さぽろぐ

日記・一般  |その他北海道

ログインヘルプ


2025年03月06日

にがりの効用

 コロナ騒動によってワクチンなどより人が本来持っている免疫力の方がはるかに優れていることを知った。そして、ビタミンDやC、亜鉛、マグネシウムなどが免疫強化に良いということも知った。以前は足をよくつっていたのだが、これはマグネシウム不足が関係していることも分かった。そんなわけで、マグネシウムの豊富なにがりが手放せなくなっている。私の使い方は以下。

 マグネシウムは皮膚からも吸収されるので、マグネシウムオイルをお風呂あがりに塗っているが、朝起きて着替えるときにもマグネシウムオイルの代わりににがりを脚や腕に塗っている。マグネシウムの経皮吸収で、「足がつる」ことがほぼなくなった。

 私は、以前から寒い季節になると服の摩擦で太腿がかゆくなる症状に悩まされていた。冬は特に肌が乾燥するので、散歩などで歩いただけでもかゆくてたまらなくなる。そこで、化粧水やスキンケアクリームを塗って凌いでいたのだが、脚ににがりを塗るようになり、かゆくなることがなくなった。

 顔には精製水でにがりをうすめた「にがり化粧水」をつけている。これで市販の化粧水は不要。それから、シミがあるところにだけにがり原液をちょっと塗り込んでいるのだが、シミがだいぶ薄くなってきたと実感している。

 「にがり化粧水」は髪につけるとリンス代わりになりパサつきが抑えられるので、髪にもつけるようにしている。

 それから、歯磨き剤の代わりににがりを数滴歯ブラシにつけて歯磨きをしている。はじめは苦く感じたが、慣れてしまうとなんでもない。歯周病にもいいらしい。

 私は慢性上咽頭炎のため「セルフEAT(Bスポット)」をやっているのだが、このときに綿棒ににがりをつけている。にがりは殺菌効果もあるとのこと。これをやるようになって上咽頭炎がだいぶ改善した。

 あとは、マグネシウム摂取と便秘予防を兼ね、コーヒーに2、3滴入れて飲んでいる。コーヒーだとにがりの苦みをほぼ感じないので、無理なく飲める。ただ、あまり飲みすぎると下痢になってしまうのでほどほどにしている。

 そんなこんなですっかりにがりが手放せない生活になっている。

  

Posted by 松田まゆみ at 16:41Comments(0)雑記帳

2025年02月21日

家事に定年はいらない

 今日の北海道新聞に「調理定年」のことが書かれていた。私は初めて聞く言葉だったが、調理定年とは「手作り主義をほどほどにし、外食やテイクアウト、スーパーのお惣菜などを上手に取り入れながら必要な栄養をとること」で、東京家政大学の樋口恵子名誉教授の提案だ。

 樋口さんはこんなふうに言っている。
「男性の仕事には定年があるのに、女性はいつまでも衣食住を整える仕事から解放されません。掃除は3日くらいしなくても死にませんが、料理はそうもいかないので疲れながらもしている。女性も60代を迎えたら調理定年を考えてもいいのではないでしょうか」(女の人よ、「調理定年」を考え、もう料理はそこそこに。

 私は、ちょっと考え込んでしまった。確かに、定年になって退職しても食事作りはずっとしなければならない。そして、食事作りの多くは女性が担っている。だから女性にも定年があってもいいのではないか? 夫が定年の年齢になったら女性も夫と同様に自由になりたいというのはわかるが、平等感がないのは女性ばかりが家事や育児を担ってきたからだ。家事や育児、介護は女性の仕事という思考・習慣を改めるのが先ではないかと思う。

 高齢になれば夫婦のどちらかが体調を崩すことも増えるだろう。パートナーは必然的に家事を担わなければならない。掃除や洗濯はさほど難しくないし時間もかからないが、調理は若いときからできるようにしておかないと、突然うまくできるわけではない。高齢の夫婦が助け合って暮らしていくためにも、まずは男性が料理をできるようにするのがベストだろう。夫と平等になるように調理定年を設けるよりも、夫も平等に調理をするよう提唱すべきだと私は思う。

 それから気になるのが市販の総菜や冷凍食品などの勧めだ。これらには、しばしば添加物が使われている。添加物だらけのものを毎日にように食べるのは私なら御免だ。また、これらは電子レンジで温めて食べることになるが、これも私は疑問に思っている。

 電子レンジの危険性についてはさまざまな意見がある。ファクトチェックなるもので「問題がない」としている記事もあるが、私は信用していない。そもそもファクトチェックなるものは不都合な真実を隠すために行われている場合も多々あるからだ。こちらの記事に書かれているが、マイクロ波は分子構造を変化させ変質をもたらすという。また、プラスチックの容器ごと温めれば化学物質を体内に取り入れることになる。これが問題ないとはとても思えない。冷凍食品や宅配、市販の総菜などを電子レンジで温めるような食生活が健康に問題がないとはとても思えない。

 それから調理というのは認知症予防になるのではないかと思っている。栄養バランスを考えながら献立を決めて材料を買い、料理をするときも手順を考えながらやらなければならない。けっこう頭を使う作業だ。味付けもレシピに頼るのではなく、経験や好みで調整が必要だ。時間に余裕ができた高齢者こそ、認知症予防もかねて料理を楽しむべきではないか? 今まで料理をほとんどしてこなかった男性も、料理に関心を持ってほしい。

