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2018年04月24日

ハラスメントと差別意識

 財務省の福田事務次官が女性記者に対してセクハラ発言をしたことが明らかになり、辞任に追い込まれた。本人はセクハラではないと開き直っているが、理解に苦しむ。日本では未だに男性による女性へのセクハラや性暴力が後を絶たないが、本当に恥ずかしい限りだ。

 セクハラやパワハラはハラスメント、すなわち嫌がらせだが、嫌がらせというのはそもそも他者を自分と対等の人間と見ておらず他者の人格や人権に対する配慮が欠けることに起因する。相手の人格や人権を無視して自分に従わせようとしたら、そこにハラスメントが生じる。そしてハラスメントの根底には差別意識がある。

 日本では今でも家事や育児、介護などは女性の仕事という風潮が強い。共働きであっても女性の方が圧倒的に家事や育児の負担が大きい。男女は対等であり平等であるという意識があればそういうことにはならないはずだが、平等意識を持っている人はどれくらいいるのだろう。

 専業主婦に対して「誰に食わせてもらっているんだ」などと平然と発言する夫などは、自分が妻の人格を無視しているなどとは思っていないのかもしれない。お金を稼いでいる自分の方が妻より上であるという意識があるからこそそういう言葉が自然に出てくるのだが、その傲慢な意識に気づけない感覚は恐ろしい。昨今は女性が外に働きにでて夫が専業主夫という家庭もたまにあるが、男尊女卑の感覚がしみついている人はそういう立場にでも置かれない限り真の男女平等や分業ということを理解できないのかもしれない。

 以前、ある著名な詩人が「化粧をしない女は女性ではない」という意味合いのことを書いていて驚いたことがある。化粧をして外見を良く見せるのが女性の本質だと言いたいのかもしれないが、そういう見方が性差別であることに気づいていないのだろう。以降、その詩人に関しては私は関心を失った。

 夫のことを「主人」と呼ぶ人も多いが、私は「主人」という言葉は使わない。「主人」は明らかに主従関係を表す言葉だからだ。妻のことを「嫁」と言ったり、結婚することを「嫁をもらう」などと表現するのも同じで、男性より女性が下という考えが根底にある。男尊女卑がそのまま残っている言葉であり、死後にしたほうがいいと思っている。昔はそれが当たり前だったのかもしれないが、今はそんな時代ではない。

 学歴や社会的地位、職業、容姿などを持ち出して評価したりすることも日常的にある。学歴も社会的地位も容姿も、その人の人間性や価値とは何の関わりもない。そんなことは誰にでも分かると思うのだが、実際には学歴や地位、容姿で他者を差別するような人はしばしば見かける。

 ネットでも至るところでハラスメントを見かける。意見が異なる人に自分の意見を伝えるのは悪いとは思わないし、事実誤認をしている人がいたら指摘するのもいいだろう。ところが、相手を呼び捨てにして「お前の主張は間違っている」とこき下ろしたり、アホだとかクズなどと小馬鹿にする人が何と多いことか。事実誤認を指摘するなら、事実について説明すればいいものを「そんなことも知らないのか」とばかりに相手を侮辱する人もいる。

 自分の気に入らない高齢者に対し、ジジイ、ババアなどと罵るのも言葉の暴力であり一種の差別だろう。不快なことがあるなら、不快な理由を説明して止めてほしいと伝えるのもいいだろうが、ネット上の見ず知らずの匿名者などに関わる必要はない。不快だからといって公の場で罵れば、醜い罵り合いになりかねない。

 「他者の人格を個人的にも集団的にも傷つけ、蔑み、社会的に排除し、侮蔑・抹殺する暴力性を持つ言葉」を差別用語というが、他者を蔑み傷つける発言は差別意識に基づいているといっても過言ではないと思う。

 そして、日常的に差別的な発言をしている人たちは、自分が差別をしているという意識はほとんどないのではないかと感じる。それだけ無意識に他者を差別している人が多いように私には思える。人は誰しも自分の考えは間違っていないと思っているものだ。しかし、それを他者に押しつけたあげく侮蔑するのは筋違いというものだろう。自分と異なる意見の者に対しては論理的に批判すれば事足りるわけで、侮蔑する必要など何もない。

 要は、差別をする人というのは「自分こそ正しい」「自分の方が上だ」という思い上がりがあるから、異なる意見の者を侮辱し、自分の主張を押しつけようとする。

 差別意識というのはそう簡単になくなるものではないのだろうけれど、差別意識が強ければ民主主義そのものが成り立たないと私は思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 11:03Comments(0)雑記帳

2018年04月11日

「君たちはどう生きるか」は人類にとっての永遠の課題

 昨年出版された漫画版の「君たちはどう生きるか」がかなり売れているという。私は漫画はあまり好まないし、こういう本は原作を読んでみるに限るという考えなので、遅ればせながら岩波文庫版を読んでみた。著者は東京大学の哲学科を卒業し、編集者、評論家、作家、翻訳家の肩書を持つ吉野源三郎氏(1899-1981)。「君たちはどう生きるか」は80年前の1937年に「日本小国民文庫」の中の一作品として書かれたものだ。

 この作品はコぺル君というニックネームの15歳の少年が主人公だ。中学校でのいじめ問題や友人関係で悩むコぺル君の日常生活と、コぺル君の相談相手である叔父さんがコぺル君に宛てて書いたノートによって構成されている。つまり、コぺル君の人間関係の悩みというストーリーを軸に、吉野さんのメッセージを「叔父さんのノート」という形で織り込んだ作品だ。

 本書で吉野さんが叔父さんに語らせている若者へのメッセージは、かいつまんで言うならおおよそ以下のようなことだ。

・差別をしてはいけないこと。
・人間は協力し合って生きていかねばならない存在であること。
・物ごとを俯瞰的に見ることの大切さ。
・主体性(自分で考え行動する)を持つこと。
・人類の発展のために学ぶこと。
・過ちを犯したときはそれを認め謝罪すること。

 これだけを読めば、当たり前のことを言っているにすぎないと言う人もいるかもしれない。しかし、この当たり前のことを実践できている人というのは、実のところそれほど多くはない。

 この本が書かれた1937年といえば、おぞましい日中戦争が始まった年だ。そして1941年には太平洋戦争が勃発した。国中が軍国主義に染まり、社会主義の運動は弾圧され、自由に物を言うこともできない息苦しい時代だ。1938年には国家総動員法が制定され、国民は強制的に戦争に駆り出されることになった。あの当時、日本人の多くはメディアに翻弄され軍国主義に大きな疑問も持たず時代に流されていたのではなかろうか。あるいは疑問に思っても口に出せず、国に従うしか術がない生活を強いられていたのだと思う。そんな状況にありながら、というよりそんな時代だからこそ次世代を担う若者達に主体性を持つことの大切さを伝えようとしたのが「日本少国民文庫」であり本書だろう。

 吉野さんは治安維持法で逮捕投獄され、執行猶予で釈放されたときにこの本を書いたという。身の危険を感じながらも、検閲で引っ掛からないように細心の注意を払って書いたに違いない。壮絶な時代の中にありながら、若い人たちへ向けた熱い想いが伝わってくる。

