鬼蜘蛛の網の片隅から › 環境問題
2024年07月26日
生物多様性の消失と人類の未来
このところ私のブログは昆虫の紹介ばかりになっている。散歩がてらに撮影した虫やクモをアップするのは単に私の趣味ということもあるが、身近なところに素晴らしい生物の世界があることを知ってもらいたいという想いもある。おそらく世の中の多くの人が虫嫌いではないかと思うのだが、さまざまな昆虫写真を紹介することで、少しでもその「嫌い」が取り除けるのなら嬉しいと思っている。
私自身、子どもの頃から昆虫が好きだったけれど、虫採りの対象はチョウやトンボ、甲虫類が主だった。蛾は大嫌いというほどではないけれど、あまり興味は持てなかった。しかし、ここ数年、蛾の写真を撮るようになってから、蛾の世界に惹かれるようになった。夜行性のものが多く、地味で胴体が太くて何となく近寄りがたいというイメージはまさに思い込みでしかなかった。実際に蛾の写真を撮るようになり、非常に美しい色彩や斑紋を持ったもの、複雑で繊細な模様をしているものなど、決して地味な種ばかりではないことを知った。特に小蛾類は、金色や銀色の斑紋を持っているなど、小さいながら目を見張るような美しい蛾がいる。そして、蛾は実に種類が多い。その多様性にも惹かれる。もちろんそれは蛾に限ったことではなく、ハチやハエなどの小さな虫たちにも言える。
ところが、私たち人類は生物の多様性を破壊しつづけている。私が学生の頃、登山のために大雪山の麓の愛山渓温泉に泊ったことがある。ここはチョウを採集する人たちには人気のスポットのようで、チョウの愛好家の学生が数人泊っており、夜に部屋に呼ばれて話し込んだことがある。彼ら曰く、ここでもチョウが減っていると言っていた。今から四十数年前のことだ。今はさらに減ってしまったに違いない。虫など何の興味もない人にとってはチョウが減っていることなど気づきもしないのだろうけれど、チョウに限らず多くの昆虫が知らず知らずのうちに減っている。もちろん、その減少には人が大きく関わっている。
【参考記事】
「昆虫は絶滅の危機に瀕している」ことがアマチュアグループの長期的調査のデータから明らかに
虫などいなくなっても何の問題もない、などと思っている人もいるかもしれない。しかし、それはとんでもない間違いだ。生物は多様な種が複雑に関わり合いながら生態系をつくっている。もちろん、人類もその生態系の一員だ。自然破壊や環境汚染は生物が生きていく基盤を破壊することに他ならない。人が森林を伐採したり、湿原を埋め立てたり、海を汚染して自然を破壊してしまえば、生物の多様性は失われ、生態系のバランスが崩れることになる。農薬や化学物質などで激減した生物もいるだろう。いったい人類はどれほどの生物を激減させ絶滅に追い込んだのだろうかと思うと、背筋が寒くなる。
生物多様性を損なうことを続けていれば、やがて人類の生存も脅かされることになるだろう。例えば、花粉を媒介する訪花性昆虫が減れば、野菜や果樹が実をつけなくなるかもしれない。農地の微生物は農薬や化学肥料の大量使用で減り、土壌が劣化している。レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を著して農薬の使用に警鐘を鳴らしてから62年が経つが、彼女の警告が現実のものになりつつある。
昆虫の減少の原因は自然破壊や農薬だけではない。近年は5Gの基地局の設置が日本全国で進められているが、5Gの電磁波も昆虫をはじめとした生物に悪影響を与えると言われている。LED照明も然り。もちろん人間の健康被害も懸念されている。
一度絶滅してしまった生物は、蘇らせることはできない。そして、どんな生物種もあるべくしてこの世に存在している。今は分かっていなくても、私たちが生きていく上でなくてはならない生物もいるだろう。どれほどの時間をかけて進化したのか分からない尊い生き物たちを、人というたった一種の生物が次々と絶滅に追い込んでいるのだから、実に罪深い。多様な生物との共存を目指さなければ、人類の未来も危ういものになるだろうに。だからこそ、虫を見ただけで大騒ぎをし、殺虫剤を持って追いかけるようなことはやめてほしいと思う。
農業も大規模化が進んだが、農薬と化学肥料に頼る農業は見直していかなければならないだろう。農薬も肥料も使わずに立派な野菜を育てている農家の人もいるのだから、国が本気でそのような農家を支援すれば、変えていくことは不可能ではない。人類は環境を破壊しすぎたし、汚染しすぎた。
毎日のように小さな生き物の写真を撮りながら、こんなに多種多様な生物を生み出した地球の奇跡に驚嘆し、生物多様性の奥深さや重要さを噛みしめている。
私自身、子どもの頃から昆虫が好きだったけれど、虫採りの対象はチョウやトンボ、甲虫類が主だった。蛾は大嫌いというほどではないけれど、あまり興味は持てなかった。しかし、ここ数年、蛾の写真を撮るようになってから、蛾の世界に惹かれるようになった。夜行性のものが多く、地味で胴体が太くて何となく近寄りがたいというイメージはまさに思い込みでしかなかった。実際に蛾の写真を撮るようになり、非常に美しい色彩や斑紋を持ったもの、複雑で繊細な模様をしているものなど、決して地味な種ばかりではないことを知った。特に小蛾類は、金色や銀色の斑紋を持っているなど、小さいながら目を見張るような美しい蛾がいる。そして、蛾は実に種類が多い。その多様性にも惹かれる。もちろんそれは蛾に限ったことではなく、ハチやハエなどの小さな虫たちにも言える。
ところが、私たち人類は生物の多様性を破壊しつづけている。私が学生の頃、登山のために大雪山の麓の愛山渓温泉に泊ったことがある。ここはチョウを採集する人たちには人気のスポットのようで、チョウの愛好家の学生が数人泊っており、夜に部屋に呼ばれて話し込んだことがある。彼ら曰く、ここでもチョウが減っていると言っていた。今から四十数年前のことだ。今はさらに減ってしまったに違いない。虫など何の興味もない人にとってはチョウが減っていることなど気づきもしないのだろうけれど、チョウに限らず多くの昆虫が知らず知らずのうちに減っている。もちろん、その減少には人が大きく関わっている。
【参考記事】
「昆虫は絶滅の危機に瀕している」ことがアマチュアグループの長期的調査のデータから明らかに
虫などいなくなっても何の問題もない、などと思っている人もいるかもしれない。しかし、それはとんでもない間違いだ。生物は多様な種が複雑に関わり合いながら生態系をつくっている。もちろん、人類もその生態系の一員だ。自然破壊や環境汚染は生物が生きていく基盤を破壊することに他ならない。人が森林を伐採したり、湿原を埋め立てたり、海を汚染して自然を破壊してしまえば、生物の多様性は失われ、生態系のバランスが崩れることになる。農薬や化学物質などで激減した生物もいるだろう。いったい人類はどれほどの生物を激減させ絶滅に追い込んだのだろうかと思うと、背筋が寒くなる。
生物多様性を損なうことを続けていれば、やがて人類の生存も脅かされることになるだろう。例えば、花粉を媒介する訪花性昆虫が減れば、野菜や果樹が実をつけなくなるかもしれない。農地の微生物は農薬や化学肥料の大量使用で減り、土壌が劣化している。レイチェル・カーソンが「沈黙の春」を著して農薬の使用に警鐘を鳴らしてから62年が経つが、彼女の警告が現実のものになりつつある。
昆虫の減少の原因は自然破壊や農薬だけではない。近年は5Gの基地局の設置が日本全国で進められているが、5Gの電磁波も昆虫をはじめとした生物に悪影響を与えると言われている。LED照明も然り。もちろん人間の健康被害も懸念されている。
一度絶滅してしまった生物は、蘇らせることはできない。そして、どんな生物種もあるべくしてこの世に存在している。今は分かっていなくても、私たちが生きていく上でなくてはならない生物もいるだろう。どれほどの時間をかけて進化したのか分からない尊い生き物たちを、人というたった一種の生物が次々と絶滅に追い込んでいるのだから、実に罪深い。多様な生物との共存を目指さなければ、人類の未来も危ういものになるだろうに。だからこそ、虫を見ただけで大騒ぎをし、殺虫剤を持って追いかけるようなことはやめてほしいと思う。
農業も大規模化が進んだが、農薬と化学肥料に頼る農業は見直していかなければならないだろう。農薬も肥料も使わずに立派な野菜を育てている農家の人もいるのだから、国が本気でそのような農家を支援すれば、変えていくことは不可能ではない。人類は環境を破壊しすぎたし、汚染しすぎた。
毎日のように小さな生き物の写真を撮りながら、こんなに多種多様な生物を生み出した地球の奇跡に驚嘆し、生物多様性の奥深さや重要さを噛みしめている。
タグ :生物多様性
2024年07月03日
香害という公害
我が家には香料の入った製品はほぼない。私が香料に過敏で匂いで体調を崩してしまうために、香料の入った製品を買わないようにしているからだ。洗濯や台所用の洗剤は香料無添加の粉せっけん、洗面所やお風呂の固形石鹸も香料無添加、シャンプーは湯シャンなので使わない。トイレの洗剤の匂いがきつくて辛かったが、これはクエン酸に変えることで解決した。化粧はほぼしないが、稀に化粧をするときは香料無添加のもの。化粧水は精製水ににがりを入れたにがり化粧水を使っている。
子どもの頃は洗剤などに含まれる香料はさほど気にならなかったが、次第に香料で具合が悪くなるようになった。たとえば電車の中での化粧品の匂い。若い頃は電車で通学、通勤をしていたが、女性専用車は化粧品の香りが充満していて気持ちが悪くなるのでなるべく避けていた。決定的に香りがダメだと悟ったのは、若い頃に入っていた合唱団の公演のとき。化粧をした女性の集団の中でライトを浴びているうちに頭痛と吐き気に襲われて立っていられなくなり、そっと舞台の袖に引っ込んだ。
今は北海道の片田舎に住んでいて人混みにはほとんど行かないので、こうした香りによる被害はほぼなくなったが、それでも外を歩いていて少しだけ開けた窓から室内干しの柔軟剤の匂いが漂ってくるだけで、足早に通り過ぎる。柔軟剤がいつ頃から流行り始めたのか覚えていないが、柔軟剤の匂いは香料過敏症の人にとっては強烈で、一刻も早くその場から離れたくなる。
恐らく柔軟剤が登場してからだと思うが、それまで以上に匂いで体調を崩す「香害」を訴える人が多くなったように思う。柔軟剤には香り成分を閉じ込めるマイクロカプセルが用いられていることが関係しているのだろう。マイクロカプセルを衣類に付着させ、香りをより長く維持しようということのようだが、当然、人がそれを吸い込むことになる。
柔軟剤の香りが好きな人にとってはその香りが心地よいのかもしれないが、香りに過敏な人は頭痛や吐き気などで大変なことになる。実際に、外出できなくなってしまう人もいるという。ある人にとっては心地よくても、一部の人にとっては害悪でしかない。それに、今は心地よいと思っている人も、日常的に大量の化学物質を吸い込んでいることに変わりはなく、健康にいいわけがない。今は大丈夫でも、そのうち何等かの悪影響が出てくるのではなかろうか。匂いに過敏な人は「炭鉱のカナリア」なのだから、過敏症の人が増えてきているということは、「このままだと危険」だと警告していることに他ならない。
衣類に香りがなければ困るなどということは決してない。一部の人の好みのために、有害な化学物質をまき散らして他者の健康を害するのであれば、公害でしかない。なぜそこまでして衣類に香りをつけようとするのか、私にはさっぱり分からない。
国が洗剤や柔軟剤などへの香料の添加を禁止すればいいだけの話なのだが、なぜか一向にそのような方向に向かわない。多くの人がマイクロカプセルという化学物質を吸い込んでしまっていることの危険性を認識するべきだと思う。
洗剤や柔軟剤、化粧品などに含まれる香りが好きな人がいるのは分かるけれど、すでに「公害」となっている以上、使用を慎んでほしいと痛切に思う。
子どもの頃は洗剤などに含まれる香料はさほど気にならなかったが、次第に香料で具合が悪くなるようになった。たとえば電車の中での化粧品の匂い。若い頃は電車で通学、通勤をしていたが、女性専用車は化粧品の香りが充満していて気持ちが悪くなるのでなるべく避けていた。決定的に香りがダメだと悟ったのは、若い頃に入っていた合唱団の公演のとき。化粧をした女性の集団の中でライトを浴びているうちに頭痛と吐き気に襲われて立っていられなくなり、そっと舞台の袖に引っ込んだ。
今は北海道の片田舎に住んでいて人混みにはほとんど行かないので、こうした香りによる被害はほぼなくなったが、それでも外を歩いていて少しだけ開けた窓から室内干しの柔軟剤の匂いが漂ってくるだけで、足早に通り過ぎる。柔軟剤がいつ頃から流行り始めたのか覚えていないが、柔軟剤の匂いは香料過敏症の人にとっては強烈で、一刻も早くその場から離れたくなる。
恐らく柔軟剤が登場してからだと思うが、それまで以上に匂いで体調を崩す「香害」を訴える人が多くなったように思う。柔軟剤には香り成分を閉じ込めるマイクロカプセルが用いられていることが関係しているのだろう。マイクロカプセルを衣類に付着させ、香りをより長く維持しようということのようだが、当然、人がそれを吸い込むことになる。