 ただ、手間暇がかかる料理は私もほとんどしない。例えば、コロッケは揚げないスコップコロッケにするし、酢豚も薄切りの材料を使って炒めてつくる。千切りにはスライサーも使うし、みじん切りにチョッパーを利用することもある。こういう時短料理はどんどん取り入れていけばいいと思う。

 私は正直いって食事作りを含め、家事に定年はいらないと思っている。定年というのなら、病気になったり体力的に無理になったときではなかろうか。家事というのは人が暮らすために欠かせないものであり、とりわけ食事は人が健康に生きていくためにも大事だ。だからこそ、性別や年齢に関係なく誰もが卒なくできるようにしておくのがいい。妻に頼っている限り、平等ではないし自立しているとはいいがたい。

  
タグ :調理定年


Posted by 松田まゆみ at 16:42Comments(2)雑記帳

2025年01月16日

デジタルからアナログへ

 昨年末からパソコンの調子が悪くなり、しばらくの間パソコンはメールやSNSのチェックなど、必要最小限しか使わないでいた。すると、パソコンをあまり使わない生活にだいぶ慣れてしまった。考えてみれば私はもともとアナログ人間で、メールを始めたのも遅い。そんな私が、なぜかブログを書き、原発事故をきっかけに情報収集のためにSNSも始めた。すると、どうしてもパソコンを使う頻度が高くなってしまう。しかし、パソコンの不調によって、久しぶりにパソコンなどなかった頃の感覚がよみがえってきたし、そんな生活のほうが健全だと思えてくる。

 今は、なんでもデジタルの時代だ。写真もデジタルになってしまったので、パソコンがないとどうしようもない。飛行機や列車の予約などもネットが当たり前だし、電気料金の請求書などもネット閲覧になってしまった。このデジタル化の流れは今後も止まらないだろう。

 しかし、こんなデジタルだらけの生活は本当に問題がないのだろうか、と心配になる。スウェーデンの教育現場ではデジタルからアナログへと転換をするようになった。デジタル化が学力の低下につながっているという。やはり、デジタルにどっぷり浸かった生活というのは生物である人として好ましくないのだろう。かつては、毎日テレビばかり見ていたら人の脳は劣化してしまうのではないかと思っていたが、ネットもやりすぎたら同じなのかもしれない。

 コロナ騒動によって、マスコミが嘘ばかり報じていたことがはっきりした。コロナウイルスやワクチンの関する情報は、マスコミよりもSNSや個人のブログなどのほうがはるかに事実を知ることができた。私も、インターネットによる情報収集をしていなかったら騙されていたかもしれない。しかし、SNSも検閲されていた。マスコミもネットも何が真実かを見極める感性が求められる時代になってしまった。

 生活に根付いてしまったパソコンやインターネットだが、やはり適度に使うしかないのだろうと思う。私も最近は文字を書くことがなくなり、漢字がすっかり書けなくなっている。今年は少しデジタルからアナログへと転換しようかと思っている。

 そんなこともあって、昨年からペン習字を初めてみた。この歳になると、身についた癖がそう簡単には変わらない。少しは上達するものかどうかわからないが、しばらく続けてみたいと思っている。

  

Posted by 松田まゆみ at 14:23Comments(0)雑記帳

2024年11月03日

他責思考と「反ワクチンではない」の心理

 世の中には、自分の不幸や自分の失敗を何でも人のせい、環境のせいにしてしまう人がいる。ネットなどでもそんな人をしばしば見かける。もちろん他者や環境はその人の人生に大きく関係している。しかし、毒親から離れて暮らすようになり親の影響をほぼ受けなくなっても、「自分が不幸なのは親のせい」だとずっと恨んでいたりする人を見ると、もはやこの人は「他責思考」に捉われているとしか思えない。そして、他責思考の人たちに、幸せそうな人は一人もいない。

 人生とは選択の連続だ。そして、その選択は間違いなく自分がしている。配偶者がモラハラであっても、自分自身の選択肢がないわけではない。徹底的に話し合いをしたり、夫婦でカウンセリングを受けたり、あるいは別居や離婚も選択肢の一つだ。そのような努力を何もせずに相手のせいにして愚痴ばかりこぼしていても、何も解決しない。他責思考の人は、結局、自分がすべきことから逃れるためにすべてを「他人のせい」「環境のせい」にしているように見える。このような人は、決して「自分にも問題がある」とは考えていないので、自分を変えようとはしない。全て他人が悪く自分は悪くないのだから、自分の非、自分の判断の間違いを認めるわけがないのだ。そして、他責思考の人は、自分の問題を解決しようとせず、ずっと他人を恨み、ネガティブ思考に捉われ、どんどん不幸になっていくように見える。

 ところで、コロナワクチンに関してどのような態度をとるかを見ていて、私は日本にはとても他責思考の人が多いのではないかと思うようになった。

 コロナワクチンの初回接種のとき、自治体から接種券が送られてきたが、それと共に厚労省の「新型コロナワクチン接種のお知らせ」というパンフレットが同封されていた。それには次のように書いてある。

