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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱 › 戦争・平和

2016年02月01日

戦争は人間の本性か?

 人間の最も愚かな側面は、戦争と環境破壊だと思う。同じヒトという種でありながら、憎み合って殺し合い、しかも大量殺戮を続けている生物種は地球上にはヒト1種しかいないだろう。環境破壊は、生物の生存基盤そのものを壊したり汚染することで自ら首を絞める行為だ。戦争は同種の殺戮と同時に環境破壊ももたらす。ともに理性のある者がとる行動ではなかろう。

 放射能汚染も同じで、お金に目がくらんだ人たちが危険きわまりない原子力の利用を促進してきたことが、人類はもとより地球上の生物の生存を脅かしている。21世紀における人類の選択は、地球上の生物の存続を左右することになるだろう。

 しかし、これだけ科学技術が発達した社会でありながら、ヒトはどうして戦争が止められないのだろうか。「戦争はヒトの本性」とか「戦争があるから人口増加が抑えられる」などといったことを口にする人がいるが、本当にそうなのだろうか? やや古い記事だが、以下からもやはり戦いは人間の本性ではないと考えざるを得ない。

「戦いは人間の本質ではなかった」:研究結果

 アイヌの人たちはチャランケという弁論よってもめごとの解決を図ったという。アイヌ民族がまったく闘いをしなかったということではないにしても、話し合いで争いごとを解決するというのが彼らの基本的なやり方だったのだろう。

 狩猟採取生活をしている少数民族は、自然の中でひっそりと暮らしていて集団で殺し合いをするという話しはまずきかない。以前、NHKのテレビ番組で、狩猟採取生活をしているある民族にはストレスがないと報じていた。彼らは協力して獲物を捉え、食糧を集団の中で平等に分け与える生活をしているが、こうした集団内の協力や平等意識が武力闘争のない平和な生活を維持しているのだろう。狩りに非協力的な自己中な人は、集団内で生きていけないことになる。

 だいたい、同種同士で殺し合いをする動物はほとんどいない。チンパンジーなどには子殺しもあるが、これとて憎しみによる集団での殺し合いではない。ところが、人類はあるときから殺し合いをするようになってしまった。人間がいつまでたっても戦争という殺戮を止められないのは、欲を制御できないからとしか思えない。富を溜めこむようになった社会には富の分配の偏りという不平等が生じ、より多くの富を得ようとする競争があり、こうした社会では不平等と闘争心によって自ずとストレスが蓄積する。

 富の配分が公平で、支配や競争がない社会であればストレスは生じにくいだろうし、ストレスや競争がなく人と人が協力しあう社会であれば、人が憎み合うことも少ないだろう。ならば、人々が平和な暮らしを続けるために必要なのは、富をできる限り均等に配分して格差をなくし、人々が協力しあう社会を構築することだ。

 そして、地球上の資源は限りがあることを自覚し、自然改変をできる限り慎む努力をしつつ再生可能エネルギーを利用していくしかないのではなかろうか。もちろん、だからといって昔のような生活に戻れというつもりはない。自分たちの生存基盤である自然環境の保全を前提にしなければ、どこかで綻びが生じ持続可能な社会は続かない。戦いが人間の本性ではないのなら、意識と努力次第で平和な社会は築けるはずだ。

 しかし、日本は正反対の方向に向かっている。格差は拡大するばかりだし、福祉は切り捨て。今や働けど働けど搾取される非正規の労働者と、年金だけで生活できない高齢者が溢れている。あれだけ大きな事故を起こし放射能をばら撒きながら、原発をやめる気配がない。これでは人々の間に不満やストレスがたまり、攻撃的になるのも当たり前だろう。安倍首相は人々を攻撃的にしておいて、戦争に駆り出そうというつもりなのだろうか。

 これに気づき、理性を働かせていかないと、ストレスをため感情的、攻撃的になった人間は簡単に騙され誘導されてしまう。はたしてヒトは理性をとりもどし、戦争のない社会を構築することができるのだろうか?
  
タグ :平和戦争


Posted by 松田まゆみ at 10:54Comments(6)戦争・平和

2016年01月03日

リテラシーが求められる時代

 新しい年を迎えたが、もうここ何年も新年にあたっての感慨はないし、とても楽しい気分にはなれない。ただ、昨年一年を無事に過ごせたことを感謝するとともに、来る年に自分は何ができるのだろうかと考えてしまう。

 とりわけ福島の原発事故以来ずっと重たい気持ちを引きずっているし、心の奥底にいいようのない不安が貼りついている。何の不安かといえば、戦争への道にすでに片足を踏み出していること、被ばくによる健康被害の顕在化と被ばく隠しが始まるであろうこと、再び大地震や大津波あるいは火山噴火などの自然災害に襲われる懸念(再度の原発事故の可能性も含む)、ますます格差が拡大するであろうこと、いつまで自由な言論ができるかわからないこと・・・などなど。

 以下の獣医さんの記事が、今の危険な状況を端的に指摘している。

今年ほど右に傾いた年はない(そりゃおかしいぜ第三章)

 獣医さんも記しているが、政府は武器製造や開発、輸出を目指し、国立大学が軍事研究にまで手を出す始末だ。つまり科学者に軍事研究をさせて軍事に動員するということだ。戦争への学者の利用であり、こうしたやり方から間違いなく戦争へと誘導する御用学者が生まれるだろう。きわめて恐ろしい事態だ。

 国は科学者まで利用して軍需産業に力を入れ、強引に戦争法を通して戦争へと邁進している。平和憲法はすでに形骸化してしまったうえに、この夏の参院選で改憲を目論んでいる。再び巨大地震が迫っているという予測をしている人たちがいる中で、国民の声を無視して地震大国、火山大国で原発を再稼働させる様は、もはや狂気としかいいようがない。TPPも公約違反。マイナンバーで国民を管理。もう支離滅裂の状況だ。

 それにも関わらず、多くの人が政治に無関心だ。若者たちの多くはスマホから離れられない生活を送っているが、大半はゲームやSNSにうつつを抜かしているという。この情報化時代に、真実を知るための情報収集をするならわかるが、どうやら政治には関わりたくない若者が大半らしい。

 国が集団的自衛権を行使できるようにしたところで、自分には関係がないとでも思っているのだろうか。あれだけ自民党が公約違反をしておきながら、未だに「長年政権を握ってきた自民党がいちばん安心」などと思っている人も多いように見受けられる。これほど危険な状況なのに危機感が希薄で、保身ばかり考えている人があまりに多いと思わざるをえない。

