風も立たないし損をしない」という価値観であれば、子どもにもそう教えることになる。いつまでたっても同調を優先する生活から逃れられない。

 それともう一つ、多くの日本人が議論とか対話といったコミュニケーションが苦手なのは、学校で自分の考えを述べるとか議論や対話をするという教育がなされてこなかったことも大きいと思う。日本の教育現場では「従順な人間」を育てることを目標にしてきたといっても過言ではないだろう。これでは「議論や対話をする」ことはもとより「言論の自由を享受するためには他者の意見も尊重しなければならない」ということも学べない。

 家庭でも学校でもこんな状態なら、物ごとの善し悪しを理性的・論理的に検討するという習慣が身につかないし、議論も対話も苦手ということになる。波風を立てないことが美徳とされ、自分を殺しても声の大きい者に従ってしまう。自分の意見を持たなくても何とかなってしまうのが日本の社会なのだ。

 このような人たちは、容易にネットカルト化すると私は考えている。弁護士に不当な懲戒請求をした人たちが、弁護士から不法行為で提訴を通告されたことが話題になっている。懲戒請求をした人たちは「余命三年時事日記」というブログの影響を受け、ブログ主の主張を信じて懲戒請求の呼びかけに従ったとされる。懲戒理由は「違法である朝鮮学校補助金支給要求声明に賛同し、その活動を推進する行為は、日弁連のみならず当会でも積極的に行われている二重、三重の確信的犯罪行為である」というもの。この「余命三年時事日記」のブログ主は典型的な差別主義者だが、そこに集う人たちは彼が差別主義者であることすら判断できない。懲戒請求が適切なものかどうかも調べず、扇動に乗って行動してしまう。

 「余命三年時事日記」に集まる人たちは、恐らくツイッターなどで左派の人たちに粘着したり罵倒を浴びせたりしているネトウヨと言われる人たちと重なっているのだろう。恐ろしいのはカルト宗教と違って何の拘束もないのに、ブログ主の主張を頭から信じて自主的にカルト化してしまうことだ。ネトウヨと言われる人たちは、理性的・論理的に物ごとの善し悪しを判断することができない人の典型だと思う。

 匿名で発言ができるネット空間では、自分を抑制する必要がない。対話のマナーを身につけていない人たちがネットという言論空間を手に入れて自己主張をしたら、自分と異なる意見の人たちを否定し攻撃することになる。実社会では自分の身を守るために自己主張をしない人が、ネットでは豹変して攻撃的になる。こういう人たちは、私たちの身近にいる。

 私はネット空間において理性的・論理的な主張ができず非難しかできないような人に遭遇したら、無視するしかないと思っている。他者を罵る人の大半は匿名だ。このような無責任な相手と対話をすべく努力しても徒労に終わるだけだ。

 しかし、実社会においては必ずしもそうではない。学校にも職場にも地域コミュニティーにも「他者の非難ばかりする人」「好きになれない人」というのはいるものだ。そういう人と積極的に付き合う必要はないと思うが、関わりをもつ必要が生じたときは一人の人間として対等に接し、困っていたら助けるというのが大人の態度だと思う。

 弁護士への不当懲戒請求の件も、和解に応じて謝罪してきた人たちの中には洗脳から解かれ反省し改める人もいるだろう。実社会で人と接することで、差別意識に気づく人、誠実なコミュニケーションができる人を増やしていくしかないと思う。

  

Posted by 松田まゆみ at 14:44Comments(0)雑記帳

2018年05月24日

栗城史多さんの「否定の壁」について思うこと

 5月21日に登山家の栗城史多さんがエベレストで亡くなった。栗城さんのの訃報を知り、正直いって残念とかお気の毒という気持ちにはなれなかった。あえて率直な気持ちを表現するなら「虚しい」「痛ましい」だ。