 ワクチンを受ける際には、感染症予防の効果と副反応のリスクの両方について、正しい知識を持っていただいた上で、ご本人の意思に基づいて接種をご判断いただきますようお願いします。
 受ける方の同意なく、接種が行われることはありません。
 職場や周りの方などに接種を強制したり、接種を受けていない人に対して差別的な対応をすることはあってはなりません。


 つまり、打つか打たないかは個人がベネフィットとリスクを理解した上で判断するようにと言っているのだ。そして、打つか打たないかの判断はそう難しいことではなかったし、専門的な知識も必要なかった。私は以下のことから打たないという判断をした。

・mRNAワクチンは従来の生ワクチンや不活性ワクチンとは異なる、全く新しいタイプのワクチンであり、これまで成功していなかった。
・ワクチンは普通10年くらいかけ、動物や人で臨床試験をして安全性を確認するが、新型コロナワクチンは一年足らずでつくられ緊急使用許可で接種が開始された。
・中長期的なリスクが全く分からない。
・ワクチン開始前の2020年には日本人のコロナ死は非常に少ないことが分かっており、コロナは致死率の高い恐ろしい感染症ではないことが分かっていた。

 しかし、多くの人が政府や医学会、医師などの勧めを信じて、自分自身でこの判断をしなかった。つまり、自分の健康に関する判断を他人に任せてしまったのだ。打って健康を害したとしても、その責任の一端は間違いなく打つという選択をした個人にもある。

 そして、実際に多くの人がワクチン接種後に亡くなり、健康被害で苦しんでいる人たちが多数いる。「打つ」という判断が間違っていたのは言うまでもない。しかし、その自分の判断の間違いを認めない人が実に多いことに唖然とした。さらに驚いたのは、そのような薬害被害者の中に、自分は「反ワクチンではない」と主張する人たちが少なからずいたことだ。被害を被っておきながら、なぜいちいちそんなことを言うのだろう? 「反ワクチン」と言われたところで、実際にワクチンが危険だったのだから気にすることではないだろうに・・・。

 その理由はしばらくしてから何となくわかってきた。「反ワクチンではない」と言う人達は、「自分が薬害にあったのは失敗ワクチンだったせいであり、ワクチンを打つ判断をしたこと自体は間違っていない」と考えているのではないか。そう考えると、「打つ」という判断をした責任を曖昧にできる。自分の判断は間違っていない、そう思いたいから「反ワクチンではない」と言わずにいられないのではないか? 結局、他責思考なのだ。

 ワクチン自体を否定しない被害者は、ワクチン反対の運動には参加しない。それは自分を否定することに繋がるからだ。mRNAコロナワクチンは反対、レプリコンも反対、でもワクチンそのものの研究や開発には反対しない。そういう人達が一定程度いる。そのような考え方をする人は、ワクチンの中止を求めて活動している人たちの脚を引っ張ることになるし、ワクチンの研究、開発を志している研究者(つまりワクチン推進派)と相性がいいことになる。結果としてワクチン推進派と何も変わらない。

 自分の間違いを認めようとしない他責思考は、医師も全く変わらない。接種事業に参加した医師の多くは薬害被害者に向き合わず、今でもmRNAワクチンが危険だと認識している人は少ない。自分の間違いを認めてしまったら、責任追及されるからだろう。かくして、mRNAワクチンやレプリコンの危険性を声高に主張し、薬害被害者の診察を引き受ける医師はほとんどが非接種の人たちだ。これほどにまで他責思考の医師が多いことに驚きを禁じ得ない。

 コロナワクチンを打って健康を損ねても、「打つ選択をした自分にも責任がある」、「打つという判断は間違っていた」と認められる人は、反対運動にも参加する。危険なワクチンを本気で止めようとするか否かは、他責思考であるか否かが大きく関わっているように私には見える。そして、他責思考をしない人たちは、これ以上の薬害被害者を出さないために行動することが何よりも重要だと考えている。

 もう世界を見渡してもmRNAコロナワクチンを打ち続けている国など日本くらいだ。日本でいつまでも危険なワクチンを中止に追い込めないのは、周りの人と同じにしていれば安心できるという同調思考(主体性のなさ)と他責思考の人が多いからではなかろうか?
  
タグ :他責思考


Posted by 松田まゆみ at 16:17Comments(0)雑記帳新型コロナウイルス

2024年08月31日

健康の責任

 生きていれば人はしばしば失敗したり選択を誤ったりする。完璧な人などいないのだから、それは仕方がない。というより、人は失敗を繰り返しながら学んで成長するのだから、失敗を恐れてはならないと思う。失敗をしてしまったら、原状回復に努め、同じ過ちを繰り替えさないようにしていくしかない。

 物を壊してしまったなら修理したり買い替えたりすれば済むし、服を汚してしまったら洗うことでたいていの汚れは落ちる。しかし、原状回復ができない失敗もある。とりわけ、選択を間違えて健康を失ってしまったなら、状況によっては元に戻すのは容易ではないし、できないこともある。