柔軟剤の香りが好きな人にとってはその香りが心地よいのかもしれないが、香りに過敏な人は頭痛や吐き気などで大変なことになる。実際に、外出できなくなってしまう人もいるという。ある人にとっては心地よくても、一部の人にとっては害悪でしかない。それに、今は心地よいと思っている人も、日常的に大量の化学物質を吸い込んでいることに変わりはなく、健康にいいわけがない。今は大丈夫でも、そのうち何等かの悪影響が出てくるのではなかろうか。匂いに過敏な人は「炭鉱のカナリア」なのだから、過敏症の人が増えてきているということは、「このままだと危険」だと警告していることに他ならない。
衣類に香りがなければ困るなどということは決してない。一部の人の好みのために、有害な化学物質をまき散らして他者の健康を害するのであれば、公害でしかない。なぜそこまでして衣類に香りをつけようとするのか、私にはさっぱり分からない。
国が洗剤や柔軟剤などへの香料の添加を禁止すればいいだけの話なのだが、なぜか一向にそのような方向に向かわない。多くの人がマイクロカプセルという化学物質を吸い込んでしまっていることの危険性を認識するべきだと思う。
洗剤や柔軟剤、化粧品などに含まれる香りが好きな人がいるのは分かるけれど、すでに「公害」となっている以上、使用を慎んでほしいと痛切に思う。
2023年09月14日
人間活動による地球温暖化の何が問題なのか
何度も書いているが、私は世界経済フォーラムの提唱するグレートリセットによって人口削減が実行されていると考えている。なぜ彼らが人口を減らしたいのかといえば、このまま人口が増加し続けたら地球温暖化をはじめとする環境問題、食料危機、エネルギー危機に対処できないからだと考えている。
しかし、X(Twitter)を見ていると、地球温暖化は詐欺だとか、二酸化炭素はまだまだ増えても大丈夫とか、温暖化しても問題ないなどという意見が絶えない。今起きている人間活動による地球温暖化の何が問題なのかを十分に理解していないために、このような意見になるのではないかと思うようになった。そこで、今起きている人間活動による地球温暖化がなぜ問題視されているのか説明しておきたい。
地球は過去に少なくとも3回、全球凍結したとされている。
「カンブリア爆発」前夜の全球凍結、生物への影響を明らかに 東北大など
私は、全球凍結のことは田近英一氏の「凍った地球」(新潮選書)を読んで知った。上記の記事にもあるように、このような大規模な地球環境の変動は火山活動による二酸化炭素濃度が原因だと考えられている。地球温暖化の主たる原因は二酸化炭素の増加であることは間違いないだろう。
もちろん過去には今より温暖な時代があったのも間違いない。しかし、だからといって今の温暖化は問題ないということにはならない。今の温暖化の最大の問題は、二酸化炭素の放出速度の違いだ。以前にも書いたが、人類活動による二酸化炭素の放出速度は火山活動による放出速度の約300倍と言われている。その結果、急激な温暖化が生じているのだ。
「凍った地球」の最後(191ページ)でそのことに触れられている。例えば気温の上昇によって土壌中に蓄積されている有機物の微生物による酸化分解が促進され、大量の二酸化炭素が大気中に放出されるかもしれない。永久凍土が解けることで大量のメタンハイドレートが分解するかもしれないし、海水温の上昇によって海底のメタンハイドレートの分解が生じるかもしれない。また、温暖化によって南極やグリーンランド氷床の大規模な崩壊が起きるかもしれない。地球史を振り返ると、大規模な氷床の崩壊とそれによる海面上昇は突然かつ急激に生じたことが知られているという。
また、川崎健氏は「イワシと気候変動」(岩波新書)で、温暖化によって海洋の熱塩循環が閉鎖され、地球の気候が暴走する恐れがあると指摘している。いわゆる臨界点(ティッピング・ポイント)に達してしまうと、気候が暴走する懸念があるし、その結果何が起きるのか予測は困難だ。今起きている人為的温暖化で懸念されるのはそういうことだ。
私は北海道の地方の町に住んでいるが、ここ40年ほどの間に明らかに温暖化している。かつてはマイナス25度以下になる日が一冬に何度もあったが、今ではほとんどなくなってしまった。冬の最低気温は明らかに上昇している。また、夏も蒸し暑い日が多くなり、ずいぶん変わってしまったと肌で感じる。エアコンなどつけている家はほとんどないので室外機からの暖気は関係ないし、ヒートアイランド現象も関係がない。ほんの数十年でこれだけ温暖化するというのはかなりの速度だと思う。
昨今は毎年のように異常気象が話題になっているが、このような異常気象は農作物に大きな影響を及ぼすことがある。海水温の上昇も魚などの海洋生物に影響を及ぼし、人々の食料供給にも関わってくる。台風の大型化も集中豪雨も災害を引き起こす。臨界点を越えて気候が暴走すれば、さらに何が起きるのか分からない。
今は氷期の中の間氷期だが、次の寒冷期がくるとしても何千年も先のことになる。したがって、何の手も打たずこのまま温暖化が続けば、人類への影響は計り知れないのではないかと懸念している。もちろん、予想している最悪の状況にはならないかもしれないが、何が起きるのかは誰にも分からない。地球温暖化を軽視するのはとても危険だと私は考えている。
しかし、X(Twitter)を見ていると、地球温暖化は詐欺だとか、二酸化炭素はまだまだ増えても大丈夫とか、温暖化しても問題ないなどという意見が絶えない。今起きている人間活動による地球温暖化の何が問題なのかを十分に理解していないために、このような意見になるのではないかと思うようになった。そこで、今起きている人間活動による地球温暖化がなぜ問題視されているのか説明しておきたい。
地球は過去に少なくとも3回、全球凍結したとされている。
「カンブリア爆発」前夜の全球凍結、生物への影響を明らかに 東北大など
私は、全球凍結のことは田近英一氏の「凍った地球」(新潮選書)を読んで知った。上記の記事にもあるように、このような大規模な地球環境の変動は火山活動による二酸化炭素濃度が原因だと考えられている。地球温暖化の主たる原因は二酸化炭素の増加であることは間違いないだろう。
もちろん過去には今より温暖な時代があったのも間違いない。しかし、だからといって今の温暖化は問題ないということにはならない。今の温暖化の最大の問題は、二酸化炭素の放出速度の違いだ。以前にも書いたが、人類活動による二酸化炭素の放出速度は火山活動による放出速度の約300倍と言われている。その結果、急激な温暖化が生じているのだ。
「凍った地球」の最後(191ページ)でそのことに触れられている。例えば気温の上昇によって土壌中に蓄積されている有機物の微生物による酸化分解が促進され、大量の二酸化炭素が大気中に放出されるかもしれない。永久凍土が解けることで大量のメタンハイドレートが分解するかもしれないし、海水温の上昇によって海底のメタンハイドレートの分解が生じるかもしれない。また、温暖化によって南極やグリーンランド氷床の大規模な崩壊が起きるかもしれない。地球史を振り返ると、大規模な氷床の崩壊とそれによる海面上昇は突然かつ急激に生じたことが知られているという。
また、川崎健氏は「イワシと気候変動」(岩波新書)で、温暖化によって海洋の熱塩循環が閉鎖され、地球の気候が暴走する恐れがあると指摘している。いわゆる臨界点(ティッピング・ポイント)に達してしまうと、気候が暴走する懸念があるし、その結果何が起きるのか予測は困難だ。今起きている人為的温暖化で懸念されるのはそういうことだ。
私は北海道の地方の町に住んでいるが、ここ40年ほどの間に明らかに温暖化している。かつてはマイナス25度以下になる日が一冬に何度もあったが、今ではほとんどなくなってしまった。冬の最低気温は明らかに上昇している。また、夏も蒸し暑い日が多くなり、ずいぶん変わってしまったと肌で感じる。エアコンなどつけている家はほとんどないので室外機からの暖気は関係ないし、ヒートアイランド現象も関係がない。ほんの数十年でこれだけ温暖化するというのはかなりの速度だと思う。
昨今は毎年のように異常気象が話題になっているが、このような異常気象は農作物に大きな影響を及ぼすことがある。海水温の上昇も魚などの海洋生物に影響を及ぼし、人々の食料供給にも関わってくる。台風の大型化も集中豪雨も災害を引き起こす。臨界点を越えて気候が暴走すれば、さらに何が起きるのか分からない。
今は氷期の中の間氷期だが、次の寒冷期がくるとしても何千年も先のことになる。したがって、何の手も打たずこのまま温暖化が続けば、人類への影響は計り知れないのではないかと懸念している。もちろん、予想している最悪の状況にはならないかもしれないが、何が起きるのかは誰にも分からない。地球温暖化を軽視するのはとても危険だと私は考えている。
タグ :地球温暖化
2023年04月30日
グレート・リセットと地球温暖化否定論
コロナワクチンを打ち始めてから突然亡くなる人が増え、体調を崩す人が増え、超過死亡が増えた。そして、次々とその危険性が明らかになっている。最近になって、ワクチンに細菌由来のDNAが混入していることが確認された。ワクチンによってスパイクタンパクを延々と作り続ける遺伝子組み換え人間になってしまう可能性がある。また、ファイザーのワクチンには細胞を癌化させる配列があったという。ワクチンによって癌になりかねない。さらに、抗生物質耐性のコードが含まれていたことも分かった。つまり、抗生物質が効かないことになりかねない。
なぜワクチンにこんなものが入っているのか不可解すぎるが、意図的になされたと考えればすべて合点がいく。やはりmRNAワクチンは生物兵器であり、人口を減らすことを目的につくられたのではないか? 私も、この人口削減説に肯定的だ。
人口削減説を主張する人達は、一部のグローバリストや世界経済フォーラムに関わる人達などが意図的にパンデミックをつくりだし、ワクチンによる人口削減を計画し実行したと考えている。そして、ウクライナ戦争を扇動している人やコオロギ食など昆虫食を進めているのも同じ人達だと。要は、世界経済フォーラムの提唱するグレート・リセット(人口を減らし、残った人達を徹底的に管理・支配するという計画)の実現のためにこれらが計画され実行に移されていると考えている。ここまでは私もそうなのだろうと思う。
ところが、このように考える人達の多くが、巷に流布される地球温暖化懐疑論・否定論を持ち出して「地球温暖化はデマであり詐欺だ」と主張するようになった。海外でも日本でも。しかし、私はそういう主張には賛同できない。
私は、ブログで温暖化問題に関する記事も書いてきた。以下参照。
温暖化問題に関する記事
温暖化問題に関心を持って情報収集し、何が正しいのかを自分なりに考えた結果、やはり現在の地球温暖化は化石燃料由来の二酸化炭素が主な原因だという主張に賛同せざるを得ない。ワクチン反対派の人たちが持ち出す「太陽活動による温暖化」「地球は氷期に向かって寒冷化している」「二酸化炭素は温暖化の原因ではない」などという主張は、気候学者によって以前から科学的に間違いだと指摘されている。
以前、ブログに書いたことだが、人間活動による二酸化炭素の放出速度は火山活動による二酸化炭素の放出速度の約300倍にもなるという指摘もある。化石燃料による二酸化炭素の温室効果はかなり大きいのだろう。
もし温暖化がデマであるというのなら、IPCCの報告書に関わっている多数の科学者が買収されていたり、利権が絡んでいることになるだろう。しかし、そういう話は聞いたことがない。逆に、温暖化懐疑論や否定論の流布は、化石燃料企業が関わっているという論文があり、明らかに利権が絡んでいる。新自由主義などを主張する人達も温暖化対策が経済活動に影響するために懐疑論に加担している。
温暖化懐疑論とぼちぼちつきあう(江守正多 論座)
コロナワクチンに反対する人達が、地球温暖化はグレート・リセットを実現するために計画されたデマだと主張する理由は何なのだろう? たぶん、世界経済フォーラムはグレート・リセットに向けて様々な詐欺を仕掛けているから、温暖化も同じように嘘だろうという思考なのだろう。しかし、そのような考え方は科学ではない。
ワクチン反対派による温暖化対策への批判はもっともだと思う。温暖化対策には全くならない電気自動車の普及とか、自然破壊をしての太陽光パネルや風車の設置など、本末転倒な温暖化対策は多い。なぜ、こんなことになるのかと言えば、国による補助金が大きいのだろう。補助金や利権構造によって、企業が温暖化対策に飛びつくのだ。そして一度動き出した事業は簡単には止まらない。資本主義社会ではどうしてもこういうことが起きる。これは温暖化対策に限ったことではなく、いわゆる無駄な公共事業なども同じ構図がある。意味のない、あるいは逆効果の温暖化対策が進められているからといって、温暖化がデマだという理由にはならない。
正直言って、これまで多くの気候学者によって否定されてきた温暖化懐疑論・否定論が、今頃になってワクチンに反対する人達によって支持されることに驚きを禁じ得ない。彼ら、彼女らは、これまで環境問題や温暖化問題に関してどこまで調べ学んできたのだろうか?
