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鬼蜘蛛の網の片隅から

2020年11月03日

日本の医療の矛盾に切り込む「日本の医療の不都合な真実」

 森田洋之著「日本の医療の不都合な真実」を読み終えた。本書は前半が新型コロナ問題に割かれ、後半はデータと夕張の診療所勤務の経験を踏まえ日本の医療の問題点を掘り下げている。

 ツイッターでは新型コロナ問題で医師や研究者などもかなり発言しているが、意見は非常に多彩で、一般の人達にとっては何が正しいのか判断するのは難しい。新型コロナを非常に警戒し検査と隔離によって感染拡大を防ぐべきだという意見や、中には根絶を目指すべきだという意見まである。その一方で、日本の場合は陽性者の数が増えていても死者数はほとんど増加しておらず厳しい対策は経済死を増やすという意見もある。

 森田氏の意見は後者だ。日本を含め東アジアでは欧米に比べて人口当たりの死者数は非常に少ない。これは偶然のこととは考えられず、BCGの接種や既存コロナの交差免疫が関わっている可能性が高いのではないかという。また韓国の例などからPCR検査を増やせば死者を減らせるという意見にも否定的だ。ウイルスを根絶しようとするのは間違いであり、ウイルスを殺すのは免疫力だという。私もほぼ同じ意見だ。

 私は3月までは都市封鎖や検査と隔離による封じ込めをするべきだと主張していた。ツイッターで流れてくる武漢の状況を見る限り、このウイルスは感染力と致死率が極めて高く、強硬手段をとらないととんでもないことになると感じだからだ。しかし、BCG仮説を知ってからはその考えは大きく変わった。実際、BCG義務国である日本は、欧米とは比較にならないくらい人口当たりの死亡者数は少ない。これから冬に向けてPCR検査陽性者が増えていくとしても、この傾向はおそらく変わらないだろう。流行初期は警戒すべき感染症であっても、細胞性免疫によってやがて普通の風邪になっていくのではないかと思う。

 BCG仮説に関しては「仮説であり立証されていない」という意見がまだまだ多い。しかし、最初にBCG仮説を提唱したサトウ・ジュン氏はツイッターでBCG仮説を支持する実験や臨床試験などの結果をしばしば紹介している。私はほぼ立証されたと言っていい段階にまできていると思っている。

 さて、本書で森田氏が最も主張したかったのはコロナ問題というより今回のコロナ騒動から見えてきた日本の医療の問題点だ。森田氏は本書の後半で、以下の7つの言説について否定している。

・病床が多いと平均寿命が延びる
・全国どこでも同じような医療が受けられる
・医師が忙しすぎるのは医師不足だから
・地域の病院は減らしてはいけない
・公立病院の赤字は税金の無駄遣い
・病院がなければ高齢者は幸せに生きられない

 これらについての具体的な説明は本書に譲るが、印象に残ったのは日本は人口当たりの病床数がダントツ一位で平均寿命もトップだが、世界の傾向は病床数を減らしつつ平均寿命を延ばしてきたというグラフだ。また、日本国内で病床数が多い都道府県ほど一人当たりの入院費が多いことを示すグラフも驚いた。病床数が最も多い高知県民は最も少ない静岡県民の2倍近い入院費を支払っているという。病床が多い地域では空き病床を埋めようとする力が働くとしかいいようがない。

 日本は世界で最も病床数が多いにも関わらず、新型コロナが猛威を振るったこの春、コロナ患者を受け入れた一部の病院は医療崩壊寸前まで追い込まれ、受け入れを拒否した多くの病院は逆に患者が減ってしまった。しかも、どちらも経営的に大変な状況に追い込まれた。私も、これに関しては宇沢弘文氏の指摘した「医療的最適性と経済的最適性の解離」が新型コロナで明瞭になったとツイッターで呟いたが、民間病院が多い日本の医療が抱える大きな矛盾だ。感染症の流行で多数の病床が必要になったときにも、民間病院が協力し合って患者の受け入れ態勢を整えるという融通が利かない。

 また、経営を最優先する民間病院では、検査漬けや薬漬けになりやすい。私も親族の入院などで、病院が必要とは思えない検査を行うことを何度も経験した。肺がんで入院しているのに婦人科の内診をしたり、急性膵炎で入院した高齢者に原因究明との理由でいくつもの検査をしたり、意味があるとは思えないMRI検査を予約させたり。高額な検査機器の費用回収という目的なのかもしれないが、医療を市場原理に任せてはならないとずっと感じてきた。森田氏は不必要な医療が多数存在するというが、私もその通りだと思う。

 日本は国民皆保険によって低額で医療が受けられるが、寝ていれば治癒する風邪やインフルエンザで医者にかかり、薬を出してもらいたがる人がとても多い。もちろんインフルエンザでも亡くなる人はいるので重篤な症状があれば医療機関を受診すべきだが、患者自らが検査漬けや薬漬けを希望している側面も否めない。コロナ禍で医療機関にかかる人が激減したが、過剰な医療を受けている人が多いことが浮き彫りになった。

 また、森田氏はプライマリ・ケア医の重要性も指摘する。プライマリ・ケア医とは、子どもから高齢者、急病から老衰の看取りまでどんな困りごとにも対応してくれる地域のかかりつけ医のことだ。しかもプライマリ・ケア医は心や体だけではなく社会(地域)も診ることが求められるという。北海道の地方に住む私もプライマリ・ケア医を普及させることは賛成だ。これは地方だけに当てはまることではなく、都会でも同様だと思う。

 北海道の夕張市は財政破綻し、市内に一つしかなかった171床を持つ「夕張市立総合病院」が閉鎖され、19床の有床診療所と介護老人保健施設に縮小された。森田氏はその診療所の医師として勤務した経験から、訪問診療や訪問看護を充実させることで入院患者を減らせるだけではなく、救急搬送も減り、患者の生活の質も向上したことを紹介している。私も訪問診療や訪問介護はもっと普及すべきだと思うし、森田氏の意見に基本的に賛同する。高齢者をすぐに病院に入院させてしまうのではなく、在宅で診療や看護をしてもらえるのなら、生活の質を保つことにつながり、精神面でもメリットが大きいと思う。

 森田氏は夕張モデルを根拠に厚労省の公立病院の統廃合も肯定している。しかしこの点に関しては、私はもっと慎重であるべきだと思う。病院の閉鎖後に夕張のような体制が整えられるのならまだ分かるが、先行きが分からない中で「廃止ありき」で進められるのなら住民の理解が得られるとは思えない。

 私も北海道の僻地に住む以上、都会と同等の医療を受けられるとは思っていない。しかし、地方の過疎化と高齢化は歯止めがかからず医療機関の数も公共交通機関の本数も減る一方で、運転免許を手放したら僻地に住み続けるのは極めて困難になる。正直いって、住み始めた頃はここまで不便になるとは思ってもいなかった。大きな街に移住していく高齢者が後を絶たないのもよく分かるし、私自身も身内の入院をきっかけに移住を考え始めている。

 個人的には、地方の公立病院は規模を縮小しても存続してほしいと思う。今はITを利用した遠隔診療も可能になってきており、疾患によっては地方の病院での救急搬送の受け入れも広がるのではないかと思う。また患者が少ないからと診療科を減らすのではなく、定期的に専門医を派遣してもらうということも一つの選択肢ではなかろうか。