 医薬品や治療方法によって健康を害したり病気を悪化させたりしてしまうことだってある。医原病などと言われているが、結構多いのではないかと思っている。明らかな医療過誤なら医師の責任が問われ賠償問題になることもあるだろうけれど、医師が良かれと思って処方した薬で病気になったとしても、医師が責任を問われることはない。

 コロナ騒動を通じてつくづく思うのだが、やはり自分の健康に関しては自分が責任を取らねばならない。ワクチン一つとっても、「医師が勧めたから」「厚労省が勧めたから」「周りの人たちが打つから」という理由で打つ選択をしたのなら、それは最終的には自分の健康について他人任せにしてしまったということに他ならない。

 もし、ワクチンで体調が悪化してしまったなら、誰もその責任を取ってくれない。ワクチンに関しては予防接種健康被害救済制度があるが、それはお金が支払われたり、障害年金を受給できるというだけで、元の体に戻してくれるわけではない。ワクチンを勧めた国に対して損害賠償訴訟を起こすこともできるが、勝ったとしても賠償金が支払われるだけだ。ワクチンを打った医師が責任を取って治療してくれるわけでもない。

 私がとても恐ろしいと思うのは、自分の健康に関することであっても、まるで他人事のように「皆が打つから」という理由でワクチンを打ってしまう人がいることだ。「皆が〇〇だから・・・」という思考は「皆が打つのだから、何かあっても何とかなるだろう」という安易な思考が透けてみえる。要は、危機管理意識がないのだ。自分の体は替えがきかない。薬害が生じたら、即、自分に跳ね返ってくる。コロナワクチンの薬害に苦しみ後悔している人は多いと思うが、体調不良から抜け出すためには様々な解毒を試してみるしかない。当然お金もかかる。そして、それが功を奏することもあるが、上手くいかないことだってあるだろう。

 これはワクチンだけの話ではない。癌の治療にしても、大半の医師は患者に標準治療(手術、放射線治療、抗がん剤)を勧め、患者も医師の勧めの通りの治療を受ける。しかし、それで本当にいいのだろうか?

 私は中村篤史医師のブログを読んで、癌の標準治療に大きな疑問を持った。こちらのブログの左上にある「検索」に「癌」と入力してみると様々な記事が出てくるが、これらを読めばとても標準治療を受ける気にはなれない。検診、健診も同じで、見つけなくてもいい病気を見つけて不要な治療をして健康を損ねることもある。

 今の時代は、健康に影響を与えるようなものが身の回りに溢れている。添加物や農薬まみれの食べ物ももちろんそうだけれど、化粧品やシャンプーなども化学物質だらけでそれらが皮膚から吸収されてしまう。Wi-Fiやスマホ、IHクッキングヒーター、電子レンジ、LEDライトなどからの電磁波にもさらされている。「皆が使っているから」という理由で何の疑問も持たずにこれらを利用しているというのは、やはり危機管理意識に欠けると思う。

 自分の健康の責任は自分で取るしかないし、替えが効かないということだけは常に意識していたい。

  

Posted by 松田まゆみ at 15:54Comments(0)雑記帳新型コロナウイルス

2024年08月07日

変人?それとも不審者?

 東京に住んでいた若い頃、よく多摩川に野鳥を見にでかけた。長靴を履き、首から双眼鏡をぶら下げ三脚につけた望遠鏡をかついで河川敷を歩いていると、いつも河原に鎮座しているのが釣り師。話しかけられると面倒なのでなるべく近寄らずに通り過ぎるのだけれど、たまに声をかけられることがあった。

釣り師 「写真を撮っているの?」
私   「いいえ、野鳥を見ています」
釣り師 「えっ? 見るだけ?」
私   「はい。見るだけです」
釣り師 「見るだけで何が楽しいのかね・・・」

 たいていこんな会話になる。彼らからすれば、野鳥を見るだけの趣味など理解できないらしい。きっと「変人」だと思っているのだろう。しかし、私からしたら、下水も流れ込んでいる汚い多摩川で釣った魚などとても食べられないし、そんな魚を釣って何が楽しいのだろう?と思う。しかも、釣り師は多少天気が悪くてもいつもいる。私から見たらかなりの変人だ。まあ、お互いに「変人」だという認識なので、近寄らずにそれぞれの趣味を楽しむのが一番いい。

 学生の頃はキャンパスにいろいろな野鳥がいて、私は必ず双眼鏡を持ち歩いていた。ある日、建物の前の植え込みに入り込んだ野鳥を双眼鏡で見ていたら守衛さんに呼び止められた。嫌な予感がよぎる。守衛さんは「何見てるんですか?」と尋問してくる。「野鳥を観察してるんです」と説明しても、不審な眼を向けてくる。どうやら建物の中を双眼鏡でのぞき込んでいると勘違いしたらしい。いやはや、野鳥観察も守衛に見つからないようにしなければならないとうんざりした。

 今はバードウォッチングもポピュラーな趣味になったし、双眼鏡や望遠鏡や望遠レンズのついたカメラを持って歩いていても何とも思われないのだろうけれど、4、50年前はこんな感じだった。

