2023年11月26日
いくつになっても変わらないこと
子どもの頃は、自分が高齢者になったときのことなど全く想像ができなかった。まあ、それが普通なのだろう。そして実際に高齢者になってみて思うことは、いくつになっても子どもの頃とほとんど変わっていないのではないかということだった。変わらないというのは性格などではなく、趣味や嗜好が変わらないということ。
私は小学生くらいまでは昆虫が大好きで、友達と遊ぶとき以外はよく一人で虫捕りをしたり、昆虫を捕まえてきては飼育したりしていた。小学校の4年生くらいまでは、夏休みといえば昆虫標本を作っていたと思う。女の子としてはかなり変わり者だった。
小学校高学年からは野鳥に興味を持ち始め、中学生くらいから何度か探鳥会に参加した。また、中学2年のときにそれまで住んでいた借家から庭付きの一戸建てに引っ越したのだが、それを機に園芸も始めた。花壇をつくり、パンジーやサルビア、マリーゴールドなど種から苗づくりをしたし、菊の3本仕立てとか朝顔の行燈仕立てなどもやって、兄からは「老人趣味」だと笑われた。
高校時代の休日といえば、庭で園芸作業をするか、早朝から起き出して一人でおにぎりを作って探鳥会に参加するかのどちらかだったように思う。高尾山には毎月のように通い、山野の鳥はほぼ高尾山で覚えた。同級生は芸能人や男の子の話ばかりしていたが、そんなことには全く興味がなかった。
大学では生物系のクラブに入りもっぱら野鳥を観ていた。夏休みや冬休みには北海道から九州まで野鳥を観に歩き回っていた。また、先輩に誘われてクモにも興味を持つようになった。大学を卒業したあとは、週末になると時折思い立ったように夜行日帰りや夜行一泊くらいの登山にのこのこと出かけて行った。都会で暮らしていると、たまに山に登って新鮮な空気を吸うだけで、なにやら生き返ったような気持ちになったものだ。山友達はほとんどいなかったので一人で行くことが多かった。
結婚をして北海道に移り住んでからは、どちらかというとクモに夢中になっていた。北海道でクモを調べている人がほとんどいないというのがその理由の一つだった。家を建てて庭を持ってからは再び園芸を始め、一時はかなりの花を育てていた。そんなこんなで、いつも昆虫や野鳥やクモや植物を相手にしていたし、登山もときどきした。なんだかんだ言っても、常に動植物とともに生きてきたように思う。
さて、高齢者となった今は何をしているかというと、春から秋の無雪期は散歩がてらに昆虫やクモの写真を撮っている。小学生の頃の虫好きの再来で、初めて見る虫に出会うとそれだけで心がときめいてしまう。種名の分からない昆虫を調べるだけでかなり時間をとられるのだが、楽しくてやめられない。
園芸の方は、花卉園芸から蔬菜園芸に変わってきた。というのは、エゾシカが激増して玄関周りに飾っていた花を食べてしまうようになったからだ。そこで花づくりはきっぱりと諦めて庭を鹿避けネットで囲い、宿根草の花壇を少し残して他は蔬菜園芸に切り替えた。いわゆる家庭菜園だ。そんなわけで、春から秋は散歩と園芸にかなり時間をとられる生活をしている。
積雪期になると双眼鏡を持って散歩に行くが、私は寒いのが苦手なので、夏と比べて回数や距離がかなり減ってしまう。しかし、室内でもやることはいろいろある。3年くらい前から、色鉛筆でクモの標本画を描き始めた。これは高齢者になってから新たに始めた趣味の一つで、自己流だが時間があるときに楽しみながら描いている。
それから編み物もする。私は棒針編みが好きなので、もっぱらセーターを編んでいる。手芸は子どもの頃から好きで、小学生の頃からレース編みをやっていたし、中学や高校では手芸クラブに入っていた(本当は生物系のクラブに入りたかったのだが、なかったので仕方なく)。母も手芸が好きで、若い頃はセーターをよく編んでいたし、レース編みもやっていた。高齢になってからは刺繍でテーブルセンターなどを作っていた。手芸好きは母に似たのかもしれない。