 今年は原発事故から5年目になるが、チェルノブイリの原発事故の経験からも、子どもの甲状腺がんの多発をはじめとした被ばくによる健康被害がいよいよ明確になってくるだろう。政府が事故の過小評価に必死になり汚染地に住民を戻す政策を展開し、未だに誰も原発事故の責任をとらないという状況からも、これから被ばく隠しが行われるのは目に見えている。

 おそらく被ばく隠しに御用学者が跋扈するだろう。首都圏も汚染されてしまった以上、被ばくによる健康被害は関東圏でも明確に現れるに違いない(実際にはすでに現れているとは思うが)。そんな中で首都圏に住む人たちは正常性バイアスに捉われ、御用学者の振りまく安全説に頼ってしまう可能性がある。否、問題は御用学者だけではない。放射能安全説を振りまいたニセ科学批判の人たちや、それに準ずる発言をしている科学者の言説は汚染地に住む人たちに安心感を与える。こうして汚染地の住民がエートスに取り込まれ、原子力ロビーに牛耳られてしまうことこそ警戒せねばならない。エートスについては以下を参照していただきたい。

<エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか?/その1 
<エートス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その2 
<エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その3 
<エトス・プロジェクト>を通して国際原子力ロビーは何を目指しているのか? その4 

 今の日本の状況は、すでに浸水がはじまっている沈みかかった船だと思う。ともあれ、悲観していたところでどうにもならないのも事実だ。ならば、自分でしっかりと情報の取捨選択をし、できる限り真実に近い信頼できる情報を広め、間違った言説を指摘することが多少なりとも多くの人の幸福に結びつくのではなかろうか。もちろん一人の人間ができるのは微々たることでしかない。しかし、ただ悲観して何もしないのは状況の悪化に加担するだけだと思う。

 ネット上にはいい加減な情報やデタラメな情報、あるいは荒唐無稽な陰謀論や誹謗中傷が溢れているが、地道に真実を追求しようとしている言論もある。一方で、政府に都合の悪い情報の信用を落とそうと操作する人もいる。そんな混沌とした状況の中で、何が虚偽であり何が事実なのか、また何が真実に近いのかを見極めるリテラシーがこれほど求められる時代もないだろう。
  

Posted by 松田まゆみ at 18:09Comments(0)戦争・平和

2015年11月26日

日本国憲法の制定と改憲

 11月24日付けの北海道新聞に、「憲法に平和と民主化の願い」とのタイトルで古関彰一さん(独協大名誉教授)の日本国憲法の誕生についてのインタビュー記事が掲載された。非常に重要なことだと思うので、ここに要点を紹介したい。

・憲法に平和条項を盛り込んだのは日本の議員たちだった。9条がどうしてできたかが分かったのは、1995年に帝国議会の速記録が公開されて判明した。
・知識人らによる民間グループ「憲法研究会」が1945年に統治権は国民にあり、天皇は国家的儀礼をつかさどるとし、自由権を定めた「憲法草案要綱」を発表し、内閣やGHQに提出。
・憲法研究会の案がGHQ草案に盛り込まれ、国民主権や人権条項につながった。
・日本政府は、万世一系の天皇が統治権を有するなど明治憲法とほとんど変わらない「憲法改正要綱」をGHQに提出したが、GHQは一蹴して自分たちの草案を日本に渡した。
・日本政府の「憲法改正要綱」に賛成したのは起草した憲法問題調査委員会委員長の松本蒸治ら一部だけで、昭和天皇すら要綱に疑問を持つ人が出るのではないかと述べた。
・GHQ草案を確定案にするまでGHQは松本らを30時間缶詰めにしたが、同席した外相の吉田茂や法制局の佐藤達夫は押しつけられたとは言っていない。松本の私憤が「押しつけ論」になったのだろう。
・連合国最高司令官のマッカーサーは、日本統治に昭和天皇の存在が不可欠と考えていたため、GHQは天皇に厳しい姿勢で臨むと見られた極東委員会が動きだす前に天皇を象徴的な存在にする民主的憲法案をつくろうと急いだ。つまり、天皇を守るために象徴天皇制と戦争放棄が必要だった。
・戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくるというマッカーサーの政治的、戦略的な発想があった。


 ざっと要約するとこんなところだろうか。

 よく言われる米国による押しつけ論に対し、民間グループが提案した案をGHQが採用したということは私も知っていた。あらためて古関氏の解説を読んでも、いわゆる「押しつけ論」は改憲の理由にはならないと思う。

 ところで、これを読んで私が注目するのは「天皇を守るために象徴天皇制と戦争放棄が必要だった」と「戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくるというマッカーサーの政治的、戦略的な発想があった」という2点である。

 GHQは象徴天皇制と戦争放棄によって天皇の戦争責任を免責したことになる。ここで頭に浮かぶのは、辺見庸著「1★9★3★7」に取り上げられている天皇の戦争責任問題である。この中で、辺見氏は天皇の戦争責任について何度も言及するのだが、とりわけ印象に残るのは1975年10月31日の皇居で行われた天皇の記者会見における問答である。1975年といえば、私は大学生だったが、情けないことにこの天皇の発言についてはほとんど記憶にない。この問答について「1★9★3★7」から引用したい。(306ページ)

(問い)また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかかいいたします。
(天皇)そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。

 天皇は当然のことながら自分に戦争責任があるという自覚はあっただろう。いわゆる「皇軍」が「大元帥陛下(天皇)万歳」と唱えて南京で大量殺戮をしたのだ。責任がないわけがない。しかし、この正面からの問いに対し「言葉のアヤ」などといって自らの戦争責任を堂々と誤魔化したのだ。これほど無責任で恥ずべきことはない。こういうことを平然と言えたのは、憲法で戦争責任の免責をしてしまったことが関わっているのだろう。

 私は戦争責任について天皇に土下座させて謝罪させればよかったとは思わない。自己の責任を認めることができない者に無理矢理謝罪をさせたところでどれほど意味があるのかと思う。ただし国民は、とりわけ知識人たる者は、この天皇の発言に対し毅然と異を唱え批判する必要があっただろう。中国での大虐殺という加害ならびに太平洋戦争での被害を突き付け、天皇の戦争責任を国民の前にきっちりと明らかにするべきであった。しかし、それがなされぬまま日本の無責任体質は今に及んでいる。ふたたび戦争をする国へと突き進んでいる今、今後の戦争で生じるであろう加害や被害の責任は誰にあるのか? 平和憲法を持ちながら安倍政権を選んだ私たち国民ではないのか・・・。

 もう一つ、認識を新たにしたのは、「戦争放棄により日本本土を非武装化し、その代わりに沖縄に軍事基地をつくる」という米国の思惑である。戦争放棄の裏にこんな事情があったのかと思うと慄然とする。沖縄を犠牲にしての日本の平和などあり得ない。今の辺野古の闘いは、本土の人間にとって決して無関心でいられるものではない。