 最近は野鳥を見るよりも昆虫やクモを探して写真を撮ることが増えた。虫の観察は絶対に一人がいい。連れがいるとペースが全く合わない。写真を撮りはじめるとしばらくそこから動かないこともあるからだ。それになるべく通行人が少ないに越したことはない。道端にしゃがみ込んだり、建物の壁に向かってカメラを向けていたり、公衆トイレの周りをうろうろしたり・・・恐らく知らない人が見たら、不審者にしか見えないだろうと自分でも思う。声をかけられると面倒なので、なるべく人には近づかないようにしている。

 捕虫網を持っているなら昆虫愛好家か昆虫研究者だとすぐ分かるだろう。しかし、網も持たず、小型のデジカメしか持っていなければ、虫嫌いの人にとっては変人か不審者でしかない。

 なら、捕虫網を持っていればいいかと言うとそうでもない。たまにスウィーピングでもしようかと捕虫網を持って歩いていると、通りがかった人から奇異な目を向けられる。そりゃあそうだろう。何しろ、子どもの虫捕りではないし、昆虫マニアっぽくもないし、研究者風でもない高齢のおばさんなのだから。奇異な目で見られるだけで声をかけられなければまだいいのだが、たまに声をかけてくる人がいる。

通行人 「何を捕っているんですか?」
私   「クモです」
通行人 「へえ、クモを捕っている人なんで初めて見ました。珍しいクモとかいるんですか?」

 挙句の果て、あたりを見回して「ここにクモがいますよ」と親切に教えてくれる人までいる。大抵はどこにでもいる普通種なのだけれど、「ああ、どうも。これは〇〇グモです」と教えてあげることになる。ペースが乱されて実に面倒くさい。

 世の中にはごく一握りの虫好きの人がいるけれど、それ以外の人はたいてい虫は嫌いか興味がないかのどちらか。虫を探して写真を撮っているというだけで、きっと変わり者だという認識に違いない。

 そんなわけで、散歩はできるだけ人が少ないところをマイペースで歩くのがベスト。人目は気にしないようにしているけれど、こちらが気にしなくても、相手はきっと変人だと思っているだろうし、場合によっては不審者だと思われているのかもしれない。まあ、そんなことを気にしていたらこの趣味は楽しめない。

  

Posted by 松田まゆみ at 17:30Comments(2)雑記帳

2024年05月15日

人として大事なこと

 今までの人生を振り返ってみて、またコロナ騒動を振り返ってみて、人として大事なことは何なのかと考えることが増えた。もちろん人として大事なことはいろいろあるし、いろいろな人が言っているけれど、とりわけ私が重要だと感じていることを書き留めておきたい。

・主体性を持つということ
 コロナ騒動でもっとも欠けていたのがこれ。多くの人が、マスコミ報道に翻弄されてコロナを怖がりワクチンに飛びついてしまった。私もコロナが流行り始めた頃にかなり恐怖を感じたのは事実。しかし、「PCR陽性=感染者」は違うし、「亡くなったときに陽性の人はすべてコロナ死」で、明らかにおかしいと思った。また、亡くなった人の大半は寿命に近い高齢者で致死率は高くはなかったことから、この騒ぎに次第に違和感を持った。ワクチン接種が始まった頃には、これは打ってはいけないと確信した。

 ところが多くの国民は何の疑問もたず、政府や専門家、あるいは医師などの勧めで打ってしまった。しかし、「ワクチンを打ったほうがいい」というのは、あくまでも他人の意見。政府、感染症の専門家、医師、免疫学者、ウイルス学者、製薬会社等の内部告発者、ジャーナリストなどのさまざまな立場の人の意見を知った上で、本当に打つべきか否かを最終的に判断するのは自分自身でしかない。そして、その選択責任は自分で負う。それが「主体性がある」ということだと痛感した。

 コロナワクチンに関しては、海外の人たちの多くは、2回あるいは3回くらいでおかしさに気づき接種を止めた。7回まで打ったなどというのは日本しかない。日本人がいかに主体性がないのかが露呈してしまった。当たり前だが、他人からの評価を気にしていたり(陰謀論者と言われることを恐れたり)、周りに合わせてばかりいたら主体性を持つことはできない。

・自分の良心に誠実であること
 人生というのは選択の連続だ。その選択をする際に何を基準に決めるのか? 私はやはり「自分の良心に誠実であること」が最も大切ではないかと思う。もし、医師が「自分の利益になること」を基準にしていたら、「ワクチンで一儲けしよう」と考え、薬害のリスクに目をつむり自分の利益を優先するのではないか。「保身」を基準にしていたなら、ワクチン推進という自分の判断が間違っていたと悟っても、その間違いを認められずに責任回避しようとするだろう。自分の良心に誠実に生きている医師ならば、ワクチン後に超過死亡が激増し、薬害で苦しむ人を見て、ワクチンが失敗であったことを認めざるを得ないだろう。そして、薬害で苦しむ人たちの診察をし、ワクチンを中止させるための活動に参加するのではなかろうか。ワクチンで、医師の良心を覗き見た気がした。

 ワクチンのことに限らず、自分の良心に従うことよりも保身や利益ばかりを判断基準にする人は、結局は自己中から抜け出ることができないし、心のどこかにずっとうしろめたさを感じて幸福感を得ることができないように思う。