 医療を市場原理に任せてしまったことが日本の医療の矛盾の根底にあると思う。本書では触れられていないが、医療業界と製薬会社などの癒着や利権構造もその矛盾を大きくしているのだろう。医療はやはり社会的共通資本としてできる限り公平に、無料ないしは安価で提供できるのが理想だ。そのためには新自由主義から抜け出さねばならないし、私たち一人ひとりの意識改革も必須だと思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 21:21Comments(0)政治・社会

2020年10月23日

『人新世の「資本論」』が描く脱成長の豊かな社会

 斎藤幸平著『人新世の「資本論」』を読み終えた。久々に衝撃的な本に出合った。

 本書の主張を端的に言うならば、今の環境危機を招いたのは限りなく成長と利潤の追求を続ける資本主義であり、環境危機から人類を救うためには資本主義から脱却しなければならないということだ。そして、著者の斎藤氏はその解決方法がマルクスの思想の中にあることを見出し、具体的な提言をする。

 今の時代に資本主義を否定したり、経済成長を否定する人は極めて少ない。環境問題を主張する左派の人でさえ、経済成長を明確に否定する人はそれほど多くないのではなかろうか。私は正直言ってそのことが不思議でならなかった。

 10代の終わり頃、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を読んだ。当時の私にはかなり難解だったが、私はこの本を読んで資本主義に絶望的になった。限りない利潤の追求はいずれ富の偏在や不平等に行きつくだろうし、そもそも有限な地球で限りない利潤の追求など続くわけがない。子どもの頃から虫や自然が好きで、経済成長とともに自然が破壊され公害が発生していく現実を目の当たりにしていたから、利潤追求の資本主義に恐怖を感じたし、私には、資本主義を賛美する人達の思考が全く分からなかった。

 私は強く支持する政党がない。なぜなら日本には資本主義を否定して脱成長や定常経済を主張し環境問題に真剣に取り組む政党が見当たらないからだ。

 私はこのブログでも脱成長や定常経済、地球温暖化について何度か唱えてきたが、経済成長の否定に関してはどちらかというと直感的なものからきていた。地球の資源は有限であるし、そこに住める人の数も限られる。しかし経済成長が地球の資源を食いつぶして成り立っている以上必ず限界がくるし、温暖化をはじめとした地球環境問題も経済成長に端を発している。

 人類が地球上で生物進化によって誕生し、地球という生態系を外れて生きていくことができない以上、経済成長は自滅の道でしかないだろう。生物は環境の変化に応じてゆるやかに進化適応しているが基本的に「定常」状態であるからこそ、生物多様性が保たれているのだ。そして気の遠くなるような年月をかけて種分化した生物たちを、人類がものすごい勢いで絶滅に追いやっている。無限の経済成長は地球の生態系のシステムを破壊し、地球温暖化問題として人類の生存を脅かすようになった。

 またグリーン・ニューディールや技術によって環境問題を解決しようとしても、経済成長を目指す限りおそらく上手くいかないだろうということも直感していた。人が自然の摂理に逆らおうとしても、自然はそれを押し返そうとする。技術で自然をコントロールしようという思考こそが人類の驕りだ。

 しかし、本書は私が直感的に感じていたこれらのことを実に論理的に解き明かしている。単に問題点の指摘に留まらず、気候危機を乗り越えるために私たちはどんな社会を構築し、どんな行動をしたらいいのかという具体的な提言は見事と言うしかない。

 私自身、今の尋常ではない格差の拡大も、自然環境の破壊も、地球温暖化問題もみんな繋がっていて資本主義に起因しているということは分かっていても、ではどうやって資本主義から定常経済への転換を遂げるのかということになると、頭を抱えてしまっていた。

 せいぜい思いつくのは、成熟した資本主義から一気に別の定常的なシステムに移行することはできないだろうから、まずは北欧型の福祉国家に転換することで平等な福祉国家に移行して貧困の解消と労働環境の是正をはかりつつ定常経済へのソフトランディングの道を探るということくらいだった。しかし、本書を読んでその考えは修正をしなければならないと思った。

 北欧型の福祉国家は資本主義社会においては確かに対等で平等な社会を実現するためのシステムとして優れていると思う。しかし、やはり資本主義が根底にある以上、北欧型社会を実現しても地球危機の問題は解決しない。人類が直面する環境危機から脱するには限りない利潤追求や経済成長、つまり資本主義を否定するしかないのだ。しかも、一刻も早く資本主義から抜け出す必要がある。気候変動への対応も、対等で平等な社会への移行も、労働環境の改善も待ったなしの状態だ。本書を読めば、そのことが確信できる。

 もう一つ、斎藤氏の主張で大事なことは、資本主義の発展によって搾取されてきたグローバル・サウスの人達の声を聴き連携するという主張だ。私たち先進国の人達の豊かな生活が、グローバル・サウスの搾取から成り立ってきたことを、多くの人は実感していないし知らない人も多いだろう。環境危機は地球規模で起きているのであり、世界の国々の人達が同時に立ち上がって行動しなければ解決しない。

 日本は利権構造が根強くはびこり、地球温暖化対策も声高に叫ばれないし、経済成長神話から抜け出せない人達が大多数だ。私は正直いって、かなり絶望的な気分になってきていた。しかし、斎藤氏の提唱する「脱成長コミュニズム」は決して実現不可能な話ではない。企業という組織から抜け出して協同組合やワーカーズコープに移行することは現実的な提案だ。

 第六章「欠乏の資本主義、潤沢なコミュニズム」から一部を引用しよう。

 もう新自由主義には、終止符を打つべきだ。必要なのは、「反緊縮」である。だが、単に貨幣をばら撒くだけでは、新自由主義には対抗できても、資本主義に終止符を打つことはできない。
 資本主義の人工的希少性に対する対抗案が、〈コモン〉の復権による「ラディカルな潤沢さ」の再建である。これこそ、脱成長コミュニズムが目指す「反緊縮」なのだ。


 この引用部分だけでは何を言っているのか分からないかもしれないので、少し説明したい。資本主義というのは商品の希少性をつくりだす。たとえば水というのは誰もが必要であり「使用価値(有用性)」がある。ところが水道事業を民営化して商品として扱うと、水の商品としての「価値」が重視されて価格が吊り上げられ、水質や維持管理費はないがしろにされることになる。その結果、水道料金を払えない人は給水を停止されてしまう。つまり水を商品化することで希少な有償財になってしまい、使用価値も棄損される。これが「資本主義の人工的希少性」だ。水を共同体の所有物として管理し、一定のルールの下に誰でも利用できるようにするのが「〈コモン〉の復権」だ。

 斎藤氏は脱成長コミュニズムの柱として①使用価値経済への転換 ②労働時間の短縮 ③画一的な分業の廃止 ④生産過程の民主化 ⑤エッセンシャル・ワークの重視 を掲げている。それらの詳細については、是非本書をお読みいただきたい。(注)

 新自由主義に危機感を抱く人の多くが「反緊縮」で思考停止してしまっている。MMTによる反緊縮の主張はその最たるものだろう。しかし、それだけでは決して気候変動は止められないし、世界中の誰もが幸福になれる道でもない。