 彼は6大陸の最高峰の登頂を果たし、最後に残っていたエベレストへの単独、無酸素での登頂に挑戦し続けていた。彼には多くのファンがいると同時に厳しい批判もあったようだ。私は彼のことを知ったときからずっと違和感を持ち続けていたのだが、その違和感は彼の登山の目的にある。

 栗城氏のオフィシャルサイトのトップページには「否定という壁への挑戦」というタイトルのもとに、挑戦をし続ける目的が書かれている。

 彼は大学3年のときに単独で北米最高峰のマッキンリーに向かおうとしたら、周りの人から否定されたという。それ以来、周囲の人からの「否定の壁」を乗り越えることが彼の信念となり、さらに登山の生中継を配信することで「否定の壁」につきあたっている人たちに自分の挑戦を見せ、「否定の壁」を共に乗り越えることに意義を見いだしていたのだと思う。つまり、彼にとって登山そのものは目的ではなく、「否定の壁」をなくすための手段だったのだろう。もちろん彼の行動は善からのものだし、自分の挑戦は他者への貢献にも繋がると考えていたのだと思う。

 私がもっともひっかかったのは「否定」と言う言葉と「否定の壁をなくす」という目的だ。さほど登山経験もない若者が一人でマッキンリーに登ると言い出したなら、一流の登山家はもとより一般の人も無謀だと諭すのはごく当たり前のことだ。マッキンリー登山に反対した人の中には辛辣な言い方をした人がいたかもしれないが、多くは常識に照らして意見を言ったのではなかろうか。彼の登山という行為や冒険心を否定したわけではないと思う。ところが彼はその意見を「自分の否定」として受け止めてしまった。

 また、何度もエベレストに挑戦しては敗退する彼には登山関係者からも批判の声が上がっていた。彼の体力や技術から考えると成功の見込みはほとんどないと。以下参照。

栗城史多という不思議(森山編集所)
栗城史多という不思議2 (森山編集所)

 しかし、彼は専門的知識のある人たちの意見も「自分を否定している」と捉えてしまったのではなかろうか。そして「否定の壁」を乗り越えることこそ自分の使命だと確信するようになってしまった。さらに自分を支持し応援してくれる人は仲間だが、批判する人は挑戦を阻む「壁」であり「敵」だと思ってしまったのではないか。

 彼がエベレスト登頂に固執し、無謀なルートに拘ったのは「批判」を「否定」と勘違いしたことが発端になっていると思えてならない。また、彼の執念の根底には、自分を否定した人たちを見返してやりたいという気持ちがあったのかもしれないとも思う。もし勘違いが無謀な挑戦を生み、そのために命を落としたのであれば、これほど虚しく痛ましいことはない。

 そんなこともあって、批判と非難(否定)について書いてみたい。

 アルフレッド・アドラーの言葉に以下のようなものがある。

自分と違う意見を述べる人は、あなたを批判したいのではない。違いは当然であり、だからこそ意味があるのだ。


 社会は自分と異なる様々な意見や価値観の人によって構成されている。たとえば思想などで自分と共通点の多い人であっても100%意見が同じということはほとんどない。十人十色というが、人はそれぞれ意見が違う。異なる意見や価値観の人も認めなければならないということを言っている。

 ところが、人によっては「意見が違う=批判された=非難(否定)された」と受け止め、自分が攻撃されたと勘違いをしてしまうことがある。意見の違いを否定とか攻撃と捉えてしまうと、単に意見が違うだけの人を「敵」とみなしてしまうことになる。

 ただし、このアドラーの言葉で注意しなければならないのは、「意見」や「批判」という言葉の使い方だ。厳密に言うなら、ここで使われている「意見」は「批判」を指し、「批判」は「非難」を指していると私は考えている。言いかえれば「批判をする人はあなたを非難したいのではない」ということだ。「批判」と「非難」を同じような意味合いで使っている人も多いと思うが、実は両者はまったく異なる。その理由を以下に説明したい。

 批判と非難の違いは一般的には以下のように定義されている(コトバンク)より。

【批判】
・物事に検討を加えて判定・評価すること
・人の言動、仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること
・哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること

【非難】
・人の欠点や過失などを取り上げて責めること


 この言葉の定義からすると、批判は論理的に評定をすることであり、非難は論理を欠いて他者を責め立てることだと言えるだろう。

 批判と非難の違いに関しては以下の記事がより踏み込んでいて興味深い。

中学生にもわかる「批判」と「非難」ってどうちがうのか?(高橋英樹 哲学ブログ絶対精神の純粋理性批判)

 著者の高松英樹氏による批判と非難の違いを箇条書きにすると以下のようになる。

【批判】
・考える性(さが)である理性が、理性自身の妥当性を考え判断すること。平たく言えば、「考える」こと自体を考えることによって、ある事柄がどう正しく、どう正しくないか、それをはっきりさせること。
・ただ知りたいがためだけに、ことを明白にしたいがために、言われていることの理屈の正しさを問うこと。
・批判の対象は、他人でも自分でもない。

【非難】
・「知りたいための否定」ではなく「否定のための否定」
・批判に対して腹を立てて「勝つための」議論をすること。
・「非難」の対象は自分以外の他人に向けられる。
・非難のために理屈の正しさを無視したり、ねじ曲げたり、理屈がない場合は非難ですらなく揶揄、誹謗、中傷になる。


 これらの定義から、「批判」とは理性的、論理的に妥当性を判断することだといえそうだ。理屈を示していても理性や論理性を欠き他者を責めたてるだけの発言は非難である。理性的、論理的に妥当性を判断する(つまりは批判する)ことは、私たちが過ちを犯さず主体的に生きていく上で非常に重要なことだ。批判的な見方ができるということは自己が確立されているということでもあると思う。

 自分の意見に対し他者から名指しで批判された場合でも、それに納得できなければ論理的に反論をすればいい。そうやって理性と論理でやりとりするのが議論だ。議論によって自分が間違っていると気づけば自分の意見を変えればいい。議論しても平行線ということはよくあるが、それはそれで考え方が違うことを互いに認め合うしかない。議論は決して勝ったとか負けたとかの勝負ではない。ところが自分の過ちを認めたくない人や相手を打ち負かさないと気が済まない人は、理性や論理を無視して非難することで勝とうと躍起になる。こういう人とは議論とか対話が成立しない。

 ある人と電話で話しをしていて、どうしても意見が一致しない状況になったことがある。そこで「見解の相違なのでこれ以上話しても仕方ないですね」と話しを切り上げようとしたら、「見解の相違」を頑として認めず自分の意見を押しつけて食い下がってきて驚いたことがある。この方は自分が勝たないと気が済まない性分なのだろうと思った。

 競争意識や敵対心の強い人、自分の非を認めない人、他人を支配したい人などは、論理的主張であっても自分とは意見が違うというだけで「非難された」「否定された」と受け止めてしまうのだろうと思う。

 このように批判と非難はまったくの別物である。そして批判は必要だが非難はすべきではないということになる。互いに非難し合ったなら、決して理解しあったり歩み寄ったりすることはできないし、人間関係は悪化する一方だ。

 日頃から非難をしないようにわきまえている人は、他人を罵倒したり揶揄したり見下すようなことはまずしない。そのような人同士での意見交換は、たとえ最終的に理解し合えなくても有意義だし喧嘩別れに終わるようなことはない。

 逆に、競争心や敵対心が強く自分が勝たねば気が済まない性格の人は、意見が違うだけで非難に走る。高松氏は、論点をそらしてはぐらかしたり、外からの情報を根拠にしたり、自己完結したただの「意見」で終わらせようとする場合は非難だとしている。

 競争心や敵対心というのは一度身についてしまうと変えることはとても困難だ。このような意識になってしまうのは競争社会だけではなく不平等な社会が大きく影響していると思っているが、人々の心からこれらをなくすことは難しそうだ。ただし、他者の非難ばかりしている人や仕返しをしなければ気が済まない人は、「復讐という不幸」に書いたように、穏やかで幸せな人生にはならない気がする。