 11月22日の琉球新報の社説から一部を引用しよう。

 注意したいのはオバマ氏の言動だ。首相の発言に対し、オバマ氏は「感謝したい。米軍も嘉手納より南の基地返還に取り組む」と述べただけである。「唯一」という発言に同意してはいないのだ。
 事実、日本の安全保障政策に多大な影響力を行使してきたアーミテージ元米国務副長官もナイ元米国防次官補も辺野古新基地に疑問を呈している。モンデール元駐日米国大使も「(普天間代替基地の場所について)われわれは沖縄だとは言っていない」と明言した。「辺野古が唯一」だなどと言っているのは日本政府だけなのである。

 憲法によって沖縄に基地を押し付けた米国ですら、もはや「辺野古が唯一」などとは言っていないのだ。それにも関わらず、今も辺野古で抗議行動をしている人たちに暴力をふるい、県民の反対を押し切って沖縄を米国に差しだそうとしているのは安倍政権にほかならない。こんな安倍自民党政権を選んだのは、私たち国民だ。

 私たち無責任な日本人が選んだ安倍首相は改憲に向けてまっしぐらだ。そして、再び戦争という人殺しをしようとしている。平和憲法の制定に米国の思惑があったとしても、それによって天皇の戦争責任が免責されたとしても、自民党主導の改憲は何としても阻止しなければならない。米国にただただ媚を売り、基本的人権すらなくそうとしている安倍政権にNOを突き付けねばならない。

 もし改憲がなされたなら、日本は一気に戦争へと突入し、基本的人権も表現の自由もなくなるだろう。戦前と同じ状況があっという間にやってきて、国民が互いを監視し合い、ずるずると戦争へと巻き込まれていくだろう。今、戦争反対を唱えている人ですら何も言えなくなり、軍国主義へと染まっていくかもしれない。そうなったとしても責任は私たち国民にある。

 無責任体質が染み込んだ日本人に、改憲阻止ができるかどうかが問われている。

【関連記事】
辺見庸氏の渾身の著作「1★9★3★7」
辺見庸氏の「1★9★3★7」インタビュードタキャンと日本共産党批判
  


Posted by 松田まゆみ at 15:50Comments(0)戦争・平和

2015年11月24日

辺見庸氏の「1★9★3★7」インタビュードタキャンと日本共産党批判

 以下は11月22日の私のツイート。

①ここ数日、辺見庸氏のブログの日録「私事片々 201511/10~」http://yo-hemmi.net/article/429387467.htmlを毎日読んでいる。辺見氏は以前、日録で国会前のデモを批判していたが、それを一度消した。しかし、最近になってまたそのことを取り上げている。

②11月12日の日録には、安保法制に反対する国会前のデモについて、「安保法制反対をとなえる服従(屈従)的デモのあとにデモ参加者が路上清掃をしたという〝美談〟」をとりあげ、批判している。では、安保法制反対をとなえる服従(屈従)デモとは何をさしているのか?

③11月18日の日録で、共産党機関紙の赤旗が辺見氏の著書「1★9★3★7」についてのインタビューを断った理由についてこう推測する。「ほんとうのわけは、ひところの国会前のデモを、あまりにも「権力迎合的」だとわたしが口汚く非難したからではないですか。」

④辺見氏はさらにこう続ける。「そのことをみとめれば、問わず語りに、あそこには「まっさらの若者たち」だけでなく、共産党や民青の〝別働隊〟が多数入っていた事実を承認することになるので、あなたがたは卑小な沈黙をきめこんでいるのではないですか。」

⑤「まっさらな若者」とはもちろん #SEALDs の若者たちのことだろう。私は現場にいたわけではないし、本当の事情はよくは分からない。しかし、SEALDsの主宰したデモに、共産党や民青のメンバーなどの「別働隊」が入り込んでいたというのはたぶん事実だろう。それだけならまだいい。

⑥辺見氏が批判したのは「別働隊」のとった行動である。21日の日録にこうある。「権力受容体質のニッポンのあんちゃん、ねえちゃんたちは、国会前でやったように、SWATに拍手喝采し、屍体に「帰れ!」コールを浴びせかけ、しかる後に、みんなで血塗られた道路の清掃作業でもやるんだろうか」

⑦ツイッターでも流れてきたが、一部のデモ参加者が警察に逮捕されたとき、デモ参加者の一部がその逮捕を喜び、「帰れ」コースを浴びせたらしい。別働隊が警察にチクったのかどうか私は知らない。しかし、警察による違法逮捕への加担を「権力に迎合」と言わずに何というのだろう。

⑧辺見氏はこの光景に怒っている。安保法制反対を叫ぶ人々が権力に迎合しているのなら、矛盾も甚だしい。共産党別働隊がそれに関わっているからこそ、辺見氏は共産党を「権力迎合的」と批判しているのだ。私も警察によるデモ参加者の逮捕を知ったときには憤りを覚えた。

⑨共産党や別働隊なるものが国会前デモを利用しているというのは、私も感じてはいた。しかし、あえて批判はしなかった。なぜならSEALDsは特定の組織を支持しているわけではないし、来る者は拒まず、去る者も追わないからだ。共産党や過激派が来ていても排除することにはならない。

⑩個人の発言と行動、すなわち個としての主体性を何よりも重視するSEALDsと、上意下達が徹底した日本共産党は、どう考えても根本的なところで歴然と異なっている。相いれないのだ。なのに、共産党がSEALDsの若者たちを評価し国会前デモを大きく報じることにどうしても違和感はあった。

⑪私は徹底して戦争に反対をしてきたという点では日本共産党を評価している。主張にしてもまっとうなことが多い。しかし、共産党という組織内における「支配-服従」の関係だけは嫌悪する。組織に服従してしまう人々が、いったい国家権力に対してどれだけの不服従や抵抗ができるのかと。

⑫そして、はからずもその矛盾が国会前の「逮捕に加担=権力に迎合」という光景で露呈した。いったいこの国の平和運動に個の主体性がどれほどあったのか? それだけにとどまらず、別働隊(だと私は思っているが)のメンバーが個人情報晒しというネットリンチ(暴力)をしでかした。

⑬辺見氏が推測するように、もしインタビューを断った理由が共産党批判なのであれば、やはり共産党に幻滅せざるを得ない。共産党は批判を真摯に受け止める度量がこの危機的状況を目の前にしてもないのかと。なぜ対話ができないのかと。それが身を滅ぼすことにならないのかと。

⑭戦争に片足を踏み入れているときに、反戦平和を唱える共産党の批判をしたくはない。しかし、言っていることとやっていることに矛盾があってはならない。その矛盾を解消し、個の主体性を尊重しないところに未来はないと思う。