 本書が発行されてから80年経った今、再び脚光を浴びているのは単に漫画版で読みやすいとかブームというだけではなかろう。80年経っても、まだそのメッセージが新鮮だということに他ならないと思う。つまり、国民の主体性が完全に奪われ全体主義に染まった息のつまるようなあの時代から80年経った今もなお、私たちの多くが本書に示されたメッセージを実践できないがゆえに、「人はどう生きるべきか」という問いが繰り返されるのだ。

 当たり前と思えることがなかなか実践できない。それどころか近年はますます状況が悪くなっているかのように思える。ひとつにはこの当たり前のことを戦後の学校教育の現場で何ら教えてこなかったということがあるだろう。教えてこないというより、むしろ逆行する教育を行ってきたのではないか。つまり、自主性よりも従順であることを求め、リーダーとなりうる一握りのエリートの育成しか考えてこなかったのではないか。その他大勢はリーダーに従っていればいいのだと。

 受験に追い立てる競争教育は学ぶことの意味を置き去りにし、周りの人たちを「敵」にする。競争に乗れない子どもは落ちこぼれのレッテルを貼られ疎外される。近年の行き過ぎた資本主義は格差を生み、格差は憎しみを生む。学校は子ども達が協力しあう場ではなくなり、差別やいじめが後を絶たない。

 他国のことはよく分からないが、日本の若者は恐ろしく政治に無関心だ。戦後生まれの大人たちは、子ども達に政治に関心を持つことの大切さを教えず、主体性はおろか「周り」に合わせていればトラブルを避けられると教えてきた。私が若い頃は、政治の話しをする友人など誰もいなかった。

 こんな具合だから、自分の身を守るために自己主張をせず波風を立てないことがよしとされ、事なかれ主義が蔓延する。事なかれ主義で自分の責任を回避する習慣が身についているから責任感が欠如し、過ちを犯しても認めようとしない。吉野さんのメッセージと逆行する教育がなされてきたとしか思えない。

 太平洋戦争を経験した世代の人々が高齢になり戦争を知らない世代ばかりになってきた昨今、戦争というものがどれほど愚かで惨いかを想像できない人達が増えている。子どもだけではなく多くの大人が政治に無関心であり、関心があるとしてもせいぜい「景気」が良くなり自分の生活が安定するかどうかくらいしか頭にないからではなかろうか。だからアベノミクスにも簡単に騙されてしまう。

 そこには人の無知があり、思い上がりがあり、限りない私欲がある。「君たちはどう生きるか」で吉野さんが発信しているメッセージはシンプルで難解なことではない。しかし、怠惰で強欲な人類にとって、永遠の課題なのかもしれない。
  


Posted by 松田まゆみ at 15:43Comments(0)雑記帳

2018年03月11日

菅野完氏のツイートをリツイートすることが性暴力加害者を擁護することになるのか?

 昨日、ツイッターで菅野完氏と山崎雅弘氏の応報を見かけた。私は両氏をフォローしている。彼らのやりとりはどっちもどっちという感があるが、その応報の中で山崎氏が以下のツイートをリツイートしているのが目にとまった。

https://twitter.com/tchiezinha/status/972260286118879233
(なぜかツイートの埋め込みができないので、URLを貼っておく)

 ここにリンクされている菅野完をRTしながら#metooという人に、言いたいこと。という記事を読んでみたが、これについて私の意見を書いておきたい。

 まず前提として言っておくが、私は菅野完氏によるセクハラ(女性の自宅で女性に抱きついたあるいは押し倒したという事件。性暴力と言われているが、犯罪ではないのでセクハラと表現する)は明らかに人権侵害であり、やってはならないという立場だ。この点において彼を擁護する気はさらさらない。

 また菅野氏のツイッターでの暴言もまったく支持しないし、不快としか思わない。暴言によってツイッターを凍結されても擁護する気は毛頭ない(もっともツイッター社の凍結の判断が公平さを欠いているという認識はある)。もちろん菅野氏の暴言や他者を見下すツイートはリツイートしない。

 しかし、菅野氏のツイートをリツイートすることが彼を擁護することになるのか? 性暴力にノ―と言うなら彼のツイートをリツイートするな、などと言えるのか?

 山口敬之氏の犯した性暴力はどう考えてもレイプであり犯罪に該当する。自力で歩けない女性を無理やりホテルに連れ込み、意識を失っているのに性行為。極めて重大な性暴力だ。しかも、その犯罪を権力をつかって握りつぶした疑いがもたれている。そして、不起訴になったからと開き直り、言い訳ばかりして謝罪も反省もない。

 では菅野氏はどうか。菅野氏と被害者の間で事実関係について争いはなかった。菅野氏は加害行為を認めて謝罪し、示談交渉で被害者からの200万円の慰謝料要求も受け入れた。しかし被害者は言論活動の制限(ツイッターのアカウント停止等)にこだわって示談を蹴り裁判を起こした。さらに裁判での和解交渉も蹴った。私には、自分の性的被害を理由に言論活動の制限まで要求することの方が非常識だと思えてならない。被害者が加害者のツイートを見たくなければ、ブロックすれば済むはなしだろう。

 この裁判は高裁まで争って今年の2月8日に終結している。菅野氏は判決に従って110万円の慰謝料を支払っていると判断できる。民事訴訟で不法行為を認定されたものの、刑事事件にはなっておらず犯罪とは言えない。一方で、菅野氏によるセクハラは週刊金曜日やマスコミによって報じられ、菅野氏は社会的制裁も受けた。菅野氏は判決を受け入れて責任をとり、社会的制裁も受けてこの問題は決着がついている。セクハラをしたという事実は消えないが、自己保身のために事実をねじ曲げたり責任回避をしたわけではない。

 菅野氏の民事訴訟に関しては昨年以下の記事を書いたので参照していただきたいが、私は被害者の行動に不可解さを強く感じている。

菅野氏の民事訴訟について思うこと

 山口氏と菅野氏では、加害の内容(軽重)も全く異なるし、自分の罪を認めて責任をとるという態度においても大きな違いがある。山口氏の他にもセクハラ疑惑があるジャーナリストが複数いる。彼らに共通しているのは、自分の非を認めようとしなかったり、言い訳をしたり、責任をとろうとしないで逃げ回っているということだ。罪を犯したこともさることながら、この無責任さこそ人間性を露わしているのではないかと私は思えてならない。

 私は、このようなジャーナリストがまっとうな意見を言っていても、それを紹介する気にはなれない。性暴力加害者だとか犯罪者だからという理由で言論を封じることはあってはならないが、人権侵害をして反省もしなければ責任もとらない人が人権を語る資格はないし、言論人としての適性を欠くとしか思えないからだ。

 私も若い頃に顔見知りの男性からいきなり抱きつかれたことがある。電車での性的被害は何度もあっている。「#me too」と言う立場にある。性暴力を受けた女性自衛官の裁判を傍聴したこともあるし、性暴力の重さも理解しているつもりだ。しかし、加害行為と言論の自由(リツイートも含む)は別問題であり、両者を結びつけて加害者擁護だという主張には首を傾げざるを得ない。

 人は完全ではない。誰もが罪を犯し得るし、人権侵害を犯してしまうこともあり得る(もちろん自制できないのは人間性の問題ではあるが)。そんなときに自分の非を認めて責任をとることこそ大きな勇気がいるし、人として誠実か否かが試される。それができる人とできない人を区別することなく、また加害の軽重も考慮せず、山口氏と菅野氏を「性暴力加害者」とひとくくりにし、言論と加害の問題を単純に結びつけてしまうような意見にはどうしても賛同できない。