・課題の分離ができること
 ある課題が、自分の課題なのか他者の課題なのかを明確にし、他人の課題には踏み込まないということ。他人に振り回されず、また他人を振り回さない(支配しない)ということでもある。これが日頃からできていれば、モラハラもなければ毒親もない。お節介な人もいなくなる。人間関係のトラブルは激減するだろう。しかし、現実はこれがきちんとできていない人が大半だと思うし、私もときどきお節介をしてしまったと自省することがある。

 コロナ騒動でも課題の分離ができない人をずいぶん見てきた。本来任意であるはずのマスクやワクチンを他人に強要する人、自分の意見こそ正しいと言わんばかりに、異なる意見の人に噛みつく人。SNSでは見慣れた光景だ。他人は変えることができないのだから、他人の意見を変えようと説教したり非難すれば、人間関係はますます険悪になる。それでも他者への介入を止められない人は多い。良好な人間関係をつくりたいのであれば、他人の課題に土足で踏み込んではならない。

・ネガティブ思考を止める
 怒り、恨みや憎しみ、イライラ、不平不満、人や物事に対する嫌悪、あるいは過度の不安や恐怖。これらはすべてネガティブな思考だ。また、歪んだ競争心も嫉妬などのネガティブ思考を生み出す。私も若い頃は、人に怒りを覚えたり不平不満を持つことがしばしばあった。怒りを感じても感情を抑え込み、間もなく怒りが収まるようならさほど問題はない。しかし、怒りを相手にぶつけると相手も不快になり険悪な関係になる。お互いに相手を理解しようという気持ちにはならず、問題は何一つ解決しない。そう気づいてからは怒るということ自体を止めた。

 他のネガティブ思考も同じで、ネガティブ思考が頭にこびりついて離れなくなるとろくなことはない。ネットで悪口を言われたり非難されたことで鬱になってしまう人もいる。ネガティブな思考に捉われてしまうと、結局「あの人が悪い」「育った環境が悪い」などという他責思考になってしまう。そして、そこから抜け出さない限り精神的安定感は得られない。過度の「不安」や「恐怖」も同じで、どうなるか分からない未来のことで不安を抱えていたら、神経がすり減ってしまう。アンガーマネージメントという言葉があるが、怒りに限らず、ネガティブな感情はコントロールするというより「やめる決断をする」方がすっきりするのではないかと思っている。日頃から不平不満を言わずに機嫌よくしている人というのは、これができているのだろう。

 ネガティブ思考に陥らないためには、思考の転換も必要だ。「○○が嫌」と忌避するのではなく、「○○を楽しもう」とか「大変だけど何とか乗り越えよう」と思考を切り替えてみる(もちろんモラハラやDVなどの場合は相手から離れる決断も必要)。そして、できれば小さなことにも感謝する。朝、目が覚めたら今日も無事に生きていることに感謝する。食事のときには飢えずにいることに感謝する。家族や友人など必要なときに支えてくれる周りの人に感謝する。そんな風に感謝することができれば、それだけでネガティブな思考が消えていき穏やかな気持ちになれる。

 人の幸福とは、決して偉業を成し遂げたり、金持ちになったり、名声を得たり、人に評価されることではない。日々の何気ない生活の中に、楽しみや喜びを感じることができることこそ幸せなのではなかろうか。ささやかなことであっても、他人に貢献できれば自分の喜びともなる。家事でも趣味でもボランティアでも仕事でも社会活動でも、自分の良心に誠実に、感謝を忘れずにいれば、それが自ずと幸福感につながっていくのではないかと思っている。

  

Posted by 松田まゆみ at 20:45Comments(0)雑記帳

2024年01月04日

大地震に警戒を

 今年の新年は能登半島の大地震で始まった。まずは、亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災された方たちに一日も早く平穏な生活が戻ることを祈りたい。

 ところで、この地震についてロシアの研究者Alexey Lyubushin博士が大きな地震の前兆ではないかと不穏な推測をしている。

20240103報告(生かせいのち自身と防災 ameba版)

 Xのアカウントをお持ちの方は、ここからリンクされている「Sputnik 日本」のツイートをお読みいただきたい。

 要約すると、「日本列島は2023年3月からいつ大地震が起きてもおかしくない段階に入っており、それはマグニチュード7.5を超える。今日本で起きている地震はより大きな地震の前兆である可能性がある。3.11のときも、マグニチュード7.5の前震がありその3日後に大災害が起きた。新たな大地震は太平洋側の東京近郊で起こる可能性がある。」との推測をしている。

 Lyubushin氏は2023年3月から5月の間に日本の南部で極めて大きな地震が起きる恐れがあるとの予測をしていたが、これは当たらなかった。今回の予測も当たらないといいのだけれど、やはり警戒することに越したことはない。

 今回の地震では志賀町で震度7、志賀原発は震度5を記録したと発表されたが、配管が壊れて絶縁や冷却のための油が漏れだしたことが分かっている。この程度の地震で配管が壊れるのであれば、耐震性に問題があると言わざるを得ないし、日本にある全ての原発は大地震に耐えられないと思う。志賀原発が停止していたのは不幸中の幸いだが、核燃料プールがある限り、いつ過酷事故が起きてもおかしくない。原発があるというだけで、日本はかなり危機的状況に立たされている。