 共産党の志位委員長は、9月22日にツイッターでこんな発言をしている。



 志位氏は「共産党アレルギー」が国民連合政府共闘の支障になっていると考えているようだが、そうだろうか? たしかに、共産党と聞いただけで嫌悪する人たちはそれなりにいるだろう。しかし、私は、共産党という組織の内部における「支配-従属関係」を嫌っている人がかなりいるのではないかと思っている。それゆえに共産党から離れて行った人も多いのではないか。さらに、党に対する批判を許さない姿勢も賛同できない。なぜ、もっと批判に対して寛容になれないのだろう。自分たちこそ「絶対に正しい」と思っているのであれば、民主主義を標榜する組織とは言いがたい。

 辺見氏が国会前での権力迎合と共産党のインタビュードタキャンに拘る理由はここにあるのだろう。共産党が安倍政権を批判し、民主主義を主張するのなら、共産党のこの姿勢を変えることこそ必要なのではないか? 党の体質を変えないで「アレルギー」のせいにしてしまう限り、国民からの支持は得られない。私にはそう思えてならない。
  


Posted by 松田まゆみ at 14:12Comments(0)戦争・平和

2015年11月21日

辺見庸氏の渾身の著作「1★9★3★7」

 「金曜日」から出版された辺見庸著「1★9★3★7」を読み終えた。本書は、週刊金曜日に連載された「1★9★3★7『時間』はなぜ消されたのか」および「今の記憶の『墓をあばく』ことについて」を加筆修正して書籍化したものだ。

 私は辺見氏の本は全部ではないもののある程度は読んでいる。しかし、本書はこれまで読んだ本の中でももっとも強い衝撃を受けたと同時に、読み進むこと自体に多少なりとも苦痛を伴った。

 本書は、中国人の視線で日中戦争での日本軍による残虐な行為を描いた堀田善衛(ほったよしえ)の「時間」という小説をもとに、戦争における人間の獣性を問い、天皇の戦争責任を問い、今の日本の危機的状況を招いた原因を暴き、日本人の心に巣食う全体主義を批判し、これらのことを痛烈に読者に質す書である。タイトルの「1★9★3★7」は、日中戦争で日本軍が中国人に対して目を伏せたくなるような残虐行為、いわゆる南京大虐殺があった年を指している。

 私とて、南京大虐殺を知らないわけではない。日本兵による国人捕虜や民間人の虐殺、強姦などの残虐行為については辺見氏の他の著作でも触れられているし、いわゆる「百人斬り」については本田勝一氏も指摘している。しかし、「時間」を基にした辺見氏の大虐殺の情景描写によって、私のこれまでの認識がいかに甘かったのかを思い知らされることになった。本書を読んでいる間中、その残虐きわまりない衝撃的な情景が脳裏に焼きつき、まさに悪夢のように頭にまとわりついた。

 そして、辺見氏自身が何度も本の中で自分自身に問い苦悩するのである。もし自分が日本兵の立場であればどう行動していたのか、上官の命令を拒否することができたのだろうかと。また辺見氏は日中戦争に従軍し、おそらく間違いなく拷問や虐殺などの残虐行為に加わったであろう自身の父親のことを引き合いにだし、自問自答する。自分自身が父親の立場であったらどうしたであろうか、戦争だったから仕方が無いで済ませられるのか・・・否、そうではないと。

 私が「読み進むことに多少なりとも苦痛を伴った」と書いたのは、辺見氏の自問自答は否応なく読者にも突き付けられているからである。本書は、読み進むその場その場で読者に対し「自分が日本兵の立場なら、どんな行動をとったのか」、「この残虐行為を自分はできるのか」と問い質し、答えを求めるのだ。この究極の問いに、何のためらいもなく「自分が殺されても他者を殺さないことを選ぶ」と明言できる人ははたしてどれほどいるであろうか。

 そして、やはり私は唖然とする。私(たち)は、日中戦争における日本人の残虐行為を知ろうとおもえば知ることができたのに知ろうとはせず、天皇の戦争責任も心のどこかに感じながらもなんとなく目をそむけてきたことに。さらに、この国のメディアも知識人の多くもそれを封印し続けてきたことに。否、封印どころか、南京大虐殺はなかったという言説が吹聴され、過去を書き消そうとする勢力が台頭しているのである。

 実際、ネットで「南京大虐殺」「百人斬り」と検索してみて唖然とした。これらが捏造であるとか論争中であると言った言説が渦巻いているのだ。何ということだろう。

 辺見氏は、戦後70年間、この国に民主主義などはなかったと喝破する。日本人は隣国で行った過去の残虐行為を封印し、天皇の戦争責任を問わなかったと。つまり、日本人は自分たちに都合の悪いことは徹底的に隠し、責任をとるということを避けてきたと。たしかに、その通りである。戦争責任もそうだし、福島の原発事故も誰も責任をとっていない。事故原因もうやむやのまま、事故の収束の見通しすらつかないのに、原発の再稼働を始めたのだ。この国では重大な被害をもたらした人為災害の原発事故ですら誰も責任をとらない。「責任をとらない」ことがあらゆるところで常態化し、人々もその状態に麻痺しているかのようだ。

 本書では、最後に日本人のもつ全体主義を2015年にこの国で起きていることへと繋げている。辺見氏は、反戦平和を訴える民衆を否定こそしないが、そこに加害者意識が抜け落ちていることを鋭く突き、被害者意識だけの反戦運動に物申す。日本人は、東京大空襲、沖縄戦、原爆投下の被害者ではあるが、その前の南京大虐殺では加害者である。その戦争加害者意識を置き去りにして被害ばかりを強調することに警告を発している。

 そして、辺見氏は今の日本の情景を以下のように表現する。(348ページ)

1★9★3★7のあらゆる問いは手つかずのままのこされ、数知れない遺体は年々、だたさらされて、しゅびよく風葬されている。敵はあきらかにきれめなく勝ちつづけている。どぶどぶの汚泥そのものの敵権力が、敵―味方の境界を消して、いつまでもさいげんもなく勝ちつづけている。敵はわたし(たち)のなかにこそいるからだ。

 戦争へと突き進む自民党政権がずっと勝ち続け、その勢いが国民にもじわじわと浸透してきていると。その通りだ。特定秘密保護法が通り、戦争法案も強引に通してしまった。そして安倍自民党政権は憲法改正を目論んで邁進している。現政権がずっと勝ち続けているのは何故なのか?

