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鬼蜘蛛おばさんの疑問箱

2017年02月06日

サハリン紀行(2)

サハリン紀行(1)

 2日目は西部に出かけた。アニワの海岸では一人、皆と反対方向をうろうろしてイソコモリグモを探したが見つからない。露頭見学中にクモを採集するが、ハラビロアシナガグモ、スジシャコグモ、ウスリーハエトリ、ナカムラオニグモ、ウヅキコモリグモなど北海道でおなじみのものばかりだ。見学地に着くといつも皆と違うところをうろうろしている私を、セルゲイ氏はいつも気にかけてくれているのが分かる。なるべく皆から見えるところにいなければならない。

 8月という季節から考え、キバナオニ(黄色)、ニワオニ(橙色)、アカオニ(赤色)の3色のクモが溢れていると思ったのだが、予想は外れた。キバナが圧倒的に多く、ニワとアカはなかなか見つからないのだ。そういえば北海道でもキバナが圧倒的に多いから、そんなものなのかも知れない。もっともクモを探す時間が少ないので、時間をかけて探せばもっといるのだろう。北海道でもおなじみのナカムラオニグモは草地の普通種だ。

 サハリンでは、平地にベニヒカゲ(蝶)が舞っている。ネベリスクのバザール(自由市場)では、オオモンシロチョウを捕まえた。近年、北海道全域に定着してしまったチョウだ。クモのみならずチョウも捕まえたが、捕虫網というのが珍しいらしく好奇心の目で見られてしまった。軒先のオニグモを捕虫網で採っていたときなど、大人も子どももにたにたしながらこちらを注目している。捕まえているのが大きなクモだと知って、かなり面喰っていたようだ。さぞかし変な日本人の集団(変なのは一人だけなのだが)だと思ったに違いない。

 ネベリスクから海岸沿いを北に、ホルムスクに向かった。ここには旧王子製紙の工場が廃墟のように佇んでいる。サハリン南部の森林はかなり伐採が入り原生林とおぼしき森はほとんど見当たらないが、かつてかなりの伐採が行われ王子製紙も栄えたのだろう。無残に伐られた山肌は、北海道の森林の光景とも似ている。ホルムスクからユジノまではいくら車が揺れても瞼が閉じてくる。昨日は初めて見る景色とあって、いねむりもせずに目を凝らしていたが、今日は半分以上いねむりの帰途だ。運転手さん、御苦労さん!

 3日目はススナイ山地に寄った後、北へと向かった。ソコル川で初めて森林の中に入ったのだが、前を歩いていた人が「クモ、クモ」と呼んでいる。森林の中は、タイリクサラグモがあちこちに造網していたのだ。北海道ならどこにでもいるタイリクサラグモをあまり見かけず不思議に思っていたのだが、針葉樹の森林内はタイリクだらけだ。しかし、タイリクばかりでハンモックサラグモなどは全く見られない。森林のクモ相は北海道よりさらに単純なようだ。

 昼食予定地のスタロブスコエは海岸の集落だ。海沿いのでこぼこ道を行くと、岩礁の上にゴマフアザラシが置物のように寝そべっているのが見渡せる。ここにはモンゴリナラ(ミズナラと変種関係)があるが、だいぶ伐採されてしまったらしく、今ではぽつりぽつりとしか見られない。このあたりから北の光景はほんとうに素晴らしい。人工的なものはほとんどない海岸線が続き、湿地が広がる。渚にはシギが群れ、カモメが舞う。北海道の海岸線もかつてはこんな光景だったに違いない。北海道ではほとんどの湿原にビジターセンターのような施設があり、海岸には展望台などがある。人工物が目に入らないようなところは無いに等しい。しかしサハリンには北海道が失ってしまった北の自然の原風景が息づいている。施設ばかり造りたがる日本人は、こういう自然の原風景を忘れてしまったようだ。

 この日はさらに北上し、海岸で琥珀を探した。角がとれた褐色のガラスのかけらのような琥珀が、海岸の砂浜にうちあげられているのだ。小粒だが、こんなところで琥珀が拾えるというのは驚きだ。皆海岸に散らばって、ひとしきり琥珀拾いを楽しんだ。採集するというのはクモに限らす楽しい。しかし採集には得手不得手というのがあるらしい。集合して成果品を比べると、その差は歴然とする。どうも私は得意なほうではないらしい。やはり採集は一人でのんびりやるのが一番いい。

 サハリンの一番細くくびれているあたり、ブズモーリエがこのツアーの最北の地点だ。ここには海を見下ろす山腹に、日本時代の鳥居がそのまま残っている。何やら日本の景色のように見える。鳥居まで登って写真を撮った後、駅前のバザールに寄った。地面に散らばっている褐色のかけらを見つけ、誰かが「琥珀だ」と言う。半信半疑で手に取って眺めるが、ビール瓶のかけらまで琥珀に見えてくる始末だ。

 4日目はアンモナイトの産地見学だ。最初の見学地は乾燥した裸地で、ときおりコモリグモが走り回っている。ここではクモよりアンモナイトを探すほうが面白い。地質屋さんはハンマー片手にさすがに大きいのを掘りだしていたが、小さいのならハンマーなしでもいくつか見つけられる。

 2回目の見学は、山の中の崖地だ。ここは森林に囲まれた河原で、クモの採集の方が面白い。河原の石をひっくり返すと、カワベコモリグモやナミハガケジグモがいる。一人で河原でクモ採りをしていると、高校生のAさん(母親と参加)が崖地の方から「クモを採った」と呼んでいる。彼女の手には綺麗なニワオニグモが握られていた。この数日で彼女はすっかりクモに慣れてしまったらしく、私を真似て素手でクモを採るようになっていた。感謝、感謝! さて、その崖地の上部には巨大なアンモナイトがはまっている。地質に無頓着な私も、このときは「凄い」と見とれてしまった。

 最終日の5日目は、午前中にユジノを一望できるスキー場のてっぺんまで登った。例の車はでこぼこの急坂をものともせず、標高535メートルの山頂に突き進んだ。中腹までグイマツの植林に覆われる山だが、途中にハイマツも見られる。標高が上がるにしたがって、林床の植物が変わっていくのが面白い。

 山頂からは素晴らしい展望が広がっていた。眼下にユジノの街が見渡せる。これでこのツアーの見学は終わりだ。皆が景色を楽しんでいる間、私は山頂の草地で一人チョウ採りにはまっていた。この草地にはチョウがしきりと飛び交っているのだが、これがすばらしく速い。悪戦苦闘だが、これを追いかけるのがまた楽しい。いい歳のおばさんがチョウ採りに興じているのだから、他の人はさぞかし呆れていただろう。

 のどかな山頂のひと時を後に車に乗り込むと、運転手が捕虫網を貸して欲しいという。すぐ横の花にチョウが数頭止まっている。彼は見事に数頭のチョウを仕留め私にプレゼントしてくれた。もしかしたら、彼はずっと捕虫網でチョウを採ってみたかったのかもしれない。海辺で休憩していたときは網でエビを獲っていたし、アンモナイトを見つけるのも得意だ。「気はやさしくて力持ち」の典型のような彼は、どうやら採集好きのようだ。

 このあと、私とM氏は皆と別れてジャロフ氏の自家用車で北に向かった。皆は最後の半日を買い物にあてたのだが、貪欲な私たちは車の中から眺めただけの湿地に未練があった。吉倉真先生の「樺太産黄金蜘蛛科生態と分類」を見ると、サハリンでは平地にコウモリオニグモやコガネオニグモがいることになっている。湿地を眺めただけで帰るのはやはり後ろ髪を引かれる思いがする。そこでジャロフ氏に頼み、湿地探検におもむいたのだ。彼は腿まである長靴まで用意してくれた。

 サハリンと言えど、この日は猛暑だ。その中を長靴をはいて捕虫網片手に湿地のなかをうろつくと汗が吹き出してくる。葦の葉を巻いているのはほとんどがクリイロフクログモで、子グモがふ化する季節だ。水辺には卵のうをつけたカイゾクコモリグモがいる。草間の円網はほとんどがナカムラオニグモだが、なぜかこの湿地のナカムラは幼体ばかりだ。ここのクモは北海道の湿地のクモをより単純にした感じだ。ちょっとがっかりだったが、採集品を良く見るとナカムラオニグモの幼体の中にコウモリオニグモの幼体が紛れ込んでいる。北海道では高山帯でしか見られないコウモリがやはり平地にいるのだ。ただし、もう成体の季節ではないらしい。コガネオニは残念ながら幼体らしきものも採れない。スゲと思われる草地ではツノタテグモの類いと思われる幼体が少し採れたが、やはりクモの季節には遅すぎるようだ。北に行けばいくほど、クモの繁殖期は短期間に凝縮されるのだろう。たぶん6月から7月が良いのだと思う。ともかく短い時間ではあったが湿地も歩くことができた。あとはユジノにもどり、ガガーリン公園で皆と落ち合ったあと最後の晩餐となった。

 クモに関しては季節が遅すぎ、幼体ばかりが目についてとりたてて新しい発見はなかったものの、サハリンの自然の一端を垣間見ることができたのはやはり貴重な体験であり、楽しい一週間だった。そして、お付き合いいただいたエネルギー省の皆さんは、朝から晩までくたくたに疲れたことだろう。我々をコルサコフまで送り届けたときにはさぞかしほっとしたに違いない。

 こうして5日間の見学会はハードスケジュールだったが、無事終了した。不思議なことに一数館の間、雨らしい雨にも降られず、トラブルもなく、すばらしく順調にことが運んだのだ。あとは税関を無事に通過できるかどうかだ。

 翌朝予定より遅れてコルサコフ港に到着した私たちは、出国手続きに追われ、あたふたと税関を通過した。誰も荷物を開けられることもなく皆無事に通過し、安堵のうちに再び「アインス宗谷」の乗客となった。

  

Posted by 松田まゆみ at 16:33Comments(2)随筆

2017年02月05日

サハリン紀行(1)

*この随筆は、サハリンツアー(2001年8月8日から14日)に参加したときの記録で、関西クモ研究会の会誌に投稿したものに修正を加えています。
*なお、参加者のお一人が「サハリンの地質と化石見学」としてツアーの報告をされていますので、興味のある方はご参照ください。



 北海道でクモを見ていると、サハリンは一度は行ってみたいと思うところだ。氷期に大陸と北海道を結んだというこの島は、北海道に多数の北方系の生物を運ぶ陸橋となった。大雪山の高山帯に細々と息づいている「氷河時代の生き残り」のクモたちも、この島を縦断してきたのだと思うと感慨も深い。