 しかも、能登の地震の震源域を見れば、志賀原発は断層の上ないしは直近に建てられたと言っても過言ではない。日本は原発によって滅びるのではないかと、福島第一原発の事故当時の恐怖が蘇ってくる。とにかく一刻も早く全ての原発を廃炉にし、更なる地震対策をするしかないと思う。

  

Posted by 松田まゆみ at 16:13Comments(0)雑記帳

2023年11月26日

いくつになっても変わらないこと

 子どもの頃は、自分が高齢者になったときのことなど全く想像ができなかった。まあ、それが普通なのだろう。そして実際に高齢者になってみて思うことは、いくつになっても子どもの頃とほとんど変わっていないのではないかということだった。変わらないというのは性格などではなく、趣味や嗜好が変わらないということ。

 私は小学生くらいまでは昆虫が大好きで、友達と遊ぶとき以外はよく一人で虫捕りをしたり、昆虫を捕まえてきては飼育したりしていた。小学校の4年生くらいまでは、夏休みといえば昆虫標本を作っていたと思う。女の子としてはかなり変わり者だった。

 小学校高学年からは野鳥に興味を持ち始め、中学生くらいから何度か探鳥会に参加した。また、中学2年のときにそれまで住んでいた借家から庭付きの一戸建てに引っ越したのだが、それを機に園芸も始めた。花壇をつくり、パンジーやサルビア、マリーゴールドなど種から苗づくりをしたし、菊の3本仕立てとか朝顔の行燈仕立てなどもやって、兄からは「老人趣味」だと笑われた。

 高校時代の休日といえば、庭で園芸作業をするか、早朝から起き出して一人でおにぎりを作って探鳥会に参加するかのどちらかだったように思う。高尾山には毎月のように通い、山野の鳥はほぼ高尾山で覚えた。同級生は芸能人や男の子の話ばかりしていたが、そんなことには全く興味がなかった。

 大学では生物系のクラブに入りもっぱら野鳥を観ていた。夏休みや冬休みには北海道から九州まで野鳥を観に歩き回っていた。また、先輩に誘われてクモにも興味を持つようになった。大学を卒業したあとは、週末になると時折思い立ったように夜行日帰りや夜行一泊くらいの登山にのこのこと出かけて行った。都会で暮らしていると、たまに山に登って新鮮な空気を吸うだけで、なにやら生き返ったような気持ちになったものだ。山友達はほとんどいなかったので一人で行くことが多かった。

 結婚をして北海道に移り住んでからは、どちらかというとクモに夢中になっていた。北海道でクモを調べている人がほとんどいないというのがその理由の一つだった。家を建てて庭を持ってからは再び園芸を始め、一時はかなりの花を育てていた。そんなこんなで、いつも昆虫や野鳥やクモや植物を相手にしていたし、登山もときどきした。なんだかんだ言っても、常に動植物とともに生きてきたように思う。

 さて、高齢者となった今は何をしているかというと、春から秋の無雪期は散歩がてらに昆虫やクモの写真を撮っている。小学生の頃の虫好きの再来で、初めて見る虫に出会うとそれだけで心がときめいてしまう。種名の分からない昆虫を調べるだけでかなり時間をとられるのだが、楽しくてやめられない。

 園芸の方は、花卉園芸から蔬菜園芸に変わってきた。というのは、エゾシカが激増して玄関周りに飾っていた花を食べてしまうようになったからだ。そこで花づくりはきっぱりと諦めて庭を鹿避けネットで囲い、宿根草の花壇を少し残して他は蔬菜園芸に切り替えた。いわゆる家庭菜園だ。そんなわけで、春から秋は散歩と園芸にかなり時間をとられる生活をしている。

 積雪期になると双眼鏡を持って散歩に行くが、私は寒いのが苦手なので、夏と比べて回数や距離がかなり減ってしまう。しかし、室内でもやることはいろいろある。3年くらい前から、色鉛筆でクモの標本画を描き始めた。これは高齢者になってから新たに始めた趣味の一つで、自己流だが時間があるときに楽しみながら描いている。

 それから編み物もする。私は棒針編みが好きなので、もっぱらセーターを編んでいる。手芸は子どもの頃から好きで、小学生の頃からレース編みをやっていたし、中学や高校では手芸クラブに入っていた(本当は生物系のクラブに入りたかったのだが、なかったので仕方なく)。母も手芸が好きで、若い頃はセーターをよく編んでいたし、レース編みもやっていた。高齢になってからは刺繍でテーブルセンターなどを作っていた。手芸好きは母に似たのかもしれない。

 あと、趣味ではないが、自然保護活動も高校生のころからずっと関わっている。野生生物が好きであれば、それらの生息環境を保全していかねばならないと思うのは当然の成り行きだ。人間も自然の一部である以上、自然環境を守らねば生きてはいけない。

 こうやって振り返ってみると、子どもの頃から好きだった自然との関わりをずっと続けているのだとつくづくと思う。自分が楽しくてやっていることだから、大変だとも思わない。きっと体が動かなくなるまで同じようなことをやっているのだろうと思う。歳をとってもやりたいと思うことがあると、老いも気にならなくなる気がする。クモの標本画などまだまだ一部しか描いていないのだから、終わりが見えない。テレビもないので、漫然と時間を浪費したりマスコミに洗脳されることもない。