私は、地球上の人口は増えすぎたと思っているし、このまま増え続けたなら間違いなく環境問題(地球温暖化を含む)は悪化し、食料が不足し、化石燃料も枯渇ないしは高騰し、多くの人が生命を脅かされるだろうと思っている。地球が有限である以上、当然予想されることだ。なぜここまで人口が増え続けたのかといえば、その大きな要因は安い化石燃料を湯水のように使って資本主義による経済成長を求め続けたからだ。もし、地球の人口が今の1/10くらいだったら、地球への負荷は大きく減少し、食料問題もエネルギー問題もほぼ解決するだろう。
しかし、だからといって人々を騙し医薬品を利用して人口を減らすなどということは明らかに殺人であり、決して許されることではない。しかも、一部の人が残りの人を徹底的に管理・支配する世界統一政府など独裁そのものであり、このような発想は狂っているとしか思えない。
ではどうしたらいいのか? 資本主義を止めて定常経済にする。そして斎藤幸平さんの主張する脱成長コミュニズムへと変えていくことが何よりも必要だと思う。自然エネルギーの普及にしても、競争を排した協力的なコミュニティ社会なら、利権などが入り込んではこないだろう。
また、食料自給率を上げることも必須だろう。篠原信さんは著書「そのとき、日本は何人養える?」で、化石燃料が枯渇したり高騰して手に入らないと日本では3000万人くらいしか養えないと試算している。日本の適正人口はおそらくそのくらいではなかろうか。時間はかかるかもしれないが、定常経済の下で食料自給率100%を目指せば、自ずと適正人口になっていくと思う。
グレート・リセットに反対する人達が、温暖化懐疑論を妄信し、化石燃料に頼ったり環境問題を軽視するのは非常に危険な発想だと危惧している。
なぜワクチンにこんなものが入っているのか不可解すぎるが、意図的になされたと考えればすべて合点がいく。やはりmRNAワクチンは生物兵器であり、人口を減らすことを目的につくられたのではないか? 私も、この人口削減説に肯定的だ。
人口削減説を主張する人達は、一部のグローバリストや世界経済フォーラムに関わる人達などが意図的にパンデミックをつくりだし、ワクチンによる人口削減を計画し実行したと考えている。そして、ウクライナ戦争を扇動している人やコオロギ食など昆虫食を進めているのも同じ人達だと。要は、世界経済フォーラムの提唱するグレート・リセット(人口を減らし、残った人達を徹底的に管理・支配するという計画)の実現のためにこれらが計画され実行に移されていると考えている。ここまでは私もそうなのだろうと思う。
ところが、このように考える人達の多くが、巷に流布される地球温暖化懐疑論・否定論を持ち出して「地球温暖化はデマであり詐欺だ」と主張するようになった。海外でも日本でも。しかし、私はそういう主張には賛同できない。
私は、ブログで温暖化問題に関する記事も書いてきた。以下参照。
温暖化問題に関する記事
温暖化問題に関心を持って情報収集し、何が正しいのかを自分なりに考えた結果、やはり現在の地球温暖化は化石燃料由来の二酸化炭素が主な原因だという主張に賛同せざるを得ない。ワクチン反対派の人たちが持ち出す「太陽活動による温暖化」「地球は氷期に向かって寒冷化している」「二酸化炭素は温暖化の原因ではない」などという主張は、気候学者によって以前から科学的に間違いだと指摘されている。
以前、ブログに書いたことだが、人間活動による二酸化炭素の放出速度は火山活動による二酸化炭素の放出速度の約300倍にもなるという指摘もある。化石燃料による二酸化炭素の温室効果はかなり大きいのだろう。
もし温暖化がデマであるというのなら、IPCCの報告書に関わっている多数の科学者が買収されていたり、利権が絡んでいることになるだろう。しかし、そういう話は聞いたことがない。逆に、温暖化懐疑論や否定論の流布は、化石燃料企業が関わっているという論文があり、明らかに利権が絡んでいる。新自由主義などを主張する人達も温暖化対策が経済活動に影響するために懐疑論に加担している。
温暖化懐疑論とぼちぼちつきあう(江守正多 論座)
コロナワクチンに反対する人達が、地球温暖化はグレート・リセットを実現するために計画されたデマだと主張する理由は何なのだろう? たぶん、世界経済フォーラムはグレート・リセットに向けて様々な詐欺を仕掛けているから、温暖化も同じように嘘だろうという思考なのだろう。しかし、そのような考え方は科学ではない。
ワクチン反対派による温暖化対策への批判はもっともだと思う。温暖化対策には全くならない電気自動車の普及とか、自然破壊をしての太陽光パネルや風車の設置など、本末転倒な温暖化対策は多い。なぜ、こんなことになるのかと言えば、国による補助金が大きいのだろう。補助金や利権構造によって、企業が温暖化対策に飛びつくのだ。そして一度動き出した事業は簡単には止まらない。資本主義社会ではどうしてもこういうことが起きる。これは温暖化対策に限ったことではなく、いわゆる無駄な公共事業なども同じ構図がある。意味のない、あるいは逆効果の温暖化対策が進められているからといって、温暖化がデマだという理由にはならない。
正直言って、これまで多くの気候学者によって否定されてきた温暖化懐疑論・否定論が、今頃になってワクチンに反対する人達によって支持されることに驚きを禁じ得ない。彼ら、彼女らは、これまで環境問題や温暖化問題に関してどこまで調べ学んできたのだろうか?
私は、地球上の人口は増えすぎたと思っているし、このまま増え続けたなら間違いなく環境問題(地球温暖化を含む)は悪化し、食料が不足し、化石燃料も枯渇ないしは高騰し、多くの人が生命を脅かされるだろうと思っている。地球が有限である以上、当然予想されることだ。なぜここまで人口が増え続けたのかといえば、その大きな要因は安い化石燃料を湯水のように使って資本主義による経済成長を求め続けたからだ。もし、地球の人口が今の1/10くらいだったら、地球への負荷は大きく減少し、食料問題もエネルギー問題もほぼ解決するだろう。
しかし、だからといって人々を騙し医薬品を利用して人口を減らすなどということは明らかに殺人であり、決して許されることではない。しかも、一部の人が残りの人を徹底的に管理・支配する世界統一政府など独裁そのものであり、このような発想は狂っているとしか思えない。
ではどうしたらいいのか? 資本主義を止めて定常経済にする。そして斎藤幸平さんの主張する脱成長コミュニズムへと変えていくことが何よりも必要だと思う。自然エネルギーの普及にしても、競争を排した協力的なコミュニティ社会なら、利権などが入り込んではこないだろう。
また、食料自給率を上げることも必須だろう。篠原信さんは著書「そのとき、日本は何人養える?」で、化石燃料が枯渇したり高騰して手に入らないと日本では3000万人くらいしか養えないと試算している。日本の適正人口はおそらくそのくらいではなかろうか。時間はかかるかもしれないが、定常経済の下で食料自給率100%を目指せば、自ずと適正人口になっていくと思う。
グレート・リセットに反対する人達が、温暖化懐疑論を妄信し、化石燃料に頼ったり環境問題を軽視するのは非常に危険な発想だと危惧している。
2022年08月12日
小規模流水発電の普及を
温暖化対策として再生可能エネルギーが普及しつつある。化石燃料のよる発電から再生可能エネルギーへの転換はもちろん重要なのだが、再生可能エネルギーと言えば太陽光発電、風力発電そして地熱発電ばかりが推進される。これらの発電方式は自然破壊をはじめとしてさまざまなデメリットも抱えている。再生可能エネルギーであれば何でもいいということにはならない。
これまで日本では発電というと大型の発電施設をつくるという発想になっていたようだが、これは補助金が関わっていることが大きいのだろう。たとえば大雪山国立公園では近年の規制緩和によって複数の事業者が地熱発電の資源調査などに手を付けようとしている。おそらく補助金によって事業者の負担はさほど大きくはならないと思われる。しかも、電気の場合、発電所建設やその維持にお金がかかったとしても、電気料金に上乗せすることができる。だから自然破壊などあまり考えもせずに事業者が手を上げるのだろう。
しかし、発電所というのは大型になればなるほどデメリットが大きくなる。大型の施設は自然破壊を伴うことが多く、全国で反対運動が起きている。風力発電の大型風車は低周波音による健康被害が懸念されるし、バードストライクもある。地熱発電も、井戸(生産井)から取り出す地熱流体は次第に減少するために次々と井戸を掘り続けなければならない。地球温暖化という環境問題の解決のために環境破壊をするのでは本末転倒だ。
私は以前から、発電は小規模でいいからできる限り地産地消のような形にすべきだと考えていた。以前、北欧を旅行したときヨーテボリからストックホルムまで列車で移動したのだが、緩やかに波打つ緑の大地に湖が点々としたのどかな光景が続いていて、川が全くというほどないことに気づいた。日本は山国であり雨量も多く川が至る所にある。水田地帯では用水路が流れている。日本はなんと水が豊かな国だろうと改めて実感した。至る所に流れている水を利用した小規模発電を普及させることができれば、ほとんど自然破壊を伴わずに発電ができる。
そして、先日、すでに水道管を利用したマイクロ水力発電が進められていることを知った。以下の記事でその仕組みが説明されている。
水道管と用水路が「発電所」に(日経ビジネス)
水道管や下水道利用なら都会でも発電ができる。大規模な発電施設にばかり頼るのではなく、自然破壊をほとんど伴わない流水を利用した地産地消の小規模発電をもっと普及させるべきだと思う。
これまで日本では発電というと大型の発電施設をつくるという発想になっていたようだが、これは補助金が関わっていることが大きいのだろう。たとえば大雪山国立公園では近年の規制緩和によって複数の事業者が地熱発電の資源調査などに手を付けようとしている。おそらく補助金によって事業者の負担はさほど大きくはならないと思われる。しかも、電気の場合、発電所建設やその維持にお金がかかったとしても、電気料金に上乗せすることができる。だから自然破壊などあまり考えもせずに事業者が手を上げるのだろう。
しかし、発電所というのは大型になればなるほどデメリットが大きくなる。大型の施設は自然破壊を伴うことが多く、全国で反対運動が起きている。風力発電の大型風車は低周波音による健康被害が懸念されるし、バードストライクもある。地熱発電も、井戸(生産井)から取り出す地熱流体は次第に減少するために次々と井戸を掘り続けなければならない。地球温暖化という環境問題の解決のために環境破壊をするのでは本末転倒だ。
私は以前から、発電は小規模でいいからできる限り地産地消のような形にすべきだと考えていた。以前、北欧を旅行したときヨーテボリからストックホルムまで列車で移動したのだが、緩やかに波打つ緑の大地に湖が点々としたのどかな光景が続いていて、川が全くというほどないことに気づいた。日本は山国であり雨量も多く川が至る所にある。水田地帯では用水路が流れている。日本はなんと水が豊かな国だろうと改めて実感した。至る所に流れている水を利用した小規模発電を普及させることができれば、ほとんど自然破壊を伴わずに発電ができる。