 宗谷岬から目と鼻の先にある島でありながら、サハリンの自然を訪れるツアーは意外とない。聞くところによると、トラブルなしにツアーを行うのは難しいお国柄のようだ。そんな中で「地質見学ツアー」なるものを見つけた。地質見学? 8月じゃクモには遅い! と躊躇したのだが、思いきって締め切り間際に申し込んだ。予定表を見ると、宿泊するホテルはガイドブックには出ておらず、名前はなんとGeologist(地質学者)。しかも、シャワーは水しか出ないらしい。そんなわけで、覚悟を決めて出発することになった。

 企画した旅行会社のT氏とコーディネーターのG氏以外の一般参加者は6名というこぢんまりとしたツアーであるが、自然を見てまわるにはちょうどいい人数だ。男性5人、女性3人の総勢8名は、8月8日の10時に稚内港からコルサコフ行きの「アインス宗谷」に乗り込んだ。

 目と鼻の先のサハリンも、稚内港からコルサコフ港となると5時間30分もかかる。男性たちは免税とやらで1本100円の自販機のビールをさっそく買い込んでいる。船に弱い私はそれを横目で見ながら、ひたすら船の揺れから解放されるのを待つのみだ。サハリン旅行はまず船酔いから幕を開けた。

 コルサコフ港に近づくと、褶曲した地層があらわな露頭が目に飛び込んでくる。港は何もかもが古びて錆色をし、数十年前の港に迷い込んだような錯覚に陥る。船から降り、オンボロバス(日本の中古の観光バス)に揺られて入国手続きの人の列に並んだ。特大のスーツケースを同行のM氏に持たせた私は、代わりにカメラを一手に引き受けて手に持っていた。しかし、これは失敗だった。カメラはX線検査機に通された上(当時はまだデジカメは普及しておらず、フイルムのカメラを持っていた)、税関申込書に記入しろと言う(ロシア語なので、そう言っているらしいとしか分からない)。種出入品(一時的な)に当たるらしい。コンパクトカメラまで記入させられたが、なぜか首にぶら下げていたツァイスの双眼鏡には見向きもしない。こちらのほうが数倍も高いのに! 世話人らしき日本人のおじさんがぶつぶつ言いながら、記入の仕方を教えてくれたが、無愛想な態度に辟易とした。

 なんとか申込書を書き終えて税関を通過したが、隣りでは巨大なおみやげ(自動車のタイヤ!)を持っていたG氏が入国審査で引っかかり、係員と揉めている。気の毒だが、私にはなす術がない。税関を抜け出すと、今回のツアーの世話をしてくれるロシアエネルギー省の地質研究者のジャロフ氏とお手伝いで日本語を勉強中の青年セルゲイ氏、それに運転手が出迎えてくれた。しばらくしてから、何とか税関を通過したG氏がやってきて無事に全員がそろった。

 これから私たちの足となってくれる車はエネルギー省の調査用のものなのだが、トラックの荷台を人が乗れるように改造したような車で、タイヤはダンプカーのそれより巨大だ。これをジャロフ氏はバスと呼んでいたが、舗装道路を砂利道だと勘違いする乗り心地だった。現に、コルサコフからホテルのあるユジノサハリンスクに向かっているときは、砂利道だとばかり思っていたのだが、あとで舗装道路だと知って驚いた。これから5日間この車に乗って走り回ると思うと、ちょっと先が思いやられた。

 サハリンは主要道路は舗装されているものの、わき道はほとんど砂利道だ。それも相当にデコボコしている。日本人であればすぐに道を良くしようという発想になるが、ロシア人はそうではないらしい。彼らは車の方をデコボコ道に合わせ、どこでも走れるような頑丈な車に乗るのだという。エネルギー省の車はサハリンの悪路という悪路もものともしない車だ。おかげでかなりすごい山道も進むことができるし、ちょっとした川も渡ることができる。

 ホテルに到着したのは日本時間の17時半、現地時間の19時だった。ホテルは古い建物ではあるが、予想していたより印象は良く(かなりすごいところだろうと予想していた)、昨晩泊まった稚内の旅館よりきれいだった(というか、こちらは今どきなかなか遭遇しないような古くて雑然とした旅館だった)。そして、嬉しいことにシャワーからはちゃんとお湯が出た。これで、一週間風呂なしという惨事にはならなくて済む。このホテルを基点としてサハリン南部の各地に出向くのだ。

 このホテルは、どうやらロシア人専用らしい。フロントの女性は英語が全く通じない。部屋の鍵をもらうのも、紙に数字を書いたものを見せないと分からない。レストランもなく皆素泊まりらしいが、私たちは棟続きの韓国人の経営しているレストランで食事を摂ることになっている。レストランの入口あたりからキムチの匂いが漂ってくる。

 毎日のスケジュールは、朝食後にホテル前に集合して例の車に乗り込み、日中10時間から12時間がフィールドワークとなる。帰るとすぐ夕食となり、ワインやウオッカを飲みながらの団欒だ。部屋にもどりシャワーを浴びると疲れて何もする気になれない。クモの標本ビンにラベルを放りこんでバタンキューだ。予定していた朝の散歩は、結局2回しか実行できなかった。

 サハリンの街は何もかもが古び、建物はあちこちひびが入ったり壊れたりしているし、路傍にはゴミも目につく。しかし、街を歩く若い女性は美人揃いの上に、皆抜群のスタイルで、しかも体にフィットしたセンスの良い服をまとっている。Tシャツにジーンズが定番といういでたちの日本人とは全く雰囲気が違う。この光景を見て、「掃き溜めに鶴」と言った人もいるとか・・・。あとで聞いたのだが、自分で服を縫う女性が多いらしい。

 そして、日本では渡りの時期を除くと高山の岩場でしか見られないアマツバメが、この古いビル街の上空で群舞している。その見事な飛翔にしばし見とれてしまう。どうやら、建物の屋根などの隙間に営巣しているらしい。

 さて、地質見学など学生のとき実習で行ったくらいで全くピンとこなかったのだが、初日の行動でだいたい様子がつかめた。要するに、見学地点となる場所までただひたすらに車で移動し、現地に着いたら説明を聞き、見学やら採取をするのだ。そして、その見学地点の多くは道端の露頭なのだ。つまり、大半の時間は車の中で、クモ採集はもっぱら道端ということになる。「あそこの林を歩いてみたい」「あの湿地でスイーピングをしたら面白いのが採れるのではないか」と思っても、車はどんどん通りすぎていく。クモ採集は半ばあきらめ、車窓から植物や景観を観察することにした。

 サハリンの景観は基本的には北海道とほとんど変わらない。違うのは落葉針葉樹のグイマツがあるくらいだ。トドマツとグイマツの森林が多く、落葉広葉樹はヤナギ類かカンバ類が目につく。ちょうど北海道の標高800メートルから1000メートルくらいにある針葉樹林帯によく似ている。海岸ちかくにある湿地も、北海道の湿地の景観とそっくりだ。ただし、平地の湿原にハイマツがあるのはさすがにサハリンだ。そして、濃いピンクのヤナギランの群落と藤色のキク科植物の群落が単調な湿地にひときわ華やかな色を添えている。8月中旬ともなると、草原はもはや初秋の漂いがある。そして多くのクモもすでに繁殖期を終え、初秋のクモの季節だった。ここではクモのシーズンは瞬く間に過ぎてしまうのだろう。

 最初に捕えたクモは、朝の散歩で見つけたシロタマヒメグモだった。ちょうど産卵期で、葉をまるめて産室をつくっているのがいくつもあった。北海道で見るシロタマヒメグモは、見るからに「シロタマ」という名がふさわしいクリーム色の腹部をしているが、サハリンのものは黄色かったり、褐色の斑紋が入っていたりするものが多くて、まるで別種のように見える。海峡をひとつ渡っただけでこれほど色彩が違うのは、なんとも不思議な気がする。

 朝食を済ませると、いよいよ例の車に乗り込み見学に出発だ。コルサコフの最初の見学地でまず採ったのは、黒色型のオニグモだ。北海道では見たことがない黒色型だったので、サハリンで見られるとは思ってもいなかった。オニグモは軒先にときどき網を張っているが、あまり多くはない。分布の北限に近いのだろうか。

 コルサコフの東、アニワ湾の一角にある岩壁では、岩のくぼみにオオツリガネヒメグモが多数造網していた。北海道でもそうだが、一般に岩に生息するオオツリガネは体色が黒っぽい。岩の色に合わせた隠蔽色なのだろうか。ユウレイグモ科の雄も1頭採集した。

 サハリンの南東部は湖が多く、湿地も点々としているが、そういうところは地質見学の対象地ではなくどんどん走り抜ける。しかし、このあたりはほとんど自然のままに保たれていて、マスが川に遡上する光景も見ることができた。トゥナイチャ湖岸でようやくナカムラオニグモやアシナガグモなどを少し採集したが、初日はひたすら車に揺られ、ユジノサハリンスクにたどりついたときにはもう薄暗くなっていた。なかなかすごいツアーだ。

続く
  

Posted by 松田まゆみ at 22:40Comments(0)随筆

2017年01月31日

野田俊作さんの岸見一郎さん批判に思う

 日本アドラー心理学会の初代の会長である野田俊作さんのウェブサイト「野田俊作の補正項」をときどき読んでいるのだが、最近、岸見一郎さんに対する苦言がしばしば出てくる。正確に言うならば、「嫌われる勇気」に対する批判といったほうがいいだろう。野田さんが批判的意見を言うのはもちろん自由なのだけれど、正直なところ私はそれをやや苦々しく思っている。その理由を書きとめておきたいと思う。

 野田さんによる「嫌われる勇気」批判は、このあたりから始まっているのではないかと思う。ここでは書名を書いてはいないが、「嫌われる勇気」を指していることは誰にでも分かる。

 この記事で、野田さんはこんなことを書いている。「彼の意見はさまざまの事項について「標準的な」アドラー心理学から偏っています。たとえば彼はある状況下では協力を拒否することが重要であると述べ、「他者からの承認を求めない」とか「他者の期待を満たす必要はない」とか「他者の問題に介入してはいけないし、自分の問題に他者を介入させてはいけない」というようなことを書いています。」

 またこちらの記事では「アドラー・ブームの火付け役である岸見一郎氏の『嫌われる勇気』は、「課題の分離」ばかり強調して「協力」に関連する考え方をあまり含んでいないので「名目アドラー心理学」だと思っていたが(これはいちおう許容範囲内)、同じ題名を冠したテレビドラマはアドラー心理学に反する考えややり方でいっぱいなので、間違いなく「似而非アドラー心理学」だ(これは完全に許容範囲外)。岸見氏ご自身はこれについてどうお考えなのだろうか。」と書いている。

 もう一つ、トラウマに関する記述についても批判的で、こちらの記事で「なんでも、最近流行の「ブーム型アドラー心理学」では、「トラウマは無い」ということになっているのだそうだ。」と指摘している。私なりに解釈するなら、「嫌われる勇気」の「トラウマを否定する」という書き方が誤解を招くといいたいのだろう。