  

Posted by 松田まゆみ at 15:49Comments(0)雑記帳

2017年12月29日

非を認めない人の行く末

 現実世界でもネットの世界でも、自分の過ち(事実誤認も含む)、落ち度、不適切な言動などを決して認めない人たちが一定程度いる。

 このような人たちは二つに分けられる。ひとつは自分の言動が間違っている(あるいは不適切である)ことが分かっていながら、自分の非を認めたくないためにいろいろな言い訳をして自己正当化してしまう人だ。自分を良く見せるために、あるいは嫌われないために、自己正当化せずにはいられないのかもしれない。

 このような人たちが過ちを指摘されて窮地に陥ると、しばしば自己正当化のために嘘をつく。そしてその嘘を隠すためにさらに嘘をつくという悪循環に陥ることもある。

 あるいは、自分は被害者であり他の人が悪いのだと言い張ったりすることもある。特にネットの場合は自作自演で一人で何役もやって自己正当化する人がいる。さらに、自己正当化のために自分を信頼している人を利用する人もいるから要注意だ。

 自分には非がないと言い張り、嘘をついたり自作自演で誤魔化したり、自己正当化のために他人を利用したらどうなるか。それを見ている多くの人はその人の嘘に感づいてしまい、離れていってしまうだろう。利用された人は、自分が利用されたことに気づいた時点で去っていくだろう。結局、信頼関係を失い孤立することになりかねない。

 もう一つは、第三者から見れば事実誤認をしていることが明らかであるにも関わらず、当人はまったくそう思っていない人だ。いわゆる思い込みの激しい人で、自分の考えこそ正しいと信じ込んでいて他人の指摘など一切聞き入れない。第三者がどれほど丁寧に誤りや勘違いを説明しても、理解できない。理解できないというより理解する気がないといった方が正しいかもしれない。いわゆる「バカの壁」状態になっている人だ。

 このような人は、時として過ちを指摘した人たちを恨んだり敵視して攻撃したりする。自分は間違っていないと思い込んでいるので、自分の間違いを指摘したり批判する人こそ加害者であり、自分は被害者だと主張することもある。状況を俯瞰することができず自分を客観視することができない人がこのような状況に陥りやすいように思う。

 人は誰しも不完全であり、誰しもが過ちを犯したり勘違いをしたり思い込みをする。もちろん間違いをしないように注意しなければならないが、それでも間違ったり思い込みをするのが人間だ。そのときとるべき最善の方法は、速やかに過ちを認めて訂正し、もしそれで他人に迷惑をかけたのなら謝罪するしかない。そして、その経験をもとに同じ過ちを繰り返さないようにする。それが自分の過ちに対する責任の取り方だ。

 しかし非を認めなかったらどうなるか。それは責任を取らないということなのだが、責任をとらなければ批判されたり信頼を失うことになる。嘘に嘘を重ねれば信頼を損なって人が離れていく。自明のことだ。

 自分の非を認めないというのは、おそらく自分を良く見せたい、あるいは嫌われたくないという心理からきている。自己顕示欲や承認欲求の強い人がこういう状態に陥りやすい。

 強い思い込みによって自分の非や事実誤認に気づかない人も同じで、第三者から事実誤認を指摘されても聞き入れずに突っ張っていたら、やがて愛想を尽かされ信頼を失ってしまうのではなかろうか。このような人は、「白黒思考」や「べき思考」の習慣がついている人に多いように思う。だから、一度はまり込んだ自分の考えから一歩も外に出ようとはしない。

 いずれも、子どもの頃に自分自身で身に付けた性格(考え方)が「非を認めない」「過ちに気づけない」という状況を作りだしているのだろう。そして、残念ながら多くの人は一度身に付けた性格を手放そうとしない。その方が都合がいいと信じてそういう思考を身につけてきたのだから、簡単に手放すことができないのだ。

 でも、大きな失敗は人を根本から自分を変えるきっかけになることがある。自分の非を認めないことで失敗を経験した人は、次からは自分の非を認めて訂正すればいいのだ。思い込みによって失敗した人は、次からは「自分は思い込みをしているのではなかろうか」と疑い物ごとを俯瞰的に見るように気をつけ、第三者に相談したりアドバイスを求めるなどすることで思考の偏りを修正することは可能だ。

 もちろん、自分がそういう意識を持たない限り自分を変えることはできないが、もし自分を変えることさえできれば、今までよりずっと心穏やかに生きられるに違いない。今までのやり方を続けるのは容易だが、それを180度変えるのはとても勇気がいる。しかし勇気を持たない限り、同じ失敗を繰り返し不幸の悪循環に嵌ってしまう。

 さて、政治の世界でも自分の非を決して認めない人がいる。いうまでもなくその筆頭は安倍首相だ。そして安倍首相は間違いなく前者のタイプ(非を知りながら認めない)だ。森友学園、加計学園をめぐる疑惑を何が何でも誤魔化そうとして躍起になっている。安倍首相を擁護する取り巻きの人たちは、安倍首相の非を知りながらも自己保身のために彼を支え続けてしまう。数の力、権力によって存続しているのが安倍政権の実態だ。

 嘘と誤魔化しと権力で強引に保っている政権は、いつか国民に愛想をつかされるだろう。信頼を失った政権はやがて崩壊する。崩壊する前に何としてでも憲法改悪をするというのが今の安倍首相の考えているころだろう。できるだけ早く憲法を変え、国民から基本的人権や表現の自由を奪って独裁体制をつくりあげることが安倍首相の悲願に違いない。

 これを防ぐためには国民が「バカの壁」状態になってはならないということだ。安倍首相の目的を見抜き、アベノミクスの嘘を見抜き、改憲にノ―を突きつけるしかない。
  

Posted by 松田まゆみ at 16:33Comments(2)雑記帳

2017年11月14日

頭髪や服装に関する校則は必要か

 少し前に大阪の府立高校の女子生徒が頭髪の黒染め強要で大阪府に対して損害賠償を求める裁判を起こしたことが話題になった。詳しくはこちらを参照。

 この学校では染髪や脱色を禁止しているという。染髪を禁止していながら、生まれながらの茶色い髪を黒染めにしろと強要するとは倒錯としか言いようがない。学校という教育現場で未だにこんな人権無視の強要が行われていることに驚愕する。そしてさらに驚くのは、大阪府の全面的に争うという姿勢だ。まともな人権感覚があるのなら、教師の非を全面的に認めて謝罪し慰謝料を支払うことで和解すると思うのだが。

 私は中学や高校の頃から身なりについて細々定めた校則は馬鹿げていると常々思っていた。女子は髪の毛が肩にかかったらゴムで縛りなさいとか、スカートの丈は膝下とか、パーマやカールは禁止とか、なぜそんな細かいことを規制するのだろうと不思議でならなかった。髪が長くなればたしかに煩わしくなるが、不便なのは本人なのだから自分で適宜対処すればいい話しだ。髪の毛の色が茶色であろうと、カールしていようがいまいが(生まれつきくせ毛の人だっている)、スカートが多少長かったり短かかったとしてもが学校生活には何の関係もない。

 もちろん人が社会生活を営むためには法律やルールは不可欠だし基本的には守るべきだ。しかし、立場が上の者が下の者を縛ることを目的にしたルールは独裁者が好むものでありとても危うい。また民主主義国家では、ルールは基本的人権を尊重したものでなければならない。中学や高校の校則の中で、頭髪や服装などの生活面に関するルールは生徒の権利を侵害してはいないだろうか。そして本当に必要なものなのだろうか?