「敵はわたし(たち)のなかにこそいる」という言葉が頭からこびりついて離れない。わたし(たち)のなかにある敵とは何か? 日本人は、なぜ安倍政権の暴走を止められないのか。ここでもう一度、辺見氏の言葉を引こう。(373ページ)

 ニッポンジンは、はたして敗戦で「始めて自由なる主体となった」か、ニッポン軍国主義にはほんとうに終止符がうたれたのか、超国家主義の全体系の基盤たる「國體」は、かんぜんにあとかたもなく消滅したのか。だとしたら、安倍晋三なるナラズモノは、いったいなにから生まれ、なににささえられ、戦争法案はなぜいともかんたんに可決されたのか。「この驚くべき事態」は、じつは、なんとなくそうなってしまったのではない。ひとびとは歴史(「つぎつぎになりゆくいきほひ」)にずるずると押され、引きずりまわされ、悪政にむりやり組みこまれてしまったかにみえて、じっさいには、その局面局面で、権力や権威に目がくらみ、多数者はつよいものにおりあいをつけ、おべんちゃらをいい、弱いものをおしのけ、あるいは高踏を気どったり、周りを忖度したりして、今、ここで、ぜひにもなすべき行動と発言を控え、知らずにはすませられないはずのものを知らずにすませ、結局、ナラズモノ政治がはびこるこんにちがきてしまったのだが、それはこんにちのようになってしまったのではなく、わたし(たち)がずるずるとこんにちを「つくった」というべきではないのか。

 はたしてどれほどの日本人が権力や権威に目をくらませず、強いものに折り合いをつけず、おべんちゃらを言わず、弱いものを押しのけず、高踏を気どらず、周りを忖度しないように努めているのだろうか。はたして、どれだけの人が圧力を恐れずに言うべきことを言い、やるべきことをやっているのか・・・。

 もちろんこれらを実行している人がいないわけではない。しかし、発言しようと思えばできるにも関わらず、理屈をこねまわしては発言を避けている人が大多数ではなかろうか? あるいは「叩かれる」ことを恐れて自ら発言を抑えている人も多いように見受けられる。

 私自身は民主主義がなかったというより、自己保身のために長いものに巻かれ、責任をうやむやにすることで、国民が自ら民主主義を放棄してしまったと思えてならない。その無責任体質と全体主義の結果が、安倍政権の暴走を許してきたのだ。だからここが変わらないかぎり、この国は戦争へと足を踏み入れるだろうし、そしてそうなってしまったら私たちはほとんど無抵抗にそれを受け入れざるを得ない状態になるだろう。もう戦争は目の前に迫っている。

 権力批判、強いものへの批判は怖れる反面、弱い者への暴言や個人情報晒しによる「吊るしあげ」、「ネット死刑」が横行し、加害者と被害者が応報を繰り返す光景も日常茶飯事だ。加害者が、翌日には被害者になって吊るしあげられていることすらある。それを物見遊山に傍観しては嘲笑する人々・・・。おぞましい光景に寒気がする。そこには言葉による残虐性や暴力があるし、その残虐性こそ、過去の戦争での日本兵の残虐行為に通じるのではないか。しかも、そうした事態は平和を訴え戦争反対を唱える人たちの間でも起きているのだ。これこそが、日本人の中に潜む全体主義であり残虐性ではなのではないか。上っ面の反戦平和ではないのか・・・。私は最近、ずっとそんなことを考えている。

 戦争の危機が迫るこの年に出版した本書は、辺見氏の気迫がみなぎった渾身の書である。

 ただし、なにやらあまりに絶望的な書だ。とは言え、辺見氏のそうした見方に大きく反論できないのも事実だ。かといってこの危機的状況に怒りの声をあげ、反戦平和運動を繰り広げる人たちを批判的に眺め絶望にひたることも私はよしとしない。

 安倍政権は戦争へと着々と準備を進めている。戦争へと片足を突っ込んだ今、民衆が騒いだところですでに「時遅し」であるかもしれないし、人々がそう簡単に己の中の全体主義から抜け出せるとも思えない。しかし、ここで黙っているわけにはいかない。諦めるわけにもいかない。絶対にいかないと思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 16:47Comments(0)戦争・平和

2015年05月02日

日本人の曖昧さこそが安倍首相の暴走を許しているのではないか

 5月1日付の北海道新聞朝刊に「次世代の憲法 空気読み主流に同調」という記事が掲載されていた。

 就活に失敗しないために周りに合わせて黒のリクルートスーツを着用する若者たち。山田昌弘氏(中央大教授)によると、その背景には同じ会社で一生働き続けたいという若者たちの安定志向があるという。さらに経済的な不安からくる多数派への同調意識が、改憲容認の空気が広がる要因のひとつだと分析している。つまり今の若者たちは、大人たちの主流が改憲容認だと感じ取りそれに同調しているというのだ。

 これが事実なら、若者の親世代の意識が大きく問われることになるだろう。

 私の若い頃も「周りに合わせる」という傾向はたしかにはっきりとあった。みんなと同じにしていれば陰口も言われにくいし安心という風潮があったし、学校でも他の人と違う意見をはっきり言うのが憚られるような雰囲気があった。つまりは自分の意見を主張すれば批判されたりいざこざの原因になるから、周りに合わせて曖昧にしていることこそ賢いといった人たちが多かったと思う。友人と政治の話しをしないというのも今にはじまったことではない。

 そういう世代の人たちが親になり、自分の子ども達にも同じような生き方を求めたことが、今の若者の意識に大きな影響を与えているのではなかろうか?

 私が子育てをしていた頃、大半の親は率先して自分の子どもが他の子どもと違うことがないよう気を遣っていた。たとえば服装ひとつにしても周りの子どもと同じようなものを着せる。自転車などの持ち物も同じで、誰かがマウンテンバイクを買ってもらうと、親が次々とそれに同調してマウンテンバイクを買い与えるのだ。同じにしなければ可哀そうだ、仲間外れにされる、という理由で。「違うことで仲間外れにしてはならない」と教えるのではなく・・・。

 PTAの会合なども同じで、多数派に同調せず自分の意見をはっきり言うとたちまち批判の的になり、陰口が飛び交った。そして批判されないようにと声の大きな人に同調する人たちを目の当たりにした。子ども達の間のいじめと同じことが親の間でもまかり通っていた。むしろ、親世代にこそいじめの根源があるのではないかと思うこともあった。

 今の若者たちが異常なほど周りに同調することに気を遣い「空気を読む」ようになってしまったのは、親世代の意識が大きいと思わざるを得ない。親世代の人たちこそ議論を嫌って多数派に同調し、子どもにもそう仕向けてきたのであり、若者たちが保守化している要因は若者たちだけの問題では決してない。

 戦前・戦中は洗脳されて軍国少年へと突っ走った若者が大勢いたが、今はネットでさまざまな情報が手に入るようになった。若者こそネットを最大限に利用している。それにも関わらず、若者たちのネットはラインでつながることで安心を求めたり、あるいはネットで他者を叩くという歪んだ関わり方が多い。ネット時代の若者が、今の日本の危機的状況を察知できずに保守化に走ってしまうのは本当に恐ろしい。