 そして野田さんは、嫌われる勇気」は許容範囲内だが、重要な要素を欠いているので「名目アドラー心理学」だと評している。

 一方、私は日本アドラー心理学会の顧問や認定カウンセラーでもある岸見さんがアドラー心理学を正しく理解していないとは思っていない。岸見さんの「アドラー心理学入門」や「不幸の心理 幸福の哲学」も読んでいるが、課題の分離ばかりにこだわっているとも思わないし、援助についても書かれている。トラウマやPTSDについても、それらの症状の存在を否定してはいない。「嫌われる勇気」においてもPTSD症状は存在しないとは書いていない。ただし、「トラウマを否定」という書き方は、読者の誤解を招きやすいのは確かだろう。

 ここで着目すべきは「嫌われる勇気」は岸見さんが一人で書いている本ではないということだ。私は今、野田さんの「アドラー心理学を語る」というシリーズ本の第一巻「性格は変えられる」を読んでいるが(これについては改めて感想などを書きたいと思っている)、野田さんによるアドラー心理学の解説は仔細に渡っていてとても勉強になるし、具体的事例もとりあげていて分かりやすい。しかし、失礼なことを承知で書くなら、いくら優れた解説書であっても、岸見さんや野田さんのアドラー心理学の本が「嫌われる勇気」のように爆発的に売れることはないだろうと思う。

 この違いは、「嫌われる勇気」が単にアドラー心理学の解説書を目指したのではなく、万人に理解できる本にすることで多くの人の手にとってもらうことを目指したことに関わっている。そしておそらくそうした著者らの意図が、野田さんの批判に関係しているのではないかと私は考えている。

 岸見さんにアドラー心理学についての本を出したいと持ちかけたのはライターの古賀史健さんだ。そして「嫌われる勇気」の文章を書いているのも古賀さんだ。この本を書きあげるにあたっては、古賀さんと岸見さん、編集者が議論を重ねているのは間違いないが、企画した古賀さんの方針が強く反映されているのは確かだろう。

 私は古賀さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」という本を読んだ。古賀さんは多数のベストセラーを手掛けてきたライターで、この本にはご自身の経験を元にした文章術がまとめられている。彼は読者を惹きつけるテクニックを良く知っており、「嫌われる勇気」を書くにあたってももちろん「20歳の…」に書いている文章のテクニックを駆使している(と私は思っている)。

 たとえば、古賀さんは「ライターは翻訳者である」と語っている。これが彼の文章を書くにあたっての基本的姿勢でありポリシーだ。つまり、古賀さんがご自身のフィルターを通して岸見流アドラー心理学を翻訳することで、とっつきにくい心理学を誰にでも分かるように解説したのが「嫌われる勇気」や続編の「幸せになる勇気」なのだと私は理解している。

 他にも、たとえば文章にリズムや説得力を持たせるために断定した書き方を入れるとか、文章の構成が重要だとか、あるいは読者を説得するのではなく納得させる文が良いとか、編集(推敲)では「書き足す」よりも「ハサミを入れる」など、古賀さん流の文章テクニックが紹介されている。青年の大げさな発言などはときに吹き出してしまうが、もちろんこうした誇張も読者を惹きつけるためのテクニックだ。

 ただし、古賀さんの翻訳や、断定、取捨選択の編集テクニックによって、切り取られすぎてしまった部分もあるだろうし、誤解を招きかねない部分も生じてしまったのだろうと私は勝手ながら推測している。そして、そこが野田さんの批判の的になってしまった気がしてならない。

 では、「技術を駆使した分かりやすい文章」によって売れる本を目指すことは不適切なのだろうか? こうした本はまがい物なのだろうか? 私はそうは思わない。私自身、ある方のブログで「嫌われる勇気」を知ってアドラー心理学を知り、この本を出発点に他のアドラー心理学の本も何冊か読んだ。本がベストセラーとなって話題になれば、私のようにこれまで心理学と何ら接点のなかった人がアドラー心理学の存在や概要を知る機会が増えるし、それをきっかけに、アドラー心理学をより詳細に解説している本へ誘導することにも繋がる。

 現に、絶版になっていた野田さんの本が昨年末に改訂・再版されたのも、「嫌われる勇気」に端を発しているのだろう。「嫌われる勇気」も野田さんのシリーズ本も一般の人を対象にした本だが、「嫌われる勇気」はこれまで心理学とは縁のなかったような人も対象にした導入のための本であり、アドラー心理学を詳細に解説している野田さんの本とは立ち位置や役割がやや異なる。

 もし「嫌われる勇気」が間違ったアドラー心理学の本なら由々しきことだが、野田さんも「許容範囲」だとしていて誤りだとまでは言っていない。また私自身は、続編の「幸せになる勇気」の発行で、共同体感覚についてはかなり補足されたと感じている。ただし、古賀流の文章術によって、アドラー心理学を誤解してしまう読者がいるなら、それはそれで問題であることは否定できない。

 私が冒頭で「苦々しく思っている」と書いたのは、この問題をめぐって野田さんの意見しか聞こえてこないことだ。アドラー心理学に関わる人たちの中には、この状況に当惑している人もいるのではなかろうか。野田さんと岸見さん・古賀さんの路線の違いといえばそれまでだが、第三者から見たら本当にそこまで批判すべきことなのだろうか?この状況をいくらかでも改善できないのだろうか?とどうしても感じてしまう。

 そこで、余計なお世話かもしれないが、門外漢の私からひとつの提案をしておきたい。すでに売れてしまった本についてはどうにもならないが、増刷する際には増補改訂版にして、野田さんが不十分だとか誤解を招きやすいと考えている部分に注釈をつけるなり、最後にまとめて解説を加えるという方法があるのではなかろうか。そして、その増補部分は出版社のウェブサイトに掲載するなどして、誰にでも読めるようにするというのはどうだろう。すでに誤解してしまった読者に対しては不十分な対応だろうが、このまま何もしないよりずっといいのではないかと思う。

 もう一つ、野田さんはこちらの記事でアドラー心理学は本や講演では学べないと書いている。本ではアドラー心理学がどういう思想であるかを知ることはできるが、アドラー心理学を身につける、すなわちアドレリアンとして実践するには講習会やワークショップでの体験が必要だということだろう。

 私は「嫌われる勇気」を読んだ人は、以下の三つのタイプに分かれるのではないかと考えている。

1.アドラーの思想を理解できない(しようとしない)。あるいは間違っていると思う。
2.アドラーの思想は理解できるし間違っているとは思わないが、実践しようとは思わない。
3.アドラーの思想を理解し、より深く学んだり実践しようとする。

 このうち圧倒的に多いのが1ないしは2だと思う(単なる勘だけれど)。より深く学んだり講座などを受けて体験的に身につけようと行動に移す人は限られているだろうし、野田さんの本を読んでみても、「本を読めば身につく」というほど簡単なものではなさそうなことも分かる。

 ならば、「嫌われる勇気」や「幸せになる勇気」がベストセラーになって売れることは意味がないかというと、そうは思わない。これらの本によって、アドラー心理学がどんな思想であるかを知ることはできるし、自分の抱えていた問題に気づく人も多いだろう。上記の1や2の人でも、今後の人生で思い悩んだときに本を読み直し、ライフスタイルの再選択を決意する人もいるのではなかろうか。本が多くの人の手に渡り、アドラーの思想が頭の片隅にでも引っかかることは、それなりに意味があると私は思っている。私も、生きているうちにアドラー心理学に出会えて本当によかったと思っているし、野田さんの本も知ることができた。これも「嫌われる勇気」に出会えたからに他ならない。

 なお、「嫌われる勇気」のテレビドラマについては見ていないし興味もないが、主人公のふるまいがアドレリアンと程遠いのなら、それはドラマの脚本を書いた人の理解の問題が大きいのではないかと思う。

【関連記事】
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アドラーのトラウマ否定論について思うこと
誤解される「嫌われる勇気」
  


Posted by 松田まゆみ at 22:41Comments(0)雑記帳

2017年01月29日

石城謙吉さんの環境問題講演集「自然は誰のものか」

 昨年末、石城(いしがき)謙吉さんの講演をまとめた書籍「自然は誰のものか」(エコネットワーク発行)が出版された。石城さんは川魚をはじめとした動物の研究者であり、北大苫小牧研究林の林長として森林問題にも関わってこられた方だが、同時に自然保護にも取り組まれてこられた。植物学者の故河野昭一さんもそうだが、自分の研究に没頭するだけではなく自然保護に尽力される研究者に、心から敬意を表さずにはいられない。本書は石城さんの講演会から11話を選んで書籍にまとめたものだが、どの話しも幅広い知識と経験、深い洞察力に裏打ちされている。

 最近は講演会を聞きに行くことがめっきり減ったが、以前はときどき講演会や学習会に参加して、専門の方たちの豊富な知識のおすそ分けに預かった。ただ、悲しいかな、講演会や学習会で知り得た知識や情報のうち頭脳に鮮明に記憶されるのはごく一部であり、話しの多くはなかなか記憶として留まらない。しかし、本書のように講演者が自ら講演内容をまとめて文章として残してくださると、あとで何度も読み返すことで理解を深めることができる。しかも、石城さんの講演は実に中身が濃く、示唆に富んでいる。このような話しをまとめて書籍にした意義は大きい。

 本書のタイトルともなっている第1章の「自然は誰のものか」は1989年の講演記録だから、今から28年も前の時点での話しだ。本章では、日本の大規模開発計画が昭和35年に発足した池田内閣の「全国総合開発計画(一全総)」に端を発し、昭和44年の佐藤内閣による「第二次全国総合開発計画(二全総)」、昭和47年の田中内閣による「日本列島改造論」、昭和52年の「第三次全国総合開発計画(三全総)」、昭和62年の「第四次全国総合開発計画」やリゾート法(総合保養地域整備法)へと受け継がれてきたことが示されている。戦後の高度経済成長の中で進められていった政府の開発計画こそ、日本の自然が次々と失われていった元凶だ。

 乱開発が始まった当初から自然保護に関わってきた人々は、程度の差こそあれこうした背景を理解しているだろう。重要なのは、石城さんが明確に指摘しているように、日本の自然を滅茶苦茶にした開発計画の目的は、中央集権体制の強化と再編にあるということだ。大規模工業開発やリゾート開発の流れの根源にあったのは、国と大資本による地域収奪であり、国と大資本による経済成長のための戦略だ。だから、開発に伴って全国各地で生じた自然破壊、環境破壊に対する反対運動の大半は、まさに国や大資本との闘いだった。そして、今もその構図は続いている。リニア新幹線などはその典型だろう。

