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2016年12月31日

年の暮れに

 今日で今年も終わり。子どもの頃は一年がものすごく長く感じたのに、歳とともに短くなり、昨今では飛び去るように過ぎてしまう。なんだか追い立てられているようだ。

 「別れ」が増えてくるのも歳をとった証だろう。今年は喪中葉書がいつになく多く15枚もあった。自分より年上の方の訃報が多いとはいえ、友人や知人の訃報を耳にするたびに寂しさがこみ上げてくる。かつて共に語らい心を通わせた人たちが、一人、また一人と亡くなっていくのは、なんともやるせない。

 今年は植物学者で京大名誉教授の河野昭一先生と、昆虫学者で帯広畜産大学名誉教授の西島浩先生の訃報が届いた。

 私が河野昭一先生を知ったのは、学生時代に大学の図書館で手にした「植物の進化生物学 種の分化と適応」だった。進化や種分化に興味を持ちはじめていた頃だったからこそ、この本と著者の名前は脳裏に深く刻まれた。そして、日本におこんな優れた研究者がいるのだと知った。

 その後、河野先生は自然保護運動に積極的に関わっていることを知って、私は大いに認識を新たにした。日本では自然保護などの草の根の社会運動に積極的に関わる研究者はとても少ない。単に研究に忙しいということだけではなく、たぶんいろいろなしがらみの中で圧力のようなものがあるのだろう。しかし河野先生は、大規模林道問題全国ネットワークの代表を務め、全国各地で自然保護のための調査にも関わって大活躍されていた。国際自然保護連合の生態系管理委員会東アジア地区副委員長も務めるという希少な研究者だった。

 そんな河野先生と行動を共にすることになったのは、2005年の上ノ国町ブナ林伐採現場への視察だった。それ以来、十勝東部の国有林の伐採現場、上士幌町の幌加・タウシュベツの皆伐現場、上川町の石狩川源流部の違法伐採現場など、道内各地の伐採現場での視察や調査で行動を共にした。

 かつては雲の上の存在だった河野先生と、自然保護の現場でともに行動することになるとは夢にも思っていなかった。70歳を超えてもとてもお元気で全国を飛び歩き、誰とでも気さくに話しをされる河野先生に、私などはいつも元気づけられていた。今となっては、それも懐かしい思い出だ。

 河野先生亡きあと、先生に代わって自然保護のために行動する研究者が果たしてどれほどいるのだろうか?と思わざるをえない。それほど、自然保護、とりわけ森林保護に尽力された類い稀な研究者であられた。

 西島浩先生は深い付き合いがある訳ではなかったたが、大学時代の恩師(昆虫学)とは親友の中だったそうで、お二人で尋ねてこられたことがあった。根っからの昆虫好きで、虫好きが高じて研究者となり、一生を虫とともに暮らしたといっても過言ではないだろう。

 何年か前に千歳のご自宅に2回ほど伺ったことがある。ご高齢でありながら一人暮らしをされており、居間のテーブルには昆虫の本が積まれ、一日中、昆虫の本や資料に囲まれて過ごされているようだった。そして、私の顔を見ると「このあたりにもオニグモがたくさんいて夏になるとオニグモヤドリキモグリバエを見かけるのだが、最近はオニグモもあまり見られなくなった」と嘆いていらした。

 オニグモヤドリキモグリバエは産卵前のオニグモの腹部に卵を産みつける小さな黄色い寄生バエで、幼虫はオニグモの卵を食べて育つ。昆虫愛好家として、クモも寄生バエも興味深い対象として観察されていたのだろう。長生きされたのは、昆虫というかけがえのない趣味を生涯に渡って心から楽しんでいたからに違いない。いくつになっても好きなことに没頭できるというのは素晴らしいことだと思う。

 お二人のご冥福を心よりお祈りしたい。

 さて、私もあと何年生きられるのか分からないが、今年も大きな病にもかからず、事故にも遭わず、平穏に過ごせたことに感謝したい。この国が平和でいられるのも、あるいは自由に物を言えるのも、今のうちかもしれない。一度しかない人生なのだから、言いたいことも言わず、やりたいことを我慢するつもりはない。せめて残された人生を自分に正直に生きたいと思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 07:01Comments(2)雑記帳

2016年10月25日

アドラーのトラウマ否定論について思うこと

 アドラー心理学の「トラウマを否定する」という考え方について、納得できないという人は多いと思う。なぜなら、トラウマ(心的外傷)とかPTSD(心的外傷後ストレス障害)は実際に存在するし、それが当事者にとっては生活上の大きな支障になっていると認識されているからだろう。

 しかし、私はアドラーの主張は基本的に間違っていないと思う。岸見一郎さんはアドラーのトラウマ否定論について、「幸福の心理 幸福の哲学」(唯学書房)で以下のように説明している。

 主人の側について歩くことを訓練された犬がある日、車にはねられた。この犬は幸い一命をとりとめた。その後、主人との散歩を再開したが、事故にあった「この場所」が怖い、と、その場所に行くと足がすくみ、一歩も前に進めなくなった。そしてその場所には近づかないようになった(Adler, Der Sinn des Lebens, S29)。
 「事故にあったのは、場所のせいであって、自分の不注意、経験のなさではない」と結論付けた犬は、この考えに固執し危険はこの場所で「いつも」この犬を脅かした。
 アドラーが比喩で語るこのケースは、PTSD(心的外傷後ストレス障害)のケースであると見ることができるだろう。神経症の人もこの犬と同じである、とアドラーはいう。面目を失いたくはないがために、ある出来事を自分が人生の課題に直面できないことの理由にするのである。
(27ページ)


 私はこの部分を読んで、自分が犬に咬まれたときのことを思い出した。あれは小学校高学年の時だったと思う。道端のフェンスに犬が繋がれていた。動物が嫌いではなかった私は犬に近づいて頭を撫でようとしたのだが、犬はいきなり私にとびかかって腕に咬みついた。私はびっくりしたと同時に「しまった!」と思ったが、後の祭りだった。腕には犬の歯形がしっかりとつき血がにじんだ。ただし、犬も本気で咬みついた訳ではなかったようで、大事に至るような怪我ではなかった。