あと、趣味ではないが、自然保護活動も高校生のころからずっと関わっている。野生生物が好きであれば、それらの生息環境を保全していかねばならないと思うのは当然の成り行きだ。人間も自然の一部である以上、自然環境を守らねば生きてはいけない。
こうやって振り返ってみると、子どもの頃から好きだった自然との関わりをずっと続けているのだとつくづくと思う。自分が楽しくてやっていることだから、大変だとも思わない。きっと体が動かなくなるまで同じようなことをやっているのだろうと思う。歳をとってもやりたいと思うことがあると、老いも気にならなくなる気がする。クモの標本画などまだまだ一部しか描いていないのだから、終わりが見えない。テレビもないので、漫然と時間を浪費したりマスコミに洗脳されることもない。
世の中には「虫屋」さんとか「鳥屋」さんとか、「釣り師」とか、特定の生物の採集や観察、写真撮影などにはまっている人が一定程度いる。大学受験を機に、あるいは就職や結婚を機にそういった趣味をやめてしまう人も多いが、就職しても結婚してもやめずに続けている人の大半は、おそらく一生同じ趣味を続けるのではないかと思う。趣味というのは認知症防止にも役立っているのだろう。
ここで、ふと思う。ゲームやネットばかりで育った今の子どもたちは、果たしてのめり込めるような趣味をどの程度持っているのだろうか? ちょっと心配になってきた。
私は小学生くらいまでは昆虫が大好きで、友達と遊ぶとき以外はよく一人で虫捕りをしたり、昆虫を捕まえてきては飼育したりしていた。小学校の4年生くらいまでは、夏休みといえば昆虫標本を作っていたと思う。女の子としてはかなり変わり者だった。
小学校高学年からは野鳥に興味を持ち始め、中学生くらいから何度か探鳥会に参加した。また、中学2年のときにそれまで住んでいた借家から庭付きの一戸建てに引っ越したのだが、それを機に園芸も始めた。花壇をつくり、パンジーやサルビア、マリーゴールドなど種から苗づくりをしたし、菊の3本仕立てとか朝顔の行燈仕立てなどもやって、兄からは「老人趣味」だと笑われた。
高校時代の休日といえば、庭で園芸作業をするか、早朝から起き出して一人でおにぎりを作って探鳥会に参加するかのどちらかだったように思う。高尾山には毎月のように通い、山野の鳥はほぼ高尾山で覚えた。同級生は芸能人や男の子の話ばかりしていたが、そんなことには全く興味がなかった。
大学では生物系のクラブに入りもっぱら野鳥を観ていた。夏休みや冬休みには北海道から九州まで野鳥を観に歩き回っていた。また、先輩に誘われてクモにも興味を持つようになった。大学を卒業したあとは、週末になると時折思い立ったように夜行日帰りや夜行一泊くらいの登山にのこのこと出かけて行った。都会で暮らしていると、たまに山に登って新鮮な空気を吸うだけで、なにやら生き返ったような気持ちになったものだ。山友達はほとんどいなかったので一人で行くことが多かった。
結婚をして北海道に移り住んでからは、どちらかというとクモに夢中になっていた。北海道でクモを調べている人がほとんどいないというのがその理由の一つだった。家を建てて庭を持ってからは再び園芸を始め、一時はかなりの花を育てていた。そんなこんなで、いつも昆虫や野鳥やクモや植物を相手にしていたし、登山もときどきした。なんだかんだ言っても、常に動植物とともに生きてきたように思う。
さて、高齢者となった今は何をしているかというと、春から秋の無雪期は散歩がてらに昆虫やクモの写真を撮っている。小学生の頃の虫好きの再来で、初めて見る虫に出会うとそれだけで心がときめいてしまう。種名の分からない昆虫を調べるだけでかなり時間をとられるのだが、楽しくてやめられない。