 もし栗城氏が自分への批判を「否定」と捉えずアドバイスと受け止めていれば、彼の人生は全く違ったものになっていたのではないかと思えてならない。
  


Posted by 松田まゆみ at 16:23Comments(0)雑記帳

2018年05月17日

不当な懲戒請求で弁護士らが提訴を表明

 いわゆるネトウヨと言われる人たちが弁護士に不当な懲戒請求をしたという件で、東京弁護士会の佐々木亮弁護士と北周士弁護士が記者会見を開いた。この記者会見についての記事が以下に掲載されている。

「懲戒請求者は90億人」の手紙も…大量請求受けた弁護士2人が提訴へ「非常に不当」(弁護士ドットコム)

 佐々木、北両弁護士は、960人の懲戒請求者を相手に慰謝料を求める訴訟を起こすとのこと。また、和解も受け入れている。

 このような応報に対しては大人げないなどという批判も出ているようだ。私は報復行為は支持しないしトラブルはできる限り話し合いで解決すべきだという考えだ。ネットでの言論でトラブルになった場合なども安易な名誉毀損裁判はできる限り避けて話し合いで解決するのがベストだと思っている。

 しかし、今回の大量懲戒請求者の提訴は報復だとは考えていない。大量の不当懲戒請求によって弁護士さんたちが被害を被ったというのは事実であり、それに対して責任をとってもらうというのは当然の行動だと思う。無法者に対する正当な対処だろう。

 ネトウヨたちの最大の問題は、責任感の欠如だ。彼らは平然と差別発言をし、安倍政権を批判する人たちにツイッターなどで粘着して罵声を浴びせかける。大多数は匿名だから責任をとる気もないのだろう。犯してしまった不法行為に対しては謝罪と賠償で責任をとるしかない。日頃自己責任論を声高に唱えながら「自分の責任をとる」などということは考えてもいない人たちには、この機会にしっかりと責任をとってもらうことも必要ではないかと思う。

 また澤藤弁護士による以下の意見もあるが、ほぼ同感だ。

安易な弁護士懲戒請求は、損害賠償請求の対象となり得る。(澤藤統一郎の憲法日記)

 弁護士への不当な懲戒請求に関してはすでに判例があり、慰謝料は30万から150万円となっている。以下参照。

弁護士に対する懲戒請求が不法行為になるか(河原崎法律事務所ホームページ)

 佐々木弁護士と北弁護士の場合、和解金は弁護士1人あたり5万円とのこと。同じく提訴を表明している嶋崎量弁護士も同様に5万円。上記の判例から考えても、この和解金は良心的な金額ではなかろうか。たとえ無職でお金がない人でもアルバイトをすれば容易に稼げる金額だ。

 また、佐々木弁護士と北弁護士は、不当な懲戒請求を煽ったブログの管理人の刑事責任を追及する方針であることも明らかにしている。このブログ主の責任が追及されるのは当然だと思うが、事実も確認しないで従ってしまう人がこれほど多いことに呆れてしまう。しかも、北弁護士によると請求者は比較的年齢が高い印象だという。ネトウヨといえば若者が多い印象があるが、そのそこの社会経験があるであろう「大の大人」がそれなりにいるというのは興味深い。

 同じく不当懲戒請求を受けた神原元弁護士も提訴を宣言しているが、神原弁護士は刑事事件にすることも検討しているようだ。
https://twitter.com/kambara7/status/995087802969702400
https://twitter.com/kambara7/status/996128422484033536

 訴状など無視すればいいと言っている人もいるようだが、反論しなければ請求額がそのまま確定する可能性が高い。お金がないなら賠償命令など従わなくてもいいという人もいるが、財産(給与)の差し押さえとか刑事告訴もあり得る。和解に応じるか弁護士に対処を相談するのが賢明だろう。
  