 もう一つ付け加えるなら、斎藤氏の目指す脱成長コミュニズムこそ、人々に精神的な安定と豊かさをもたらすに違いないと思う。資本主義は格差を拡大させたばかりではなく、人々を終わりなき競争に追い立てることで精神的にも疲弊させた。脱成長コミュニズムはまさに人々が信頼し協力しあう社会であり、心理学者のアルフレッド・アドラーの提唱する共同体感覚と一致する。脱成長コミュニズムは、資本主義で失われた精神の安定や幸福感を取り戻すことができるのではなかろうか。

 これだけ格差が拡大し富の偏在が生じた社会において、資本主義に見切りをつけ定常経済に移行するのはもちろん容易なことではないだろう。当然のことながら大企業や富裕層の大きな抵抗を覚悟しなければならない。しかも資本主義、とりわけ新自由主義で競争に駆り立てられ、国民が「信頼と相互扶助」の意識を失ってしまった国ほど困難が付きまとうのではないかと思う。しかし、今それをやらねば、私たちの住む世界は混沌とした野蛮状態に陥り環境危機で自滅するだろう。

 私たち一人ひとりの決断と行動が、未来への責任を負っている。「今だけ金だけ自分だけ」の新自由主義から、そして資本主義からきっぱりと方向転換すべきだ。

*注 10月24日に引用部分についての説明を追記しました。
  


Posted by 松田まゆみ at 14:27Comments(0)環境問題政治・社会

2020年08月30日

減っていくクモや昆虫

 ここ10年ほど諸事情であまり散歩やクモ採集にでかけていなかったのだが、今年は散歩を再開した。しかし近年はクモが随分減っているように思えてならない。今の場所で暮らすようになってから約40年が過ぎた。そしてかつて普通に目にしたクモが、「そういえば最近見ていない」と思うことが多いのだ。

 たとえばチュウカカニグモ。この大型のカニグモは以前はしばしば目にした普通種だったのだが、なぜか今年は見ていない。最近見るのはシギカニグモばかりで、そういえばチシマカニグモやカニグモも見ていない。散歩のときは捕虫網を持たず目に付いたクモを見ているだけだから、捕虫網でスウィーピングでもやれば入るのかもしれないけれど、それにしてもここまで見ないのは不可解だ。

 キバナオニグモは以前は住宅の軒先にも網を張っていたし、林縁などでしばしば目にしたクモだが、最近は頻繁には見なくなった。いないわけではないが、以前ほど目につかないのだ。マユミオニグモもしばらく見ていない。

 カンバやトドマツの幹に棲むムレサラグモも以前は普通に見られたのに、最近はめっきり減ってしまった。一昨年(2018年)にシラカバ林でムレサラグモを探したときには1時間で4頭しか見つからなかった。どう考えても減っているとしか思えない。

 先日関東在住のクモ関係の知人が来たのだが、その方も以前きたとき採集できたクモが今回はあまり採れないとのこと。やはり私が見つけられないということだけではなく、実際に減っているのだと思う。

 そしてこの「減少」はもちろんクモに限らない。たとえば蝶のキベリタテハなどは以前はしばしば目にしたが、最近はあまり見かけない。ルリタテハもずっと見ていない。以前はたくさんいたジョウカイボンやアオジョウカイも、ずいぶん少なくなったように思う。知らないうちに確実にクモや昆虫が減っている。

 一体何が原因なのだろう?

 私の住んでいるところは山間部で、開発行為による環境破壊はそれほどない。ただし、周辺の森林は伐採が進んだことで大径木がほとんどなくなり若齢のトドマツが増えている。それからエゾシカが増えたために林床はシカが食べない植物ばかり繁茂するようになり多様性が失われた。そういった植生の変化は確かにある。

 また私の居住地には農地はないので、農薬散布は基本的にない(個人が住宅の周りに除草剤を撒くことなどはあるが)。ただし、以前に比べて人口が減り、住宅地の周辺の木も繁茂してきているので、開けた環境が減ったということは言えるだろう。最近はスズメすら珍しくなってしまった。

 地球温暖化の影響はどうだろうか? 気温は確かに上昇している。以前は冬の最低気温がマイナス25度以下になる日がしばしばあったが、最近では滅多にない。しかし、気温だけでそんなにクモや昆虫が消えてしまうものだろうか?

 結局、理由はよく分からないのだが、複数の環境の変化がクモや昆虫などに何等かの影響を与えているとしか思えない。

 つい先日、小笠原諸島固有種の蝶、オガサワラシジミの飼育下での繁殖が途絶え、絶滅の可能性が高くなったというニュースが流れた。小笠原諸島で個体数が激減し絶滅が危惧されたため、多摩動物公園と新宿御苑で飼育して増殖に取り組んでいたが、8月25日に飼育していた全ての個体が死んでしまったとのこと。小笠原諸島では2018年から生息が確認されていないとのことで、とても残念でならない。

 昆虫の1種や2種が絶滅したところで、何の影響もないという人もいるかもしれない。しかし、地球に棲む一つひとつの生物種に長い進化の歴史が宿っているし、小さな生き物が生態系の中で重要な役割を果たしていることもある。その重みを考えたなら、人間の活動に起因した種の絶滅は限りなく罪深い。

 日本でも昆虫やクモなどの小さな生物ではまだ次々と新種が発見される。しかし、新種記載もされないまま姿を消してしまった生物もいるかもしれない。身近にいた昆虫やクモの減少に何やら暗澹とした気持ちになる。そして、せめて今ある自然環境をこれ以上破壊してはならないとつくづく思う。
  

Posted by 松田まゆみ at 11:20Comments(2)生態系

2020年07月19日

新型コロナについて今思っていること

 新型コロナウイルスについていろいろな方がいろいろなことを言っている。ほとんど正反対の主張が飛び交っており、何が正しいのかわからない人も多いと思う。というのも、すでに新型コロナに感染(無症状も含む)した人の割合をどう想定するかで、今後の重症者の数が全く違ってくるからだ。仮に感染者が人口の1割程度と想定するとまだまだ感染者は増え、それに従って重症者や死者も増えていくと予測できる。しかし、5割がすでに感染していると想定すると、今後の重症者や死者はそれほど多くはならないと推測できる。

 正直言って、これからどういう展開になるのか正確に予測できる人は誰もいないだろう。私は、東京などの過密都市ではすでにかなりの人(3割~5割くらい?)が感染してしまったのではないかと考えている。現時点での私の考えを以下の昨日(7月18日)の連続ツイートに書いたので、ここにも残しておきたい。もちろん当たるかどうかは分からない。

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新型コロナの陽性者数が増えていることを巡って、意見が大きく割れている。検査数を増やし自粛などの対策を早急にとらないとまた重症者や死者が増えて大変なことになるという意見と、重症者や死者は増えていないので厳しい対策は不要だという意見に大きく分かれているように見える。

前者の人達は、重症者や死者は陽性確認から遅れて生じるからこれから増えるのだと言う。後者の人達の多くはBCG仮説や交差免疫仮説支持者で、警戒は必要なもののさほど深刻な事態にはならないだろうという考え。ツイッターを見ていると圧倒的に前者の人が多いように見受けられる。