園芸の方は、花卉園芸から蔬菜園芸に変わってきた。というのは、エゾシカが激増して玄関周りに飾っていた花を食べてしまうようになったからだ。そこで花づくりはきっぱりと諦めて庭を鹿避けネットで囲い、宿根草の花壇を少し残して他は蔬菜園芸に切り替えた。いわゆる家庭菜園だ。そんなわけで、春から秋は散歩と園芸にかなり時間をとられる生活をしている。
積雪期になると双眼鏡を持って散歩に行くが、私は寒いのが苦手なので、夏と比べて回数や距離がかなり減ってしまう。しかし、室内でもやることはいろいろある。3年くらい前から、色鉛筆でクモの標本画を描き始めた。これは高齢者になってから新たに始めた趣味の一つで、自己流だが時間があるときに楽しみながら描いている。
それから編み物もする。私は棒針編みが好きなので、もっぱらセーターを編んでいる。手芸は子どもの頃から好きで、小学生の頃からレース編みをやっていたし、中学や高校では手芸クラブに入っていた(本当は生物系のクラブに入りたかったのだが、なかったので仕方なく)。母も手芸が好きで、若い頃はセーターをよく編んでいたし、レース編みもやっていた。高齢になってからは刺繍でテーブルセンターなどを作っていた。手芸好きは母に似たのかもしれない。
あと、趣味ではないが、自然保護活動も高校生のころからずっと関わっている。野生生物が好きであれば、それらの生息環境を保全していかねばならないと思うのは当然の成り行きだ。人間も自然の一部である以上、自然環境を守らねば生きてはいけない。
こうやって振り返ってみると、子どもの頃から好きだった自然との関わりをずっと続けているのだとつくづくと思う。自分が楽しくてやっていることだから、大変だとも思わない。きっと体が動かなくなるまで同じようなことをやっているのだろうと思う。歳をとってもやりたいと思うことがあると、老いも気にならなくなる気がする。クモの標本画などまだまだ一部しか描いていないのだから、終わりが見えない。テレビもないので、漫然と時間を浪費したりマスコミに洗脳されることもない。
世の中には「虫屋」さんとか「鳥屋」さんとか、「釣り師」とか、特定の生物の採集や観察、写真撮影などにはまっている人が一定程度いる。大学受験を機に、あるいは就職や結婚を機にそういった趣味をやめてしまう人も多いが、就職しても結婚してもやめずに続けている人の大半は、おそらく一生同じ趣味を続けるのではないかと思う。趣味というのは認知症防止にも役立っているのだろう。
ここで、ふと思う。ゲームやネットばかりで育った今の子どもたちは、果たしてのめり込めるような趣味をどの程度持っているのだろうか? ちょっと心配になってきた。
この記事へのコメント
クモの標本画...是非こんど見せてください。
楽しみに待っています・・・。(^^)
楽しみに待っています・・・。(^^)
Posted by 風来坊のひとりごと at 2023年11月27日 07:11
風来坊さんこんにちは。
さて、どうしましょう・・・。
絵は全くの素人なのでブログにアップするのはちょっと恥ずかしいのですが、せっかくのリクエストなので、もし気が向いたらそのうち・・・。
さて、どうしましょう・・・。
絵は全くの素人なのでブログにアップするのはちょっと恥ずかしいのですが、せっかくのリクエストなので、もし気が向いたらそのうち・・・。
Posted by 松田まゆみ at 2023年11月27日 16:40
ありがとう!楽しみに待っていますよ。(^^)
Posted by 風来坊のひとりごと at 2023年12月02日 09:29
>いくつになっても子どもの頃とほとんど変わっていないのではないかということだった。
こんにちは、ご無沙汰です。
ずいぶん前の記事にコメントで、なんだか気恥ずかしいのですが、上掲趣旨、まったく同感で一筆啓上。
だいぶ前からですが、自分が「自分」というものを認識した小学校上級だか中学だかに「これが自分だと思っていた自分」と「今の自分」とはまったく変わっていないことを折にふれて実感するのです。
ほんにまったく変わっていない、そっくりドアホのままなのです!