そして、先日、すでに水道管を利用したマイクロ水力発電が進められていることを知った。以下の記事でその仕組みが説明されている。
水道管と用水路が「発電所」に(日経ビジネス)
水道管や下水道利用なら都会でも発電ができる。大規模な発電施設にばかり頼るのではなく、自然破壊をほとんど伴わない流水を利用した地産地消の小規模発電をもっと普及させるべきだと思う。
タグ :マイクロ水力発電
2020年10月23日
『人新世の「資本論」』が描く脱成長の豊かな社会
斎藤幸平著『人新世の「資本論」』を読み終えた。久々に衝撃的な本に出合った。
本書の主張を端的に言うならば、今の環境危機を招いたのは限りなく成長と利潤の追求を続ける資本主義であり、環境危機から人類を救うためには資本主義から脱却しなければならないということだ。そして、著者の斎藤氏はその解決方法がマルクスの思想の中にあることを見出し、具体的な提言をする。
今の時代に資本主義を否定したり、経済成長を否定する人は極めて少ない。環境問題を主張する左派の人でさえ、経済成長を明確に否定する人はそれほど多くないのではなかろうか。私は正直言ってそのことが不思議でならなかった。
10代の終わり頃、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだ。当時の私にはかなり難解だったが、私はこの本を読んで資本主義に絶望的になった。限りない利潤の追求はいずれ富の偏在や不平等に行きつくだろうし、そもそも有限な地球で限りない利潤の追求など続くわけがない。子どもの頃から虫や自然が好きで、経済成長とともに自然が破壊され公害が発生していく現実を目の当たりにしていたから、利潤追求の資本主義に恐怖を感じたし、私には、資本主義を賛美する人達の思考が全く分からなかった。
私は強く支持する政党がない。なぜなら日本には資本主義を否定して脱成長や定常経済を主張し環境問題に真剣に取り組む政党が見当たらないからだ。
私はこのブログでも脱成長や定常経済、地球温暖化について何度か唱えてきたが、経済成長の否定に関してはどちらかというと直感的なものからきていた。地球の資源は有限であるし、そこに住める人の数も限られる。しかし経済成長が地球の資源を食いつぶして成り立っている以上必ず限界がくるし、温暖化をはじめとした地球環境問題も経済成長に端を発している。
人類が地球上で生物進化によって誕生し、地球という生態系を外れて生きていくことができない以上、経済成長は自滅の道でしかないだろう。生物は環境の変化に応じてゆるやかに進化適応しているが基本的に「定常」状態であるからこそ、生物多様性が保たれているのだ。そして気の遠くなるような年月をかけて種分化した生物たちを、人類がものすごい勢いで絶滅に追いやっている。無限の経済成長は地球の生態系のシステムを破壊し、地球温暖化問題として人類の生存を脅かすようになった。
またグリーン・ニューディールや技術によって環境問題を解決しようとしても、経済成長を目指す限りおそらく上手くいかないだろうということも直感していた。人が自然の摂理に逆らおうとしても、自然はそれを押し返そうとする。技術で自然をコントロールしようという思考こそが人類の驕りだ。
しかし、本書は私が直感的に感じていたこれらのことを実に論理的に解き明かしている。単に問題点の指摘に留まらず、気候危機を乗り越えるために私たちはどんな社会を構築し、どんな行動をしたらいいのかという具体的な提言は見事と言うしかない。
私自身、今の尋常ではない格差の拡大も、自然環境の破壊も、地球温暖化問題もみんな繋がっていて資本主義に起因しているということは分かっていても、ではどうやって資本主義から定常経済への転換を遂げるのかということになると、頭を抱えてしまっていた。
せいぜい思いつくのは、成熟した資本主義から一気に別の定常的なシステムに移行することはできないだろうから、まずは北欧型の福祉国家に転換することで平等な福祉国家に移行して貧困の解消と労働環境の是正をはかりつつ定常経済へのソフトランディングの道を探るということくらいだった。しかし、本書を読んでその考えは修正をしなければならないと思った。
北欧型の福祉国家は資本主義社会においては確かに対等で平等な社会を実現するためのシステムとして優れていると思う。しかし、やはり資本主義が根底にある以上、北欧型社会を実現しても地球危機の問題は解決しない。人類が直面する環境危機から脱するには限りない利潤追求や経済成長、つまり資本主義を否定するしかないのだ。しかも、一刻も早く資本主義から抜け出す必要がある。気候変動への対応も、対等で平等な社会への移行も、労働環境の改善も待ったなしの状態だ。本書を読めば、そのことが確信できる。
もう一つ、斎藤氏の主張で大事なことは、資本主義の発展によって搾取されてきたグローバル・サウスの人達の声を聴き連携するという主張だ。私たち先進国の人達の豊かな生活が、グローバル・サウスの搾取から成り立ってきたことを、多くの人は実感していないし知らない人も多いだろう。環境危機は地球規模で起きているのであり、世界の国々の人達が同時に立ち上がって行動しなければ解決しない。
日本は利権構造が根強くはびこり、地球温暖化対策も声高に叫ばれないし、経済成長神話から抜け出せない人達が大多数だ。私は正直いって、かなり絶望的な気分になってきていた。しかし、斎藤氏の提唱する「脱成長コミュニズム」は決して実現不可能な話ではない。企業という組織から抜け出して協同組合やワーカーズコープに移行することは現実的な提案だ。
第六章「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」から一部を引用しよう。
この引用部分だけでは何を言っているのか分からないかもしれないので、少し説明したい。資本主義というのは商品の希少性をつくりだす。たとえば水というのは誰もが必要であり「使用価値(有用性)」がある。ところが水道事業を民営化して商品として扱うと、水の商品としての「価値」が重視されて価格が吊り上げられ、水質や維持管理費はないがしろにされることになる。その結果、水道料金を払えない人は給水を停止されてしまう。つまり水を商品化することで希少な有償財になってしまい、使用価値も棄損される。これが「資本主義の人工的希少性」だ。水を共同体の所有物として管理し、一定のルールの下に誰でも利用できるようにするのが「〈コモン〉の復権」だ。
斎藤氏は脱成長コミュニズムの柱として①使用価値経済への転換 ②労働時間の短縮 ③画一的な分業の廃止 ④生産過程の民主化 ⑤エッセンシャル・ワークの重視 を掲げている。それらの詳細については、是非本書をお読みいただきたい。(注)
新自由主義に危機感を抱く人の多くが「反緊縮」で思考停止してしまっている。MMTによる反緊縮の主張はその最たるものだろう。しかし、それだけでは決して気候変動は止められないし、世界中の誰もが幸福になれる道でもない。
もう一つ付け加えるなら、斎藤氏の目指す脱成長コミュニズムこそ、人々に精神的な安定と豊かさをもたらすに違いないと思う。資本主義は格差を拡大させたばかりではなく、人々を終わりなき競争に追い立てることで精神的にも疲弊させた。脱成長コミュニズムはまさに人々が信頼し協力しあう社会であり、心理学者のアルフレッド・アドラーの提唱する共同体感覚と一致する。脱成長コミュニズムは、資本主義で失われた精神の安定や幸福感を取り戻すことができるのではなかろうか。
これだけ格差が拡大し富の偏在が生じた社会において、資本主義に見切りをつけ定常経済に移行するのはもちろん容易なことではないだろう。当然のことながら大企業や富裕層の大きな抵抗を覚悟しなければならない。しかも資本主義、とりわけ新自由主義で競争に駆り立てられ、国民が「信頼と相互扶助」の意識を失ってしまった国ほど困難が付きまとうのではないかと思う。しかし、今それをやらねば、私たちの住む世界は混沌とした野蛮状態に陥り環境危機で自滅するだろう。
私たち一人ひとりの決断と行動が、未来への責任を負っている。「今だけ金だけ自分だけ」の新自由主義から、そして資本主義からきっぱりと方向転換すべきだ。
*注 10月24日に引用部分についての説明を追記しました。
本書の主張を端的に言うならば、今の環境危機を招いたのは限りなく成長と利潤の追求を続ける資本主義であり、環境危機から人類を救うためには資本主義から脱却しなければならないということだ。そして、著者の斎藤氏はその解決方法がマルクスの思想の中にあることを見出し、具体的な提言をする。
今の時代に資本主義を否定したり、経済成長を否定する人は極めて少ない。環境問題を主張する左派の人でさえ、経済成長を明確に否定する人はそれほど多くないのではなかろうか。私は正直言ってそのことが不思議でならなかった。
10代の終わり頃、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだ。当時の私にはかなり難解だったが、私はこの本を読んで資本主義に絶望的になった。限りない利潤の追求はいずれ富の偏在や不平等に行きつくだろうし、そもそも有限な地球で限りない利潤の追求など続くわけがない。子どもの頃から虫や自然が好きで、経済成長とともに自然が破壊され公害が発生していく現実を目の当たりにしていたから、利潤追求の資本主義に恐怖を感じたし、私には、資本主義を賛美する人達の思考が全く分からなかった。
私は強く支持する政党がない。なぜなら日本には資本主義を否定して脱成長や定常経済を主張し環境問題に真剣に取り組む政党が見当たらないからだ。
私はこのブログでも脱成長や定常経済、地球温暖化について何度か唱えてきたが、経済成長の否定に関してはどちらかというと直感的なものからきていた。地球の資源は有限であるし、そこに住める人の数も限られる。しかし経済成長が地球の資源を食いつぶして成り立っている以上必ず限界がくるし、温暖化をはじめとした地球環境問題も経済成長に端を発している。
人類が地球上で生物進化によって誕生し、地球という生態系を外れて生きていくことができない以上、経済成長は自滅の道でしかないだろう。生物は環境の変化に応じてゆるやかに進化適応しているが基本的に「定常」状態であるからこそ、生物多様性が保たれているのだ。そして気の遠くなるような年月をかけて種分化した生物たちを、人類がものすごい勢いで絶滅に追いやっている。無限の経済成長は地球の生態系のシステムを破壊し、地球温暖化問題として人類の生存を脅かすようになった。
またグリーン・ニューディールや技術によって環境問題を解決しようとしても、経済成長を目指す限りおそらく上手くいかないだろうということも直感していた。人が自然の摂理に逆らおうとしても、自然はそれを押し返そうとする。技術で自然をコントロールしようという思考こそが人類の驕りだ。
しかし、本書は私が直感的に感じていたこれらのことを実に論理的に解き明かしている。単に問題点の指摘に留まらず、気候危機を乗り越えるために私たちはどんな社会を構築し、どんな行動をしたらいいのかという具体的な提言は見事と言うしかない。
私自身、今の尋常ではない格差の拡大も、自然環境の破壊も、地球温暖化問題もみんな繋がっていて資本主義に起因しているということは分かっていても、ではどうやって資本主義から定常経済への転換を遂げるのかということになると、頭を抱えてしまっていた。