 犬が嫌いではないがゆえに、咬みつかれるとは考えもせず不用意に近寄ったことが不幸を招いた。その後しばらくの間、私は大きな犬を見たり犬に吠えられるたびに恐怖に襲われた。アドラーの比喩にある交通事故にあった犬と同じであり、いわゆるPTSDといえるものだろう。これは、恐らく咬まれたときの恐怖が「犬=恐怖」という記憶となって脳にインプットされてしまったのだと思う。しかし、いくら犬が吠えたてたとしても、繋がれているなら近寄らなければ咬まれないし、人に咬みつく犬は多くはない。よく考えれば犬という動物はそれほど怖がる存在ではないのだ。それを自分で認識するようになるにつれ、犬への恐怖感は消えていった。

 「クモ恐怖症」も同じだ。クモ恐怖症の人はクモが大嫌いで、クモを見ただけで怖がりパニックになったりする。これもトラウマ、PTSDと言えるだろう。クモ恐怖症になってしまう人は、恐らくクモに咬まれて痛い思いをしたとか、テレビや映画などでタランチュラなどに襲われる場面を見たことが「クモ=恐怖」として脳にインプットされ、その思い込みから逃れられないのだろうと思う。

 しかし、私を含め、クモが大好きな人はたとえクモに咬まれて痛い思いをしてもクモ恐怖症になることはない。クモ愛好者の多くは素手でクモを採集するが、たまに咬まれてしまうことがある。そんなときは自分に問題があったと自覚しているから、クモが悪いとは考えない。また、クモの毒性についても知識があるから、たとえ咬まれても冷静に対処できる。大半のクモは怖い存在ではないと理解していれば、クモ恐怖症にはならない。

 ちなみにクモや昆虫を素手で触る私を見て育ったわが家の子どもたちは、クモも昆虫も怖がることはない。恐怖症になるか否かは、過去の経験や周囲の人の影響で「○○は怖い」という情報が脳に刻まれてしまい、それに強く支配されてしまうか否かというところにありそうだ。そして、恐怖に支配されるか否かは、当事者の意識が大きく関わっている。

 夫のモラハラ(モラルハラスメント)でPTSDになったという人のブログを読んだことがある。モラハラ夫は妻を自分の所有物のように支配しようとする。その女性は、モラハラ夫が単身赴任になり週末にのみ自宅に帰ってくる生活になってから、週末になると酷い体調不良で入院するようになった。そして、医師からPTSDだと告げられる。その後、彼女は離婚を決意して離婚のための行動にでるとPTSDがなくなったそうだ。この女性が夫のモラハラによってPTSDを発症したのは事実であっても、意識の転換によって発症を抑えることができたのだから、PTSD発症の鍵を握っているのはモラハラそのものというより女性の意識が大きい。ならば、モラハラがPTSD発症の直接の原因だと決めつけることにはならない。

 ところが、PTSDに苦しんでいる人はしばしば自分の不幸や辛さを、トラウマを生じさせたできごとのせい、あるいは加害者のせいだと考える。このような原因論に捉われてしまうと、意識の転換ができないのでずっとPTSDに支配されることになる。そして、自分の責任をトラウマに転嫁させてしまうことになりかねない。アドラーはこれを「見かけの因果律」と言った。

 モラハラ夫でPTSDになった女性の事例で言うなら、モラハラ男との結婚という選択をした責任は彼女にあるし、夫の支配になんら対策を講じずに結婚生活を続けた責任も彼女にある。その責任を自覚して自分の抱える「愛の課題」に向き合い離婚の決意をしたときにPTSDから解放されたといえるだろう。

 自分自身に何ら責任がない事件や事故、自然災害などによる恐怖もトラウマになる。しかし、そのトラウマは前述したように、脳が勝手に刻み込んだいわば「思い込みによる恐怖」といえるものだ。事件が起きた場所に行くとPTSDを発症するという場合があるが、そこに行ったらまた同じことが起こるというわけではない。脳に記憶された恐怖が場所と結びついているだけだ。

 事件や事故、自然災害に巻き込まれることは稀であるし、その教訓を今後に生かそうと自覚できれば、トラウマの恐怖に支配されることもなくなるだろう。PTSDになるかどうかは当事者の意識が大きく関わっているのに、過去の事件や事故のみに原因を求めて固執する人は、いつまでもPTSDから抜け出せなくなり、やがてトラウマやPTSDを、自分が人生の課題に取り組まないことの言い訳にするようになる。

 岸見さんの著書から再び引用したい。

 アドラーは、トラウマは必ずしもトラウマである必要はなく、いかなる経験もそれ自身では、成功の、あるいは、失敗の原因ではない、人は経験によって決定されるのではなく、経験に与えた意味によって自分を決めている、と考えている(What Life Could Mean to You, P42)。
 トラウマによる不安を訴える人がもともと困難を回避する傾向があるということはありうる。働きたくないと常々思っていた人であれば、職場に行かないでいることを正当化する理由ができたと思うかもしれない。最初は事故にあった場所や事件に巻き込まれた場所に行った時、不安になったり心臓の鼓動が速くなったり頭痛がするという症状が出ただけだったのに、やがてその場所の近くを通りかかるだけでも症状が出るようになり、そうなると外へ一歩も出られなくなるのはすぐのことである。
(30ページ)

 アドラーはトラウマやPTSDの存在そのものを否定しているわけではない。過去の辛い経験について、当事者がトラウマだと思えばトラウマになってしまうが、そう考えなければトラウマにはならないと指摘しているのだ。トラウマになるか否か、PTSDを引き起こすか否かは過去の経験そのものより、当事者の考え方(経験にどのような意味づけをするか)によって決まる。だからこそ、同じ辛い経験(たとえば大津波で家族を失うなど)をしても、PTSDになる人とならない人がいるのだ。

 岸見一郎・古賀史健著「幸せになる勇気」で、アドラー心理学を説く哲人は以下のように語っている。

 彼らのような生き方を選ぶのは子どもだけではありません。多くの大人たちもまた、自分の弱さや不安、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論みます。心配させ、言動を拘束し、支配しようとするのです。