 私は頭髪や服装に関しては本来自由であるべきだと思う。染髪は頭皮にも髪の毛にも悪影響があるし個人的には賛同できないが、だからといって禁止すべきものでもないと思う。禁止したところで、規則を守らない子どもはいるものだし、日頃は守っていても夏休みなどに染髪する子どももいる。染髪にしても化粧にしても必ずリスクがあるわけで、まずは学校でそうしたリスクをしっかりと教育するのが先決だろう。その上で、自由にさせればいいのではなかろうか。

 制服も必要だとは思わない。制服に関しては賛成意見が多いのは承知しいている。私服にしたら華美になる、お金がかかる、服を選ぶのが大変・・・などという意見も根強い。しかし、デメリットもいろいろある。たとえば、気温や天候の変化に対応しづらい、堅苦しく活動的ではない、簡単に洗えない、値段が高い、成長期の子どもに適さない、個性がないなど。

 「華美になる」というのは勝手にそう思い込んでいるということもあるし、他者からの評価を気にしすぎる日本人らしい感覚だと思う。小学校や大学などで果たしてそんなに華美になったり競争になったりしているだろうか? もちろん中にはブランド物を好んだり、服装に拘って毎日着替える人もいるだろうが、それはむしろ一部にすぎないと思う。現に、私服の高校で華美になっているという話しは聞かない。

 「お金がかかる」「服を選ぶのが大変」というのも、他者の目を気にして競争をしよう(あるいは皆と同じような服装にしなければならない)と考えるからだろう。「フランス人は10着しか服を持たない」という本がある。この著者は、「なぜフランス人は服を10着しか持たないのか? 本当の自分らしさをもたらす、小さなクローゼットのつくりかた」でこんなことを書いている。

同じ服を何度も何度も着るという考えですが、私たちはそれを少し恥ずかしい事だと思っています。たくさんの人や過去の私もそうでしたが、同じ服を1週間に2回も着たくはありません。特に同僚の前だったり、学校では他のお母さんたちの前では。

 これは私もすごく感じる。たとえば子どもがいる母親の場合、入学式や卒業式などが立て続けにあったりするが、その度に違う服を着て行く人がいる。これなど明らかに他者の目を気にしており「同じ服を何度も着ることが恥ずかしい」と思っているのだろう。しかし、一昔前、たとえば私の親が若かった頃などは持っている服も少なく、同じ服を繰り返して着ていたのではなかろうか。ところが戦後の高度成長で物が豊かになるに従ってすっかり感覚が変わってしまったのだと思う。

 本来、子どもは他人の目など気にしない。わが家では子どもが小さい頃、知人からいただいたお下がりの服が沢山あった。私が服を選んで着せようと思っても、子どもは自分の好きな服ばかりを着ていた。ところが小学生くらいになると、他人の目を気にしはじめる。そして皆と同じような格好をしたがるようになる。他者の評価を気にし始めるのだ。そして、「皆と同じ」でなければ悪口を言われたり冷やかされたりするのだと学んでしまう。もちろん子どもがそのように変わってしまうのは大人の価値観が大きく影響している。私たち大人が、日頃から自分の好きな服を身につけ、同じ服を着回すことが当たり前の生活をしていれば、子どももそれが当たり前だと思うに違いない。

 同じ服を繰り返して着ることに抵抗を持たなければ、沢山の服を持たなくてもいいしお金もさほどかからない。服選びに時間がかかることもない。制服であれば毎日同じ服でも平気なのに、私服だと同じ服を繰り返して着るのは恥ずかしいという感覚こそおかしいことに気づくべきではなかろうか。つまり「同じ服を繰り返し着るのが恥ずかしい」という意識さえ変えることができれば、制服のメリットはほとんどないと思う。そして、これは個人の意思でできることだ。

 21世紀になっても頭髪や服装を自由にさせたがらない日本の学校は、生徒を管理して従わせることしか考えていないのだろう。これでは生徒が主体性を持つことも難しい。というより、生徒が主体性を持たないように教育しているとしか思えない。
  
タグ :校則制服


Posted by 松田まゆみ at 09:32Comments(0)雑記帳

2017年11月05日

日本人には全体主義が染み込んでいる

 ツイッターで日本人はそもそも全体主義だと言っていた人を見かけたのだが、ドイツ人に関する以下の記事を読んでたしかにそうなのだろうと思った。

デキる人は「他人は別の惑星の人だ」と考える(東洋経済)

 上司と部下の関係に関する冒頭の話しはとても興味深いので一部を引用する。

 日本の銀行でドイツ支社に勤務していたときの話です。部下だったドイツ人女性から、彼女のミスでトラブルが起きているという報告を受けました。トラブルの内容は、彼女がある顧客との間で、ルールで定められている書面を交わさないままに仕事を進めてしまったということでした。
 その報告を受けて、私は開口一番「なんでそんなことをしたの?」と言ってしまいました。すると彼女は、
 「ミスター・スミタ、あなたの仕事は『なぜ?』と聞き返すことではない。事後処理にベストを尽くすのが、あなたの仕事だ」

 と言い返してきたのです。

 日本では部下が失敗したら原因探しをし、責任を部下に押しつけて叱責する上司が大半だ。しかし、ドイツでは上司が部下の失敗の責任も引き受け事後処理にベストを尽くすのが当たり前になっているようだ。部下を叱りつけたところで失敗の事実が消えてなくなるわけではないし、まずやらねばならないのは事後処理でありその後に再発防止だろう。

 失敗から学ぶことは大事だし失敗の原因究明がどうでもいいとは思わない。しかし、失敗したからといって叱責したり批判する必要はない。怒りという感情を使えば人間関係が悪化する。叱られれば仕事へのモチベーションは下がる。部下は上司の顔色を窺って臆病になり、主体性を失ってしまう。

 考えてみれば当たり前のことなのだが、日本ではドイツ人のように考える上司はとても少ない。なぜそうなるのかを考えてみると、上司と部下という関係において、上司が絶対であり部下は上司の指示に従うものという全体主義が染みついているからなのではないかと思う。部下は上司あるいは組織の命令を聞くのが当たり前とされる社会だから、記事に出てくる女性のように部下が上司に自分の意見をはっきりと言うということすらほとんどない。「上から下」という縦社会が徹底しているのが日本だ。そればかりではなく、部下が上司に忖度をしてしまうということすら起きる。欧米では考えられないことだろう。

 ドイツでは組織より労働者を大事にするという考え方も同様だ。労働者を大事にしてこその会社だから労働者の権利を尊重する。労働者が自分に合った働き方をするし、それができる社会だ。日本のようにブラック企業がはびこるということもないのだろう。労働者が会社のために酷使される日本とは正反対だ。

 「人は人、自分は自分」という意識がはっきりしているという指摘もあるが、これは「課題の分離」ができているということだ。つまり他人からどう思われるかを気にせず自分の人生を生きるということなのだが、日本人の大半はこれができない。常に他者の評価を気にして周りに合わせてしまう。自分というものを持たず、全体の流れに従う。するとどうなるか。自分で決めたことならその結果責任は自分で引き受けなければならない。ところが「世間に従う」「全体に従う」ことで自分の責任をあいまいにできる。