私は後者。日本には新型コロナは昨年から入っており、特に人口過密の都市ではウイルスは指数関数的に拡散されてきたと考えている。初期には多くの人は自然免疫で撃退し無症状や軽症で自覚すらなかったかもしれないが、免疫力が落ちていたり大量にウイルスを吸入して重症化した人も少しはいたと思う。

そして3月から4月にかけてウイルスの拡散がピークに達し、大量のウイルスに暴露する人も増えて中・重症者や死者も増えたが、その陰に膨大な軽症や無症状の人たちがおり、検査してもらえなかったために可視化されなかった。ピークを越えて今は暴露量も減り落ち着いてきているのではないかと推測。

また、夏にはウイルスの拡散は続いていても重症化はしないのではないかという説もある。この場合は冬になればまた中程度の症状の人や重症化する人が出てくると推測されるが、冬までにかなりの人が暴露を経験しているであろうから、今年の3~5月のような数にはならないと思う。

自然免疫で撃退した人はウイルスを記憶して何度暴露しても撃退してしまうのだろう。そうやって未暴露の人が少しずつ減っていく段階に入っているのではないかと思う。もちろん、免疫力が落ちていたり大量にウイルスを吸入して自然免疫で撃退できない人もいるだろうから油断してはならないが。

緊急事態宣言によってウイルスの拡散は多少は減ったかもしれない。しかし、日本のようなゆるゆるの対策では公共交通機関や職場、買い物等でいくらでもウイルスを体内に取り込む機会はあり、拡散速度を多少落とした程度ではないかと思う。一方、地方はウイルス暴露量が少なく重症化しにくいのでは。

武漢で感染爆発し多くの死者を出してしまったのは、新型コロナでパニックになった人が病院に殺到したり、公共施設などの密閉空間にコロナ患者を多数収容したことで大量のウイルスを吸入してしまい、自然免疫で撃退できる暴露量を超えてしまったことが関係しているのではなかろうか。

結局、自然免疫の強さとウイルスの暴露量によって重症者や死者の数が決まってくるのではないかと推測している。今の陽性者の増加は、検査数の増加、無症状の人の検査、2度目3度目の暴露の人もいるということではなかろうか。過去に体内に入ったウイルスの死骸が検査に反応しているのかもしれない。

ウイルスの感染力が強くなったという話もあるが、今のところ毒性が強くなっているという印象はない。陽性者数が増えているといっても5月までは膨大な数だったであろう無症状や軽症あるいは中程度の人の検査はしていないわけで、無症状も検査するようになった今、陽性者数に注目しても意味はない。

注目すべきは重症者や死者の数であり、陽性者数ではない。今後やるべきことは重症化防止対策であり、ツベルクリンやBCGで自然免疫を高めたりウイルスの暴露量を減らす努力ではなかろうか(特に病院や高齢者施設では)。警戒は必要だが、重症者が継続して増えない限りほぼ普通の生活に戻していいと思う。

  


Posted by 松田まゆみ at 21:00Comments(0)新型コロナウイルス

2020年06月18日

スギナ撲滅作戦

 花壇や畑に生えてくる植物を一言で雑草と言ってしまうのは少々抵抗があるが、春から夏にかけての季節はその雑草との根比べになる。

 我が家の庭の場合、厄介な雑草はスギナ、ヒメスイバ、キレハイヌガラシなど、地下茎によってどんどん広がっていく植物だ、中でもスギナは根が深く、取っても取っても生えてくる。これを根絶させるのはほぼ不可能だと思い、今までは庭の草取りは1週間に1度くらいのペースでまとめてやっていた。

 この厄介なスギナを根絶する方法はないのかとネットで調べてみると、除草剤を使えとか、防草シートを敷けといった記事ばかりが出てくるのだが、さらに調べていくうちに「毎日抜いていればそのうちに生えなくなる」と書かれているブログ記事を見つけた。

 言われてみればその通りだ。休眠している冬の間は地下茎で生き続けていても、成長期に光合成をする地上部を徹底的に除去すれば、いくら丈夫な植物でも生きていくことはできないはずだ。ということで、今年は雨の日を除いて毎日、花壇や畑などの雑草を除去してみることにした。花壇や畑の中は抜き取り、通路など広い場所は草削り(小型の除草ホー)で取り除く。

 スギナに勢いがあるときは、こんな感じで地面から顔を出す。




 しかし、毎日抜き続けていると、だんだんと細くなり勢いがなくなっていく。




 とはいうものの、スギナはなかなかしぶとい。毎日の除草を始めてからすでに1か月以上が経つが、まだまだ生えてくる。どうやら1日に1~2センチは延びるのではないかと思う。取り残すとすぐに5センチ、10センチと伸びている。恐ろしいほど成長が早い。とはいうものの、初めのうちは1~2時間かかっていた除草が、最近では30分~1時間ほどになってきた。スギナの勢いがなくなってきたからだ。

 一体いつまで続けたら枯れるのだろうか? とりあえず、今年は実験ということで当面のあいだ毎日の草取りを続けようと思っている。スギナが生えなくなるだけで、庭の草取りは断然楽になるはずだ。まさに根比べだ。
  

Posted by 松田まゆみ at 20:06Comments(0)雑記帳

2020年06月16日

山本太郎氏の言動から見える彼の目的

 昨日、山本太郎氏が記者会見を開き都知事選への出馬を表明した。山本氏に関してはこれまでもこのブログで何回か批判的記事を書いてきたが、以下は今日の連続ツイート。彼の扇動的な街宣や記者会見での発言を「迫力がある」といって評価したり注目する著名人もいるが、私はとても危ういと思っている。

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山本太郎氏が「れいわ新選組」なる政党を立ち上げてから、彼の言動を関心を持って見てきたが、彼はおそらく野党共闘などまったく関心がなく自分の支持率を上げ自分の政党を大きくし、願わくは総理大臣になり、自分の理想とする政治をすることが目的なのだろうと私は考えている。

彼は野党共闘とか野党統一候補に関して、必ず条件をつける。そして、他党が条件を呑まないからと他党の責任にして共闘に参加しようとしない。立憲民主党の悪口を言い、共闘の話し合いにすら参加しようとしない。一見、共闘に関心があるように見せかけているが、本音では共闘に関心がないのは明らか。

それならはじめから「共闘には参加しません」と明言すればいいのにそうは言わず、自分が共闘に加わらないことを他党のせいにして様々な言い訳をする。共闘に参加しないことが自公政党を利することは誰にでも分かることだが、「自分こそ庶民の味方」「自分こそ正義」を掲げて庶民の心をつかもうとする。

そうした行動から見える彼の目的は、「自分こそ救世主だ」「他の人には自分と同じことはできない」と生活の苦しい人たちに訴えかけることで権力を手にすることだ。彼の「総理大臣を目指す」「権力よこせ」という発言に端的にそれが表れている。後者の発言を聞いたときに、私は心底ぞっとした。

「権力よこせ」というのは、「権力さえ手にすれば、自分の思い通りになる」という発想に基づいている。民主主義とは正反対であり独裁者の思考だ。正直いって、安倍首相の発想とどこが違うのかと思う。どんなに「庶民の味方」を強調したところで、独善的な人物をリーダーにしたならば独裁政治になる。

地方自治であれ国政であれ、こういう思考の政治家を選んではならないと私は思う。彼の発言、彼の振る舞いを観察していれば、彼の目的が自ずと見えてくる。パフォーマンスの効いた迫力のある演説の裏にある彼の真の目的と独善性を、有権者はきちんと読む必要がある。

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山本太郎氏が野党共闘に参加する気などないことはこれまでの言動から明白だ。しかし、今の与野党の勢力を見れば、野党が統一候補を立てない限り政権交代はできないし、まして弱小政党の党首が総理大臣になどなれるはずがない。ならば彼はどうやって総理に上り詰めるつもりなのだろうか?