 非常に厳しい言い方であるし、PTSDに苦しんでいる人にとっては受け入れがたい考え方かもしれない。しかし、この指摘はやはり真実だと思う。過去の経験にどのような意味付けをするかでトラウマになるかならないかが決まるのなら、意味付け(考え方)を変えることでトラウマやPTSDから抜け出すことができる。それにも関わらず、「自分の不幸は不遇な環境やトラウマのせいであり、自分には一切責任がない」という思考にはまってしまうと「意味付けを変える」という思考ができず、いつまでもPTSDに捉われて前に進めない(人生の課題に取り組まない)ばかりか、無意識のうちに他者を支配することになりかねない。

 アドラーのトラウマ否定論については、以下も分かりやすい。

http://diamond.jp/articles/-/52954?page=4
http://yuk2.net/man/110.html

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Posted by 松田まゆみ at 10:24Comments(0)雑記帳

2016年09月23日

断捨離

 断捨離を始めた。心の奥では溜まりに溜まったモノを何とかしなければ・・・とずっと思ってはいたのだけれど、モノが溜まれば溜まるほど断捨離をするのがおっくうになる。所詮、怠惰なのだ。

 なぜモノが溜まってしまうのか。いろいろ理由(言い訳)はある。私の親は何でもとっておくタイプだった。だから私もその感覚が自然と身についてしまったということが一つ。古くなったり壊れたりして使えなくなったものはともかくとして、自分の所有物を捨てるという感覚が子どもの頃からなかった。だから子どものときに友だちからもらった手紙まで箱に入れてしまってあったし、それが当たり前だと思っていた。しかし、よくよく考えてみたら、そんな人はいったいどれほどいるのだろう? ここまでくると笑うしかない。

 「もったいない」「とっておけばいつか使うこともあるだろう」というのもモノが捨てられない言い訳の一つだ。そうやってとっておいても、結局それを使うことはほとんどない。しかも、何年も経つと何をとっておいたのか、どこにしまったのかも忘れてしまう。そして押入れや棚の空間を占領し続ける。

 今回の断捨離も極めて消極的な理由から始まった。クモの標本置き場がなくなってしまったのだ。これを解決するには、棚の中を整理して要らないものを捨てるしかない。そうやって断捨離を始めてみたら、まあ呆れるほどゴミの山ができあがった。よくぞこんなに溜めこんだものだと思う。とくに多いのが自然や自然保護関係の会誌や資料。今関わっている団体の資料だけ残し、それ以外のほとんどをファイルから外して紐で縛る。

 40年以上も前の学生時代の資料も出てくる・・・。青春の思い出をばっさりと切り捨てるような感覚になるが、過去に拘り執着したところで感傷でしかない。もういい加減モノへの執着は止めねばならない。

 母が亡くなった2年前、実家の片づけをした時のことを思い出した。最終的には業者に処分をお願いしたのだけれど、その前に家の中のモノを一通り確認しなければならない。大量のゴミ袋を買って、個人情報の書かれたものは可燃ゴミに、雑誌や紙類は資源ゴミに・・・といった具合に、汗だくになって仕分けをしてゴミ出しをした。しかし、親のことを言ってはいられない。自分自身も大量のモノを溜めこんでいるではないか。これでは残された者はたまったものではない。

 モノが増えれば増えるほど、断捨離の決行にはエネルギーが要る。しかし、歳をとればとるほどエネルギーがなくなってくる。人生の終盤にさしかかったもののまだ多少なりともエネルギーが残っている今やらねば、大変なことになるに違いない。

 数日間の断捨離でかなりすっきりしてきた。でも、まだまだ捨てるべきものはいろいろある。本棚の本も減らそう。押し入れの中もチェックしなければならない。衣類の断捨離は一度やったが、もう一回やる必要がありそうだ。時間をみて、少しずつ進めていこう。せめて、残された家族に大きな迷惑をかけないようにしておかねば、と思う。
  

Posted by 松田まゆみ at 16:12Comments(4)雑記帳

2016年08月20日

競争の弊害

 私はスポーツにはとんと興味がないし、オリンピックも関心がない。オリンピックがすでに商業主義になっていることもあるが、メダルや勝敗にばかりこだわることにどこかうんざりとした気持ちがある。テレビも見ていないからどうでもいいといえばそうなのだけれど、新聞は毎日、トップでオリンピックでの選手の活躍ばかり伝えているので、興味がなくても目にはいってくる。

 そんな中で飛び込んできたのが、レスリングで銀メダルをとった吉田沙保里選手が「金メダルが取れなくて、ごめんなさい」と泣いて謝る痛々しい姿。彼女の謝罪には、日本の代表として競技に臨む選手の重圧がそのまま現れている。彼女の謝罪に違和感を覚えた人は多いと思うが、こうした無言の圧力こそ無用なものだし、私がスポーツに関心を持てない理由のひとつだ。

 吉田選手は謝る必要などまったくない。彼女は日本のためにレスリングをやっているわけではないし、彼女を応援している人のためにやっているわけでもない。最善を尽くしたのだからそれでいいではないか。今回は金メダルをとれなかったが、次もダメだとは限らないのだし、自分の期待がかなわなかったからといって他人がとやかくいうことではない。王者といわれる実力の人でも、永遠に王者でいることはできないし、いつかは後進に道を譲らねばならない。第三者が勝手に期待をかけてしまうこと自体が間違いだと言わざるをえない。

 日本では、中学や高校の部活動においても勝敗にこだわる教育がなされている。とにかく勝つことが目的になっている感がある。これは何もスポーツに限らない。文化系の部活でも、コンクール、コンテストなどで競うことは少なくない。もちろん、試合において勝利を目指すことを否定はしないのだけれど、なぜそこまで競い、勝敗は順位に拘るのかと、私は不思議でならない。