 先の民進党の希望の党への合流劇の際、「みんなで決めたことに従っただけ」と言う元民進党議員がいたそうだ。希望の党への合流という提案を両院議員総会で了承したのは事実であっても、踏み絵を踏んで希望の党に入党するかしないかかの選択は個人にある。いくらみんなで決めたことだからといっても安保法制や改憲に賛成できないのなら希望の党へは行かないという選択肢もあった。立憲民主党も発足したのだから「他に公認を得るための選択肢がなかった」と言うことにはならない。「みんなに従った」という言い訳で、自分の選択責任を逃れているとしか思えない。

 ツイッターを見ていてうんざりとするのは右派とか左派に関係なく罵詈雑言で溢れていることだ。他者におもねることなく主体性をもって自分の意見を言うことは大事だし、権力者を監視し批判したり政治に関して意見を述べることも主権者として必要だと思う。事実誤認があれば指摘したり、公益目的に公人や企業などを批判することも意義がある。ところが、そういう指摘や批判ではなく、自分と違う意見を言う人に対する攻撃や罵詈雑言で溢れているというのはどういうことなのだろう。自分と正反対の意見に対し好感を持てないのは分かるが、他人の意見は尊重するというのが民主主義の基本ではないか。

 自分の意見を述べたり他者の意見に反論をする際に、意見の異なる個人を叩いて貶めたり誹謗中傷する必要など何もない。たとえ事実であっても公益性のないことで他人の社会的評価を低下させたら名誉毀損という犯罪になる。批判的意見と誹謗中傷や人格否定は全く別のものだ。インターネットでは匿名の無責任さがモラルの低下につながっている。

 異なる意見の人を敵であるかのごとく攻撃するという行為は「人は人、自分は自分」という区別ができておらず個が確立されていないということに他ならない。

 こういう人は時として意見を同じくする集団に依拠している場合があり、仲間がいるからこそ強気になっている人もいるようだ。あるいはインターネットを他人を叩いて優越感に浸る道具にしているのかもしれないが、学校でのいじめと何ら変わらない。学校でのいじめが個を尊重しない全体主義に根差しているように、ネットでの誹謗中傷の根源も匿名による無責任さと全体主義にあるように思う。

 こうやってみると、やはり日本人の多くは全体主義が染み込んでいて責任をとりたがらない人たちなのだと思わざるを得ない。このまま進めばどうなるのか? 独裁的な人たちにいとも簡単に騙されることになる。自分が騙されて独裁政権を選択しても、独裁者のせいにして自分の選択責任をとろうとしない。安倍強権政治の存続を許し、憲法が改悪され、個人の基本的人権が制限されるようになるだろう。そして完全な独裁政権となり自由に意見も言えない社会になるだろう。共産党が弾圧されたあの時代の再来になりかねない。

 ドイツは過去にナチスによるユダヤ人の大虐殺があった。その反省と戦争責任から新しい憲法が生まれたという歴史がある。これに関しては「戦争責任に向き合うドイツと目をそむける日本」をお読みいただきたい。しかし、日本では過去の侵略戦争に対していまだに責任をとろうとしない。とりわけ天皇に関する戦争責任はうやむやにされたままだ。ここがドイツと日本の大きな違いだ。日本では全体主義からくる無責任が戦後ずっと続いて今日に至っているように思えてならない。ここまで書いて、なんだか辺見庸氏と同じことを言っていると改めて思う。

 では、どうやったらこの全体主義から抜け出せるのだろうか? まずは、自分の選択したことの責任をきちんととるということ。もし誤った選択をしたならそれを認め軌道修正する勇気を持つこと。そして、自分が騙されないようにできるかぎり物事を客観視する努力をすること。人は誰でもバイアスがかかっており間違いを犯すのだから、自分が絶対に正しいという視点から異なる意見の人を叩かないこと。しかし、間違いを犯すまいと沈黙をしてもいけない。私はそんな風に思う。

 全体主義から抜け出すには個人個人が主体性と責任感を持つしかないと思うのだが、独裁国家の出現はもう眼前に迫っている。どうやったら最悪の事態になる前に個人が主体性を持てるのか・・・。諦めてはならないと思うのだが、どうしても無力感がつきまとう。

  

Posted by 松田まゆみ at 11:53Comments(0)雑記帳

2017年10月02日

「敏感で傷つきやすい人たち」を読んで実感した自分の過敏気質

 HSPという概念を知っている人はそれほど多くはないと思う。HSPとはHighly Sensitive Personの略語で、ユング派の心理学者であるエレイン・N・アーロン博士が提唱した概念だ。アーロン博士によると人口のおよそ2割が感受性の高いHSPであり、この過敏な性質は生得的なものだという。私もこHSPについて知ったのは3年ほど前のことだ。HSPかどうかを調べるには診断テストがある。私はアーロン博士版ではHSPかどうかぎりぎりの点数になるのだが、イルセ・サン版だと明らかにHSPとなる。

 先日、岡田尊司著「敏感で傷つきやすい人たち」(幻冬舎新書)を読んだのだが、この本を読んで、改めて自分がHSPであることを実感した。岡田氏はご自身がHSPでもある精神科医だ。

 本書では過敏性についての分析やメカニズムなどの解説にかなりのページが割かれている。本書には独自の過敏性チェックリストがあり、これによって過敏性のタイプを知ることができる。このチェックテスト(過敏性プロファイル)では感覚過敏、馴化抵抗、愛着不安、心の傷、身体化、妄想傾向、回避傾向、低登録の8つのチェック項目を挙げている。これらについてチェックしていくことで過敏性の傾向や程度が分かるのだが、具体的なことは本書に譲りたい。

 岡田氏によると、過敏には神経学的過敏症と心理社会的過敏症があるという。前者は遺伝的要因や生得的要因が強いと考えられ、後者は養育要因や社会的体験などが強く影響していると考えられている。私の場合は、神経学的過敏症が強いようだ。つまり、アーロン博士のいう遺伝的な要因によるHSPと言っていいだろう。

 過敏な人にとってもっとも重要なのは、過敏な自分とどのように向き合っていくかということになるが、その対処法が終わりの第7章「過敏な人の適応戦略」と第8章「過敏性を克服する」で紹介されている。

 岡田氏は「その人を縛っているものは、思考や行動のパターン、価値観や認知の偏りとなってその人に組みこまれた無意識的で自動的なものなので、その歪みは自覚されにくい」という。これを自覚し、自分の弱い点や悪い点に目を向け、無意識の縛りから自由になれれば自分で幸福を手に入れることができる。

 具体的には、肯定的認知を高めるためのエクササイズをする、他人に親切にする、感謝をする、二分法的認知(全か無かの両極端な認知)を克服するなど。ただし、激しい怒りや憎しみに捉われているなどして肯定的な認知自体を受け付けないような人は、第三者的な目で自分を見られるようになる必要があるという。マインドフルネスなどにも言及している。さらに、安全基地の機能を高めることの重要性を説いている。そして、最後に、「依存も自立も必要」だと主張する。