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2018年05月06日

復讐という不幸

 以下は5月4日にツイッターでつぶやいたツイート。

コメント欄で他者とのやりとりができるブログも含め、SNSをやるようになってから驚くほど復讐心が強くかつ執念深い人がいることを知った。もう2年以上も特定の人の悪口やデマを言いふらしている人がいる。相手を貶めることで自分の優位性を誇示したいのだろうけれど、哀れにしか見えない。


他人を罵り悪口を言い続けなければ気が済まない人は、第三者からは異様なクレーマーであり偏執病(パラノイア)にしか見えない。ところが本人はそれが善だと思っており、優越感に浸り粋がっているのだろう。だから自分の性格の問題であることすら認識できない。実にお気の毒なことだ。

https://twitter.com/onigumoobasan/status/992263471717744641

 このツイートについて、もう少し具体的に説明しておきたい。

 私がブログを始めたのは2007年の5月からだから、もう10年もブログを書いていることになる。ブログでは自然に関することなどのほか環境問題や社会問題にも言及してきたし、不可解に思うことに関しては批判も含め率直な意見を書いてきた。原発事故が起きた2011年からは情報収集のためにツイッターも始めた。しかし、インターネットで自分の意見を表明すれば、必ずといっていいくらい「言いがかり」をつけてくる人がいる。

 意見が異なるのなら「自分はこう考える」と反論すればいいだけなのに、論理的に説明をすることなく誹謗中傷したり個人情報を晒す人がいる。説明を求めたり反論したことを「攻撃」と称し、「自分は攻撃された被害者」だと主張して法的手段をちらつかせて恫喝する人もいる。もちろん、いくら待っても内容証明郵便や訴状が来ることはなく、黙らせるための脅しにすぎない。要は、批判的意見を書いたことに対する逆恨みだ。

 ある自費出版社に対して不可解な訴訟を起こし和解したにも関わらず、ブログで延々とその出版社の批判を書いている人もいる。その執念深さには呆れてしまうが、その人の目的はトラブルを解決することではなく出版社の落ち度を晒すことで優越感に浸ることなのだと考えれば納得がいく。公益目的の批判を通り越したモンスタークレーマーだ。

 ツイッターでも恨みから報復ツイートをしている人がいる。ツイッターで嫌がらせをされたり批判的なことを言われた人が、エアリプで(といっても誰のことを言っているのかだいたい分かってしまうのだが)悪口や揶揄、侮辱発言による仕返しを延々としているのに気づいて辟易とした。エアリプなら名誉毀損にならないと思っているのだろうけれど、他人の悪口を言って粋がっているのは本人だけで、第三者が見たら執拗なクレーマーでしかない。

 この10年間、ネットで「やられたからやり返す」という人を嫌というほど見てきた。そういう復讐心の強い人の中には驚くほど執念深い人も少なくない。世の中には憎しみから復讐をしないと気が済まない人が一定程度いることを実感した。

 誰もが言いがかりをつけられたり嘘を振りまかれたり誹謗中傷されたら不快になり腹を立てるものだし、私もそういう感情を抱くことはある。しかし、言いがかりをつけたり誹謗中傷をしたわけでもなく、批判的な意見や感想を書いただけなのに怒りを露わにして復讐する人がいるのには驚いた。私は批判されたら反論をすることはあるが、相手を憎むとか恨むということはないし、仕返しをしようとも思わない。そんなことをしたって自分と相手の間に横たわる問題は何一つ解決しないばかりか、よりいっそう険悪になるからだ。

 大人になっても仕返しをしなければ気が済まない人は、「憎しみはさらなる憎しみや苦しみしか生まず何の解決にもならない」ということを今までの人生で学んで来なかったのだろと思う。