 先日、昔書いたエッセイを3編アップし、最後に青字で注釈を添えた。「シギと私」では、東京湾や有明海をはじめとした干潟が失われていったことに触れ、「」では、八ヶ岳山麓のリゾート開発について触れた。海にも山にも押し寄せた開発の嵐は、かろうじて残されていた日本の自然を切り刻み、地方を切り捨ててきた。今更ながら、そのことを痛切に感じる。

 本書では、水や川をめぐる講演も2つ取り上げられているが、実に奥深い。「人間と水」という章に出てくる信玄堤や分水の事例は、現在の治水の見直しにも役立つだろう。武田信玄は、御勅使川(みだいがわ)支流を分けて釜無川との合流点を増やすことで水の勢いを弱めたり、堤防に切れ込みを入れて水の勢いを分散させる信玄堤(霞堤)という治水工事を行った(この工事についてはこちらを参照いただきたい)。こうした手法は自然の摂理に沿った治水といえるだろう。

 また、利水と治水の両方の機能を兼ね備えていた諏訪市の角間川の分水についても取り上げているが、昔の人の知恵に驚かされる。諏訪は石城さんの故郷だが、私の生まれ故郷でもあり、角間川は子どもの頃からなじみがある川だ。石城さんによると、角間川は上流で分水され、諏訪市街の東側にある山の裏側を通って市街地側の斜面に流れ込み、さらに分水されて農業用水や生活用水として使われていたという。

 この話しを知ってすぐに頭に浮かんだのは、諏訪の茶臼山の叔母の家の近くを流れていた小さな川のことだった。子どもの頃、夏休みに叔母のところに遊びに行くと、冷たい水が勢いよく流れているその川に遊びにいったものだが、細い道にそって流れるその川は子どもながらに自然の川とはどこか違うと感じていた。そこで、インターネットで公開されている国土地理院の地図から角間川を辿ってみた。

 なるほど、角間川は上流の2カ所で分水されている。一つは蓼の海(たてのうみ)という人造湖(ため池)を経由して山の鞍部を越し、もう一つは角間新田の上流で分水され鞍部を越えている。それぞれの分水地点からは鞍部に向かって等高線に沿うように水路が掘られ、鞍部を越えて反対側の斜面へと流れているのだ。こんな上流で分水をしていたとは知らなかった。そして、叔母の家の近くに流れていた小川は、角間川の下流部で分水されたものだということも分かった。諏訪の街中にはあちこちに水路があったことは子どもながらに記憶していたが、あの水路の意味に納得した。

 人の手によって本来とは異なる水系に水を流す行為は自然の摂理に反するものだ。しかし、節度をわきまえてさえいれば大きな災害には結び付かないだろうし、むしろ洪水の抑制につながる。自然との共生を目指した先人の知恵だ。ところがダムや河川改修などの大規模な治水や利水事業によって、昔ながらの優れた利水・治水は今ではほとんど姿を消してしまった。諏訪の水路網も今は使われていないという。

 公共事業という名の元で進められたダム建設や河川改修は自然を破壊しただけではなく、ダムの放水による洪水や、河川の直線化による破堤、溢水など新たな災害を生むようにもなってきている。自然を制御しようという考えが根底から間違っていることを教えてくれる。

 本書で取り上げられている講演はいずれも充実した内容のものばかりだが、人間社会の福祉と戦争について取り上げた「動物学からみた人間」についての考察は、考えさせられることが多い。直立二足歩行によって両手を自由に使えるようになり脳が発達して文化を発展させてきた人間は、高齢者や障害者、病人などといった社会的弱者を見捨てないという他の生物には見られない独自の生き方を選んできた。このような生き方を否定するような弱者切り捨ての行く末には、人間の将来はないだろうと石城さんは言う。

 昨年は相模原の障害者施設で入所者や職員多数が殺傷されるという凄惨な事件が起きた。安倍政権は、弱者切り捨ての法案を次々と成立させているばかりか、平和憲法をかなぐり捨てて戦争ができる国へと突き進んでいる。ネットでは気に入らない者、社会的弱者を叩いて優越感に浸ろうとする人が溢れている。人間以外の生物ではありえない殺伐とした光景だ。こんなときだからこそ、福祉と戦争について取り上げたこの章は、意味深いものになっている。


  
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Posted by 松田まゆみ at 15:46Comments(0)自然・文化雑記帳

2017年01月20日

(1985年)

 どうしてその峠に行こうと思ったのか、今となってはよく思い出せないのだが、たぶんあの頃、私の一番好きだった季節、秋のあふれる中を、日頃の雑念を払い落して一人で歩きたかったからではないだろうか。秋といっても、あの山肌一面を鮮やかな紅や黄に染めるような紅葉の美を求めていたのではなかった。私は、あの紅葉特有のはなやいだ色合いは、それほど好きではない。あの色合いは、静かで寂しくありながら厳しい一面を持った秋という季節を象徴するには、何かそぐわない気がしてならない。秋の山は、落ち着いた色合いであるべきだった。だから私の選んだその峠は、はなやかさはなかったし、季節も晩秋の頃だった。遥かかなたの空の下で、北アルプスの山なみが銀白色にきらめいていたから、十月の終わり、あるいは十一月に入っていたかもしれなかった。

 その峠は、信州の一角、北八ヶ岳にあった。そしてそこに行くために、小高い山を越え、原生林の中を歩き、また高原を横切り、池のほとりで腰を下ろさなければならなかったが、その変わりゆく秋の姿を心ゆくまで楽しむことができたのだった。

 夜行日帰りという、ほんのつかの間の山旅であるのに、私は落葉松の季節になると必ず思い出す。というより、あの黄金色の落葉松が私の思い出をゆりおこしてくれるように思う。

 すでに東京の真冬なみ、あるいはもっと寒くなっていたかもしれないその高原のロープウェイ駅には、夜行列車から乗りついで一番のバスに乗ってきた二十人ほどの人たちが思い思いに散らばっていた。私もその駅の冷え切ったコンクリートの一隅に身をこごめて座りこむと、お茶をわかしささやかな朝食をとった。寒さがじわじわと体にしみてくる。眼下には南アルプスの山々が紫を帯びて朝もやの中に横たわっている。高原は一面、いつ冬が訪れてもいいような殺伐とした枯色となり、カラカラと葉ずれの音すら聞こえてきそうだ。人々はそれぞれの思いを、この朝もやの高原に寄せているようだ。私もまた、飽きることなくその一時を山に、高原に、目を据えていた。


 遥かなる山を見つめていると
 忘れられたものが 心の中に
 ぼっ と甦ってくる
 山はいつだって
 おとぎ話を包みこんでいる


 私のこの時ほど朝もやにかすむ山なみをなつかしく、いとおしく感じたことはない。それは、心の中でひそかに想いをいだいている恋人のしぐさを遠くから見つめているおももちにも似ていた。

 ロープウェイを降りたつと、ゆっくり歩きだした。峠は、目の前の山をいくつか越えた向こうだった。しめっぽい針葉樹の林は、真夏のそれより重ったるく感じられたが、あの鼻孔を刺激する樹の香りは、夏山のそれと同じ、なつかしいシラビソ原生林のものだった。あれだけ乗っていたロープウェイなのに、歩きだしてみるとどこに散ったのかと思う位、人々はそれぞれの道に消え、前後の人影は少なかった。私のような気ままな山旅をする人は少ないのかもしれない。いつものゆっくりとしたペースを楽しみながら、横岳の上に出た。

 そこは、北八ッ特有の景色を一望できた。小高くうねる原生林の山々、手鏡のようなちっぽけな池、枯色の丘。これからたどろうとしている道は、視界の途中でとぎれている。遥かかなたまで続くようにも思える。すきとおった空のずっとかなたに、北アルプスの峰々が白く浮き上がっている。その山なみのひとつを、その夏、自分も歩いてきたとは信じがたいほど、きびしく美しい山の姿だった。

 山道は地図で見るよりも起伏に富んでいた。時には、うっそうとした暗い森の中を、時には岩のむき出しになった道を、足元に気をつけながら進まねばならなかった。雪こそなかったが、あたりの草といい石といい、まっ白い霜がはりついていたからだ。それが朝の陽にきらめいている光景は、一瞬足を止めさせた。何でもない路傍の草や石ころであるはずなのに。やがて白一色の世界になってしまう地では、おおいかぶさるような霜が、秋の終わりを告げているかのようだ。その白いベールを足で踏みにじっていくことに、一瞬の戸惑いを感じながら、山道をたどった。

 北八ッの象徴のような原生林では、すでに鳥の地鳴きもまれにしか耳にしない。苔むした、柔らかい大地の感触を踏みしめながら、それは森をさまよっているおももちだった。

 荒涼とした岩原。これもまた北八ッの象徴に違いない。何故こんなところに突如、岩原が広がっているのか。この何とも言えない景色は、そこを通る人々にどんな気持ちを抱かせてきたのだろうか。それはあまりに荒涼としていて、たった一人の私にはとまどいすら感じさせる岩原だった。心地よい秋の風の中で、私はきままな放浪者そのものだった。

 双子池。そのほとりで腰を下ろし、おにぎりをほおばった。古びた山小屋、盛りの中にたたずむ池、静寂そのものの山は、この上なく心を落ちつけてくれた。足元の木の根の間から、ヒメネズミが飛び出してきた時には驚いた。地面にこぼれた何かをくわえると、あっという間にまた巣穴へと引っ込んでしまったものの、穴の入口でそっと私の様子をうかがっていたネズミのことを思うと、ひとりでに楽しくなった。何と他愛のない動物だろう。

 そして、私は最後の高みを目指すべく、枯色の丘に登っていった。そこは本当に枯草の丘というのがぴったりの、小山だった。丘にねころんで北アルプスを見た。こんな景色を見るのも、今年はこれが最後だろう。あまりにも遥かな山々だった。

 その丘をかけ下りたところに峠があった。しかし、そこは今までたどってきた静寂きわまる山ではすでになくなっていた。冷たく幅広い舗装道路が山肌をうねり、きらびやかなドライブインまでが建ち並んでいる。わかってはいるはずの光景だったが、この高原に最もふさわしくないものだ。目をそらせたくなるような、その人間くさい峠を眼下に、私は丘をかけ下りた。私は、その踏み荒らされた峠を早く下るべく、ドライブインの裏手にまわった。

 その古びた道標は、忘れられたように、建物のかげにポツリとたっていた。それを見つけた時、心の中にほのかな安心感があふれてきた。建物のかげに、見放されたように立つ道標に、不思議なことに親しみがわいてくるのだった。

 大河原峠の白茶けた道標は、山を愛する人達のために、立ちつづけているのだろうこの人間に踏みにじられてしまった峠の一角で。華やかなドライブインと、小さな道標を背に、私は秋の谷に足を踏み入れていった。

 帰り道はゆるやかな下り坂だった。落葉松と枯野原の谷は、まさに秋に彩られ、そこを通る小径は、黄金色の草の中へと続いていた。その心地よい小径を飛ぶように下っていると、あの峠のことは頭から消えていた。