 たとえば写真甲子園という高校生の写真選手権大会がある。新聞に掲載された入選写真を見ていつも思うのは、結局「選ばれること」を意識した写真になってしまうということだ。はじめから入選を意識するので、「撮りたい写真」ではなく審査員の目を意識した「入選するための写真」を撮ることに必死になる。写真のような芸術は、本来、評価されるために撮るものではないし競うものではないと思うのだけれど、なぜそこまで競いたいのか私には理解しがたい。

 勝敗にこだわり、子ども達を追いたてれば無言の圧力になってしまうし、ときに本来の目的や楽しさから外れ、他者の期待を満たすことが目的になりかねない。競争も圧力もマイナス効果しか生まないと思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 15:24Comments(2)雑記帳

2016年03月19日

小学校の卒業式での袴姿に思う

 先日、新聞に小学校の卒業式の記事が掲載されていたのだが、女の子が振袖姿で卒業証書を受け取る写真を見て目が点になった。写真をよく見ると、ほかにも振袖を着ている子が何人もいる。いったいいつから小学生が和服で卒業式に出るようになったのかと驚いたのだが、インターネットで調べてみるとどうやら数年前から振袖に袴で卒業式に出る子どもが増えており、ブームになってきているらしい。

 これにはもちろん賛否両論がある。賛成派の人の意見は「振袖や袴は日本の伝統的な正装であり、卒業式という記念の場に相応しい」、「ほとんど着ることのないスーツなどを買うならレンタルの和服の方がいい」、「振袖は親などが持っているものを着せられるので、袴だけのレンタルなら安い」などなど。しかし、私には、子どもに華美な服装をさせたいという親の見栄や満足感が先にあり、自己正当化のために後づけでこのような言い訳をしているとしか思えない。

 そもそも卒業式というのはひとつの区切りの儀式であり、通過点に過ぎない。義務教育である小学校の卒業式で正装をしなければならない理由はないし、まして日本の伝統だからという理由で和服を着る必要もなければ、お金をかける必要もない。服装は卒業式の本来の目的とは関係がないし、とってつけたように伝統に拘るのは意味不明だ。私は普段着だってまったく構わないと思っている(ジャージなどの運動着やジーンズなどは避けるべきだとは思うが)し、むしろなぜ学校が「普段着で出席するように」と言わないのかが不思議だ。私が小学校の頃は、卒業式には中学校の制服を着ていった。それは着る機会がほとんどない服にお金をかけることがないようにという学校の配慮でもあったのだろう。しかし、そういった配慮はいったいどこへいってしまったのだろうか?

 もうだいぶ前のことになるが、自然保護の集会で旭川のあるホールに行ったときのこと、ピンクや水色などの華やかでヒラヒラとしたドレスを着た子ども達が大勢いて何があるのかと不思議に思ったのだが、どうやらピアノの発表会だったらしい。しかし、いつからピアノの発表会がドレスのファッションショーのようになってしまったのかと唖然とした。私も子どものころピアノを習っていたが、発表会はいわゆる「よそゆき」程度の服装だったし、中学生のときは制服だった。しかし、最近では、発表会は日頃の練習の成果のお披露目というより、きらびやかな衣装を着ることの方が楽しみになっているのではなかろうか? あのお姫様のような衣装を着たいがために楽器を習いたいという子もいるのではないかと思ってしまうほどだ。

 成人式でも大学の卒業式でもそうだが、昨今はかつてに比べてはるかに画一的になっている。私は成人式には出席しなかったが、私の頃は振袖のほかに洋服の人もそれなりにいたと思う。今はほぼ全員が振袖だし、和服の男性もいる。まるで振袖のファッションショーと化している。大学の卒業式も同じで、私が学生の頃は袴のほかに洋装の女性も結構いて、人それぞれだった。私は卒業式以外でも着る機会のあるワンピースにした。しかし、今は袴の女性が圧倒的ではなかろうか。

 成人式も卒業式も、あるいはお稽古ごとの発表会でも、本来の目的とかけ離れ、衣装の見せびらかしの場になってしまっているように思えてならない。親も親で、子どもを着飾らせることが愛情だと思ったり、皆と同じ衣装を用意してあげないと可哀そうという感覚なのかもしれない。しかし、そこには個性のかけらもない。そして、そんな見かけばかりに拘る風潮が小学生の卒業式にまで及んでしまったというのが昨今の袴ブームなのだろう。

 こうしたブームの陰には間違いなく貸衣装業者の営利主義がある。インターネットで「小学校 卒業式 袴」と入力するとおびただしい数の貸衣装業者のサイトが出てくる。貸衣装屋こそが親の見栄と同調意識を利用してこうしたブームをつくりあげている張本人ではなかろうか。だからこそ、成人式や卒業式、発表会がファッションショー化し、全国各地で小学生の袴が流行るまでに至ったのだろう。

 ハロウィンやバレンタインのチョコレートもそうだが、日本人とは何と安易に商業主義に利用されてしまう民族なのかと思う。
  

Posted by 松田まゆみ at 20:31Comments(1)自然・文化雑記帳

2016年03月05日

何度でも再読したいアドラー心理学の書「幸せになる勇気」

 「嫌われる勇気」(岸見一郎・古賀史健著 ダイアモンド社)の続編である「幸せになる勇気」が発売されたのでさっそく購入した。前編の終わりで青年は哲人の説明に納得し、アドラー心理学を受け入れる。そしてアドラーの教えを実行しようと教師になるのだが、ほめもぜず叱りもしない手法を実践しても生徒は荒れるばかり。結局、青年はアドラー心理学など机上の空論にすぎないと息巻いて哲人を論破しようと再訪する。そこでの青年と哲人の対話がこの後編の物語だ。この展開からすでに読者は引き込まれる。

 前編と同様、哲人に真正面から突っ込んでいく青年の大げさな発言にちょっと吹き出しながらも、とても面白く読了した。対談形式でアドラー心理学を説明するというこの2冊の本は、古賀さんの「読ませる」文章が読者を引きつけずにいられない。彼の文才なのだろう。しかし、もちろんそれだけではない。本書を読み進めていくうちに、哲人の語るアドラー心理学は実に奥が深いことが見えてくる。タイトルにある「幸せになる勇気」の結論は実にシンプルで、決断さえすれば誰もが実行できる。ただし、その決断そのものが困難であることも思い知らされることになる。