そこで思い出すのが「消費税減税で一致すれば自民党とも組む」という彼の発言だ。彼にとっての敵は自公政権ではなく、消費税減税に賛同しない人たちなのだろう。政党の枠を超えて消費税減税とMMTを基にした独自の財源論に乗ってくる人達でまとまり政権を取ることを考えているのではないか。

そんなやり方で政権がとれるとはとても思えないが、それにしても「消費税減税・廃止」と「借金によるバラマキ政策」にあれほどにまで固執することに、「ブレていない」というより何か異様なものを感じてしまう。経済政策とはそんな単純なものではないだろうに。
  
タグ :山本太郎


Posted by 松田まゆみ at 21:21Comments(0)政治・社会

2020年05月02日

人口あたりの死者数が極めて少ないという事実に向き合わない政府

 安倍首相は5月6日を期限としていたインフル特措法に基づく緊急事態宣言を延長する見通しを示した。緊急事態宣言の発令に際してあれほど及び腰だったのに、延長に関しては早々決断したようだ。しかも1、2週間様子を見ながら解除や緩和を見定めるというのならまだしも、1か月も延長するという。

 私には政府も専門家会議の見解も理解しがたい。この1か月の外出制限が効果がなかったとは思わない。しかし、安倍首相が一日2万人に増やすと言っていたPCR検査は相変わらず絞っている。感染者が多い都道府県では、相談窓口に電話をしてもほぼ繋がらないという状況は変わっていない。相談窓口業務が破綻している。新型コロナではないかと疑われる症状があっても放置されている人が大勢いるのだから、大都市などを中心に3月から4月には感染爆発が起きていたと考えるのが自然だろう。ただし、あまりに検査を絞っているので陽性者数から実際の感染者数を推測することもできないし、ピークに達したのかどうかも分からないという状態だと思う。あまりにお粗末だ。

 私は前回の記事の最後に「日本が西欧諸国や米国のような大変な状況になるか、それとも台湾のように比較的低い死亡率に留まるかはあと数週間もすれば分かるだろう」と書いた。それから3週間ほどたったが、日本の人口あたりの死亡者数は非常に少ない状態のままだ。現時点で100万人あたりの死亡者数は3.9人ほど。200~500人レベルの欧米諸国と比べるとけた違いに少ない。日本の場合はおそらく軽症者や無症状者の割合が非常に高く(このような人達は感染しても抗体ができていない可能性が高い)、こうした人達が気づかないうちに感染を拡大させて都市部では感染爆発が生じているが、重症者や死亡者の割合は非常に少ないというこではないかと思う。

 この要因はBCG効果によるものだろうと私は考えているが、BCG仮説を措いておいても、重症者や死亡者の割合が非常に少ないというのが事実だ。そして同じように死亡者が少ない台湾や韓国では、検査を充実させ陽性者の隔離を徹底するなどの政策だけで、都市封鎖や厳しい外出規制をせずとも何とかなっている。人口当たりの死亡者数が少ない日本も、厳しい外出規制なしでも経済活動を続けられるのではなかろうか。

 こう言うと、「医療崩壊が・・・」と言う声が聞こえてきそうだ。しかし、日本の医療崩壊は多くの病院が新型コロナ患者の受け入れを拒否しているために、受け入れをしている一部の病院の負担が大きくなりすぎているという事情がある。受け入れをしていない医療機関は閑散としているという。新型コロナ患者を受け入れる病院に対して資金援助をするなどして病床を確保することができれば、何とかなるレベルではないかと思う。

 これほど死亡者数が少ないのに政府も専門者会議もその事実をほぼスルーするのは何故なのだろう? 「緊急事態宣言を解除してもし感染者数が増加したら批判にさらされる」という自己保身から継続を主張しているだけなのではなかろうか? しかし、十分な休業補償もせずに今の規制を続けたなら、中小企業の倒産が相次ぐだろうし失業者があふれることになる。廃業したり生活が困窮する個人事業主も急増するだろう。こんな時期だから、失業してもすんなりと仕事が見つかるとは思えない。家賃が払えない、食費すらない、住まいを失うという人達がどんどん増えてしまう。十分な補償がないままではおそらく自死や飢餓で亡くなる人も続出するだろう。政府はそのことをどう考えているのだろうか?

 もちろん新型コロナによる死亡者を抑えるという努力は大切だ。西欧や米国で経済を犠牲にしてでも厳しい制限をしているのは、死者があまりに多いからだ。しかし、日本は明らかに西欧や米国とは違う。3月まではほとんど対策らしい対策をせずにきたにも関わらず今も死者数は非常に少ない状態を保っているのだ。緊急事態宣言の延長で新型コロナによる死者を減らすことばかりに拘り、別の死者を増やすということはあってはならない。死者数が少ないという幸運を生かし、そろそろ経済活動を再開させる方向に舵を切るべきではないか。5月に入っても死者数は少ないままなのだから、「これから西欧や米国みたいな悲惨なことになる」などという思考はリセットする必要がある。

 日本は他の先進国と異なり、流行早期に徹底すべきだった検査と隔離をせず、今でも検査を抑制しているゆえに実際の感染拡大の状況もピークもわからない状態になってしまった。さらに感染拡大が相当進んでから緊急事態宣言に踏み切ったために、早期の感染拡大防止に失敗。そして感染者が急増している割には人口当たり死亡者数が非常に少ないことが判明したのに、経済活動の再開よりも緊急事態宣言の延長という選択。2か月もの猶予がありながらマスクや防護服の増産体制すら整備しなかった。また、漏洩率100%の粗悪品布マスクに多額の税金をかけるという無駄。日本政府のやることは失敗と愚策に終始している。

 安倍政権は、今回の延長に関しても論理的な判断というより「延長すべきだ」という専門家や国民の声の大きさで判断しているように思えてならない。つまり国民の命や生活を守ることよりも、自身の支持率を落とさないための延長判断だろうと私は捉えている。自分の利益しか考えていない政権は、まともな対策を講じることも適切な判断もできない。

 最後に、「雲ノ平山荘」の記事を紹介しておきたい。私の言いたいことが的確に凝縮されている。「感染症が社会の主役なのではなく、あらゆる人々の生命や生活が社会の主役なのです」という筆者の言葉に深く同意する。

コロナ禍の風景① 混乱と向き合う
  

Posted by 松田まゆみ at 20:48Comments(0)新型コロナウイルス

2020年04月09日

新型コロナウイルスはどのように終息するのか

 前回の記事を書いてから、非常に興味深い仮説を知った。ごく簡単に言ってしまうと結核のワクチンであるBCGが新型コロナウイルスの重症化を抑制しているのではないかという仮説だ。さらに、BCG株には複数あり、株の違いによって効果も違うのではないかという。日本で用いられている株は抑制効果が高い可能性が示唆されている。以下の大隅典子さんのブログによる解説が分かりやすい。