 安倍首相は米国に自衛隊を差し出そうとしているが、若者達は戦争に行くのは自衛隊員だけだとでも思っているのだろうか? 自衛隊が軍隊となれば自衛官を希望する人も減るだろうし、徴兵も時間の問題だろう。米国を見ていれば分かるが、貧困層こそ戦争に駆り出される確率が高くなる。しかし、若者が今の流れに抵抗しようとせず、ただ自分の安定・安心だけを望むであれば、「自分さえよければ」という発想にほかならない。いじめと同じではないか。

 若者たちは日本が米国に追従するということがどれほど危険なことなのか本当に分かっていないのだろうか? たとえ正社員として安定した生活ができたとしても、自由に物も言えない監視社会になれば平穏な生活などなくなる。米国の戦争に加担すれば日本が攻撃されないとも限らないし、万一原発を攻撃されたらこの国はひとたまりもなく破滅の道を歩む。

 大江健三郎氏は1994年のノーベル賞受賞記念講演で「あいまいな日本の私」というタイトルで講演をした。今から20年前のことだ。

ノーベル賞受賞記念講演要約

 今の若者世代そしてその親世代の多くに共通しているのは、「周りに同調することで安心する」という極めて曖昧な日本人特有の思考ではなかろうか。それは未曽有の原発事故を起こした後も、ちっとも変わっていないように見える。あれほどの原発災害を起こし、原子力ムラの欺瞞が晒されてもなお危機感を持てず、「曖昧さ」から脱却できないのだとしたら、行きつくところまで行くしかないのだろう。

 平和とは黙っていて与えられるものでは決してない。常に権力者を監視し、権力者が暴走しないよう注意を払っていなければならない。平和憲法を守るのも放棄するのも国民一人ひとりの意識にかかっている。これほど危険な状況が迫っているというのに、日本人の多くが未だに曖昧であることに胡坐をかいてはいまいか?

 投票の行かない若者たちを批判するだけではどうしようもない。自民党政権を容認し続けてきた大人たちが曖昧さを捨て、本気で危機感を伝えなければ若者も目を覚ますことがないように思う。
  

Posted by 松田まゆみ at 22:02Comments(2)戦争・平和

2015年02月03日

イスラム国を生んだのは米国であり日本にも責任がある

 前回の記事で、「暴力を暴力で封じ込めようとしたなら憎しみが連鎖して泥沼にはまり込むだけだ。」と書いた。なぜなら、イスラム国という暴力集団はまさに暴力から生まれたからだ。そういう背景について分かりやすく説明しているのが、ジャーナリストの志葉玲さんの記事だ。

イスラム国は日米の外交・安全保障政策の失敗が産んだモンスター~暴走を止めるためにやるべきことは? 

 米軍はイラク戦争でなりふり構わず攻撃をし、子どもでも女性でも撃ちまくった。あの爆撃の映像を覚えている人は多いだろう。米軍の攻撃に怒りを燃やした多くのイラク人が、米軍を相手に武器を手にすることになった。米軍の容赦ない攻撃がイラクの人たちの憎悪を駆り立てたのだ。

 イラク戦争前のサダム政権は確かに人権問題では酷い状態だったが、イラクの人たちにとって米軍の攻撃は「サダムより酷い」と言わしめるものだった。そして、米国や日本が軍事的・経済的に支援した新生イラク政府は、米軍よりもさらに酷い拷問や虐殺を繰り返したと志葉氏は書いている。

 かつてイラクではイスラム教のシーア派もスンニ派も共存していた。ところがシーア派至上主義者が主導する新生イラク政府は、スンニ派はサダムの支持者であるとして激しい攻撃を加えた。シーア派によるスンニ派への暴行や虐殺が繰り広げられる中で、シーア派を容赦なく攻撃するイスラム国という過激な暴力集団が生まれたのだ。

 米国の圧倒的な軍事力を行使したイラク戦争が新政権の暴力を生み、新政権の暴力がイスラム国という暴力集団を生んだのだ。つまり、この暴力の連鎖の根っこには、米軍によりイラク戦争がある。米国の暴力がイラクの人たちの憎悪を煽り報復の世界をもたらしたのだ。紛れもなくここには暴力の連鎖、憎悪の連鎖がある。

 そして、日本はそのイラク戦争に無関係ではない。沖縄の米軍基地から、米軍がイラクへと出撃していったからだ。さらに米国のポチと化した安倍首相は、集団的自衛権の行使容認や改憲によって米軍へとすり寄ろうとしている。これでは、日本に恨みが向けられるのも当然といえるだろう。

 イスラム国などの過激派のおぞましい残虐行為に皆が憤り「テロに屈しない」と連呼する。あの残虐行為を許せないのは当たり前だが、残虐集団の誕生は日本と無関係ではない。安倍首相が中東で宣戦布告のような発言をしたら、暴力の矛先が日本へと向けられるのは必然とも言えるだろう。

 人質事件で最悪の結果を迎え安倍首相は「罪を償わせるために国際社会と連携していく」と報復とう受け取れる宣言をしたのだから、まさに憎悪の連鎖、暴力の連鎖に日本も加わると宣戦布告したようなものだ。安倍首相は、人質を殺した加害者を裁判にかけると弁明しているが、日本が米国に追従している以上、そんな言葉は虚しいだけだ。

 志葉さんは「集団的自衛権の行使や単なる米国追従では同じ間違いを繰り返すだけ。上記したように、少なくともイラクにおいては、イラク戦争やその後のイラク政府の暴挙の数々が招いた宗派間対立こそがISISに付けいる隙を与えている。もし、日本を含む国際社会が強く働きかけ、イラク政府が全ての宗派や民族の融和と和解を進めるにようになれば、ISISも弱体化していくだろう」と書いている。

 ほんとうにその通りだと思う。志葉さんはイスラム国を「モンスター」と言っているが、それはあくまでも比喩であり、かれらは言葉の通じる人間であることは間違いない。イスラム国が残虐極まりない行為をしているのは事実だが、以前はスンニ派もシーア派もあれほどにまで憎しみ合っていなかったのだ。対話、和解での解決が不可能とは思えない。憎悪と報復の連鎖ではこの悪循環を断ち切ることはできず、泥沼にはまり犠牲者を増やすだけだ。