    峠から

 白茶けた道標が
 忘れられたようにぽつりとあった
 そこからは ゆるやかな下り坂だった
 僕は草の中の小径をたどった

 まぶしいほどの落葉松の中を
 ぽこぽことくぐりぬけた
 その向こうに
 誰かが待っているような気がして

 僕は小走りにかけた
 どこまでも続く
 そののびやかな谷を
 ぽこぽことかけた

 さらさらと草がなり
 僕のひざをくすぐっていた

 僕を包みこんでいったのは
 とろけそうな午後の陽ざしを受けた
 幼い頃の記憶の世界
 枯野の中から
 一匹のキツネがぎょっこりと現れ
 とことこと銀色の小径を横切っていく

 はっと立ち止まると
 枯野だけが
 小麦色にちかちか光っていた


 日曜日だというのに、誰も通らない小径。青い空に手を伸ばすように輝いている落葉松の黄色い小枝。その中をくぐるようにして、この上もない秋の一日を惜しむようにして歩いた。やがて小径は川に沿った狭い谷へと入り、また山道になっていた。秋の一日の思い出を胸に、落葉を踏みしめながらバス停へと急いだ。

 どこにでもありそうなちっぽけな峠や小高い山々。しかし、それは私にとってはかけがいもない、愛すべき世界だった。その冷たい空気をいっぱいに吸い込みながら思った。あの峠にいつかまた行こう。いつかまたこの径をたどってみよう。しかし、その時もあの道標はあのままの姿で迎えてくれるだろうか。


*信州は私の生まれ故郷でもあり、八ヶ岳や北アルプスの山並みは私にとっては子どもの頃から親しんできた光景だ。巨大都市東京に住んでいた頃、私はときどき思い立ったように一人でふらりと山に向かった。コンクリートに囲まれた都会で暮らしていると、無性に、都会の雑踏を抜け出して一人で山の自然に浸りたいという思いが湧いてくる。北八ヶ岳の大河原峠への山旅も、そんな思いつきの一つにすぎないのだが、あの大河原峠からの黄金色の落葉松の色は、今も脳裏に焼き付いている。あのときは知らなかったのだが、北八ヶ岳に点在する岩塊地や池は、かつての火山活動の賜物だ。日本の山岳のたとえようのない美しい景観は、火山活動によるところが大きい。
 この小文を打ち込みながら、さて、あのとき歩いた道は今はどうなっているのだろうかとグーグルアースを開いてみた。家に居ながらにして、山の中の道ですら辿れてしまうという恐るべき時代になってしまったことにちょっぴり愕然としながら・・・。
 そこに現れた画像は呆気にとられるものだった。ピラタスロープウェイの山麓駅周辺は網の目のように道路が広がり、リゾート地に変わり果てていた。そういえば、母と霧ヶ峰の殿城山に登ったときも、その山頂から眼下に広がる別荘地の光景に息を飲んだ。殿城山は、もはや別荘地とスキー場に三方を囲まれて孤立した岬のようだった。白樺湖や霧ヶ峰周辺も八ヶ岳山麓も、リゾート開発、別荘地開発の波が押し寄せて、目を覆いたくなるような光景が展開されている。ただし、私の目には大規模リゾート開発のターゲットとされ自然破壊の象徴としか映らない別荘地であっても、そこに住まう人たちにとっては心安らぐ自然に違いない。もちろん、彼らを非難するのはお門違いだ。しかし、こうした状況を単に「時代の流れ」として受け流してしまうことにはどうしても抵抗がある。
 若い頃から山にばかり行っていた父は、歳をとってから霧ヶ峰をはじめとした信州の山々から足が遠のいていた。あまりの変わりように、とても足を向ける気にならなかったのだろう。グーグルアースの画像を見ていると、その気持ちが痛いほど分かる。
 当たり前のことだけれど、山麓を、高原を切り刻んで造られたリゾート地がなかった頃を今の人たちは知らない。そうやって、日本の美しい森や景観がじわじわと蝕まれ、蝕まれた光景が当たり前になっている。嘆いていてもどうにもならないのだけれど、自然の傷跡に、人の欲の浅ましさを感じずにはいられない。


  

Posted by 松田まゆみ at 11:44Comments(0)随筆

2017年01月17日

赤鬼の高原

赤鬼の高原(1984年)

 北国の秋は、ひどくせっかちにやってきた。カッと照りつけた、しかしほんの短い夏が終わると同時だった。そのあわただしさに、私はまごついていたのかもしれなかった。あの草原に足を運んでみようと思いたったときは、すでに九月に入っていた。

 草原といっても、そこはかつてエゾマツやトドマツが生い茂っていた所を、ぽっかりと扇状に切りさいたスキー場だ。直線的な濃い緑の森林にふちどられた斜面は、草におおわれ花が咲いていても不自然さがつきまとった。雪のない季節には、無用だとばかりに草が茂り放題になっている。私はその斜面を眺めわたすと、かすかな期待を胸に、踏みわけのついた蕗の中を登りはじめた。

 草原は、まぎれもなく秋に支配されていた。夏の間、おもう存分に伸びた蕗の葉も、だらしなく倒れ、歩くたびにカサカサと音をたてた。ついこの間までは草いきれがたちこめていただろう草原は、もはや生気を失いかけている。遅すぎたのだろうか。

 遅い足取りのその足元に、ふと紫のリンドウが目に入った。ああ、この花だ。あの時も、この花が足元にいくつもこぼれ咲いていたっけ……。



 もう六年も前になるだろうか。まだ東京に住んでいた頃、私は友人と二人で、信州のある高原へ出かけた。列車にゆられ、バスを乗り継ぎ、おりたったその地は霧雨にぬれ、ぼんやりと針葉樹に包まれていた。今から思うと、北海道の山地の感じとも似ていたようだ。あの針葉樹は落葉松だったろうか。木造の宿をとり囲んで、黒々と雨水を含み、そそりたつように並んでいた木々を、私は今でも鮮やかに覚えている。雨の音の他、もの音一つ聞こえない。いや、正確に言うなら、ヒガラの地鳴きくらいしていたかもしれないが、とにかく気の遠くなりそうな静けさだった。都会の騒々しさから抜け出してきた私たちには、その高原のすがすがしさはかけがえもなく尊いもののようで、雨が降っていることすらさほど気にならなかったし、かえって、私たちに落ち着きを与えてくれたように思う。

 その高原は、針葉樹は茂ってはいたが、牧場やスキー場になっている草原がそこかしこにあった。その上、流行りのテニスコートすらいくつかあったが、もはや秋となっては、人影もほとんどない。その誰もいないような草原は、思いもかけぬ秋の花々に彩られていたのだった。群生してゆれているヤナギランは、もう終わりに近かったが、鮮やかなピンクの花はそれほど色あせてもいない。マツムシソウもあちこちで頭をかしげている。私はこの花が大好きだった。まだ幼かった頃、同じ信州の霧ヶ峰で、背丈ほどもあるようなマツムシソウの中をかけまわった記憶が、今でも生き続けていた。その上品な藤色は、秋の草原を彩るのに最もふさわしいと思う。他に何が咲いていただろうか。オミナエシ、アザミ、ノコギリソウ、ワレモコウ……。

 私たちは、霧雨の降る中、外に出た。あたりは一面霧にかすんでいる。どこに行くというあてもなく、湿った落葉を踏みしめながら、スキー場へと足を向けた。探鳥のために持ってきた双眼鏡も、この霧では何の役にも立たない。そればかりか、鳥の声といったら、林のあたりから、ヒガラか何かの小声がとぎれとぎれにしている位だ。テニスコートの脇を抜けると、スキー場の下に出た。踏みあとは小さな川となって雨水が流れ出ている。その流れを飛び越しながら、上へつづく草の中の小路をたどっていった。

 斜面に広がる、いくぶん草丈の低い草原は、そこに咲く花の色も、また葉の色も秋の色をしている。ミルク色に漂う霧が、それをより一層冷たく見せている。そして足元には、あの濃青紫のリンドウの花が、いくつも咲いていた。こんなにたくさんのリンドウを見るのは、ずいぶん久しぶりのことではなかろうか。濃い霧の中を、足元に気を配りながら、どれくらいのリンドウを見ただろう。そして、斜面の中腹あたりまで登った頃、私はそのリンドウの花陰に、真赤な、というより、もう熟れすぎた木の実のようにいくらか黒ずんだ赤いものを見つけた。それは、水滴をしたたらせもう破れそうになった蜘蛛の網に、じっとして動こうともしない。

 成熟したアカオニグモだった。気味の悪いほどの赤く大きい腹部には、真白な斑点がちらばっている。その壊れかけた網や、腹部の成熟しきって黒ずんだ赤色は、この蜘蛛の命がつきるのも間もないことを物語っていた。

 自然の中での、アカオニグモとの初めての出会いだった。本州の高原や、北海道の草原には、どこにでもいるありふれた蜘蛛ではあったが、今まで見たことがなかったのは、この季節にこういう高原に来ることがほとんどなかったからに違いない。ひどく美しい蜘蛛であった。が、その濃すぎる赤は、まわりの静けさにとけこみ、美しさより先に秋の寂しさを漂わせていた。気をつけてあたりを見回すと、ひとつ、ふたつ……と、いくつもの赤い蜘蛛が、霧に濡れた草の中でうずくまっているのだった。

 私がこの蜘蛛を初めて目にしたのは、それよりもさらに四年ほど前だったと思う。それは、大学の生物部の部室だった。秋の尾瀬から帰ってきたというある先輩が、フイルムケースの中から、手のひらにころりと出して見せたのが、アカオニグモだった。それは脚をちぢめて丸まり、ほとんど身動きすらしなかったが、私は何と美しい蜘蛛だろうかと見入ったものであった。

 しかし、高原の冷たい葉陰で、真赤に老熟してたたずんでいるこの蜘蛛を目の当たりにしたとき、私は、散っていく紅葉のような、はかない存在に、驚きにも似たものを感じたのだった。冷気の漂いはじめた、誰もいない高原で、この小さな命たちは熟れた木の実のように、土にかえっていくのだろう。



 私は、あのリンドウの中の赤い蜘蛛のことを思いながらスキー場尾の斜面を登っていた。北海道の草原は信州のそれと違い、大きな蕗が他の草を押しのけるかのように葉を広げている。信州の高原が概して草丈の低い、おだやかさを持った草原であったのに比べ、そのぼうぼうと伸びた茎は、草原を粗雑なものに見せた。が、どちらも、もう枯れゆく運命にある秋の草原であることに変わりはなかった。注意深く足元を見やりながら、しばらく登った頃、私は蕗の葉の間に、一目でそれとわかる網を見つけた。しかし、網はいく本もの糸が切れ、もはや網とはいえないほどいたんでいる。その上、小さな虫がいくつもへばりつき、もう何日もそのままになっているようだ。葉の裏に造られた住居にも、主の姿はない。やはり遅かったのだろうか。