 こうした対処法は、過敏性への対処に限らず多くの精神科医や心理士などが提唱していることと共通する。

 たとえばアドラー心理学に置き換えるなら、子どもの頃に自ら選びとったライフスタイルを自分で選び直すということに他ならない。そのために必要なのは、欠点も含めた自分自身を認めるという自己受容だ。「親切にする」というのは他者貢献であり他者信頼でもある。「安全基地」は所属感、共同体感覚に通じる。「依存も自立も必要」という主張は、言いかえれば自分一人ではできないことは助け合うということだ。細かい点では違っていても、ありのままの自分を認め、自分を変えることで問題を克服でき幸福になれるという考え方は同じだ。

 結局、不平不満ばかり言ってその原因をすべて他人や環境のせいにし、頑として自分を変えようとしない人は穏やかで幸福な人生を生きることはできない。それはHSPであれ、非HSPであれ同じだが、とりわけ敏感な体質の人はその感受性の高さゆえ、不安神経症になりやすかったり体調を崩しやすく「生きづらさ」を感じやすいということになるのだろう。

 私自身、子どもの頃のことを思い出してみると内向的で引っ込み思案であり、一人で本を読んだり趣味の世界に没頭したりするのが好きで、典型的なHSPだった。小学校から高校まで個を尊重しないで競争ばかりさせる学校は一貫して嫌いだった。よくお腹を壊したり便秘をしたりとお腹の調子も安定せず、大人になってからは過敏性腸症候群になった。また、こちらにも書いたが化学物質過敏症だ。

 私の母も典型的なHSPだ。父はそれほどではないと思っていたのだが、文学や音楽、芸術を好み(若い頃はイラストなども描いていた)、山歩きが好きだった父もHSPだったのではないかと思い当たった。定年前に退職したのも、その気質と関係していたのかもしれない。

 自分がHSPだとはっきり自覚することで、自分が動揺してしまうことでも周りの人たちが平然としていられる理由が理解できるようになった。旅行先で寝付けなかったり、大勢での集まりのあとなど神経が高ぶって眠れないのが常だったのもHSP気質が関係していたのだ。今も大勢での宴会は好まないし、登山や旅行なども少人数や一人でしか行きたいとは思わない。

 多くのHSPは「生きづらさ」を抱えているというが、感受性の高さゆえに他人からのちょっとした一言に傷つきやすいのだ。そして他人に傷つけられることを恐れて自己主張をせずに他者に合わせたりする傾向が強まり、それがさらに生きづらさを生んでしまうことになるのだろう。

 私も振り返れば嫌なことや辛いことはいろいろあった。ただ、私はそれが原因で自分が不幸だと思ったことはないし、さほど「生きづらい」と感じた記憶はない。そもそも「生きづらい」という言葉が今一つピンとこない。賃金格差や苛酷な労働などで辛いなら、それは社会システムの問題なので個人に内在する「生きづらさ」とは分けて考えるべきだろうし、ストレスによる苦痛なら自分で何とかするしかない。

 たぶん子どもの頃から自分の過敏性を当たり前のものとして受け入れつつ、自分の世界をマイペースで楽しんできたことが大きいのだと思う。他人の顔色を窺ったり他人と比べるというのが大嫌いで、自分の意見を言うことで他者から嫌われることは厭わない。子どもの頃から「人はみな対等」と思ってきたし、自分の良心にしたがって自然体で過ごすような生き方をしてきたつもりだ。

 世の中の5人に1人がHSPであるなら少数派ではあってもかなりの人が過敏な体質ということになる。とりわけ昨今のように競争が激化し、格差が大きくなればなるほど過敏な人たちは影響を受けやすい。とは言うものの、過敏性を抱えながらも他者に振り回されず自分らしく生きている人も大勢いるし、過敏だから不幸だというようなことは決してない。

 人生も残り少なくなってきたが、不平不満を言わず、感謝の気持ちを忘れずにマイペースで自分のできることをしていきたいと思う。
     


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2017年09月20日

正しいアドラー心理学って何だろう?

 野田氏による岸見氏批判についての意見は「野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う」にすでに書いたが、野田氏の書いた「アドラー心理学を語る」シリーズの4冊を読んで、私は野田氏の主張する「正しいアドラー心理学」「正統なアドラー心理学」あるいは「標準的なアドラー心理学」の定義に疑問を持ちはじめた。

 「アドラー心理学をめぐる論争とヒューマンギルドへの疑問」に書いたように、アドラー心理学と謳っていながら他者を操作することを教えているのであれば、それは確かに「正しいアドラー心理学」とは言えないと思う。しかし、「嫌われる勇気」に対する野田氏の批判はそういう視点ではない。

 私は岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」のほかに、岸見氏の「アドラー心理学入門」「不幸の心理 幸福の哲学」「生きづらさからの脱却」「叱らない子育て」「アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ」「アドラー 人生の意味の心理学(NHK100分de名著)」を読んだほか、小倉広著「アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉」、向後千春著「アドラー心理学のススメ」も読んだ。そして野田俊作氏の4冊シリーズも読んだ。

 それらを読んで感じたのは、著者の数に応じたアドラー心理学解釈があるということだ。

 野田氏は「性格は変えられる」の75ページでこう語っている。

―同じアドラー心理学でも、国によって違うんですか。
ずいぶん違いますよ。だいたいアドラー心理学っていうのはね、寛容というかルーズというか、「かくかくしかじかとアドラーは言った」って言いさえすれば、みんなアドラー心理学なんです(笑)。国によっても違うけれど、治療者個人ごとにもずいぶん違う。百人いれば百とおりのアドラー心理学がある。

 岸見さん、小倉さん、向後さん、そして野田さんの本を読んでみて、私も同様に思う。アドラーの言葉をどう解釈するかは人それぞれなのだから、アドラー心理学の解説書は必ず著者の解釈や意見が入ったものとなる。岸見さんは哲学の視点を取り入れた岸見流だし、精神科医として治療に取り入れている野田さんのアドラー心理学は野田流だ。

 これまで私が読んだ本は、著者の個性は感じられても、アドラー心理学の説明に関して大きな違いがあるとは感じられないし、まして間違いや重大な誤解があるとも思えない。岸見氏の「アドラー心理学入門」や「アドラー 人生の意味の心理学(NHK100分de名著)」も簡潔にまとめられているとはいえ、アドラー心理学の解説として偏っているとは全く思わない。「嫌われる勇気」と「幸せになる勇気」は個性的ではあるが、他のアドラー心理学の本の説明と比べても、間違いがあるとは思えない。

 「嫌われる勇気」で「課題の分離」が強調されているという面は否定しないし、本書でアドラー心理学をまんべんなく解説しているとも思わない。そもそもまんべんなく解説することを目的にしているというより、心理学などに縁がないような人にアドラー心理学の核心部分を明確に説明することを目的にしている本だと思う。率直に疑問を投げかける青年に哲人が明確に応えるという手法は、説得力を持たせることに成功している。

 「課題の分離」は共同体感覚を持つためには不可欠であるし、「空気を読む」習慣が身に染みついている日本人にとって「課題の分離」や「承認欲求」は意識すべき重要なポイントだ。ゆえに「課題の分離」や「承認欲求」に重きを置いていることに違和感はない。悩める青年(=多くの読者)に哲人が表意を突く回答をする展開になっているからこそ「嫌われる勇気」は読者を引き込むしベストセラーにまでなったのだと思う。