 一般に続編が出される本では前編より後編の方が魅力に欠けるという印象が私にはあるのだが、本書に関してはどちらも優れたアドラー心理学の解説書だ。前編がアドラー心理学の基本的な部分を分かりやすく解説しているのに対し、後編はより深く具体的に掘り下げていく。そして後編にこそ幸せになるための生き方が明確に示されているといってもいいだろう。また、前編の「嫌われる勇気」というタイトルは、他者に嫌われることを極端に気にしている人、すなわち本来ならこの本を必要としている人が手にとることを躊躇させる響きがあるが、「幸せになる勇気」にはそういう抵抗がないのもいい。「嫌われる勇気」を手にとる勇気がなかった人も「幸せになる勇気」なら抵抗がなく手にとれるだろうし、本書を読み通すことができるなら前編を読みたくなるかもしれない。

 さて、本書のはじめのほうにカウンセリングでつかう三角柱のことが出てくる。三角柱の一面には「悪いのはあの人」と書かれ、もう一つの面には「かわいそうなわたし」と書かれているのだが、誰かと話しをしたり相談ごとを持ちかけるときにこの二つしか語らない人が多いという。

 そう言われてみればたしかにそういう人は多い。たとえばツイッターのタイムラインを見ていてもそうだ。他人の批判、批評、悪口ばかり言っている人は「悪いのはあの人」の話しをしているのであり、自分のことで愚痴をこぼしたり自分は被害者であると主張するひとは「かわいそうなわたし」の話しをしているのだ。

 では、三角柱の残る一面には何と書いてあるのか。そこに書かれているのは「これからどうするか」である。そして「悪いのはあの人」の話しや「かわいそうなわたし」の話しをしていても自分の抱えている問題は何も解決しないと哲人は言う。たしかにその通りだ。自分の抱えている問題を解決するためには「これからどうするか」を考えるしかない。ところが多くのカウンセリングにおいてクライアント(相談者)がカウンセラーに話そうとするのは「悪いのはあの人」と「かわいそうなわたし」なのだという。ここがアドラー心理学に基づくカウンセリングとそうではないカウンセリングの大きな違いだろう。

 もちろんカウンセリングだけではなく、これは私たちの日常生活における会話や考え方においてもきわめて重要なことだ。気に入らない人の悪口を言ったり、政治に対する不満をぶちまけていてもそれだけでは何も解決しない。他者の意見や政治などに関し自分の考えを述べることは必要だと思うが、それだけで問題が解決するわけではない。問題解決のためにはこれからどうしたらいいかを考え行動するしかない。

 教師になって、アドラーの教えを実践しようとした青年は、生徒をほめもせず叱りもしなかった。その結果、教室は荒れ、青年はアドラーの教えが間違いであると考えて叱ったりほめたりする方針に転換した。これに対し、哲人は「あなたは生徒たちと言葉でコミュニケーションすることを煩わしく感じ、手っ取り早く屈服させようとして、叱っている。怒りを武器に、罵倒という名の銃を構え、権威の刃を突きつけて。それは教育者として未熟な、また愚かな態度なのです」(114ページ)と喝破する。

 なぜ怒ったり叱ったりしてはいけないのか。哲人はこう説明する。

 叱責を含む「暴力」は、人間としての未熟さを露呈するコミュニケーションである。このことは、子どもたちも十分に理解しています。叱責を受けたとき、暴力的行為への恐怖とは別に、「この人は未熟な人間なのだ」という洞察が無意識のうちに働きます。
 これは大人たちが思っている以上に大きな問題です。あなたは未熟な人間を「尊敬」することができますか? あるいは暴力的に威嚇してくる相手から、「尊敬」されていることを実感できますか? 怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。それどころか軽蔑を招く。叱責が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。ここからアドラーは、「怒りとは、人と人を引き離す感情である」と語っています。(116ページ)

 誰もが叱られるという経験を持っていると思うが、叱責されたときの心理を実に的確に説明している。私も小学生のとき率直に疑問に思ったことを口にしたことが担任の教師の怒りを買ったようで、授業中に晒し物のように叱責されたことがあるのだが、それ以来この教師には嫌悪感しか抱かなかった。こういう記憶は決して忘れることができないのだが、あのときの頭ごなしの教師の叱責は私にとって侮辱であり屈辱以外の何物でもなかった。その教師は、勉強ができない児童への罰も平気で行った。別の教師だが、嫌いな給食であっても半分は食べないと教室から出さないという教師がいて、吐きそうな思いをして無理矢理食べされられた。これも罰であり強制である。叱責や罰が信頼関係を崩壊させるのは間違いない。

 哲人は暴力についてこんなことも言っている。「暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段なのです。これは道徳的に許されないという以前に、人間としてあまりに未熟な行為だと言わざるをえません」 ネットに溢れる罵詈雑言、誹謗中傷、侮辱、嘲笑、個人情報晒しなどという攻撃は、言葉によるコミュニケーションでは勝ち目がないと思った人が相手を屈服させるための暴力でしかない。しかし、このような幼稚な暴力をむき出しにする人が何と多いことか・・・。

 もう一つの褒賞について、哲人は次のように説明する。

 子どもたちを競争原理のなかに置き、他者と競うことに駆り立てたとき、なにが起こると思いますか? ・・・・・・競争相手とは、すなわち「敵」です。ほどなく子どもたちは、「他者はすべて敵なのだ」「人々はわたしを陥れようと機会を窺う、油断ならない存在なのだ」というライフスタイルを身につけていくでしょう。(137ページ)

 こちらの記事 にも書いたが、娘の通っていた小学校のある教師はまさに賞罰教育を方針としていた。その教師は地方の小規模校での勤務を希望し教頭や校長への昇進も目指さなかった。一部の児童や親の間では「名物教師」として慕われていたらしい。私はこうした噂から当初は子どもたちの主体性を重んじる教師なのだろうとばかり思った。しかし、実際に目の当たりにした教育方針は私には理解しがたいものだった。