【さらに追記しました】新型コロナウイルスとBCG

 また、結核罹患者が多い国ほど、100万人あたりの新型コロナウイルスによる死者数が低いということも以下の二つの地図から読み取れる。

100万人あたりの新型コロナウイルスによる死者数

結核の罹患者数

 このBCG仮説が正しいのであれば、BCGの接種率が高い国(日本のような強毒株は特に)や結核の感染者が多い国では新型コロナウイルスによる重症化が抑えられている可能性がある。ただし注意しなければならないのは、BCGを接種していても新型コロナウイルスに感染しないというわけではない。あくまでも重症化する割合が低いということだ。また、免疫が落ちていたり基礎疾患のある高齢者は重症化するリスクが高くなる。

 日本では欧米などに比べて感染爆発が遅れているように見えるが、その一つの要因は検査の抑制があるのだろう。日本の場合、クラスターや重症者に偏った検査をしてきており、症状があって検査を求めても拒否されるという事例が続出した。東京などはほとんどの人が検査拒否されてきたようだ。だから、実際の感染の広がりをつかむことができていない。たぶんすでに相当蔓延しているのではないかと思う。

 もう一つは、無症状者や軽症者が非常に多いのではないかということだ。新型コロナウイルスの特徴として感染していても症状が出ない人や軽症の人(下痢だけという例もある)が多く、そのような人が感染を広めていると考えられる。

 希望者全員に検査を行っていて症状がなくても検査を受けられるアイスランドでは、陽性になった人の50%が無症状だったという。このことからも、自分が感染していることに気づかずに他者に感染させてしまっている人がかなり多いのではないかと推測される。以下、参照。

「何年もかけて備えてきた」アイスランドではだれでも新型コロナウイルスの検査が受けられる

 BCG仮説が正しいのなら、日本ではBCG効果によって無症状者や軽症者の割合が非常に高いかもしれない。ツイッターに流れてくる情報からも、このウイルスは家族のうち一人が感染すると多くの場合は全員が感染してしまうようようで、非常に感染力が強い。とすると、東京などの人口密度の高い都市では、満員電車に乗るだけで感染する可能性が高い。感染力の強さと無症状者や軽症者の多さによって、都市部ではすでに感染が相当広まっている可能性がある(とすると死亡率はそれほど高くないのかもしれない)。これを確かめるには抗体検査が必要だ。

 もしこの推測が当たっているのであれば、今後の対策も違ってくる。この感染力の強い感染症は大多数の人が感染することで集団免疫状態になるか、特効薬ができるか、ワクチンが開発されるまでは終息しないのではないかと思えてくる。ワクチンはできるかどうか分からないし、できたとしても実際に接種できるようになるまでかなりの時間がかかりそうだ。特効薬といってもまだ確実なものはない。

 指数関数的に感染者が増加する感染症の拡大防止にはロックダウン(都市封鎖)のような政策をとるしかないが、それも感染者を急増させないことで医療崩壊を防ぐという役割にしかならないのではなかろうか。BCG仮説が正しく、集団免疫を獲得するまで終息しないとしたなら、もっとも効果的な対策は免疫の低下した高齢者やBCG陰性者に対して日本で用いている強毒株のBCGを接種することで重症化を防ぐということのように思える。

 ただし、日本ワクチン学会は新型コロナウイルスに対するBCGワクチンの有効性が確立されていないことと、ワクチンの供給量の問題から、乳児への接種以外のワクチン接種は実施しないという方針のようだ。こちら参照。

 仮に集団免疫を獲得するまで終息しないとしても、もちろん外出制限やPCR検査は感染拡大速度を緩めて医療崩壊を防ぐことにつながるから必要だし、検査拡大によって感染の広がりもある程度は把握できる。しかし、それと同時に抗体検査もやったほうがいいのではないかと思う。大都市ですでに相当数の人が感染してしまっているのなら免疫を持っている人から順次仕事に復帰してもらうとか、リスクの高い高齢者などはしばらくの間できるだけ安全なところで生活してもらったほうがいいのかもしれない。

 また、人の移動を完全に止められない以上、地方ではこれから感染が拡大していく可能性がある。人口密度の高い都市より感染拡大速度は緩やかになるだろうが、地方も油断してはならない。一旦は落ち着いても、2波、3波が押し寄せるかもしれない。いずれにしても簡単に収まるようなウイルスではなさそうだ。もしかしたらインフルエンザのように人間社会にずっと生き残るのかもしれない。

 それと、気になるのは、中国では二回目の感染で死亡する事例が報告されていたことだ。もし、抗体ができていても不十分であれば再び感染して重症化する可能性も否定できない。

 以上はあくまでも私の推測にすぎない。日本が西欧諸国や米国のような大変な状況になるか、それとも台湾のように比較的低い死亡率に留まるかはあと数週間もすれば分かるだろう。今後の報告や研究を待ちたい。
  


Posted by 松田まゆみ at 21:52Comments(0)新型コロナウイルス

2020年03月20日

検査を抑制する新型肺炎対策は日本を滅ぼしかねない

 昨年末に中国で謎の肺炎が発生したとの報道があったときは、ちょっと気持ちが悪いくらいにしか思っていなかったが、武漢ではあっという間に感染爆発が起こり1月23日には武漢封鎖という事態にまでなった。この頃から私は主にツイッターでこの新型コロナウイルスに関する情報をチェックしていた。

 ツイッターでは患者であふれる武漢の病院や突然死する人達、病院から搬出される多数の遺体袋、公共施設にベッドを並べた仮の病院や突貫工事でつくられた専用病院、路上に放置される遺体などの映像が流れていた。若い人や子供も亡くなっている。さらに、武漢以外の都市は外出が大幅に制限され、学校の休校や企業の休業が余儀なくされたほか、マスクなしの外出は禁止、鉄道の駅やオフィスビルの入り口での検温、紙幣の消毒など徹底的な感染拡大防止措置が取られた。これらの映像を見て、中国から多くの観光客が訪れている日本も早期に徹底した対策をとらないと大変なことになるに違いないと直感した。

 ツイッターで新型コロナを警戒する私に対し「なにをそんなに怖がっているのか」と冷笑するようなことを言ってきた人もいたが、このような人は感染爆発によって多くの人が亡くなるばかりではなく、コロナをきっかけとした不況が日本の経済に決定的な打撃を与えるという危機感がないと言わざるを得ない。

 そもそも不都合な真実を何もかも隠蔽し決して責任を取らない安倍政権が、新型コロナウイルスのような強い感染力をもった致死性の感染症に対してきっちりと対策がとれるとはとても思えない。アベノミクスの失敗で日本の経済が窮地に陥っているときに、この新型コロナウイルスによる景気低迷は財政破綻を引き起こしかねない。

 案の定、安倍政権の対応は驚くほど鈍く、目先の経済ばかりに捉われているとしか思えないものだった。2月に入ってからようやく専門家会議を立ち上げたが、その専門家会議の提言は、集団感染(クラスター)対策を重視し、経済への影響を最小限に抑えるという政権に忖度しているとしか思えないような甘い内容だった。クラスターを見つけ出して追跡することで感染爆発を抑えるという理屈は分からなくはないが、その対策が有効なのは初期のうちだけだろう。専門家会議がクラスター対策を打ち出したときは、すでに日本各地に新型コロナウイルスは蔓延していた。そんな甘い対応で感染爆発を防げるはずがない。