せいぜい思いつくのは、成熟した資本主義から一気に別の定常的なシステムに移行することはできないだろうから、まずは北欧型の福祉国家に転換することで平等な福祉国家に移行して貧困の解消と労働環境の是正をはかりつつ定常経済へのソフトランディングの道を探るということくらいだった。しかし、本書を読んでその考えは修正をしなければならないと思った。
北欧型の福祉国家は資本主義社会においては確かに対等で平等な社会を実現するためのシステムとして優れていると思う。しかし、やはり資本主義が根底にある以上、北欧型社会を実現しても地球危機の問題は解決しない。人類が直面する環境危機から脱するには限りない利潤追求や経済成長、つまり資本主義を否定するしかないのだ。しかも、一刻も早く資本主義から抜け出す必要がある。気候変動への対応も、対等で平等な社会への移行も、労働環境の改善も待ったなしの状態だ。本書を読めば、そのことが確信できる。
もう一つ、斎藤氏の主張で大事なことは、資本主義の発展によって搾取されてきたグローバル・サウスの人達の声を聴き連携するという主張だ。私たち先進国の人達の豊かな生活が、グローバル・サウスの搾取から成り立ってきたことを、多くの人は実感していないし知らない人も多いだろう。環境危機は地球規模で起きているのであり、世界の国々の人達が同時に立ち上がって行動しなければ解決しない。
日本は利権構造が根強くはびこり、地球温暖化対策も声高に叫ばれないし、経済成長神話から抜け出せない人達が大多数だ。私は正直いって、かなり絶望的な気分になってきていた。しかし、斎藤氏の提唱する「脱成長コミュニズム」は決して実現不可能な話ではない。企業という組織から抜け出して協同組合やワーカーズコープに移行することは現実的な提案だ。
第六章「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」から一部を引用しよう。
もう新自由主義には、終止符を打つべきだ。必要なのは、「反緊縮」である。だが、単に貨幣をばら撒くだけでは、新自由主義には対抗できても、資本主義に終止符を打つことはできない。
資本主義の人工的希少性に対する対抗案が、〈コモン〉の復権による「ラディカルな潤沢さ」の再建である。これこそ、脱成長コミュニズムが目指す「反緊縮」なのだ。
この引用部分だけでは何を言っているのか分からないかもしれないので、少し説明したい。資本主義というのは商品の希少性をつくりだす。たとえば水というのは誰もが必要であり「使用価値(有用性)」がある。ところが水道事業を民営化して商品として扱うと、水の商品としての「価値」が重視されて価格が吊り上げられ、水質や維持管理費はないがしろにされることになる。その結果、水道料金を払えない人は給水を停止されてしまう。つまり水を商品化することで希少な有償財になってしまい、使用価値も棄損される。これが「資本主義の人工的希少性」だ。水を共同体の所有物として管理し、一定のルールの下に誰でも利用できるようにするのが「〈コモン〉の復権」だ。
斎藤氏は脱成長コミュニズムの柱として①使用価値経済への転換 ②労働時間の短縮 ③画一的な分業の廃止 ④生産過程の民主化 ⑤エッセンシャル・ワークの重視 を掲げている。それらの詳細については、是非本書をお読みいただきたい。(注)
新自由主義に危機感を抱く人の多くが「反緊縮」で思考停止してしまっている。MMTによる反緊縮の主張はその最たるものだろう。しかし、それだけでは決して気候変動は止められないし、世界中の誰もが幸福になれる道でもない。
もう一つ付け加えるなら、斎藤氏の目指す脱成長コミュニズムこそ、人々に精神的な安定と豊かさをもたらすに違いないと思う。資本主義は格差を拡大させたばかりではなく、人々を終わりなき競争に追い立てることで精神的にも疲弊させた。脱成長コミュニズムはまさに人々が信頼し協力しあう社会であり、心理学者のアルフレッド・アドラーの提唱する共同体感覚と一致する。脱成長コミュニズムは、資本主義で失われた精神の安定や幸福感を取り戻すことができるのではなかろうか。
これだけ格差が拡大し富の偏在が生じた社会において、資本主義に見切りをつけ定常経済に移行するのはもちろん容易なことではないだろう。当然のことながら大企業や富裕層の大きな抵抗を覚悟しなければならない。しかも資本主義、とりわけ新自由主義で競争に駆り立てられ、国民が「信頼と相互扶助」の意識を失ってしまった国ほど困難が付きまとうのではないかと思う。しかし、今それをやらねば、私たちの住む世界は混沌とした野蛮状態に陥り環境危機で自滅するだろう。
私たち一人ひとりの決断と行動が、未来への責任を負っている。「今だけ金だけ自分だけ」の新自由主義から、そして資本主義からきっぱりと方向転換すべきだ。
*注 10月24日に引用部分についての説明を追記しました。
2018年08月05日
猛暑と暑さ対策
北海道に住んで40年弱になるが、私にとって夏が涼しく夏バテにならないというのはとてもありがたい。考えてみたら、東京にいた頃は毎年夏バテで辛い思いをしていた。あの頃はまだ暑いといっても最高気温は32度とか33度くらいが普通だったのだから、昨今の35度を超えるような暑さなら堪らないだろうと思ってしまう。
といっても子どもの頃は夏バテをしたという記憶はない。30度を超えるような日も外遊びをしていたし、食欲が落ちたりはしなかったと思う。ところが、いつからか夏がとても苦手になった。夏バテで思い当たるのは、家を建てて引っ越したこと。
普通、家を建てて引っ越したなら居住環境が改善されそうなものだ。ところが私の場合は違った。家を建てるに当たって、父は洋風の外見にこだわり屋根をトタン葺きにした。2階の子ども部屋はそのトタン屋根の直下。当時の住宅は断熱材などほとんど入っていないのが当たり前だったので、夏になるとジリジリと熱したトタン屋根によって2階は猛烈な暑さに見舞われることになった。
室温を測っていなかったので何度くらいだったのか分からないが、おそらく外気温よりかなり高かったと思う。35度以上あったのではなかろうか。当時は一般家庭ではクーラーなどまずなかったので我慢する他ない。あまりに暑いので、夏休みなどは夜遅くまで起きていて夜明け前くらいに寝るようにしていたこともあったが、陽が昇るとどんどん室温が上がって眠っていられなくなる。そんな環境で過ごしていたことが夏バテに関係していたのではないかと私は疑っている。
私が北海道に来た後に実家では増築をした。ダイニングキッチンを南側に張り出す形で増築したが、この部屋もトタン屋根ですぐに暑くなる。ゆえに、すぐにクーラーを取り付けたようだ。また、私が使っていた2階の部屋は父が使うようになったのだが、父は即、クーラーを取り付けた。
母はあまりクーラーを好まない人だったが、あまりに暑いとダイニングキッチンのクーラーをつける。ところが、しばらくして涼しくなると「電気代がもったいない」とばかりに電源を切って窓を開け放つ。クーラーを切るとすぐに部屋が暑くなるから窓をあけて風を入れたほうがいいと言う。日中の暑い時間帯はクーラーの設定温度を高めにしてずっとつけていればいいのにと思うのだけれど、高齢者はすぐに節約ばかり考えてしまうのだろう。
話しは変わるが、今住んでいる家を新築するにあたってもっとも拘ったのは高断熱・高気密住宅だった。私が北海道に来たころは、高断熱・高気密住宅はまだそれほど普及していなかった。断熱材がろくに入っていない古い住宅の場合、狭い家でも1日10リットルくらい灯油を炊くことになる。二日で千円札を1枚燃やしているような勘定で、北海道は大変なところだとつくづく思った。しかも長時間家を空けたり夜にストーブを消せばすぐに氷点下になってしまう。数日旅行をしている間に、調味料まで凍りかけたこともあった。北欧やカナダなどでは高断熱・高気密の家が当たり前なのに北海道はずいぶん遅れていると思ったものだ。
そこで家を建てる際には多少高くついても高断熱・高気密住宅にしようということで、壁にも天井にも20センチのグラスウールが入っている外断熱工法を選んだ。窓は高断熱ペアガラス。その結果、住宅の体積が以前の3倍以上になったのに、灯油使用量は以前より少なくて快適な生活ができるようになった。1台のストーブで家中が暖かく、トイレや浴室で寒さを感じることもない。真冬に3日くらい留守にしても、室温は10度くらいまでにしか下がらない。高断熱・高気密住宅というのは夏も涼しいし冷房の効率もいい(私のところではクーラーはないし、必要もない)。
東京の実家に帰るたびに感じたのは、本州の住宅の気密性・断熱性の悪さだ。朝目覚めるとスズメの声がまるで外にいるかのように聞こえてくる。だから、暖房をしても冷房をしても効率が悪い。それだけ熱が外に漏れてしまっているということに他ならない。
高断熱・高気密住宅に住んでみて、なぜ本州でもこういう工法がなかなか普及しないのだろうかと不思議でならない。建築費が高くなるとはいえ、おそらく暖房費や冷房費は相当な節約になるはずだし、何より快適な生活ができる。節電になれば温暖化防止にも寄与するだろう。節電の面からも高断熱・高気密住宅を増やしていくべきだと思う。
とは言うものの、既存の住宅をすぐに高断熱・高気密にするわけにもいかない。ならば、よしずなどを利用してできるだけ涼しく過ごす工夫も大事だ。エアコンも室外機によしずを立てかけたりカバーをかけて日陰にするだけでも効率が良くなるという。
エアコンの電気代を抑えるには、「外気温と設定温度の差が大きい時には自動運転でつけっぱなし」「30分くらい出かけるような場合もつけっぱなし」が良いそうだ。また、高めの温度設定でも扇風機と併用すれば涼しくなるとのこと。フィルターもこまめに掃除しないと効率が悪くなるとのことなので要注意。
節電ではないが、熱中症対策として外出時の日傘もお勧めしたい。以前は日傘といえばご婦人専用だったが、今は男性用の日傘もある。私も日傘をつかってみて、その涼しさを実感した。老若男女問わず日傘はとても有用だと思う。
昨今の異常気象や猛暑はもちろん地球温暖化が関係しているのだろう。とするなら、今後も猛暑が続くことになる。化石燃料の大量消費をなくして再生可能エネルギーに転換していくことは必須だが、同時に猛暑対策もしていかないと健康が脅かされかねない。
といっても子どもの頃は夏バテをしたという記憶はない。30度を超えるような日も外遊びをしていたし、食欲が落ちたりはしなかったと思う。ところが、いつからか夏がとても苦手になった。夏バテで思い当たるのは、家を建てて引っ越したこと。
普通、家を建てて引っ越したなら居住環境が改善されそうなものだ。ところが私の場合は違った。家を建てるに当たって、父は洋風の外見にこだわり屋根をトタン葺きにした。2階の子ども部屋はそのトタン屋根の直下。当時の住宅は断熱材などほとんど入っていないのが当たり前だったので、夏になるとジリジリと熱したトタン屋根によって2階は猛烈な暑さに見舞われることになった。
室温を測っていなかったので何度くらいだったのか分からないが、おそらく外気温よりかなり高かったと思う。35度以上あったのではなかろうか。当時は一般家庭ではクーラーなどまずなかったので我慢する他ない。あまりに暑いので、夏休みなどは夜遅くまで起きていて夜明け前くらいに寝るようにしていたこともあったが、陽が昇るとどんどん室温が上がって眠っていられなくなる。そんな環境で過ごしていたことが夏バテに関係していたのではないかと私は疑っている。