 その一つが子ども達の絵画、作文、詩、書道などの作品をことあるごとにコンクールに応募しては入賞を目指すというやり方だった。数打ちゃ当たる、とばかり手当たり次第に応募していたようだった。入賞すれば自信がついてやる気が起きるというのだ。やる気を起こすことが目的?! しかも子どもたちが自発的に応募するわけではない。なんと不純な目的だろう・・・私は直感でおかしいと思った。

 もう一つは、体育の競技でタイムを計って順位づけするという手法。授業中に競技大会で良い成績をとるための訓練をしていたのだ。しかも学内の競技会では上位の子にトロフィーを渡す。1位が最も大きなトロフィーで、順位が下がるに従って小さくなる。まさに褒賞と競争の教育が信念だった。さらに、無謀とも思える学校行事の企画があったのだが、そうした行事はどうみても児童の立場にたって考えたというのではなく教師の思いや野望による企画にしか見えなかった。 そうした行事の目的は「達成感を得ること」だと説明されたが、これもコンクールへの応募と同じ匂いを感じた。私は保護者会やPTAで何度となく意見を述べたが、教師からは反論もしくはスルーされたし、一部の親からは敵対視された。競争教育に抵抗がない親が多いことにも驚いた。

 小さな子どもにとって学校という閉鎖空間での支配的な教師の存在は絶大である。そのような教師にたてついたところで罰を与えられるだけだろう。かといって教師との関係をうまく築くことができなければ居場所を失うに等しく、不満を抱いても我慢して言いなりになるほかない。教師のやり方がおかしいと感じた子どもは葛藤を抱え、教師も学校も嫌いになるに違いない。もちろん信頼関係も結べない。思えば、私の子ども時代もそうだった。

 子どもがライフスタイルを決定すると言われる小学校の低学年の時期にこのような競争教育にさらされたなら、子どもたちは簡単に「他者は敵」というライフスタイルを身につけてしまうだろう。実際、何事につけても「勝った!」「負けた!」と競争で考える子どもたちが複数いた。哲人は、子ども達が最初に「交友」を学び、共同体感覚を掘り起こしていく場所は学校だと指摘するが、その学校で賞罰教育や競争教育が行われていたなら、共同体感覚が育つとは思えない。

 この学校に限らず、子ども達に賞罰を与え、競争に追い込んでいる学校は普通だと思う。そう思うとき、日本の子ども達の置かれた環境は実に苛酷だと思わざるを得ない。いじめがいつまでもなくならないのも、こうした環境と無関係ではないだろう。

 本書のクライマックスは、何といっても最後に語られる「愛」についてだ。そして、この本のテーマでもある「幸せになる勇気」もそこに集約される。ここで自立の話しが出てくるのだが、自立は自己中心性からの脱却だという主張はもっともだ。そして哲人は自己中心性からの脱却に必要なのが愛だと説く。さらに愛が共同体感覚にたどりつき、ひいては人類全体にまで影響を及ぼすというのがアドラーの考え方だ。クライマックスである愛についての具体的説明は本書に譲るが、一つだけ気になったことを書きとめておきたい。

 哲人はアドラーの語る愛について「彼が一貫して説き続けたのは能動的な愛の技術、すなわち『他者を愛する技術』だったのです」と言う(231ページ)。私はこの「愛の技術」という言葉にはどうしても違和感を覚えてしまう。

 私がこれまで知り合った人たちの中には、ごく少数ではあるがアドラー心理学を学んでもいないのにアドラーの思想を自然に実践しているように思える人もいる。マザー・テレサなども恐らくそうなのだろう。彼ら、彼女らはアドラーのように他者の心理を探り研究した末にそういう生き方を選択してきたとは思えないし、愛する技術を習得した結果他者を愛せるようになったということでもたぶんない。

 それについては私はこう思う。つまり、無意識にアドラー心理学を実践している人たちはおそらく自分の良心に誠実に行動しているのではないかと。自分がやられたら嫌だと思うことは他人にはやってはならないということは子どもでも理解できるし、ごく自然な心理だろう。こういう感覚が良心だと私は思う。ところがこれを頭では理解していても実践しようとせず、仕返しを企てる人がいる。良心よりも利己性が先に立ち、報復によって相手を征服しようとするのだ。子どもの頃のままの自己中で幼稚なライフスタイルから抜け出せないのだろう。しかし、このような人の中にも間違いなく良心はあると私は考える。

 だから、「相手を屈服させたい」と思ってしまう人は、いまいちど自分の良心に問いかけ良心に誠実に生きようと決断することでアドラーの教えを実践できるのではなかろうか。「愛は技術」と考えるより、良心を尊重できるか否かという心の問題だと捉えるほうが理解しやすいように思う。もちろん、長年つかいつづけた利己的なライフスタイルを捨てて良心に問いかけるという決断をすることが困難であることは言うまでもないが。

 私は日頃、いわゆるベストセラーになる本はあまり読まない。新聞に大きな広告が出ている本などは、それだけで買う気が失せることもしばしばだ。しかし、「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」は一人でも多くの人が手に取り、何度でも読み返して理解する努力をし、まわりの人に広めてほしいと思う本である。なぜなら、アドラー心理学は人間のもっとも根源的なことを問うていると共に、平和の実現にもつながると思うからだ。アドラーは、「いかにすれば戦争を食い止められるか」を考えた人なのだという。アドラー心理学を理解し広めることは民主的で平和な社会の構築へとつながるにちがいない。

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アドラー心理学をめぐる論争とヒューマン・ギルドへの疑問
  


Posted by 松田まゆみ at 11:02Comments(4)雑記帳

2016年03月03日

洗濯機のカビとりは酸素系漂白剤で

 全自動洗濯機のドラムの裏側にはどうしても黒カビがついてしまう。私は今まで市販の洗濯槽用のカビとり剤を使っていたのだけれど、どうもカビがちゃんと落ちていない気がしてならなかった。というのは、カビとり剤を使ったあとで洗濯をしてもカビの破片が洗濯物に付着するのだ。そこで前回は2袋、つまり2回分を投入してみたが、やはりその後も洗濯をするとカビの破片が出てくる。どう考えても、きちんと取れていない。