 安倍首相はまさにその泥沼に片足を踏み込んだ。安倍首相を選んだ国民しかこれを止めることはできないだろう。私たち国民の責任は大きい。
  


Posted by 松田まゆみ at 15:47Comments(0)戦争・平和

2015年02月01日

暴力から生じるのは憎しみの連鎖でしかない

 ここ数日、朝目覚めるたびに後藤さん開放のニュースが流れることを願っていたが、今朝はその願いもむなしく悲報を知った。残念でならない。

 今回の湯川さんと後藤さんの人質事件については前回の記事でも触れたが、昨年秋に彼らを救うことは不可能ではなかった。湯川さんがイスラム国の裁判にかけられるということで、9月には常岡浩介さんと中田考さんが通訳のためにイスラム国の支配地に行っているが、空爆などで湯川さんに会うことができなかった。

 しかも、彼らは帰国してから北大生のことに絡んで警察から事情聴取を受け、イスラム国と連絡ができない状況になってしまった。この時期にイスラム国と連絡をとって対処していたなら、殺害の対象にはならなかっただろう。

 常岡さんと中田さんの身動きがとれない中、湯川さんの救出に向かったのが後藤さんだ。おそらく後藤さんはイスラム国の危険性を十分に知りながらも、自分たちが殺される可能性は低いと考えていたのだろう。日本は平和憲法があり、イスラム国を攻撃する敵国だという認識はなかったはずだ。

 しかし、安倍首相の中東訪問での宣戦布告ともいえる発言が彼らを硬直させ、方針を転換させることになったのは想像に難くない。あの発言によって、湯川さんと後藤さんは人質として殺害対象にされてしまったのだ。

 この危機的状況から二人を救いだす方法は皆無ではなかった。常岡さんも中田さんも自らイスラム国との交渉役を申し出たからだ。彼らに交渉を委ねていたなら、湯川さんと後藤さんは助かっていたかもしれない。しかし、日本政府はイスラム国との直接的な交渉手段を持たないにも関わらず、彼らの申し出を無視してしまった。これが、湯川さん殺害の引き金になった。本気で国民の救出に全力を尽くしたとはとても言えない。

 そして、身代金が取り下げられてヨルダンで拘束されている死刑囚の開放が後藤さん開放の条件になってしまった。日本政府は直接交渉の場すら奪われ、後藤さんの命はヨルダン政府の交渉に委ねられてしまった。

 こうやって見て行くと、失敗の積み重ねによって救出可能だった人が殺害されてしまったと言っても過言ではないだろう。

 相も変わらず自己責任を口にする人は多いが、国が国民の命を救うのは当然のことだ。自己責任で行う登山などでも、事故が起きてしまったなら懸命な救助をする。危険なところに行った自己責任はあるが、だからといって見殺しにしていいということにはならない。そこを履きちがえるのは責任転嫁でしかない。

 イスラム国が後藤さんを殺害したときのメッセージは以下だ。安倍首相はテロリストを完全に敵に回してしまった。

日本政府よ 邪悪な有志連合を構成する愚かな同盟諸国のように お前たちはまだ我々がアラーの加護により 権威と力を持ったカリフ国家であることを理解していない 軍すべてがお前たちの血に飢えている 安倍(首相)よ 勝ち目のない戦争に参加するという無謀な決断によって このナイフは健二だけを殺害するのではなく お前の国民はどこにいたとしても殺されることになる 日本にとっての悪夢を始めよう

 安倍首相は彼らの救出に失敗した自分の責任を棚に上げ、バカの一つ覚えのように「テロに屈しない」という言葉を繰り返した。そして後藤さんが殺害された今、「テロリストたちを決して許さない。罪を償わせるために国際社会と連携していく」と語った。この言葉は報復ととれるものであり、暴力に対して暴力で対処すると言っているようなものだ。まさに悪夢であり、最悪だ。

 暴力を暴力で封じ込めようとしたなら憎しみが連鎖して泥沼にはまり込むだけだ。罪のない二人を惨殺するというイスラム国の行為を容認できないのは当たり前だが、暴力での対処を宣言するのは火に油を注ぐことにしかならない。

 暴力の連鎖を絶つためには、安倍首相の暴走を食い止めて平和憲法を堅持し、集団的自衛権の行使を認めないことに尽きると思う。後藤さんの母親の石堂順子さんも悲しみの中で「憎悪の連鎖になってはならない」と言っている。安倍首相には石堂さんの言葉を胸に刻んでほしい。
  

Posted by 松田まゆみ at 16:32Comments(0)戦争・平和

2014年12月22日

忍び寄る全体主義に潜む恐るべき策謀

 安倍政治について作家の辺見庸氏が以下のような発言をしている。

安倍政治を問う〈11〉目を見開き耳澄ませ 作家・辺見庸さん(神奈川新聞)

 冒頭に書かれているように、今回の選挙は実に策謀的だった。アベノミクスの虚像がバレる前に延命を図ろうという意図があったことは言うまでもない。だから消費税増税時期の先延ばしという意味不明な理由で解散総選挙に踏み切った。選挙戦が始まると国民の関心を経済政策に向け、改憲や原発再稼働などは争点から逸らしてしまった。そして選挙戦が終わった途端に改憲への意欲を口にした。

 さらに、投票率の低下を期待したとしか思えない年末の選挙やマスコミへの圧力。小渕優子氏の関連団体がHDを破壊していたことも、選挙戦が終わってから公表された。マスコミとグルになっているとしか思えない。どれをとっても策謀的というほかない。

 つまり安倍首相は小選挙区制という選挙制度を最大限に利用し国民を騙して戦争をする国へと着々と準備をしているのであり、詐欺師同然だ。しかし、今は「詐欺師が悪い」などと批判している場合ではない。いかに国民が騙されないようにするかが問われている。

 このインタビュー記事の中で、辺見氏は以下のように発言している。

「日本国憲法、9条は自明の事実として正当性を語る必要はなく、徹底的な反戦主義に俺たちは生き方を合わせることができた。そうやって過ごしてきたことが、俺は見込み違いだったと思う」

「日本の思想、文化、メディアを含め、平和憲法、9条というモラルスタンダードの補強作業をしてこなかった。安楽死だ。闘ってこなかったんだ」

 私たちは平和憲法によって何ら努力しなくても平和が保てると思いこみ、何もしてこなかった。しかし、常に権力者を監視し、騙されないように五感を研ぎ澄まし、憲法9条を必死で守る努力をしない限り簡単に平和憲法は安楽死してしまうのだ。今回の選挙は国民がいかにたやすく騙されてしまうかを如実に物語たっている。

 秘密保護法も施行されてしまった。これからはじわじわと権力者に楯突く人々の口を封じるようなことが起きるのだろう。そうしておいてから憲法を改悪していつでも国民を戦争に駆り出せるようにしようとしているとしか思えない。一方で若者の貧困層を増やして兵士へと誘導する。米国と同じやり方だ。安倍首相が考えている今後の策謀を見据えないと簡単に全体主義に引きずりこまれてしまうだろう。