私が北海道に来た後に実家では増築をした。ダイニングキッチンを南側に張り出す形で増築したが、この部屋もトタン屋根ですぐに暑くなる。ゆえに、すぐにクーラーを取り付けたようだ。また、私が使っていた2階の部屋は父が使うようになったのだが、父は即、クーラーを取り付けた。
母はあまりクーラーを好まない人だったが、あまりに暑いとダイニングキッチンのクーラーをつける。ところが、しばらくして涼しくなると「電気代がもったいない」とばかりに電源を切って窓を開け放つ。クーラーを切るとすぐに部屋が暑くなるから窓をあけて風を入れたほうがいいと言う。日中の暑い時間帯はクーラーの設定温度を高めにしてずっとつけていればいいのにと思うのだけれど、高齢者はすぐに節約ばかり考えてしまうのだろう。
話しは変わるが、今住んでいる家を新築するにあたってもっとも拘ったのは高断熱・高気密住宅だった。私が北海道に来たころは、高断熱・高気密住宅はまだそれほど普及していなかった。断熱材がろくに入っていない古い住宅の場合、狭い家でも1日10リットルくらい灯油を炊くことになる。二日で千円札を1枚燃やしているような勘定で、北海道は大変なところだとつくづく思った。しかも長時間家を空けたり夜にストーブを消せばすぐに氷点下になってしまう。数日旅行をしている間に、調味料まで凍りかけたこともあった。北欧やカナダなどでは高断熱・高気密の家が当たり前なのに北海道はずいぶん遅れていると思ったものだ。
そこで家を建てる際には多少高くついても高断熱・高気密住宅にしようということで、壁にも天井にも20センチのグラスウールが入っている外断熱工法を選んだ。窓は高断熱ペアガラス。その結果、住宅の体積が以前の3倍以上になったのに、灯油使用量は以前より少なくて快適な生活ができるようになった。1台のストーブで家中が暖かく、トイレや浴室で寒さを感じることもない。真冬に3日くらい留守にしても、室温は10度くらいまでにしか下がらない。高断熱・高気密住宅というのは夏も涼しいし冷房の効率もいい(私のところではクーラーはないし、必要もない)。
東京の実家に帰るたびに感じたのは、本州の住宅の気密性・断熱性の悪さだ。朝目覚めるとスズメの声がまるで外にいるかのように聞こえてくる。だから、暖房をしても冷房をしても効率が悪い。それだけ熱が外に漏れてしまっているということに他ならない。
高断熱・高気密住宅に住んでみて、なぜ本州でもこういう工法がなかなか普及しないのだろうかと不思議でならない。建築費が高くなるとはいえ、おそらく暖房費や冷房費は相当な節約になるはずだし、何より快適な生活ができる。節電になれば温暖化防止にも寄与するだろう。節電の面からも高断熱・高気密住宅を増やしていくべきだと思う。
とは言うものの、既存の住宅をすぐに高断熱・高気密にするわけにもいかない。ならば、よしずなどを利用してできるだけ涼しく過ごす工夫も大事だ。エアコンも室外機によしずを立てかけたりカバーをかけて日陰にするだけでも効率が良くなるという。
エアコンの電気代を抑えるには、「外気温と設定温度の差が大きい時には自動運転でつけっぱなし」「30分くらい出かけるような場合もつけっぱなし」が良いそうだ。また、高めの温度設定でも扇風機と併用すれば涼しくなるとのこと。フィルターもこまめに掃除しないと効率が悪くなるとのことなので要注意。
節電ではないが、熱中症対策として外出時の日傘もお勧めしたい。以前は日傘といえばご婦人専用だったが、今は男性用の日傘もある。私も日傘をつかってみて、その涼しさを実感した。老若男女問わず日傘はとても有用だと思う。
昨今の異常気象や猛暑はもちろん地球温暖化が関係しているのだろう。とするなら、今後も猛暑が続くことになる。化石燃料の大量消費をなくして再生可能エネルギーに転換していくことは必須だが、同時に猛暑対策もしていかないと健康が脅かされかねない。
タグ :猛暑
2018年01月27日
温暖化への警告の書、ナオミ・クライン著「これがすべてを変える」
カナダのジャーナリスト、ナオミ・クラインの「これがすべてを変える 資本主義VS 気候変動」(上・下2巻 岩波書店)を読み終えた。上下巻合わせ、本文だけで600ページ(引用文献が上下巻合わせ130ページほど)を超える大作だ。
近年は夏の異常な高温や集中豪雨、あるいは寒波などの異常気象が目に見えて増えてきているにも関わらず、日本では地球温暖化の問題が深刻に捉えられているとは思えない。アル・ゴアの「不都合な真実」が話題になった頃は温暖化議論も活発化したが、昨今では温暖化問題はさっぱり目にしなくなった。
それどころか、「地球は寒冷化しているから化石燃料をどんどん燃やしても問題ない」「温暖化説は陰謀」などといった温暖化否定論や陰謀論が一定程度の支持を得ているようだ。とりわけ反原発を唱える人の中にこうした陰謀論が根強いように感じる。CO2温暖化説は原子力推進派による陰謀だと。
私もブログやツイッターで温暖化説を支持する発言をした際に、否定派の人から「説得」とも受け取れる反論をされたことがある。彼らは完全に否定論や陰謀論を信じこんでいるから本書などは読む気もないのだろうけれど、本書を読めば、化石燃料採掘会社と、化石燃料の消費によって富を得ている一握りの人たちこそが温暖化否定論や陰謀論の根源であることを思い知らされる。
今や97%の科学者がCO2による地球温暖化を認めているし、このまま二酸化炭素の放出量が増え続けると今世紀終わりまでに世界の気温は今より4度上昇するという予測まである。4度上昇した世界がどんなものになるのか。海水面が上昇し、いくつかの島嶼国家だけではなく広範囲にわたって海岸部が水没する。熱波が人の命を奪い、暑さのために主要作物の収穫量が大幅に減少。干ばつや洪水、害虫の大発生、漁業の崩壊、水供給の破壊・・・。そして何よりも恐ろしいのは、ティッピングポイントと呼ばれる臨界点を超えてしまった場合に起こる暴走。そうなったらもはや人の力で阻止することは不可能だ。
地球温暖化をこのまま放置したなら世界中の人々に壊滅的な影響を与える。だからこそ世界の国々が温室効果ガス削減に向けて交渉を続けてきたが、二酸化炭素の放出量を減らし、再生可能エネルギーに転換する取り組みは遅々として進まない。二酸化炭素の排出量は増える一方で、最悪の事態に向かって突き進んでいる。著者はその理由を規制緩和とグローバル化を推し進めてきた市場原理主義にあると喝破する。
大量生産と大量消費、グローバル化による物資の大量輸送が化石燃料を大量に消費することは言うまでもない。さらに、新自由主義によって富の極端な集中と格差の拡大がもたらされた。今すぐに市場原理主義から持続可能な経済へと変革していかなければ温暖化による壊滅的な被害は避けられないが、今ならかろうじて間に合うと著者は言う。
端的に言うなら経済成長を目指す資本主義から脱するしか解決の道はない。本書のタイトルには「資本主義 VS 気候変動」とあるが、だからといって社会主義を主張しているわけではない。独裁的社会主義もまた資源をむさぼり廃棄物をばら撒いてきたからだ。すなわち、搾取主義と過度の輸出から脱し、持続可能な社会を築くしか道はない。
具体的には、大量消費のライフスタイルを見直すとともに、リサイクル、公共交通の利用や農産物の地産地消などを進める。また国による規制強化や炭素税、富裕層への課税強化などによる収入の確保、地域コミュニティーによる再生可能エネルギーの管理、公共交通や再生エネルギーなどへの公共投資を提案する。経済成長から定常経済への移行は決して不便な時代への逆戻りではない。真の民主主義を取り戻すことで格差を解消し人々の生活を向上させることが可能だという。
著者が最も言いたいのは、我々が直面している地球温暖化の危機は、新自由主義による暴走や格差の拡大を絶ち切って真に民主的な社会を構築するチャンスになり得るということだ。たとえば著者が「抵抗地帯」と呼ぶ化石燃料採掘やパイプラインの建設に反対する住民運動が世界で繰り広げられるようになった。こうした人たちが再生可能エネルギーの推進、転換へと動き始めている。地域に根差した草の根の運動こそが改革を可能にするというのが著者の考えだ。
私自身、これまでもブログやツイッターで「永遠の経済成長などあり得ない」という主張をしてきた。地球の資源は有限であり、人類も地球の生態系の一員である以上、資源の浪費を止め持続可能な暮らしを維持しない限り、人類は自分で自分の首を絞めることになりいつか破綻すると。地球温暖化は人類が地下に眠っている化石燃料を使い放題にし、そこから得られる利益を一部の人たちが独占するという資本主義のシステムによってもたらされたというナオミ・クラインの指摘はその通りだと思う。
地球上で、環境を汚染させ、富の蓄積を目指す生物など人間の他にいない。地球のシステム、自然の力は人類の知恵や技術に及ばない。生態系から大きくはみ出して環境を汚染させ続けたなら、必ず自然によるしっぺ返しがくる。その一つが地球温暖化だ。
昨今は石油に変わって天然ガスがもてはやされている。しかし、フラッキング(水圧破砕)によるシェールガス・オイルの抽出やオイルサンドの採掘が従来の化石燃料の採掘より遥かに多くの温室効果ガスを排出することは日本ではほとんど報じられない。またこれらの採掘は自然破壊だけでなく有毒物質による環境汚染を引き起こし、パイプラインからの漏出は大規模な環境汚染を引き起こしている。私たちはこうした事実を知り、危機感を持って向き合わねばならないと痛感した。
本書は2014年に出版され、すぐさま25カ国語に翻訳されたという。それほど注目を浴びる書だ。しかし、恐らく日本ではこの大著を手にする人は多くないだろう。なぜか日本ではあまりに地球温暖化に対して危機感が薄く、不思議なほど大きな話題にならない。福島の原発事故を体験したがゆえ、とりあえずは化石燃料の利用もやむを得ないという考えがはびこっているような気がしてならない。しかし、いつまでも化石燃料に頼っていることにはならないだろう。
自分の利益しか考えない人たちによって地球に危機がもたらされたのだ。地球温暖化の事実を知った私たちの世代こそ、地球の未来に大きな責任を負っている。
近年は夏の異常な高温や集中豪雨、あるいは寒波などの異常気象が目に見えて増えてきているにも関わらず、日本では地球温暖化の問題が深刻に捉えられているとは思えない。アル・ゴアの「不都合な真実」が話題になった頃は温暖化議論も活発化したが、昨今では温暖化問題はさっぱり目にしなくなった。
それどころか、「地球は寒冷化しているから化石燃料をどんどん燃やしても問題ない」「温暖化説は陰謀」などといった温暖化否定論や陰謀論が一定程度の支持を得ているようだ。とりわけ反原発を唱える人の中にこうした陰謀論が根強いように感じる。CO2温暖化説は原子力推進派による陰謀だと。
私もブログやツイッターで温暖化説を支持する発言をした際に、否定派の人から「説得」とも受け取れる反論をされたことがある。彼らは完全に否定論や陰謀論を信じこんでいるから本書などは読む気もないのだろうけれど、本書を読めば、化石燃料採掘会社と、化石燃料の消費によって富を得ている一握りの人たちこそが温暖化否定論や陰謀論の根源であることを思い知らされる。