 私はこの草原で、あの赤鬼に会いたかった。勿論、この草原でなくても探せばどこにでもいるはずだが、それでもこの草原で会いたいと思ったのは、ここが、あの信州の高原によく似ているという意識が、心のどこかに働いていたからにちがいない。あの蜘蛛は、潮風がなでて通る海辺の草原よりも、またちっぽけな道端の草地よりも、しっとりと寂しい高原の方がふさわしい気がした。

 さらに登っていった。同じような網がひとつ、ふたつ、だがどれも網の主はすでにいない。やっぱり……。北海道の秋は信州より一足も二足も早かったのだ。やがて踏みわけ道はもはや道ではなくなり、私はバサバサと草を押し分けた。いくども帰ろうか、と思いながらも、なぜかしら足は枯れ草を押し分けていた。

 私があの赤い、それこそ、今にもこぼれ落ちそうな赤鬼を見つけたのは、五つ目くらいの網だったろうか。もう用はなさないのではないかと思えるボロ網の糸をたどると、それはくるりと葉を巻いた中に、小さくうずくまっていた。

 やっぱり生きていてくれたのだった。ひときわ大きくふくらんだ腹部は、見事な濃赤色に染まり、生きているのかと疑うほど、じっとしている。この蜘蛛にはもはや網を直す必要もないし、その力もないことを私はよく知っていた。

 いつのまにか、だいぶ傾いたやわらかな陽射しが草原に落ちていた。心のうちで期待していた、ほのかな赤鬼との再会の喜びは、いつか信州で出会った赤鬼の思い出と重なり、人知れずこぼれ落ちていく小さな命の哀しさへと変わっていた。

 涼風がたってきた。私は草原にくるりと背を向けると、一気に草原をかけおりた。


*父が亡くなってから墓参りを兼ねて、懐かしい霧ヶ峰に母と通うようになった。父の墓は霧ヶ峰からの湧水が流れ下る角間川のほとりの地蔵寺にある。通うといっても、年に一度、8月下旬に開かれる蜘蛛学会の大会に合わせて帰省したときだった。その頃は父の命日にも近かった。そんなわけで、8月下旬から9月の初旬にかけてが霧ヶ峰に行く時期になった。
 初秋の霧ヶ峰ではマツムシソウとアカオニグモがそこここで迎えてくれた。ただ、この時期のアカオニグモはまだきれいな赤色になっておらず、くすんだ黄緑にほのかに赤色が差しているような微妙な色をしている。信州の高原にはマツムシソウとアカオニグモがよく似合うといつも思う。
 その母も他界して、霧ヶ峰もちょっぴり遠い存在になったが、霧ヶ峰の光景は私の心の中にずっと生き続けている。ただし、この小文に出てくる信州の高原は霧ヶ峰ではなく、湯の丸高原である。
  

Posted by 松田まゆみ at 11:44Comments(0)随筆

2017年01月15日

シギと私

*少しずつ所持品の整理をしているのだけれど、ずっと前に町民文芸誌に書いたエッセイが出てきた。読み返してみると何とも気恥かしいのだが、過去の記録のつもりでブログにも残しておこうかという気になった。

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シギと私 (1982年)

 鳥を見はじめてから、かれこれ十五年がたつ。何げなく歳月をふり返り、あまりの時の速さにとまどいすら感じる。今でいえば「バード・ウオッチング」だが、十五年前はそんな言葉もない上、鳥を見て楽しむなどということは多くの人の常識的感覚からはずれてさえいた。

 私が「鳥」というものについて語る時、忘れられない場所がある。今では、そこは赤や白に塗りたてられたマンションや住宅が建ち並び、人の車の往きかうベッドタウンと化している。かつて、日曜、祭日ともなれば多くの野鳥ファンがゴム長ぐつにリュックを背負い、首からは双眼鏡をさげ、肩に望遠鏡をつけた三脚をかついだいでたちで、この地を歩きまわったことは、遠い昔に置き去られた幻のようだ。

 千葉県の江戸川放水路から江戸川までの海岸一帯は「新浜(しんはま)」と呼ばれ、日本でも有数の渡り鳥の渡来地として知られていた。遠浅の海は、潮が引くと三キロにも四キロにもわたって干潟が現われ、汀線すら定かでない。そこには、何百、何千というシギやチドリそしてガンやカモが群がっていたという。東京湾のまん中のことである。

 私が初めて新浜を訪れたのは、小学校六年か中学一年の頃だったと思う。その頃はまだ地下鉄東西線が開通しておらず、総武線の本八幡駅まで行き、そこからバスで江戸川放水路の土手に出た記憶がある。

 ところで、新浜と言えば、自然保護、干潟保護運動の発祥の地とも言える所であった。野鳥関係者が中心となって湿地や干潟の埋め立てに反対する活発な運動を起こし、人々の注目を集めた所である。その頃の新聞には、しばしばこの運動の記事が載った。京葉臨海工業地帯の造成により、東京湾は次々と埋め立てられることになり、新浜でも海の汚染や地盤沈下で農漁業にあきらめをつけた人々は、この運動にひどく反発した。その運動の結果、一隅に野鳥のための保護区が設けられ、まわりは埋め立てられることになったのである。勿論、保護区を造るための運動ではなかったのだが、それが成り行きだった。私が初めて新浜を訪れた頃というのも、この保護運動が行われているさ中だった。とはいうものの、すでに埋め立てのためのトラックが行きかい、水田の脇に建つ農具小屋の壁いっぱいに、保護運動に反対する激しい言葉が白ペンキで書かれていたのを鮮明に覚えている。「野鳥を殺せ!」などという言葉のもつ意味が当時の私にはよく理解できず、何かひどく恐ろしいものに思えたものだ。

 この頃、私は二回、この新浜の地を訪れた。いずれも国立科学博物館主催の「探鳥会」に参加してであった。一度は、歩きはじめてまもなくひどい雨と風に見舞われ、橋の下でびしょぬれになって雨宿りをし、ろくに鳥も見ずに帰ることになった。もう一度は、前回とはうって変わっての好天に恵まれたのだが、日陰もない砂漠のような埋立地ではジリジリと太陽が照りつけ、おまけにダンプカーが砂ぼこりをけちらし、本当にこんな所に鳥がいるのだろうか、と思わせた。事実、鳥影はまばらで群がるシギやチドリを見た記憶はない。この日は、特に鳥の少ない日だったらしい。ただ荒涼とした埋立地の水たまりに一羽の若いツバメチドリがいて、その珍しい鳥をみんなで眺めた。ツバメチドリはヒラヒラと舞っては降りる動作をくり返し、それは何とも寂しげだった。

 これで、私の干潟の鳥に対する興味は、半減どころかほとんどなくなってしまった。それからというもの、私は「探鳥会」と言えば高尾山ばかり歩き、キビタキやオオルリの美しい声や姿に夢中になり、また識別に夢中になった。私にとって、「鳥」とは山野の小鳥たちのことだった。

 私が再び新浜を訪れたのは、それから六年位たった大学一年の時だった。家を出るまではあまり乗り気ではなかったが、たまには変わった所に行くのもいいと思ったのだろう。私は友人と二人で、一台の望遠鏡を持って東西線「行徳駅」に降りたった。当時の行徳は駅前といっても何もなく、アシや帰化植物のおい茂った埋立地に碁盤の目のような道がついているだけだった。海岸までは、いたる所に水たまりがあって葦が茂り、その葦の根元付近を探すと必ずといっていいほど赤い嘴のバンが見え隠れしていた。どこの葦原からも、オオヨシキリの騒がしい声が風に乗ってくる。

 遠浅の干潟はすっかり埋め立てられ、赤くさびた浚渫のサンドパイプが無残に放置されている。そんな中で、渡り鳥たちはちょっと開けた泥地の水たまりに群がっていた。黒い夏羽になったツルシギ、アオアシシギ、シロチドリ、メダイチドリ、それらが何十羽となく水辺で餌をとっていたり、背中に頭を突っ込んで眠っていたりするのだった。これがシギの群れとの初めての出会いだった。山野の鳥たちのような華やかさは一つもない。静かな、それでいて目を見据えてしまう光景だ。

 頭上では、しきりにキリッキリッとコアジサシが鳴いている。そのたびに私は空を見上げ、白く光る鳥を追った。蓮池にはカイツブリやオオバンが浮かんでいる。江戸川放水路の岸の小さな干潟には驚くほど長い嘴のダイシャクシギや、ほんのりと紅味を帯びてきたオオソリハシシギが並んでいた。何もかもが新しい光景、新しい世界だった。様々な鳥たちは勿論のこと、潮の匂いや葦の葉擦れの音さえも私には新鮮だった。

 私が新浜通いを始めたのは、それからだった。「通い」といっても、毎週のように行けるわけではない。大学のクラブの探鳥会にも参加するので、新浜へは月に一回から三回位だったろうか。私の家から行徳駅までは、たっぷり二時間かかった。渡り鳥、特にシギやチドリというのは春と秋にここを通過するだけのものが大半なのだが、鳥が多かろうが少なかろうが、夏であろうが冬であろうが足を運んだ。

 今でこそ言うが、水辺の鳥、とりわけシギやチドリとは素晴らしく魅力的な鳥である。体つき、しぐさ、色、鳴き声、群れの美しさ・・・。それは、甚だ感覚的なものだ。

 シギの大半はシベリアやアラスカ、北欧といった北の果ての地で繁殖する。一年のほとんどを雪と氷にとざされたようなツンドラ地帯。そこでは、氷がとけているのは七月~八月にかけての二ヶ月足らずの間で、大地はこの息をつくほどの短い間に、長い昼の助けをかり、生き返ったように花や小さな虫たちの世界となる。彼らはこのほんのわずかな時期に、繁殖という大仕事をやりとげるように適応してきたのである。二ヶ月の間に卵を産み、子を育て、若鳥たちは渡りのための飛翔力をつけなければならない。そして、秋風のたつ頃、シギたちは再び南を目指す。あるものは日本の小さな干潟で冬を越すが、多くの鳥たちはさらに南へと渡っていく。彼らの姿は、そのきびしい生活環境にむだなく適応していったような気がする。まっ白い翼をひるがえして群れ飛ぶ姿、夜空を抜けていくすきとおった声、そしてピンと張った長い翼も、渡りという宿命に裏打ちされているのだ。

 学生時代、私は折あるごとに全国各地の干潟や湿地を訪れた。そこには様々な水辺があり、様々な水辺の鳥の生活があった。

 北海道のシギたちは、緑の中にちらばっている。干潟というより湿地に棲み、ちらちらゆれる葉陰の向こうで、何とも寂しげなシギたちだ。でも、それは繁殖地の風景に似ているのかも知れない。ちょっぴり冷たい風と、いくぶん傾いた陽ざしの中で、故郷のなごりにひたっているようにも見える。