 だからといって「協力」や「共同体感覚」をないがしろにしているとも思わない。とりわけ続編の「幸せになる勇気」では貢献や信頼に力点が置かれている。また「課題の分離」が強調されているとしても、そのこと自体がアドラー心理学を誤解していることにはならないし、共同体感覚を理解していないということにもならない。

 野田氏はご自身のサイトで岸見氏批判を何度かしているが、野田氏の言う「正しいアドラー心理学」とか「標準的なアドラー心理学」というのは一体何なのだろう? 間違いとか標準から外れているというのも野田氏の意見でしかない。

 「嫌われる勇気」に関する批判は野田氏以外にもいろいろある。しかし、それらの批判の多くはむしろ読みが浅いゆえに誤解しているのではないかと感じることが多い。トラウマに関しては「トラウマを否定」「トラウマは存在しない」という言葉だけに反応している人もいるようだ。しかし本文をよく読めばトラウマやPTSDという症状の存在を否定しているわけではないことは十分理解できる。

 ちなみに、岸見さんはこちらの記事で「実はアドラー自身、第一次世界大戦中、軍医として、戦争による心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療にあたっていました。トラウマの存在を知っていたのにあえて否定したのは、過去にとらわれず、これからをどう生きるかが重要と考えたからです」と語っている。トラウマが未来を決定するわけではないという目的論に則り「トラウマを否定」「トラウマは存在しない」という表現を用いたのだろう。

 私は目的論が間違っていると思わないが、人の言動や症状がすべて目的論で説明できるとも思わない。また、アドラーの目的論と現在の精神医療の現場で行われているさまざまな技法を用いたトラウマ治療は対立するものだとは思わない。重視する視点が違うだけであり、どちらかが間違っているというわけではないだろう。

 それから、「嫌われる勇気」の哲人の説明があまりにもストレートすぎるという批判もある。これにはメリットとデメリットがあると思う。ストレートな説明はアドラー心理学のポイントや概要を知りたい人にとっては理解しやすいし、自己受容が一定程度できる人ならストレートで厳しい指摘であっても受け入れられるし自分のライフスタイルを変えることに繋がる。しかし自己受容ができない、すなわち自分が不完全であることを受け入れられない人にとっては自分が批判されていると受け止めて嫌悪感を抱き、人によってはアドラー心理学を否定することになるだろう。したがって逆効果になる人もいるのも否めない。

 ただし、岸見さんがカウンセリングでクライアントに対してここで書いているようなストレートな指摘やアドバイスをしているとは到底思えない。確か、クライアントとともに解決方法を考えていくというようなことをどこかに書いていた記憶がある。この直截的な表現は明確な説明を意図した本であるからこそのものだろう。そこも勘違いをしてはならない点だ。

 「嫌われる勇気」に抵抗感がある人は野田さんの「アドラー心理学を語る」の方が読みやすいかもしれない。ただし、自己受容ができなければ野田さんの本を読んだところでライフスタイルを変えるという決断はできないと思う。

 「嫌われる勇気」批判に関しては、向後千春さんの以下の記事がとても的を射ている。

アドラー心理学、「部下をほめてはダメ」の功罪

 「嫌われる勇気」は批判する人がいる一方で、多くの人が高く評価し共感を呼んでいる。「嫌われる勇気」を自分の解釈に合わないという視点から批判することがアドラー心理学の発展につながるとは私には思えない。むしろ向後さんが指摘しているように、読者が誤解をしている部分があるなら、その誤解を解くような説明をするほうがよほど建設的だと思う。

【関連記事】
アドラー心理学をめぐる論争とヒューマンギルドへの疑問
アドラーのトラウマ否定論について思うこと
野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う
誤解される嫌われる勇気
野田俊作著「アドラー心理学を語る」についての感想

  


Posted by 松田まゆみ at 18:51Comments(0)雑記帳

2017年09月11日

野田俊作著「アドラー心理学を語る」についての感想

 野田俊作氏は1982年にシカゴのアルフレッド・アドラー研究所に留学してアドラー心理学を学び、日本にアドラー心理学を持ち込んで日本アドラー心理学会を立ちあげた精神科の医師である。日本のアドラー心理学の第一人者といえば、やはり野田氏だろう。その野田氏が以前一般向けに書いたアドラー心理学の解説書「アドラー心理学トーキングセミナー」および「続アドラー心理学トーキングセミナ―」が、昨年末から今年にかけて「アドラー心理学を語る」というシリーズ本となって再版された。「性格は変えられる」「グループと冥想」「劣等感と人間関係」「勇気づけの方法」の4冊だ。

 このシリーズ本は3月に読み終えていたのだが、感想を書くタイミングを失してしまった。遅ればせながら野田さんの本を読んだ感想を記しておきたい。

 「性格は変えられる」および「グループと冥想」は対話形式で、「劣等感と人間関係」「勇気づけの方法」は対話形式ではないものの、どの本も具体例を取り入れながら独特な語り口によって分かりやすい解説書になっている。

 第3巻の冒頭で「第3巻と第4巻で、非専門家のアドレリアン(アドラー派の心理学者)が知っておくべき内容は、ほぼ尽くされているのではないかと思っています」と記されているように、この2冊でアドラー心理学の概要をひととおり解説するものになっている。第1巻の「性格は変えられる」はライフスタイルを変える方法と共同体感覚についてより具体的に説明している書であり、第2巻の「グループと冥想」はグループ療法について具体的に解説しているものなので、第3・4巻から読み始めても何ら差し支えはない。

 私は岸見一郎・古賀史健著「嫌われる勇気」でアドラー心理学を知ったのだが、「嫌われる勇気」および続編の「幸せになる勇気」では、いわゆる「勇気づけの」方法が今ひとつピンとこなかった。しかし本シリーズの「勇気づけの方法」では、どんな会話が勇気づけになるのか、あるいはどんな言い方が「勇気くじき」になるのかが具体的に示されていてとても参考になる。そして、私たちは実に「勇気くじき」の言葉の洪水の中に置かれているかということにも気づかされる。

 野田さんのこの4冊のシリーズ本は、アマゾンのカスタマーレビューでも高い評価が多く、定評のあることが伺われる。アドラー心理学を学びたいと思っている方や、「嫌われる勇気」「幸せになる勇気」を読んでさらに理解を深めたいと思う方には最適だと思う。ちなみに岸見氏は野田氏からアドラー心理学を学んだ一人であり、第3巻の末尾に「野田先生と私」という寄稿を寄せている。

 内容については本書に譲るが、ひととおり読んで感じたのは、この本はまさに野田流アドラー心理学だということだ。単にアドラーの思想を解説しているというだけではなく、精神科医として実際の治療に関する話しも多く、野田氏の独自解釈や独自手法が加わっている。野田氏が示している治療例の中には、本当にこんなアドバイスが効果的なのだろうかと首を傾げたくなるような驚くべき提案もある。アドラー心理学を熟知した医師ならではの発想なのだろう。野田氏の本は実例なども示しながら仔細に語られているのが魅力であるが、それと同時に個性が強いという印象も否めない。