今や97%の科学者がCO2による地球温暖化を認めているし、このまま二酸化炭素の放出量が増え続けると今世紀終わりまでに世界の気温は今より4度上昇するという予測まである。4度上昇した世界がどんなものになるのか。海水面が上昇し、いくつかの島嶼国家だけではなく広範囲にわたって海岸部が水没する。熱波が人の命を奪い、暑さのために主要作物の収穫量が大幅に減少。干ばつや洪水、害虫の大発生、漁業の崩壊、水供給の破壊・・・。そして何よりも恐ろしいのは、ティッピングポイントと呼ばれる臨界点を超えてしまった場合に起こる暴走。そうなったらもはや人の力で阻止することは不可能だ。
地球温暖化をこのまま放置したなら世界中の人々に壊滅的な影響を与える。だからこそ世界の国々が温室効果ガス削減に向けて交渉を続けてきたが、二酸化炭素の放出量を減らし、再生可能エネルギーに転換する取り組みは遅々として進まない。二酸化炭素の排出量は増える一方で、最悪の事態に向かって突き進んでいる。著者はその理由を規制緩和とグローバル化を推し進めてきた市場原理主義にあると喝破する。
大量生産と大量消費、グローバル化による物資の大量輸送が化石燃料を大量に消費することは言うまでもない。さらに、新自由主義によって富の極端な集中と格差の拡大がもたらされた。今すぐに市場原理主義から持続可能な経済へと変革していかなければ温暖化による壊滅的な被害は避けられないが、今ならかろうじて間に合うと著者は言う。
端的に言うなら経済成長を目指す資本主義から脱するしか解決の道はない。本書のタイトルには「資本主義 VS 気候変動」とあるが、だからといって社会主義を主張しているわけではない。独裁的社会主義もまた資源をむさぼり廃棄物をばら撒いてきたからだ。すなわち、搾取主義と過度の輸出から脱し、持続可能な社会を築くしか道はない。
具体的には、大量消費のライフスタイルを見直すとともに、リサイクル、公共交通の利用や農産物の地産地消などを進める。また国による規制強化や炭素税、富裕層への課税強化などによる収入の確保、地域コミュニティーによる再生可能エネルギーの管理、公共交通や再生エネルギーなどへの公共投資を提案する。経済成長から定常経済への移行は決して不便な時代への逆戻りではない。真の民主主義を取り戻すことで格差を解消し人々の生活を向上させることが可能だという。
著者が最も言いたいのは、我々が直面している地球温暖化の危機は、新自由主義による暴走や格差の拡大を絶ち切って真に民主的な社会を構築するチャンスになり得るということだ。たとえば著者が「抵抗地帯」と呼ぶ化石燃料採掘やパイプラインの建設に反対する住民運動が世界で繰り広げられるようになった。こうした人たちが再生可能エネルギーの推進、転換へと動き始めている。地域に根差した草の根の運動こそが改革を可能にするというのが著者の考えだ。
私自身、これまでもブログやツイッターで「永遠の経済成長などあり得ない」という主張をしてきた。地球の資源は有限であり、人類も地球の生態系の一員である以上、資源の浪費を止め持続可能な暮らしを維持しない限り、人類は自分で自分の首を絞めることになりいつか破綻すると。地球温暖化は人類が地下に眠っている化石燃料を使い放題にし、そこから得られる利益を一部の人たちが独占するという資本主義のシステムによってもたらされたというナオミ・クラインの指摘はその通りだと思う。
地球上で、環境を汚染させ、富の蓄積を目指す生物など人間の他にいない。地球のシステム、自然の力は人類の知恵や技術に及ばない。生態系から大きくはみ出して環境を汚染させ続けたなら、必ず自然によるしっぺ返しがくる。その一つが地球温暖化だ。
昨今は石油に変わって天然ガスがもてはやされている。しかし、フラッキング(水圧破砕)によるシェールガス・オイルの抽出やオイルサンドの採掘が従来の化石燃料の採掘より遥かに多くの温室効果ガスを排出することは日本ではほとんど報じられない。またこれらの採掘は自然破壊だけでなく有毒物質による環境汚染を引き起こし、パイプラインからの漏出は大規模な環境汚染を引き起こしている。私たちはこうした事実を知り、危機感を持って向き合わねばならないと痛感した。
本書は2014年に出版され、すぐさま25カ国語に翻訳されたという。それほど注目を浴びる書だ。しかし、恐らく日本ではこの大著を手にする人は多くないだろう。なぜか日本ではあまりに地球温暖化に対して危機感が薄く、不思議なほど大きな話題にならない。福島の原発事故を体験したがゆえ、とりあえずは化石燃料の利用もやむを得ないという考えがはびこっているような気がしてならない。しかし、いつまでも化石燃料に頼っていることにはならないだろう。
自分の利益しか考えない人たちによって地球に危機がもたらされたのだ。地球温暖化の事実を知った私たちの世代こそ、地球の未来に大きな責任を負っている。
2017年04月30日
化学物質過敏症は炭鉱のカナリア
わが家では、洗剤は基本的に無添加の固形せっけんと粉せっけん。あとは掃除や洗濯に重曹を使う。これらがあればほとんどの汚れに対応できる。髪を洗うときも固形せっけんを使うし、セーターもせっけんで洗う。
もともとは環境問題のことがきっかけでせっけんを使いはじめたのだが、洗剤類に含まれる香料にどんどん過敏になってしまったこともあり、香料入りの固形せっけんも使わない。香料の匂いで気持ちが悪くなったり頭が痛くなったりするのだ。それだけではない。化粧品や整髪料、ワックス、塗料類、たばこなどの匂いに対しても同じような症状がでるようになった。どうやら化学物質過敏症のようだ。さらに、化学物質とは言えないニンニクの匂いもダメになってしまった。
子どもの頃は、匂いに対して特別に敏感だったという記憶はない。化粧せっけんの匂いも、シャンプーの匂いもさほど気にはならなかった。
私が強い匂いが苦手だと気づいたのは東京に住んでいた20代の前半のことだ。当時、日本フィルハーモニー協会合唱団に参加していた。日本フィルハーモニー交響楽団ではオーケストラ付合唱曲の演奏に合わせて一般の人たちから合唱団の団員を募集していた(今でも続いているらしい)。私は友人と出かけた演奏会で団員募集のチラシをもらい、団員に応募した。週1回の練習を重ねて本番の演奏会で解散となる合唱団なのだが、その演奏会のときに化粧品の匂いで気分が悪くなってしまったのだ。
演奏会では合唱団員はオーケストラの後ろにぎっしりと詰めて並ぶのだが、舞台は人々の体温とライトの熱気、そして化粧品の匂いが充満する。この匂いがかなり強烈で次第に気分が悪くなり、途中で舞台の袖に引っ込んで休ませてもらったことがあった。他の人たちは平気なのに、なぜ私はこんなに気持ちが悪くなってしまうのだろうという疑問が頭の中で渦巻いた。そして、自分が化粧品の匂いに人一倍過敏であることに気がついた。
私はほとんど化粧をしないのだが、それからというもの冠婚葬祭などでごくたまに化粧をして車に乗ったとき、自分の化粧品の匂いで気分が悪くなった。自家用車の狭い車内で匂いがこもるとひどく気分が悪くなる。同乗者がたばこを吸っても同じで、窓を開けないと耐えがたい。ところが他の人はそうでもないらしい。その時には化学物質過敏症であるということは知らなかったが、最近になって自分が過敏症であることを認識した。
化学物質過敏症という以上は天然の匂いは大丈夫かといえば、必ずしもそうではない。北海道ではおなじみの山菜であるギョウシャニンニクを採って車に持ち込んだときも、吐き気に襲われるようになった。ギョウジャニンニクの匂いはニンニクよりさらに強烈だ。北海道では戸外でバーベキューと言えばジンギスカンが定番なのだが、これにしばしばギョウジャニンニクを入れる。はじめのうちは私も少しくらいは食べることができた。ところが、食べたあとがいけない。自分の吐く息の匂いで気持ちが悪くなるのだ。以降、ギョウジャニンニクは食べないようにしているのだが、家族が食べ、夜中に息の匂いで気持ちが悪くなって耐えられなくなり、布団をもって別の部屋に逃げだしたこともある。そんなこともあってニンニク臭も過剰反応するようになってしまった。
ワックスがけなども同じで、ワックスをかけた後はしばらく窓を開け放していないと頭が痛くなってたまらない。そんなわけで、今では香料と無縁の生活をしている。料理にもニンニクは使わない。
先日、北海道新聞に化学物質過敏症の記事が何回か掲載されたのだが、私と同じような人は一定程度いるらしい。なるほどと思った。発症のメカニズムはよくわかっていないらしいが、花粉アレルギーなどと同様に、一定の限界を超える化学物質を取り込んでしまうことが関係しているらしい。
私は若い頃から化粧はほとんどしなかったので、なぜ化粧品の香料で過敏症になったのか分からない。職場ではタバコの匂いがかなり苦痛だったが、父がタバコを吸っていたことが関係しているのかもしれない。昨今は乗り物は原則として禁煙になったのでとても助かっているが、飛行機やバスなどで化粧品や整髪料の匂いが強い人が近くにいるとかなり辛い。
ところで、私のような過敏症の人は生まれ持った体質が関係しているのではないかと思えて仕方ない。たとえば、ハイリー・センシティブ・パーソン(HSP)という気質の人が知られているが、この気質の特徴の一つに、強い匂いなどの刺激に対して敏感であることが挙げられている。特定の物質に対する感受性が高いのだ。HSPの人は人口の約15~20%に見られるとされており、5、6人に一人はHSPだ。私は自己診断テストでは明瞭なHSPというほどではないが、傾向は比較的強い。子どもの頃に診断テストをやっていたら、間違いなくHSPに該当したと思う。
ときどき体感で地震の前兆をキャッチする人がいるが、彼らの多くもHSPなのではないかという気がしている。て電磁波過敏症なども同じだろう。低周波音で体調が悪くなる人もそうかもしれない。私は地震の体感者でも電磁波過敏症でも(多分)ないが、匂いに対してはどうもかなり過敏な体質のようだ。
過敏症は化学物質や電磁波が溢れるようになった現代の病だ。自然界にはない化学物質が人間にとってマイナスに働くことはあっても、プラスに作用することは考えられない。化学物質過敏症は、ある意味「炭鉱のカナリア」なのだ。
現代社会は化学物質まみれだし携帯電話やWiFiの普及で日常的に電磁波にさらされる。5、60年前には考えられなかった状況になっている。過敏症の人は増え続けるだろう。化学物質過敏症は人類に警告を発しているのだと思う。
もともとは環境問題のことがきっかけでせっけんを使いはじめたのだが、洗剤類に含まれる香料にどんどん過敏になってしまったこともあり、香料入りの固形せっけんも使わない。香料の匂いで気持ちが悪くなったり頭が痛くなったりするのだ。それだけではない。化粧品や整髪料、ワックス、塗料類、たばこなどの匂いに対しても同じような症状がでるようになった。どうやら化学物質過敏症のようだ。さらに、化学物質とは言えないニンニクの匂いもダメになってしまった。
子どもの頃は、匂いに対して特別に敏感だったという記憶はない。化粧せっけんの匂いも、シャンプーの匂いもさほど気にはならなかった。