 切りぬいておかなかったのだが、以前、新聞に酸素系漂白剤で黒カビが取れると書いてあったことを思い出した。そこでインターネットで調べてみると、水10リットルあたりおよそ100グラムの酸素系漂白剤(粉末)を使うと良いらしいことが分かった。わが家の洗濯機だと500~600グラムもの酸素系漂白剤を入れることになる。これはかなりの量だ。市販のカビ取り剤の主成分も酸素系漂白剤なのに使用量がまったく違う。こんなに必要なら、市販のカビとり剤できれいに取れないのも納得がいく。

 そこで、さっそくカビとりを実施してみた。朝、風呂の残り湯を洗濯槽にある程度入れ、それにお湯を足して50度くらいのお湯を高水位まで張る。そこに酸素系漂白剤を600グラムほど投入して5分ほど洗濯槽を回して撹拌する。この段階で黒いカビがどっとでてきて、まず目を丸くした。

 出てきたカビを湯垢すくい(私は手製のものを使ったが、百均でも売っている)ですくいとり、再び撹拌。これを黒カビがほとんど出てこなくなるまで時間をおいて何回か繰り返す。その間にもお湯がどんどん黒っぽくなっていく。私の場合は夕方まで何回か繰り返した。その後、水を抜いてから再び水を溜めて撹拌する。

 このときにも大量のカビが出てきて、ほんとうに驚いてしまった。いったい今までの市販のカビ取り剤は何だったのかと唖然とした。再び湯垢すくいでカビをすくっては撹拌するという作業を何回か繰り返し、最後に洗濯コースを一回運転して終了。

 このカビとり作業で出てきたカビの量から考えるなら、洗濯槽の裏側にはたぶんびっしりとカビが貼りついていたのだろう。かなりぞっとした。

 そのあと洗濯をしたときには、黒カビの破片はほとんど出てこなかった。たぶんきれいに取れたのだと思う。

 ということで、洗濯槽のカビとりは「酸素系漂白剤を水10リットルあたり100グラム」の方が市販のカビ取り剤よりよほど効果的で安価であることが分かった。お試しあれ。
  
タグ :洗濯機カビ


Posted by 松田まゆみ at 15:29Comments(4)雑記帳

2016年02月29日

十二社と熊野神社の思い出

 子どもの頃住んでいた新宿の十二社(じゅうにそう)と熊野神社には2013年に訪れているのだが、先日東京に行ったときに再び足を延ばしてみた。十二社に住んでいたのは4歳くらいから小学校4年生の夏休み前までだから、7年ほどの間でしかない。でも、東京にくるとなぜか足が向いてしまう。昔のことを懐かしく思うのはおそらく歳をとり郷愁が湧いてくるといいうこともあるのだろうが、はるか昔のこととなった自分のおぼろげな記憶の中の風景と今の変容ぶりを確かめたいのかもしれない。

 あの頃の面影が残っているのは3年とちょっと通った淀橋第六小学校、小学校の近くの児童公園、住宅街の中の狭い通り、そして熊野神社くらいだろうか。当時からそのままの建物はほとんどなく、皆、あたらしい住宅やマンションに建て替えられ50余年の歳月は景色を一変させている。当たり前といえば当たり前なのだが、やはりどこかに昔の面影を探してしまう。

 今回は1年間通った幼稚園のあった場所にも足を延ばしてみた。幼稚園がなくなっていることは知っていたが、かつて幼稚園のあった敷地は集合住宅になり、記憶の世界とはまったく違った光景が何事もなかったかのように空間を占領している。

 考えてみれば、数歳の子どもの行動範囲はなんと狭かったのだろう。地図を片手に一人で出歩いた行動圏を目で追うと、東は十二社通りを渡ったところにある熊野神社までだった。南は甲州街道、西は山手通り、北は方南通りに囲まれた、住んでいたアパートから大人の足なら片道5分程度のところが当時の私の行動圏だったことを改めて思い知った。ちょうど、こちらのブログの地図の範囲が私の行動圏とほぼ重なっている。時期も私が住んでいたときと重なる。

 もちろんそれより外側に出かけたこともあるが、そういうときはたいてい友だちと一緒だった。そういえばよく母と一緒に買い物に出かけた商店街はどこだったのだろうか? 現在の地図を見てもどこだったのか見当もつかないが、たしか方南通りを渡った先の路地だったと思う。

 あの頃はよくアパートの庭で虫とりをして遊んだ。もちろんアゲハチョウやキタテハ、シオカラトンボなどどこにでもいる普通種ばかりだったが、ときどき見かけるアオスジアゲハは別格の存在だった。黒い翅の中央にエメラルド色のグラデーションの帯が走る素晴らしく魅惑的なこのチョウがこんな都会の片隅にいることだけでも心がわくわくしたし、動きがすばやくて子どもには捕まえるのが難しいチョウだった。ときどき舞いこんでくる金属光沢に輝くタマムシにも心をときめかせたし、カマキリなども恐る恐る捕まえては遊んだものだ。夏の夕方にはどこに棲んでいるのかアブラコウモリがひらひらと舞っていた。コンクリートの冷たい建物が増えた今、はたしてどれほどの生き物が生きのこっているのだろう。

 行動圏の東の端にある熊野神社は一番変わっていない場所かもしれない。それでもあの頃とはだいぶ変わってしまったとどことなしに感じる。おそらく建物が改修されたり整地されるなどして少しずつ変化してきたのだろう。観光客の姿が見られるのもあの頃とは違う光景だ。

 熊野神社といえばやはり夏祭りの縁日が思い出される。今はどうなのか分からないが、あの頃は十二社通りから境内一杯に屋台がびっしり並び、それはそれは賑わっていた。お面、綿あめ、べっこう飴、カルメ焼き、得体の知れないジュースなどを売る屋台、金魚すくい、ヨーヨーつり、輪投げ、射撃などが所せましと並んでいた。今、境内を見回すと、この狭い場所にどうしてあれほどの屋台があったのだろうと思うくらいの広さしかない。視線の低い子どものことだから広く感じたのかもしれないが、なんだか拍子抜けするほど狭い。