見ゆるところ、風貌体型などは大きく様変わりしていますが、それらをどんどん取り除いていったところに存在する「裸の自分」というものはなにも変わっていないことに気づかされ、驚愕するのです。それは、精神というか心というか、アイデンティティというか、とにかく形のないものですね。
90歳を間近にして亡くなった私の母も、そういうことを言ってましたが、おらも同じだなあ、としみじみ思うきょうこのごろです。
鬼蜘蛛ねえさん、どうぞお元気で!
こんにちは、ご無沙汰です。
ずいぶん前の記事にコメントで、なんだか気恥ずかしいのですが、上掲趣旨、まったく同感で一筆啓上。
だいぶ前からですが、自分が「自分」というものを認識した小学校上級だか中学だかに「これが自分だと思っていた自分」と「今の自分」とはまったく変わっていないことを折にふれて実感するのです。
ほんにまったく変わっていない、そっくりドアホのままなのです!
見ゆるところ、風貌体型などは大きく様変わりしていますが、それらをどんどん取り除いていったところに存在する「裸の自分」というものはなにも変わっていないことに気づかされ、驚愕するのです。それは、精神というか心というか、アイデンティティというか、とにかく形のないものですね。
90歳を間近にして亡くなった私の母も、そういうことを言ってましたが、おらも同じだなあ、としみじみ思うきょうこのごろです。
鬼蜘蛛ねえさん、どうぞお元気で!
Posted by izukun at 2024年09月03日 10:55
izukunさん、ご無沙汰しています!
ブログの更新がないのでちょっと心配していましたが、いかがお過ごしでしょうか。ニャ君は元気ですか?
アドラー心理学によると、自分のライフスタイル(性格というか思考のパターン)は10歳位の頃に自分で決めると言われています。そして、それを一生使い続けるそうです。ですから、子どものときに不適切なライフスタイルを選択してしまうと、ずっとそれに苦しめられることになるのだろうと思います。例えば、他人を敵だと考えると、他人の悪口を言ったり憎しみを抱くことになります。他人に嫌われたくないと思い、本音を隠して他人に合わせてしまうと、自分軸がなくなってしまいます。そのようなライフスタイルは自分を不幸にするとしか思えません。幸福感がある人、自分軸を持っている人は、適切なライフスタイルを選択したということだと思います。
もっともライフスタイルは自分が選んだものですから選択しなおせます。自分の思考があまり芳しくないと気づけば変えればいいのです。ただ、気づいて意識し努力しないと変えることはできません。人は、子どもの頃から使い続けている思考パターンに慣れていますから、それを変えると何が起きるのか分からず怖くてなかなか変えられないのです。
かくして、大多数の人は、子どもの頃に選択した自分の思考パターンから抜け出せないのだろうと思います。自己中な人は死ぬまで自己中、他者貢献のできる人は死ぬまで幸福、そんな気がします。
ブログの更新がないのでちょっと心配していましたが、いかがお過ごしでしょうか。ニャ君は元気ですか?
アドラー心理学によると、自分のライフスタイル(性格というか思考のパターン)は10歳位の頃に自分で決めると言われています。そして、それを一生使い続けるそうです。ですから、子どものときに不適切なライフスタイルを選択してしまうと、ずっとそれに苦しめられることになるのだろうと思います。例えば、他人を敵だと考えると、他人の悪口を言ったり憎しみを抱くことになります。他人に嫌われたくないと思い、本音を隠して他人に合わせてしまうと、自分軸がなくなってしまいます。そのようなライフスタイルは自分を不幸にするとしか思えません。幸福感がある人、自分軸を持っている人は、適切なライフスタイルを選択したということだと思います。
もっともライフスタイルは自分が選んだものですから選択しなおせます。自分の思考があまり芳しくないと気づけば変えればいいのです。ただ、気づいて意識し努力しないと変えることはできません。人は、子どもの頃から使い続けている思考パターンに慣れていますから、それを変えると何が起きるのか分からず怖くてなかなか変えられないのです。
かくして、大多数の人は、子どもの頃に選択した自分の思考パターンから抜け出せないのだろうと思います。自己中な人は死ぬまで自己中、他者貢献のできる人は死ぬまで幸福、そんな気がします。
Posted by 松田まゆみ at 2024年09月03日 14:29
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