 九州、有明海は、今日日本に残る最も大きな干潟だ。それは、深々とした泥の堆積であり、北国の湿地の面影は何もない。何キロメートルにも及ぶブヨブヨとした鉛色の干潟にごまつぶのようにシギが群れている。その向こうにノリヒビの竿がかすみ、ミサゴが遠くを舞っている。この広大な泥地は、彼らにとっては大切な休息地であり、越冬地でもある。

 それにしても、私にとっていちばん思い出深く、又好きなのは東京湾であり、新浜である。そこは足を運ぶたびに風景が変わった。アシ原は次々と消え、マンションや住宅が一つ、二つと増えていった。道路が舗装され、商店街が出来、駅前広場まで出来た。それと反比例して、ゴム長ぐつをはき、双眼鏡を首からさげて歩く人の姿は消えていった。でも、そこから鳥たちの新浜が全く消えてしまったわけではない。マンションの脇の小さなアシ原には、相変わらずオオヨシキリが棲みついていた。江戸川放水路のかたわらの、ほんの少し残された蓮田には、バンやカイツブリ、オオバンが迎えてくれたし、ピンクのすばらしく長い脚をしたセイタカシギに初めて出会ったのもここだった。私は、春になるときまって、ここにツルシギの声を聞きにきたものだ。そして、鳥たちの声をかすかに聞きながら、放水路の土手に寝ころんだ。

 何げなく、午後から新浜にやって来て、宮内庁御猟場の脇の水たまりで夕暮れまで鳥たちを眺めているのも好きだった。コサギやダイサギが御猟場のねぐらへと舞いもどるのを眺め、湿地にかすむシギたちを眺めるのだった。帰り道は、もうすっかり暗かった。


 たそがれが世界をおおっていた
 御猟場の森のふちが赤く赤く染まり
 白サギが黒サギに変わって消える
 もう何年も何年も昔から続いている光景
 変わったものは、まわりの景色と人の心……

 その御猟場のかたわらの小さな水たまり
 私の愛したちっぽけな水たまりのふちに腰かける
 シギたちは何も知らずに泥の中にくちばしをさしこむ
 私は静かにそれを見る

 本当は知っているのかもしれない
 自分たちをちっぽけな水たまりへと追いつめてしまったものを
 そして人々は忘れ去っていく
 そこが生き生きとした世界であったことを

 一日のなごりの陽ざしが水たまりをなでて通りすぎる
 シギたちは何も知らなかったかのように泥の中にくちばしをさしこむ
 私はだまってそれを見る

 誰が知っているというのだろう
 この闇の中に忘れ去られたものたちが
 今生きていることを
 そして大地をつついていることを

 私は黙って闇を見る


 その御猟場の前面には、今では野鳥のための保護区が出来、立派な野鳥観察舎が建っている。日曜ともなると、多くの人々がガラス張りの建物の中から、ものめずらしげに鳥たちを眺めていく。
 そこは、かつての広大な干潟とは比べものにならないような小さな小さな保護区ではあるが、そのふちにたたずみ鳥たちを見る時、私の中に初めてシギを見る喜びにひたったあの日の感動が、いつとはなしに甦ってくる。潮風の中で聞いた、さわやかな声までも。


(注)この随筆を書いてから、すでに三十年以上が過ぎた。その間、有明海の諫早湾は「ギロチン」と呼ばれる巨大な水門で仕切られ、あの広大な干潟は海に没して消えてしまった。何ということだろうと、今さらながら思う。
 新浜の江戸川放水路の傍らにあった蓮田も、もちろん今はない。2007年に友人と久々に新浜の保護区を訪れたのだが、行徳駅からの道のりに昔の面影はなく、商店や住宅のひしめくそこは全くの別世界だった。それでも保護区は管理人の蓮尾夫妻の手によって自然の再生が図られ守られていた。
 なお、野鳥観察舎は、耐震性に問題があるという理由で一年ほど前から閉館を強いられている。再開されることを願って止まない。

  

Posted by 松田まゆみ at 11:25Comments(4)随筆

2016年12月31日

年の暮れに

 今日で今年も終わり。子どもの頃は一年がものすごく長く感じたのに、歳とともに短くなり、昨今では飛び去るように過ぎてしまう。なんだか追い立てられているようだ。

 「別れ」が増えてくるのも歳をとった証だろう。今年は喪中葉書がいつになく多く15枚もあった。自分より年上の方の訃報が多いとはいえ、友人や知人の訃報を耳にするたびに寂しさがこみ上げてくる。かつて共に語らい心を通わせた人たちが、一人、また一人と亡くなっていくのは、なんともやるせない。

 今年は植物学者で京大名誉教授の河野昭一先生と、昆虫学者で帯広畜産大学名誉教授の西島浩先生の訃報が届いた。

 私が河野昭一先生を知ったのは、学生時代に大学の図書館で手にした「植物の進化生物学 種の分化と適応」だった。進化や種分化に興味を持ちはじめていた頃だったからこそ、この本と著者の名前は脳裏に深く刻まれた。そして、日本におこんな優れた研究者がいるのだと知った。

 その後、河野先生は自然保護運動に積極的に関わっていることを知って、私は大いに認識を新たにした。日本では自然保護などの草の根の社会運動に積極的に関わる研究者はとても少ない。単に研究に忙しいということだけではなく、たぶんいろいろなしがらみの中で圧力のようなものがあるのだろう。しかし河野先生は、大規模林道問題全国ネットワークの代表を務め、全国各地で自然保護のための調査にも関わって大活躍されていた。国際自然保護連合の生態系管理委員会東アジア地区副委員長も務めるという希少な研究者だった。

 そんな河野先生と行動を共にすることになったのは、2005年の上ノ国町ブナ林伐採現場への視察だった。それ以来、十勝東部の国有林の伐採現場、上士幌町の幌加・タウシュベツの皆伐現場、上川町の石狩川源流部の違法伐採現場など、道内各地の伐採現場での視察や調査で行動を共にした。

 かつては雲の上の存在だった河野先生と、自然保護の現場でともに行動することになるとは夢にも思っていなかった。70歳を超えてもとてもお元気で全国を飛び歩き、誰とでも気さくに話しをされる河野先生に、私などはいつも元気づけられていた。今となっては、それも懐かしい思い出だ。

 河野先生亡きあと、先生に代わって自然保護のために行動する研究者が果たしてどれほどいるのだろうか?と思わざるをえない。それほど、自然保護、とりわけ森林保護に尽力された類い稀な研究者であられた。

 西島浩先生は深い付き合いがある訳ではなかったたが、大学時代の恩師(昆虫学)とは親友の中だったそうで、お二人で尋ねてこられたことがあった。根っからの昆虫好きで、虫好きが高じて研究者となり、一生を虫とともに暮らしたといっても過言ではないだろう。

 何年か前に千歳のご自宅に2回ほど伺ったことがある。ご高齢でありながら一人暮らしをされており、居間のテーブルには昆虫の本が積まれ、一日中、昆虫の本や資料に囲まれて過ごされているようだった。そして、私の顔を見ると「このあたりにもオニグモがたくさんいて夏になるとオニグモヤドリキモグリバエを見かけるのだが、最近はオニグモもあまり見られなくなった」と嘆いていらした。

 オニグモヤドリキモグリバエは産卵前のオニグモの腹部に卵を産みつける小さな黄色い寄生バエで、幼虫はオニグモの卵を食べて育つ。昆虫愛好家として、クモも寄生バエも興味深い対象として観察されていたのだろう。長生きされたのは、昆虫というかけがえのない趣味を生涯に渡って心から楽しんでいたからに違いない。いくつになっても好きなことに没頭できるというのは素晴らしいことだと思う。

 お二人のご冥福を心よりお祈りしたい。

 さて、私もあと何年生きられるのか分からないが、今年も大きな病にもかからず、事故にも遭わず、平穏に過ごせたことに感謝したい。この国が平和でいられるのも、あるいは自由に物を言えるのも、今のうちかもしれない。一度しかない人生なのだから、言いたいことも言わず、やりたいことを我慢するつもりはない。せめて残された人生を自分に正直に生きたいと思う。
  


Posted by 松田まゆみ at 07:01Comments(2)雑記帳

2016年12月13日

ブログ記事の削除要請を受けたらどうすべきか

 先日「植田忠司弁護士からの削除要請は正当か?」という記事で、ブログ運営会社への回答書を公開したが、これに対しさぽろぐ運営事務局から以下の返事があった。

現時点で、名誉棄損にあたるという判断ができませんので、
弊社としましても記事の削除には応じない考えです。
改めて依頼人側からの連絡があった場合は、
必要に応じて、またご連絡させて頂きます。

 私の回答書を受け、さぽろぐ運営事務局(ジェイ・ライン株式会社)は名誉毀損に当たらないという判断をしたということだ。至極まっとうな判断だと思う。この判断を受け、依頼人がジェイ・ライン株式会社に理由を示した上で「発信者情報(氏名、住所その他の侵害情報の発信者の特定に資する情報であって総務省令で定めるもの)を開示せよ」と求めた場合、ジェイ・ライン株式会社は「開示するかどうか」について私に意見を聴かなければならない(特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律 第四条)。

 かつては名誉毀損、プライバシー侵害、肖像権侵害、著作権侵害などといった権利侵害は書籍や雑誌、新聞などのメディアの世界でのことであり、一般の人にはほとんど関係のない話しだった。ところがインターネットの普及によって、誰もがこのような権利侵害の被害者、あるいは加害者になりうる時代になった。だから、ブログや掲示板などで発信する場合は常に権利侵害のことを頭に入れておく必要があるし、「知らなかった」では済まされない。

 もし、ブログ運営会社等から権利侵害の通告を受けたなら、まず、それが正当なものであるかどうか十分に検討する必要がある。正当なものであれば記事の修正や削除に応じるべきで、突っ張って放置したなら強制削除とか民事訴訟になりかねないし、場合によっては刑事告訴されることもあり得る。

 プライバシー侵害、肖像権侵害、著作権侵害については分かりやすいが、名誉毀損は判断が難しい場合も少なくない。誹謗中傷などをしておらず事実を書いただけであっても、その事実が特定の人の社会的評価を低下させるものであれば、名誉毀損になり得る。

 ただし、名誉毀損の場合は免責要件というのがある。簡単に説明すると、1事実の公共性(公共の利害に関する事実であること)、2目的の公益性(事実を適示した目的が主に公益をはかるためであること)、3真実性・真実相当性(適示した事実が真実であると証明できる、または真実であると信じた相当の理由があること)、の三つだ。この三つが満たされている場合は名誉毀損の不法行為は成立しない。したがって、これについて十分な検討が必要になる。

 プロバイダ責任制限法による削除要請の場合、ブログ運営会社から連絡を受けて7日以内に削除に応じるか否かについて回答をしないと、強制削除される可能性が高い。ただし、削除要請をする人の中には名誉毀損に該当しないのに「名誉毀損だ」と主張する人もいるので注意が必要だ。恐怖にかられて安易に自分から削除してしまえば、表現の自由の権利を自ら放棄してしまうことにもなりかねない。

 削除要請を受けた人に、前回と今回の記事が参考になれば幸いである。
  

Posted by 松田まゆみ at 11:10Comments(0)表現の自由

2016年12月09日

植田忠司弁護士からの削除要請は正当か?