 これらの本の中で私がとくに興味を持ったり印象に残った点について、いくつか書き留めておきたい。

 「縦の関係」と「横の関係」について、野田氏は以下のように述べている。

 この二つは、違ったライフスタイルに基づいています。つまり、縦の関係で暮らす人は、徹底して縦の関係ばかりつくって、決して横の関係を持とうとしない。逆に横の関係で暮らす人は、徹底して横の関係ばかりつくろうとする。相手によって縦になったり横になったりするというようなことは、実際にはまずありません。

 「縦の関係」と「横の関係」がライフスタイルの違いなら、ライフスタイルを変えない限り、一生「縦の関係」のライフスタイルの人は縦の関係を維持しようとする。これは実生活の中でもしばしば体験することだ。支配的である人は常に他者の言動に口をはさんで文句を言ったり批判をする、あるいは周りの人の空気を読んでそれに従う人は従属的でありやはり縦の関係だ。そして身の回りの人たちを見ていると、多くの人がこのような縦の関係のライフスタイルを持っていることに気づく。

 しかし他人を変えることはできない。ならば、相手ではなく自分が変わることで問題の解決をはかるというのがアドラー心理学の考え方だ。たとえ縦の関係のライフスタイルの人に悩まされているとしても、自分が変わることで関係性が変わってくるという指摘にはなるほどと思うし救われる。これは横の関係を築くためのひとつのポイントだろう。

 自己受容と他者信頼、貢献感は実は同じもので、共同体感覚の三つの側面であるという説明も、本書を読み進めていけば納得がいく。そう考えるとアドラー心理学はやはりシンプルといっても過言ではない。

 冥想が良いとの話しはいろいろなところで聞いて知っていたが、なぜ冥想が良いのかということが「グループと冥想」で説明されていてなるほどと思った。陰性感情は怒り、不安、憂鬱の三つに大別されるが、このうち不安は未来についての感情であり、憂鬱は過去に起因する感情だという。これらは思考することによって生じる感情なので、冥想によって「今ここ」に集中することで消えてしまうのだという。呼吸法などの冥想のやり方を解説しているわけではないのだが、ダンスを取り入れた野田氏のグループ療法などはなかなか興味深い。

 もう一つ、アドラー心理学の「共同体」の定義についてはちょっと目からウロコだった。私は小さい共同体は家庭や職場、大きい共同体は国家などを指すのだろうと漠然と考えていたのだが、アドラーが考えていた一番狭い定義が人類全体だという。そして最大の定義は全宇宙。そこまで広範囲を考えているとはまったく思っていなかった。しかし、宇宙が共同体という考え方はまさに共同体=自然ということだ。人は紛れもなく地球の生物の一員であり生態系の一員であるのだから、共同体感覚というのは自然の摂理に逆らわず生態系の一員として謙虚に生きるということでもあるだろうし、これにはすごく納得がいく。

 以前、NHKの番組で狩猟採取生活をして協力的な生活をしているアフリカのある民族にはストレスがないということを紹介していた。人類は誕生から長い間、自然の中で協力し合って生きてきたに違いない。さまざまな自然の脅威はあっても、人間関係つまり同種間でのストレスがほとんどない社会を持っていた可能性が高いし、それこそ健全な生物の姿だろう。狩猟採取生活の人類は協力的な暮らしをしなければ生きていけなかったのだろうし、共同体感覚が自然に身についていたのかもしれない。しかし、文明の発達とともに支配・従属という縦の関係あるいは競争的な社会へと変わる中で、共同体感覚を失ってしまったのかもしれない。とするなら、自分自身の中にある共同体感覚を揺り起こすことも不可能ではないのではないか? 私は、人は「良心」という形で共同体感覚を内在しているように思えてならない。

 最後に一言。野田氏は本書の中で一貫してアドラー心理学はお稽古ごとであるから本では学べないという主張をしている。大半の人が性格を変えないという努力を続けている以上、本を読んだからといって容易に性格を変えられるものではないと思うし、まして共同体感覚は簡単に身につくものでもなかろう。とりわけ縦の関係のライフスタイルの人や自己受容に抵抗がある人にとっては、本を読んだところで実践しようという意欲も湧かない気がする。

 しかし、すべての人が縦の関係のライフスタイルを持っているわけではないし、縦の関係や自己受容の程度も人によって強弱があるのではなかろうか。縦の関係のライフスタイルの人であっても、アドラー心理学の本を読むことで少しでも今までと違う視点を持つことができ、今の性格を保つのをやめようと決断したり、さらに深く学んでみたいと思う人もいるだろう。横の関係のライフスタイルに共感できる人はアドラー心理学を受け入れるのはさほど困難だと思わないし、実践しようと思う人も多いのではないか。

 講習会やワークショップに参加できればそれに越したことはないだろうが、だからといって本で学ぶことに意味がないとは思わない。また、本は何度も読み返せるという利点がある。本というのは一度読んだだけではすぐに忘れてしまったり十分に理解できないことも多いが、繰り返し読むことによって理解が深まる。野田さんのこのシリーズも、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」も時々本棚から引っ張り出して読んでいるが、繰り返して読むことによって、少しずつ自分のものになっていくのだと思う。

【関連記事】
アドラー心理学をめぐる論争とヒューマンギルドへの疑問
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2017年09月01日

忘れさられる関東大震災

 今日は9月1日。そして9月1日といえば真っ先に思い出すのが関東大震災。ところが、朝刊(北海道新聞)をめくってみても社説に防災の日の話題があっただけで関東大震災のことに触れる記事はない。

 さて、あの大震災から何年経ったものかと数えてみたら、94年になる。たしか1915年(大正4年)生まれの父が子どもの頃だったはずだが・・・と、父の随筆を読み返してみると8歳の時だと書いてある。上野に住んでいた父は不忍池の弁財天で一夜を過ごしたというが、谷中方面を除いて上野は火の海に囲まれたらしい。考えただけでもぞっとする。

 上野の山(山といっても丘のようなものだが)には、ピーク時は約50万人もの避難者が押し寄せたそうだから、さぞかし大変な状態だったに違いない。残されている当時の写真を見ると想像以上の人の群れだ。

関東大震災90年目の夏・写真レポート

 10万5千人もの死者、行方不明者を出した大震災から94年、考えてみれば、あの大震災を記憶している人はほとんど亡くなってしまった。それにしても、何年か前までは9月1日といえば防災の日ということで大震災のことが取り上げられていたような気がするが、もはや新聞でも取り上げられなくなってしまったとは・・・。

 日本は地震活動、火山活動が活発化していると言われている。東日本大震災から6年以上が過ぎたが、あのときの震源域の北側と南側には大きな歪みが溜まったままだ。アウターライズ地震が起きると予測している人もいる。熊本地震のように、日本ではいつどこで大きな地震が起きるか分からない。さらに恐ろしいのは、全国各地に原発があることだ。稼働しているのは限られているとはいうものの、各原発には大量の使用済み核燃料が保存されている。

 先日の北朝鮮のミサイルではほとんど意味のないJアラートを発信し大騒ぎをしていたが、大地震などの自然災害を忘れないために制定された防災の日は何やら影が薄い。何度も大地震を経験している日本だが、果たして過去の震災の教訓は生かされているのだろうか? 適切な避難指示を出せるのだろうか? 避難所の体制は万全か? 被災地にすみやかに物資を届けられる体制を整えているのだろうか? 原発事故への対処は? ミサイルより大地震や大津波への備えの方がはるかに大事だろう。
  


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