 熊野神社では梅がほころび始めていた。社務所にパンフレットが置いてあるのに気付いて手にしてみると、この界隈の歴史のことが書かれている(http://12so-kumanojinja.jp/page-01.html)。十二社の池のことも書かれているが、私が住んでいたころにもまだこの池は健在だった。ただし、有刺鉄線に囲まれて道路から緑色にどんよりと濁った池が垣間見えただけで、近寄りがたい不気味な池という印象しかなかった。だからこの池がかつて景勝地で料亭や茶屋があり、ボートや花火大会で賑わったなどということが書かれていて驚いた。神社の近くには滝もあったという。

 この池は昭和43年に埋め立てられたそうだが、以下のサイトにはかつての十二社池の写真や絵が掲載されている。

http://ameblo.jp/sasabari/entry-11528230700.html
http://blogs.yahoo.co.jp/shinjyukunoyamachan/2846.html

 昔の絵や写真を見ていて思い出したのだが、私が子どもの頃は十二社のごく一部に自然のままの地形が僅かに残っていた記憶がある(もちろん現在はきれいさっぱりなくなっている)。十二社あたりの古地図(明治13年測量、24年修正)を掲載しているサイト(http://collegio.jp/?p=86)があるのだが、今の西新宿一帯は角筈(つのはず)村で、どうやら畑や竹林、雑木林などが広がっていたらしい。もちろん十二社の池も描かれている。明治時代に角筈村に住んでいた人たちが今の光景を目にしたら、腰が抜けるほど驚くに違いない。古地図を見ていると、住宅とビルで埋め尽くされた今の西新宿の変貌に呆然とするばかりだ。

 十二社や角筈という地名は私が子どもの頃も使われていたが、なぜ西新宿などというつまらない地名に変えてしまったのだろう。地形や景色は変わっても、せめて地名くらいは残しておけないものだろうか。そんなことを思いながら熊野神社を後にした。

  


Posted by 松田まゆみ at 21:17Comments(0)自然・文化雑記帳

2015年12月26日

クリスマスディナー

 クリスチャンでもないし、子どもたちが家を出ていってからはクリスマスといっても御馳走やケーキも作らずにいたのだが、今年は久しぶりにクリスマスの日に家族全員が集まったこともあり、料理好きの娘がクリスマスディナーを手作りしてくれた。




 メニューは、写真手前から
・トマトのマリネ
・鶏もも肉のギュロス
・ミートボールとペンネのグラタン
・チーズ盛り合わせ
・アボガドとスモークサーモンの押しずし
・生ハムと卵のカナッペ
・レタスとベビーリーフのサラダ

 そしてデザートにキウイフルーツのケーキ




 私がつくったのはケーキだけ。

 僻地に住んでいると、近くに外食できるような店も出前をしてくれるような店もないし、スーパーはもとよりコンビニもない。だから食生活も手作りが基本。もちろん外食よりもぐっと経済的で健康的。

 クリスマスが終わったら、こんどは大掃除やおせち料理づくりが待っている。
  

Posted by 松田まゆみ at 15:24Comments(0)雑記帳

2015年11月28日

11月の大雪と冬の木々の光景

 今年はいったいどうしたのだろうか?と思うくらい、11月に入ってから何度も雪が降った。朝起きて窓から外を見ると真っ白、という日が何回あっただろうか。真っ白の雪が地面を覆うと、ああ今年もまた長い冬の到来だとちょっと観念するのだが、今年はそんな冬の到来がいつになく早い。

 ただし、いつもなら11月に雪かきが必要なほど雪が積もることはほとんどない。本格的な積雪はたいてい12月に入ってからだ。ところが今年はどうしたことか、つい先日30センチほど雪が積もり、昨日もまた30センチほど積もった。まだ11月だというのにすっかり真冬の景色だ。

 葉を落とした落葉樹はなんとも寂しげだが、ひとたび雪を戴くといっぺんに明るく清々しい姿になる。天に向かって伸びる枝々の繊細な造形がもっとも美しく映えるのは、やはり雪を戴いたときだろう。といっても、こうした光景を楽しめるのは、降り積もった雪が風で飛ばされたり、かすかな陽射しに暖められて溶け落ちるまでのひとときなのだが。




 落葉樹の枝が天に向かって広がっているのとは対照的に、針葉樹は濃い深緑の葉の上にこんもりと雪を戴く。針葉樹に積もった雪は面的に広がり枝を押し下げる。




 夏の木々は生命の輝きが溢れていて躍動感があるが、雪と氷に閉ざされた季節の木々は、厳しい冬をじっと耐えるがゆえの凛とした美しさがある。



 雪が降り積もった木々の光景を見ていると、私はなぜか幼い日の霧ヶ峰を思い出す。霧ヶ峰の強清水には父の会社の宿泊施設があり、家族でスキーに行った。強清水のあっというまに滑り降りてしまう猫の額のようなスキー場は今も健在だ。リフトが1基だけのその小さなスキー場の一角で橇遊びをしたり、転ぶとすぐに流されてしまう子ども用のつっかけ式のスキーで遊んだ記憶がある。長靴を通して伝わる雪の冷たさに半べそをかいた記憶もおぼろげながら蘇ってくる。

 あの宿の前には雪をいただいた木々が並んで木立となっていた。何の木なのか今となっては分からないが、大半は針葉樹だったと思う。カラの仲間だったろうか、ときおり小鳥のやってくるだけのモノトーンの世界、どこまでも静かな音のない世界。ほかに見るものもなく、窓からの冬の木々を飽きもせず見ていた。冬の山とはこんなにも静かなのかと子ども心に思ったものだ。雪をかぶった森林などいくらでも見ているのだけれど、考えてみたら、私が雪を戴いた針葉樹の光景をはじめて目にしたのは霧ヶ峰だったのだろう。だから、あの光景が忘れられないのかもしれない。
  

Posted by 松田まゆみ at 14:25Comments(2)自然・文化雑記帳