 そして日本ではさらに驚くべきことが明らかになっている。医師がPCR検査が必要だと認めても保健所があれやこれやと条件をつけて検査を拒否する事例が後を絶たないのだ。ツイッターにはそのような事例が多数流れてきているし、北海道では国立感染症研究所から職員が派遣されてから、このような検査拒否が増えたという。国が検査そのものを抑制しているのだ。確かに検査をさせなければ陽性者は増えないし、見かけ上は医療崩壊という状況になりにくいだろう。また、肺炎で亡くなっても検査をしない事例が多いという。これは新型コロナウイルスによる死亡の隠蔽といってもいいだろう。私は中国の公表している感染者数や死亡者数は隠蔽があり過小評価になっていると考えているが、その中国でも検査は徹底してやっていた。ここまでの検査拒否をやっている国などおそらく日本だけだと思う。

 日本が検査拒否をする理由は以下のようなことではないかと考えている。①検査費用を抑えたい。②感染者数や死亡者数を少なくすることで、対策が成功しているように見せかけたい。③隔離施設の確保、ベッドや医療従事者の拡充をする気がない。④国立感染症研究所が検査データを独占したい。

 いずれにしても国民の命より、対策費を抑えることや国の体裁、利権を重視しているということだ。安倍政権の体質ならこういうやり方をするのも納得がいく。

 私が最も怒りを感じるのは、専門者会議がPCR検査の拡充や隔離施設の確保、病床・医療従事者の増強についてほとんど触れないことだ。感染症の拡大を抑えるには、まずは感染の実態を把握する必要があるし、そのためには検査による確定が欠かせない。そんなことは医師ではなくても理解できる。ところが、専門家会議の医師をはじめ、日本では多くの医師が検査の拡充を求めない。それどころかPCR検査をたくさん行うと陽性判定者が多くなり医療崩壊が起きるから、検査は重症者に限ったほうがいいと言う。これは世界の流れと逆行するし、感染者を放置することで感染拡大を助長することになる。

 感染爆発が起きている韓国はクラスター対策をすると同時に多数の検査を実施し、医療崩壊も起こさずに必死に抑え込んでいるし、その効果が数字となって表れてきている。感染爆発が続いている欧州も、検査は積極的にやっている。感染力の強い感染症は早期に封じ込めをしなければ手の付けようがなくなるのだから、当然の判断だろう。

 昨日(3月19日)は、専門家会議が新たな提言をとりまとめた。全文は以下。

「感染拡大地域では自粛検討を」専門家会議が提言【全文】

 この提言の最大の問題は、検査拒否によって実態をほとんど把握できていない日本のデータを基に語っていることだ。極端に抑制された検査の結果から導き出されたこの提言自体が茶番劇といっても過言ではないだろう。北海道では新たな感染者の増加を抑えられているというが、前述のとおり検査条件が厳しくなっているのだから感染者数の数値自体が信頼できない。また北海道の場合はマイカー通勤が多く満員電車などでの通勤は都市部に限られるし、人口密度が低いのだから感染の拡大の状況も都市とは異なることは容易に想像がつく。

 日本国内は「引き続き持ちこたえている」状況だというが、これも根拠などない。韓国や欧州での感染爆発を踏まえて、「爆発的な感染拡大を伴う大規模流行につながりかねない」と言い始めたが、これはクラスター対策と自粛という前回の専門家会議の提唱は甘かったということに他ならないだろう。

 それにも関わらず今後の対策も相変わらずクラスターにこだわり、個人や企業などの自粛がメインだ。自粛しなければオーバーシュートする可能性があると、感染爆発を国民や企業に責任転嫁している。また、医療機関については「この感染症を重点的に受け入れる医療機関の設定や、重点医療機関等への医療従事者の派遣、予定手術、予定入院の延期等できうるかぎりの医療提供体制の整備を各都道府県が実施することかが早急に必要と考えます」としているだけで、積極的な病床の増加や隔離施設の確保などには触れていない。PCR検査についても国による検査拒否への批判はなく、ドライブスルー方式や郵送方式による検査の拡充の提案もない。

 結局、日本は政府も専門家会議も経済への影響を考慮して自粛に重点を置いている。しかし、感染爆発をしている海外の状況を見る限り、日本では恐らく目に見えないだけですでに感染爆発状態にあるのではないかと思う。目先の経済を優先し感染の広がりの把握を怠る日本型の対応は、諸外国の早期発見・早期隔離と治療、都市封鎖をしてでも早期の封じ込めを図る方策とは対照的に、だらだらと長期間にわたって感染者や死者を増やし続けることになり、経済的損失も莫大なものになりかねない。

 日本経済はアベノミクスによってただでさえ危機的状況になっていたが、コロナ対策に失敗すれば財政破綻も現実のものになりかねない。そうなればすべての国民が辛酸をなめることになる。ほんとうに危機に立たされていると思う。

 なお、イタリアでは中国より致死率が高いと言われている。しかし、中国の場合は自宅で亡くなった人などはカウントされていないと考えられるので、実際の致死率は公表されているものよりずっと高いのではないかと思っている。また、新型コロナウイルスはすでに多数の型に変異しており、タイプによって致死率にも違いがあるのではないかという指摘もある。日本では複数の型が確認されており、現時点で致死率が低いとしても決して油断はできない。いずれにしても、極めて厄介なウイルスであることは間違いない。感染爆発が起きれば人の移動を徹底して制限するしか手立てがなく、決して甘くみてはいけない。


  


Posted by 松田まゆみ at 14:12Comments(7)新型コロナウイルス

2020年01月17日

資本主義がもたらしたもの

 先日、辺見庸氏の「しのびよる破局」を再読した。本書は2009年3月に発行された辺見氏の思索である。つまり民主党が政権をとる前であり、東日本大震災が起きる前である。その時期に、辺見氏は「破局」を予感していた。辺見氏が本書を著してから10年以上たった今、再び読み返してみると、彼の予感はまさに的中しているというほかない。そして状況はさらに悪化している。

 民主党政権の次の第二次安倍政権を見ればもはやこの国の民主主義は死に体であり独裁者が好き勝手にやっているという状況だ。森・加計問題にしても「桜を見る会」にしても首相自らが国家を私物化し、違法疑惑を追及されても決して責任をとらず嘘と隠蔽でかわしていく。国会を軽視し、社会的に許されないことがまかり通っている。多くの国民が政府の対応を「おかしい」と思っているにも関わらず、安倍政権の暴走を誰も止めることができない。自民党が与党復帰して7年ほどでこの国はすっかりファシストに牛耳られてしまったのだ。

 また地球温暖化対策はいつまでたっても進まず、あの福島の大事故は収束の目途すらついていないのに原発を稼働しつづけている。いつまた大地震や大津波に襲われるかも分からないのに反省というものが全くない。アベノミクスは完全に失敗し、格差はさらに拡大した。日本は相当恐ろしいことになっている。

 辺見氏の言う破局とは金融恐慌のような経済の問題、地球温暖化、新型インフルエンザ、あるいは大地震などの災害だけではなく人間の内面の崩壊のことを指している。内面の崩壊について辺見氏はこう綴る。