私が強い匂いが苦手だと気づいたのは東京に住んでいた20代の前半のことだ。当時、日本フィルハーモニー協会合唱団に参加していた。日本フィルハーモニー交響楽団ではオーケストラ付合唱曲の演奏に合わせて一般の人たちから合唱団の団員を募集していた(今でも続いているらしい)。私は友人と出かけた演奏会で団員募集のチラシをもらい、団員に応募した。週1回の練習を重ねて本番の演奏会で解散となる合唱団なのだが、その演奏会のときに化粧品の匂いで気分が悪くなってしまったのだ。
演奏会では合唱団員はオーケストラの後ろにぎっしりと詰めて並ぶのだが、舞台は人々の体温とライトの熱気、そして化粧品の匂いが充満する。この匂いがかなり強烈で次第に気分が悪くなり、途中で舞台の袖に引っ込んで休ませてもらったことがあった。他の人たちは平気なのに、なぜ私はこんなに気持ちが悪くなってしまうのだろうという疑問が頭の中で渦巻いた。そして、自分が化粧品の匂いに人一倍過敏であることに気がついた。
私はほとんど化粧をしないのだが、それからというもの冠婚葬祭などでごくたまに化粧をして車に乗ったとき、自分の化粧品の匂いで気分が悪くなった。自家用車の狭い車内で匂いがこもるとひどく気分が悪くなる。同乗者がたばこを吸っても同じで、窓を開けないと耐えがたい。ところが他の人はそうでもないらしい。その時には化学物質過敏症であるということは知らなかったが、最近になって自分が過敏症であることを認識した。
化学物質過敏症という以上は天然の匂いは大丈夫かといえば、必ずしもそうではない。北海道ではおなじみの山菜であるギョウシャニンニクを採って車に持ち込んだときも、吐き気に襲われるようになった。ギョウジャニンニクの匂いはニンニクよりさらに強烈だ。北海道では戸外でバーベキューと言えばジンギスカンが定番なのだが、これにしばしばギョウジャニンニクを入れる。はじめのうちは私も少しくらいは食べることができた。ところが、食べたあとがいけない。自分の吐く息の匂いで気持ちが悪くなるのだ。以降、ギョウジャニンニクは食べないようにしているのだが、家族が食べ、夜中に息の匂いで気持ちが悪くなって耐えられなくなり、布団をもって別の部屋に逃げだしたこともある。そんなこともあってニンニク臭も過剰反応するようになってしまった。
ワックスがけなども同じで、ワックスをかけた後はしばらく窓を開け放していないと頭が痛くなってたまらない。そんなわけで、今では香料と無縁の生活をしている。料理にもニンニクは使わない。
先日、北海道新聞に化学物質過敏症の記事が何回か掲載されたのだが、私と同じような人は一定程度いるらしい。なるほどと思った。発症のメカニズムはよくわかっていないらしいが、花粉アレルギーなどと同様に、一定の限界を超える化学物質を取り込んでしまうことが関係しているらしい。
私は若い頃から化粧はほとんどしなかったので、なぜ化粧品の香料で過敏症になったのか分からない。職場ではタバコの匂いがかなり苦痛だったが、父がタバコを吸っていたことが関係しているのかもしれない。昨今は乗り物は原則として禁煙になったのでとても助かっているが、飛行機やバスなどで化粧品や整髪料の匂いが強い人が近くにいるとかなり辛い。
ところで、私のような過敏症の人は生まれ持った体質が関係しているのではないかと思えて仕方ない。たとえば、ハイリー・センシティブ・パーソン(HSP)という気質の人が知られているが、この気質の特徴の一つに、強い匂いなどの刺激に対して敏感であることが挙げられている。特定の物質に対する感受性が高いのだ。HSPの人は人口の約15~20%に見られるとされており、5、6人に一人はHSPだ。私は自己診断テストでは明瞭なHSPというほどではないが、傾向は比較的強い。子どもの頃に診断テストをやっていたら、間違いなくHSPに該当したと思う。
ときどき体感で地震の前兆をキャッチする人がいるが、彼らの多くもHSPなのではないかという気がしている。て電磁波過敏症なども同じだろう。低周波音で体調が悪くなる人もそうかもしれない。私は地震の体感者でも電磁波過敏症でも(多分)ないが、匂いに対してはどうもかなり過敏な体質のようだ。
過敏症は化学物質や電磁波が溢れるようになった現代の病だ。自然界にはない化学物質が人間にとってマイナスに働くことはあっても、プラスに作用することは考えられない。化学物質過敏症は、ある意味「炭鉱のカナリア」なのだ。
現代社会は化学物質まみれだし携帯電話やWiFiの普及で日常的に電磁波にさらされる。5、60年前には考えられなかった状況になっている。過敏症の人は増え続けるだろう。化学物質過敏症は人類に警告を発しているのだと思う。
タグ :化学物質過敏症
2016年01月23日
温暖化の脅威
昨年(2015年)の世界の平均気温は過去最高を更新したそうだ。
2015年の世界平均気温 過去最高を大幅更新 (BBC)
世界の年平均気温の編差の経年変化(0891~2015:速報値) (気象庁)
世界の平均気温は2000年ころから10年ほど横ばいだったため、温暖化は嘘だとか寒冷化が始まっていると主張する人もいたが、どう見ても温暖化は止まるどころか加速しているとしか思えない。
昔と比べて暖かくなった、というのは私自身も実感している。
私の生まれ故郷は長野県の上諏訪だが、上諏訪はとても寒いところだった。冬の朝、玄関前に配達された牛乳が凍って紙のふたを押し上げて盛り上がるほど冷えるのが日常だった。とはいっても私が住んでいたのは幼児期なので、寒さの記憶自体はほとんどない。暖房といえば炬燵があったことしか覚えていないが、今になって考えるとよくあの寒いところでストーブも使わず過ごしていたものだと思う。今はたぶんそこまで冷えないのだろう。
母が子どもの頃、諏訪湖は毎年全面結氷してスケートをしたそうだが、近年では全面結氷の頻度が減り、氷の厚さも薄くなっているという。
私が北海道に来た35年ほど前も、今と比べると冬はずいぶん寒かった。当時住んでいた住宅は、ストーブを焚いている昼間でも長時間水道を使わないと凍結してしまうこともあったくらいだ。半日ほど外出しただけで、家の中はたちまち氷点下になる。帰宅してもしばらく防寒着が脱げない。夜はストーブを消すが、寒いときは寝室がマイナス8度くらいまで下がったこともあった。
寝る前はストーブの上で沸騰していた薬缶の湯が、朝には凍っている。水道はもちろん水抜きをするが、冷えた日は蛇口が凍って回らなくなってしまう。目覚めたらまずストーブのスイッチを入れて、部屋が暖まるまでまた布団に潜り込む。部屋が多少暖まってから起き出して着替え、薬缶の湯を蛇口にかけて回るようにしてから止水栓を開く。だから、ストーブには必ず水を入れた薬缶や湯沸かしを乗せておかねばならない。これが冬の日課だった。
数日間家を開けて帰ってきたときには、何もかもが凍ってしまって大変だった。北海道の場合、冷蔵庫は、冬に食べ物を凍らせないという役目もあるのだが(冗談のようだけれどホントの話し)、もちろん冷蔵庫の中のものまで凍っている。花瓶の水が凍って花瓶が割れていたり、調味料まで凍ってビンが割れていたり・・・。
真冬はマイナス20度以下になるのは当たり前で、25度以下になることもしばしばあった。最低気温がマイナス15度くらいだと「今日は暖かいね」という感じだった。狭い家なのに、厳冬期はストーブだけで一日10リットルほどの灯油を燃やした。
今こそ断熱性・機密性のいい住宅なのでこんなことはあり得ないのだけれど、それにしても3、40年の間にずいぶん暖かくなった。最近ではマイナス25度以下になる日は滅多になく、20度以下になってようやく「今日は冷えたね」となる。冬暖かいのは暖房費の節約になるが、もちろん喜んでなどいられない。
地球温暖化の危機が叫ばれるようになってから久しいが、これを止めるのは本当に厳しい状況になってきている。地球上の生物は戦争、放射能や化学物質による環境汚染、そして地球温暖化(含異常気象)と、いくつもの脅威にさらされているのに、この国を見渡してもなぜか危機感が感じられない。
人間は「ゆでガエル」のように、自分の身に危機が降りかからないと気づかないのだろうか? その時はすでに遅しなのだけれど。
2015年の世界平均気温 過去最高を大幅更新 (BBC)
世界の年平均気温の編差の経年変化(0891~2015:速報値) (気象庁)
世界の平均気温は2000年ころから10年ほど横ばいだったため、温暖化は嘘だとか寒冷化が始まっていると主張する人もいたが、どう見ても温暖化は止まるどころか加速しているとしか思えない。
昔と比べて暖かくなった、というのは私自身も実感している。
私の生まれ故郷は長野県の上諏訪だが、上諏訪はとても寒いところだった。冬の朝、玄関前に配達された牛乳が凍って紙のふたを押し上げて盛り上がるほど冷えるのが日常だった。とはいっても私が住んでいたのは幼児期なので、寒さの記憶自体はほとんどない。暖房といえば炬燵があったことしか覚えていないが、今になって考えるとよくあの寒いところでストーブも使わず過ごしていたものだと思う。今はたぶんそこまで冷えないのだろう。
母が子どもの頃、諏訪湖は毎年全面結氷してスケートをしたそうだが、近年では全面結氷の頻度が減り、氷の厚さも薄くなっているという。
私が北海道に来た35年ほど前も、今と比べると冬はずいぶん寒かった。当時住んでいた住宅は、ストーブを焚いている昼間でも長時間水道を使わないと凍結してしまうこともあったくらいだ。半日ほど外出しただけで、家の中はたちまち氷点下になる。帰宅してもしばらく防寒着が脱げない。夜はストーブを消すが、寒いときは寝室がマイナス8度くらいまで下がったこともあった。
寝る前はストーブの上で沸騰していた薬缶の湯が、朝には凍っている。水道はもちろん水抜きをするが、冷えた日は蛇口が凍って回らなくなってしまう。目覚めたらまずストーブのスイッチを入れて、部屋が暖まるまでまた布団に潜り込む。部屋が多少暖まってから起き出して着替え、薬缶の湯を蛇口にかけて回るようにしてから止水栓を開く。だから、ストーブには必ず水を入れた薬缶や湯沸かしを乗せておかねばならない。これが冬の日課だった。
数日間家を開けて帰ってきたときには、何もかもが凍ってしまって大変だった。北海道の場合、冷蔵庫は、冬に食べ物を凍らせないという役目もあるのだが(冗談のようだけれどホントの話し)、もちろん冷蔵庫の中のものまで凍っている。花瓶の水が凍って花瓶が割れていたり、調味料まで凍ってビンが割れていたり・・・。
真冬はマイナス20度以下になるのは当たり前で、25度以下になることもしばしばあった。最低気温がマイナス15度くらいだと「今日は暖かいね」という感じだった。狭い家なのに、厳冬期はストーブだけで一日10リットルほどの灯油を燃やした。
今こそ断熱性・機密性のいい住宅なのでこんなことはあり得ないのだけれど、それにしても3、40年の間にずいぶん暖かくなった。最近ではマイナス25度以下になる日は滅多になく、20度以下になってようやく「今日は冷えたね」となる。冬暖かいのは暖房費の節約になるが、もちろん喜んでなどいられない。
地球温暖化の危機が叫ばれるようになってから久しいが、これを止めるのは本当に厳しい状況になってきている。地球上の生物は戦争、放射能や化学物質による環境汚染、そして地球温暖化(含異常気象)と、いくつもの脅威にさらされているのに、この国を見渡してもなぜか危機感が感じられない。
人間は「ゆでガエル」のように、自分の身に危機が降りかからないと気づかないのだろうか? その時はすでに遅しなのだけれど。
タグ :地球温暖化