 自分を傷つけた人、嫌いな人を痛めつければその時は恨みが晴らせたという満足感で気分がスッキリするのかもしれない。相手をけちょんけちょんにやっつけることができれば「自分こそ正しい」という優越感に浸ることができる。あるいは「自分は被害者」だと主張することで相手の加害性を強調でき、「相手は悪いやつだ」と印象づけることができる。でも、復讐による爽快な気分が長く続くことはないと思う。

 なぜなら、復讐というのは「自分がやられたくない」と思うことを相手に対して実行することだからだ。これはものすごくネガティブな感情であり行動だ。他人の個人情報を晒して嫌がらせをしていた人が、自分の個人情報を晒されて怒り狂っているという状況を何度か目撃したことがあるが、それが復讐の本質だ。

 しかも復讐には名誉毀損や侮辱、プライバシー侵害、脅迫など違法行為や不法行為がつきまとう。なぜなら真摯な議論をしたのでは相手を痛めつけることができないからだ。したがって相手の社会的評価を低下させるために違法行為や不法行為に走ることになる(事実の適示であっても相手の社会的評価を低下させれば名誉毀損になる)。ネガティブな感情を持ち続けたり違法行為や不法行為に手をそめたなら、穏やかで幸せな気持ちでいられるわけがない(もし復讐が快楽だという人がいるなら、それは良心が欠落したサイコパスだろう)。場合によっては、相手からの反撃に怯えることにもなりかねない。

 報復感情が強すぎると、被害妄想に陥ってしまうこともある。前述したように私は反論したり批判的意見を述べることはあっても恨みから復讐をすることはない。ところが復讐心に満ちた人は決して冷静な議論をしようとせず、反論や批判的意見を「攻撃」だとか「恨み」だと決めつけて「自分は被害者」だと主張する。こうなると被害妄想の域に達していて話し合いの余地がない。いわゆる偏執病(パラノイア)と言われる人たちは、そんな心理状態に陥ってしまった人ではないかと私は思っている。

 復讐をするということは、穏やかで幸せな気持ちを手放すこととイコールなのだと思う。復讐をされた人は当然のことながら不快になり相手を信頼しなくなるし、互いに復讐心が強ければ報復合戦という地獄になりかねない。復讐などしたところでいいことは何一つないが、偏執病の域に達してしまうとそこから抜け出すのは容易ではないのだろう。何しろ自分を傷つける相手を懲らしめるのは善だと思ってしまうのだから。

 そういう人に限って「復讐」という行為が自分の不幸を招いていることを理解できず、自分にまとわりつく不幸や息苦しさは相手のせいだと更なる勘違いをして攻撃を止めようとしない。復讐をしないと自分がやられっぱなしになるのではないかと不安になり、復讐を手放すことができなくなる。憎しみを手放せば楽になれるのにと思うけれど、第三者がそんなことを言っても虚栄心の強い人はまず聞く耳を持たない。復讐をする人は自分で自分を不幸にしているのに復讐を止められないのだから、哀れであり気の毒と言うしかない。

 ネットで意見を言う以上、嫌がらせや報復はつきものなのかもしれない。しかし、そんなことにいちいち腹を立てて報復するのは自分を不幸にすることでしかない。納得できない意見には論理的に反論し、嘘をふりまかれたら嘘であると指摘するのは正当な行為だと思うが、そのような正当な主張を超えて相手を貶める「復讐」という手段を選択したら最後、不幸のループにはまるだけだ。

 トラブルになったなら、対話しか平和的な解決はない。報復のために相手の粗探しなどを始めたなら地獄の始まりだ。ネガティブな気持ちにならないためにも、私は復讐心が強い人のツイッターやブログは基本的に見ないようにしているし、エゴサーチもしない。

 菅野完さんの件では被害者の女性の復讐心に関して批判的な記事を書いたが、それも上記のような理由からだ。報復行為が周囲の人まで巻き込んで不幸を拡大してしまった事例だ。

 最後に参考までにこちらのサイトを紹介しておきたい。

復讐したいと思ったら読んで!傷つけられた時のブッダの思考
  
タグ :復讐報復


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