 12月2日、「さぽろぐ運営事務局」(ジェイ・ライン株式会社)から「女性弁護士に暴力をふるった植田忠司弁護士とは・・・」という記事の削除要請があったとの通知がきた。削除要請の依頼人は植田忠司弁護士で、依頼人代理人は野澤健次弁護士である。それにしても、4年以上も前に書いた記事に「何で今ごろ?」と思う。

 インターネットが庶民の生活に深く浸透した現在、ネット上では誹謗中傷やプライバシー侵害、著作権侵害などの権利侵害が溢れている。ゆえに、プロバイダ責任制限法特定電気通信役務提供者損害賠償責任制限及び発信者情報開示 に関する法律)によって、権利侵害があった場合にプロバイダやサーバの管理・運営者が記事の削除ができることになっている。今回の削除要請はこれに基づいている。

 私が本当に権利を侵害しているのなら、記事の修正や削除をしなければならない。ところが、送られてきた「侵害情報の通知書兼送信防止措置に関する照会書」を読んでも、どのような記述が名誉毀損なのか書いておらず、何が問題なのかさっぱりわからない。「あずかり知らぬ情報を記載」したと書かれているが、私が記事に書いたことはすべて公開されている。「あずかり知らぬ情報」とは意味不明だ。

 記事全体が名誉毀損になるとは到底考えられないので、修正で対応したいとさぽろぐ運営事務局に伝えたのだが、記事全体が削除要請の対象だという。まったく訳がわからない。

 権利侵害が誰の目からみても明らかな場合は、プロバイダ責任制限法で記事が削除されても文句は言えない。しかし、権利侵害であるか否かの判断が難しい場合もあるだろう。中には、権利侵害などないにも関わらず、都合の悪い記事を削除させることを目的にこの法律を利用して削除要請する人もいる。そして、権利侵害という言葉に驚いて、あまり深く考えもせずに自ら記事を削除してしまう人もいるかもしれない。

 しかし、もし不当な削除要請であるにも関わらず記事の削除が実行されるようなことになれば言論の自由の侵害になりかねず、由々しきことだ。

 だから、削除要請がきた場合は、正当な削除要請であるかどうかを十分検討する必要があるし、不当な削除要請であれば削除に同意することにはならない。

 今回の削除要請については、さぽろぐ運営事務局に疑問点を問い合わせた上で検討したが、権利侵害があるとは考えられないものだった。私は、不当な削除要請ではないかと考えている。私は過去にも数回削除要請を受けたことがあるが、正当な削除要請だったためしがない。

 以下が、私がジェイ・ライン株式会社に送信した回答書である。

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回答書

2016年12月9日


ジェイ・ライン株式会社
代表取締役 野上尚繁 様
松田まゆみ


 貴社から照会のあった次の侵害情報の取り扱いについて、下記の通り回答します。

【侵害情報の表示】
掲載されている場所 「女性弁護士に暴力をふるった植田忠司弁護士とは…」の記事全文 http://onigumo.sapolog.com/e340026.html

掲載されている情報 女性弁護士に暴力をふるった植田忠司弁護士とは…との表題にて、あずかり知らぬ情報を記載した。

侵害されたとする権利 依頼人の社会的評価を低下させる事実を公然と発信(名誉毀損)し、依頼人の業務を妨害した。

【回答内容】
記事を書く動機になった「弁護士自治を考える会」の記事「植田忠司弁護士【埼玉】懲戒処分の要旨」 http://blogs.yahoo.co.jp/nb_ichii/33374421.html が削除されれば、送信防止措置(記事の削除)に同意する考えです。

【回答の理由】
1.弁護士の懲戒処分の公表について
 弁護士の懲戒処分は日弁連広報誌「自由と正義」に公告として掲載されているものであり、国民に広く知らしめる公益性の高い情報です。依頼人の暴力や業務停止の処分については現在もマスコミを含めた複数のサイトで公表されております。
 発信人が記事中でリンクさせているサイトの管理人である「弁護士自治を考える会」は、公益目的に活動をしている任意団体で、公告として公表されている弁護士の懲戒処分を継続して公開しています。公告の掲載が名誉毀損に当たるのであればこのサイトに掲載することはできません。しかし、このサイトは2007年に開設され、継続して懲戒処分の情報を掲載しています。したがって、「弁護士自治を考える会」の記事をリンクさせて懲戒処分の事実を記載したことは名誉毀損には該当しないと考えます。
 なお、「弁護士自治を考える会」には現時点では植田弁護士からの削除要請はきておらず、削除要請があっても業務停止の場合は応じないとのことでした。リンク元である「弁護士自治を考える会」のオリジナル記事において名誉毀損云々の問題がなんら生じていない現況で、二次的著作物である発信人の記事を名誉毀損と判断し削除することは本末転倒かつ不当です。

2.依頼人が文芸社から本を出版している事実について
 文芸社は新聞広告などで一般の人たちに自費出版(依頼人が本を出版した頃は共同出資を謳った協力出版)を呼び掛け、悪質な勧誘・商法を行っていた出版社です。このような出版社から弁護士が悪質商法に注意喚起し被害から抜け出すことを謳った本を出版しているという事実は、悪質出版社の信用性を高めるだけではなく、事情を知らない一般の人たちを悪質出版社に誘導することに繋がりかねません。弁護士や著名人の本の刊行は著作者が認識していなくても悪質自費出版社の広告塔となり得ます。したがって、弁護士が悪質な自費(協力)出版商法をしていた出版社から本を出したという事実は公益性があります。

3.依頼人が検事を辞めて弁護士になった事実について
 依頼人が検事を辞めて弁護士になった事実は、依頼人が運営する植田労務管理事務所のホームページ http://ueda-consul.jp/profile.html で公表されており、名誉毀損には該当しません。

4.貴社から示された「懲戒処分については事実ですが、改めて公にされたり、掲載され続ける必要はない」という論拠の法的根拠について
A判例①平成25年9月6日東京高裁の判決 記事の転載者が名誉棄損にあたるかが争われた裁判で、オリジナルの記事(中傷記事)を転載した者に対しても名誉棄損を肯定した事案について。
 この事案は中傷による名誉毀損です。リンク元の「弁護士自治を考える会」の記事は中傷記事ではありません。また、今回の削除要請にあたり依頼人が「侵害情報の通知書 兼 送信防止措置に関する照会書」に記載しているのは中傷による名誉毀損ではなく、事実の記載を理由とした名誉毀損です。したがって、発信人の事例と同一に論じられる事案ではありません。

B判例②平成6年2月8日最高裁判決 ノンフィクション小説の中で過去の犯罪事実が明らかにされたとして権利侵害と認められた事案について。
 この事案については、もはや知る人もいなくなっていた犯罪事実が当該著作物で再び知れ渡ったというものですから、現在でも複数のサイトで公開されている発信人の事例とは全く異なります。

C「懲戒処分は行政処分であって刑事処分のような犯罪に対する刑罰ではないことや、懲戒処分がされたのは2011年12月のことで、その内容である暴力行為に至っては2008年のことであり、また業務停止期間は1か月で、それらから数年を経ており、現在弁護士をしていることがおかしいことではないことも考えれば、今なお掲載し続けることに公共利害性は乏しく、権利侵害にあたる可能性は十分にあると考えられます」との見解について。
 弁護士の懲戒処分による業務停止は短期間であってもその期間は顧客との契約ができなくなりますし、顧問契約や法テラスは3年間の契約解除になりますので、弁護士業の存続にも影響しかねない重い処分です。また、弁護士が信頼関係のもとに依頼人と契約し法律の専門家として職務を遂行する立場であることからも、過去の非行事実の公表は公益性があり、一般人の犯罪の事例と同列に扱うことはできません。
 なお、「現在弁護士をしていることがおかしいことではないことも考えれば」との文面から、貴社は依頼人が現在も弁護士業務を継続しているとの認識と読みとれますが、依頼人が運営する植田労務管理事務所のホームページ http://ueda-consul.jp/profile.html には、平成24年(2011年)5月に弁護士業務を引退したと記されています。現在も弁護士登録されているのは事実ですが、弁護士としての業務は行っていないことを自ら明らかにしています。懲戒処分を受けて半年足らずで引退していますが、引退は懲戒処分に起因している可能性が高いと推察されます。

5.「あずかり知らぬ情報を記載」との記述について
 「侵害情報の表示」の「掲載されている情報」の欄に「あずかり知らぬ情報を記載」と書かれております。しかし、懲戒処分の事実が依頼人にとって「あずかり知らぬ情報」ではないことは言うまでもありません。また文芸社から本を出版した事実および検事を辞めた事実についても「一般社団法人 環アジア地域戦没者慰霊協会」の植田弁護士のプロフィールのページ http://www011.upp.so-net.ne.jp/senbotsu-irei/goaisatsu-ueda-c.htm で公表されており、「あずかり知らぬ情報」ではありません。
 したがって、「あずかり知らぬ情報」など存在せず、照会書の記述は事実ではないことを指摘させていただきます。

 以上の理由により、不当な削除要請と考えています。ジェイ・ライン株式会社が、賢明な判断をされることを望みます。

********************


 なお、この件に関しては、クンちゃんも記事にして紹介してくださっている。
植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古い過去記事削除を要求!! 詳細は追記

植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古い過去記事削除を要求!! その2

植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古い過去記事削除を要求!! その3

植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古い過去記事削除を要求!! その4


【12月10日追記】
 クンちゃんの新しい記事
植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古い過去記事削除を要求!! その5


【12月13日追記】
 12日にさぽろぐ運営事務局から「現時点で、名誉棄損にあたるという判断ができませんので、弊社としましても記事の削除には応じない考えです」との回答があった。

 この回答を受けての、クンちゃんの新しい記事は以下。
至急報、鬼蜘蛛の勝ち~! 植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古~い過去記事削除を要求!! その6

 なお、関連記事をアップした。
ブログ記事の削除要請を受けたらどうすべきか

【12月16日追記】
植田忠司弁護士、鬼蜘蛛ブログの古~い過去記事削除を要求!! その7(おわり)

  
タグ :植田忠司


Posted by 松田まゆみ at 13:24Comments(0)表現の自由