 じわじわと戦前のような社会になりつつある。それにも関わらず、未だにアベノミクスを評価し、自民党政権に期待する呑気な者がいると思うと鳥肌が立つ。

 安倍首相の策謀だけを見抜ければよいというものではない。安倍首相暴走の背後に米国が控えているのは言うまでもない。米国の策謀のことも考えると、背筋が凍る思いだ。以下、元朝日新聞記者でフリージャーナリストの吉竹幸則氏の記事を是非お読みいただきたい。

秘密保護法、集団的自衛金のあまりに危険な実態、ジョセフ・ナイ元米国防次官補の語る日米軍事戦略(MEDIAA KOKUSYO)

 ジョセフ・ナイ元米国防次官補は、もし米国と中国の全面戦争になった場合、米国は中国からの攻撃に備え日本の自衛隊を使いたいという思惑があるという。日本が戦争をできる国になれば、日本列島の米軍基地が少なくなって日本の基地となり、米国と日本の部隊が一緒に配備される可能性があるというのだ。このようなナイ氏の発言から、著者の吉竹幸則氏は米国と中国の全面戦争が起きた場合、日本全土の自衛隊基地が米軍基地化すると指摘する。しかも最悪の場合は核戦争だ。

 ここに書かれていることはもちろん推測の域を出ないし最悪の場合だ。しかし米国の策謀を考えたならあり得ないとは言い切れないし、常に最悪の事態を考えていなければならないということを私たちは福島の原発事故で学んだ。もし米国と中国との間で戦争が勃発したなら、自衛隊は米軍にいいように使われ、自衛隊基地から中国に米軍の爆撃機が向かうということになりかねない。日本列島は米国の捨て石にされ、戦場と化す可能性すらある。核兵器が使用された場合は日本は完全に壊滅するだろう。安倍首相の暴走がいかに恐ろしいものかが透けて見える。

 今私たちがしなければならないのは、安倍首相や米国の策謀を読み、そのことを広く知ってもらうことではなかろうか。安倍首相の目論む集団的自衛権の行使と改憲は、日本人が米国の手足になって戦争をするということであり、場合によっては日本列島が米国の捨て石にされて戦場と化すことを意味する。

 今回の衆院選で沖縄だけはすべての選挙区で自民党以外の候補が当選した。先の戦争で本土の捨て石とされ多くの犠牲を出し、今も基地問題を抱える沖縄の人たちは、戦争へと暴走する安倍政権の危険性を敏感に感じ取っているのだろう。のほほんとバラエティ番組など見ている場合ではないことを、どれだけの日本人が分かっているのだろうか。
  


Posted by 松田まゆみ at 20:40Comments(2)戦争・平和

2013年05月19日

若い人たちに知ってもらいたい慰安婦問題

 橋下徹大阪市長の従軍慰安婦に関する暴言、つまり「あれだけ銃弾が雨・嵐のように飛び交う中で、命をかけて走っていく時に、猛者集団、精神的に高ぶっている集団をどこかで休息させてあげようと思ったら、慰安婦制度というものが必要なのは誰だって分かる」、あるいは普天間飛行場の視察の際に、司令官に「合法的に性的なエネルギーを解消できる場所が日本にはある。真正面から風俗業を活用してもらわないと、海兵隊の猛者の性的なエネルギーをコントロールできない」という発言だ。このニュースを聞いたとき「もうこの人は終わっている」という感じで、呆れ果ててブログに書く気もしなかった。

 「慰安婦」などというのはまやかしの表現であり、彼女らは性奴隷にほかならない。戦争を想定していながら「戦争」とは言わすに「有事」などという曖昧な表現で誤魔化してしまうのと似ている。被害者となった女性たちは騙されたり強制連行によって集められ、一日に何十人という兵士の性の相手をさせられたのだ。いたいけな少女も多く、考えるだけでもおぞましい犯罪行為だ。もちろんこうした事実は多くの証言によって裏付けられている。

 米軍の司令官に対する発言にしても、よくこんなことを恥ずかしげもなく言えるものだ。司令官だってこんな非常識かつ破廉恥なことを言われ、さぞかしびっくり仰天しただろう。これらの発言は女性に対する蔑視、人権侵害であることは言うまでもないが、男性をも侮辱する発言だ。

 橋下氏の発言は、戦争をも肯定し、性奴隷という犯罪を容認するあまりに無知蒙昧で人格を疑う暴言である。こんな人物が市長であり、政党の共同代表であり、弁護士であるというのだから、これほど恥ずかしいこともない。大多数の人から批判されるのは当然のことだ。

 ところが、ご本人は批判されると「慰安所を認めたわけではない」と矛盾した言い訳に終始し、さらに自分の発言を撤回するどころか開き直って「マスコミの誤報」とか「国民の読解力不足」と、マスコミや国民に責任を押し付けてしまった。これでは事態が悪化するだけだが、それも分からないらしい。

 橋下氏は18日に、国会議員に「誤解も含めて、意図しない形で伝わり、国会議員にも迷惑を掛けたことは申し訳ない」と陳謝したという。これだけ批判を浴びても、未だに「誤解も含めて、意図しない形で伝わり」と、自らの暴言を撤回しないようだ。もちろん、彼は辞任をするなどという考えは毛頭ないのだろう。

 今日の新聞では、元従軍慰安婦の二人が沖縄と広島での集会に出席し「自分の娘を(慰安婦として)送ることができるのか」と話したそうだ。橋下氏は元慰安婦に会うとのことだが、彼女らに会う前に発言の撤回と謝罪をしないのなら、面会を果たすことによってなんとか名誉回復を図るつもりだろうだと受け止められても仕方ない。

 安倍首相は憲法を改悪して戦争のできる国にしようと必死になっている。しかし、慰安婦問題は戦争と切っても切り離せない。ここにきて、戦後生まれの親に育てられた若い人たちは果たしてどれほど従軍慰安婦について知っているのだろうかとふと思った。

 今回の橋下発言をきっかけに、とりわけ若い人たちには以下のブログなどで慰安婦問題やその背景について認識してほしいと思わずにいられない。

維新の会橋下共同代表の性暴力発言弾劾! (明日に向けて)
軍隊「慰安婦」問題と福島原発事故は底流でつながっている! (明日に向けて)
【再掲】台湾のおばあさんたちのこと(性奴隷問題被害者の素顔を知ってください!) (明日に向けて)
「慰安婦と兵隊」に寄せて (明日に向けて)

橋下氏の暴言 (inti-solのブログ)
あまりの矛盾(続・橋下氏の暴言) (inti-solのブログ)
いったい何が誤報なのか (inti-solのブログ)

  


Posted by 松田まゆみ at 15:54戦争・平和