 世の中には「虫屋」さんとか「鳥屋」さんとか、「釣り師」とか、特定の生物の採集や観察、写真撮影などにはまっている人が一定程度いる。大学受験を機に、あるいは就職や結婚を機にそういった趣味をやめてしまう人も多いが、就職しても結婚してもやめずに続けている人の大半は、おそらく一生同じ趣味を続けるのではないかと思う。趣味というのは認知症防止にも役立っているのだろう。

 ここで、ふと思う。ゲームやネットばかりで育った今の子どもたちは、果たしてのめり込めるような趣味をどの程度持っているのだろうか? ちょっと心配になってきた。
  

Posted by 松田まゆみ at 21:23Comments(5)自然・文化雑記帳

2023年09月20日

忖度しないという生き方

【今日のツイートより】

 mRNAワクチンのDNA汚染問題を声高に訴えている人は日本では限られている。不可解なことに医師でDNA汚染を問題視して積極的に発信している人はとても少ない。DNA汚染問題はmRNAワクチンの致命的欠陥であるにも関わらず、ワクチン反対を唱えている医師もほとんど発言しない。

 その理由は、DNA汚染問題を過小評価した研究者、その研究者と親しい間柄にあり彼を擁護していたジャーナリストの影響が大きいのだろう。沈黙している医師の多くは過小評価した研究者やジャーナリストと親しい関係だったのではないかと思うし、彼らを慮って沈黙しているように見える。

 結局のところ、人は親しくなった人の影響を受けやすいし、その人が窮地に立たされると擁護してしまうのではないかと感じてしまう。私は思想家の内田樹氏に関しても同じことを感じている。私は内田氏に関しては共感するところが多かった。しかし、ある時を境に違和感を覚え始めた。

 一つは山本太郎氏に関して。山本太郎氏が内田樹氏を訪問したことから二人は親しくなったらしい。その後、内田氏は山本氏を高く評価するようになった。
http://blog.tatsuru.com/2020/04/10_1141.html

 山本太郎氏と言えばMMT信奉者。内田氏がそのMMTを推進し反緊縮を訴える団体「薔薇マークキャンペー」ンの呼びかけ人になったと知ったときは驚愕した。内田氏は経済成長から定常経済へと移行すべきだと主張していたはずなのに、なぜ反緊縮になってしまったのだろうかと。
https://rosemark.jp/2019/06/14/01-27/

 私は山本氏が政治家になりたての頃は大きな違和感はなかった。しかしれいわ新選組を立ち上げた頃から疑問を持ち始めた。MMTは支持できないし、彼にはメサイアコンプレックスを感じる。選挙戦を見ていると物凄く策士的要素を感じてしまう。誠実な政治家というイメージがどんどん薄れていった。

 もちろん山本氏を高く評価する人は多いし、それは個人の自由だ。しかし、内田氏を見ていると、やはり実際に当人に会い親しくなったことで山本氏への評価がどんどん上がっていったように感じてならない。人はいちど親しくなってしまうと、相手を批判的に見ることができなくなるのかもしれない。

 それともう一人は岩田延太郎氏。内田氏はコロナ騒動が始まってから岩田健太郎氏と親しくなり、岩田氏を評価するような発言をしていたことにも驚いた。内田氏は岩田氏と共著で本も出している。
https://mainichi.jp/articles/20220324/k00/00m/040/418000c

 岩田健太郎氏はコロナ騒動の初期、ダイヤモンドプリンセスの感染対策について発言したことで一躍脚光を浴びたが、その後のコロナについての発言を見ていて私は彼は信頼できないとすぐに悟った。岩田氏は以前から「反ワクチン」という言葉を使っているし、コロナワクチンも推奨していた。

 岩田氏は、「感染ゼロを目指すべき」などという発言もしている。私にとっては、話にならないレベルだ。内田樹氏がなぜこのような人に信頼を寄せてしまったのか、不思議で仕方ないのだが、親しくなってしまったというのが一番大きな要因ではなかろうか。
https://dot.asahi.com/articles/-/74028?page=1

 親しくなって評価してしまった人に関しては、たとえその人の主張が間違っていると気づいても手の平を返すようなことはできない、というのが多くの人の心理なのかもしれない。友人知人との関係はできるだけ維持したい(壊したくない)という気持ちが働くのではなかろうか。

 あるいは本当におかしさや間違いに気づいていないのかもしれないが、だとしたら親しくなったゆえの影響力の大きさ(洗脳ともいえる)なのだろう。たとえどんなに親しい間柄でも、おかしいことはおかしいと言える、間違っていることには反論する、そういう勇気があるかどうかが問われているように思う。

 もし、反論したら壊れてしまうような仲ならば、そういう人だったと思ってさっさと友人関係を解消すればいいではないか。本当に信頼できる関係ならば、たとえ意見が違って激論になったとしても信頼関係が壊れることはないと思う。忖度などやめて、自分の良心に誠実でありたい。
  

Posted by 松田まゆみ at 21:02Comments(0)雑記帳新型コロナウイルス