 だから、いまなにが危機で、なにが破局なのかといったばあい、ある程度横断的に問題を整理していったほうがいいとおもうのです。経済だけではなく、むしろ経済の元を支えているいろいろな人間の動機というのでしょうか、生きていく動機のようなものが千々に乱れている。というよりも、変調をきたしている。これはもう何度もくりかえしたいとおもうのですが、人間の内面が変調をきたしている。価値観というのは人間の内面の問題ですから、いま、その内面の崩壊と、外部の世界の崩壊が、同時的に信仰しているのではないかとおもうのです。

 思えば、私たちの大半は戦後の高度経済成長によって物質的豊かさを享受し、さらなる経済成長を求めてきたのだと思う。経済が成長すれば誰もが豊かで幸せな生活を手に入れられると信じてきたのではないか。しかし、どうも人々は内面からおかしくなっている。これは辺見氏だけが感じていることではないだろう。

 資本主義というものについて、辺見氏はこう言う。

 このことに関連し、資本主義とはなんであるかぼくは自問します。端的にいって、それは〈人びとを病むべく導きながら、健やかにと命じる〉システムです。それはまた、「器官のない身体」になぞらえられます。資本主義はさらに、この世のありとあらゆる異なった「質」を、お金という同質の「量」に自動転換していく装置でもあります。「器官のない身体」としての資本主義は、そこに棲む生体としての人間の欲望をどこまでもどこまでもたきつけ、開拓し、抽出し、それを養分にして増殖し、さらにまた新種の欲望の種をまき育て、肥えていく。
 人々を病むように育て導きながら、健やかにあれと命じる資本主義はいいかえれば、人間生体を狂うべく導いておいて、“狂者”を(正気を世覆った狂者が)排除するシステムです。しかし、生体はそれに慣れ、最後的に耐えることができるのか……ぼくはそのことがとても気になります。


 私たちの多くは資本主義が幸福をもたらすと信じてきたのに、現実を見れば「一億総中流」と言われた時代はとっくに過ぎ去り、心がどんどん荒んできている。大企業であろうと中小企業であろうと労働者は奴隷のように働かせられ搾取され使い捨てにさせられたうえに富者と貧者の格差はどんどん拡大し、精神疾患にかかる者や自殺者が急増している。SNSでは貶め合いや罵倒が繰り返される。格差が憎悪を生み、憎悪が精神を蝕む。人の精神が歪み、狂ってきていると思うほかない。

「豊かになる」といいながら、じわじわと人の心を崩壊させているものの正体は、やはり資本主義だと考えるしかない。ところが恐ろしいことに大半の人々は資本主義のもたらした心の崩壊に気づかない。だからこそ、辺見氏は問う。「人間とはいったいなにか」「人間とはいったいどうあるべきなのか」と問い、資本への疑問を投げかける。

 とりわけ小泉政権以降、この国は米国と同様の新自由主義路線をとりつづけてきたが、2012年からの安倍政権はさらに大企業優遇に走り労働者を見捨ててきた。アベノミクスであたかも経済が好転するかのように喧伝したが、結局は国債という借金を増大させ、国民を貧しくさせただけだった。この経済政策の失敗のツケは近い将来私たちに襲いかかってくるだろう。

 この悲惨な状況の中でさらに懸念されることがある。それは安倍政権に代わる新たなファシズムの台頭である。再び辺見氏の文章を引用しよう。

 ぼくがいまの日本の文化は腐敗している、そんなものは叩きつぶしちゃえと、テレビのお笑いやめちまえ、壊しちゃえというとしたら、それは三〇年代のドイツみたいなことになるのかもしれないとおもうのです。世の中を“浄化”するとか、改革するとかいう、かならずそういう人たちがでてくる。しっかり見ておいたほうがいい。ヒトラーのナチスは改革派として、しかも“社会主義者”として登場してきたのだから。それを忘れてはいけない。異様な顔をしてでてきたのでは、ちっともないのです。


 実質賃金が上がらず国民がどんどん苦しくなっていく中で、独裁となっている安倍政権にそれなりの人々が怒りを感じている。そこに登場したのが山本太郎氏率いる「れいわ新選組」なる政党だ。MMT(現代貨幣論)を基にした無謀な経済政策を掲げ、消費税を悪税だと言い切って、自分が権力者となって「世の中を変える」と息巻いているのが彼だ。今はほんの1%ていどの支持率だし大多数の人は相手にしていないと思うが、独裁的という意味では安倍政権と何ら変わらない。

 さて、辺見氏は「しのびよる破局」の根源として資本主義に疑問を投げかける。これは私もまったく同じだ。私自身、若い頃から資本主義は富の偏在を生み出しいつか行き詰まると思っていたし、人間の限りない欲望を利用し、資源を食いつぶし、いつか破綻するシステムではないかと懸念していた。そもそも、資本主義は持続可能なシステムではない。そして資本主義が成熟した今、その限界が見えてきたように思う。格差を拡大させ、人々が疲弊し、精神を病むような社会はまともではない。

 ツイッターを見ていても、憎悪の感情が溢れている。それは決してネトウヨと呼ばれる人達に限らない。他人を小馬鹿にし、罵り、貶める人々。嘘やデタラメを垂れ流す人々。ネットの世界で見ず知らずの人達が罵り合って、いったい何をしたいのだろう? こうした罵声も、資本主義がもたらした精神の荒みからきているのだと思えてきた。

 これまでは「経済成長」が人々の欲望を喚起させてきたが、資本主義の末期に至って経済成長は鈍り、人々は苦しさと虚しさに苛まれている。もはや資本主義に期待する時代ではない。さりとて資本主義に代わるシステムがどんなものなのかと問われても、私には分からない。ただ、これまでのように経済成長を求めつづけることにはならないということだけは言えるのではないか。たとえ求め続けても終焉にさしかかった資本主義ではもはや大きな成長など不可能だろう。

 正常な精神状態の社会とは、おそらく成長をめざす競争社会ではなく、大きな成長がなくても人々が支え合い助け合うような社会だと思う。人の欲は制御できないとしても、欲に踊らされない協力的な社会に変えていくことでこの狂気の世界から抜け出すしかないのではないか。成長神話から脱し持続可能な社会を築く努力をすることにしか人類の生きる道はないような気がする。

 ともあれ、社会のシステムを一気に変えることはできないのだから、現実的にはしばらくはこの資本主義のシステムを継続しながら格差の是正を図っていくしかないだろう。ただし大きな成長を求めないという思考の転換が必要だし、一刻も早く新自由主義的な思考から抜け出す必要があると思う。そしてとりあえずは幸福度が高い北欧型の社会を目指すというのが最善の選択のように思われる。

 そのために日本人に最も欠けているのは、主体性だろう。日本の社会では「出る杭は打たれる」を恐れておかしなことにも異を唱えず見て見ぬふりをする人が非常に多い。要は自分が不利になったり損をしないようにふるまう習慣がついている。さらに新自由主義的な自己責任論がはびこってしまった今、人々はますます自己中に陥っているように見える。そんな中で「協力」や「支え合い」あるいは「信頼」を築いていくのは並大抵のことではないが、そこにしか明るい未来はないと思う。
  
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Posted by 松田まゆみ at 17:01Comments(0)政治・社会